なぜパーソナルコンピュータはIBMやDECから登場しなかったのか?

先日お若い技術者数人とお話しする機会があったが、私のブログをお読みいただいているとかで話題はマイコンとかパソコンが登場した黎明期の出来事となった。なかでも彼らが知りたがっていたことはなぜパソコンは大手企業から登場しなかったのかという一点だった。


「なぜだと思いますか」という私の問いに、コンピュータメーカの大手は「未来を見つめる眼をもっていなかった」「個人用コンピュータの存在意義がわからなかった」「オモチャ同然の製品を作るという発想がなかった」など様々な意見が飛び交った。
事実、個人用コンピュータの魅力を世に知らしめたのはMITS社のAltair8800だったし、それに刺激を受けたスティーブ・ウォズニアックが作ったApple I だったといって良いだろう。

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※Apple I clone (当研究所所有)


特にAltair8800は商業的に成功したといわれているし発売から1ヶ月もしないうちに4,000台ほどの注文が殺到した。しかし実際に出荷できたのはその半分程度だったが。
ともあれ当時熱狂的に受け入れられたAltair8800だとしてもそれは現在我々がiMacやMacBookに抱くイメージとはまったく違う。

まずAltair8800が出荷されたほとんどは組立キットであったこと。したがって説明書はあったにせよ問題なく動作させるようにハンダ付けし組み立てるまでのハードルは高かった。そしてAltair8800本体だけでは具体的なあれこれはできず、メモリの拡張はもとよりテレタイプ端末やビデオターミナルといったものが必要だった。
Apple I にしても程度の違いはともかく活用するにはフルキーボードと電源およびモニター(家庭用TVも可)をユーザー自身が用意し接続しなければならなかったし不用意に外部のものとの接触を防ぐためにケース類も自作する必要があった。
要はこれらの製品は一般大衆を相手にしたプロダクトではなかった。コンピュータやデジタル回路に精通した人たちの夢を叶え刺激を与えるには役立ったがなにも知らないただ新しい物好きの人たちが手にしてもどうなるものでもなかった。

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※MITS社Altair8800


ともあれ1960年代の終わり頃の米国は大学の動乱期だった。ベトナム戦争の影響もあり多くの若者が既成の価値と体系を疑問に思っていたがテクノロジーの面でも同様だった。
大型コンピュータやミニコンと呼ばれたミニコンピュータは体制側、そしてカウンターカルチャーとしての意識付けからマイコンとかパソコンが生まれたと考えられる場合もある。確かに個人用コンピュータを欲した当時の人々の中には、例えばリー・フェルゼンスタインのような反対体勢をあからさまに謳う人物もいたがそうした意識だけでパーソナルコンピュータが誕生したわけではなかった。

1970年には2種類のコンピュータが2種類の会社により販売されていたといえる。ひとつは部屋ほどの大きなサイズのメインフレーム・コンピュータでIBM、コントロール・データ、ハネウェルらにより販売されていた。価格は100万ドルに近くで多くは顧客の注文で1台ずつ製造されていた。
一方、DECとかヒューレット・パッカードといった会社が作っていたミニコンピュータ、通称ミニコンはより大量に生産され企業や多くの研究所らに売られていた。価格は数万ドルでサイズは本棚程度の大きさだった。

したがってもしメインフレームやミニコンメーカーがその気になればコンピュータを一般の人たちにも普及させるに十分な資金・技術・絶好のチャンスを持っていたと言える。そして特に夢想家でなくても近い将来、ミニコンが小型化の道を辿り、机上に乗ったりブリーフケースに納まるコンピュータを思い浮かべることはできたしそれは特別なことではなかったといえよう。

というか、それが時代の流れであり当然の成り行きだと考えられていた。
なにしろコンピュータメーカーの技術者や半導体の設計者ならずとも各部品が年々確実に安く、小型で高速になっていくのを眼のあたりにしていたからだ。
だから十中八九、ミニコンメーカーが小型のパソコンを開発するのは確実に思えた。しかしそうはならなかった...。パソコンはご承知のようにそれまで既成企業の外で働いていた個人あるいは個人企業によって生み出される結果となった。

繰り返すがメインフレームやミニコンメーカーの技術者たちが尊大であったとか未来を見る目がなかったわけではない。事実大手企業のいくつかでは熱心な技術者が詳細な提案をし実際に動作する試作機を作ったり具体的なパソコン開発計画を進めたケースがあるという。
しかし結果として提案はすべて否認され、試作機は棚上げされ、計画は中止となった。

例えばヒューレット・パッカードはメインフレームからポケット型電卓までを生産していた。したがってパソコンを開発する下地は十分にあった。さらに同社の上級技術者らはスティーブ・ウォズニアック自身から独自開発したApple II を生産販売しないかと打診されている。
律儀なウォズニアックは自身が勤務している会社に無断で開発したコンピュータを販売するのを後ろめたく思って持ち込んだが、ヒューレット・パッカードの結論は同社として相応しくないプロダクトだと断る。結局ウォズニアックはスティーブ・ジョブズとアップルを設立しその後の礎を作った。
一説にヒューレット・パッカードの判断の礎はウォズニアックが学位を持ってなかったこと、コンピュータの専門家ではなかったから断ったという話もあるようだ。

またデジタル・イクイップメント(DEC)も結果として新技術を活用し損なった。同社は最初で最大のミニコンメーカーであり、当時として最も小型のコンピュータをいくつか生産していた。例えばPDP-8の一機種は、セールスマンが自動車のトランクに入れて運び、訪問先で設置できるほど小型だった。広い意味でいうなら同機はポータブル・コンピュータだった。
DECの社員だったデビット・アールはコンピュータの個人向け市場に関心を寄せていたし、経営委員会にパーソナルコンピュータ販売計画を提出した。そこには業界で最も賢明な経営者の一人と言われていたケネス・オルセン社長もいたが、家庭でコンピュータを欲しがる理由が認められないと結論づけた。まさしく体制側の発想そのものだった。
デビット・アールは大きな挫折感を味わい、スカウト会社からの話しを受け入れた。アールはウォズニアック、アルブレヒトなどと同じように会社を辞めてパソコン革命の火中に飛び込んでいった。

