マンガジャパンとデジタルマンガ協会合同新春の会へ

2月28日、帝国ホテルの桜の間において「マンガジャパン」と「デジタルマンガ協会」合同新春の会が行われ多くの出席者を交えてにぎやかな交流の場となった。 


私は昨年も出席させていただいたが今年もご案内をいただいたので予報よりはるかに寒い夕暮れの有楽町をコートの襟を立てて会場の帝国ホテルに向かった。 
すでにそこには知り合いの方々が多く集まっていたが主催者側にはこういう時でないとお会いできない水島新司、ちばてつや、里中満智子などそうそうたる方々がいる。 

司会進行は里中満智子さんで挨拶は水島新司、ちばてつや両氏が行ったがデジタルマンガ協会の会長であるモンキーパンチさんは残念ながら風邪で欠席となった。 
「あぶさん」が描かれている酒樽で鏡開きをした後には元アップルコンピュータの社長、現マグドナルドの代表取締役である原田さんが乾杯の音頭にかけつけた。 

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※マンガジャパン/デジタルマンガ協会合同新春の会で挨拶をされる水島新司氏とちばてつや氏(上)。写真下は司会進行の里中満智子氏


会場ではあちこちに見知った方々の顔も見える。そうした幾人の方々とあらためて名刺交換し簡単な情報交換をした後に私は早々と会場を後にした。 
ところで帰りに渡される土産は昨年同様にワインだが、そこにはモンキーパンチさんと水島新司さん合作のオリジナルワインラベルが貼られているお宝である(^_^)。 

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※そういえば昨年のワインももったいなくて未だに手つかずにいる。さてどんなときにこのワインを開けようか...(笑)



私の秋葉原物語「その不思議な街」

"AKIHABARA"という街は日本のみならず外国人にもよく知られ、観光で来日した人たちの多くが立ち寄る場所のひとつでもある。事実これだけの広い地域に電気・電器関連店舗がひしめいている街は秋葉原と関西の日本橋の他にはない。 


私が頻繁に秋葉原の電気街に寄るようになったのはワンボードマイコンが登場した1977年からのことだ。それ以前にもその存在を知ってはいたものの、一人でこの街を歩き回ることはなかった。なぜならヤマギワ電気などの大型店はあったものの、予備知識がなかったこともあり、ほとんどのお店がいわゆるジャンク品を扱う特殊な店ばかりに映ったからだ。そして事実、ふらりと気軽に入れる店はあまりなかった。 

1977年の暮れに10万円をポケットにねじ込み、意を決して入ったところは駅前のラジオ会館だった。その中のとあるショップでワンボードマイコンと専用電源を買ったのだが、そのさまはなにかアメ横か河岸で生鮮食料品でも買ったような新鮮な感覚だったことを今でも覚えている。 
そんな感じを受けた原因のひとつは店員さんが、いやに元気で声が大きかったからかも知れない(笑)。

その後、マイコンやパソコンを使い始めることで自然にハンダごてを持つようにもなり、駅のガード下につらなる雑多なお店をも楽しみに回るようになった。そこでは店頭で購入物を選別する際にダイオード、抵抗そしてコンデンサーなどの細かな品を落としたり無くさないようにと小さなプラスチック製のトレーに入れることが購入時のルールだということも知り、いろいろな意味でカルチャーショックを受けたものである。 
しかし相変わらず20年前の秋葉原は特殊な街であり、場違いの専門店に入るような一種の気構えが必要だったし、お世辞にも綺麗な街ではなかった。 

ところで現在の秋葉原とは東京都千代田区北東端にある一地区、すなわちJRの総武線、山手線、京浜東北線および営団地下鉄日比谷線が乗り継ぐ秋葉原駅を中心とする一帯を指している。 
昔...年輩の江戸っ子の中には"アキハバラ"を"アキバハラ"と呼んでいた人たちがけっこういたものだ。 
その秋葉原は明治3年(1870年)に秋葉神社(あきばじんじゃ)を祀り、秋葉原(あきばっぱら)といわれたのが地名の由来だそうだから"アキバハラ"という呼び名は間違いではなく、反対にその由来を正確に表していることになる。 
しかしいつから"アキハバラ"と呼ぶようになったのだろうか...(^_^)。 

この一帯は江戸時代においては下級武士の住居だったそうで、1928年(昭和3年)東北本線の貨物駅に接してあの神田青果市場ができ、第二次世界大戦後には闇市が立ったのをきっかけに、電機製品の問屋・小売店街として発展することになる。特に闇市があった頃には時代を象徴するトラブルや出世物語なども多々あったようだ。 

その秋葉原はいまでこそ、店内が明るくそして綺麗な大型店が増え、女性客も安心して買い物ができる環境になったたが当時のショップの多くはガード下や地下だったり、間口が極端に狭く、体を斜めにしながら店内に入らないと積んである段ボールなどにぶつかるような店ばかりだった。そしてまた非合法のコピー製品や得体の知れない製品なども多く、魅力がある反面危ない雰囲気も感じさせる街だった。 
ここだけの話だが(笑)Macintosh関連機器のショップとしては老舗でもあったイケショップは当初Apple IIのコピーカードなども扱っていたこともあり一部のユーザー仲間からは「マネショップ」などと陰口を叩かれていたこともある。 
ちょうど私が頻繁に通っていた頃(1986年)の秋葉原の映像がYouTubeにあったのでご紹介しておきたい。




さて、一般家電のお店はともかく、パソコンショップに限り現在と違う点をいえば雰囲気はともかく店舗の数と店員さんたちの発する熱気だろうか。 
10数年前...秋葉原でもいわゆるアップルマークの看板を掲げているお店を探すのは大変なことだった。それでも例えば九十九電機や亜土電子工業、そしてイケショップなどの各店にはご自身がどっぷりとパソコンやアップルに浸かりきっている熱血店員さんたちが多くいたものだ。 

彼らからパソコンの最新情報を教えてもらったり、反対にソフトウェアやハードウェアの実際の使用感を報告したりと本当の意味でのコミュニケーションがあった。そうした店員さんたちの知識の豊富さと自信を持った対応が魅力で多くの時間を客と店員という枠を越え、アップル談義に花を咲かせたものだった。 
また先のイケショップでは名物専務さんが店にいる時に遭遇すると品物をだまってレジに持っていくだけで係に「松田さんだ...○%値引きしときな...」と言ってくれるなど嬉しい対応をしていただくのでついまたその店に足が向いてしまうのだった(^_^)。 

当時のお店はそうした名物店員さんや店長さんたちの個性でお店が支えられていた感があったが現在は品揃えもよく、明るく、綺麗な店が揃った反面なかなかそうしたコミュニケーションが結べるショップがないのが残念だと思っている。 

