「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」に見る30年前のハードウェア価格

ちょうど30年前のこの時期(1987年)、「MacTalk」というMacの情報誌が発刊された。隔月刊として第8号まで出版されたが、これは出版社の手になる物ではなく秋葉原でショップ展開していた(株)イケショップのユーザーグループ・マガジンだった。この雑誌に関しては「イケショップ『MacTalk』誌に見るユーザーの等身大情報とは?」に詳しいので繰り返さないものの、VOL.3に載った「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」という記事についてご紹介してみる。


Macintosh II という最初のカラーMacを購入した時期だったが、タイトルの「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」とは些かあからさまでイヤラシイ感じも受けたが、まあ単なるネタだと思って原稿依頼を受けた記憶がある(笑)。
このとき載ったのは私と松木英一氏、斉藤秀行氏の三人だったが、後の編集後記によれば引き続きより強者たちが登場するような気配もあったが、これっきりになってしまった…。

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※1987年8月から隔月刊に8冊刊行された「MacTalk」


要はどれだけApple製品を買い込み、浪費?をしたのかという購入リストを示せという企画だったので私はApple II に関わるものとMacintosh関連に分けてそれまで費やした製品および価格をリストアップしたが、申し上げるまでもなく買った記録を念密に残していたわけでもなく正確であるはずもないが、記憶しているだけのハードウェアを購入先の定価リストなどを参考にしてピックアップした。

いまその記事を読むと自分でビックリするが、この時期まででApple II関連で360万円ほど、Mac関連で460万円ほどの額になっている。無論その他、記憶からこぼれているものやこれまた高価だったソフトウェア類を含めれば推定一千万円の注ぎ込み…というのが結論だった(笑)。

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※「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」の記事が載ったVOL.3号表紙


それはともかく印象的なのはハードウェアが高価だったことだ。
Macintosh 128Kとプリンターで799,000円、その後512K RAMに増設するのに201,500円、さらにMac Plusへのアップグレード価格が150,000だった。
そう、当時はハードウェアのアップグレードサービスがあったのだ。
結局1984年に登場した最初のMacintoshはその後のアップグレードを加算するとその本体価格は1,150,500だったことになる。

その他、これまた最初に買ったたった10MBのハードディスクが36万円、MacScanというページスキャナが30万円、モノクロ17インチ・大型ディスプレイが50万円だ。
いくら時代が違うとは言え、iPhone 8やiPhone Xが「高い」と思っている自分が少し情けなくなってくるではないか。
こうして続くであろう「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」の企画がその回限りになってしまったことでもあり、その後しばらく私は文字通り「日本一Appleに金を注ぎ込んだ奴」の称号を独り占め…いや、馬鹿者としてネタにされたのだった(笑)。
ともあれ、このMacTalkは短い間の刊行だったものの「イケショップ『MacTalk』誌に見るユーザーの等身大情報とは?」にも記したとおり一般商業誌とは些か違う当時の生情報が満載でよい資料となっている。



ビジネス回顧録〜人材募集面接の思い出

時代背景がいまとは違うこともあるが、私自身は起業するまで3つの会社のサラリーマンを経験したものの就活に関する苦労話はない。ただしサラリーマン時代にも数度人材募集をするために面接を任されたこともあって百名ほどの方たちとその機会を持った経験があった。今回は起業時代の面接で印象深いことをご紹介してみる。


先日久しぶりに電車に乗ったら就活に向かうとかで若い女性が二人お互いを励まし合っていた。その姿を眺めていたら20年以上も前に新卒の人材を欲しいと考え面接をしたときのことを思い出した。
私の会社はいま思えば時代に押され、勢いで起業した超マイクロ企業だったから起業時の人事をゼロから求めるのは難しかった。結果、サラリーマン時代の部下や相棒の勧めだったりと縁故同然の人材で固められていた感があった。
無論それが悪いとばかりは言わないが、企業の代表者であった私から見るとお互いの緊張感がなく物の考え方や仕事の進め方に膠着が見られるように思えた。1994年のことだった…。

