[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第33話 ビュレル・スミスという男

スティーブ・ジョブズは未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第33話 ビュレル・スミスという男
ビュレル・スミスはMacintosh開発チームの一員として主にロジックボードの設計を担当した人物である。彼はスティーブ・ウォズニアック開発のApple II を崇拝し、Macのロジックボード設計においてウォズニアックのスタイルをさらに突きつめ、独自の設計スタイルを編み出した天才の一人だった...。

ビュレル・スミスとは私が社内で講演したとき、話しの最後に電池切れのiPhone 6 plusを未来のガジェットを示唆するモックアップだと称して出席者に見せたときから頻繁に話す機会が増えた。
彼はいの一番に私が立っていた壇上に駆け上がりiPhoneを奪うように手にしながら「これって本当にモックアップなの」と聞いた男だった。

その後何度も私のオフィスに来たり、休みの時間を惜しみながら掌に乗る未来のデバイスについて沢山の質問を浴びせたのだった。
ビュレルは仕事に熱心なだけでなく実力のある人物だったが、社内ではまだまだ評価されない技術者のひとりだったといってもよい。そしてあのアンディ・ハーツフェルドの親友でもあった。

ビュレル・スミスは1979年2月にAppleの中でも最も給料の安い職種である下級サービス技師として雇われた。ただしビュレル・スミスはMacintoshのハードウェア設計者としてすぐ頭角を現し天才的な手腕を発揮していた。またApple II 関連の開発では一部スティーブ・ウォズニアックの代役まで務めるほど確かな技術力を持っていたものの、正式なエンジニアには昇格できず不満をつのらせていた時期でもあった。

彼は私に愚痴をいったことがある。
「トモ、僕は自分で言うのも不遜だけどなぜ評価されないのか分からないしそれが不満なんですよ」
「そうだね。君は才能とか技術的なスキルはもとよりだけど、他の技術者よりも抜きんでて熟練しているし勤勉さでも劣っていないよね。私はお世辞でなくそう確信しているよ」
私は正直に思っていることをはき出したがビュレル自身も自分が正当な評価をされない理由が分からなかった。無論上司に聞いてもはぐらかされるだけで不満が膨らむばかりだった。
「やはりまだまだ自己アピールがたりないのかなあ」
ビュレルは子供のように目をくりくりし首を傾げながら仕事場に向かった。

それから2週間ほど経ったある日の午後、私はロビーの受付カウンター内にいたシェリー・リビングストンと雑談していた。先日どうにもみっともない醜態を見せてしまったが、逆に自分の弱さをさらけ出したからか、気が楽になり前よりも話しやすくなった。
そんなところにビュレルが現れた。
「トモ、いいところで会いました。ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」
そのときシェリーは大げさな物言いで、
「仕方がないわね。ビュレル、私の彼氏を貸してあげるわ」
ウィンクしながら私に目配せした。わたしよりビュレルが顔を赤くしたのが可笑しかった。
「私のオフィスにくるかい」
「是非」
というので殺風景な私のオフィスで話しを聞くことにした。

「実はですねトモ。前にお話しした私への評価が低いことだけど、その理由が分かった気がするんですよ」
正直私には他人の評価を客観的に知るすべもなかったし、そうした役割を担っているわけでもないから気が楽だった。しかしビュレルに関しては前にもいったようにもっともっと上司たちは彼の業績を認めるべきだと思っていた。

自分の椅子に座りながらビュレルを見ると彼も二脚ある椅子のひとつに座りながら話し出した。
「僕はついに他のエンジニアたちにあって自分に欠けているものに気がついたんですよ、トモ」
嬉しそうにいうビュレルの顔を眺めたとき、タイムワープする前にアンディ・ハーツフェルド著「レボリューション・イン・ザ・バレー」という本に出ていたエピソードを思い出したが、無論ここは本人から話しを聞くべきだと私は黙って頷いた。

それは技術者らの多くは皆立派な髭を蓄えていたがビュレル・スミスにはなかったという事実だというのである。
「トモ、あなたは髭をはやしていないけど、MacintoshチームやLisaあるいはApple IIの開発チームを見回すとスティーブは勿論、スティーブ・ウォズニアック、ダニエル・コトケ、ビル・アトキンソン、スティーブ・キャップス、マイク・マレー、キット・プランク、ジェフ・ラスキン、ジェリー・マーノック、ポール・バーカー、リック・ペイジ、ジョン・カウチなどなど皆立派な髭を生やしているんですよ」
真剣な眼差しで説明するビュレルを笑うわけにもいかなかったが、真剣な眼差しだからこそ吹き出しそうになった。しかし彼としては大切で重大な発見だと思ったのだ。

私は面白半分に問うてみた。
「なるほど。ただしビュレル、念のために聞くけど君が名を上げた人たちは何故髭を生やしているのかな」
ビュレルは少し考えたうえで呟いた。
「うん、何故なんでしょうね。これまで考えたこともなかったからなあ」
私はあくまでいま思いついたことだとして自分の考えを話した。

一般的に(なぜ男が髭を生やすのか?)といえば私の知る限りそれは男らしさのアピールであり、若いときの髭は若造に見られたくないといった意志があるようだ。それはタイムワープ以前私の回りにも髭を生やした男性が数人いたしそうした本人たちから聞いた話しなので間違いはないだろう。まあ若いときは心理的に背伸びをしていたいということかも知れない。
ただし余談ながら年配の男性の髭はいささか違う。歳を重ねると頭が薄くなるがそうすると頭髪の不足を髭で補おうとするかのように髭を生やそうとする男性も多い。

それはともかく例えばバイト誌の最初の編集者のカール・ヘルマーズ、ニュージャージーで最初期のコンピュータ・ショウPC-76を計画したジョン・ディルクス、ドクター・ドブズ誌の編集者でWCCFの主催者だったジム・ウォーレン、製造番号4番のAltair 8800を組立てラジオでメロディーを奏でさせたスティーブ・ドンビア、別名キャプテン・クランチと呼ばれたジョン・ドレーパ、ビル・ゲイツと共にマイクロソフト社を起業したポール・アレン、ビジカルクを開発したダン・ブルックリンなどを挙げれば十分だろう。

