VisiCalc をApple II で起動!

少々時間が取れたのでずっと懸案事項のひとつだったことをやってみた。それはすでに8年も前になるが、資料としてeBayに出品されていたApple II 用の表計算ソフト「VisiCalc」のパッケージを手に入れたものの、これまで一度も起動させていなかったことだ。


「VisiCalc」に関しては旧記事「Apple II 用として開発された表計算ソフト『VisiCalc』再考」に詳しいので繰り返さないが、現Excel (エクセル)の発端となった画期的なアプリケーションであり、為にApple II のキラーアプリケーションとしてApple II の売上げにも大きく貢献したことが知られている。
なにしろしばらくの間「VisiCalc」はApple II 専用だったのである。

私の手元にある「VisiCalc」のパッケージはフェイクレザーの3穴バインダ形式になっているものでリリースは1981年、パーソナルソフトウェア(Personal Software)社から発売となっている。なお同社はVisiCalcの成功を確信した後、社名をビジコープ社と変えているから、手元のパッケージはまだ販売初期のものということになる。
対象は “Apple II & II Plus 48K 16Sector“ と明記された文字通り、Apple II 版だが、すでにオリジナルディスクは無くバックアップディスクしか残っていない。しかしマニュアルやリファレンスカード、保証書などは当時のまま残っている。

今回「VisiCalc」を起動してみようと用意した機材は以下のものだ。

・Apple II plus
・DISK II
・モニター (Apple IIc 用のグリーンモニター)

Visicalc_system.jpg

※今回VisiCalcを起動するために用意した機材


この5インチのフロッピーディスクにバックアップコピーがいつ作られたかは不明だが、当該パッケージを入手した最初のユーザーが作ったとすれば、購入からそんなに時間は経っていないうちにバックアップを取って置いたと考えて不自然ではないだろう。なにしろフロッピーディスクは磁気にも埃あるいし湿気などにも弱いから、私なども手に入れたソフトウェアのバックアップはなるべく早めに作っておくという習慣をつけていたくらいなのだから...。
といえばすでに30年以上は有に経っているわけで、この一枚限りの「VisiCalc」が起動しないとすれば諦めるほかはない。

今回の検証は、当該フロッピーが正常に起動するかどうかにかかっているが、旨く動作したなら当時の使い勝手はどのようなものだったかを思い出してみたいと考えた。
動いたからと言って、まさか「VisiCalc」を実用として使ってみようなどと考えたわけではなく、感覚的にも最新のExcelなどとどれほど違うのか、あるいは世界初の表計算ソフトの実力を再評価してみたいと考えたに過ぎない。

無論私自身「VisiCalc」が発売された時代にリアルタイムに使ったユーザーの一人だった。ただし白状すると正直いま思うに表計算ソフト、スプレッドシートというコンセプトがどのようなものなのかを深く考えなかったようだ。
ために当初は価格が安いからと「MagiCalc」という二番煎じの製品を買ったこともあった...。

さて、前記した機材を押し入れの棚から取りだしてセットアップすることからはじめる。それぞれが皆古い製品ばかりだから、いつ故障してもおかしくないわけで机上に置くのも、その取り扱いにも自然に丁寧になっている自分がいる。
ただしセットアップといっても難しい事はまったくない。

まずはApple II の蓋を開け、スロットに刺さったままにしているDISK II インターフェースカードにDISK II のケーブルコネクタを差し込み蓋を閉める。
モニターをApple II の蓋の上に置き、Apple II 本体とモニター共に電源コードをセットしてコンセントに繋ぐというこれだけだ。

いよいよフロッピーディスクをDISK II にセットして起動してみる。例え起動しなくても何の問題もないはずなのにやはりこうしたことは些か緊張するものだし反面期待も大きい。
DISK II の扉を閉めたらモニターの電源を入れ、続いてApple II 背面にある電源スイッチをONにする。
「カタカタカタカタ...」
懐かしいDISK II が音を立てたと思ったら、あっと言う間に初期画面がモニターに表示した。
問題なく起動したようだ。