経営者たちはパーソナルコンピュータの未来に興味はなかった。結局エンジニアとプログラマを雇い、金を払ってサポートを購入してくれる顧客に販売するのと個人へ安価なコンピュータを売り切るには雲泥の差があった。DECなどは個人と商売する気はさらさらなかった...というより企業の利益を危なくすることは何であれ排除するのがセオリーだった。
とはいえ時代は動く。もしメインフレームのメーカーやミニコンメーカーがパソコン革命を起こすのを待っていたらそれは間違いなく起こったに違いないがかなり後になったろう。そしてその価値観も随分と違ったものとなっただろう。しかし革命が起こるのを待っていられない人たちは体制側を見限り自分たちで革命を起こしたのだ。
ちなみに当のDECは1980年代後半になるとパーソナルコンピュータ市場の成長によるマイコン革命の波を真面に被りそのシェアは急速に侵食されていき、結局1998年6月コンパックに買収される。

ともあれマイクロプロセッサの存在はコンピュータを作ることが可能である点については公然の事実だったがMITSのエド・ロバーツ以前にあえて挑戦しようとした人はほとんどいなかった。そして全てのパーツを揃えキット販売して成功した企業はなかった…。
なにしろコンピュータ界の巨人IBMは、非力なオモチャ同然な製品など意味が無いと考えたし、個人がコンピュータを欲しがるというその意味も理解できなかった。それにマイクロプロセッサを開発した当のインテルでさえ、その用途はコンピュータというより各種制御装置の部品として使うべきものだと考えていた時代だった。

ただしハッカーのリー・フェルゼンスタインのようにオモチャ同然の「Altair8800」ではあってもそれは今にも起ころうとしている革命の発端なのだということに気づいた人たちもいた。
「Altair8800」の重要性は製品の有用性やテクノロジーの進歩といった点にあるのではなく、その一番の価値は価格の安さと将来性だった。それにコンピュータを所有すると言うことはその限りにおいて利用者は神にもなり得る力を持つことが期待できるのだ。

MITS社のロバーツはコンピュータをキットの形で販売、それもできるだけ安くすれば年間数百万台の販売も可能だと考えたが、皮肉にも自身が起爆剤となった市場の拡大スピードについていけずにドロップアウトしたものの、結果論として彼が考えていた以上に人々にインパクトを与えた…というより新しい市場を作り出し、未来への明確な橋渡しを果たしたことは間違いない。

なにしろホームコンピュータがほとんど実用的とはいえない時にエド・ロバーツは年商数十億ドルの産業を開拓し個人でコンピュータを持つという夢が叶うという事実を生んだことは勿論、「Altair8800」の存在はそれまでなかったソフトウェア市場というものも生み出したのである。
なぜならハードウェアはソフトウェアなくして意味をなさないからだ。その最も象徴的な会社がビル・ゲイツとポール・アレンにより創業されたマイクロソフト社だった…。そのマイクロソフト社の設立のきっかけは「Altair8800」の登場だったのである。

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち」マグロウヒル刊



デジタルから少し距離をおこうとする個人的な考察

今回のタイトルは時代に逆行したアナクロニズム丸出しの論と映るかも知れない。無論まったくの個人的な思いであり他人に押しつけるつもりはないが、40年間デジタルを追い続けてきた1人の素直な思いでもある…。それにいまデジカメ全盛時代にあの「写ルンです」が人気だとか。そうした傾向も考えると些かデジタルの疲れが溜まってきたのかも知れない。


毎年登場する新型 iPhoneやApple Watch等など新製品が発表されると心がざわつく。さらにmacOSやiOSも新しいバージョンが今後もリリースされ続けるに違いない。
それぞれが新しい機能満載だから、それらを手にすればきっと楽しいことが増え生活も便利になるだろう...。そう考えて私たちは新製品を求める。

確かにそうした類の進歩や進化を望むことは可能だ。以前できなかったことができるようになり、以前よりスピードが速く明るく鮮明なディスプレイ、あるいはより高解像度のデジカメを手にして写真撮影や編集に意欲が湧くことは素敵なことだ。
スティーブ・ジョブズは世界を変えたというしそれは確かに間違いはない。その恩恵の一部を我々も受けていることもまた事実である。

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ただし私たちはその恩恵により、より豊かに、より安全に、より楽しく毎日を過ごせるようになったのだろうか。
別に世界のあらゆる出来事をAppleに結びつける必要はないが、確かに世の中便利になったし IT 機器の進化により専門的な知識や技術がなくても高度でクリエイティブなことが可能になった。
これはデジタルカメラひとつを考えてみても確かなことで、銀塩カメラとは使い勝手もコスト面からも雲泥の利がある。
でも錯覚をしてはいないだろうか...。

クリエイティプなツールを手にしたからと言って皆が皆素晴らしい作品が作れるわけではないしiPhone 7 Plusのダブルレンズで誰もが人を驚嘆させる写真がとれるはずもない。
こんなことをいうと「夢のない奴だ」と笑われるかも知れないが、パーソナルコンピュータの黎明期から現在のデジタル化の波をモロに経験・体験してきた1人としてこれは実感なのだ。

最初はパソコン...例えばApple II が登場したとき、それはオモチャ同然だと既存のコンピュータメーカーは鼻も引っかけなかった。よくてゲーム機程度にしか評価しなかった。
私も1978年コモドール社製 PET2001というオールインワン・パソコンを買ったとき、親戚のオヤジに「いい歳して30万円ものゲーム機を買ったのか」と揶揄された。

