Apple II で5インチフロッピーのコピー作成を紹介

VisiCalcを起動しようとApple II など押し入れの奥にしまい込んでいる機器をセットアップしたついでといってはなんだが、Apple II とDISK II による5インチフロッピーディスクのコピー手順とその実際をご覧いただこうと動画を撮ってみた。しかし何をやるにもまずは忘れていることを思い出さなければならないのが面倒だ...。


現在のパソコンでなら、ボリュームにしろファイルにしろメディアによって多少のあれこれはあり得るもののその複製を作るのは簡単だ。しかしまだハードディスクといった周辺機器がユーザーのところまで降りていないApple II の時代はけっこう面倒な作業だった。
今回は懐古趣味といわれるかも知れないが、Apple II 時代主流のメディアであった5インチフロッピーディスクを丸ごとコピーする手順をご紹介したいと思う。

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※今回使用するApple II Plusとグリーンモニター、そして1台のDisk II。さらにDOS3.3のマスターディスクとブランクディスク


コピーしようとするオリジナルフロッピーは「DOS 3.3」のシステムディスクだ。当時もこのフロッピーディスクが頼りだったこともあり、ほとんどのApple II ユーザーはその複製を作って万一の場合に備えていた。
この「DOS 3.3」を未使用のブランクフロッピーディスクにそのままコピーしようというわけだが、勿論フロッピーディスクのコピーを作るのにはそれを読み書きできるディスクドライブが必要だ。したがってApple純正の Disk II に登場してもらうことにしよう。

まずシステム構成を記しておくと、Apple II Plusとグリーンモニター、そしてDisk II 1台だ。
事情に詳しい方なら、Disk II が2台あればコピーが楽だとご存じだろう。一方のディスクからオリジナルのシステムデイスク内容を読み、もう一方のディスクに入れたブランクフロッピーディスクへ書き込めばよい理屈だ。勿論...というか我が研究所にもDisk II は2台あるからそうすれば簡便だ。

ただしせっかく?のチャンスだ。当時Disk II ドライブは高価でドライブのコピー品まで登場したほどだからApple II ユーザーでもDisk II が1台でがんばった方も多いのだ。
ということで今回はディスクドライブ1台であえてコピーをやってみようと考えた。確かにひどく面倒だが、当時こうしたことに慣れてはいたものの現在の便利さといかに違うかを感じていただければ嬉しい。

さて実際、一連の手順は動画に収録したのでそれを参考にしていただきたいが、ここでは手順の概要を記しておきたい。
まずはDOS 3.3 のオリジナルディスクを使ってApple II をブートしてみる。
問題なく起動し "]" のプロンプトが表示し入力待ちのカーソルが点滅している。



※フロッピーディスクの複製を作る過程を動画でご紹介。はなかなかに面倒だったことがお分かりになるはずだ


ここでシステムディスクに収録されているコピープログラムを実行するわけだが、ここでは "]RUN COPYA" と入力してリターンキーを押す。
ちなみにここでApple II の詳しいコマンド云々を解説するつもりはないが、Apple II は整数BASICとApplesoftと呼ぶ浮動小数点BASICが使え、それぞれ切替て使うことができるが、プロンプトが "*" なら整数BASIC、 "]" ならApplesoftと区別がつく。
そして整数BASIC時にコピープログラムを走らせるには "RUN COPY" というコマンドになるが、Applesoftの場合は "RUN COPYA" となる。

するとコピープログラムが起動し、オリジナルディスクが入っているドライブのインターフェースカードスロット番号とドライブ番号を聞いてくる。SLOTは初期値の "6" なのでそのままリターンを押し、続いてのDRIVE番号も初期値の "1" なのでこれまたリターンキーを押して先に進む。

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※Disk II のインターフェースカードは#6スロットにセットしてある