そもそもそれ以前に「秋葉原は電気街」という印象だけではなく「萌え系の街」であったり「フィギュアの街」としての変貌も遂げている。そうした変化の是非はともかく駅前の再開発も進み大型電気店も隣接したいま、今一度電気街としての活気を見せて欲しいものである。


スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語

スティーブ・ジョブズがビル・アトキンソンらとゼロックス社パロアルト研究所(PARC)を訪れた際のエピソードはこれまで虚々実々のいわれ方をしてきた。しかし、その一瞬はAppleの歴史にとっても最も重要なシーンだったことは間違いない。今回はその日、その時に焦点を当ててみる。


後年WindowsがMacに似すぎていると文句を言ったスティーブ・ジョブズ(以後S.ジョブズ)に対し、Microsoft社のビル・ゲイツが「ゼロックスの家に押し入ってテレビを盗んだのが僕より先だったからといって、僕らが後から行ってステレオを盗んだらいけないってことにはならないだろう」と言い放ったという話がある。

この物言いは、当時Apple Computer社(以後Apple社)のS.ジョブズがPARCに乗り込み、PARC側の意志を無視して文字通り技術を奪い取ったとも受け取れる発言だし、これまで一部のマスコミでも同種の扱いをされてきた感がある。
しかし、この映画の名場面ともなるであろう、その日その時を十分に考察すれば、決して非合法なやりとりがあった訳でもなく、ビル・ゲイツのいい方はあくまで悪たれ口に過ぎず、いたずらにApple社とS.ジョブズの印象を貶めた不適切な物言いである。

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※パロアルト研究所 (Palo Alto Research Center Inc.) ウィキペディアより


事実はひとつしかない。しかし残念ながらその事実も、実際にそこにいた人に聞いてみたところで1979年12月に起こったであろう数時間の出来事は、記憶の問題だけでなく、立場の違う人によってその印象が随分と違っていたところで驚くには値しない。

事実はひとつでも、それぞれの人間にとってはそれぞれの真実が形作られるのであり、人間とはそもそもそんなものなのだ。
ましてや25年も昔になろうとしているその数時間を客観的に描き出すことができるとすれば、それは神しかいないだろう。
しかし矛盾は矛盾として、無理は承知で、私はどうしてもS.ジョブズがPARCでAltoのデモを見た瞬間の様子を知りたいと考えてきた。その一端として今回、限られた資料をもとに、その瞬間を独断で再現してみたいと思う。

そもそも、S.ジョブズがPARCを訪問した月日からして、いくつかの記述は矛盾する。年は1979年に間違いないようだが、斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」のジェフ・ラスキン自身によれば「...ビル・アトキンソンらと画策して、何とか彼(S.ジョブズ)をPARCに行かせたんです。1980年のことです」と発言している。ちなみにジェフ・ラスキンはMacintoshのプロジェクトの生みの親であり "Macintosh "の命名者だったが、後にS.ジョブズは彼を追い出して自身がMacintoshの指揮をとることになる。なおジェフ・ラスキンは残念ながらすでに鬼籍に入ってしまった。

それはともかく、Owen W.Linzmayer著「Apple Confidential」では、S.ジョブズは1979年11月に初めてPARCを訪れ、そして翌月の12月に再訪問したとある。

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※若かりし頃のスティーブ・ジョブズ。1977年4月のWCCFにおいて自社ブースにて


ポール・クンケル著(大谷和利:訳)「アップル デザイン」を見てみよう。そこには「1979年12月に、Jobsは側近と共にPARCの研究者だった、ラリー・テスラーに会い、内部を案内してもらった」とある。
しかし、Michael Hiltzik著「未来を作った人々」によれば、1度目の訪問は12月であり、2度目はそのたった2日後のことであるという。またPaul Freiberger & Michael Swain著「パソコン革命の英雄たち」では、1度目の訪問はただ単に春と記述されており、2度目の訪問の話題はない。そして「マッキントッシュ伝説」によれば、インタビューに答えたアラン・ケイの話しとして、訪問月の示唆はなく、1度目の後も「アップル社からはその後何度も来た...」とある。

さらに「アラン・ケイ」(鶴岡雄二訳・浜野保樹監修 アスキー出版局刊)の中で浜野保樹氏によれば、「1979年11月、ジョブズがPARCを訪問してアルトに啓示を得、リサを経由してマッキントッシを開発したいきさつは、現代の神話としてあまりにも有名だ」と紹介されている。

またこれらの著書と比較して比較的近刊である「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著/山崎賢治訳(日本評論社刊)には訪問の年は1979年後半とこれまでの情報と同じだが「ゼロックスがアップルの買収を考えてS.ジョブズに接触した」とかなりニュアンスの違う記述があり、かつゼロックスの幹部からPARCを見学するよう頼まれたとある。しかしこれは当時のApple社ならびにS.ジョブズの動向から考えて私は事実とは思えない...。

ただし「ジョブズ・ウェイ」の著書で当時スティーブ・ジョブズの右腕と言われていたジェイ・エリオットによれば、ジョブズのメルセデスに乗りPARCまでドライブに出かけたことがあるらしい。それはジョブズがAppleのエンジニアたちを引き連れて訪れた1ヶ月後のことだったという。であるなら先のアラン・ケイの話しのとおり、その後は頻繁に訪れたと考えた方が自然だろう。

なお講談社刊「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」のラリー・テスラーによれば、ジョブズが初回より多くの人たちを連れた2度目の訪問は1度目のプレゼンの約2週間後だっと証言している。

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※ラリー・テスラー。1985年5月13日号のInfoWorld誌より


もともとS.ジョブズにPARC訪問を勧めたのはジェフ・ラスキンだったようだが、当時のS.ジョブズはラスキンを嫌っており、彼の申し出を意に介さなかったようだ。しかしジェフ・ラスキンはその重要性を感じ、友人のビル・アトキンソンをジョブズの説得にあたらせたというのが真相のようである。ちなみにジェフ・ラスキンはビル・アトキンソンが以前通っていたサンディエゴの大学の先生だったという。

なおS.ジョブズ関連図書として講談社から発刊された公認の自伝「スティーブ・ジョブズ」によれば、訪問は1979年12月に2回あったとされている。また同書にはAppleが株式公開に際してS.ジョブズ自身が「PARCが着物の前をはだけてくれるなら100万ドルの投資を受け入れる」と提案したとある。しかしこれが事実だとしてもS.ジョブズが最初にPARCを訪問した動機はビジネス上の義理とか約束事とは考えにくいからやはりビル・アトキンソンの勧めにしたがったのではないだろうか。

ともかく訪問の年と月からしてこの調子だから、真実を極めるのはほとんど無理のような気がするが、気を取り直して話を進めよう(笑)。
さて、S.ジョブズがPARCを訪れた時に同行したAppleのスタッフらは誰だったのだろうか。そしてPARC側はどんな人たちがそれに対応したのだろうか。