※ユーザーズガイドからフロッピーディスクを取りだして起動させる


早速Apple II のキーボードからいくつかのセルに文字列や数値を入力しようとするが、そこはExcelではないわけで(笑)、全くといってよいほどコマンド類は忘れている。
それにさすがのApple II plusも問題なく動作しているものの、キーボードは些かチャタリング気味であるしキーストロークが現在のキーボードとはまったく違うので打ったつもりが入力されていないということもある。



※起動後に以下の基本中の基本をオペレーションしてみた


ともあれ、ユーザーガイドにある入力例の基本中の基本をそのままトレースしてみた。
こんな感じである。なお表記はユーザーガイドに準じている。

>A1®
SALES → 100®
>A2®
COST → .6*B1®
>A3®
"-GROSS- → +B1-B2®
>B1®

現在ExcelやNumbersといったアプリを使っている方なら、なにをしているのかはご想像がつくものと思う。
一応簡単な説明をさせていただくと

>A1     特定のセルへの移動を意味する。この場合は当然1行目のA列を意味する
®      リターン
→       セルをひとつ右へ移動
SALES    テキスト入力。COSTとか-GROSS-も同様。
       ただし-GROSS-の前に " が付いているのは - は演算記号ではなく文字列であることを宣言するため
.6*B1    計算式。B1の値に 0.6 を乗じた値を算出する
+B1-B2   計算式。B1の値 から B2の値をマイナスすることを意味する

勿論、この例の場合は「SALE = 100」から「COST」を引いた計算結果は「40」だが、B1の値である100を200にしたとすれば、答えはそのコストである6割を差し引いた80に変わる。また変数を扱う事もできる。
ただし現在の表計算ソフトとは違い、罫線機能はない。したがって一行を使い例えば = や - などを入力して罫線としなければならない。

個人的には今もってExcelなど出来ることなら使いたくないと思っている一人だが、本当に久しぶりに「VisiCalc」に対面してみると数行テキストや数値を入力するだけで肩が凝って疲れてしまった。
というわけで、「VisiCalc」は進化や変化が激しいコンピュータの世界におけるひとつのエポックメイキングであり、起動する現物は時代を正確に伝える証拠でもある。
今後も大切に保存したいと考えている。



驚かされたホテルのドアマンの対応とは?

先日「3000人の顔と名前を覚えたドアマンに聞く【簡単に顔と名前を覚えられる記憶術】」というウェブサイトを見て古い記憶が甦ってきた。記録を調べて見るとそれは1996年11月5日のことだったようである。


その日、日本経済新聞朝刊にアップルの全面広告が載った。それは当時のCEO ギルバート・アメリオ氏の大きな写真と共に「メーカーの理論より、ユーザーの実感の方が、はるかに正しい」というコピーが印象的だった。
実はその日はホテル・オークラでアップルジャパン主催のエグゼクティブミーティングがあり、来日したアメリオ氏も同席するということでデベロッパーの一人として私も招待を受けていた。

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※1996年11月5日、日本経済新聞朝刊に載ったアップルジャパンの全面広告。当時CEOのギル・アメリオ氏から直筆サインをいただいた


私は朝刊の広告を見ながらふと思いついた。この新聞を持参しアメリオ氏本人にサインをしてもらおうと...。
まあ実際にそうしたタイミングがとれるかどうかは会場に行ってみなければ分からないが、チャンスがあればよい記念になると思ったのだ。
結果は嬉しいことに一言二言会話ができ、握手もできたしサインも嫌な顔もせず笑顔で応じてくれた。
この辺のエピソードに関しては「前Apple社 CEO ギルバート・アメリオの思い出」に詳しいのでご参考にしていただければ幸いである。