続いて同じくデュプリケートするディスクのスロットと ドライブ番号を聞いてくるが、SLOTは同じく "6" のままリターンキーを押すが、DRIVE番号は "2" と表示されているものを キーボードから "1" と入力して変更する。
これで1台のフロッピードライブを使ってコピーする準備ができたことになる。

後は指示にしたがってフロッピーディスクドライブにマスターフロッピーとコピーフロッピーを入れ替えつつリターンキーを押していけばよい。
ただし入れ替えはかなりの回数を覚悟しなければならない。実際にカウントしたら18回で仕入していた。
コピーが終わると "DO YOU WISH TO MAKE ANOTHER COPY?" と表示されればコピーが終了したことを意味し、続けてコピーを行わない場合は "N" を入力してコピープログラムを終了する。

問題はブランクディスクに問題なくDOS 3.3がコピーされたかだ。これはブートしてみれば確認出来るわけだから、Disk II にコピーしたフロッピーディスクをセットしてApple II を再起動させれば一目瞭然だ。
幸いこの例では旨くコピーができようでDOS 3.3が正常に起動したのでこれでミッションは完了である。

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※コピーしたフロッピーディスクは正常に起動した


いまでは3.5インチのフロッピーディスクでさえ見たことがないユーザーが増えているという。ましてや5インチのフロッピーの扱いなど知る由もない方々も多いと思うので当時のオペレーションの一端を知っていただければと思う。
こうして古い機器をたまに使ってみると、いかに現在のパソコンが便利かをあらためて思い知らされる。それにしてもあれだけ夢中になって勉強したあれこれだが、忘れていることの多い事にも驚く。
楽をすればそれまでの苦労は簡単に忘れてしまうものなんですな。少なくとも私は...(笑)。



Apple Adjustable Keyboardを再考する

アップルはデザインとインターフェースに優れたコンピュータメーカーとして知られてきた。これまでにも期待に恥じない素晴らしい製品を多々開発してきたが、反面意気込みは強かったものの市場に受け入れられないために短命に終わった製品も目立つ。今回はそうしたプロダクトの一つ「Apple Adjustable Keyboard」をご紹介してみよう。


Apple Adjustable Keyboardが発売されたのはアップルがQuickTimeを前年度にリリースしたことから盛んにマルチメディア指向を探っていた1993年だった。
国内では最初ASCII キーボードが、そしてしばらく経ってからJISキーボードが発売されたと記憶している。米国価格はUS$219だったが国内では5万円ほどしたはずだ。まだADB (Apple Desktop Bus)時代のことだ。

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※Apple Adjustable Keyboardパッケージ


まずはそのパッケージだが、当時もそのサイズと重さに驚いたものだ。パッケージの形は台形で広い方の横幅が約48cm、狭い方で約41cmほど。そして奥行きが28cmで高さが12.5cm、重さは3Kgほどあった。
パッケージの材質はダンボール製で地味だが作りはなかなか凝っていた。

まず上蓋を上げると3重になっており、一番上はマニュアルやドライバーソフト、フロッピーディスケット、そして2本のADBケーブルが収納されているがその打箱のカバー上部にはアップルロゴの形に切り抜かれている。

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※蓋を開けると一番上の箱にアップルロゴが抜いてある


次ぎに出てくるのがキーボード本体と専用パームレストが、そして一番下はテンキーユニットだ。私の手元に残っているのはUSAバージョンというASCII 版だが、QWERTYキー配列に特別な点はないが人間工学とかエルゴノミクスと騒がれた時期の製品だけに現在のキーボードとは大きく異なった点が多い。

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※外装の中は3段に。上からマニュアル類およびケーブル、キーボード本体、テンキーユニッ


まず本体側のキーボードだがスペースキーのサイズに目を奪われる。そして付属のパームレストが手前側に左右ふたつ取り付けられるようになっているが、このキーボードはなんと手前側が左右に拡がるように開くことだ。そして背面には滑り止め処理はもとよりキーボードの角度が変えられる折り畳みのスタンドがある。

