飯沢耕太郎著「Photographers」(1996年刊)によせて

あらためて自分で納得できる写真を撮りたいとデジタル一眼レフカメラを手にして毎日を過ごしているが、以前に読んだ一冊が気になり、読み返してみた。それが飯沢耕太郎著「Photographers」である。約450ページに40人の写真家の眼差しとその生きざまを紹介した本書は、写真が好きな一人として大変気になる存在なのだ。 


本書には、例えばロバート・フランク、タルボット、マーガレット・キャメロン、ナダールなど、名だたる海外の有名なそして歴史的な写真家をはじめ、福原信三、土門拳、篠山紀信、などなどこれまた著名な40人の写真家が紹介されている。そうした中で筆者は「写真家の普遍性」や「写真とはなにか」といった大変抽象的でとらえどころのない対象について、作品と彼らの生きざまを通して読み取ろうとしているように思える。 

page5_blog_entry80_1.jpg

※飯沢耕太郎著 Photographers


私は最近、写真でもソフトウェアでもそして哲学でもいいのだが、自身の考えること、抱いたイメージの言語化が大変重要だと思え、意識的にそうしたことを考えようとしている。 
少し前には養老孟司の「バカ」シリーズがベストセラーになり、「話しても理解し得ない」というひとつのテーマが論議をよんだ。私も「話し合えばすべて理解し合える」と考えるほど若くはないが(笑)、そもそも人は自身の思考を正確に言語化することができないからこそ誤解も多いと思うのだ。 
まあ、人生の小難しいことはともかく、せめて対象が絞られた趣味や自分の好きな部類の事柄だけでも突き詰めたくてこんな一文を書いたり、多くの本を読んだりしている。 

さて、話を写真に戻そう...。 
飯沢耕太郎の著作はかなりの量を読んだつもりだが、その文章はそれまで漠然と気になっていた事柄に対して明確な言語化というか、文章で説明してくれる部分が多いので好きなのである。 
「荒木!」(白水社)、「写真美術館へようこそ」(講談社現代新書)および本書「フォトグラファーズ」(作品社)などを通して感じたことは、私は飯沢が紹介する例えばアラーキーや土門拳のことを知りたいがために、それらのページをめくっているのではないことに気がつき始めている。 
私はどうやら飯沢耕太郎という人物が、それらの対象にどのような印象を受け、どのように考えるかが知りたいがために、彼の著書を購入するのだ(^_^)。 
そして大概の場合に私の期待は大きく裏切られることはなく、前記したようにこれまで自分のなかでもやもやしていた部分に明快な光を当ててくれることすらある。 

例えば、すでに伝説の写真家となっている土門拳の写真が、私にはどうしても好きになれないでいる。超有名な写真家であり巨匠だからして、世の批評の大半は彼の写真を否定することはなく、そのアングルや絶対的といわれるフォーカスを土門だからこその創造力として高く評価する場合がほとんどだ。 
私も仏像を見るのが好きで、京都や奈良には馴染みの女性ならぬ仏像が多々いる(笑)。それらの多くは当然、土門拳の仏像シリーズにも含まれているが、それらの写真は私の眼で実際に逢ってきた仏像たちと印象が大きく違うのだ。しかし、なぜ違うと感じるのか...なぜそれら土門の写真が好きでないのかがこれまではっきりとわからなかった。 
あらためて「フォトグラファーズ」の土門拳の項を読み、そこに飯沢は高村光太郎の評を例にして、土門の写真に「ぶきみ」「何だか異常なもの」といった印象を明示している。さらに飯沢が、これまでの土門論に決定的に脱け落ちていたものこそ「ぶきみ」さと「異常」さについての考察だと明言している点には、生意気ながら膝を打つ思いをした。 

私は土門の仏像写真に何か「異常」というか「ぶきみ」さを感じたからこそ、好きになれなかったことを飯沢の本書で再認識したように思えた。しかし本書で飯沢は、土門の仏像写真は強引な擬人化があり、仏像はほとんど土門自身の自画像と化しているからこその「異常」さ「ぶきみ」さであると記しているが、実は私にはその正反対に思えてならない.....。 
私が仏像と対峙するとき、それは"ホトケ"としてより、どこかで血の通った生身の対象として、すでに擬人化しているように思える。だからこその親しみと憧れを感じることができるのかも知れない。 
それは例えば憤怒の形相をしている不動明王のような仏像でも同じである。しかし土門のトリミングされ、寸分の隙のないピントが合った仏像写真の多くからは、私が仏像から感じる...感じたいと思っている「生」が感じられない。反対にそれらは木材であり、あるいは鋳造でできたモノであることを強調してしまっているように思えるのだ。そのギャップが私に「好きになれない」と感じさせる大きな理由であることを本書は気付かせてくれた。 

写真のことをもっと知りたい、多くの写真家のことを知りたいと思って本書「フォトグラファーズ」を手にしたと思っていたが、何のことはない。私は飯沢耕太郎の追っかけをやっているに過ぎなかったようだ(^_^)。そして写真は私にとって「言語をイメージ化するためのひとつのプロセス...アプローチ」であるように思えてくる。 

_____________________________________________________________ 
 「Photographers 〜 フォトグラファーズ」 〜写真家40人の眼差しと生〜 

 1996年4月25日 初版第一刷発行 

 著者:飯沢 耕太郎 
 発行:株式会社作品社   
 書籍コード:ISBN4-87893-250-3 C0072 
 定価:3,500円 
_____________________________________________________________ 

アップルビジネス昔話し〜危ないベンチャー企業の見分け方

皆さんは「危ない会社の見分け方」をご存じだろうか? 「危ない」とは、一言でいうならまともな会社でなく、取引をすべきでない企業を意味する。無論投資などは論外だ。今回は私が体験したとっておきの実例を紹介する。 



誰でも理屈より、実体験を重ねて会得した"感"がビジネス判断の際に力を発揮することがある。私も長い間のビジネスにおいてそうしたいくつかのノウハウを持っているつもりだが、酒の席などで面白半分に披露するそのひとつに「美人の社長秘書がいるベンチャー企業には気を付けろ!!」という持論がある(笑)。いや、笑い事ではないのだ…。 

bijyo04-B.jpg

ここでいうところの「危ない」とは、取引をすべきでない企業を意味する。ましてや投資などは論外である。そうした企業と無理に取引すればトラブルが多発するだけでなく、契約不履行など、多大な損害を被る可能性がある。 
まずはその実例をご紹介しよう。タイトルは昔話としているが、この話はそんなに昔のことではなくホンの○年前の実話である。 

ある日、アップルコンピュータ社から紹介を受けたという電話が入った。余談ながら後でアップルに確認したところ一般的な問い合わせとしてその内容から私の会社に相談してみろと話を振ったとのことだった。 
電話口でソフトウェア開発の依頼をしたいという話をいただき、私は早速都内の某所にあったその会社を訪ねた。 
雑居ビルの一室に事務所を構えていたその会社はインターネットを使ったコンテンツ配信ビジネスを始めたばかりという、文字通りのベンチャー企業のようだった。しかしすでに数社のベンチャーキャピタルから資金を集めており、来年には上場を果たすべく準備を整えているというふれ込みだった。 

近々新築のテナントビルに引っ越しもするという説明を、眩しく羨ましく思いながら聞いていたが同時にいつもの癖でその社長を観察し始めていた。彼は私より一回り以上若く、スマートでハンサムな男だったし著作もあった。 
依頼事を要約すると現在Windows版が稼働しているが、そのMacintosh版の開発を依頼したいということだった。また嬉しいことに開発依頼という単発の話しだけでなく、自社が不得手なMacintosh全般のコンサルタントなどを含む長期のビジネス契約を結びたいという、私にとっては喉から手がでるような魅力的な話であった。 