しかしワードプロセッサやスプレッドシートのソフトウェアが登場したおかげで、そして後にDTPと呼ばれるデスクトップパブリッシングが発明されたおかげで社会のあり方は確かにかわった。
皆、時代に遅れてはならじとパソコンのキーボードに向かいワープロを覚え、マルチプランやエクセルを習い、ページメーカーを使えるようにと努力した。それが職場で生き残るためでもあったし、自分のスキルを高めて効率を上げられるからだと考えたからだ。

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とはいえ結果はいちサラリーマンやOLたちが考えていた思惑とは大きく違った。我々は与えられた仕事を正確にそしてなるべく早く綺麗に仕上げ、その見返りとして高い評価を受け、残業をせずに定時で帰りたいと考えた。
しかし残念ながら世の中はそんなに甘くはなく、早く終わった仕事の後には別の仕事が回ってきた。結局帰宅するのはいつもの遅い時間でしかなかった。いわゆるOA化は私たちに1.5倍から2倍の仕事をさせるための手段ともなった。

例えば企業内で印刷物を作ることを考えたとしよう。私がサラリーマンになった時代はやっと大手企業に大型コンピュータが導入され始めた時代だったが、社内向け印刷物ならタイプ室という部署に和文タイプライターをこなす女性たちが専門職として存在したから、その部署に手書き原稿を渡してタイプして貰い、ガリ版で必要枚数を刷ってもらった。「これで100枚お願いします」といえば済んだ。
さらに対外的な印刷物でクオリティを求める場合は手書きの原稿とコマ割りした図や必要な写真を出入りの印刷屋に渡せば見栄えの良い印刷物ができた。
すなわち一担当の仕事は文書の内容を精査し、原稿を書くことで完結したのである。

それがDTPが登場しポストスクリプトプリンタが導入された途端に一般職にもかかわらず、原稿書きはもとよりレイアウトからデザイン、フォントの選択、印刷に至る全行程をやらなければならないはめとなった。無論DTPソフトに精通する必要があるのは当然である。
要は、大げさに言うならコンピュータは仕事のクオリティを上げたが、我々の仕事の量を桁違いに増やしたのである。
パソコンは知的自転車と賞賛され、我々の知的活動の範囲とスピードを大幅に向上させたことは間違いないが、そのサイクル幅は短くなり、結果仕事の frequency が増大することになってしまった。企業にとっては大きなメリットに違いないが人はより働き蜂になるしかなくなってしまったともいえる。

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だから、本来ならスキルを持ったサラリーマンやOLがその恩恵を被り、より豊かな暮らしができるというのがあるべき姿ではないだろうか。しかし現実を見れば企業ばかりが利益を搾取し働く人たちを社畜としていく。私にはその原動力の一つが世の中のデジタル化、IT化であるようにも思えるのだ。

元々こうしたパソコン関連の知識は技能だと考えられた。確かに当初は誰もがパソコンを操作しデジタルデータを駆使して結果を出せるわけでもなかったからそう考えられた。そして技能はビジネスに直結し、Macintoshシステム一式を揃えて望むなら誰でもがデザイナーやクリエーターになれると錯覚した時代があった。
ただしこうしたユーザーが増えるに連れてプロフェッショナルとアマチュアの差を見極める能力のない者にとっては違いがわからず、結局価格の安い”にわかデザイナー” や “素人カメラマン” にプロフェッショナルたちが駆逐される事態も頻発する。

さて、振り返ればこれまで足掛け40年間、Appleの新製品の多くを手にしてきた。近年もiPodやiPhone、iPadそしてApple Watchにしても購入した。そして大げさに言えばその際には喜びも感じたし何かを目標とする意欲も強くなったが、冷静に考えてみればiPhone 4とiPhone 5あるいはiPhone 6になったからといって私の生活の実態が目に見えて良いベクトルへ向かったわけではない。
「あっ君もiPhone 6 買ったの?僕もだ!」という世界の住人であったに過ぎなかったといえば言い過ぎであろうか。

さらに最近あらためて実感したが、私の手元にはAppleの黎明期、パソコンの黎明期からの文書や図版あるいは自身の足跡ともいえる写真などが文字通り大量に残っている。正確に言うならたまたま残ったものもあるが、意図的に集めたアイテムもある。
これらを活用するにはデジタル化やデータベース化が必須だと誰もが思うに違いないし私もその必要性を否定するものではないが、デジタル化こそがデータを生かし保存するための最良の道だとは思わない。

振り返って見ると1977年からコンピュータの世界に足を踏み入れたが、現在写真や文書が残っていない空白の時期がある。その理由はスチルカメラやデジタルカメラが登場し始めた時期だったり、新しいデータ記録媒体が登場したり、カラー画像ファイルのフォーマットが現在とは違っていたりと黎明期特有の狭間だったからだ。
当時デジタルカメラは現在の感覚からすればメチャ低解像度であり、その当時のデジタル写真はいまではブログに載せようにも使い物にならない。しかしアナログカメラで撮ったものは紙焼きとして残っている。また紙焼きだからこそ残ったともいえる。

文書データも同様だ。これまた黎明期に存在した幾多のワードプロセッサはその文書保存の際に独自のフォーマットである場合がほとんどだった。
例えばいま、その文書ファイルを参照したいと思ってもそれを入力したアプリケーションがなければ再現できない。幸いそのアプリケーションを保存していたとしてもそれをインストールし起動するには適合するハードウェアが必要だし、第一近年のOSでは使えない。念を入れてTEXTフォーマットでコピーしていたものしか再現できないのだ。
さらにCD-Rやハードディスクに保存したがために読めなくなった貴重なデータも数多く、思い出したくもない(笑)。それに現在主流になっているクラウドだって、いつサービスが終わるか分かったものではない。