それぞれの人物が当時何歳だったかを調べるのは難しくはないが、スティーブ・ジョブズを含めて確実なことは1980年当時一部の人たちを除けば皆若かったということだ。20歳代がほとんどだったのではないか。
そんな彼らが髭をはやすようになったのはカウンターカルチャーの精神やヒッピー魂をまだ失わずにいたこともあるだろうし、寝る間も惜しんで働いていたこともあり、髭を剃るのも面倒だったのかも知れない。
しかしそうした若者たちが精神を高揚し、ぶつかり合いながらも過ごした当時の世相ではやはりどれほど自分の存在をアピールできるか、主張できるかが肝だったに違いない。したがって意識的、無意識的にも自己アピールを髭というものに託していたと考えても無理はないと思う。

私はそんなあれこれをビュレル・スミスに話したが彼は時々頷きながら同意してくれた。そして自分も早速髭を生やしてみるといいつつ私のオフィスから出て行った。
事実ビュレルはすぐに口ひげを生やし始めたが、彼の髭は完全に生えそろうまでに1ヶ月ほどもかかった。そして自分でも完璧と思われる髭になったと考えたその日の午後、彼は技術担当副社長(立派な髭を生やしていた)に呼ばれてエンジニアとして技術スタッフのメンバーに昇格したのだった。一人前に髭が生えそろった男として認められたのである(笑)。

その日の午後、ビュレルは小走りに私のオフィスに顔を出し、ドアを半開きにしたまま部屋に立ち入らず、
「トモ、ありがとう。おかげで上手く行ったよ」
口元の少々薄い髭をひと撫でし、Vサインをして走り去った。
とはいえMacintosh開発プロジェクトの尋常ではないプレッシャーはこの繊細な天才にも容赦なく加重していった。

話しは先走るが、ビュレル・スミスはApple退社後Radius社の共同設立者として成功したものの1988年に業界から足を洗った。
しかしそれは悠々自適の引退ではなかった。
彼は精神疾患を患い、裸で外をうろついたり車や教会の窓を壊して歩いたりするようになったという。
彼の病は強い薬でもコントロールできず、夜にスティーブ・ジョブズの家まで出かけては石を投げて窓ガラスを割ったり、とりとめのない手紙を残したり、かんしゃく玉を投げ込んで逮捕されたこともあった。そして後には親友のアンディと会っても話しをしなくなり、ビュレル・スミスが自分の名前を名乗れず留置所に入れられたとき、アンディはビュレルを釈放してもらうためスティーブ・ジョブズの力を借りたこともあった。
彼の病の原因がMacintosh時代のプレッシャーにあったとは言わないが、私はそうした彼の近未来を知っているだけに、ビュレル・スミスの猛烈な仕事ぶりが気になってしかたがなかった。

(続く)

【主な参考資料】
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オライリー・ジャパン社
・「スティーブ・ジョブズ」講談社



[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第32話 夢かうつつか

スティーブ・ジョブズは未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第32話 夢かうつつか
スティーブは1982年の出荷予定日になんとしてもMacintoshを出荷したいと無理なスケジュールを開発陣にごり押ししていたが、無理なものは無理だった。結局当初の予定には間に合わずスティーブは新たに出荷目標を1983年5月に設定してチームを鼓舞したが問題は相変わらず山積みだった。

その1982年初頭、Macintoshチームは優秀なエンジニアたちで溢れかえっていた。彼らが共有していたことは皆が驚くほどのコンピュータを創り、世界をあっといわせることであり、お金やキャリア、伝統といった世俗のあれこれは気にしないというものだった。
しかしそうはいっても現実は違って、エンジニアたちの年収は3万ドルほどと決して高い報酬ではなかったもののスティーブは25万ドルの年収をとっていた。

そういえばクリス・エスピノザは私に、
「トモ、チームに入る条件は優秀というだけではだめなんですよ。我々の仲間に入るのはパイナップル・ビザが好きでないとね」
と笑いながら教えてくれた。
「本当に面接の時に聞かれることなんですが、何故って同じピザが好きでないと毎晩一緒に食べに行けないじゃないですか」
そんなたわいもないことなら私も笑って済ますことが出来たが、スティーブの言動は私が同席しないと常軌を逸した悪ガキ同然になるという話しをアンディ・ハーツフェルドらに聞かされていた。

私自身は2016年からワープしてきた人間であり、スティーブ・ジョブズの逸話は多々知っていたから特別驚くことではなかったが、その時代に居合わせた友人としては無視することはできなかった。
なにしろピザに限らずスティーブ・ジョブズとの外食は恥ずかしさと屈辱に耐える訓練かと思うほどのものだった。
アンディは私にツバを飛ばしながら訴えたことがあった。

「トモ、あなたが一緒の時には単に気むずかしいスティーブで済みますが僕らだけのときのスティーブは別人なんです」
なにしろレストランで運ばれてきた料理をそのまま受け取ることはまずなかったという。話が違うとか、皿が汚れてるとか、ウェイトレスの態度が悪いなどなどと難癖をつけて突き返すのだ。
「気がふれたのかと思いましたよ最初は。しかし徐々にこうした態度はスティーブの心が、心の奥底が病んでいるからこその権力の誇示だと気がつきました。どう見てもその時の彼は正常ではありませんでした」
アンディはこの時とばかり私に訴えた。
「それだけではないんですよ、トモ」

私は思わず、
「ええ、支払時に現金の持ち合わせがないといって貴方に払わせるんでしょ」
言ってから (しまった) と思った。ここは知らないフリをしておくべきなのだ。
しかし幸いなことにアンディは
「誰から聞いたのか知りませんが、そうなんですよ」
と深く追求しなかった。

ともかく誘うのはスティーブだったし彼はすでに二億ドルの現金を持つ大金持ちだった。
ただしアンディは、スティーブが奢るべきだというわけではないんだと力説した。
「自分の分も僕に払わせるのが問題なんです」
と嘆いた。
「バックグラウンドというか心構えをする暇も無く成功したからでもあるだろうし、自分に出来ないことなどないのだと思っているのかも知れないね。力を見せたくて仕方がないんだろうな」
私がため息交じりにいうと、
「そうなんでしょうが、スティーブもあなたがいる時にはそうした無茶はいいませんしやりません。だから意識的な行為なんですよ」
「それにウォズが大学へ復帰して会社に来なくなったでしょ。だからマスコミの取材やらはみなスティーブへと殺到するようになったし事実Appleの成功はジョブズひとりの功績みたいに書き立てるものだから舞い上がっているのでしょうね」
あきらめ顔でアンディは呟いた。