その後、数回その会社を訪れて見積そして契約書のドラフトについての話を進めるにつれ、長い間身につけてきた私の"感"がブレーキを踏み始めた...。理屈においては確かに美味しい話しであり、不景気のこの時代になんとも嬉しいビジネスなのである。しかしどこかおかしい...。 
そう感じる第一の理由は社長の話しっぷりであった。確かに魅力的な人であり一種のカリスマ性を感じさせるし身なりも良い。しかし会話の語尾が不明瞭であるばかりか、一貫した内容でないこと。そして頻繁にこちらの話の腰を折り、話題が頻繁に変わることなどなどだ...。穏和な感じを見せるかと思えば即威圧的な話し方になる。後で振り返ると「何の話をしたのか?」と思うほど印象が薄いのだ。 

そして決定的だったのは顧問弁護士が5人もいると豪語したその会社から提示された基本契約書は私の会社の顧問弁護士に相談するまでもなく、常識的な契約書から見ると多々おかしな部分が目立った。 
帰社する車の中で目を通した限りでも、それは素人のつぎはぎのように思えた。そしてもっとも決定的だったのは、聞いていたとおり新築のビルに移った後に出向いた際、私の持論...そう...絵に描いたように典型的な超美人秘書がいたことである(笑)。 

私は何かデータが出そろった気持ちで心構えが決まった。契約に則り、やるべきことは粛々とやらなければならいが、このビジネスは長く続かない覚悟をしておかなければならない...いつ終わってもよい心構えをしておくことがポイントのように思えた。それは即私の会社のスタッフらにも伝えた。 
その後6ヶ月ほどは契約書に基づいた取引が続いたが、その間も数回の訪問そして反対に社長が私の会社に来訪されるなどのやり取りがあったがある日突然新しく社長に就任したという男から連絡が入り、そのビジネスは頓挫した。 

企業は当然のことだが人事が入れ替わり、社長が替わることも珍しいことではないからそれが問題なのではない。しかし新社長の説明によればその原因が前の社長が会社の金を流用し、いわゆるトンズラしたとのこと...(^_^;)。でも、それだけなら単なる取引先である我々にはまったく関係のないことなのだが、変な会社は新しく社長になる人も変なのだから始末が悪い(笑)。 

新社長がいわく、まだ契約期間が半年も残っている当該契約に対して「高いから払えない」と言い出した。そしてそのトラブルのせめぎ合いが3ヶ月ほど続いた後に、あらら...またしても社長が変わった.....。 
勿論そんな企業は上場できるハズもないし、問題の社長はその後テレビや新聞報道されたある事件の片棒をかついだとの事で逮捕され一部のニュースでは実名報道がなされたという。「やはりなあ...」というのが正直な感想だった。 

事実その会社は後から思えばベンチャーキャピタルなどから集められるだけの金を集めてトンズラするために設立されたような会社に思えた。 
ともかく当時の私の会社としては3人目の社長の代に様々な折衝の結果、減額をさせられたにしても売掛代金の回収を行うことができ、致命的な損害は避けることができた。 
その後どのような紆余曲折があったかは知るところではないが、私が意外に思うのは現在でもその社名の会社は存在するだけでなく驚いたことに問題の発端である最初の社長だった人がまたまた代表取締役に納まっていることだ(笑)。それも顔写真まで載せて...。 

現在彼らのやっている企業活動がどのようなものであるかに興味はないが、ウェブで見る限りは「いかにも」それらしい...(^_^;)。もし私のクライアントたちが取引をするような話を聞けば放ってはおけないから関わらないようにアドバイスをするだろうし一消費者としても関わらないことをお勧めする。 
こうした人たちは人を引きつけるという意味では天性の秀でた能力を持っているのだろうが、その能力の方向が間違っている。そして彼らが二度三度同じようなことで甘い汁を吸うようなことができるわけはないと...世の中はそんなに甘くないと思いたい。しかし現実を見ていると彼らのビジネスが成立しているのであれば「甘い世の中」もあるんだという気もするしその影で様々な不利益を被っている人たちもいることになる。 

話を戻すが、ではなぜ「美人社長秘書」がいるベンチャー企業は危ないのだろうか(笑)。その理由を説明するのはそんなに難しいことではない。 
明確な技術やノウハウ、そして商品・製品でビジネスを起こすのではなく、言葉巧みに人から金を集めて線香花火のようなあるいは打ち上げ花火のようなビジネスを考える輩には人一倍の"看板"が必要なのだ。 
人は弱い部分を隠したいがために、別の衣で武装しようとする。そのひとつが例えば身分不相応の豪華なオフィスであったり、本来は不用なはずの秘書を置き、資金力のあるまともな企業であるという体裁を整えたいと願う。それもとびっきりの美人秘書を置いて...。 
貴方の会社に、美人社長秘書はいないだろうか?(爆)


「ブートストラップ〜人間の知的進化を目差して」を読んで

本書はダグラス・C・エンゲルバートの研究の足跡を追ったものだ。エンゲルバートはこれまでマウスの発明者といった程度の知名度はあっても評価が低かった感がある。しかし近年こうした書籍などの影響もあり彼の評価が高まっていることは嬉しい限りだ。


Old Macページの「D.Engelbart伝説のプレゼンテーションが見られる!」というタイトルで少し触れた本書だがきちんとお勧めをしてみたい。
さて、他の文献もそうだが、米国を中心に進歩・進化したコンピュータ関連の歴史的論文や研究資料などは当然の事ながら英語である。さらに一部を除けば、この種の学術的な論文などは一般ウケしないばかりかその内容も些か難しいため、原書で読破できる人は限られている。

本書「ブートストラップ〜人間の知的進化を目指して/ダグラス・エンゲルバート、あるいは知られざるコンピュータ研究の先駆者たち」Thierry Bardini著/森田哲訳(コンピュータ・エージ社刊)は原著名「Bootstrapping」の翻訳本だがそうした意味でも貴重な一冊といえよう。

page4_blog_entry267_1.jpg

page4_blog_entry267_2.jpg

※「ブートストラップ〜人間の知的進化を目指して」コンピュータ・エージ社刊表紙(上)と原著「Bootstrapping」表紙(下)


ダグラス・C・エンゲルバートの名は、我々Macintoshユーザーにとって...というよりコンピュータの歴史などに興味のあるユーザーには、アラン・ケイほどではないものの、知られている人物ではある。ただしそれは「マウスの発明者」といった程度の認識に終始する場合が多く、大方の認識もその程度ではないだろうか。
それらの出来事およびエンゲルバート自身の経歴は、なにか遠い大昔のことであるかの印象を持つ人もいるかも知れない...。

ではなぜエンゲルバートという人物にこれまで大きな光が当たらなかったのか...。実はアラン・ケイ自身の大きな転機のひとつは1968年12月、サンフランシスコで開かれたコンピュータ学会でエンゲルバートが行った歴史的プレゼンテーションだったといわれ、事実それは「あらゆるデモンストレーションの見本」と評価されている。またマウスの利用などもそこで認知されたにもかかわらず、エンゲルバートの名が一般的に知られなかったのにはそれなりに理由もある。