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※キーボードにパームレストを取り付ける(上)。キーボード本体を左右に開いたところ(下)


また何よりも目立つのは別ユニットのテンキーユニットの存在だ。そこにはカーソルキーとファンクションキーが集中しているものの、そのデザインは本体と統一が取れたものとしても形状はキーボード本体と橫に列べて置くにはしっくりしない。

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※パームレストを付けたテンキーユニット


さらに粗探しみたいだが、例えばキーボード本体左上には例の6色アップルロゴが埋め込まれているが、テンキーユニットの同じ位置には単に型押しのアップルロゴがあるだけだ。コストの問題だろうが、変なところでみみっちい…。

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※キーボード本体には6色アップルロゴがあるものののテンキーユニットには刻印だけだ


Apple Adjustable Keyboardは、ユーザーそれぞれの利用環境とある程度の特性に配慮し、自分にとって楽なアプローチで打鍵ができるよう配慮されたキーボードだった。そして確かにキーストロークもよく、当時のパソコンキーボードとしては良質な製品であることは間違いなかったと考える。

ではユーザーに歩み寄ったといわれたApple Adjustable Keyboardは成功したかといえばアップルの目論見は成功しなかった。
それはその後、Apple Adjustable Keyboardを踏襲したトータルデザインが継承されなかったことを考えれば明らかだろう。
エルゴノミクスといえば聞こえは良いものの、当時のアップルはそれを広め、多くのユーザーに使いたいと思わせる力がなかったというしかない。

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※ケーブルは接続していないが、こうして本体とテンキーを横に並べると少なくとも幅60cm以上のスペースが必要となる


そもそも一番の問題は、利用面積を広く占有しなければApple Adjustable Keyboardの利点を満喫できないことだ。パームレストはもとより、キーボード本体を開き左右のキートップに角度を付け、さらにテンキーを隣に置くにはかなり恵まれたデスク環境でなければ使えない。実際に計測してみると横幅は最低でも60cmの空間が必要となる。

アップルは人間工学を考慮したのだろうが、大げさに言うなら環境工学、いや…生活工学とでもいうべき多くの人たちの現実を考慮に入れなかったとしか言いようがない。
そうした意味においてApple Adjustable Keyboardは、アップルというメーカー側の理想だけを指針に製品化した、アップルらしいといえばアップルらしい特異なプロダクトだっといえる。



VisiCalc をApple II で起動!

少々時間が取れたのでずっと懸案事項のひとつだったことをやってみた。それはすでに8年も前になるが、資料としてeBayに出品されていたApple II 用の表計算ソフト「VisiCalc」のパッケージを手に入れたものの、これまで一度も起動させていなかったことだ。


「VisiCalc」に関しては旧記事「Apple II 用として開発された表計算ソフト『VisiCalc』再考」に詳しいので繰り返さないが、現Excel (エクセル)の発端となった画期的なアプリケーションであり、為にApple II のキラーアプリケーションとしてApple II の売上げにも大きく貢献したことが知られている。
なにしろしばらくの間「VisiCalc」はApple II 専用だったのである。

私の手元にある「VisiCalc」のパッケージはフェイクレザーの3穴バインダ形式になっているものでリリースは1981年、パーソナルソフトウェア(Personal Software)社から発売となっている。なお同社はVisiCalcの成功を確信した後、社名をビジコープ社と変えているから、手元のパッケージはまだ販売初期のものということになる。
対象は “Apple II & II Plus 48K 16Sector“ と明記された文字通り、Apple II 版だが、すでにオリジナルディスクは無くバックアップディスクしか残っていない。しかしマニュアルやリファレンスカード、保証書などは当時のまま残っている。

今回「VisiCalc」を起動してみようと用意した機材は以下のものだ。

・Apple II plus
・DISK II
・モニター (Apple IIc 用のグリーンモニター)

