驚かされたホテルのドアマンの対応とは?

先日「3000人の顔と名前を覚えたドアマンに聞く【簡単に顔と名前を覚えられる記憶術】」というウェブサイトを見て古い記憶が甦ってきた。記録を調べて見るとそれは1996年11月5日のことだったようである。


その日、日本経済新聞朝刊にアップルの全面広告が載った。それは当時のCEO ギルバート・アメリオ氏の大きな写真と共に「メーカーの理論より、ユーザーの実感の方が、はるかに正しい」というコピーが印象的だった。
実はその日はホテル・オークラでアップルジャパン主催のエグゼクティブミーティングがあり、来日したアメリオ氏も同席するということでデベロッパーの一人として私も招待を受けていた。

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※1996年11月5日、日本経済新聞朝刊に載ったアップルジャパンの全面広告。当時CEOのギル・アメリオ氏から直筆サインをいただいた


私は朝刊の広告を見ながらふと思いついた。この新聞を持参しアメリオ氏本人にサインをしてもらおうと...。
まあ実際にそうしたタイミングがとれるかどうかは会場に行ってみなければ分からないが、チャンスがあればよい記念になると思ったのだ。
結果は嬉しいことに一言二言会話ができ、握手もできたしサインも嫌な顔もせず笑顔で応じてくれた。
この辺のエピソードに関しては「前Apple社 CEO ギルバート・アメリオの思い出」に詳しいのでご参考にしていただければ幸いである。

さて本題だが、アメリオ氏のサインのことではない。
私は自分の会社から車でホテルに直交したが、残念ながらホテル・オークラを多々利用したことはなかったはずだ。過去に一般の客として出入りしたことはあったかも知れないが、馴染みだったとか定宿だったということではなかったから一見の客であった。

ハイヤーがエントランスに着くとさすがに一流ホテルだ。ベルボーイが「いらっしゃいませ」と開いた車のドアを押さえて笑顔で迎えてくれた。
私は会釈し、コートの裾に注意しながら車から降りフロント入り口へと向かった。
そこで初めて驚くべき体験をしたのである。

ドアは自動ドアだったと思うが、入ったその脇に中年のドアマンがいた。優雅な足取りで私の方へ向かってきた。そのときドアマンは「いらっしゃいませ松田様」といいながら手荷物を持ってくれた。
「お世話をかけます」といいながら私は「凄いな」と感激していた。
たかが名前を呼ばれただけではあるが、ドアマンとは当然のことながら初対面なのだ。これが度々利用していた御茶ノ水の山の上ホテルであれば顔と名を覚えて貰うほど利用していたから当然としてもこのホテルは繰り返すが一見であった。無論コートに名札がついていたわけではない(笑)。

前記したウエブのニュースでは3000人の顔と名前を覚えているドアマンの話だが、それ自体努力の賜でありサービス業としては素晴らしいことだと思うが、ドアマンはどこで私の名前と顔を知ったのだろうか。
意地の悪い私はドアマンがいた付近に馴染みのアップル担当者でもいて「あれは松田さんです」と耳打ちでもしているのかと注視したがそれらしい人物もいなかった。

ということは本日アップルのイベントがあり、当該時刻には多くの招待客がこのロビーへと足を踏み入れるということで、推測だがアップルから招待客の顔写真と名前といったリストがホテル側に渡され、それをドアマンが意識的に覚えたということ以外に考えられない。しかし招待客の数は500人にも上っていたのだからどうにも釈然としない。
著名な政治家とか芸能人であればともかく一般客の名前をそらんじる努力は仕事とはいえ大変なことに違いない。
「それがサービスなのだ」といってしまえばそれまでだが、これまで多くのこうした催事に参加してきたが、ドアマンからいきなり名前を言われたのはこの時だけでありその後は経験していない。




私の唯一のベストセラー「図形処理名人〜花子」物語

過日、知り合いの方々と著作の話題となったがその中で「一番売れた本は?」という質問を受けた。そういえばこれまで共著を含めると18冊ほど書籍を出している。それらの中で1人で書いた本は9冊あるが、一番売れた本はビギナーズ・ラックとでもいうべきか…処女作「図形処理名人〜花子」(技術評論社刊)だった。