幸い会社の景気がよかったことでもあり、そして札幌支店の女性が結婚退職することになったためそのポジションに新卒の女性を採用することにした。無論社長たる私の一存だ(笑)。
ソフトウェアという物作り(開発)の面白さに魅せられて起業した私だったが、もうひとつの夢というと大げさだが人材の育成をしてみたいと常々考えていたからである。
マイクロ企業としてはいわゆる経験者、即戦力となる人材の方がメリットがあると考えるだろうし事実社内の空気は新卒に拘る私の思惑をどこか懐疑的に見ていたようだ。

とはいえそうそう時間をとるわけにもいかない。そこで札幌で大学の先生をされているSさんに来年度卒業の方をお一人紹介して欲しいとお願いした。
信頼しているSさんの目にかなった方ならそれで一次選考突破だと考えていたからだ。
幸い大学でもパソコン…S先生のご尽力で…Macintoshも使われていたからまったくのゼロから教える必要はないこともメリットだった。

1994年某日、私は札幌に向かった。この時期は毎月一度は札幌支店に出向くのをノルマとして課していたが、面接という久しぶりのミッションにいつもと少し違った感覚を持っていたように思う。
私の頭にはひとつの理想というか目標があった。
新卒の女性に闇雲に仕事を押しつけるわけではないが、失敗してもよいから単なる内勤というだけでなく積極的に対外的な仕事もやらせてみたいということだ。そうした中から我々自身忘れているなにかに気づかせてもらいたいという期待もあった。
これまでにない、斬新で新しいソフトウェアを作る会社が型にはまった考え方ではどうしようもないからだ。

さて、面接というミッションは嫌いではない。就職を希望するため面接に来られる方は真剣そのものだからこちらも真剣に事を見極めなければならない。それに100人、500人採用する中に一人二人どうしようもない人材がいたとしてもそれは会社としてダメージではないだろうが6人とか7人しかいない我々のような超マイクロ企業は1人に課せられる仕事は結構重いこともありいい加減な対応は出来ようもない。

時間が来て当事者が応接室に待っているというので「それでは面接してくる」と言い残し私は小さな応接室のドアを開けた。くどいようだが信頼しているS先生がご紹介してくれた学生だからよほどのことがない限り採用しようと心に決めていた。
とはいえ人間同士、相性というものがある。何が得意で何が不得手といったことはある意味どうでも良いが一緒に仕事をしていくからにはその人柄を見極めなければならない。勿論それは面接に来る人の側にもあるだろう…。あの野郎が社長ならあの会社には行きたくないということもあるはずだ。
ただし極論に思えるかも知れないが面接は文字通りの第一印象がとても大事だということを経験体験しているから、ドアを開け挨拶をする前の一瞬で勝負が決まるような気もする…。

私が部屋に入ると女性はソファから立ち上がり「○○と申します。よろしくお願いします」といったと思うが。その瞬間私は心の中で「採用」の判を押していた(爆)。
しかし正直驚いたというより面接に来た学生の真剣さをもひしひしと感じた。
男の端くれである私から見ても髪型といい、化粧といい、服装といい良い意味で手をかけた結果だろう、清楚な印象だったが輝いて見えた。いや本当である。
しばらく型どおりの質問をした後に、是非来年卒業の際には我々と一緒に働いて欲しいことをお願いしたが、ひとつだけ希望があった。
それは翌年2月、すなわち卒業前ではあるものの業界最大のイベントであるMacworldExpo/Tokyoが開催される。それにはアルバイトとして参加して欲しいとお願いして面接は終わった。

彼女は間違いなく我々に新風を巻き起こしてくれたと思う。地味な日常の仕事だけでなく札幌支店主催のイベントも彼女が取り仕切ることになった。
短い研修期間は設けたが、正式入社の直ぐ後であったものの、北海道の旧千歳空港跡で3月31日から4月2日までの3日間、「北海道マルチメディアカーニバル'95」が開催され、地元企業として我々も参加することになった。

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※「北海道マルチメディアカーニバル'95」の会場、札幌ファクトリーと会場展示の様子