一言でいえば、彼は当時の状況下ではアウトサイダーの一人だった。なぜなら彼は現在のようなコンピュータの大衆化・一般化を考えたのではなく、あくまで我々人類が解決できない複雑な問題をコンピュータを利用して解決したいと考えていたという。したがって多くの人たちが、一人一台のパーソナルコンピュータを持つことに考えが向いていた時期に、彼はクライアントサーバー型アーキテクチャを稼働させ、共同作業による問題解決を進めていた。それがある意味時代に逆行し、一部からはコンピュータというものを複雑に考えし過ぎていると非難されもした。

したがってというか、彼のブートストラップ原理は一般ウケするものではなかったということなのなのかも知れない。
本書の中でアラン・ケイの次の言葉は、そのニュアンスを的確に伝えている。
「よかれ悪しかれ、エンゲルバートはバイオリンを作ろうとしていたのに、ほとんどの人々はバイオリンを習いたくなかった」

エンゲルバートの出発点は、バネバー・ブッシュの1945年の論文にあると言われているが、その他多くの研究者もこの論文に触発されたといわれている。本書ではそうした背景から1950年代、あるいは60年代のコンピュータ関連開発の姿や米国の歩みの一端をエンゲルバートや有名無名の先駆者たちを通して垣間見られる点は貴重である。

当サイトの主張がそうであるように、現在我々を取り巻いているコンピュータ関連の状況は、これまたよかれ悪しかれ人々の思惑だけで動くものではなかったし一晩で発明されたり発見されたりしたものでもない。エンゲルバートを含む多くの先達が、それぞれの時代背景と各々の哲学により歩んだその枝葉のひとつなのだ。さらにこうした研究者らの挑戦は終わったものではなく、現在進行形でもあり、本書の解説をされている中央大学総合政策学部ならびに大学院総合政策研究科教授、大橋正和氏の言葉のとおりそれらは「未完の革命」であり、現代の我々はそれらを完成させる使命を持っているのかも知れない。
そうした意味においても本書は昔話に終わらせることなく若い方々に読んでいただきたい一冊でもある。

さて、本書の概要は多くの人の文献の引用およびエンゲルバートたちの論文や手稿を紹介しながら、著者であるThierry Bardini氏の論を展開していくものだ。そして冒頭にも書いたが、技術書でありながらある意味では哲学的な様相も呈しているため、もともと易しい文章ではないと想像する。

本書のイントロダクションに次のような記述がある。それはエンゲルバートの手紙として「コンピュータ技術の開花とその影響は、我々皆が実際に十分把握できる以上に、より壮大で社会的に重要なものになろうとしています」とあり、続けて別の手稿として「...コンピュータ技術のように目をひくものが地平線に大きく見えてきた場合には、さまざまな種族によって構成される機転の利く代表者たち---例えば、社会学、人類学、心理学、歴史学、経済学、哲学、工学などの分野の専門家---で構成される偵察隊を組織して、絶え間ない変化に適応する必要があります」と記されている...。

エンゲルバートのブートストラップ原理やその時代的背景を十分に理解するためには文字通り、単にコンピューティングやサイバネテックスといった特定の分野だけの知識だけでは把握ができない内容を含むことをも意味する。
このことは奇しくも私が1991年、技術評論社刊「Multimedia WORLD」に寄稿した「マルチメディアは環境か?」という内容で述べていることと同じであり、僭越ながらエンゲルバートの考えるところはよくわかる。

「Multimedia WORLD」誌で私は「マルチメディアの理想的な環境を実現するためには狭い範囲の学問では全く役にたたないのです。広い視野がどうしても必要なのです」とし、続いて「コンピュータ技術、プログラム、デザイン、心理学、言語学、社会調査、法律、教育、通信、情報、CG、医学、マーケティング、金融、経済、音響、建築、芸術など、それぞれの専門の立場から培ってきたノウハウを出し合わなければならない時期が来ていると思うのです(略)」と持論を展開した経緯がある。

page4_blog_entry267_3.jpg

※MacJapan別冊「Multimedia WORLD」1991年11月10日発行、技術評論社刊


ともかく大変難解であろう原著を訳された訳者の努力には心から敬意を表するものだが、特にエンゲルバート自身の文章訳部分が大変読みにくい。和訳を追っていくだけでは意味が通らない箇所が見受けられる...。
というわけで別途原著を手に入れ、本職の翻訳家である実弟に是非とも知りたい箇所を一部訳してもらったが弟が言うにはエンゲルバート自身の文体が悪い意味で技術屋のそれであり、そもそもが分かりづらい文章とのこと。

それにしても貴重な一冊であるだけに門外漢としてはもう少し分かりやすいものにならないかと思う。しかし続けて弟が言うには「この原著を翻訳する仕事はやりたいくないなあ...」と苦笑していたことからも訳者のご苦労が計り知れないものであったことも理解できる(^_^;)。

余談が続いたがエンゲルバートが夢見、目標とした仕事は現在の視点から眺めれば、40年あるいは50年早すぎたのかも知れない。
_____________________________________________________________
ブートストラップ ー 人間の知的進化を目指して
〜ダグラス・エンゲルバート、あるいは知られざるコンピュータ研究の先駆者たち〜
2002年12月25日 第1版第1刷発行

著者:Thierry Bardini
訳者:森田 哲
発行:株式会社コンピュータ・エージ社  http://www.computer-age.ne.jp/
書籍コード:ISBN4-87566-256-4
定価:本体2,800円+税
_____________________________________________________________


パソコン通信黎明期の通信費用事情

貴方は毎月インターネット関連費用としてにいくら支払っているのだろうか? 今では無くてはならないインターネットだが、もしその費用が毎月8万とか10万円もかかるとするなら貴方はインターネットを続けるだろうか...(笑)。 事実パソコン通信の黎明期には、いま考えるととんでもない額を支払っていたのである。


ひとつの例として私が国際ネットワークサービスに加入しパソコン通信を始めた1985年の物価を調べてみたが、JRの初乗りが120円、ビール(大瓶)310円、新聞(月極)2,600円、米価(10Kg)3,785円だというから、これだけ見ればデフレ不況の現在とあまり違わないように思える。無論給料の額も低かったがそれ以上にこと海外へのネットワーク接続ということになると話がまったく違っていた。 

はじめにお断りしておくが、1985年に我々の前にインターネットなるものは存在しなかったし、あのニフティもなかった。しかし「パソコン通信」というものが台頭しはじめてきた時代で、それもコンピュータテクノロジーなどの新しい情報を求めたいとすれば、おのずと海外(特に米国)の通信事業者へアクセスするしかなかった。 

そしてその方法も選択の余地はなく、当時の国際電信電話公社(KDD)の「国際公衆データ伝送サービス」通称「VENUS-P」に加入するしかなかったのである。 
いまあらためてその時の資料を紐解くと、その料金体系のバカ高さに驚く(^_^;)。 

page3_blog_entry64_1.jpg

※当時の国際公衆データ伝送サービス(VENUS-P)案内書


まず、電話回線が必要だが、これは一般加入電話で済む。しかしVENUS-Pへの加入時の契約料300円は良いとしてその設備料を名目に80,000円が必要だった。ちなみにその通信スピードは300bpsである。別途1,200bpsの契約も存在したが、こちらは契約料が110,000円だった。 