さて本題だが、アメリオ氏のサインのことではない。
私は自分の会社から車でホテルに直交したが、残念ながらホテル・オークラを多々利用したことはなかったはずだ。過去に一般の客として出入りしたことはあったかも知れないが、馴染みだったとか定宿だったということではなかったから一見の客であった。

ハイヤーがエントランスに着くとさすがに一流ホテルだ。ベルボーイが「いらっしゃいませ」と開いた車のドアを押さえて笑顔で迎えてくれた。
私は会釈し、コートの裾に注意しながら車から降りフロント入り口へと向かった。
そこで初めて驚くべき体験をしたのである。

ドアは自動ドアだったと思うが、入ったその脇に中年のドアマンがいた。優雅な足取りで私の方へ向かってきた。そのときドアマンは「いらっしゃいませ松田様」といいながら手荷物を持ってくれた。
「お世話をかけます」といいながら私は「凄いな」と感激していた。
たかが名前を呼ばれただけではあるが、ドアマンとは当然のことながら初対面なのだ。これが度々利用していた御茶ノ水の山の上ホテルであれば顔と名を覚えて貰うほど利用していたから当然としてもこのホテルは繰り返すが一見であった。無論コートに名札がついていたわけではない(笑)。

前記したウエブのニュースでは3000人の顔と名前を覚えているドアマンの話だが、それ自体努力の賜でありサービス業としては素晴らしいことだと思うが、ドアマンはどこで私の名前と顔を知ったのだろうか。
意地の悪い私はドアマンがいた付近に馴染みのアップル担当者でもいて「あれは松田さんです」と耳打ちでもしているのかと注視したがそれらしい人物もいなかった。

ということは本日アップルのイベントがあり、当該時刻には多くの招待客がこのロビーへと足を踏み入れるということで、推測だがアップルから招待客の顔写真と名前といったリストがホテル側に渡され、それをドアマンが意識的に覚えたということ以外に考えられない。しかし招待客の数は500人にも上っていたのだからどうにも釈然としない。
著名な政治家とか芸能人であればともかく一般客の名前をそらんじる努力は仕事とはいえ大変なことに違いない。
「それがサービスなのだ」といってしまえばそれまでだが、これまで多くのこうした催事に参加してきたが、ドアマンからいきなり名前を言われたのはこの時だけでありその後は経験していない。




私の唯一のベストセラー「図形処理名人〜花子」物語

過日、知り合いの方々と著作の話題となったがその中で「一番売れた本は?」という質問を受けた。そういえばこれまで共著を含めると18冊ほど書籍を出している。それらの中で1人で書いた本は9冊あるが、一番売れた本はビギナーズ・ラックとでもいうべきか…処女作「図形処理名人〜花子」(技術評論社刊)だった。


今思えば1990年前後の時代はパソコン関連においても出版花盛りだった...。普通に考えたら1人では負えないほどの執筆依頼が多々舞い込んだのだから...。というわけで今回は私の処女作で1987年に出版した「図形処理名人〜花子」の話しをしたい。なぜなら本書は私の唯一のベストセラーとなった大変印象深い著作だからだ。

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※1987年6月1日出版「図形処理名人〜花子」技術評論社刊は13刷を記録するベストセラーとなった


1987年といえば私は小さな貿易商社のサラリーマンだった。ただしその10年前からマイコンやらパソコンという世界に足を突っ込み、懐具合が良かったこともあってPET2001、 Apple II、PC-9801、PC-100、IBM5550そしてMacintoshなどなどという数多くのパソコンを手元に置き、特にペイントソフトやコンピュータ・グラフィックスにかかわるあれこれを楽しんでいた。そしてCGにのめり込み、同年夏にはロサンゼルスのアナハイムで開催されたSIGGRAPH '87に参加するため初めて渡米するという暴挙にも出た(笑)。