今思えば1990年前後の時代はパソコン関連においても出版花盛りだった...。普通に考えたら1人では負えないほどの執筆依頼が多々舞い込んだのだから...。というわけで今回は私の処女作で1987年に出版した「図形処理名人〜花子」の話しをしたい。なぜなら本書は私の唯一のベストセラーとなった大変印象深い著作だからだ。

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※1987年6月1日出版「図形処理名人〜花子」技術評論社刊は13刷を記録するベストセラーとなった


1987年といえば私は小さな貿易商社のサラリーマンだった。ただしその10年前からマイコンやらパソコンという世界に足を突っ込み、懐具合が良かったこともあってPET2001、 Apple II、PC-9801、PC-100、IBM5550そしてMacintoshなどなどという数多くのパソコンを手元に置き、特にペイントソフトやコンピュータ・グラフィックスにかかわるあれこれを楽しんでいた。そしてCGにのめり込み、同年夏にはロサンゼルスのアナハイムで開催されたSIGGRAPH '87に参加するため初めて渡米するという暴挙にも出た(笑)。

話しはその1987年の年明けだったのではないかと記憶しているが、仕事中に技術評論社という出版社から電話をもらった。それまで同社とは無縁だったが「新しい本の執筆依頼をお願いしたいのでご足労いただけないか」という話しに私は反射的に腰を上げた。

たまたま当時の技術評論社へは徒歩で行ける距離だった。私の勤務する神田神保町から靖国通りを直進し九段下から左手に千鳥ヶ淵、右手に靖国神社をめざせばすぐ側だった。
その頃、本職の貿易業は低迷を極めていた反面、少しずつではあったが趣味として手を染めてきたパソコン関連のいくつかが望んだわけではないものの仕事として依頼が舞い込み始めていた。私はどうせ仕事をするなら面白くなければ意味はないし、サラリーマンとして時間が拘束されていることもあって個人でそうした依頼に向き合うことはできないからと社長を説得し "情報企画室室長" といったいい加減な名刺を作ってもらっていた...。したがって技術評論社からの依頼も仕事の可能性として日中に堂々と出かけることが出来た。

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※1986年前後だと思うが勤務先のデスクでくつろぐ筆者。後ろに私物を持ち込んだNEC PC-100とプリンターが見える


それまで私はMACLIFE誌の前身となった「MACワールド日本語版」への執筆などで関連の出版社に出入りはしていたが技術評論社は初めてだった。
編集担当の責任者として向かいあったのは大塚葉さんという女性だった。
意外だったのは執筆依頼というのはMacintosh関連の話しではなく数ヶ月後にジャストシステムからリリースされる「花子」というグラフィックソフトのいわゆるマニュアル本執筆依頼だったのである。

正直「PC-9801用のアプリなのか...」と少々がっかりしたが、要はパソコン雑誌でグラフィック関連記事を書いている私に目を付けてくれたらしい。そしてもしそのとき私がAppleやMacに拘っていたらこの1冊は生まれなかったしその後の数冊の機会もなかったに違いない。
ただし私はすでにその時期 NEC PC-9801を所有していたし一太郎も使っていた。またMS-DOSの基礎知識も持っていた。そしてなによりも「はじめて自分の名による書籍が世に出る」という事実に舞い上がっていたように思う。

条件などの概要をお聞きすると執筆期間は3ヶ月ほどあるという。さらに「花子」のベータバージョンの貸出は勿論、PC-9801を1台貸していただけるとのことだった。そうであれば1台に「花子」を走らせ、もう1台に一太郎をインストールすれば原稿書きのスピード向上はもとより正確さも増す...。
ということで私は喜んで「花子」執筆依頼をお受けすることにしたが、最大の問題はその執筆時間をどう捻出するかにあった。