私の数少ない友人の一人となっていたロッド・ホルトもこの頃のスティーブに対しては辛辣な物言いをしていた。
「まあ、いま彼はこれまで経験したことのない持ち上げられかたをしているから舞い上がっているんだな。金持ちでかつ時代の寵児だからマスコミはもとより時事ネタのターゲットになっているんだよ。メディアもAppleのことを書けば売れるらしいぜ」
事実偉大なイノベータとして評価されはじめたスティーブは大企業の社長たちは勿論、多くの経済界の輩も彼の話しを聞きたがった。そして1982年にはカリフォルニア州知事から産業革新委員会の委員に任命されたことをきっかけに、バンクオブアメリカの会長やヒューレットパッカード社のCEOたちとの付き合いも始まった。

「スティーブは良し悪しはともかく一般的な社会通念が大事にされている場での経験や体験をしないうちに成功しちまったし、もともとあの性格だから偉くなったと思っているんだろうよ」
ロッドは苦々しい顔をして続けた。
「トモ、君はどうか知らないけど最近のスティーブは俺を含めて昔の自分を知っている奴らを避けている感じもするよ。きっとガレージ時代はもとより、作業場の床に這いつくばりながら電話を取っていた時代を知られたくない、いや思い出したくないのかも知れんな。奴を見ていると (俺は昔からこんなに立派だった) といってるみたいだな」
それは私も感じていたことだった。スティーブは忙し過ぎるからだと自分を納得させてはいたが、以前より声をかけてくる機会が少なくなっていたし会って話をしてもどこか上の空といった感じだった。

そのスティーブは是が非でも来年(1983年)5月にMacintoshを発売することに拘っていた。
たまたま私と廊下ですれ違ったりすると彼は、
「トモ、今度も間に合わないといったことのないよう君も目配りしてくれ」
繰り返し繰り返しいっていたが、Macintoshチームの誰もがスティーブのいう発売日は絶望視していた。
それを鼓舞し開発の進捗状況を共有する目的だったようだが9月に高級リゾート地、パハロ・デューンズで開催されたMacintoshチームの合宿でスティーブは “海賊になろう!” というスローガンとともに “週90時間、喜んで働こう!” と宣言し “海賊になろう!” とプリントされたトレーナーを参加者100人に配ると同時に自分も着てみせた。

この年の秋、ジョン・カウチが率いるLisaチームが俄然活気を帯びていた。それは来年春の発売に向けて具体的な準備が続けられていたし著名なジャーナリストを招いて試作品を公開し始めていた。
Lisaはメディアの反応もよく、それがまたスティーブ・ジョブズにはイライラの原因ともなっていた。

マイク・マークラもMacintoshの進捗状況がスティーブの思惑と次第にずれてきていることを危惧していた。
エントランスで立ち話となったときマイクは、
「頑張ってくれるのはありがたいが、私の責任としてはチームの奴らの健康状態も気になる所なんだよ、トモ」
そしてマイクは珍しく愚痴めいた話しを続けた。
それらはスティーブの新しい交際相手の話、ペプシ社長のスカリーという人物を社長として迎えようと説得している話し、オーディオ・メーカーとMacintoshの商標の件での交渉中といった話しだったがどれも私の仕事には直接関係なかったしそもそも口の出しようもない話しばかりで閉口した。

無論2016年からワープしてきた私はそれらの結果を知ってるだけに正直興味も湧かなかった。
「生みの苦しみでしょうかねマイク…。でもクリスマス商戦はいい具合だとききましたが」
私は強引に話題を変えた。
「トモ、確かにクリスマス商戦だけは凄いよ。これまでの記録を一気に塗り替える勢いで売上げが伸びてるよ」
ちょっと間を置いたマイクは片手を少しあげて立ち去りの挨拶をしながら、
「Apple II には感謝してもし過ぎることはないよな」
自嘲気味なニュアンスを残して自分のオフィスに入っていった。
相変わらずAppleを支えているのはApple II の売上げだったのである。その改良版であるApple IIeも来年Lisaと同時に発表される運びとなっていた。

私自身はMacintoshの開発チームの一員ではなかったものの、どうにも気持ちが晴れない日々が続いた。スティーブが鼓舞すればするほどシラケてくるといったらよいのか...。
「まあ、1984年1月24日には間違いなく発表にこぎつけるのだから私が悩んでも仕方がないよな」
と心の中で自分に言い聞かせ気分を変えようと外の空気を吸うためにエントランスに向かった。
それになんだか最近はスティーブとも気持ちがすれ違うことが多くなった気もするし、自分の居場所が次第に狭くなっているように思えて仕方がなかった。
「私はここでなにをしているのだろうか。なぜここにいなければならないのか。果たしてタイムワープしたことに意味があるのか」
いきなり妻の顔や弟妹、そして数人の友人たちの姿が交互に浮かんでは消えた。皆心配そうな表情だった。
私は無性に寂しくなった。

受付でちょうど電話を置いたシェリー・リビングストンが外に出ようとしていた私に気づき、
「トモ、なにか深刻な顔をしてるわよ。ここで嫌なこと吐きだしていきなさいよ」
と声をかけてくれた。
私は張り詰めていた気持ちがふっと緩んだのか、シェリーを振り返ったとき情けないことに彼女の姿が滲んで見えた。
「あらあらトモ、どうしたの。私、なにかあなたを泣かせるようなこといったかしら」
シェリーは慌てて受付カウンターから飛び出てきてハグしてくれた。

そのときちょうど通りかかったMacintoshチームの一人、ジョアンナ・ホフマンがシェリーに両手を握られうなだれている私に驚き駆け寄ってきた。
「どうしたのよトモ、シェリー」
シェリーは無言で頷くばかりだったが勘のよいジョアンナは、私の顔を覗き込むようにしてつぶやいた。
「スティーブにいじめられたのね」
その物言いが可笑しくて思わず苦笑いした私を2人の女性が心配そうに見つめていた。

そういえば1977年という時代にタイムワープして以来、幸いなことにスティーブ・ジョブズに気に入られこうしてAppleの一員として働くようになって5年ほど経った。その間私なりに環境に溶け込めるよう努力したつもりだし仕事面ではロッド・ホルトやラリー・テスラー他数人と友達になっていた。
眼前にいる自分の子供といってもよい年齢のシェリーやジョアンナたちはジジイの私にあれこれと気を配ってくれるし自分は恵まれていると常に感謝していた。