話しはその1987年の年明けだったのではないかと記憶しているが、仕事中に技術評論社という出版社から電話をもらった。それまで同社とは無縁だったが「新しい本の執筆依頼をお願いしたいのでご足労いただけないか」という話しに私は反射的に腰を上げた。

たまたま当時の技術評論社へは徒歩で行ける距離だった。私の勤務する神田神保町から靖国通りを直進し九段下から左手に千鳥ヶ淵、右手に靖国神社をめざせばすぐ側だった。
その頃、本職の貿易業は低迷を極めていた反面、少しずつではあったが趣味として手を染めてきたパソコン関連のいくつかが望んだわけではないものの仕事として依頼が舞い込み始めていた。私はどうせ仕事をするなら面白くなければ意味はないし、サラリーマンとして時間が拘束されていることもあって個人でそうした依頼に向き合うことはできないからと社長を説得し "情報企画室室長" といったいい加減な名刺を作ってもらっていた...。したがって技術評論社からの依頼も仕事の可能性として日中に堂々と出かけることが出来た。

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※1986年前後だと思うが勤務先のデスクでくつろぐ筆者。後ろに私物を持ち込んだNEC PC-100とプリンターが見える


それまで私はMACLIFE誌の前身となった「MACワールド日本語版」への執筆などで関連の出版社に出入りはしていたが技術評論社は初めてだった。
編集担当の責任者として向かいあったのは大塚葉さんという女性だった。
意外だったのは執筆依頼というのはMacintosh関連の話しではなく数ヶ月後にジャストシステムからリリースされる「花子」というグラフィックソフトのいわゆるマニュアル本執筆依頼だったのである。

正直「PC-9801用のアプリなのか...」と少々がっかりしたが、要はパソコン雑誌でグラフィック関連記事を書いている私に目を付けてくれたらしい。そしてもしそのとき私がAppleやMacに拘っていたらこの1冊は生まれなかったしその後の数冊の機会もなかったに違いない。
ただし私はすでにその時期 NEC PC-9801を所有していたし一太郎も使っていた。またMS-DOSの基礎知識も持っていた。そしてなによりも「はじめて自分の名による書籍が世に出る」という事実に舞い上がっていたように思う。

条件などの概要をお聞きすると執筆期間は3ヶ月ほどあるという。さらに「花子」のベータバージョンの貸出は勿論、PC-9801を1台貸していただけるとのことだった。そうであれば1台に「花子」を走らせ、もう1台に一太郎をインストールすれば原稿書きのスピード向上はもとより正確さも増す...。
ということで私は喜んで「花子」執筆依頼をお受けすることにしたが、最大の問題はその執筆時間をどう捻出するかにあった。

本職はもとより、すでにMacintosh関連の原稿書き、それにパソコン通信「ニフティサーブ」のシスオペにも就任することになっていた。すでに睡眠時間は4時間ほどが続いていたからこれ以上削減は無理だった。考えあぐねた私は社長の了解を得てこの執筆を個人ではなく会社が請け負うことで話しを進めた。
それなら日中も時間が空いた際には堂々と原稿書きができることになる。それにだ...1冊千円ほどの本の印税は大した額ではないし初版本をどれほど刷るかはその時点で不明だったが知れたものだろう...。さらにこの本が売れるかといえば我ながらこれまた重版がかかるとはどうしても思えなかった。

私の興味は自書を生み出すただ一点にあった。それまで幾多の雑誌原稿を書いてきたが1冊丸ごと書籍になったものはなかったし自分の名が表紙に...というそのこと自体が原動力だったし信じて貰えないかも知れないが金はどうでもよかった。
その後、技術評論社と多々打ち合わせをしながら原稿書きに精を出したが、あるとき「花子のリリースが決まったのでそれに合わせて書籍を発刊したい」ということになった。しかしそれに合わせて...となると残された時間は1ヶ月ほどしかなくなっていた。