本職はもとより、すでにMacintosh関連の原稿書き、それにパソコン通信「ニフティサーブ」のシスオペにも就任することになっていた。すでに睡眠時間は4時間ほどが続いていたからこれ以上削減は無理だった。考えあぐねた私は社長の了解を得てこの執筆を個人ではなく会社が請け負うことで話しを進めた。
それなら日中も時間が空いた際には堂々と原稿書きができることになる。それにだ...1冊千円ほどの本の印税は大した額ではないし初版本をどれほど刷るかはその時点で不明だったが知れたものだろう...。さらにこの本が売れるかといえば我ながらこれまた重版がかかるとはどうしても思えなかった。

私の興味は自書を生み出すただ一点にあった。それまで幾多の雑誌原稿を書いてきたが1冊丸ごと書籍になったものはなかったし自分の名が表紙に...というそのこと自体が原動力だったし信じて貰えないかも知れないが金はどうでもよかった。
その後、技術評論社と多々打ち合わせをしながら原稿書きに精を出したが、あるとき「花子のリリースが決まったのでそれに合わせて書籍を発刊したい」ということになった。しかしそれに合わせて...となると残された時間は1ヶ月ほどしかなくなっていた。

ともあれ内容については編集者のアドバイスもありわかりやすさを第一にと考えたし手抜きをしたつもりはないが、締切の関係上、突貫工事…やっつけ仕事になった「図形処理名人〜花子」はこうして1987年6月1日(私の誕生日の2日前)に出版された。

やはり見本誌をいただいたときは本当に嬉しかった。ただし私はこの処女出版で大きな誤算をしたことがわかった...。それは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。そしてその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。しかし私個人に「花子」の印税は1円也とも入ってこないわけだ。

正直「これがもし個人で引き受けていたら」印税全てを手にすることが出来たわけだが、反面個人契約だったら原稿を締切までに間に合わせることはできなかっただろうという現実も認識しなければならない。ただし負け惜しみでなく繰り返すが、当時は自身の名前が印刷された単行本が出版できたそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

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※「花子」の印税は一円たりとも懐に入らなかったが応接にMacintosh SEとLaserWriterを購入してもらった


「花子」はベストセラーになったからその後の影響も大きかった。別の出版社からも「花子」の単行本執筆依頼もあったし、秋葉原の九十九電機で「花子セミナー」もやるはめになった。

ともあれ「花子」執筆で一番の収穫はこれを機に技術評論社とのお付き合いがより深くなったことだ。続いてフロッピーディスク付き「図形処理名人『花子』の事例集」を出させていただいたし「マッキントッシュ実践操作入門」や紀田順一郎さんとの共著「FAX交友録〜MACの達人」、「QuickTimeの手品」や「マスコットの玉手箱」といった出版は勿論、編集部の川添歩さんとのご縁でMacの月刊誌「MacJapan」創刊にも立ち会わせていただいた。
あらためて振り返って見るとパソコンは私にとって “人と人を結びつけるハブ(HUB)” だったように思う。



Apple II 用 「Color Demosoft」オリジナル・カセットテープの使い方

手元に1本のカセットテープがある。カセット自体は何の変哲も無いものだがご覧の通り、ラベルには6色アップルロゴがあり "apple computer inc." という表記がある。そう、これは1979年Appleが出荷したカラーデモソフトが記録されているApple II 用オリジナル・カセットテープなのである。



Apple II だけではないが、パソコンが登場したばかりの黎明期は何もかも現在とは違った環境に甘んじるしかなかった。そのひとつがデータの外部記憶装置である。ユーザーがプログラミングしたデータを保存する場合に最初期にはフロッピーディスクもハードディスクも無論USBメモリもなかった。ではなにを使うのかといえば音楽用のカセットレコーダーおよびカセットテープだったのである。

こうした状況については以前「データ記録媒体としてのコンパクト・カセットテープ雑感」で詳しく述べたので繰り返さない。しかしその際にはApple 1のソフトウェアをターゲットしてカセットテープを当時のものと同じようにと復元してみたが、今回のカセットテープはApple II 用の本物...オリジナルである。

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※片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている


ということでここではApple II に限ってだが、前記事の補足という意味も含めて接続やら簡単な使い方といったことをご紹介してみたい。なお今回手に入れたカセットテープの中身だが、片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている…はずだ。