しかし思えば私はひとときでも真に安楽な気持ちになったことはなかった。40年も先の時代からタイムワープした私の心の奥底には妻への申し訳なさ、果たして戻れるものなのかという深い不安が常に渦巻き、仕事関係以外の友人もできなかった。
シェリーやジョアンナの励ましてくれる華やかで明るい声をどこか遠くに聞きながら私は過去が夢なのか、今がうつつなのか…どちらが本当の自分の人生なのかと気持ちがざわつき、その場に立ちすくんでいた。

(続く)

【主な参考資料】
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オライリー・ジャパン社


[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第31話 知的自転車

スティーブ・ジョブズは未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第31話 知的自転車
スコッティが退職したことに関してスティーブはメンタルな部分で痛みを覚えたようだが仕事の面からすれば間違いなくそれは彼にとって朗報だった。
確かにスコッティはLisaの開発にスティーブが口を出さないであろうことを期待してジェフ・ラスキンのプロジェクトだったMacintoshプロジェクトにスティーブが参加する事を黙認したし喜んだといってよいだろう。

ただしスコッティはそれでスティーブが大人しくしているとは思っていなかったしスティーブの動向に目を光らせていた。
スティーブからしてみれば Lisaプロジェクトから外されたことは大きくプライドを傷つけられたし、もしMacintoshプロジェクトが見るべき成果を上げるようになれば、またまたそこから自分が外されるのではないかと危惧していたふしがある。
スティーブにしてみればせっかく勝ち取ったMacintoshプロジェクトだから意地でも当初の発売日までに完成させたかった。その目標は無謀にも1年後の1982年はじめとスティーブは考えていたが、開発チームの誰もが無理だと感じていたもののスティーブはがむしゃらに突き進んだ。

私が自分のオフィスを出たときスティーブが丁度こちらに歩いてくるところだった。
「おっと、トモ、良いところで会ったよ。ちょっと俺のオフィスに寄ってくれないか」
スティーブはどうやら機嫌がよいらしく、快活に両手を広げて私をオフィスに迎え入れてくれた。

「私もいくつかスティーブ、君に確認したいことがあったので丁度いいよ」
私は勝手知ったるスティーブのオフィスの奥にある椅子に座った。そこはかつて私の居場所だったからだ。
スティーブは話したいことがやまほどあると言いながら、自分の椅子に座り数秒目を瞑った。そして、
「トモ、知ってのとおり俺はMacintoshプロジェクトを率いることになったが問題は山積みなんだ」
とはいえその話しっぷりはまんざらでもないようだったが、
「トモ、君に意見を聞きたいのだけど笑わないでくれるかい」
と悪戯っぽい表情で聞いた。

なにごとかと思ったが、
「勿論だよスティーブ、君の言うことにはいつも敬意を払っているよ。聞かせてくれ」
私は意識的に体を前に突き出しながら答えた。しかし確かにスティーブの話しは時節を考えても突飛でもないことに思えた。
「俺はMacintoshを最高のパーソナルコンピュータにしたいんだ。そのために最適な人材も集めたし問題は山積みとはいえどうあるべきかは明確になってきたつもりだよ。ただ…俺には “Macintosh” という名が気に入らないんだ」

私は2016年の日本からタイムワープしてこの時代に放り出された人間だったから、スティーブのいうところの意味や内容はすでに周知のエピソードとして知っていたが、これをリアルタイムに聞かされた関係者たちの動揺が目に見えるようだった。
スティーブは、
「Macintoshという名はラスキンのクソ野郎がつけた名だ。俺はそのプロダクト名も自分で最良と思うものにしたいんだよ。トモ、おかしいかい」
あの射るような眼差しで見つめられるとどうにも困ってしまうが、私は知ってはいたがわざと
「どんなプロダクト名にしたいと君は思ってるの」
と聞いてみた。

「いいか、笑うなよ」
と再度念を押しながらスティーブは、
「Bicycle (自転車) という名にしたいんだ」
ちょっとうつむきながらいった。
「なるほど。私にはスティーブ、君の考えていることは日々の会話の中からわかるような気がするよ」
というとスティーブは子供のように嬉しそうな顔をしながら、
「俺ってこの件で君になにかいったっけ」
と答えたが、私はそれに直接答えることはしないで話を続けた。
「なぜ Bicycle なのかは容易にわかるよ。君は以前コンピュータは (Bicycle for the Mind) 知的自転車だという説をぶっていただろう。我々人間はすべての生き物の中でも移動する能力ひとつをとっても優れた動物ではないとね。歩く、走るのも遅いしエネルギー効率も悪いから速く遠くへ移動するのは苦手だと。しかし例えばその人間に自転車を与えたとすれば話しはまったく違ってくると…」
スティーブは我が意を得たりと私の話を受けて喋りだした。

「そうなんだよ。コンピュータは我々の知性にとってはまさしく知的自転車であり我々の知性を拡張するツールになると信じているのさ。さすがにトモ、俺の考えていることをよく分かってくれているよ」
スティーブは上機嫌だったが、私は水を差すような物言いをしなければならなかった。
「スティーブ、事実君の考えは説得力のあることだし私も頷く一人だよ。しかし、そのこととMacintoshというプロダクト名を Bicycle にするというのは別問題だと思うよ」
スティーブは一瞬ムッとした表情を見せたがすぐに天井を仰いだ。
「君はこのプロジェクトからラスキンの臭いをすべて消し去りたいのだろうけどMacintoshという名称はすでに皆馴染んでしまったしAppleという会社の製品名としてはリンゴの名前だし決して悪くはないと私は思っているんだ。さらに君が苦労しているようにMacintoshプロジェクトはまだまだ多くの問題を抱えているから、ここでまた開発陣や経営陣を悩ませる要素を増やすことは得策ではないと思うんだ」
スティーブが黙り込んでいるので続けた。
「それに、スティーブ。誰が見ても現在のMacintoshプロジェクトのリーダーは君だし、Macintoshは君が宇宙を凹ますために作るマシンであることに代わりはないよ」

私の話しが終わってもしばらくスティーブは腕組みしながら沈黙を守っていた。
なにか反撃の言葉があるのだろうと私は心の中で身構えていたが、フッと息をはき出したスティーブは、
「やはりそうか…。数日前にプロジェクトの奴らに俺のアイデアを披露したんだが猛烈な反発にあったんだ。だからトモの意見を聞いてみようと思ったんだが、君も反対か」
「いや、反対ということではないんだよ。あのレジス・マッケンナさんもいってたよ。名前そのものが問題なのではなく、その名前に象徴されるもの、その背景にある考えというのが最も大事だとね」
「うん、覚えているよ。もしその会社がよい会社になれば、その名はどのようなものであれよいシンボルになるという話しだろ」
スティーブは少し気持ちが落ち着いてきたようだった。