ともあれ内容については編集者のアドバイスもありわかりやすさを第一にと考えたし手抜きをしたつもりはないが、締切の関係上、突貫工事…やっつけ仕事になった「図形処理名人〜花子」はこうして1987年6月1日(私の誕生日の2日前)に出版された。

やはり見本誌をいただいたときは本当に嬉しかった。ただし私はこの処女出版で大きな誤算をしたことがわかった...。それは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。そしてその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。しかし私個人に「花子」の印税は1円也とも入ってこないわけだ。

正直「これがもし個人で引き受けていたら」印税全てを手にすることが出来たわけだが、反面個人契約だったら原稿を締切までに間に合わせることはできなかっただろうという現実も認識しなければならない。ただし負け惜しみでなく繰り返すが、当時は自身の名前が印刷された単行本が出版できたそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

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※「花子」の印税は一円たりとも懐に入らなかったが応接にMacintosh SEとLaserWriterを購入してもらった


「花子」はベストセラーになったからその後の影響も大きかった。別の出版社からも「花子」の単行本執筆依頼もあったし、秋葉原の九十九電機で「花子セミナー」もやるはめになった。

ともあれ「花子」執筆で一番の収穫はこれを機に技術評論社とのお付き合いがより深くなったことだ。続いてフロッピーディスク付き「図形処理名人『花子』の事例集」を出させていただいたし「マッキントッシュ実践操作入門」や紀田順一郎さんとの共著「FAX交友録〜MACの達人」、「QuickTimeの手品」や「マスコットの玉手箱」といった出版は勿論、編集部の川添歩さんとのご縁でMacの月刊誌「MacJapan」創刊にも立ち会わせていただいた。
あらためて振り返って見るとパソコンは私にとって “人と人を結びつけるハブ(HUB)” だったように思う。



Apple II 用 「Color Demosoft」オリジナル・カセットテープの使い方

手元に1本のカセットテープがある。カセット自体は何の変哲も無いものだがご覧の通り、ラベルには6色アップルロゴがあり "apple computer inc." という表記がある。そう、これは1979年Appleが出荷したカラーデモソフトが記録されているApple II 用オリジナル・カセットテープなのである。



Apple II だけではないが、パソコンが登場したばかりの黎明期は何もかも現在とは違った環境に甘んじるしかなかった。そのひとつがデータの外部記憶装置である。ユーザーがプログラミングしたデータを保存する場合に最初期にはフロッピーディスクもハードディスクも無論USBメモリもなかった。ではなにを使うのかといえば音楽用のカセットレコーダーおよびカセットテープだったのである。

こうした状況については以前「データ記録媒体としてのコンパクト・カセットテープ雑感」で詳しく述べたので繰り返さない。しかしその際にはApple 1のソフトウェアをターゲットしてカセットテープを当時のものと同じようにと復元してみたが、今回のカセットテープはApple II 用の本物...オリジナルである。

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※片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている


ということでここではApple II に限ってだが、前記事の補足という意味も含めて接続やら簡単な使い方といったことをご紹介してみたい。なお今回手に入れたカセットテープの中身だが、片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている…はずだ。

ここでは正真正銘30数年ぶりにカセットテープからApple II へプログラムをロードして走らせてみるが、時の流れは非情とでもいったら良いのか、当時あれほど日々繰り返し夢中になった手順が思い出せない(笑)。
そうした準備の前段階はハードウェアの用意と接続だ。今回はApple II Plusを引っ張り出してみたが、これにNTSC小型テレビ、そしてカセットテープレコーダー(モノラル)を準備した。

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※今回使用したハードウェアはこの三種


さて、Apple II とテレビの接続とか電源がウンタラは当然のことなので省くが、カセット・レコーダーとの接続に関しては、Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されているので、その “IN” とカセットコーダー側のモニター(出力)端子をミニプラグ・ケーブルでつなぐ。

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※Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されている