「Apple Confidential」によれば、初回はビル・アトキンソンを伴って訪問したが、2度目はホーキンス、ロイミュラー、リチャード・ペイジ、ジョン・デニス・コーチ、マイケル・M・スコット(Apple社の社長)、トーマス・M・ホイットニー、ブルース・ダニエルズが一緒だったという。しかしPARC側のスタッフの記述はない。

「未来を作った人々」では、1度目についてS.ジョブズの同行者の記述は無いが、2度目はマイケル・M・スコット、ビル・アトキンソンら10人ほど...とある。またPARC側としては1度目はラリー・テスラー、2度目はハロルド・H・ホール、アデル・ゴールドバーグ、ダイアナ・メリー、ダン・インガルズの名があがっている。
「パソコン革命の英雄たち」には1度目の記述無く、2度目はビル・アトキンソンを連れていったとあるが、PARC側の同席者の名はない。

「マッキントッシュ伝説」のアラン・ケイの話しによれば、Apple社からは4,5人来たと発言し、PARC側のスタッフとしてアラン・ケイ自身は勿論、ラリー・テスラー、ダン・インガルズがその場にいたと証言している。
アラン・ケイは当時、PARCのスタッフとしてAltoにたずさわっていたから、同席していたとしても不思議ではなく、そのほうが自然だ。そして前記したように本人も「その場にいた」と発言しているが、他の資料には重要人物であったはずのアラン・ケイの名がないのもこれまた不思議である。 ただし別の情報によればこの時期のケイは退社を考えていたためにサバティカルに入っており居合わせる機会が少なかったらしい...。

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※アラン・ケイ。1984年6月11日号のInfoWorld誌より


不思議といえば、本記事を書き始めた時点では不明だったが、2008年11月に刊行された「アップルを創った怪物」(ダイヤモンド社刊)によれば、アップルのもう一人の創業者スティーブ・ウォズニアック自身が「スティーブほか、僕ら数人のアップル社員がゼロックスのパロアルト研究所PARCに行った」と発言している。さもありなんと思うが、いかに資料をつき合わせてもウォズニアックの名がないのが不思議だったものの、この事実は書籍や公表されている資料だけを鵜呑みにしてはならないことを教えてくれる。

さらに近刊ウォルター・アイザックソン著「スティーブ・ジョブズ」によれば1回目の訪問時にはジョブズ、ラスキン、ジョン・カウチの3人をPARCのアデル・ゴールドバーグがAltoが置かれているロビーに案内したとある。そして数日後に再訪問し、ビル・アトキンソンも一緒だったとあるが他の参加者には触れていない。

またS.ジョブズらのPARC訪問は偶然であったり、行き当たりばったりであったわけではない。開放的であったといわれているPARCにしても、だれでもが入り込んで勝手にAltoのオペレーションを見ることができるわけではなかった。

前記したようにS.ジョブズ訪問の8ヶ月ほど前、すなわち1979年4月にさかのぼるが、この時代最高の前評判でまもなく上場することになっていたApple社には多くの投資家が資本参加を望んでいた。ゼロックス社もそのひとつだった。それを知ったS.ジョブズは資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出たという話もある。

講談社刊「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」のラリー・テスラーによれば、当時ゼロックスとAppleはAppleの株式公開に先立ち複雑な交渉を続けていたという。そして前記したようにAppleは「資本参加を承諾する代わりに、ゼロックス社の技術を知りたいと申し出た」と証言している。しかし合理的に考えれば、当時のS.ジョブズがゼロックス社の具体的なテクノロジーに興味を示していたという証拠はなく、その可能性も低いと思われる。

なぜなら当時、大企業を嫌っていたという彼は「ゼロックスみたいな大企業には何も面白いことはできない」と発言していたという(「未来を作った人々」)。だから1度目は、S.ジョブズ自身、具体的な何かを期待してPARCを訪問したのではないと考えることもあながち無理ではないだろう。そしてもし、具体的にAltoやそのSmalltalkの情報を得たければ、方法は他にいくらでもあっただろう。彼の立場からすれば、ストレートに知りたいことを要求することも可能だったと考えられる。
しかし2度目の訪問はあきらかにS.ジョブズが1回目の訪問で刺激を受けたことによる。

ともかく、S.ジョブズたちに何をどの程度見せるかという決定権はPARCにはなかったという。そしてゼロックス本社から「見せろ」という決定が下ったのだから、S.ジョブズたちは間違いなく正式にPARCの門をくぐったのである。

なおスティーブン・レビー著「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」では些か違ったアプローチをしている。
それによればPARCへは1979年12月の訪問とし、Appleからはスティーブ・ジョブズを含めて8人がデモルームに通されたとある。それらはジョブズの他、ビル・アトキンソン、マイク・スコット、そして重役とLisaプロジェクトの技術者たちだった。またPARC側はラリー・テスラーが対応したとある。

その訪問のきっかけとしてスティーブン・レビーはAppleが勧誘していた投資にゼロックスが興味を示し、Appleの株式10万株を100万ドルで売却する見返りとして仕組まれたセレモニーだったとしている。ただしスティーブン・レビーの書き方では前記した8人が初めてPARCへ訪問したというニュアンスで紹介しているだけで、2度目あるいはその前後の訪問については有る無しを含めて明記していない。ただしスティーブン・レビーは「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」の別項で「Lisa開発チームの技術者にPARCの先進的なディスプレイを見に行くよう最初に勧めたのはジェフ・ラスキンだった」とし、当のラスキンもその歴史的訪問に同行したと書きApple側のPARC訪問は1度限りではなく数回あったことを示唆している。

ちなみに、以下の映像ではS.ジョブズたちが最初にPARCで観たであろうSmalltalkシステムの一部映像と後述するPARCのアデル・ゴールドバーグ女史の姿を見ることができる。映像の最後の方にApple IIの一部が映ることでこれまたMac以前の映像だと推察できるがそれに気がつかない人には「マックみたいだ」と思うかも知れない(笑)。なにしろ1979年にここまで完成していたSmalltalkシステムには驚愕させられる。



ただ知っておかなければならないこととして、「未来を作った人々」によれば、PARCのSmalltalkのデモには2つのバージョンがあったという。特に審査に通ったVIP向けのものと一般に見せるものとである。
明らかに1度目は、誰にも見せる式の、いわゆる無害なデモを行った。しかしS.ジョブズは、そのとき自分たちに与えられなかった情報がどれだけあるのかを悟ったらしい。だから「未来を作った人々」いうところの、たった2日後に再び大人数を連れてPARCに再度出向いたのだ。

「未来を作った人々」によれば、当時PARCの学習研究グループ(LRG〜アラン・ケイが責任者)所属でSmalltalk共同開発者の一人でもあり、デモを担当していたアデル・ゴールドバーグは2度目のS.ジョブズらの来訪を激怒したという。