その一環でアップルコンピュータ社の協力による「マルチメディアキャンプ」という催事中のセッション、「学生バトル・マルチメディアチャ レンジ」に彼女が登壇し卒業したばかりの大学を代表しMacで作成した作品を発表する大役をこなすことになった。

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※Wさん発表の様子


発表は10分程度のものだったが、本人はもとよりだろうが見ている私らも正直いってドキドキで、仲間と「自分でプレゼンした方が緊張しないね」と笑い合ったりもした。
彼女と一緒に仕事をしたのはその後9年間ほどだが、会社はもとより私自身にも少なからず刺激を与え続けてくれた。
幾多の面接をしてきた私だが、この時の面接が一番記憶に残っている…。
その2年後に同じ大学から新卒女子をもうひとり採用することになった。それから様々なことがあったが大げさでなくこの二人の女性が末期の会社を私を支えてくれたのである。




3.5インチフロッピーディスクの怪

今回はこれまたマイナーなネタである。すでに3.5インチフロッピーディスクといった代物を手にしたことがない方々も多いと聞く。しかしMacの歴史を振り返るまでもなく3.5インチフロッピーディスクはメディアとしてなくてはならない、あるいはMacらしいアイテムだったことは間違いないだろう。


さて先日、オールドMacを数台持っている知人からヘルプのメールがあった。
聞けば古い3.5インチフロッピーを扱っていたところ、そのシャッターが開いたままになってしまったというのだ。中身は大切なデータがあることだし壊したくないので、なにかこのシャッターを安全に閉める方法はないものか…という問いだった。このまま本体に再度挿入すれば磁気面を傷つけやしないかとも心配していた。

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※3.5インチフロッピーのシャッターが開いたままになることを再現


知人もオールドMacユーザーを自負している一人だが、これまでそんなことはなかったのでと弁解していたが、そもそも3.5インチフロッピーディスクは本体のスロットに差し込むことは手動でやるが、イジェクトはファインダーから指示するわけでフロッピーは自動で引き出されると共にシャッターは閉じられる。したがってユーザーはその開閉に注意を払う必要はない仕組みなのだ。
さらに例えばフロッピーのシャッターを指で開けたとしても手を離せば閉じる仕組みになっている。

そのフロッピーディスクにしてもご承知のように最初はSigle Slideタイプのものであり "1DD" などと記されていた。
ちなみにこの3.5インチフロッピーディスクはソニーが開発したものだが、倉庫をかき回して知人が体験した同種のフロッピーがあるかどうかを探してみた。
たまたま私は1984年にMacを買い、それで使われていた3.5インチフロッピーディスクに興味を持っていくつか分解して調べたことがあるので覚えていたことがあった。

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※共に1DDフロッピー比較。左の方が古いタイプのようだ【クリックで拡大】


さて、結論めくが最初期の3.5インチフロッピーディスクも仕様がひとつではなかったのだ。
私の手元にはたまたま2種類のものが見つかったが共に 1DD仕様でありSingle Sideタイプの最初期のものだが、どちらもソニー製である。

ラベルを貼る表側から見ると当然だがプラスチック製のシェル本体の基本形状には違いはないように思える。ただしこの例では金属製のシャッター窓の形状が明らかに違っていること、ライトプロテクトのノッチの状態が右のものは正面からでもわかるようになっている。
では裏側を見てみよう。これまたシャッター窓の形状が違うこと、そしてライトプロテクトのノッチ部位が右がスライド式なのに対して左は折って書込禁止にするタイプなのだ。ということは左のタイプのフロッピーの方が古い仕様だといえよう。

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※書込防止のライトプロテクトのノッチ仕様も違う


1984年当時に使ったであろう1DDタイプのフロッピーを数十枚確認した範囲では一枚しか旧タイプのものは出て来なかった。そしてこの旧タイプのフロッピーこそ、シャッターを手動で開けるとロックされるタイプなのだ。
事実シャッター側の厚みを確認してみると構造が違い、古いタイプのフロッピーは端まで上下のシェルの間に溝があるのがわかる。