ここでは正真正銘30数年ぶりにカセットテープからApple II へプログラムをロードして走らせてみるが、時の流れは非情とでもいったら良いのか、当時あれほど日々繰り返し夢中になった手順が思い出せない(笑)。
そうした準備の前段階はハードウェアの用意と接続だ。今回はApple II Plusを引っ張り出してみたが、これにNTSC小型テレビ、そしてカセットテープレコーダー(モノラル)を準備した。

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※今回使用したハードウェアはこの三種


さて、Apple II とテレビの接続とか電源がウンタラは当然のことなので省くが、カセット・レコーダーとの接続に関しては、Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されているので、その “IN” とカセットコーダー側のモニター(出力)端子をミニプラグ・ケーブルでつなぐ。

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※Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されている


では実際にカセットテープに記録されているデータをApple II へ読み込むにはどうしたらよいのか…。この辺のことをあらためて認識するといかに現在のMacやらが使いやすいかが身にしみてわかる。
具体的な手順だが、Apple II Plusは使用環境における様々な初期状態があり得るもののここでは本体のみで電源投入と共にAppleSoft BASICが起動していることを前提にしよう。したがって起動後の初期画面を見ると “ ]” の形をしたプロンプトが表示し入力待ち状態になっているはずだ。

ここでカセットテープをレコーダーにセットすると共にApple II のキーボードから “LOAD” の文字を入力する。Apple II は標準では大文字しか使えないのでシフトキーうんぬんへの気遣いは不要だ。

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※プロンプトの後に "LOAD" と入力


ただしこのカセットレコーダーからプログラムデータを読み込むにしてもコンピュータ側でレコーダーのプレイとかストップを制御できるわけではないことにお気づきだろうか。したがって “LOAD” と入力したまままずはレコーダーの再生ボタンを押してテープを走行させてからApple II の “RETURN” キーを押す。
これでレコーダーのテープ走行に準じてApple II 側にプログラムが正常に読み込まれると画面は改行され、再度プロンプトが表示しコマンド待ちとなる。そこでまだカセットテープが回っているならストップさせる…。

ただしその際、レコーダー側の出力ボリュームが適切でなかったり、テープ走行に異常があったりすれば読込はエラーになるが、そんなことは多々あるからして気落ちせずまた再度はじめからやり直すことになる。

こうして最初に “Color Demosoft” をLOADして走らせてみた。プログラムのスタートはプロンプトに続き “RUN” と入力し“RETURN” キーを押す。プログラムが起動し “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” とタイトル表示のスタートアップ画面が表示されるが、無論テキストだけでイラストとか写真はない(笑)。

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※ “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” スタートアップ画面


ここには4つのメニューが用意されているが、3番の “KALEIDOSCOPE” を見てみたいのでキーボードの “3” を押して“RETURN” キーを押すと “KALEIDOSCOPE” すなわちカラーの万華鏡がスタートする。

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※ “KALEIDOSCOPE” はまさしく万華鏡!


表示スピードやらのコントロールはできず、ただ見ているだけだ(笑)。それでも当時はApple II の魅力を最大限に示すデモであり、例えば1977年4月に開催された第1回ウエストコースト。コンピュータ・フェアー(WCCF)でAppleが初めてApple II をお披露目した際、大型モニターに映し出した “KALEIDOSCOPE” もこれと類似のものだったに違いない。



※ スタートアップ画面から “KALEIDOSCOPE” が表示し始める様子


もうひとつのプログラムは “Little Brick Out” だが、これは「ブロック崩し」ゲームとして一世を風靡したものだ。無論Apple II に読み込ませる手順は前記と同じだが、テープを裏返してレコーダーにセットし、まずは念のために巻き戻す。そして実行だ…。
こちらは無事読込ができて走らせてみるとスタートアップと簡単な解説の画面が表示されるがゲームを走らせれば何とも簡素なブロック崩しゲームの画面が現れる。ただしゲームを行うにはパドルといった類のコントローラーが必要だが、手近に見つからなかったので今回遊びは断念した(笑)。