彼女はいう。「来てみれば.....予告もなしで。2日後にですよ。しかもハロルド・ホールとロイ・ラーが廊下に現れて、私が2回目のデモをすることになってるって言うんです」。
当初アデル・ゴールドバーグと仲間たちは、前回同様に害のないデモを見せてS.ジョブズたちを追い返そうと考えたらしい。アデル・ゴールドバーグはApple社の能力と意図を知るよしもなかったが、技術者の本能と自身らが開発し育てたSmalltalkの重要さと大切さを知っており、特にプログラマーにそれらを見せるリスクを恐れていた。彼女は何とかしてゼロックス社自身にAltoとSmalltalkを正当に評価させ、これを世に出したいと考えていたらしい。

だが、事はアデル・ゴールドバーグたちの思惑通りにはいかなかった。なぜならゼロックス社から「ジョブズが望むものはすべて見せろ」「ジョブズ氏に機密ブリーフィングを実行せよ」という電話が入ったからだ(「未来を作った人々」)。また「スティーブ・ジョブズ」ではピル・アトキンソンはPARCの論文を読んでおり、S.ジョブズも隠されていることが多いことを知りゼロックス社のトップへ苦情の電話を入れたとある。

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※ゼロックス社のAlto (1992年富士ゼロックス社展示会において筆者撮影)


ともかく、本社側の命令は守らなければならない。マネージャーであるハロルド・ホールはデモチームに、S.ジョブズと部下のエンジニアたちが正式な扱いを受けるよう指示するしかなかった。
「未来を作った人々」によれば、アデル・ゴールドバーグはそれを聞いて、激怒のあまり目に涙をうかべ、ハロルド・ホールらに喰ってかかったという。デモを拒否し、大立ち回りの末に彼女は上司の命令だからと、まだ真っ赤な顔をしたままSmalltalkの入ったディスクバッグを持ち、S.ジョブズたちの前に現れた。

確かにアデル・ゴールドバーグの危惧していたことは確かとなった。天才プログラマーとして名を残すことになったビル・アトキンソンらの集中した様子は、彼女をますます不安にした。

「未来を作った人々」にはPARC側のラリー・テスラーの言葉として、同行したビル・アトキンソンは明らかに十分な予習をしていたという。事実、後になってから分かったこととして、ビル・アトキンソンはPARCが出版した論文をすべて読んでいたという。そして「我々の持つものをゼロックス社よりはるかに良く理解していることは明らかだった」と回想している。

また「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...しかし、アルトのアイデアはジョブズがアルトを見る以前から公開されていた。ゼロックス社の顧問弁護士が心配したように、1977年にケイが発表した論文にすべてが書き込まれていたのだ...」と書いている。

なお「マッキントッシュ伝説」によるビル・アトキンソン本人の話しによれば、AltoでなされたSmalltalkによるワードプロセッサのデモを見て「すごく興奮した」と証言しているものの、それはまったく意外なものを見たからではなく、「...われわれの方向性が間違っていないとわかったからです。.....ですからAltoを見たとき、われわれがやっていることは間違っていないんだというふうに思いましたし、これは絶対にできるというような感触を覚えたのです」と話している。

「未来を作った人々」には同じくビル・アトキンソンの話として、後年このPARC訪問なくしてLisaは生まれなかったといわれるのを嫌い、「後知恵でいえば、行かないほうがよかったくらいだ」といい、続けて「われわれはオリジナルの研究をずっとたくさんやっていたんですよ」と結んでいる。さもありなんと思う。

しかし、2度目のVIP待遇のデモにはビル・アトキンソンはじめ、S.ジョブズも度肝を抜かれたというエピソードはこれまた有名だ。有名な話しではあるが、ここでもイマイチその内容がはっきりしない。
Altoの画面上のテキストが1行ごとにスクロールするのを見たS.ジョブズが(「マッキントッシュ伝説」では、アップル社のひとりが...とされている)、「これがスムーズにドットごとに紙みたいに動いたらいいが...」(「未来を作った人々」)といったとされる。また「(Apple側が)テキスト処理をビデオのように逆に進められるかと挑んできました」(「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイの話しとして)という少しニュアンスが違う証言もあるが、ともかくApple社側のその場の思い付きの要望を、デモをしていたダン・インガルズが「ちちんぷいぷい(「未来を作った人々」)」、「Altoを止めずに約25秒で(「マッキントッシュ伝説」)」実際にそれをやってのけたという。

これにはS.ジョブズも驚き、「この会社はなんでこいつを発売していないんだ?!何が起きているんだ?わからん!」なんて叫んだという(「未来を作った人々」)。また「マッキントッシュ伝説」によるアラン・ケイの話しによれば、S.ジョブズはAltoを一台正式に購入したいと要望したが、ゼロックス社はそれを拒否した。

S.ジョブズはPARCでデモを見た印象を「...理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と発言したという。ただし同時にS.ジョブズは後年いわゆるそのGUIに目を奪われ、オブジェクト指向プログラミングとEthernetでつながった電子メールの重要性に気が回らなかったと反省している(「アップル デザイン」)。

その後、Apple社はLisaにPARCで体験して得たパーソナルコンピュータの理想を託そうとしたが、現実はAltoおよびSmalltalkのすべてがLisaに渡ったわけではない。いわゆるルック・アンド・フィール、すなわちインターフェースの基本的外見と一部の機能がLisaで実現されたことは確かだが、反面メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタン・マウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、そしてゴミ箱などはApple社自身のいわゆるオリジナルなアイデアだった。

しかし「未来を作った人々」によれば、PARCがLisaとMacintoshの設計者たちに及ぼした影響で最も重要なのは、おそらく精神的なものであり、訪問後にLisaの設計者たちが出した設計要綱は、アラン・ケイやラリー・テスラーの精神の完全な開花と言えた。何しろそこには「Lisaは使って楽しくなければならない」と命じているという。

続けて「このシステムは『仕事だから』とか『上司がやれというから』使うようなシステムにはしない。Lisaを使うことそのものが報酬となって、仕事が充実するよう、ユーザーとの相互作用における友好性と機微には特に注意を払わなければならない」とあるという。この感覚と思いは、われわれMacintoshユーザーが最初期からずっと感じてきたものであり、そのことはそれまで...あるいはその後も他社製のパーソナルコンピュータと一番違う点である。

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※1983年1月に発表された Lisa


それから、Altoは商用として販売されていたマシンではなく、これまたよくいわれることだが結果としてゼロックス社はその研究結果および資産を有効に活用しなかった。しかし後になってStarなどのワークステーションに活かされる部分もあったのだから、まったく顧みられなかったというわけではないものの、積極的に製品化するという行動に出なかったことは歴史が証明している。ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダーは著書「取り逃がした未来〜世界初のパソコン発明をふいにしたゼロックスの物語」の中でなぜゼロックスは発明を事業として成功させることができなかったのかを説いている...。