ついでといってしまえば iPhoneといったスマートフォンの登場はソーシャルネットワークの登場もあって「人と人とを繋げるデバイス」と歓迎された。確かにそうした現実も否定しないが周りをよく観察してみれば、社内や家庭においてもそこに相手がいるにも関わらず会話はスマートフォンによるメッセージで、といったケースが増えている。
いや、道を行き交う人々を見れば一目瞭然に違いない。友人と歩きながら、犬の散歩をしながらスマートフォンに向かっている人たちのなんと多いことか。
そうした現実を見るとテクノロジーは人と人を繋いだのではなく人と人とを隔絶させる役割を果たしていると思わざるを得ない。
現代の我々は人間関係の絆の生々しさを薄める感のあるSNSを求めているのかも知れない。

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私にとってMacはなくてはならない道具だが、他にも様々やりたいことが山ほどある。犬との散歩、楽器の演奏、読書、好きな音楽に身を任せること、時には等身大の女性像を造形したり最近は時代小説を書き始めるなど仕事とは距離をおいたミッションもある。

そして「手元の年賀状や領収書はすべてスキャナでデジタル化しましょう」といういった勧めもあるが、私はあえてそれはそれとしても最重要な紙ベースの資料はアナログのまま保存しておくべきだと考えている。さらにデジカメの写真も "これは" と思った一枚はプリントアウトしておくべきだとつくづく思う。
これまで多くのデジタルデータを失った自戒を込めて...。

また他人がどう思うかはともかく、私は電話やソーシャルネットワークで友人知人たちと情報交換するより、一緒に飯を喰いながら、あるいは肩を並べて歩きながら議論する方が好きだ。
バーチャルリアリティも益々期待が高まっているが、それらが有効なのは通常では体験出来得ないものが対象のときではないだろうか。できうるならこの目で現実を見つめ、空気の冷たさや臭いを感じ、この手や指で物に触れ、目の前に座っている友人知人たちと議論をするといった日常をより多く体験したいとつくづく思う今日この頃である。
まあ、こうした感慨に耽るのはまさしく歳をとったということなのかも知れないが…。



Adobe Muse CCによるサイトにAdSense広告を表示する覚書

MacTechnology Lab.ウェブサイトにAdSenseの広告を載せようと考えた。月並みだがサイト維持の経費程度は稼ぎたいと思っているからだが、それはともかく理屈を知っている方ならどうということもないのかも知れないが初めての人にとってGoogle AdSenseの広告設定は簡単ではない…。


私はかなり以前にこのAdSenseによる広告を試みたことがあるが、今回のターゲットであるMacTechnology Lab.ウェブサイトはAdobe Muse CCで構築しているという点が違う。それにAdSenseへのアプローチもいささかアップデートしたようで「さてやってみようか」と考えたものの忘れていることだらけでほとんどゼロからの挑戦となってしまった。
ということで数日悪戦苦闘した結果、何とか巧く行ったその概要を忘れないよう記しておきたい。同じようなことを考えている方の参考にもなれば嬉しい。

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※ウェブサイトの右サイド下がAdSenceによる広告。上はAmazonのアフリエイト広告



さてAdSenseとは、自分のウェブサイトに広告を掲載することで収益が得られるGoogleの無料サービスだ。まあAdSenseそのものに関しては別途お調べいただきたいが、要はコンテンツ連動型広告配信サービスである。
実施する際には費用はかからずサイトを所有していれば誰でも申込が可能だ。ただしサービスを開始する前にGoogleの審査を通る必要がある。極端にコンテンツの少ないサイトやアダルト関連あるいは暴力的なサイトなどは審査の段階で断られる。
そして目的のサイトに取得したコードを貼り付けると広告が表示され、それが閲覧者にクリックされるとあらかじめ決められた報酬が得られるという仕組みだ。ただし近年仕様変更があり無料ブログでは審査が通らないようだ。また報酬の受取人は18歳以上でなければならない。

まず最初にやるべきこと、やらなければならないことはAdSenseへの申込みとなる。
審査は大別して2段階になっている。その審査手順はネット検索すれば申請の詳細や注意点などが紹介されているサイトを見ることが出来るのでここでは省略し、実際にMuse CCの任意の位置に広告を表示する方法を記しておきたい。

WordPressを使っているサイトではAll in One SEO packseプラグインを使う場合が一般的のようだが、私はWordPressを使っていないのでまずはGoogleアナリティクスのトラッキングコードを取得しそれをMuse CCに直接埋め込む必要があるという。
何だか次々にGoogleに取り込まれていくようだが、仕方がない(笑)。
要は必須なこととしてGoogleアナリティクスのトラッキングコードとAdSenseの広告コードの2つが必要となるのでその取得をクリアしなければならない。
Googleアナリティクスのトラッキングコードはアクセス解析のためのものだが申し込んでから反映まで1, 2日かかるようだ。

トラッキングコードが取得できたら一般的な設定ではHTMLコードの「/head の前に設置する必要がある」と書かれている。しかしMuse CCでは現実問題どうするのだろうか。
そもそもMuse CCはHTMLを知らなくても高度な表現とデザイン性を持つサイトが作れることが売りなのだが、ページのHTMLをどうのこうのというのはポリシーに反するではないか...と思われるかも知れない。しかしさすがにMuse CCは簡単だった。

例えばすべてのページに広告を表示する場合ならMuse CCのデザインモードでマスターページを開き、ページメニューの「ページプロパティ...」を選択する。そしてそのウィンドウの「メタデータ」タブを開くと " head に挿入するHTML :" というフィールドが表示するのでその場所に取得したGoogleアナリティクスのトラッキングコードをコピーすればよい。
ちなみにこのトラッキングコードが生きていないページにこれから述べる広告コードを設置しても表示されないので注意が必要だ。