では実際にカセットテープに記録されているデータをApple II へ読み込むにはどうしたらよいのか…。この辺のことをあらためて認識するといかに現在のMacやらが使いやすいかが身にしみてわかる。
具体的な手順だが、Apple II Plusは使用環境における様々な初期状態があり得るもののここでは本体のみで電源投入と共にAppleSoft BASICが起動していることを前提にしよう。したがって起動後の初期画面を見ると “ ]” の形をしたプロンプトが表示し入力待ち状態になっているはずだ。

ここでカセットテープをレコーダーにセットすると共にApple II のキーボードから “LOAD” の文字を入力する。Apple II は標準では大文字しか使えないのでシフトキーうんぬんへの気遣いは不要だ。

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※プロンプトの後に "LOAD" と入力


ただしこのカセットレコーダーからプログラムデータを読み込むにしてもコンピュータ側でレコーダーのプレイとかストップを制御できるわけではないことにお気づきだろうか。したがって “LOAD” と入力したまままずはレコーダーの再生ボタンを押してテープを走行させてからApple II の “RETURN” キーを押す。
これでレコーダーのテープ走行に準じてApple II 側にプログラムが正常に読み込まれると画面は改行され、再度プロンプトが表示しコマンド待ちとなる。そこでまだカセットテープが回っているならストップさせる…。

ただしその際、レコーダー側の出力ボリュームが適切でなかったり、テープ走行に異常があったりすれば読込はエラーになるが、そんなことは多々あるからして気落ちせずまた再度はじめからやり直すことになる。

こうして最初に “Color Demosoft” をLOADして走らせてみた。プログラムのスタートはプロンプトに続き “RUN” と入力し“RETURN” キーを押す。プログラムが起動し “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” とタイトル表示のスタートアップ画面が表示されるが、無論テキストだけでイラストとか写真はない(笑)。

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※ “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” スタートアップ画面


ここには4つのメニューが用意されているが、3番の “KALEIDOSCOPE” を見てみたいのでキーボードの “3” を押して“RETURN” キーを押すと “KALEIDOSCOPE” すなわちカラーの万華鏡がスタートする。

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※ “KALEIDOSCOPE” はまさしく万華鏡!


表示スピードやらのコントロールはできず、ただ見ているだけだ(笑)。それでも当時はApple II の魅力を最大限に示すデモであり、例えば1977年4月に開催された第1回ウエストコースト。コンピュータ・フェアー(WCCF)でAppleが初めてApple II をお披露目した際、大型モニターに映し出した “KALEIDOSCOPE” もこれと類似のものだったに違いない。



※ スタートアップ画面から “KALEIDOSCOPE” が表示し始める様子


もうひとつのプログラムは “Little Brick Out” だが、これは「ブロック崩し」ゲームとして一世を風靡したものだ。無論Apple II に読み込ませる手順は前記と同じだが、テープを裏返してレコーダーにセットし、まずは念のために巻き戻す。そして実行だ…。
こちらは無事読込ができて走らせてみるとスタートアップと簡単な解説の画面が表示されるがゲームを走らせれば何とも簡素なブロック崩しゲームの画面が現れる。ただしゲームを行うにはパドルといった類のコントローラーが必要だが、手近に見つからなかったので今回遊びは断念した(笑)。

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※至極シンプルなブロック崩しゲームがスタートする


ということで読み込み時に数度エラーも出たが、入手したカセットテープのプログラムは基本的に破損や消滅しておらず使えることがわかった。
確かに一般音楽用カセットテープにコンピュータのプログラムを保存して使う…といった類のことはいまでは思いもよらないことかも知れないが、安価にそして手軽な外部記憶メディアとして当時は不動の地位を占めていたのだ。
しかしその後、パーソナルコンピュータの外部記憶メディアは5インチのフロッピーディスク、そして3.5インチのフロッピーディスクへと変わり、その後はより大容量を実現するためにMOドライブやら数種のメディアを体験しながらハードディスク利用あるいはUSBメモリなどの活用に進化してきた。そして現在ではクラウドへの保存も珍しいことではなくなっているが、果たして今後30年とか40年後に現在我々が当たり前に便利だと使っている外部記憶メディアは利用できる形に残っているのだろうか…。
そう考えるとこのカセットテープという正しくローテクな記憶媒体は俄然素晴らしく思えてくる。