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※至極シンプルなブロック崩しゲームがスタートする


ということで読み込み時に数度エラーも出たが、入手したカセットテープのプログラムは基本的に破損や消滅しておらず使えることがわかった。
確かに一般音楽用カセットテープにコンピュータのプログラムを保存して使う…といった類のことはいまでは思いもよらないことかも知れないが、安価にそして手軽な外部記憶メディアとして当時は不動の地位を占めていたのだ。
しかしその後、パーソナルコンピュータの外部記憶メディアは5インチのフロッピーディスク、そして3.5インチのフロッピーディスクへと変わり、その後はより大容量を実現するためにMOドライブやら数種のメディアを体験しながらハードディスク利用あるいはUSBメモリなどの活用に進化してきた。そして現在ではクラウドへの保存も珍しいことではなくなっているが、果たして今後30年とか40年後に現在我々が当たり前に便利だと使っている外部記憶メディアは利用できる形に残っているのだろうか…。
そう考えるとこのカセットテープという正しくローテクな記憶媒体は俄然素晴らしく思えてくる。

ちなみに今回テストした1979年Apple Computer製のカセットテープはテープの長さは3分以内という短い物を使っている。単にコストということではなく単一のプログラムを記録するカセットテープは一般音楽用の30分とか60分のものだと使いづらいのだ。なぜなら巻き戻しや早送りにも時間がかかるし、30分のテープ片面に複数のプログラムを収録することは物理的に可能でもランダムアクセスができないから頭出しに苦労するわけで、秋葉原のマイコンショップなどでも3分といった音楽用カセットではあり得ない、コンピュータ専用のカセットテープを販売していたものだ。

当ブログで新しく連載を始めた「[小説]未来を垣間見たカリスマ ~ スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第7話 WCCF前夜」の中でWCCFで展示するデモ用ソフトを複製するためのカセットテープをクリス・エスピノサが買いに行くとき、ビル・フェルナンデスが「カセットテープは30分のにしてくれよ。いや、もしあったらもっと短いのを頼む。60分や90分はダメだぞ!使いづらいからな」と叫ぶのはそうした理由なのだ...。

では私自身、このカセットレコーダーをコンピュータの外部記憶装置としていつ頃まで使っていたのかを確認してみた。使い勝手はそれぞれ違うものの、ワンボードマイコンの富士通 L-Kit8は1977年末から1979年まで使ったがその間はずっとカセットだった。
1978年12月に購入したコモドール社のPET2001は本体にカセットテープレコーダーを装備していたから1980年秋口に専用のデュアル・フロッピーディスクシステムを購入するまでカセットを使った。

Apple II は1982年に手に入れたが、同年8月にDisk II を手に入れたから比較的早くフロッピーディスクを使い始めた方なのかも知れない。しかしソフトウェアはまだまだカセットテープで供給されたものがあったから、フロッピーとカセットはしばらくの間共用することになった。
ただし他機種では1983年に登場したハンドヘルドコンピュータ HC-20はマイクロカセットだったし1983年にビデオとコンピュータ映像をスーパーインポーズしたいと手にしたシャープのX1もカセット駆動だった。

ちなみに "カセット (cassette)" とは小さな容器・箱を意味し "小さな~" をつけると宝石箱などといった意味もあるという。いまではフロッピーディスクもそうだが、カセットテープのひとつふたつは価格的にも貴重とは思わないが、1980年代前後においてコンピュータの外部記憶メディアとしてのカセットテープ...特にゲームなどが書き込まれて販売されていたものたちは私らにとってそれこそ宝石箱に入れておきたいほど大切なものだったのである。




Apple 、1992 Who's Who〜Pacific Market Forum〜The Power of Partnershipを手にして

久しく忘れていたひとつの資料が出てきた。確認して見ると2006年11月に「Pacific Market Forumに見る『1992 Who's Who』の思い出」と題して一文を載せているが、今回は当時の極東マーケット名簿として作られたこの資料に再度目を向けてみよう。


リングで綴じられた407ページの名簿資料はその表紙にあるとおり1992年のMACWORLD Expo San Franciscoに合わせて開催された「Pacific Market Forum」向けにと制作されたものだ。
Expoのどのくらい前だったかはすでに記憶にないが、写真とともに住所やらの企業情報を送ってくれとアップルジャパンから依頼が入ったことは覚えている。