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※トラッキングコードはページメニューの「ページプロパティ...」を選択しそのウィンドウの「メタデータ」タブを開いたフィールドにペーストする


次は広告コードの取得だ。これまた具体的な取得方法は省略するが、AdSenseページで広告スタイルやデザインを決めるとその広告コードが表示されるのでそれをコピーしておく。
そしてMuse CCで当該ページのオブジェクトメニューから(ページメニューではない)「HTMLを挿入...」を選びそのフィールドへ広告コードをコピーする。

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※広告コードはオブジェクトメニューから「HTMLを挿入...」を選びそのフィールドへコピーする


最初に設定した場合、反映までしばらく時間がかかるがこれで指定した広告枠が表示するはずだ。そしてそれを置きたい位置に設置すれば完了である。後は表示させたくないジャンルの広告表示をOFFにしたりといわゆる管理作業も必要になる。
無論広告を載せたから即効果が出るほど世の中甘くはないが、まあしばらくは勉強も兼ねて続けてみたい。


1970年代から劇的に仕事を変えた7つのテクノロジー

先日古い知人と話しをする機会があった。共に自身の体験として振り返れば劇的な...本当に激変の時代を体現してきたことを痛切に感じるといった話題になった。社会に出てしばらくは一流企業であってもゼロックスコピーもFAXもなく電卓さえ一般的でなかった。というわけで今回は私的な感覚ではあるが1970年代初頭に一部上場企業に就職した自身を振り「1970年代からの劇的に仕事を変えた7つの新テクノロジー」と題してハードウェアとソフトウェアの与太話をさせていただく...。


■1■ パーソナルコンピュータ
まずは何といってもパソコンを抜きにしてテクノロジーの進歩は語れない。とはいえ自分の仕事を変えたテクノロジーといっても、人によりそれぞれの時代を担い、それぞれの体験があるはずだが、20世紀のテクノロジーの中で社会とビジネスを激変させた最たる物はやはりパーソナルコンピュータに違いない。

後述する「電子メール」も「DTP」あるいは「表計算ソフト」にしてもすべてパソコンがあってこそのものだ。
しかし我々はいまでは何の不思議とも思わずパソコンを仕事に活用しているが、そのパソコンが個人個人の立場で仕事に使えるようになったのは意外と後になってからだ。

確かにApple II は1977年に登場したしコモドール社のオールインワンパソコンPET2001を手にしたのは1978年だった。その後、これはと思う多くのパソコンを手に入れてみたが日本語対応されておらず、手軽に自分たちの仕事に取り入れることはできなかった。無論英語圏のユーザーならApple II とプリンタがあれば実用となったに違いないが...。

個人的にパソコンが仕事で使えるという思いをしたのは1982年に登場したNEC-9801、1983年に登場したIBM5550あたりからだった。Macintoshは1984年にリリースされたがオフィシャルに日本語化されたのは1986年のMacintosh Plusに「漢字Talk 1.0」が搭載されたのが最初だった。ではそれで即仕事に使えたかといえばメモリの少なさ、アプリケーションの少なさなどの理由から極限定された範囲でしか実用にはならなかった。

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※1984年、自宅でIBM 5550を前にした筆者


私がパソコンを本当の意味で仕事に密着する形で使い始めたのは1989年に起業してからだった。そしていわゆる経理事務はもとより顧客管理や対外的な印刷物の作成などすべてをMacintoshで可能になったのはさらに数年が必要だった。
ただし振り返って見ると仕事にパソコンが導入されたことで我々1人1人は仕事が楽になったのだろうか?

現実は、手際がよくなり仕事の仕上がりが速くなった分だけ別の新しい仕事を任されるし、パソコンのハード・ソフトに関わるあれこれで従来には考えられない程、新しい事を覚えなければならなくなった。
1人のサラリーマンとしてパソコンが登場したからといって楽になったという感じはまったくといってなかった...。

現在からの視点から眺めるとパソコン無くしてどのように仕事ができるのか...と不思議な感覚に陥るが、1970年代から1990年ほどの間、パソコンも携帯電話もないのに任された任務はきちんとこなしていたはずだ。パソコンは仕事の効率を高めると同時に高度な意志決定にも重要だと思われているが、それを使うのは我々サラリーマンでありOLだ。果たしてパソコンは我々の見方なのだろうか...。

マイコンやパソコンといったものと約40年ほど格闘してきた1人として振り返れば、確かにパソコンを通じて...例えばインターネットといった新しいテクノロジーを知り、活用する術を学べたことは間違いないが、振り返れば文字を手書きで書けなくなったし友人知人たちの住所はもとより、電話番号でさえほとんど携帯電話のメモリ内に頼りきりで覚えていない自分に気づく。
外出時に財布を忘れても慌てないがiPhoneを忘れると不安でしようがない...。これはある種の依存症であり能力の視点から見て退化ではないのか...。

■2■ ボールペン
経理業務で総勘定元帳や仕入帳といったバインダー形式の元帳記入はつけペンとインクだった。家庭ではさすがにつけペンなどには縁がなかったから最初は戸惑ったが、例え自前の万年筆を持っていても使うことは禁止されていたから選択肢はなかった。
勿論間違った時は二本線で消し、訂正印を押した上で空いている場所に書き直すか、場合によっては砂消しゴムなどで完全に消し去って書き直したが、上書きはインクが滲むので閉口した。