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※今回VisiCalcを起動するために用意した機材


この5インチのフロッピーディスクにバックアップコピーがいつ作られたかは不明だが、当該パッケージを入手した最初のユーザーが作ったとすれば、購入からそんなに時間は経っていないうちにバックアップを取って置いたと考えて不自然ではないだろう。なにしろフロッピーディスクは磁気にも埃あるいし湿気などにも弱いから、私なども手に入れたソフトウェアのバックアップはなるべく早めに作っておくという習慣をつけていたくらいなのだから...。
といえばすでに30年以上は有に経っているわけで、この一枚限りの「VisiCalc」が起動しないとすれば諦めるほかはない。

今回の検証は、当該フロッピーが正常に起動するかどうかにかかっているが、旨く動作したなら当時の使い勝手はどのようなものだったかを思い出してみたいと考えた。
動いたからと言って、まさか「VisiCalc」を実用として使ってみようなどと考えたわけではなく、感覚的にも最新のExcelなどとどれほど違うのか、あるいは世界初の表計算ソフトの実力を再評価してみたいと考えたに過ぎない。

無論私自身「VisiCalc」が発売された時代にリアルタイムに使ったユーザーの一人だった。ただし白状すると正直いま思うに表計算ソフト、スプレッドシートというコンセプトがどのようなものなのかを深く考えなかったようだ。
ために当初は価格が安いからと「MagiCalc」という二番煎じの製品を買ったこともあった...。

さて、前記した機材を押し入れの棚から取りだしてセットアップすることからはじめる。それぞれが皆古い製品ばかりだから、いつ故障してもおかしくないわけで机上に置くのも、その取り扱いにも自然に丁寧になっている自分がいる。
ただしセットアップといっても難しい事はまったくない。

まずはApple II の蓋を開け、スロットに刺さったままにしているDISK II インターフェースカードにDISK II のケーブルコネクタを差し込み蓋を閉める。
モニターをApple II の蓋の上に置き、Apple II 本体とモニター共に電源コードをセットしてコンセントに繋ぐというこれだけだ。

いよいよフロッピーディスクをDISK II にセットして起動してみる。例え起動しなくても何の問題もないはずなのにやはりこうしたことは些か緊張するものだし反面期待も大きい。
DISK II の扉を閉めたらモニターの電源を入れ、続いてApple II 背面にある電源スイッチをONにする。
「カタカタカタカタ...」
懐かしいDISK II が音を立てたと思ったら、あっと言う間に初期画面がモニターに表示した。
問題なく起動したようだ。



※ユーザーズガイドからフロッピーディスクを取りだして起動させる


早速Apple II のキーボードからいくつかのセルに文字列や数値を入力しようとするが、そこはExcelではないわけで(笑)、全くといってよいほどコマンド類は忘れている。
それにさすがのApple II plusも問題なく動作しているものの、キーボードは些かチャタリング気味であるしキーストロークが現在のキーボードとはまったく違うので打ったつもりが入力されていないということもある。



※起動後に以下の基本中の基本をオペレーションしてみた


ともあれ、ユーザーガイドにある入力例の基本中の基本をそのままトレースしてみた。
こんな感じである。なお表記はユーザーガイドに準じている。

>A1®
SALES → 100®
>A2®
COST → .6*B1®
>A3®
"-GROSS- → +B1-B2®
>B1®

現在ExcelやNumbersといったアプリを使っている方なら、なにをしているのかはご想像がつくものと思う。
一応簡単な説明をさせていただくと

>A1     特定のセルへの移動を意味する。この場合は当然1行目のA列を意味する
®      リターン
→       セルをひとつ右へ移動
SALES    テキスト入力。COSTとか-GROSS-も同様。
       ただし-GROSS-の前に " が付いているのは - は演算記号ではなく文字列であることを宣言するため
.6*B1    計算式。B1の値に 0.6 を乗じた値を算出する
+B1-B2   計算式。B1の値 から B2の値をマイナスすることを意味する