「そうだよスティーブ。一番大切な時期に関係者を混乱させるのは得策ではないし、つまりシンボルというか名前そのものには大して意味はないんだ。Macintoshという名に素晴らしいストーリーとイメージを与えるのが君の大切な役割だし、それこそ君にしかできないことだと私は信じているよ」
私がいうとスティーブの顔が少しほころんだ。
「そうか、やはりいま Bicycle という名を押し通すには無理があるかも知れないな。どうにもここの所気が急いてどうしようもないんだ」
スティーブは両肩を上げ、自嘲気味に言葉を続けた。
「一昨日のことだったかな、Lisaプロジェクトマネージャーのカウチ、あのジョン・カウチとちょっとやりあってさ…」
「ああ、聞いたよ。君とカウチがMacintoshとLisaのどちらが早く出荷できるかの言い合いになって結局5,000ドルの賭をしたってことだね」
スティーブは頷きながら、
「俺たちの意気込みを示すためもあったし、Macintosh開発チームを鼓舞したくてさ。カウチの挑発に乗ってしまったんだ」
やっとスティーブに笑顔が戻ってきた。

「現実問題として開発期間を考えると、大きな問題はソフトウェアなんだが、俺は君が常々いっているようにMacintoshのキラーアプリケーションが多々欲しいんだ。無論そうしたソフトをMacintoshに同梱してリリースしたかったが現状ではどうにも無理のようだから、ここは一大決心してアウトソースするしかないと考えたところなんだ」
スティーブの話しが途切れたのを確認して私はゆっくりと椅子から立ち上がり退出の意志を示しながらいった。
「ビル・ゲイツだね」
スティーブの驚いた顔を眺めながら私はスティーブのオフィスを出た。

【断章】
1984年にMacintoshがリリースされた後、その年にいち早く出版された1冊の書籍があった。それはCary Lu著「Macintosh そのインテグレーテッドソフトの世界 (原題:The Apple Macintosh Book)」という本だった。その謝辞のページ冒頭には次ぎのような印象的な一文が掲載されていた。

TheAppleMacBook1984.jpg

※Cary Lu著「Macintosh そのインテグレーテッドソフトの世界 (原題:The Apple Macintosh Book) アスキー出版局海外部刊


「本書は、マイクロソフト社のビル・ゲイツとアップル社のスティーブ・ジョブズの会話から生まれました。当時ジョブズの開発チームは秘密のうちにマッキントッシュに取りかかっていましたが、発売は何ヶ月も先でした。マイクロソフト社はアプリケーション・プログラムを作成中で、マッキントッシュ用のインターフェースなど、さまざまな設計上の問題について協力していました。ビルはマイクロソフト社の新しい出版部門が解説書も出してはどうかと提案しました。」

Macintoshは秘密裏に開発されていたと噂で知っていた私はなぜにこんなにも早くマイクロソフト社が(日本語版はアスキー出版局刊)Macintoshの解説書を出せたのかと訝しく思っていたが、スティーブからビル・ゲイツに接触したことがきっかけとなったのだった。
しかしこの事はMacintoshにとって短期的にメリットが大きかったものの、後にマイクロソフト社がWindowsを開発するきっかけを与えることになってしまうのは皮肉なことだった。

(続く)

【主な参考資料】
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オライリー・ジャパン社



[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第30話 ビルとアンディ

スティーブ・ジョブズは未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第30話 ビルとアンディ
スティーブ・ジョブズはラスキンを追いやり念願のMacintoshプロジェクトを率いることになった。まだまだ具体的なビジョンはまとまっていなかったが、ウォズの代わりに戦力となる人員が集まりつつあった。
アンディ・ハーツフェルドもそうした一人だった。彼は1979年8月にシステムプログラマーとして入社したが大のウォズファンだった。
ハードウェアの天才といわれるようになるビュレル・スミスと共に自分たちは (ウォズ大学の生徒だ)と公言してはばからなかった。

アンディは1978年に買ったApple II に魅せられソフトウェアの開発を始めたが、彼の目標は当然のことスティーブ・ウォズニアクだった。そういえばこの頃、すなわち1981年春も終わり頃になるとウォズも飛行機事故から立ち直り退院していたが、まだ精神的に完治していなかったしすぐに仕事をしたくないと会社を休むことが多かった。スティーブとのわだかまりも大きくなってきたようだ。

そんな1981年の春先のある日、ランチで席が間近だったこともあって、私はアンディと長話しをする機会を得た。
アンディ・ハーツフェルドは小柄ではあったが見るからに精力的な人物でポジティブな思考の持ち主だった。早速私が (なぜMacintoshチームにきたの) と聞くと少し声のトーンを落として話し出した。

A_Hertzfeld201702.jpg

※Mac開発当時のアンディ・ハーツフェルド。Macのプロモーションビデオ「The Macintosh Story」より


「僕は先のブラック・ウェンズディのときAppleを辞めようとスコッティのところに行ったんですよ」
「慰留されたんだったね」
私が受けると大きく頷きながら、
「だって隣にいたパートナーが首になったしショックもあってこのまま職場に残っても意欲を出せないと思ったんですよ」
アンディは大きめの眼鏡を左手で直しながら笑った。
「だけどスコッティに留意されて (どのプロジェクトなら会社に残ってくれるんだ) といわれてちょっと感激しました」
「で、あなたはMacintoshチームに行きたいって言ったわけだ」
私が笑いながら合いの手を入れるとアンディも嬉しそうに、
「そうなんです。そしたらすぐスティーブがきて…」
今度は愉快そうに声を出して笑った。