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※アップルが1992年MACWORLD Expo San Francisco時に開催された「Pacific Market Forum」向けに制作したPacific Marketに従事する人たち407人の名簿「1992 Who's Who」


そのときにはどのようなものに使われるのかははっきりしなかったがExpoの最中、名物のケーブルカーが通るパウエル・ストリートをノブヒルと呼ばれている市内で一番高い地域に向かうとあるフェアモントホテルで「Pacific Market Forum」は開催され、その場で手渡されたのだと思う。

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※私はフェアモントホテルの一室で行われたミーティングに駆り出された。壇上向かって右が筆者


1992年当時のアップルの市場、特に日本市場の規模を知るにはうってつけの資料の1つだと思うが、日本市場はまだまだ小さなマーケットでしかなく米国本社直属の組織ではなかったのである。したがって日本のマーケットはオーストラリアなどを含む極東地域というカテゴリーの一員だった。

「1992 Who's Who」はその名の通り、この極東地域のマーケットでアップルのビジネスをしているキーマンたちの名簿という意味合いなわけだ...。そして国別と共にアップルの社員かそれ以外のコンサルタント、デベロッパー、パブリッシャー、ディストリビューター、ローカリゼイション・エキスパート、その他というビジネスカテゴリーによる分類が顔写真と共になされている。
さらに所属・タイトル・住所は勿論、電話番号やFAX番号、そしてAppleLinkのIDなど、お互いに即連絡を取り合えるデータが掲載されていた。

ただし時代とは言え今から思えばアップルが作るアイテムとしては高級感もなければユニークさもない。針金のリング綴じ、単色の印刷はまだしも極々当たり前の仕様というかデザインだ。アップルロゴも表紙に1箇所小さな白抜きの単色で使われているだけだし説明不足と考えた補足なのだろう、表紙の裏にはカテゴライズの説明の紙が貼られている。

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※補足事項が表紙裏に貼られている


過日若い方に見せたところ、使われている顔写真を「雑な印刷ですね」と評したのが印象に残っている。確かに「1992 Who's Who」407ページのそれぞれは当時のDTPでレイアウトされ、LaserWriterで出力したものを版下として使ったのではないか...。
ただし顔写真が雑と見えるのは時代としか言いようがない。なぜなら当時は市場にデジタルカメラというものがなく、あのアップル純正のQuickTake100でさえ1994年2月のリリースだった。

したがってアップルの依頼に応じた人たちが送ったのは一般的な銀塩カメラで撮り、プリントしたものだったはずだ。この網点が粗く見える写真は当時のMacintoshとLaserWriterによるページレイアウトの限界だったということになる。
勿論一般の印刷会社に依頼すればずっと綺麗な印刷物となったに違いないが、想像するに予算の問題はもとより「Pacific Market Forum」当日に間に合わせるため苦肉の策だったのかも知れない。

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※当時パシフィック・マーケットの責任者だったSatjiv Chahil氏のページ


また各人の写真だが、アップルジャパンとしては武内重親氏、原田永幸氏らの顔があり108ページには私も載っている。とはいえ当時どれほどのデベロッパー、ディストリビューターらがいたのか分からないが穴だらけに思える。中には目を瞑った写真の人もいて「なんだかなあ」と思ったものだ。さらに間に合わなかったのか、あるいは顔出しが嫌だったのかは不明だがかなりの人数の写真が載っていない。

ということで本来はパシフィック・マーケットでビジネスを営む企業や代表者、責任者たちの名簿を作りそのネットワーク化を図ることでアップルの市場をより活性化すべきと企画された「1992 Who's Who」だったはずが、正直一度も仕事の一環としてこのページを開いた記憶はない。

そもそも「1992 Who's Who」はパシフィック・マーケットのどこの誰が企画して音頭取りをしたのか不明だが、発想は良いとしても詰めの甘さと時間的余裕のない企画といったいわばアップルジャパンのいつもの弱点と危なっかしさを見せられた気がして個人的には妙な納得感を持ったものだった。
そんな一冊の名簿だが、現在まで残っているのはアップルの資料だから…という一語に尽きる。いまでは当該「Pacific Market Forum」に出席したことと共によい思い出である。




パソコンで絵ひとつ描くにも長い歴史があった!