いつの頃からボールペンの使用が許されたかは記憶にないが、当初は公文書への使用が認められなかったもののちょうど1970年代頃から少しずつ使われていったと思う。しかし鉛筆もそうだったが、職場でのボールペン利用はかなりシビアで、インクがなくなったボールペンを総務部へ持って行かない限り新しいものは支給されなかった。
ボールペンはたまにボールの先にインクの塊がこびりつき、それが用紙を汚すこともあったが、つけペンとは比較にならない便利さがあった。

ではなぜブルーブラックのインクと付けペンだったのか...。それには大きな理由があった。すでに40年も前の事だからお話しするが、帳簿がバインダー式だったことと関係する。経理上のことなのか財務的な関係なのかは平社員には判断が付かなかったが要は後で都合の良いように元帳を書き直すことができたからだと聞かされた。

用紙はコクヨ製だがそれらは年代を重ねると変色するが、日常ページを増やすためのものとは別に交換用の古い記入用紙が保存されていた。古い元帳の数ページが新しい用紙では誰が見ても書き換えたと分かるからだ。用紙はそうした配慮でなんとかなったが問題はインクであった。

新しく記入した文字と数年経過したページの文字を比較するとそのインクが経時変化で変色していた。現在のインクは分からないがその時代はまだそうしたインクがあったということだ。では...とあるページを後になって入れ替える場合にはどうするか...。くどいようだが用紙は古い用紙を使うにしろそこに記入したインクが見るも新しいものではこれまた変だ。

実は記入したインクの上に火を付けたタバコの先を近づけて熱を加えると書いたばかりのインクが変色してまるで数年あるいは十数年経過したように見えるのだった。ただし近づけ過ぎればせっかくの用紙が熱で焦げ、一ページ、あるいは裏表を全部書き直すハメとなった(笑)。

ボールペンはそうした不正を許してくれない新しい文具だった。思えば会社に大型コンピュータが導入された時期になってボールペンは社内で急速に普及した。そしてボールペンの利用は鉛筆やペンとは違い、強めの筆圧が必要なこと、線の太さが均一なことなどから大げさに言えば筆記の方法まで変化させたペンとなった。

■3■ 電子メール
電子メールの台頭は迅速に相手へメッセージを届けることが可能になっただけでなく、ビジネススタイルや価値観も変えるものとなった。
FAXが登場してもしばらくの間、いわゆるオフィシャルな内容のものは封書で送ることが礼儀であると教えられた。したがってその文面も「拝啓、貴社益々御清祥の段、お慶び申し上げます...」といった定型の堅苦しい出だしで書き始めたし、後述のワープロが普及するまでは当然のことながら手紙は手書きだった。

文書の内容はともかく手書きとなれば文字の綺麗さや品格は誰にでも出せるものではなかったが、逆にどの部署にも毛筆はもとより文字を書かせたら一番という人材がいて手紙だけでなく熨斗や冠婚葬祭の時には俄然目立つ存在となった。

対外的な手紙はどの会社も大差がなかったと思うが、社内間の情報伝達にはそれぞれ独自の工夫があったように思う。私の勤務先では他の部署に電話するにも交換手を通さなければならなかったこともあり、社内恋愛の相手に意思伝達する場合も「社内便」といった手紙の制度を活用した(笑)。

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本来この「社内便」とは本社内だけでなく各地の支店間や工場との文書による意思疎通のために活用されていたもので、定期的に専用車により運び出し、あるいは運び入れるといった仕組みであり、封書にしても新品の使用は厳禁で古い封書に紙を貼り、そこに宛先を書いて数度再利用していた。

本社に配送された社内便は総務部が一括して各部署別により分けて部署別の棚に入れておく仕組みだった。我々平社員はコピーのついでや文具などの消耗品を受け取りに行く際にその棚を確認するよう義務づけられていた。そして棚に入っている封書などを部署に持ち帰ってそれぞれ宛名の人の机上に置くことになっていた。

これを悪用...いや活用する強者が登場する。例えば広報のB子さんにデートの誘いをしたい場合にこの社内便を使うのだ。古い封筒を使って封をし、宛先を書き、差し出し人はそれらしく支店や工場の部課名を書くが、その書き方は予めB子さんと打ち合わせしておくことが普通だった。そして総務部の社内便棚の広報部棚に放り込んでおけばよい。

大きなトラブルがなければ一日数回の機会があり、封書は相手の机上に乗るし、宛名が明記されている封書を上司と言えども他人が開封することはまずなかったし万一他人に開けられてもある種の暗号化しておけば誰からの手紙と特定はできない。受け取った方も「なんでしょうね、嫌がらせかな」でとぼけられた(笑)。
とまあ、のどかな時代だった。

■4■ DTP
デスクトップ・パブリッシングは机上のMacとPageMakerというソフトウェア、そしてレーザープリンタで一般の印刷物に匹敵するクオリティの印刷が可能になった。Appleが実用化したシステムである。
確かにそれは凄いことだったが、一方...普通のサラリーマン、普通のOLにこれまで経験したことのない過度な期待と能力を求められることにもなった。そして仕事は格段に増えることになる。

それまでテキストだけの印刷物はもとよりだが図版や写真が入る印刷物は出入りの印刷屋に頼むのが約束事だった。電話一本で飛んできてくれたし、手書きの原稿や必要な写真ならびに図版を渡して重要なポイントを打ち合わせすればすぐに試し刷りを持ってきてくれた。そのクオリティとスピードは「さすがにプロ」と唸らせるものだった。

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※最初期のAldus社PageMakerの広告(1985年)。"page layout" という言葉と共に"desktop publishing" という表記がなされている【クリックで拡大】


あるいは社内用の簡易印刷なら和文タイプライターを数台備えてありプロのお姉さんたちがいるタイプ室に行き「この文章を100枚、何日の何時までにお願いします」と依頼するのが普通だった。後はいわゆる輪転機(ガリ版)で指定枚数を印刷してくれたから一般社員の仕事は下書きだけで済んだ。