こうした加入時の一時金をなんとかクリアしたとしても一番大きな問題は毎月の料金である。 
300bpsの契約ではまず毎月の基本料金が21,400円かかった。なにも通信しなくても毎月この21,400円は負担しなければならないのだ(^_^;)。そして通信料は1分で40円と高価だった。その上にパケット通信を実行すれば、1有料パケット毎に2.4円が必要だったからいかに短時間で必要なソースにアクセスできるかが腕の見せ所だった(笑)。 

page3_blog_entry64_2.jpg

※当時のVENUS-P契約書。契約日は昭和60年(1985年)8月20日付


さらにその上、SOURCEとかDELPHIなど、海外通信業者へも時間あたりの費用を払わなければならなかった。
 
page3_blog_entry64_3.jpg

※当時パソコン通信業者の代表的な存在だったSOURCE社の契約書。契約日は1985年8月25日付


くどいようだが、通信スピードが300bpsということは、モニター上にリアルタイムに表示するその文字が完全に目で追える速度と考えていただければよい。タイプライターで打っているような速度である。このようなスピードで通信費用をかけずに、必要なデータに最短距離でアクセスするために様々な工夫をしなければならなかった。
 
したがって現在のように、ネットワークに接続しながらモニターの表示を読むなどということはできなかった。無論そんなことをやっていたらすぐに10万円を超える請求書が送られてくることになる(^_^;)。さっさと必要だと思われる箇所にアクセスして即回線を切り、その後でゆっくりとモニター上のテキストをスクロールさせて中身を確認するわけだが、それが役に立たないデータの場合は再度接続をしなければならなかった。 

結果として当時こうしたパソコン通信にチャレンジしていた人たちはKDDを初めとする毎月の請求額がいくらなのかに戦々恐々としていた。事実、私でも基本料金を含めて8万円を超える支払いをしていた時期がある。それも会社ではなく、まったくの個人で...。 

奥がましい言い方だが、こうした時代のネットワークテクノロジーに触れてきた仲間や当時150万円もするMacintoshを無理して手にしてきたユーザー同士は例え初対面でも一種の戦友として心が通いやすい(笑)。何故ならこれらの人たちは特別に高額の給料をもらっていたわけではなく、他を犠牲にしながらも新しいことに真剣に取り組んだ共通の喜びを持つ人たちだからである...。 
失礼ながら貴方はもし、毎月8万円から10万円ほどの通信費がかかるとして、インターネットをやるだろうか(笑)。


コミック版「Performaで始めるMacintosh」に見る1994年

コンシューマ市場向けにと投入されたMacintosh Performaシリーズが発表されたのは1992年だった。今回は1994年12月31日に発行された徳間書店刊「コミック版パフォーマーではじめるマッキントッシュ〜並木りさ マックで絵を描く」から見た当時を覗いてみよう。


さて1994年だから、Performa 575や外観もスペック的にもLC630と同じPerforma 630が登場した時期に変わった企画が私のところに持ち込まれた。
それは徳間書店からで、すでに発刊されていた「コミック版パフォーマではじめるマキントッシュ〜並木譲マックをはじめる!」のグラフィック編を作りたいので協力して欲しいとの依頼だった。

正直、私はその本を読んではいなかったが、Performaが家庭に入っていくその勢いを追い風に、コミックで分かりやすくMacintoshによるグラフィックの世界とその可能性、そしてマルチメディアといったものを解説したいという趣旨だった。

なぜその企画が私のところに持ち込まれたのか...それは当時のPerforma向けに最適なアプリケーションを複数開発していたからである。また企画自体は我々にとっても大変美味しい部分があるものでもあった。本文には必然的に自社のプロダクトが紹介されるし、折り込み広告も制作していただけるとのことだった。
そんな話の中でこの企画は現実となった。

page3_blog_entry60_1.jpg

※徳間書店刊「コミック版パフォーマーではじめるマッキントッシュ〜並木りさ マックで絵を描く」表紙(ISBN4-19-860221-2)


コンテンツは大きく分けてSTEP1からSTEP3までの3ブロックに分かれ、STEP1が「並木りさ マックで絵を描く!」、STEP2が「パフォーマで何をするの?」、そしてSTEP3が「創ろう!ホームマルチメディア」といった内容である。
そのSTEP1の「並木りさ マックで絵を描く!」がヴァーチャル電脳漫画ということで漫画でパソコンの可能性を追った内容となっているが、そのストーリーは広告代理店に勤務する父親とその家族や周辺を巻き込んだもので、一部リアルな大人の生活感を出しながらも並木家に置かれたPerformaを長女のりさが使いこなしていく...といった内容だ。

ちなみに私の直接の担当部分はSTEP3の「創ろう!ホームマルチメディア」の項を執筆することだった。それは結果として113ページからコラムも含めて187ページまで続くなかなかの大作であった(^_^)。
さらに巻末にはフロッピーディスクが一枚付属し、そこには自社開発アプリケーションの「キューティマスコット」と「ムービーぺイント」による作品紹介が含まれていた。

この本がビジネスとして成功したかはともかく、本企画の後に早くも第3弾のサウンド編「並木鈴子 マックで歌う!」が予定されたことを考えると出版側の意気込みの大きさが伝わってくる。

さて、本書のターゲットは自ずと絞られたことだろう。それはパソコンを使いたくても苦手な父親であり、母親であるはずだ。そうしたユーザー層にコミックを使って分かりやすくパソコンの可能性と有用性、そして楽しさや面白さを伝えたいといったものである。

とにかく、当時は「一家に一台パソコンを!」といった感じの時期・時代だったし、各メーカーの販売合戦も日増しに熾烈なものになっていった。そんな中で、パソコンに強迫観念とか劣等感を持ちつつ、何とか使いこなしたいといった希望も併せ持った層にこの企画はアピールしたかったのだ。
しかし結果はどうだったのだろうか...。

ひとつはマルチメディアなどというもともと言葉やイメージが先行し、実態のないようなものをコミックといえども誌面...ペーパーメディアで伝える難しさがあった。またその内容も当事者の一人が言うのも何だが...苦手なお父さんにはまだまだやさしいとはいえなかったのかもしれない。
ただ現在の環境と違いこの企画が通った背景には、Performaのユーザーであれば、本書の中で解説しているキッドピクスやムービーペイントなどといったソフトウェアは必ずバンドルされており、あらためて予算を必要とするものではなかった。しかしそもそもこのPerforma戦略が破綻する足音はこの頃から少しづつ聞こえ始めてきた...。

アップル側は国産パソコンと競争するためには相応の数のバンドルソフトを必要としたし、価格競争にも巻き込まれていく。しかしユーザー側はよりシビアだった...というより、バンドルソフトに対しての反応が鈍かったように思う。

私の持論だが、「自分の懐から出た金で買わないものは価値がわからない」のだ。極端な例としてはアニメーションソフトのムービーペイントがバンドルされているにもかかわらず、それを知らずに別途パッケージを買おうとされるユーザーも多々いらした。さらに残念なのは多くのバンドルソフトのひとつひとつについての認識度が低く、「無料のソフトにろくな物はない...」といったオマケ感覚でほとんど無視されるユーザーも多かったように思う。しかし反面ご自分で創られた作品をわざわざ私の会社までお送りいただく熱心なユーザーがいらしたことも事実であった。

結局Performaは...というより「一家に一台パソコンを」のうたい文句で販売されたパソコンの多くは、お父さんやお母さんの真からの自主的購入というより「時代に遅れないように」とか「隣のAさんちにもパソコンがあるから」といったある種の強迫観念のなせる技であった。
それを象徴するかのように、本書に織り込まれたアップルコンピュータ社の広告コピーは「たとえば、家族のために、Macを買う。」といった内容だったのである。

page3_blog_entry60_2.jpg

※当時のアップルコンピュータによるPerformaの広告例(一部)