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※上は左端一杯まで上下シェル間に隙間がある


そしてシャッターをロックする位置に爪があり、シャッター側にも小さな窓が開いている。この小さな窓に爪が引っかかってロックされる仕組みなのだ。

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※古いタイプはシェル一部に突起があり、スライドしたシャッタを固定する仕組みを持っている


想像だが、このタイプのフロッピーディスクはMacに3.5インチフロッピーディスクが採用される直前の仕様なのかも知れない。無論このタイプのフロッピーも実際に利用していた訳で問題は記憶していないから同等に活用できていたことになる。

知人には、そのフロッピーディスク、今となっては貴重かもしれないと報告しておいたが、さて肝心のシャッターを閉める方法だ。
それはフロッピーの正面から見たとすれば、左上角、すなわち前記したようにシェル上下に隙間がある部分を指で挟んで少し力を加えれば樹脂製のシェルの爪は凹みロックが外れる。

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※隙間のある部位を摘まむとロックが外れる仕組み


フロッピー一枚にも様々な歴史があるものだ…。




初めて仕事として制作したMacでアニメーションの思い出

何にでも最初、始めてというものがある。私にとってマイコンはもとよりPET 2001やApple IIそして最初のMacintoshは個人の楽しみであり、仕事にかかわることではまったくなかった。しかし1987年、Macによる動画制作の依頼がはじめてあり、私は社長の命で数分のアニメーションを仕事として作ることになった。


ただし社内に目を向ければ、貿易業務の一端を何とかパソコンで効率よく処理できないかと自前で買った最新鋭のパソコンを会社に持ち込み、BASICでプログラミングし、ある種の書類作成の自動化を図ったりと試行錯誤をしていた時代だった。
とはいえ資料作りにしろ、パソコンから生み出される結果・成果は社内の効率化・合理化のためであり、それが直接金を生むということはなかったし正直考えたこともなかった。
個人的にコンピュータ雑誌に原稿を書き、その原稿料がよい副業となっていた頃でもあったが、会社の仕事として外部からなにがしかのデジタル的な受注をコンピュータで制作するなどまだまだ先のことだと考えていた。

さて1987年といえば最初のカラーをサポートしたMacintosh II がリリースされた年でもあった。そして私はといえば、夏休みを利用し7月27日から31日の5日間、米国ロサンゼルス郊外のアナハイムで開催された世界的CGの祭典「SIGGRAPH」に参加した年でもあった。私の頭の中はコンピュータグラフィックス、コンピュータアニメーション一色だったといえる。

その「SIGGRAPH」から戻った直後だったと思うが、社長から「後で雪印のAさんがくる。君に頼みたいことがあるので同席するように」といわれた。
私の勤務先は従業員数人の小さな貿易商社だったが、行き掛かりは知らないもののAさんは雪印乳業(当時)○○工場の工場長だった。したがって顔は知っていたがそれまで挨拶程度で仕事の会話に加わったことはなかった。それが同席しろとはどういうことなのか、一瞬怪訝に思ったがそこはサラリーマンの気楽さですぐに忘れた(笑)。

雪印からの依頼は私にとって大変エキサイティングな内容だった。というか考えたこともないようなことだった。
それは同社がセンサー技術を応用して開発した動粘度モニタリングシステムの核となるRHEO CATCH (レオキャッチ)という粘度計を説明紹介するアニメーションを作ってくれというものだった。
1987年といえば30年前であり、アップルもそしてMacintoshもマイナーな存在だった。したがって企業が広告宣伝やアピールのために動画やアニメーションを作るとすれば広告代理店や専門の映像プロダクションに依頼してビデオ映像作品として制作するのが当然の時代だった。あるいはマスコミへの発表の場でもせいぜいプロジェクターやスライドによる告知しか考えられなかった。

それがどういう風の吹き回しかMacintoshのアニメーションとして作れないかという。
ひとつには社長がなにがしかの仕事を取りたくて、私の存在をオーバーに訴えたのかも知れない。事実私の個人としての名前は「MACLIFE」といった創刊したばかりの専門誌に載っていたし、ジャストシステムの図形処理名人「花子」のマニュアル本も出版されたばかりだが早くもベストセラーになっていたから針の穴のような狭い世界だとは言え知られる存在になっていた。