事実、ラリー・テスラーらはS.ジョブズらが驚愕して賞賛を惜しまなかったAltoおよびSmalltalkの開発責任者として、評価されたことを大いに喜んだという。特に2度目のPARC担当者らのデモは行きがかりはどうあれ、デモをしたPARC側の人間もApple側の反応の良さと的確な質問に真の理解者を得たと思ったようだ...。

確かに当初PARC側の彼らは、規模も歴史も、そして経験も自分たちのそれとは違う小さなApple社を軽く見ていたようだが、無関心なゼロックス社とはまったく違うS.ジョブズたちの狂的な熱心さに、自身たちの価値観を再発見したのであろう。そしてその日の出来事はラリー・テスラーらPARC側の人間の運命をも変えることになった。なぜなら後にラリー・テスラーをはじめ、アラン・ケイ、スティーブ・キャプスら15人以上のPARC従業員がApple社に移ることになったからだ。

論理的に考えて、このときPARC側、すなわちデモをしたラリー・テスラーや同席したというアラン・ケイらがS.ジョブズおよびApple社に対して、不愉快な思いをしたならば、後にApple社に移ることも無かったかも知れないと思う。

「AppleはPARCのテクノロジーを盗んだ」といった興味本位の話が広がっているが、PARCはこれまでにも研究を進める資金を提供し、支援する気のある正当な顧客に対しては、喜んでSmalltalkのデモをしていた。ましてや前記したように、PARCのApple社への待遇は、結果としてゼロックス社からの正式な承認を受けたものだったことを忘れてはならない。

「アラン・ケイ」の浜野保樹氏による「評伝アラン・ケイ」にも「ケイは、アルトについて論文を発表しようとするたびに、ゼロックス社の顧問弁護士に出版をとりやめさせられた。しかし、デモンストレーションについては、不思議なくらい寛容だった。大量の視察団がPARCを訪問し、アルトを見た。1975年だけでも2,000人の訪問者がアルトのデモを見たが、正しくアルトを理解する者はいなかった。」と綴っている。

多くの人がAltoとそのデモを見たが、歴史が示すようにApple社のS.ジョブズたち以外、それらを現実のビジネスとして形作ろうと考えた人間はいなかったのだ。そこに大いなる宝が転がっていることに誰も気がつかなかったのだ。

かつてS.ジョブズは友人のスティーブ・ウォズニアックが手作りしたコンピュータを見て、直感的にビジネスになると考え、ウォズニアックを説得したからこそApple IIが誕生し、Apple Computer社が存在することになった。
「アラン・ケイ」の中で浜野保樹氏は「...ガレージでApple IIを完成させた。あのときと同じことが起こった。ジョブズは、埋もれてしまったであろう優れた技術を、二度もビジネスにつなげたのである。」と記している。まさしく、S.ジョブズなくしてはAltoで培われた多くのアイデアをパーソナルコンピュータに託すことはできなかった。そしてLisaやMacintoshを「Altoの猿まね」と称する人々もいるが前記したように文字通りそれらは単なる猿まねではなく時代が求めたAppleのオリジナリティを多く含むテクノロジーの継承であった。

歴史に if はタブーだというが、もしS.ジョブズらのPARC訪問がなければMacintoshはいまの形では存在しないことは勿論、いかに優れて時代を先取りしていたAltoあるいはSmalltalkシステムだとしてもこれまた現在のような評価を受けていたとは思えない。

したがって冒頭のビル・ゲイツの発言がいかに不当なものであることは分かるだろう。
S.ジョブズ、ビル・アトキンソンらそれぞれが、PARCのデモから受けた印象と思いは違うだろう。しかしそこで触発された衝撃はLisaやMacintoshの開発過程における大きな確信となったことは間違いない。

いずれにせよ、Lisaはビジネスとして失敗したが、そのDNAはMacintoshで開花した。ビル・ゲイツには悪いが、Macintoshの成功なくしてWindowsの今はあり得ないし、百歩譲ったとしても現在のインターフェースにたどり着くにはさらに大変な時間が必要となったに違いない。
「マッキントッシュその赤裸々な真実」(Scott Kelby著、大谷和利訳)には逆説的なこんな言葉が載っている。
「Windowsマシンがイカして見えたらApple社に感謝しな!」と。

【参考資料】
・「未来を作った人々」Michael Hiltzik著、鴨澤眞夫訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「Apple Confidential」Owen W.Linzmayer著、林信行・柴田文彦訳(アスキー出版局刊)
・「マッキントッシュ伝説」斎藤由多加著(アスキー出版局刊)
・「パソコン革命の英雄たち」Paul Freiberger & Michael Swain著、大田一雄訳(マグロウヒル刊)
・「マッキントッシュその赤裸々な真実」Scott Kelby著、大谷和利訳(毎日コミュニケーションズ刊)
・「アラン・ケイ」鶴岡雄二訳・浜野保樹監修(アスキー出版局刊)
・「アップル デザイン」ポール・クンケル著、リック・イングリッシュ写真、大谷和利訳(アクシスパブリッシング刊)
・「取り逃がした未来」ダグラス・K・スミスとロバート・C・アレキサンダー著、山崎賢治訳(日本評論社刊)
・「ジョブズ・ウェイ」ジェイ・エリオット、ウィリアム・L・サイモン著、中山宥訳(ソフトバンククリエイティブ社刊)
・「スティーブ・ジョブズ」ウォルター・アイザックソン著、井口耕二訳(講談社刊)
・「マッキントッシュ物語〜僕らを変えたコンピュータ」スティーブン・レビー著、武舎広幸訳(翔泳社刊)
・「Steve Jobs Special ジョブズと11人の証言」講談社刊



Apple QuickTake100 リリース前秘話

本来の意味でデジタルカメラのブームはAppleのQuickTake100から始まったといえる。発表は1994年1月だがそれはコダック製であった。しかし残念ながらビジネス的には成功せずその後に登場したカシオのQV-10に市場の興味はすっかり移ってしまった感がある。 詳細な月日は記録がないが、1994年のある日...としておこうか。アップルコンピュータ社から電話が入った。アップルが千駄ヶ谷にあった頃の話しである。 


依頼の内容は新発売するデジタルカメラについて意見を聞きたいということだった。私の会社はMacintosh関連のグラフィックにフォーカスしたソフトウェアを多々開発していたこともありAppleブランドのデジタルカメラを日本でリリースするに際しデベロッパの代表として意見を聞きたいという話だった。 
早速私は千駄ヶ谷のアップルを訪れ、QuickTake100のプロダクト担当者に紹介されたが、米国からわざわざ来日した担当者とアップルのデベロッパー担当者、そして私との間で約1時間半程度のミーティングを行った。 