これでは確かに一度はパソコンを買っていただいたにせよ、それらを使いこなすどころか、次の買い換え需要や周辺機器購入およびソフトウェアの購買意識など高まるはずはない。そして結局Performa自体が放置されるはめとなる。

私にとってこの「コミック版パフォーマーではじめるマッキントッシュ〜並木りさ マックで絵を描く」の一冊は、ある意味パソコンバブル期の象徴でもあり、ひとつの新しい試みではあったものの多くの教訓を心に刻むモニュメントとなった。

伝説のエバンジェリスト〜ガイ・カワサキの思い出

元Appleの伝説的エバンジェリストであり、一時期フェローでもあったガイ・カワサキはMacintoshの登場時にMacを普及させるために、そしてMacそのものにとっても最も重要なのはソフトウェアだと唱えた最初の一人だった。



ガイ・カワサキはソフトウェアの重要さをアピールし、そのソフトウェアを開発するデベロッパー各社を精力的に訪問してMacintosh用ソフトウェアの充実を図った功労者でもあった。彼の働きそのものからエバンジェリストという職業が確立したといえる。
しかし現在の視点から見るならエバンジェリストという仕事はどうということもない仕事に思えるかも知れないが、彼の能力が発揮されたのは20年以上も前の事であった。そして難しいことにその対象であるMacintoshは当時十分なメモリもなく、ハードディスクもなく、モノクロでたった9インチの小さなモニタでしかなく、拡張性もなく、大変高価で市場性を疑われたコンピュータだったのだ(笑)。
だからガイ・カワサキはよほど話が巧いか、押しの強い人間であろうというイメージを持っていた。そして彼は大絶賛される反面敵も多い人であると聞いたことがあったがそれは彼がデベロッパーに対して約束したことの多くが彼の責任でない事も含めて実現できなかったかららしい(^_^;)。
当時のエバンジェリストとはやはり大変な任務であったのだ。

彼は著書「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」の冒頭でいう。
「失敗と成功を何度も繰り返した私は、ビジネスにおける第一の法則は『約束は控えめに、そして実行は十分に』であるという結論に達した」という。さもありなんであろう...(笑)。また続けていうビジネスの第二法則が素敵だ。
「(自分を)好いてくれる人間ではなく、嫌う人間によって自分の価値を知れ」
けだし名言である。
こうした彼の著書などでイメージを膨らませていた私だったがついに直接彼に会う機会を得たのである。

page4_blog_entry264_1.jpg

※1994年5月12日初版「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」表紙。発行:(株)トッパン ISBN4-8101-8583-4


それは1996年7月のことだったがデベロッパリレーションズ副社長だったハイディ・ロイゼンと共ガイ・カワサキも来日した。それは9日と10日の両日、東京ベイ・ヒルトンにおいてJDC(ジャパン・デベロッパー・コンファレンス)が開催されたためである。
ガイ・カワサキは一時Appleを離れて会社経営やコラムニストとして活躍していたが、1995年7月にそのハイディ・ロイゼン氏に請われてアップル・フェローとして再びAppleに復帰したわけだ。しかし現在はまたその職を離れている。

さてそのパーティの席でアップルコンピュータ社の担当者にガイ・カワサキを紹介してもらった。アップルの担当者は「松田さんは日本の大いなるエバンジェリストです」と持ち上げてくれたが本家・元祖の前で私はミーハーぶりを発揮し、早速一緒に写真を撮る許可をもらった(笑)。

page4_blog_entry264_2.jpg

※ガイ・カワサキ氏とツーショット


実際に会ったガイ・カワサキの印象は、彼のこれまでの精力的な活躍を見聞きし、その著書「徹底的に敵をヘコます法」や前記した「それでもMac大好き!〜ガイ・カワサキのマッキントッシュ不用語辞典」などを読んだイメージとはかなり違い、意外なほどシャイだったのに驚いた。
またその風貌を見るとアメリカ人ということを忘れ、思わず日本語で話しかけたくなるほど日本的だったが、さすがにそのパワーとユーモアは伝説の人そのままだった。
しかし大勢がいるパーティーの席で、著名人を独占するのはマナー違反でもある。私はもっともっと質問したいこともあったが、残念なことにものの5,6分しか話ができなかった。ともあれ彼はジェントルマンでありユーモアに満ちあふれバランス感覚を持ったノーマルなビジネスマンであることを確信した。
伝説のエバンジェリストは努力の人だったのである。

上手なプレゼンは「上質のジャズ演奏のように...」が理想

本場米国のExpoなどを見るにつけ、最初の頃は随分とカルチャーショックを受けたものだ。それは「何故こっちの人たちはプレゼンにしても商品説明にしても、上手なんだろう」ということだった。 


それも話は滑らかに、そして絶妙の間とユーモアに充ち、ボディアクションも豊かに説明する彼ら彼女らは決して外部からこの日のために雇った専門家ではなく、そのほとんどが社員たちなのだ。 

page4_blog_entry263_1.jpg

※Macworld ExpoのAppleのブースで魅力のある説明を行う女性


それに引き替え、日本のこの種のイベントは大手企業ほど、いわゆるコンパニオンを並べて型どおり自社製品をアピールさせるというやり方が大半となる。集まる客も製品を見に来ているのかコンパニオンの写真を撮りにきているのか分からない人たちも目立つ(笑)。しかし本場のMacworld Expoではまずこのようなブースは少ない。 

当初私はアメリカの人たちがこれほど優れたプレゼンができる理由のひとつに英語と日本語の違いがあるのではないかと考えた。英語だからこそ、あのテンポと抑揚がでるのかも知れないと考えたわけだ。そして二つ目はいうまでもなく教育の違いである。 

私たちの年代は特にどちらかというと幼少から自己主張をしないようにと教育された傾向は否めない。特にお喋りの男は嫌われた(笑)。寡黙が美徳のように思われた時代もあった。それがどうだろう、今では明石家さんまのような芸人が人気の的だ(爆)。 

それはともかく多民族国家のアメリカでは、生きていくため良い意味での自己主張が不可欠だという。 
こう考えると私たちがアメリカ人のように、大勢を前にして上手なプレゼンを行ったり講演をすることはなかなかに難しいこととなってしまう。 

page4_blog_entry263_2.jpg

※観客の視線を自在に操り、絶妙なプレゼンをするVideoToasterブースのスタッフ(Macworld Expoにて)


ただしアメリカ人だって練習もせずに、誰もがあのように上手な話し方ができるとはどうしても思えないから当然のことながら裏では最大の努力をしているに違いない。 

page4_blog_entry263_3.jpg

※お遊びなのだろうが幼児がヘッドセットを付け、絵を描きながら説明する様は思わず立ち止まってしまう(FractalDesign社ブース)


そんな事を考えていたとき思いあたったことは、日本の文化にも「笑い」「絶妙の間」[絶妙のテンポ]「流暢な話し方」そして「ボディアクション」を常に取り入れている伝統芸があることを思い出した。それは皆さんもよくご存じの「落語」である。 

私も落語は好きなほうで、たまには名人と言われる人たちの芸を見聞きすることがある。 
手ぬぐいと扇子だけでどんな世界にも客を引き入れてしまう落語の存在を思い出したとき、「日本語では上手な話し方ができないのでは...」という思いが払拭されたような気がした。 