それがDTPなるものが登場し、プロの印刷屋並の能力とセンスが平凡なサラリーマンやOLに期待されるのだから怖い...。
確かにパソコンとレイアウトソフトを使えばテキストと図版を混在した数ページの会報などは比較的簡単にできる。しかしセンスは勿論だが印刷物に関するノウハウがあるわけもなし、出来たものはあちらこちらでフォントが違っていたり、必要以上の装飾やボーダーがあったりと無残な結果も多かった。

結局DTPは普通の人材にパソコンとソフトウェアの操作法を覚えさせ、ページレイアウトの基本はもとより使用する写真を自分で撮るまでに至るという大きな負荷となった。何しろそれ以前の仕事は減らないのだから。

■5■ 表計算ソフト
ビジカルクに始まる表計算誕生物語はそれ自体が面白いが、一般のサラリーマンに与えた影響は計り知れない。思い起こせば私の場合も残業の多くは計算上の縦横が合わないために読み合わせをやり、数値に間違いがないかどうか、縦と横の計算に間違いがないかを確認するためのものだったといえる。そして読み合わせには当然のことながら2人の担当が必要だったし、計算は1人では間違いを見つけづらいという経験則からこれまた2人で交互に行ったものだ。それも計算は算盤が主だった...。

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※最初の表計算ソフトVisicalc。罫線はなく必要ならハイフンなどで区切りを入れる必要があった


いまでは表計算...スプレッドシートといえば "EXCEL" ということになっているが、ここに至るまでには幾多の生まれては消えて行ったソフトウェアがあった。
結果、求人募集には「WORDとEXCELが使える人」というのがポピュラーになった。しかし私たちはEXCELの使い方には精通したが計算能力が向上したわけではないのだ(笑)。

■6■ ワードプロセッサ
パソコンが登場した後、課せられた1つの使命がワードプロセッサ...すなわち電子タイプライタともいうべき文章を綴るためのソフトウェア開発だった。文字を扱うという意味ではパーソナルコンピュータはキーボードを有しタイプライタを模したことで機能面はもとより取っつきやすくなったともいえる。
ただし私らの興味はいつになったら日本語で文字入力できるのか...ということだった。そうした期待が大きかったから、やっと日本語入力と共にドットインパクトプリンターで打ち出されるようになった漢字はいま思えばギザギザだったが、随分と美しく思えたものだ。

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※PC-9801で一太郎を使う筆者(1985年9月撮影)


最初はパソコンよりワープロ専用機の方が機能が特化していただけに実用になったしコストパフォーマンスも高かった。私が好んで使ったApple II はついに日本語対応にならなかったしMacintoshだって正式に日本語システムが搭載されたのは漢字Talk 1.0 (1986年)になってからだが実用となったのは漢字Talk 2.0 (1988年)になってからだった。
そしていつしかワープロを扱う事は一昔前の読み書きソロバンのように考えられたし、特にビジネスに携わる者は必須科目となっていく。

ワープロはそれまでの手書きのように字が綺麗とか癖字であるといったことで評価されるのではなく文章そのものの巧みさも問われるようになった。サラリーマンやOLたちは所属部署を問わずそれまでとは違ったスキルが求められるようになった。

■7■ 携帯電話
携帯電話の月額料金が現実的な値段になり、本体も小型になった1994年前後に最初の製品を手にした記憶がある。小さな会社の代表者であった私はいま考えてもかなり忙しかったし講演やセミナーあるいは展示会などなどで全国を飛び回っていたから連絡を取り合う手段としては最適なものだった。とはいえまだまだ通話料金は高かったから携帯電話はもっぱら受信用と考え、よほどの急用でなければ発信は公衆電話を使うようにしていた...。

よく言われることだが、いつでもどこでも連絡ができる...ということは確かに便利だし何らかの決断を急ぐ場合にはありがたいものには違いない。ただし反面こちらの意志にかかわらず呼び出し音が鳴るというのは鬱陶しいものとなる。
第一、携帯電話を使って呼び出しするほど急ぐ用事などそうそうあるのだろうか(笑)。
1970年代に会社の机上に電話機はあったがそのほとんどは取引先からの通話だったし、例えば外出している部課長にコンタクトをしたくても戻ってくるか、あるいは向こうから電話連絡があるまではどうしようもなかった。
とはいえそれが当然のことだったからほとんどの場合はイライラすることもなく時を待つしかなかった。そしてそのことで仕事に大きな支障が出たという例はほとんどなかった。

携帯電話はまた人との待ち合わせの風景を激変させた。それ以前はもしすれ違ったとしても対処方法がないため、どこで何時何分で待ち合わせだということをくどいように確認したし、特に仕事などで初対面の場合には自分の風貌や着ているもの、あるいは持ち物等まで知らせたものだ。
また大きな駅には伝言板が必ずと言ってよいほど設置されており「○○さん、先に行きます」とか「30分待ったけど、さよなら」などの伝言がびっしりと書かれていたものだ。そしてすれ違いというか約束していたとしても会えないケースも多々生じたものだったし、いま来るか...と待ち続けて1時間...といったことなども珍しくはなかった。

ただし、誰もが携帯電話やスマートフォンを所持している昨今では待ち合わせの時間はともかく場所も「○○駅の改札で」程度で済むようになった。なぜなら現地で電話を掛け合えば間違いなく会うことができるからだ。
携帯電話は人と人の出会いや仕事だけでなく我々の生き方そのものを変えた...。



iPhone登場10周年に寄せて

先日の2017年1月9日はiPhoneが発表されてからちょうど10年となる日。つきなみだが長いようでもあり一瞬のことだったようにも思えるが、iPhone成功の秘密をあらためて当時に立ち帰って眺めてみるとなかなかに面白い。私自身は日本では発売されなかった初代 iPhoneの情報に接したとき本当に心がときめいたものだ。