ちなみに今回テストした1979年Apple Computer製のカセットテープはテープの長さは3分以内という短い物を使っている。単にコストということではなく単一のプログラムを記録するカセットテープは一般音楽用の30分とか60分のものだと使いづらいのだ。なぜなら巻き戻しや早送りにも時間がかかるし、30分のテープ片面に複数のプログラムを収録することは物理的に可能でもランダムアクセスができないから頭出しに苦労するわけで、秋葉原のマイコンショップなどでも3分といった音楽用カセットではあり得ない、コンピュータ専用のカセットテープを販売していたものだ。

当ブログで新しく連載を始めた「[小説]未来を垣間見たカリスマ ~ スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第7話 WCCF前夜」の中でWCCFで展示するデモ用ソフトを複製するためのカセットテープをクリス・エスピノサが買いに行くとき、ビル・フェルナンデスが「カセットテープは30分のにしてくれよ。いや、もしあったらもっと短いのを頼む。60分や90分はダメだぞ!使いづらいからな」と叫ぶのはそうした理由なのだ...。

では私自身、このカセットレコーダーをコンピュータの外部記憶装置としていつ頃まで使っていたのかを確認してみた。使い勝手はそれぞれ違うものの、ワンボードマイコンの富士通 L-Kit8は1977年末から1979年まで使ったがその間はずっとカセットだった。
1978年12月に購入したコモドール社のPET2001は本体にカセットテープレコーダーを装備していたから1980年秋口に専用のデュアル・フロッピーディスクシステムを購入するまでカセットを使った。

Apple II は1982年に手に入れたが、同年8月にDisk II を手に入れたから比較的早くフロッピーディスクを使い始めた方なのかも知れない。しかしソフトウェアはまだまだカセットテープで供給されたものがあったから、フロッピーとカセットはしばらくの間共用することになった。
ただし他機種では1983年に登場したハンドヘルドコンピュータ HC-20はマイクロカセットだったし1983年にビデオとコンピュータ映像をスーパーインポーズしたいと手にしたシャープのX1もカセット駆動だった。

ちなみに "カセット (cassette)" とは小さな容器・箱を意味し "小さな~" をつけると宝石箱などといった意味もあるという。いまではフロッピーディスクもそうだが、カセットテープのひとつふたつは価格的にも貴重とは思わないが、1980年代前後においてコンピュータの外部記憶メディアとしてのカセットテープ...特にゲームなどが書き込まれて販売されていたものたちは私らにとってそれこそ宝石箱に入れておきたいほど大切なものだったのである。




Apple 、1992 Who's Who〜Pacific Market Forum〜The Power of Partnershipを手にして

久しく忘れていたひとつの資料が出てきた。確認して見ると2006年11月に「Pacific Market Forumに見る『1992 Who's Who』の思い出」と題して一文を載せているが、今回は当時の極東マーケット名簿として作られたこの資料に再度目を向けてみよう。


リングで綴じられた407ページの名簿資料はその表紙にあるとおり1992年のMACWORLD Expo San Franciscoに合わせて開催された「Pacific Market Forum」向けにと制作されたものだ。
Expoのどのくらい前だったかはすでに記憶にないが、写真とともに住所やらの企業情報を送ってくれとアップルジャパンから依頼が入ったことは覚えている。

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※アップルが1992年MACWORLD Expo San Francisco時に開催された「Pacific Market Forum」向けに制作したPacific Marketに従事する人たち407人の名簿「1992 Who's Who」