日常会話とは違い、自社の製品をアピールするにはそれなりの技術が必要だ。大げさにいえば真剣勝負の気迫も必要なのだと思うが反面ある意味で冷静な計算も必要である。しかし残念ながら私達の多くはこの種のアピールに慣れていないばかりか、正直いって勉強不足ではないだろうか。人前で大きな声を出すことひとつでさえ訓練した人がどれだけいるものか…。 

それから、ただ単にテンポがよく、抑揚のある話し方をすればそれで良いわけではない。 
通りかかった人たち.....すでに目を向けている人たちが興味を持ち、自社ブースの前で立ち止まって話を聞いているとき、単にマニュアルどおりの説明を喋っていてはだめなのである。それではこちらが口を開いた瞬間にお客様は去ってしまう。 

ところで私はよく秋葉原に出向く。無論電気街をいつものように一回りするのが楽しみなのだが、もうひとつの楽しみが駅前にある。それがそこで包丁や洗剤などを店頭販売している人たちの話術を聞くことだ。 
なにしろ駅前の人だかりの中で30分もその話術に耳を傾けていることもしばしば...(笑)。事実私自身がかつてブースに立ち、大勢のお客様に対峙する語り口の中には、これらの方々から拝借したテクニックがたくさんあるのだ(^_^)。 

また現代ではあまり見聞きしなくなったが、フウテンの寅さんよろしく香具師たちの口上を見聞きするに、唸ってしまうほど客の心理をとらえた話術がたくさんあるのに気が付く。 
例えば回りに集まったひとたちを自分の説明が終わるまで離れないようにするテクニックは...こんな切り口上ではじめるのだそうだ。 

「え〜こういう人の多い場です。皆さん方には懐に十分注意してくださいよ。なに、この商売も長い間やってるとね、スリが誰なのか...なんてすぐ分かる!」「現にね、この中にもスリがおいでになる! さあさあさあ、懐に気を付けて話を聞いとくれってんだ...。」 
こんな話をされたんでは、いますぐイソイソとその場を離れるとスリではないかと皆に思われると考えてか、誰もがその場を離れられなくなってしまうという。 
大げさでなく、我々の文化にも上手に語る文化はあったのだ。 

しかし多くの土地や場所で、さまざまなシチュエーションによるプレゼンあるいは講演や店頭での説明係りをやってきたが自身の体調やテクニックもさることながらお客様が少しでも乗ってくれると大いに調子は上がるものだ(^_^)。 

以前大阪で展示会があったとき、一日に数回短めのプレゼンテーションを頼まれたが初日が終わったとき関係者のお一人からお褒めの言葉をいただいた。 
「松田さんって凄いですね。テーマが同じなのにこちらが10分とお願いすればピッタリ10分で...20分でとお願いしたらこれまたピッタリ時間内で起承転結が完結するのですから...」と。 
ひとこと「プロですから」と笑ったが、これでも影で滑舌や時間の配分方法を随分と練習してきたのである(笑)。 

大勢を前にした際の話し方の理想は入念な練習・訓練を積んだ上で、実際のプレゼンやデモンストレーションあるいは講演時にそうしたそぶりを少しも見せず、あたかもアドリブであるかのような結果が出せれば成功なのだと思っている。ちょうど良質のジャズ演奏のように…。


Apple最高技術責任者エレン・ハンコックの思い出

エレン・ハンコックはAppleのCEO、ギル・アメリオに依頼されAppleの最高技術責任者兼研究開発部門の副社長としてAppleに入った。皮肉にも彼女が最初に決断したことはコープランドの開発が絶望的であるということだった。



優れたOSとして登場したMac OSだがその生誕から10周年である1994年あたりになると時代の進化に遅れを取っている部分も目立ってきた。すなわち「モダンOS」と呼ばれる機能だ。 
プリエンプティブ・マルチタスク...すなわちCPU機能を適宜割り振り、複数のアプリケーションを同時に実行できる機能。そしてメモリプロテクション(メモリ保護)...すなわち特定のプロセスがトラブルを生じても他のプロセスのメモリ空間には影響を与えないという機能を望まれていた。 
現在のMac OS Xにはそのどちらの機能をも理想的な形で搭載されているがこの話はそれ以前の物語である。そして当時の問題としてはそのどちらもWindows95にはすでに搭載されていたのであった。

さて「コープランド(Copland)」はMacintosh用モダンOSの開発コード名であり、Appleを再び業界最前線に引き戻す革新的な新オペレーティング・システムとして当時大がかりにアナウンスされていた。そのCoplandが初めて公式に発表されたのは1994年のことだが、それまでにもAppleはデベロッパーに対して、タリジェントの"ピンク"など、モダンOSの登場を示唆し続けてきたが一向にそれらは登場する気配がなかった。 

エレン・ハンコックはナショナル・セミコンダクター社において当時のApple CEOギル・アメリオ腹心の部下だった。アメリオに請われエレン・ハンコックは1996年7月に最高技術責任者兼研究開発部門の副社長に就任した。しかし皮肉なことに彼女が決断した最初のことは問題のCopland自社開発は無理だと判断し、その必要なテクノロジーを外部から求めるようCEOに進言したことだった。 
技術最高責任者が社内の開発進捗具合を調査した結果、Coplandを完成することは「難しい」と結論づけたのだ!!。 
それまで数年間、Coplandに対応する製品を開発しようと人的リソースはもとより開発資金を投入し、Appleを信じてついてきたデベロッパーたちは激怒した。中にはAppleに絶望し、二度とAppleには関わりたくないと断言して業界を去ったデベロッパーたちもいた。 

モダンOSを自社開発できないと決断した後、問題は「では、どうするか」だった。外部にパートナーを求めるしかないわけだが、最初にAppleが目をつけたのが1990年にAppleを退社し、Be社を設立したジャン=ルイ・ガッセー率いるBe OSだった。しかし結果論だが技術面よりガッセーはAppleの弱みにつけ込み過ぎ、足下を見過ぎた。そのためAppleの思惑を遙かに超える売値を提示したことが最終的には採用されなかった一番の原因ではなかったか...。 
採用を考えられたモダンOSにはBeOSの他に、SUNマイクロシステムズのソラリスなどとともに、驚いたことにはマイクロソフトのウィンドウズNTという噂もあった。 

こうした紆余曲折の中で1996年12月20日、AppleはすでにNeXT社を買収する意向を、そして翌1997年1月のMacWorldExpo/SFにおいて新Mac OS戦略のRhapsodyの発表を行った。RhapsodyはNeXTのOSおよび開発環境であるNEXTSTEPをマルチプラットフォームに発展させたOPENSTEPをベースとして開発された。 
一番の問題はいかにしてCoplandの資産をNEXTSTEPと融合して新しいモダンOSであるRhapsodyとするかにあった。そして世界のデベロッパーたちが賛同し、Appleについてきてくれるかどうかにあった。 

1997年2月に幕張で第7回MacWorldExpo/Tokyoが開催されたとき、アップルコンピュータ社の肝いりで私をも含む日本のデベロッパー代表がエレン・ハンコックと面談できることになったが、彼女と会うタイミングはそのように大変難しいデリケートな状況時だったのである。 
勿論私たちと会うその目的は単なる雑談であるはずはなく、我々日本のデベロッパーにAppleの現状...新Mac OSの進捗状況を説明しよう...理解させようという意図でお膳立てされたものであった。 