ということで今回は当時そのiPhoneに関して書いた記事を読み返しながらどんな反応があったのかを振り返ってみたい。なおここでご紹介するアーティクルは現在でも当時のまま、お読みいただくことができる。

私がニュース記事を別にして、iPhoneに関する記事を当Macテクノロジー研究所ブログに掲載した最初は発表から2日経った2007年1月11日だった。それは「Apple iPhoneの素直な印象~写真だけではその凄さは分からない!」と題した記事だったが、自身まだ実機を手にしてはいなかったし「iPhoneの凄さは一般的なウェブサイトのニュースなどで、その紹介されたスペックを追っても実態は分からないのではないか」としながらも「iPhoneと現在我々が手にしている携帯電話を比べて見ると、スペック以上にその違いがよく分かると同時に、iPhoneの素晴らしさが理解できると思う。そして『なぜ、iPhoneの機能の一部でもいいから、使いやすく魅力的な製品がこれまで出来なかったのか…』を思い、Appleという企業の特殊性と技術力の高さをあらためて痛感した」と書いている。

そして「現在のiPodがそうであるように、街中で…電車の中で…人々が集まるとき、iPhoneを使う多くの人たちとすれ違うようになることを夢見つつ、じっくりと情報を集めながら待つことにしようではないか」と結んでいるのが我ながら興味深い。

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※初代iPhone (当研究所所有)

続いて1月24日に「『iPhone』にも酷評があるようだが...いつものことだ!」と題した記事を掲載した。
これはiPhone発表を受けて世界中のメディアがその反応を挙げ始めたからである。そうした中には意味のないべた褒めの記事もあったが、見るからに情報を精査していない否定的な意見も多かったことを思い出す。
当時の原稿をお読みいただければお分かりの通り、私自身は iPhoneに関して大いに賞賛を惜しまない一人だったが、アナリストの一部や業界関係者、専門家と称する人たちの中には様々な酷評を唱える人もいた。
例えば「iPhoneの技術は目新しいものではない」という批評は大いに笑えた。そして確かマイクロソフトのお偉いさんの「500ドルもするバカ高い携帯など誰が買うか?」といった批判もいまだに記憶に残っている。

特に「iPhoneの技術は目新しいものではない」だから「一週間で飽きる」といった批判を繰り返す人たちはそもそもテクノロジーの進化・進歩とはどういうことかを理解していない。いみじくもスティーブ・ジョブズは発表時にiPhoneを「携帯電話の再発明」といったが、いま思えばかなり控えめないい方だったとも思える。
ともあれ個人的にはこのiPhoneのニュースに接した際、前記アーティクルの本文にもあるとおり、スティーブ・ジョブズがあのゼロックス・パロアルト研究所(PARC)を訪れ、Lisa開発のヒントを得たという歴史的現実が甦ってくる。

それは例えiPhoneに採用されているテクノロジーの一部が、過去に存在していたとしても、誰もそうしたものを活かすすべを知らなかったことを証明しているともいえる。
「iPhoneの技術は目新しいものではない」というのなら、なぜA社もB社も、そしてC社からも1970年代からの30年間、iPhoneに匹敵するエキサイティングな製品をただの一度も出せなかったのか。メーカー各社はこれまで何をやっていたのか…少しは反省して欲しいと思う…」と書いているが、残念ながらその思いはいまだほとんど変わっていない。

その後、iPhone 3Gが登場した後でも国内メーカーやキャリアの代表者たちがさまざまな発言を繰り返していたが、iPhone 3Gと比較して自社製品のデキの悪さを認識していないのが笑えた。なぜ iPhone 3Gの登場に多くの人たちがこれだけ騒ぐのか、それは一昔前とは違い ”彼ら彼女らがアップルフリークだから” ではなく、iPhone 3Gにそれだけの魅力を感じる様々な要因があるからだ。

ましてや…とある企業の代表者が自社新機種リリースの際に「これでiPhone独壇場の時代は終わった」などと発言するに至っては身内へのリップサービスだとしても状況判断がきちんとなされていないことを暴露しているとしか思えなかった。そして「iPhone 3Gに対抗してタッチパネルを採用すればそれで勝てると思っているのであれば返す言葉もない」と書いたが…結果10年経った現状は申し上げるまでもない…。

iPhoneの優れた利便性は決してiPhone本体だけから生まれたものではないことも再認識すべきだろう。iTunesやMobile Me(当時)の存在、App Storeなどなどデバイスの使い勝手を最大限に生かす努力をAppleは独自で切り開いてきたのだ。
残念ながら他のキャリアやメーカーが一夜にして同等な魅力ある環境を作り出すことは無理なのである。
さて、そのiPhoneも勢いが鈍化したという情報もあるもののAppleが余程のヘマをしない限りスマートフォン市場において世界市場での優位を続けることは間違いないだろう。

【参考】
初代 iPhoneは2007年1月9日に開催されたMacworld ExpoにてAppleのCEO スティーブ・ジョブズにより「携帯電話の再発明」と発表された。同社デジタルオーディオプレーヤーのiPod、携帯電話、インターネットや電子メールの送受信等が行えるという3つの機能を併せ持ち、マルチタッチスクリーンによる操作性を謳った携帯情報端末。
カラーはシルバーのみで、発売当初は容量4GBと8GBの2通りだったが後に16GBモデルがリリースされる。
発売は同年6月29日よりアメリカ合衆国にて発売されたが通信方式にGSMを採用していない日本などでは発売されていないため、iPhone 1st Generationは染みが薄い。しかし本機はまぎれもなくAppleのその後の命運を左右するにふさわしい記念すべき製品である。



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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。ゆうMUG会員