そのときにはどのようなものに使われるのかははっきりしなかったがExpoの最中、名物のケーブルカーが通るパウエル・ストリートをノブヒルと呼ばれている市内で一番高い地域に向かうとあるフェアモントホテルで「Pacific Market Forum」は開催され、その場で手渡されたのだと思う。

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※私はフェアモントホテルの一室で行われたミーティングに駆り出された。壇上向かって右が筆者


1992年当時のアップルの市場、特に日本市場の規模を知るにはうってつけの資料の1つだと思うが、日本市場はまだまだ小さなマーケットでしかなく米国本社直属の組織ではなかったのである。したがって日本のマーケットはオーストラリアなどを含む極東地域というカテゴリーの一員だった。

「1992 Who's Who」はその名の通り、この極東地域のマーケットでアップルのビジネスをしているキーマンたちの名簿という意味合いなわけだ...。そして国別と共にアップルの社員かそれ以外のコンサルタント、デベロッパー、パブリッシャー、ディストリビューター、ローカリゼイション・エキスパート、その他というビジネスカテゴリーによる分類が顔写真と共になされている。
さらに所属・タイトル・住所は勿論、電話番号やFAX番号、そしてAppleLinkのIDなど、お互いに即連絡を取り合えるデータが掲載されていた。

ただし時代とは言え今から思えばアップルが作るアイテムとしては高級感もなければユニークさもない。針金のリング綴じ、単色の印刷はまだしも極々当たり前の仕様というかデザインだ。アップルロゴも表紙に1箇所小さな白抜きの単色で使われているだけだし説明不足と考えた補足なのだろう、表紙の裏にはカテゴライズの説明の紙が貼られている。

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※補足事項が表紙裏に貼られている


過日若い方に見せたところ、使われている顔写真を「雑な印刷ですね」と評したのが印象に残っている。確かに「1992 Who's Who」407ページのそれぞれは当時のDTPでレイアウトされ、LaserWriterで出力したものを版下として使ったのではないか...。
ただし顔写真が雑と見えるのは時代としか言いようがない。なぜなら当時は市場にデジタルカメラというものがなく、あのアップル純正のQuickTake100でさえ1994年2月のリリースだった。

したがってアップルの依頼に応じた人たちが送ったのは一般的な銀塩カメラで撮り、プリントしたものだったはずだ。この網点が粗く見える写真は当時のMacintoshとLaserWriterによるページレイアウトの限界だったということになる。
勿論一般の印刷会社に依頼すればずっと綺麗な印刷物となったに違いないが、想像するに予算の問題はもとより「Pacific Market Forum」当日に間に合わせるため苦肉の策だったのかも知れない。

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※当時パシフィック・マーケットの責任者だったSatjiv Chahil氏のページ


また各人の写真だが、アップルジャパンとしては武内重親氏、原田永幸氏らの顔があり108ページには私も載っている。とはいえ当時どれほどのデベロッパー、ディストリビューターらがいたのか分からないが穴だらけに思える。中には目を瞑った写真の人もいて「なんだかなあ」と思ったものだ。さらに間に合わなかったのか、あるいは顔出しが嫌だったのかは不明だがかなりの人数の写真が載っていない。

ということで本来はパシフィック・マーケットでビジネスを営む企業や代表者、責任者たちの名簿を作りそのネットワーク化を図ることでアップルの市場をより活性化すべきと企画された「1992 Who's Who」だったはずが、正直一度も仕事の一環としてこのページを開いた記憶はない。

そもそも「1992 Who's Who」はパシフィック・マーケットのどこの誰が企画して音頭取りをしたのか不明だが、発想は良いとしても詰めの甘さと時間的余裕のない企画といったいわばアップルジャパンのいつもの弱点と危なっかしさを見せられた気がして個人的には妙な納得感を持ったものだった。
そんな一冊の名簿だが、現在まで残っているのはアップルの資料だから…という一語に尽きる。いまでは当該「Pacific Market Forum」に出席したことと共によい思い出である。




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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員