このときのエピソードは私も印象深いものだったので覚えていたが、アンディ・ハーツフェルド自身から聞かせてもらえるとは思っていなかったので本当に楽しかった。
「トモ、あなたはスティーブと親しいから分かるでしょうけど、いや別に親しくなくてもスティーブはスティーブだな」
含み笑いしながらアンディは続けた。
「そのとき僕はMacintoshチームに移るためApple II の残務整理のつもりでプログラミングのまとめをしていたんです。そのとき (お前がアンディって奴か) とスティーブから声がかかったわけです。そして (お前は優秀か) と聞くから (そう思ってます) というと… (すぐ俺と一緒に来い) っていうわけ…」
「まったくスティーブらしいなあ」
私が残ったコーヒーを口にするとアンディも同じようにコーヒーで喉を潤して、
「当然僕はこれまでの仕事を引き継ぎしなければと考えていたので、この仕事は数日で終わるので待ってくださいといったんですよ」
さも可笑しそうに口を押さえるアンディに私は、
「スティーブはあなたの使っていたApple II の電源コードをいきなり引き抜いた…」
その言葉が終わらないうちに私とアンディは顔を合わせて笑い合ったが、向こうの列にいた十数人が何ごとかとこちらを振り向いた。ということで結局アンディは1981年2月からMacintoshチームで働くことになった。

そんなとき我々の背中を軽く叩きながら、
「面白い話しがあるなら僕にも教えてよ」
あのビル・アトキンソンがくしゃくしゃの頭、そしてブルーの目で笑っていた。そしてアンディの隣に長い足を伸ばして座った。
そういえばタイムワープする以前、私は2度ビル・アトキンソンに会っている。
1度目は1990年のこと、幕張メッセで開催されたマルチメディア国際会議に私の会社が自社開発したコンシューマー市場初のデジタルビデオシステムを展示デモしていたときのことだ。そこにビル・アトキンソンが立ち寄ったことがあった。

派手な横縞のTシャツを着たラフな格好だったが、なかなか神経の細やかな暖かい人のように思えた。私達がデジタルビデオソフトのデータをHyperCard (HyperCardはアトキンソンが開発)から使用するところを説明していた時、アップルジャパンの関係者がアトキンソンの袖をひっぱるようにして連れていこうとした。しかしアトキンソンは少し離れたところから体を反転させ後戻りして我々にお礼を言ってくれたのだった。

2度目は2004年、写真家として来日したビル・アトキンソンが自書写真集出版記念の講演をしたときのこと、私はそこでMacPaintのフロッピーディスクとマニュアルにサインをして貰ったことがある。しかしこの1981年の春先にApple本社内で出会ったアトキンソンは髪型も違っていたし口ひげを生やしていたからか別人のように思えた。

BillAtkinson201702.jpg

MacPaint201702.jpg

※2004年、写真家として来日したビル・アトキンソン(筆者撮影)と直筆サインをもらったMacPaintのマニュアルとフロッピーディスケット


アトキンソンとハーツフェルドは私がついていけないほどの早口でなにかを言い合い、一緒に笑い合っていたがその瞬間私は奇妙な思いにかられていた。
それはいまから9年ほど経てば(1990年になる)前記したようにアトキンソンと私は幕張メッセの小さなブースで出会うわけだが、そのとき私は初対面だったものの彼は1978年にAppleに入社しこうして幾たびか私と出会っている。そんなアトキンソンは9年後に幕張で出会う私を私と認識してくれるのだろうかということ。それ以前に私自身はその1990年のマルチメディア国際会議のとき自分の存在が果たしてどうなっているのかと考えると頭が混乱し恐ろしくなった。

「どうしたの、トモ。気分でも悪いのかい」
アトキンソンの声で私は我に返った。
「いや、失礼。ちょっと考え事をしていたので」
私は笑顔でつくろったが、ビルをあらためて見上げると明るい表情ながら髭は伸びているし徹夜明けのようだった。
「ビル、また徹夜かい」
「そうなんだけどさ、別にスティーブに言われたわけではないんだ。アンディは分かってくれるだろうけどプログラマーという人種は厄介なものでね」
アンディが我が意を得たりと早くも頷いている。
「どういうこと」
私の問いにビルは、
「僕らは難しい問題に直面するほど燃えるんだよな。で、解決するまでぶっ続けで仕事をしてしまうというわけさ」
「そうだね。1度中断すると神の声が聞こえなくなってしまいそうでね」
アンディが同調した。

私はプロのプログラマーではないが、Apple II やPET2001のBASICで様々なプログラミングを楽しんだ。そして1984年アスキー「月刊 LOGIN」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」ゲーム部門に応募し入選したこともあった。
Apple II 用ゲームを作ったわけだがそれはグラフィックスおよびGUIとサウンドおよびスピーチを取り入れたものだった。とあるMac雑誌の編集長が後に (これぞマルチメディアだ) と称してくださったこともあり商品化もされた。そのプログラミングの中で短い間ではあったがプログラマの性といったあれこれを思い知った経験が甦ってきたのだった。

osawari1984s2.jpg

※1984年にApple II用のゲームとして開発しアスキー「月刊 LOGIN」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」ゲーム部門入選を果たした


どうしても解決策が思い浮かばずああだこうだと寝る間も惜しんで試行錯誤をするが何ともならない日が続く。かと思うと食事中や散歩をしている時にまるで神の啓示のようにフト妙案が浮かんで解決するといったことが何度もあった。ただし偉そうなことを申し上げるとダラダラとやっていては神の啓示は降りてこない。考え得るあれこれを試しつつ新たな解決策を探ることを長い時間集中してこそ気を抜いた一瞬に閃くのかも知れない。

しかし誰であっても睡眠不足は良いはずがはない。ビル・アトキンソンはこの後大事には至らなかったものの運転中に居眠りをしてしまい大型トレーラーの後部に突っ込み、運転していたスポーツカーの屋根をはぎ取られるという事故を起こした。
アトキンソンとハーツフェルドの二人はMacintosh開発にとってソフトウェア面でなくてはならない人材であり、アンディはソフトウェアの魔術師と評価されていたしアトキンソンにはあのスティーブも一目置かざるを得なかった異才の人材だった。
事実ビル・アトキンソンはAppleで最初で最後といってよいかも知れないが、プログラマーという立場で大きな地位を築いた。LisaやMacintoshの描画ルーチン(後にQuickDrawと称される)開発はもとよりMacPaintやHyperCardの開発者として知られ、天才プログラマーの称号を欲しいままにした人物となった。また特別研究員に遇され、初代アップル・フェローとなった。