最初に問われたのは3分ほどのアニメーション制作で費用はどの程度かという点だった。その頃は前記したカラー版Macがやっと登場したばかりで高価なこともあって普及には些か時間がかかると思われていたし、カラー対応のソフトウエアも大変少なかったから一体型Macでモノクロの作品、それも9インチという小さな画面で作るしかなかった。後は画面をフリッカーが目立たないようにビデオ撮影して活用することを考えていたらしい。
ともかく私が雪印からの仕様を考慮した見積額は50万円だったと思うが、ビデオで制作するよりずっと安いと一円も値切られず契約となった。

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※1987年9月に納入したMacによる最初のアニメーション作品。成果物のバックアップフロッピーディスク


決まった大きな要因としては私がVideoWorks IIというアニメーションソフトで簡単な試作品を見せたからに違いない。何しろコンピュータアニメーションが目の前で描かれ、それが動くというシーンを見たことのある人など業界人以外にはまだまだいない時代だったから、それだけで驚かれた。

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※VideoWorks II は優秀なアニメーションツールで後にDirectorへと進化する


同社から新製品の粘度計カタログをいただき、何をどのようにアピールしたいのかを打ち合わせた結果半日程度でプロトタイプができた。
それは個人的に当時としては珍しいMacintosh用のビデオデジタイザやイメージスキャナなどの周辺機器が揃っていたこと、そしてVideoWorks IIの扱いに十分精通していたからだ。

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※VideoWorks II によるアニメーション画面例


微調整およびクライアントの要望を踏まえた変更は会社に導入されたMacintosh SEで即対応できた。
「ここはこうならないか」という要望希望を目の前で手直しして作品に即反映する様も驚かれた。ビデオ作品では編集でなんとかなる範囲の変更ならともかく撮り直しとなれば費用も時間も大幅に変わるからだ。

こうしてプレゼン用アニメーションは無事に納品となったし請求額もきちんといただいた。といってもサラリーマンの私の懐に入るものではないが(笑)。
このときの経験、インパクトは私にとって非常に大きなものだった。前記した「SIGGRAPH」で見た世界も含め、デジタル作品やソフトウェアの開発といったものが立派なビジネスになる事を確信した瞬間だった。
その2年後に私は会社を辞め、Macintosh用専門のソフトハウスを起業することになるが、まさしくVideoWorks IIによるアニメーション制作は人生の分岐点となった。


Apple II で5インチフロッピーのコピー作成を紹介

VisiCalcを起動しようとApple II など押し入れの奥にしまい込んでいる機器をセットアップしたついでといってはなんだが、Apple II とDISK II による5インチフロッピーディスクのコピー手順とその実際をご覧いただこうと動画を撮ってみた。しかし何をやるにもまずは忘れていることを思い出さなければならないのが面倒だ...。


現在のパソコンでなら、ボリュームにしろファイルにしろメディアによって多少のあれこれはあり得るもののその複製を作るのは簡単だ。しかしまだハードディスクといった周辺機器がユーザーのところまで降りていないApple II の時代はけっこう面倒な作業だった。
今回は懐古趣味といわれるかも知れないが、Apple II 時代主流のメディアであった5インチフロッピーディスクを丸ごとコピーする手順をご紹介したいと思う。

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※今回使用するApple II Plusとグリーンモニター、そして1台のDisk II。さらにDOS3.3のマスターディスクとブランクディスク


コピーしようとするオリジナルフロッピーは「DOS 3.3」のシステムディスクだ。当時もこのフロッピーディスクが頼りだったこともあり、ほとんどのApple II ユーザーはその複製を作って万一の場合に備えていた。
この「DOS 3.3」を未使用のブランクフロッピーディスクにそのままコピーしようというわけだが、勿論フロッピーディスクのコピーを作るのにはそれを読み書きできるディスクドライブが必要だ。したがってApple純正の Disk II に登場してもらうことにしよう。