勿論、この例の場合は「SALE = 100」から「COST」を引いた計算結果は「40」だが、B1の値である100を200にしたとすれば、答えはそのコストである6割を差し引いた80に変わる。また変数を扱う事もできる。
ただし現在の表計算ソフトとは違い、罫線機能はない。したがって一行を使い例えば = や - などを入力して罫線としなければならない。

個人的には今もってExcelなど出来ることなら使いたくないと思っている一人だが、本当に久しぶりに「VisiCalc」に対面してみると数行テキストや数値を入力するだけで肩が凝って疲れてしまった。
というわけで、「VisiCalc」は進化や変化が激しいコンピュータの世界におけるひとつのエポックメイキングであり、起動する現物は時代を正確に伝える証拠でもある。
今後も大切に保存したいと考えている。



驚かされたホテルのドアマンの対応とは?

先日「3000人の顔と名前を覚えたドアマンに聞く【簡単に顔と名前を覚えられる記憶術】」というウェブサイトを見て古い記憶が甦ってきた。記録を調べて見るとそれは1996年11月5日のことだったようである。


その日、日本経済新聞朝刊にアップルの全面広告が載った。それは当時のCEO ギルバート・アメリオ氏の大きな写真と共に「メーカーの理論より、ユーザーの実感の方が、はるかに正しい」というコピーが印象的だった。
実はその日はホテル・オークラでアップルジャパン主催のエグゼクティブミーティングがあり、来日したアメリオ氏も同席するということでデベロッパーの一人として私も招待を受けていた。

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※1996年11月5日、日本経済新聞朝刊に載ったアップルジャパンの全面広告。当時CEOのギル・アメリオ氏から直筆サインをいただいた


私は朝刊の広告を見ながらふと思いついた。この新聞を持参しアメリオ氏本人にサインをしてもらおうと...。
まあ実際にそうしたタイミングがとれるかどうかは会場に行ってみなければ分からないが、チャンスがあればよい記念になると思ったのだ。
結果は嬉しいことに一言二言会話ができ、握手もできたしサインも嫌な顔もせず笑顔で応じてくれた。
この辺のエピソードに関しては「前Apple社 CEO ギルバート・アメリオの思い出」に詳しいのでご参考にしていただければ幸いである。

さて本題だが、アメリオ氏のサインのことではない。
私は自分の会社から車でホテルに直交したが、残念ながらホテル・オークラを多々利用したことはなかったはずだ。過去に一般の客として出入りしたことはあったかも知れないが、馴染みだったとか定宿だったということではなかったから一見の客であった。

ハイヤーがエントランスに着くとさすがに一流ホテルだ。ベルボーイが「いらっしゃいませ」と開いた車のドアを押さえて笑顔で迎えてくれた。
私は会釈し、コートの裾に注意しながら車から降りフロント入り口へと向かった。
そこで初めて驚くべき体験をしたのである。

ドアは自動ドアだったと思うが、入ったその脇に中年のドアマンがいた。優雅な足取りで私の方へ向かってきた。そのときドアマンは「いらっしゃいませ松田様」といいながら手荷物を持ってくれた。
「お世話をかけます」といいながら私は「凄いな」と感激していた。
たかが名前を呼ばれただけではあるが、ドアマンとは当然のことながら初対面なのだ。これが度々利用していた御茶ノ水の山の上ホテルであれば顔と名を覚えて貰うほど利用していたから当然としてもこのホテルは繰り返すが一見であった。無論コートに名札がついていたわけではない(笑)。

前記したウエブのニュースでは3000人の顔と名前を覚えているドアマンの話だが、それ自体努力の賜でありサービス業としては素晴らしいことだと思うが、ドアマンはどこで私の名前と顔を知ったのだろうか。
意地の悪い私はドアマンがいた付近に馴染みのアップル担当者でもいて「あれは松田さんです」と耳打ちでもしているのかと注視したがそれらしい人物もいなかった。