見晴らしの良いビルの一室。モノトーンの綺麗な室内。そしてアップルのビルから見える真っ青な空が印象的だったが、担当者から見せられたQuickTake100は想像していたより大きかった。そして当時のPowerBookなどと同一の濃いグレーカラーは私にとってあまり好みではなかったがデザインは新鮮に映った。 
しかし要はデザインとか大きさのことではなく(^_^)、販売戦略としてどのような位置づけをすべきなのかという一点が問題だった...。 

QuickTake100は内部メモリーに最大でも8枚しか撮影ができないこと(現在のようにメモリカードなどはサポートされていない)。そして製品としては確かに画期的であったがその39万画素による最大640×480ピクセルの画質はお世辞にも写真とはいえない画質だった。それは当時としてはやむを得ないもののビジネス利用はもとより家庭向けとしても十分な画質ではなかったのである。 

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※Apple純正デジタルカメラ「QuickTake 100」


さて意外なことにAppleのプロダクトマネージャーはDTPの利用を想定して作ったパンフレットを持ち出し意見を求めてきた。どうやらスモール・ビジネス、そしてホームユースとしてデスクトップ・パブリッシングを意図した販売戦略を企画したらしい。なにしろApple純正カラープリンタであるStyleWriterとの組み合わせもアピールすることになっていた。 
しかし私は即刻「このコンセプトにQuickTakeはそぐわない」と反対した。 

QuickTakeの画質を直視し、勿論Macintoshユーザーの志向を考慮するなら「デジタルデータをデジタルデータのまま利用する「電子アルバム」向けの戦略が中心であるべきだ」というのが私の意見だった。撮影したデータは印刷には不向きであっても少々工夫することでモニター上の表示なら活用できると判断したからである。 
それは当時すでに私の会社がNIFTY-Serve(現@nifty)のオンラインショップ向けに「QTアルバム」という電子アルバムソフトをリリースしていた実績があり、ユーザーからの反応も含めて総合的に考察した結論だった。 

「QuickTakeでなければ出来ない」、「QuickTakeらしさ」といった方向を考えれば自ずとフォーカスが決まると思うが、QuickTakeを一般のカメラに立ち向かわせる時代ではなかったし、その性能でもなかった。事実StyleWriterで出力するQuickTakeの画像はお世辞にも綺麗なものではなかった。ましてやそれをビジネスで実利用することができるはずもなかった。 

しかし当のプロダクトマネージャはPowerBookによる私のプレゼンテーションや「デジタルデータをそのまま活用させるべき」という提案をどうも理解できない様子だった(^_^)。最初は通訳してくれるアップルのスタッフがきちんと意味を伝えてくれないのかと思ったがどうもそうではないらしい...。
当時は「電子アルバム」といったソフトウェア自体もあまり見受けなかった時代だからしてそれがどのような意味を持つのかが理解できなかったのではあるまいか。 

別に私の意見や提案が常に正しいというつもりはまったくない(笑)。しかしこれまで多くの米国Appleのプロダクトマネージャたちに会ってきたが、現在はともかく当時は意外なほど彼ら彼女らはその任されたプロダクトの専門家であるケースはほとんどなかった...。 
無論デジタルカメラの専門家なんて当時はこの世になかったし、ましてや彼はカメラそのものに関しても十分な知識があったとは思えない。 

だから...自分で言うのも気恥ずかしいが...例えば私より日常多くの写真を撮り、私より多くのデジタルカメラ利用の経験を持ち(それ以前はスチルカメラというアナログ記録のカメラが存在した)、ソフトウェアの事情に詳しく、Macintoshの市場に精通し、そしてMacintoshユーザーの気持ちを理解・代弁できるプロジェクトマネージャの判断なら意見が違っても一理はあるかも知れないと考えるだろう。しかし失礼ながら特に写真とかカメラを好むわけでもなく、単にプロジェクトマネージャに任命されたというだけの担当者に何が分かるのだろうか(^_^)。 

デベロッパーの意見を聞きたいというその姿勢は良い。そしてせめて「貴方の(私のこと)いうことはよく分かる。しかしこうした理由で私たちは(Apple)はこういう戦略をとりたいのだ」というのなら話し合いは意味のあるものになるだろう。しかしそのミーティングのほとんどはAppleの販売戦略がどのようなものになるのかという説明に終始した。結局ストーリーはすでに出来上がっていたのだ...。 

正直言ってやりたかった。「私も暇ではない。なぜあなた方は私を呼んだのか」と。 
私はその言いたい言葉を飲み込みながら「現在の計画通りDTP路線でQuickTake100を販売するなら市場やユーザーの支持を得るのは難しいでしょう」と結論づけて席を立った。 
アップルのビルのエントランスを出て「ふぅ〜」と大きなため息をつきながら空を見上げると、そこはすでに茜色に染まりつつあった。 

その後のQuickTakeは150がリリースされ、さらに富士写真フイルムのOEM製品であるQuickTake200まで生き長らえたがせっかくのデジタルカメラ一番乗りはビジネスとして成功したとはいえず、続くカシオのQV-10の出現にその興味の座は奪われてしまった。 

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※QuickTake 200、富士写真フイルム製「クリップ・イットDS-8」のOEMだった


QuickTakeとMacintosh本体との接続はシリアルケーブルで行ったがコントロールパネルから認識させることができ、デスクトップにマウントされるという後のUSB接続を先取りするような斬新なものだっただけに残念に思う。 
しかし私自身は律儀にも(笑)そのQuickTake 100ならびに150を仕事に関係したとはいえ、そして批判しながらも数台購入したのだからあまり偉そうなことも言えないのである...(^_^)。 

久しぶりの「漢字Talk1.0」は面白い!

インテル版Macが話題の中心にあるとき、今さら「漢字Talk 1.0」でもないかも知れないが(笑)、いくかつ確認したいことがあったので久しぶりに愛機「御影石MacPlus」でその「漢字Talk 1.0」を起動してみた。 


念のために記すが、私のMacintosh Plusは初代Macintosh 128Kから512Kへとアップグレードし、さらに1986年にPlusへと基盤交換をした由緒あるマシンなのである(^_^)。さらに米国の業者へ本体一式を送り、キーボードからマウスに至るまで御影石調に塗った私にとってはお宝でもある。 
嬉しいことにこの別名「墓石マック」は(笑)現在でもきちんと動作する。そして当時の環境を再現するためもあってハードディスクは内蔵していない。したがって内蔵フロッピードライブならびにフロッピーディスクがデータの受け渡し時に重要な役割を果たすことになるがこちらもトラブルは発生していないという健康優良児である。 

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※1984年購入のMacintosh 128Kは翌年512Kへのアップグレードを経て1986年にはMacintosh Plusとして生まれ変わった。その後米国の業者へ送りご覧のような御影石調にペイントして現在に至るが幸いなことに完動品である