まずシステム構成を記しておくと、Apple II Plusとグリーンモニター、そしてDisk II 1台だ。
事情に詳しい方なら、Disk II が2台あればコピーが楽だとご存じだろう。一方のディスクからオリジナルのシステムデイスク内容を読み、もう一方のディスクに入れたブランクフロッピーディスクへ書き込めばよい理屈だ。勿論...というか我が研究所にもDisk II は2台あるからそうすれば簡便だ。

ただしせっかく?のチャンスだ。当時Disk II ドライブは高価でドライブのコピー品まで登場したほどだからApple II ユーザーでもDisk II が1台でがんばった方も多いのだ。
ということで今回はディスクドライブ1台であえてコピーをやってみようと考えた。確かにひどく面倒だが、当時こうしたことに慣れてはいたものの現在の便利さといかに違うかを感じていただければ嬉しい。

さて実際、一連の手順は動画に収録したのでそれを参考にしていただきたいが、ここでは手順の概要を記しておきたい。
まずはDOS 3.3 のオリジナルディスクを使ってApple II をブートしてみる。
問題なく起動し "]" のプロンプトが表示し入力待ちのカーソルが点滅している。



※フロッピーディスクの複製を作る過程を動画でご紹介。はなかなかに面倒だったことがお分かりになるはずだ


ここでシステムディスクに収録されているコピープログラムを実行するわけだが、ここでは "]RUN COPYA" と入力してリターンキーを押す。
ちなみにここでApple II の詳しいコマンド云々を解説するつもりはないが、Apple II は整数BASICとApplesoftと呼ぶ浮動小数点BASICが使え、それぞれ切替て使うことができるが、プロンプトが "*" なら整数BASIC、 "]" ならApplesoftと区別がつく。
そして整数BASIC時にコピープログラムを走らせるには "RUN COPY" というコマンドになるが、Applesoftの場合は "RUN COPYA" となる。

するとコピープログラムが起動し、オリジナルディスクが入っているドライブのインターフェースカードスロット番号とドライブ番号を聞いてくる。SLOTは初期値の "6" なのでそのままリターンを押し、続いてのDRIVE番号も初期値の "1" なのでこれまたリターンキーを押して先に進む。

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※Disk II のインターフェースカードは#6スロットにセットしてある


続いて同じくデュプリケートするディスクのスロットと ドライブ番号を聞いてくるが、SLOTは同じく "6" のままリターンキーを押すが、DRIVE番号は "2" と表示されているものを キーボードから "1" と入力して変更する。
これで1台のフロッピードライブを使ってコピーする準備ができたことになる。

後は指示にしたがってフロッピーディスクドライブにマスターフロッピーとコピーフロッピーを入れ替えつつリターンキーを押していけばよい。
ただし入れ替えはかなりの回数を覚悟しなければならない。実際にカウントしたら18回で仕入していた。
コピーが終わると "DO YOU WISH TO MAKE ANOTHER COPY?" と表示されればコピーが終了したことを意味し、続けてコピーを行わない場合は "N" を入力してコピープログラムを終了する。

問題はブランクディスクに問題なくDOS 3.3がコピーされたかだ。これはブートしてみれば確認出来るわけだから、Disk II にコピーしたフロッピーディスクをセットしてApple II を再起動させれば一目瞭然だ。
幸いこの例では旨くコピーができようでDOS 3.3が正常に起動したのでこれでミッションは完了である。

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※コピーしたフロッピーディスクは正常に起動した


いまでは3.5インチのフロッピーディスクでさえ見たことがないユーザーが増えているという。ましてや5インチのフロッピーの扱いなど知る由もない方々も多いと思うので当時のオペレーションの一端を知っていただければと思う。
こうして古い機器をたまに使ってみると、いかに現在のパソコンが便利かをあらためて思い知らされる。それにしてもあれだけ夢中になって勉強したあれこれだが、忘れていることの多い事にも驚く。
楽をすればそれまでの苦労は簡単に忘れてしまうものなんですな。少なくとも私は...(笑)。



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プロフィール

appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員