ということは本日アップルのイベントがあり、当該時刻には多くの招待客がこのロビーへと足を踏み入れるということで、推測だがアップルから招待客の顔写真と名前といったリストがホテル側に渡され、それをドアマンが意識的に覚えたということ以外に考えられない。しかし招待客の数は500人にも上っていたのだからどうにも釈然としない。
著名な政治家とか芸能人であればともかく一般客の名前をそらんじる努力は仕事とはいえ大変なことに違いない。
「それがサービスなのだ」といってしまえばそれまでだが、これまで多くのこうした催事に参加してきたが、ドアマンからいきなり名前を言われたのはこの時だけでありその後は経験していない。




私の唯一のベストセラー「図形処理名人〜花子」物語

過日、知り合いの方々と著作の話題となったがその中で「一番売れた本は?」という質問を受けた。そういえばこれまで共著を含めると18冊ほど書籍を出している。それらの中で1人で書いた本は9冊あるが、一番売れた本はビギナーズ・ラックとでもいうべきか…処女作「図形処理名人〜花子」(技術評論社刊)だった。


今思えば1990年前後の時代はパソコン関連においても出版花盛りだった...。普通に考えたら1人では負えないほどの執筆依頼が多々舞い込んだのだから...。というわけで今回は私の処女作で1987年に出版した「図形処理名人〜花子」の話しをしたい。なぜなら本書は私の唯一のベストセラーとなった大変印象深い著作だからだ。

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※1987年6月1日出版「図形処理名人〜花子」技術評論社刊は13刷を記録するベストセラーとなった


1987年といえば私は小さな貿易商社のサラリーマンだった。ただしその10年前からマイコンやらパソコンという世界に足を突っ込み、懐具合が良かったこともあってPET2001、 Apple II、PC-9801、PC-100、IBM5550そしてMacintoshなどなどという数多くのパソコンを手元に置き、特にペイントソフトやコンピュータ・グラフィックスにかかわるあれこれを楽しんでいた。そしてCGにのめり込み、同年夏にはロサンゼルスのアナハイムで開催されたSIGGRAPH '87に参加するため初めて渡米するという暴挙にも出た(笑)。

話しはその1987年の年明けだったのではないかと記憶しているが、仕事中に技術評論社という出版社から電話をもらった。それまで同社とは無縁だったが「新しい本の執筆依頼をお願いしたいのでご足労いただけないか」という話しに私は反射的に腰を上げた。

たまたま当時の技術評論社へは徒歩で行ける距離だった。私の勤務する神田神保町から靖国通りを直進し九段下から左手に千鳥ヶ淵、右手に靖国神社をめざせばすぐ側だった。
その頃、本職の貿易業は低迷を極めていた反面、少しずつではあったが趣味として手を染めてきたパソコン関連のいくつかが望んだわけではないものの仕事として依頼が舞い込み始めていた。私はどうせ仕事をするなら面白くなければ意味はないし、サラリーマンとして時間が拘束されていることもあって個人でそうした依頼に向き合うことはできないからと社長を説得し "情報企画室室長" といったいい加減な名刺を作ってもらっていた...。したがって技術評論社からの依頼も仕事の可能性として日中に堂々と出かけることが出来た。

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※1986年前後だと思うが勤務先のデスクでくつろぐ筆者。後ろに私物を持ち込んだNEC PC-100とプリンターが見える


それまで私はMACLIFE誌の前身となった「MACワールド日本語版」への執筆などで関連の出版社に出入りはしていたが技術評論社は初めてだった。
編集担当の責任者として向かいあったのは大塚葉さんという女性だった。
意外だったのは執筆依頼というのはMacintosh関連の話しではなく数ヶ月後にジャストシステムからリリースされる「花子」というグラフィックソフトのいわゆるマニュアル本執筆依頼だったのである。