見晴らしの良いホテルの一室に設けられた会議室の窓側を背にしてテーブル中央に座ったエレン・ハンコックは技術者というよりアメリカのホームドラマに出てくる品の良い金持ちのオバチャンといった感じの人だった。 
頭髪はほぼ銀髪であったがそのシックな服装にもかかわらず、彼女のトレードマークとされた肩に巻いたブルーとピンクが目立つかなり派手なデザインのショール(スカーフ)が印象的だった。 

page4_blog_entry262_1.jpg

※向かってエレン・ハンコックの右が筆者。ハンコックの左が当時のアップル代表取締役 志賀社長


当日の話題は当然ながら「Appleの次世代OS戦略およびそのタイムスケジュール」に絞られた。我々デベロッパーはRhapsodyがCoplandのように大幅に遅れたり、最悪はまた出荷できないようなことになるのでは...と心配していた。 
エレン・ハンコックはAppleのモダンOS実現のため、NeXT社を買収したことを説明し、それまで数社と交渉中であったこと、そしてなぜNEXTSTEPにターゲットを決めたかについて触れた。ただしいま思えばはったりであったが「多くの選択肢の中にはまだAppleの独自開発という選択肢も残っている」と明言することを忘れなかった。 
「Appleを引き続き応援して欲しい」といった話に続いて会話の行きがかり上、エレン・ハンコックは私の方を向き「OSが変わるのはデベロッパーとして大きな負担ですか?」と質問された。 
私はすかさず「確かに大変な負担ですが、私はこれまでOSが変わることより、多々Appleの担当者が変わる事で苦労をしてきました」とその場の雰囲気を和らげようとして答えた。彼女は両手をあげながら笑い「そうね...」と悪戯っぽい表情をして賛同を示した。 
続けて私は「ところで、選択肢の中には本当にウィンドウズNTも入っていたのでしょうか」とこれまた努めて柔らかな口調で質問したが、それには苦笑しながらも「ノーコメント...ノーコメントです」と答えた姿が脳裏に焼き付いている。私はエレン・ハンコックのこの返事とその物言いから噂通り選択肢の中にウィンドウズNTも含まれていた...それだけAppleは逼迫していたのだということを確信した(^_^;)。 

Appleはその後にRhapsodyを1997年10月、デベロッパー各社に対してPowerMacで動作する最初のバージョンを提供した。 

page4_blog_entry262_2.jpg


ただしその後はまだ記憶に新しいがスティーブ・ジョブズが暫定CEOに復帰し、Mac OS Xを発表するに至ったことは皆さんよくご承知の通りである。そして1997年7月、エレン・ハンコックはCEOのギル・アメリオがAppleを辞任するのと同時にAppleを去った。 
この一連の顛末はAppleの歴史にとって最大級のピンチであり、ある意味汚点でもあったが私はその歴史の単なる傍観者でなくその真っ只中にいたのである...。 

Apple 元DR副社長ハイディー・ロイゼンの思い出

アップルのビジネスを、そしてそれらに関係する人々を魅力的に紹介する書籍や記事は多いが、当サイトで紹介しているAppleの元キーマンたちの思い出は、私自身が「ビジネスとしてAppleに直接関わり」「実際にその場にいた」リアリティを少しでもお伝えできればと思っている。 今回は元デベロッパー・リレーションズの副社長だったハイディー・ロイゼン氏の思い出である。 


1996年7月9日と10日の両日、東京ベイ・ヒルトンホテルにおいてJDC(ジャパン・デベロッパ・コンファレンス)が開かれた。その際にアップルコンピュータ社の尽力により、来日していた当時のAppleデベロッパー・リレーションズの副社長ハイディー・ロイゼン氏とMOSAの役員および理事を含めたミーティングが実現することになった。 

ハイディー・ロイゼン氏は、当時アップルのCEOであったギルバート・アメリオ氏の要請でAppleに入社したらしい。彼女はもともとT.Makerというアップル関連ソフトウェアのデベロッパーの社長であり、我々アップル関連製品を開発し販売する企業側の理論であったり、要望や思いというものを理解してもらえるはずだという大きな期待を一心に受けて就任した人だった。 

当時アップルは業績が大変悪く、デベロッパーとの間もギクシャクしていた部分もあったので、彼女に直接会い、話が出来るチャンスは私にとっても大変貴重なものだった。 

page4_blog_entry261_1.jpg

※壇上でワイングラスを片手に会場を盛り上げるハイディー・ロイゼン氏(左)。右の白いTシャツ姿はガイ・カワサキ氏


ミーティングはホテルの会議室で行われたが、確か1時間半程度のものだったと記憶している。それも通訳を介することもあり、事実上の意思疎通はその半分程度になってしまうことは明白だったが、ポイントを得たテンポのある語り口はなかなか魅力的だった。そして大変率直な人だった。
 
事実ミーティングはリラックスした中にも大変有意義な会話が続いた。ハイディー・ロイゼン氏は我々が考えていた以上にアップルの市場、コミュニティを活性化させるためにデベロッパーの存在が重要であるという点に理解を示していた。 
「皆さん方の製品をいかに店頭に置くか、そして販売するか、それが問題なのです」と彼女は熱心に語り、そのためにかなりの予算をすでに確保したという具体的な話まで胸襟を開いて語ってくれた。 

いかにしたらひとつでも多くの魅力的なアップル関連製品を市場に生み出し、それを顧客の手に渡すことが出来るかを真剣に考えている姿勢が伺えたことで、私は感激し少し安堵した。 

page4_blog_entry261_2.jpg

※>ハイディー・ロイゼン氏と筆者のスナップ写真。実際は16人ほどの集合写真である


ミーティングが終わってから聞かされたことだが、実は彼女は前日から風邪をひき、熱があったとのこと。それをおして予定を違えず、当日の会議に出席してくれたのだった。 
しかし現実には残念なことに彼女の努力にもかかわらず、いくつかの重要な具体策は実行されることはなかった。なぜならハイディー・ロイゼン氏はスチーブ・ジョブズ氏が復帰し、ギルバート・アメリオ氏が退任後すぐにアップルを去ったからである。 

個人的にはCEOのギルバート・アメリオ氏が退任した時よりハイディー・ロイゼン氏がAppleを辞めたニュースに私はショックを受けたものだ。 

最近特に思うことがある。 
ご承知のようにアップルの歴史、アップルの内幕を紹介する本や記事は多い。それらの中ではOSの歴史などとシンクロし、Macintosh誕生前後から多くの技術者たちの魅力ある健闘ぶりや苦悩が紹介される。 
それらにはスティーブ・ウォズニアク、ジェフ・ラスキン、ビル・アトキンソン、アンディー・ハーツフェルド氏などなどの名がよくあげられる。次に目立つのはジョナサン・アイブ氏を始めとするデザイン関係者だろうか...。 

確かに彼(彼女)たちの努力がなかったら今のAppleやMacintoshは誕生しなかったし、存在しなかったかも知れない。しかし彼らと同様に彼らが開発し、商品化したものを一人でも多くのユーザーの手に渡すことに努力をしてきた営業や販売企画にたずさわる多くの人たちのことはほとんど表に出てこない。私にはこのことが不満でならない。 

最新のテクノロジーに直接関わり、新しい製品を生み出す技術者たちの動向は目につきやすくまた紹介しやすいのは分かるが、経営者は別としていわゆる間接部門の人たちの支えと努力がなければ、Appleといえども企業を継続していくことはできない。 
繰り返すがAppleの創業当時にAppleIIを作り始めた時とは違い、例え良い製品を開発したところで、それに適切なコンセプトを与え、市場性を考慮し、販売戦略を考えなければ物は売れない時代である。 