そうした秀でた彼らにしてもMacintoshの完成は見通しさえつかなかった。ただただスティーブは12ヶ月でMacintoshを仕上げると息巻いていたしその要求も相変わらず性急で突飛なあれこれが続いた。なにしろあるときの会議に現れたスティーブは手に持っていた電話帳を会議テーブルの上に放り投げながらいった。
「それがMacintoshの大きさだぞ。これ以上大きい設計は許さないからな」
といいながら、
「それからモニター一体型としてもだ、横型のコンピュータはもう見飽きた。Lisaも横型だし今度は縦長のデザインを考えて見ろよ」
そう言い捨てて出て行ってしまった。
ビル・アトキンソン以下、Macintosh開発メンバー全員は唖然としてスティーブの背中を見つめていた。
その場にいた私はビル・アトキンソンに、
「ビル、難しい問題に直面するほど燃えるまたとないチャンスだね」
と両肩を上げてジョークをいった。
ビルとアンディは (あ~あ~) というようにソファーへ大げさに倒れ込んで笑い転げた。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社



[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ第1部 ー 第29話 現実歪曲フィールド

還暦も遠の昔に過ぎた男、加賀谷友彦は久しぶりに出向いた Apple銀座 のエントランスで1976年にタイムスリップし、スティーブ・ジョブズの若かりし頃に出会う。厄介なのは加賀谷が持っていたiPhone 6s Plusをスティーブが見てしまったことだ。この事実が過去と未来に悪影響を及ぼすのだろうか。そんな危惧をよそに初対面の加賀谷をスティーブは自宅のガレージに引き入れた…。そして一緒に働くことになった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第29話 現実歪曲フィールド
Macintoshプロジェクトは相変わらずスティーブ・ジョブズとジェフ・ラスキンとで主導権争いが続いていた。しかしどう考えてもラスキンに勝ち目はなかった。私もラスキンから相談を受けた手前、何とか穏便にことを納められないかと画策してみたが妙案は浮かばなかった。

まだ社長のマイク・スコットが在職していたときのことだが、ラスキンもスティーブによる数々の圧力と妨害工作を受けつつ抵抗はした。目立ったこととしてラスキンはMacintoshプロジェクトを率いる能力がスティーブ・ジョブズにはないとした10項目ほどにわたった論証を文書でマイク・スコットに提出した。1981年2月19日のことだった。
私自身はその原文を見たことがなかったが後で聞いたところによれば以下のような内容だったという。

 1)常習的に打ち合わせのスケジュールを破る
 2)考えずに行動することで誤った判断が多い
 3)他人の成果を認めようとしない
 4)感情的に反応する
 5)一見温情的であるかのようだが不合理で無駄の多い判断をする
 6)人の話を聞こうとしない
 7)約束を守らない
 8)権威主義的な決断を行う
 9)すべての見込みに裏付けがなく楽観的
 10)無責任で思慮不足
 11)したがってソフトウェアプロジェクトのマネージャーとして最悪

この内容から想像すればラスキンは以前スティーブ・ジョブズが提案したように、すなわちハードウェアはスティーブが、ソフトウェアをラスキンが担当するということでやむを得ずとはいえ納得していたように思える。

ともかく論証メモの内容をスコッティから知らされたスティーブは怒り狂った。当のスコッティはこの厄介な問題をマイク・マークラに振り自分は関わらないようにした。それは厄介な話しから距離を置きたかったというだけでなくLisaプロジェクトからスティーブを外したことでもあり、自分の裁定ではスティーブが納得しないであろうことを考えたからだ。

「トモ、ラスキンって奴は思っていた通りのクソ野郎だ。大クソ野郎だぜ。こうも真っ向から俺の悪口を書かれては黙っていられない。これからマイク(マイク・マークラ)に奴をプロジェクトから外せと言ってくるよ」
スティーブは私のオフィスのドアを勢いよく閉め、大きな靴音をさせながらマイクのオフィスに入っていった。

スティーブはこれほど正面から自分の弱点を指摘されたことはなかったこともあって事の原因はともあれ怒るのも当然だと思えた。しかし反面ラスキンにしてみれば彼がスティーブに反論できることはこうしたことくらいしかなかったのだ。
その少し前、私が受付のシェリー・リビングストンと雑談していたとき、ラスキンが近寄ってきていった。
「トモヒコさん、少しお話しがしたいんですが」
正直私はラスキンとの話しよりシェリーとバカ話をしていた方が楽しかったが、仕事だからしかたがない。

受付が見えるホールの片隅にあるコーナーに我々は座った。後ろは壁だし左右に見通しは効いたものの、通る人たちに注視をすれば我々の話を聞かれる心配はほとんどなかったからだ。それに密室で彼と話しをするという事実はスティーブへの手前避けたかったからこうしたオープンな場所は好都合だったのだ。

「ジェフ、私がアドバイスできることがなくて心苦しいけどスティーブは着々とプロジェクトを自分が率いる準備をしているようだね」
私の話をラスキンは肩を落として聞いていたが、
「あなただからいうけど、私もこれほどスティーブが狡猾だとは思わなかったです」
といい大きなため息をつきながら、
「トモヒコさん、現実歪曲フィールドという言葉を聞いたことがありますか」
無論2016年からタイムワープしてきた私はその語句や意味を知っていたが、これまでアップルの社内で聞いたことはなかった。
咄嗟に私は、
「いえ、聞いたことありませんね」
と答えていた。

「トモヒコさんでも知らないことあるんですね」
嫌みないい方ではなく、私を買いかぶっている様子が見て取れたが私は苦笑するしかなかった。
「まったくスティーブのやり方には怒りしか感じません。一言でいうなら他人のアイデアを平然と盗むんですよ」
私の無言の促しにラスキンは小声ながら雄弁に話し出した。
それによれば、スティーブ・ジョブズは他人からの提案や意見を一蹴し鼻であしらっておいて、その数日後には (素晴らしいアイデアを考えついたよ)といいながらその主張を自己のアイデアとして通すというのだ。

私自身にスティーブはそうした思いをさせたことはなかったから気がつかなかったもののMacintosh用のBASICを開発していたプログラマーのドン・デンマンやアンディ・ハーツフェルドからも同様の話しを聞いたことがあるので本当のことらしい。だからドン・デンマンいわくスティーブに認めさせたいアイデアがあったら彼に話し、ダメだと一蹴させればよい。そうすれば一週間後にスティーブ自身が (よいアイデアを思いついた) とその案を披露し採用するからという皮肉を言っていた…。

「スティーブのこの卑怯な戦法が意識的なのか、あるいは無意識な行動なのかは分からないんですが私たちはこれを “現実歪曲フィールド” と呼んでるんです 」
ラスキンは (この後でマイク・マークラに呼ばれている)といいながら、(愚痴を聞いてくれてありがとう)と席を立った。このとき “現実歪曲フィールド” という名付け親はジェフ・ラスキンなのかと思ったが、後にアンディ・ハーツフェルドからバド・トリブルの命名だと聞かされた。