絵を描くことが好きだった私はマイコンやパソコンを手にしたとき、いつの日かコンピュータで絵を描くことができる時代になるに違いないと願望を持って接してきた。確かにApple II にしてもそれらしいことはできたが書いたものを写真に撮って友人に見せたら「汚ったねぇ」の一言で返された...。


今回は大ざっぱではあるが、パソコンで絵を描こうとした個人的な歴史をご紹介したい。
1977年にワンボード・マイコン 富士通L Kit-8を手にしてBASICを走らせたとき、最初にやったことのひとつがアスタリスクをモニター上に配置して顔を描こうとしたことだ。まあ、絵とは言えないかも知れないが振り返ればこれがコンピュータで計算だのゲームだの…ではなく、何らかの意志を持ってパターンを描いた最初の作業だった。

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1978年春、BASICが走った富士通L-Kit8でアスタリスクをTVに打ち出して人の顔を作った


その翌年にコモドールのPET2001を買ったが、グラフィカルなコンピュータではなかったしモニターはモノクロだった。したがって人の顔は勿論なんらかのパターンを描くにはキーにアサインされていたキャラクタを組み合わせて表現するしかなかった。

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※コモドールPET2001一式(上)とアスキー誌に載った「モンタージュゲーム」(下)。キーにアサインされているキャラクタを組み合わせてパターンを描いた例


それから4年後の1982年、待望のApple IIを手にした。グラフィックモードは低解像度と高解像度の2種類を装備していたが低解像度は15色、高解像度の場合は6色(初期モデルは4色)というカラー表示が可能だった。そのカラー表示はそれまでモノクロの画面しか使えなかったパソコンの印象および実用性を大きく変えた。

このカラー表示機能を受けて周辺機器もゲームパドルといったものだけでなく多彩な製品が登場するようになった。例えばバーサライターという原稿をトレースする一種のグラフィックタブレット、ライトペンシステム、さらにはビデオカメラ(モノクロ)から映像を取り込むことが出来るデジセクターといったビデオデジタイザまで登場する。

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※Apple II 用のバーサライター(上)とライトペンシステム(上)


いまではタブレット類はもとより、なによりもデジタルカメラで撮影した映像を簡単にMacやiPadに取り込んで画像処理できるが、当時は無論デジタルカメラもなく、いわゆる自然画像をパソコンに取り込むだけでも数十万円の予算が必要だったしその解像度は当然Apple II のそれに依存した。

またApple II のカラーは色の滲みも目立ち、現在のフルカラーのように写真と見紛うクオリティを求めることなど夢のまた夢の時代だった。それでもライトペンやバーサライターあるいはビデオデジタイザで様々な試みを行い、自分なりに納得する絵を描いたつもりだが、パソコンの限界や制約を知らない友人知人たちに見せると必ず「汚いカラーだなぁ」と酷評されたものだ(笑)。
やっとカラーで絵を書けたと喜んでいた私は「ムッ!」としたが、冷静に見ればはみ出た塗り絵みたいな代物であることは確かだった。

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※Apple IIのビデオデジタイザ(上)でモジリアーニの絵を取り込み前記ライトペンで彩色した例(下)


文字通りパソコンで絵らしいものが描けそうだと思ったのは1983年に購入したNEC PC-100だった。512色の内16色をセレクトし、720×512ドットの高解像度をサポートした16ビットパソコンはやっと自分の長い間の思いを叶えてくれそうだと喜んだ。なにしろ翌年の1984年1月に発表されたAppleのMacintoshは9インチという小さなディスプレイはともかく相変わらずモノクロだったから...。