正直「PC-9801用のアプリなのか...」と少々がっかりしたが、要はパソコン雑誌でグラフィック関連記事を書いている私に目を付けてくれたらしい。そしてもしそのとき私がAppleやMacに拘っていたらこの1冊は生まれなかったしその後の数冊の機会もなかったに違いない。
ただし私はすでにその時期 NEC PC-9801を所有していたし一太郎も使っていた。またMS-DOSの基礎知識も持っていた。そしてなによりも「はじめて自分の名による書籍が世に出る」という事実に舞い上がっていたように思う。

条件などの概要をお聞きすると執筆期間は3ヶ月ほどあるという。さらに「花子」のベータバージョンの貸出は勿論、PC-9801を1台貸していただけるとのことだった。そうであれば1台に「花子」を走らせ、もう1台に一太郎をインストールすれば原稿書きのスピード向上はもとより正確さも増す...。
ということで私は喜んで「花子」執筆依頼をお受けすることにしたが、最大の問題はその執筆時間をどう捻出するかにあった。

本職はもとより、すでにMacintosh関連の原稿書き、それにパソコン通信「ニフティサーブ」のシスオペにも就任することになっていた。すでに睡眠時間は4時間ほどが続いていたからこれ以上削減は無理だった。考えあぐねた私は社長の了解を得てこの執筆を個人ではなく会社が請け負うことで話しを進めた。
それなら日中も時間が空いた際には堂々と原稿書きができることになる。それにだ...1冊千円ほどの本の印税は大した額ではないし初版本をどれほど刷るかはその時点で不明だったが知れたものだろう...。さらにこの本が売れるかといえば我ながらこれまた重版がかかるとはどうしても思えなかった。

私の興味は自書を生み出すただ一点にあった。それまで幾多の雑誌原稿を書いてきたが1冊丸ごと書籍になったものはなかったし自分の名が表紙に...というそのこと自体が原動力だったし信じて貰えないかも知れないが金はどうでもよかった。
その後、技術評論社と多々打ち合わせをしながら原稿書きに精を出したが、あるとき「花子のリリースが決まったのでそれに合わせて書籍を発刊したい」ということになった。しかしそれに合わせて...となると残された時間は1ヶ月ほどしかなくなっていた。

ともあれ内容については編集者のアドバイスもありわかりやすさを第一にと考えたし手抜きをしたつもりはないが、締切の関係上、突貫工事…やっつけ仕事になった「図形処理名人〜花子」はこうして1987年6月1日(私の誕生日の2日前)に出版された。

やはり見本誌をいただいたときは本当に嬉しかった。ただし私はこの処女出版で大きな誤算をしたことがわかった...。それは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。そしてその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。しかし私個人に「花子」の印税は1円也とも入ってこないわけだ。

正直「これがもし個人で引き受けていたら」印税全てを手にすることが出来たわけだが、反面個人契約だったら原稿を締切までに間に合わせることはできなかっただろうという現実も認識しなければならない。ただし負け惜しみでなく繰り返すが、当時は自身の名前が印刷された単行本が出版できたそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

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※「花子」の印税は一円たりとも懐に入らなかったが応接にMacintosh SEとLaserWriterを購入してもらった


「花子」はベストセラーになったからその後の影響も大きかった。別の出版社からも「花子」の単行本執筆依頼もあったし、秋葉原の九十九電機で「花子セミナー」もやるはめになった。

ともあれ「花子」執筆で一番の収穫はこれを機に技術評論社とのお付き合いがより深くなったことだ。続いてフロッピーディスク付き「図形処理名人『花子』の事例集」を出させていただいたし「マッキントッシュ実践操作入門」や紀田順一郎さんとの共著「FAX交友録〜MACの達人」、「QuickTimeの手品」や「マスコットの玉手箱」といった出版は勿論、編集部の川添歩さんとのご縁でMacの月刊誌「MacJapan」創刊にも立ち会わせていただいた。
あらためて振り返って見るとパソコンは私にとって “人と人を結びつけるハブ(HUB)” だったように思う。



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appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。ゆうMUG会員