さて周知のように1984年に登場したMacintoshは日本語対応ではなかった。現在でもいち早くユニバーサルバイナリ版の日本語変換プログラムを開発しているエルゴソフト社はこの時代にもいち早くEGWORD 1.1を、そして翌年にはEGWORD 1.2と共に日本語変換プログラムEGBRIDGE 1.0をリリースした。しかしシステム側での正式サポートでない環境は様々なトラブルや不便がありAppleによる正式な対応が切に望まれていた。 
そしてやっと1986年にこの「漢字Talk1.0」が登場したのである。 
しかし待ちに待った日本語OS「漢字Talk1.0」をひと目見たとき、正直気が動転するほどがっかりした。なぜならメニューバーに表示されたその日本語は、スマートなMacintoshの姿には似つかわしくなく、大きめで醜く「これなら、日本語はいらない」と思わせるほどひどい出来だったのである。 

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※9インチのディスプレイと比較しても大変大きく粗雑なフォントだった。なおフロッピーディスク名はバックアップであることを示すために正規名称とは違えてある


それでもいま思えばGUI環境を持ったパソコンのOSとしてはまだWindowsも登場していなかったことでもあり、またすべてをビットマップとしてスクリーンに描画するというMacintoshのシステムならびに「漢字Talk1.0」は出来が悪いなりに先進的な試みであった。 
なにしろそのシステムディスク1枚にシステムは勿論Finder、漢字Talkシステム、ユーザー辞書そしてプリンタドライバ...それも続いてアップデートされた「漢字Talk1.1」にはLaserWriterまで収納されているのだから最新の環境だったのである。 

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※「漢字Talk1.0」の環境設定ウィンドウにはユーザー辞書登録機能の他に外字登録機能もあった(上)。またそのフロッピーベースのシステムフォルダを確認すると最新のレーザープリンタもサポートしていたことがわかる(下)


この「漢字Talk 1.0」のアバウトには開発者の似顔絵が表示されるが、開発にあたった2人の中心人物に日本人がいないのも不思議な思いを禁じ得ない(日系人はいたが)。そうした理由もあってか変換効率などに関しては後年まで期待はずれの面が目立っていたが、ともかくこの「漢字Talk 1.0」の登場でMacintosh OSは正式な日本語対応となった。 
ちなみに「漢字Talk 1.0」のカナ変換エンジンや辞書、漢字フォントといった部分は札幌のSCRという会社から購入した技術だった。 

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※「漢字Talk1.0」のアバウトには開発者たちの似顔絵が表示する


私は後年、当時高品位なMacintosh用日本語フォントを持っていた複数企業に聞いたことがあるが、1986年前後に当時のアップルコンピュータジャパンからフォントの権利を買いたいという申し出が幾多あったそうだ。しかしそのどれも高品位のフォントが喉から手がでるほど必要な事を理解していたであろうアップル側の条件提示はおかしなほど頑なで現実離れしたものであったらしい。そのため交渉は成立せず「漢字Talk 1.0」のフォントは残念ながら美しいものにはほど遠い結果となった...ということのようだ(笑)。 
そして実用レベルに達したのは1988年まで待たされた「漢字Talk2.0」になってからだ。辞書とFEP(日本語変換プログラム)が分離され、Osakaというゴシック体ならびにKyotoという明朝体フォントが使えるようになったのもこの「漢字Talk2.0」からであった。そしてJIS第二水準フォントもサポートされたことで実用レベルのMacintosh日本語環境を長らく望んでいた我々はやっと春がやってきた思いをしたものである。 

今日、一言で「マックの日本語環境」というが、当時のユーザーはもとより代理店やサードパーティ各社はまともな日本語をマックらしく利用できる方法を模索しそれぞれ一冊の本が書けるほどの苦労と努力をしていた時代であった。 
キヤノン販売が漢字ROMを独自に搭載したDynaMacを苦肉の策としてリリースしたこともその一端だし我々ユーザーも別途漢字ROMを有志でいわゆる共同購入した思い出もある。 
しかしすでに20年もの時間が過ぎてしまったからだろうがこのギザギサで見苦しい「漢字Talk 1.0」のフォントもいまとなってはそうした苦闘を思い出さしてくれる懐かしいものになってしまった(笑)。
今回はフォント云々については附言しないがそれにしてもOSとFinderそして日本語システムやプリンタドライバまでもが一枚の2DDフロッピーディスクだけで起動できるのだから凄いではないか!そして我らの漢字Talkは必然的にその後のMac OS多言語化への布石となったことも確かであろう。 

仏像盗難事件に思う〜我が家の国宝?

先日罰当たりにも法隆寺や橘寺の仏像を盗んであっけなくお縄になったオヤジがいたが、よくもまあ仏像を盗む気になるものだ。大馬鹿たれである!


ところで我が家の小さな床の間に小さな仏像が鎮座している。私は聖書も好んで読むし仏像を見て回るのもこれまた好きだ。みうらじゅん氏といとうせいこう氏の「見仏記」のファンでもある「見仏人」である(^_^)。 

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※愛読書「見仏記」いとうせいこう&みうらじゅん著。現在4冊の他にDVDも出ている


過日知人とその仏像の話題になったとき「家には大阪四天王寺所蔵と同じ菩薩半跏思惟像があるよ」といったらその人は仏像に詳しく「それって国宝じゃん!」という(笑)。確かに四天王寺のそれはまぎれもなく国宝・秘宝であり毎年8月9日と10日の両日しか公開されない。 

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※大阪四天王寺。2005年12月筆者撮影


実は我が家の菩薩半跏思惟像はすでに30数年前に私自身が購入したレプリカであるがそれが聖徳太子ゆかりの寺、大阪四天王寺所蔵の秘仏であるとは後年知ることになった。無論365日公開中である(笑)。 

さて現在もそのような会社があるのかは知らないが、当時東京駅八重洲地下の一郭にこの種の美術品の、それも土産品のような粗雑なモノでなくオリジナルとみまごうばかりの数々のレプリカが並べて売られていた時期があった。 
それらは日本の仏像だけでなくガンダーラ仏や朝鮮仏など多彩なものがあり、金剛仏や石仏、木彫などそれぞれオリジナルな風合いまで忠実に模したものだった。 
無論それらは当時の給料では思うように買える価格でなかったが数年の間に私はどうしても欲しい2体の仏像を手に入れた。そのひとつがこの菩薩半跏思惟像だった。 

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※我が家の国宝(笑)、像の高さは22.5cmほどの小さな菩薩半跏思惟像/弥勒菩薩である。オリジナルの写真は小学館ウイークリーブック「古寺をゆくNo.24 四天王寺」などで見ることができる