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※1983年登場したNEC PC-100


このPC-100がPC-9801のように正常進化したら、もしかして私はMacintoshを捨てたかも知れなかったがメーカー側の都合というか様々な確執からPC-100はその後のアップデートは期待できず埃を被るしかなかったのである。
それでもカラーのコンピュータグラフィックの魅力に開眼した私はMacintoshを使いつつ、PC-9801用のカラーグラフィックソフトや周辺機器を手当たり次第に確認した。PC-9801用のビデオデジタイザやカラービデオ入力をサポートした Z's STAFF + PlusKit Level-2 といったアプリケーションなどなどである。

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※PC-9801用グラフィックソフト「Funny」1985年(上)と「Z's STAFF」1986年のサンプル画


さらにアウトプット環境も揃えたいとインクジェットカラープリンタまで揃えるハメとなる。それでもドットが認識できる画質に満足できなかった私は1987年6月、サピエンスという会社まで出向きPC-9801用のフレームバッファボード、エプソンのGT-3000カラースキャナなどを揃えた結果やっと写真画質の映像を手に入れた。

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※PC-9801用のカラービデオ入力をサポートした「Z's STAFF」と「Pl;usKit Level-2」によるカラー入力システムを用意した(1986年)


しかし画面に表示するだけでデータの二次利用、すなわち加工や編集を自在に可能とする環境ではなかったため画質は評価したものの急速に興味を失っていく。

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※PC-9801用、サピエンス社製フレームバッファとエプソンGT-3000カラースキャナでやっと写真画質に迫った(1987年)


その空虚な心の穴を埋めようと本格的なコンピュータ3Dを可能とする高価なPersonal LINKSまで手に入れ、その勢いで米国アナハイムで開催されたSIGGRAPH '87にまで参加することになった。1987年のことである。

そのSIGGRAPHから戻った直後、事前に注文しておいたMacintosh II が届いた。Apple最初のカラー機種である。当時ワークステーション級のパワーを持つとされたスーパーパソコンだったがそのカラーは1670万色からセレクトした256色を同時表示する能力でしかなかった。

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※Macintosh II がリリースされた直後に出回ったサンプル画例


この意味を...限界を言葉で説明するのは非常に難しいが、例えば結婚式で新郎新婦がそれぞれ黒の正装と純白のウエディングドレスを着た写真をカラーイメージスキャナでデジタル化することを想像していただきたい…。

いまでは何の衒いもなく純白のウエディングドレスも黒いモーニング姿も美しく再現できるが、当時は256色しか同時に使えなかった。純白のウエディングドレスも黒のモーニングも写真をよく見るまでもなく繊細なレベルで多くの階調を持っているが、その自然さは256色では表現できないのだ。

どういうことかといえばウエディングドレスやモーニングの一部に目立つ色飛び、色違いが生じて見られたものではなくなってしまうのである。さらに衣裳にカラーパレットのほとんどを取られた結果肝心の新郎新婦の顔...肌色まで無残な結果になってしまう。これが256色という限界の仕打ちだった。

一般的な景色やらを表現するときには256色もあればなんとか自然に見えたものもこうした極端な例では実用とならなかったのだ。
ちなみに私の会社では ColorDiffision というこの256色のカラーパレットをユーザーが任意にコントロールできるアプリを開発したり、カラースキャナ用のアプリ ColorMagician にも同様の機能を搭載し、優先するカラーとその数を調整できるようにした。

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※ColorMagicianによる256色カラーパレット編集機能


これにより前記結婚式の写真の場合だと、人肌の色および新婦を美しくデジタル化する点にカラーパレットのウエイトを優先的に多く取ることでまずまず自然で美しい花嫁姿をデジタル化できるようになった。ただし限界を突破したわけではないため、その余波は新郎のモーニング姿に向かってしまい、その黒い衣裳には色飛びが顕著となった。

ただしMacintoshにはPhotoshopをはじめ次々と優秀なグラフィックツールが登場し、その使い勝手は他のパソコンを凌駕していく。
結果現在ではハードウェアもそしてソフトウェアも黎明期と比較して信じられないほど安価にもなったしその処理能力は理想に近づいている。手法やアプローチはなんであれ、いまやっと絵画はもとより写真を素材にした表現も自在にできるようになった。しかし気がついたら私がコンピュータを手にしてからすでに40年にもなろうとしている…。

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appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員