しかしスティーブを擁護するわけではないが、物事を見極めビジョンを具現化する道のりは単純ではない。スティーブにしても思いついたあれこれを翌日には否定することで知られているが、要はひとつの考えに執着する危険性を廃し、可能な限り様々な可能性を求める姿勢のために他人の意見をも躊躇なく取り入れる結果なのかも知れない。
無論最初その意見をいった本人からすれば自分のアイデアを奪われたと思うだろうし結局そうなのだが...。

私が (やれやれ) とため息交じりの重い気持ちで立ち上がったとき、受付にいるシェリーが手招きしているのに気がついた。
「ため息はいけないな…(ため息は命を削る鉋かな)という川柳かなにかがあったな」
私は自虐的ないいかたをしながらシェリーの前にいくと彼女はどうやら私の振る舞いを見ていたようで、
「話しは聞こえなかったけどジェフの話しはあの件しかないわよね。だけどトモ、あなたが気落ちする問題ではないわよ。それに、スティーブはもとよりだけどジェフも自尊心の強い人よね。いずれは衝突するということは誰が見ても明らかよ。両雄並び立たずってことだからトモが気を遣う問題ではないのよ」
となぐさめてくれた。

ちょうど外出先から戻ってきたロッド・ホルトが受付カウンターに両肘をついてシェリーと話しをしている私を見ながら、
「お二人さん、仲がいいねぇ」
ウィンクしつつ茶化しながら奥に入っていったが周りにほんのりとキャメルの香りが漂った。

そういえば “現実歪曲フィールド“ の意味だが、ジェフ・ラスキンやバド・トリブルらがいうところのニュアンスと私がワープする前、2016年あたりに意味していたものとはかなり違うことに気がついた。
理屈から考えれば「フィールド(field)」とは電場・磁場・重力場などの「場」を意味すると考えられる。そしてその前に「現実歪曲」と付くのだから文字通りその意味は「現実や事実を歪めてしまう場」といった意味になる...。
したがって近年私たちが認識している「現実歪曲フィールド」とは、スティーブ・ジョブズの持つカリスマ性が現実世界に及ぼす影響力を意味する言葉であり、不可能を可能にする交渉力といったニュアンスで使われていたはずだ。
例えば (ジョブズの現実歪曲フィールドが発動するや否や、一瞬で無理が有理に変化した…) などと使われるように。しかしラスキンらの話しではよい意味というより、人のアイデアを自分のアイデアとして転化し、ごり押しをすることだというニュアンスだったのだ。

そんなことを考えながら自分のオフィスのドアを開けようとしたとき、ひとつ離れたオフィスのドアが開きマイク・マークラが渋い表情をして手招きしていた。
今日はよく手招きされる日だと苦笑しながら私はマイクのオフィスに入るとそこはタダならぬ雰囲気だった。マイクの他、スティーブ・ジョブズと先ほど話したジェフ・ラスキンが睨み合っているではないか。

「トモ、頼むから君もこの場にいてくれないか。俺ひとりじゃ収集がつかないからな」
私が同席すれば少なくともスティーブはそうそう無茶なことはいわないだろうというマイクの思惑だったようだが、哀願するような顔でいわれたからには仕方なく空いている椅子に座った。マイクは自分の席に座りながら、
「二人の話を聞き、解決策をと考えているんだが話しが拗れすぎてしまったよ」
と私に向かって呟いたが、どこか諦めの気分が漂っていた。
ジェフ・ラスキンも私に視線を向けつつ、
「会長のスティーブとこうしてやりあって分が悪いことは私でもわかります。しかしスティーブのやり方はフェアではないし企業のトップがやるべきことではないでしょう。もっと正々堂々とプロジェクトのリーダーになりたいのなら正攻法で責めるべきです」
と口火を切った。
スティーブはと見ればすでに涙目になっている。どうにも彼は子供っぽいところがあり、自分の思うようにならないとすぐ泣くというのがスティーブの特技だと皮肉る人もいた。

ラスキンは、
「まずスティーブは人間として約束を守らなければなりません。自らハードウェアは自分が、ソフトウェアは私にと宣言したのにもかかわらず次第にソフトウェアにまで口を出すそのやり方は許せません」
一息入れて続けた。
「それに皆さんご存じのようにMacintoshプロジェクトは私が立案し私がスコッティやマイクの許可を受けて始めたものです。理由もなく誰にしても横取りされる覚えはありません。ましてや私の仕事自体までをも邪魔するというのではApple会長の名が泣くでしょう。こんな状態では私は一日たりともスティーブと一緒に仕事はできません」
「俺だってそうだ…」
スティーブも言い張ったがその言い方はどこか弱々しかった。

マークラの決断は予想されたものだったが、彼の立場からすれば他の選択肢はなかったに違いない。1時間ほどのミーティングが終わったときMacintoshプロジェクトのリーダーはスティーブ・ジョブズの手中にあった。マイクもこれが公正な決断であるとは思っていなかっただたろうが、社内のもめ事をこれ以上大きくさせ長引かせるわけにはいかなかった。
ラスキンには一週間の休暇しか与えられなかったしこれまでの苦労に対する賞賛の一言もなかった。肩を落としたラスキンは私の方にチラッと視線を送りながら会釈し静かにマークラのオフィスを出ていった。
休暇から戻ったラスキンには新しい研究部門のリーダーというポジションが提示されたが、ラスキンにとっては魅力のあるものではなかった。どうせ注目を浴びるプロダクトを考え出せばまたスティーブがずかずかと乗り込んでくるとも考えた。

結局翌年の1982年3月、ラスキンはAppleを去った。そして生涯アイコン操作のGUIよりも優れたインターフェースがありうるとし、かつMacintoshのコンセプトは自分が考えたものだという主張を繰り返したがすでに見てきたように製品化されたMacintoshはラスキンのコンセプトとはまるで違ったものだったしことの是非はともあれ、それは誰が見てもスティーブ・ジョブズのマシンだった。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊



広告
ブログ内検索
New web site
[小説]未来を垣間見たカリスマ  スティーブ・ジョブズ
ジョブズ学入門
大塚国際美術館ひとり旅
ラテ飼育格闘日記
最新記事
お勧めの新旧記事
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員