像高約22.5cmと小さな仏像ながら7世紀白鳳時代作というおおらかな姿、可愛らしい姿に魅せられたわけだ...。その姿はまさしく私の好きな弥勒菩薩であり、右足首を左足に乗せて右手の指を軽く右頬に当てている独特の姿である。 
オリジナルは銅造に鍍金されたものらしいがこのレプリカは大変よくできてはいるものの、その造りは型から作られた焼きものに鍍金跡を彩色したものだ。したがって落としたり強くぶつけると割れる...。事実もう一体の金銅菩薩立像の手の先を倒したときに割ってしまった。

昨年12月にも大阪四天王寺と京都東寺の月光菩薩や三十三間堂の国宝群に会いに行ったが、サイズはともかく土産物屋の粗雑で似てもいない仏像ではなく精巧なレプリカを適正価格で売ってくれたなら、あっという間にMacintoshの台数より多くなるのではないかと思う。
現在は直接オリジナルに手を染めて型を取るのではなく三次元スキャナのような方法もあるようだから劣化しやすいオリジナルに触らずして正確なデータが取れるはずだ。日本の神社仏閣もお守りやオミクジばかりでなく、もう少し本格的なミュージアムグッズのようなtempleグッズあるいはshrineグッズを開発すべきではないか(笑)。 

さてレプリカというと馬鹿にする人もいるが実は神社仏閣などで現在拝観できる仏像なども実はオリジナルの保存のために展示は精巧なレプリカを飾っている場合も多いという。 
例えば法隆寺にある有名な百済観音は以前外国に貸し出された際の展示は東京国立博物館所蔵品だというレプリカを置いていた。もしかしたらうっかり、本物と思って手を合わせてきた人もいるのかも知れない(笑)。 

私もパソコンに飽きたら、みうらじゅん氏といとうせいこう氏のように全国の仏を見学しに回りたいと考えているのだが...。足腰がそれまで持つのだろうか(爆)。

ジョブズとゲイツの不思議な友好関係

最近ワイアード・ニュースのコラム『ジョブズとゲイツ、真の「善玉」はどっち?』に多くの反応があったようだがその是非はともかく、これまでAppleとMicrosoft...あるいはジョブズとゲイツはどちらかが善で一方が悪といった表裏の関係で語られてきた。しかし歴史を振り返ると両者は最初期から意外に親密な関係にあることがわかる。                                                                                              
これまで当サイトでも一部紹介してきた内容と重複するがジョブズとゲイツとの親交の歴史を眺めてみよう...。 
Macintoshが登場した翌年の1985年に早くもアスキーから「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」と題する翻訳本が出版された。その巻頭ページによれば本書はMicrosoft社のビル・ゲイツとApple Computer社のスティーブ・ジョブズの会話から生まれたと記されている。 
1984年に登場したMacintoshは当然の事ながらその開発は秘密裏に行われていた。しかしアプリケーションプログラムが不可欠なこともありMicrosoft社など数社には厳重な機密保持契約の取り交わしの元でその技術的な仕様などを公開していたが「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」はビル・ゲイツ自身が同社の出版部門からMacintoshの解説書を出版したらどうかという提案をしたことから始まったという。したがってMacintoshの本格的な解説書の出版はゲイツとジョブズ同意の上でのことだった...。 

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※1985年にアスキーから発刊された「Macintosh〜そのインテグレーテッドソフトの世界」。和訳で読める本格的な解説書としては最初期のものだ


そうした経緯もあって...そしてゲイツ自身もMacintoshを評価し気に入っていたようだが1984年10月に作成されたMacintosh最初期カタログにも当時の若かりしビル・ゲイツが大きく載っている。この事だけでもAppleとMicrosoftは悪い仲ではなかったことが一目瞭然である。 

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※Macintoshのリリースと同時に配布された最初期の製品カタログ(写真上はその表紙)にはLotus Development社のMitch Kapor氏、Software Publishing社のFred Gibsons氏と共にMicrosoft社のBill Gates氏(写真下の左側)もその姿が掲載されている


また先日来大きなニュースとなったディズニーのPixar社買収だが、ご承知の通りスティーブ・ジョブズは1986年に1,000万ドルでPixar社の筆頭株主になり会長の座についた。しかし以降Pixar社は金食い虫でありジョブズはNeXT社よりはるかに多くの資金を投じていたという。 
実はその際にもMicrosoft社あるいはビル・ゲイツの名が見え隠れする...。 
なぜならジョブズは儲からないPixar社をMicrosoft社に売却できないかと一時は考えていたらしいがMicrosoft社は買収は断念したもののその代わりとして特許ライセンス費用として多額の金を払ったことでPixar社ははじめて四半期決算に利益計上することができた。無論この話はPixar社の3Dアニメーション「トイ・ストーリー」が封切られ大成功する1995年11月以前のことである。 

この際Microsoftの「特許ライセンス費用支払」という事実は私にとって大変象徴的な出来事に思える。 
何故なら1997年8月6日、Appleに暫定CEOとして戻ってきたスティーブ・ジョブズはボストンで開催されたMACWORLD Expoにおいて衝撃的な発表をする。そのひとつが取締役会の大規模なリストラだった。そしてそれ以上にショックだったのがMicrosoft社との特許クロスライセンスおよび技術開発契約を結んだという発表だった。 
このときMicrosoft社がApple社に支払った額は公表されていないので分からないがこの事実でApple社の財政が一息ついたことは事実のようだ。 
この出来事は前記したPixar社のときと同一パターンであるように思えるのだ。 

Appleはギル・アメリオCEO時代にもMicrosoft社すなわちビル・ゲイツに両社に存在していたトラブルの和解を求めていたがうまくいかなったことを考えると1997年の特許クロスライセンスおよび技術開発契約に至る締結はやはりゲイツとジョブズの個人的な信頼関係あるいは秘密裏の利害一致によるものだとしか考えられない。 
一言でいえばユーザーや業界はジョブズとゲイツをあらゆる面で比較し、善玉と悪玉に据えて面白おかしくストーリーを展開させることに時間を割いてきたが実際の2人は一般に考えられている以上に親密なのではないだろうか。 
先のBoston Expoの際、スクリーンにビル・ゲイツの顔が大写しになったとき、聴衆の多くからはブーイングが飛んだ。しかしジョブズはそれをたしなめ「Appleが成功するためにはMicrosoftが負けなければならないという考えは捨て、Appleは前進すべきだ」とスピーチしたことはまだ記憶に新しい。 
2人には...求める方向は別だとしても同じ時代に行き会わせたという共通意識が強く結びあっているのかも知れない。 

今回AppleはIntelプロセッサを採用することになったが、その対応をめぐってもAdobe社など反応が冷たい企業とは対象的にMicrosoftは即サポートを明言し協調関係をアピールしている点は興味深い。
ともかくこうしてジョブズとゲイツのこれまでの関係を考えていくなら冒頭に記したワイアード・ニュースのコラムは時代認識性を欠いた旧態依然の視点から一歩も出ていない中身のない記事であることは明白であろう。

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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員