そうした意味においてもAppleにはハイディー・ロイゼン氏のようにデベロッパーの立場はもとよりその苦悩と不満を親身になって感じ受け止めてくれる責任あるポジションの人がいまこそ必要だと思うのだが...。


前Apple社 CEO ギルバート・アメリオの思い出

ギルバート・アメリオ氏は1995年2月から1997年7月までの間Apple社の会長兼CEOを務めた人物だ。彼は過去に米ナショナル・セミコンダクタ社を建て直し、再建家の異名をもつ実務派だった。アメリオ氏は確かにAppleを再建できなかったが、その種を残したという点でもっと評価されるべき人物だと思う。                                                                                                                  
事実当時の無能な重役たちを一新し、財政面でも資金調達を果たし、ユーザーやディーラーたちがAppleにとって一番の資産であると明言したCEOだった。 
ここに1996年11月5日(火曜日)の日本経済新聞朝刊に載ったアップルの全面広告がある。アメリオ氏のバストアップの大きな写真と共に「メーカーの理論より、ユーザーの実感の方が、はるかに正しい」というコピーが印象的だ。ある意味ではこれまでのCEOの中で、一番ユーザーに目を向けたCEOだったといってもよいだろう。 

page4_blog_entry260_1.jpg

※1996年11月5日、アップルコンピュータ社は朝日新聞朝刊に全面広告を掲載した


実はこの新聞にはエピソードがある。 
1996年11月5日という日は事前にアップルから招待状が届いており、アメリオ会長が来日するのでディーラーやデベロッパーの方々にご挨拶したいという主旨のパーテイーが開催されることになっていた。 
その朝、出社し早速広げた新聞に先の広告が掲載されているのを見た私はひとつの決心をし、その広告ページを軽くたたみ込んでスーツの裏ポケットに押し込んだ。 

会場に到着するとすでに大勢の人たちが出入りしていたが、何とアメリオ氏がアップルの人たちと共に入り口に並んで迎えに出ていた。単純な私はそれだけで「いい人だ...」と思ってしまった(笑)。何故ってこれまで多くの同種の集まりがあったが、そんな演出は一度もなかったからだ。 
さて、その会場入り口に進む途中でアップルのデベロッパー担当者に出会った。挨拶を交わした後に私は彼に今日の作戦を話し、まずはアメリオ氏に紹介して欲しいと頼んだ。 
早速担当者は型どおり私を紹介してくれ、先の作戦を実行してくれた。 
それは「本日、あなたの写真が大きく掲載されているアップルの新聞広告が出たが、松田さんは今日の記念としてそこにサインが欲しいといっている」というお願いだった。なにしろ来場者が次々と入ってくる中での事だ...。 
どんな反応が返ってくるか、私もちょっとドキドキしたがアメリオ氏は嫌な顔もせず、反対に満面のテディベアーみたいな笑顔で私の無粋な願いを受け入れてくれた。私はさらに、「申し訳ありませんが、ここに今日の日付を書いてください」とまで頼み、大きな暖かい手と握手をして部屋に入った。その時の新聞、その時のサインがこれなのである。
 
page4_blog_entry260_2.jpg

※ギルバート・アメリオ氏の直筆サイン


ギルバート・アメリオ氏とはその後、1997年2月のMacWorldExpo/Tokyoのときに幕張のホテル・ニューオータニのトイレで再会を果たした(笑)。 

さて現CEOのスチーブ・ジョブズ氏の返り咲きがなかったらAppleはこれだけ劇的な再生を望めなかった事は確かだろう。しかし最悪の状態にあったCoplandの開発計画を止め、NeXT Software社の買収を決定し、NeXT社のOSをベースとした現Mac OS X開発のきっかけをつくる役割を果たしたのは間違いなくアメリオ氏であった。また周知のようにAppleの創立者であり、NeXT Software社のCEOだったスティーブ・ジョブズ氏をアドバイザーとして招き入れたのもアメリオ氏の決断である。 
結果として彼はAppleを再生する重要な橋渡しをしたのだ。自身も熱心なAppleユーザーだったというアメリオ氏だがもし別のCEOだったらとっくに身売りをしていたかも知れない...。そうだとすれば無論今のAppleはない! 

この辺の事情はウィリアム・L・サイモンがアメリオ氏にインタビューをしてApple在任中の17カ月間を綴った「アップル薄氷の500日」(1998年ソフトバンク刊)に詳しい。無論ここに展開されるAppleの姿はアメリオ氏側からの見方でしかないがAppleの存亡がかかった時期の一端を見ることができる。

Appleフェローだった、D.A.ノーマンの思い出

これまでApple Computer本社のキーマンたちにお会いしたり、ミーティングをしてきたことは大変エキサイティングな経験だし貴重な体験である。また概してApple本社の人たちは個性が強く、印象に残っている人たちが多い。 今回は認知科学者としてもよく知られているドナルド・A・ノーマン氏の思い出をご紹介したい。 


ドナルド・A・ノーマン氏は1996年にいただいた名刺によれば当時、Appleフェローであると同時に先端技術グループの副社長という肩書きだった。しかし彼の第一印象は他のApple役員たちとのそれとは異質なものを感じたがそれは彼がビジネスマンであるという以前に学者であるからだ。 
カルフォルニア大学サンディエゴ校の心理学教授であったし認知科学研究所の所長、そしてアメリカ認知科学会の創設メンバーのひとりでもある。そうした経歴の持ち主がなぜAppleの職にあったかについては知るよしもないが、あのアラ ン・ケイもそうであったように、Macintoshという製品をよりよく使いやすい製品にするために請われたのだろう。 

私自身、仕事にも関係するのでいわゆるヒューマン・インターフェースといったことには大きな関心を持っているし、少なからず勉強をしてきた経緯がある。そうしたなかでドナルド・A・ノーマン氏の名はよく知っていたが、まさか直接お会いし、話をする機会に恵まれようとは夢にも思わなかった。 
1996年2月のMACWORLD Expo/Tokyoはなかなかに忙しかった。自社ブースを持っていたこともあり、その後の自社主催のパーティーの準備などで我々はてんてこ舞いだった。 
記憶はあまり定かではないがアップルコンピュータ社のデベロッパー担当の方からExpo開催中に「アップル・フォーローのノーマン博士が来日しており会食の場を設けるから出席いただきたい」という依頼を受けた。これがどこかでプレゼンをしてくれといった類の依頼なら時間がないことを理由にお断りしたのだが、事がノーマン博士に会えるということで私は一気にミーハーモードとなり勿論了解してしまった(笑)。 

Expo会場に隣接するホテル・ニューオータニのレセプションルームだったと思うが、数社のデベロッパーの代表者の方々と共に私も大きなテーブルの席についた。ドナルド・A・ノーマン氏の第一印象は「思ったとおり」といった感じだったが、そのヒゲモジャの表情は穏やかであり誠実そうで、特に眼鏡の奥のその目が印象的だった。 
用意された食事をいただきながらの会談が続いたが、私たちの興味はAppleにおける博士のポジションであり、Appleについての未来図であった。そうした事柄について話すとき、ノーマン博士はコブシで軽くテーブルを叩きながらの大変力強い話し方になる。 
現在のAppleという会社の長所と短所、そしてAppleという企業がどのような方向に向かいどのような製品を出すべきかなどについて博士は熱っぽく語ってくれた。 
私はこうしたチャンスには意図的にいくつか質問する方なのだが、この時は自分から質問をした記憶がない。質問をする必要がないほどドナルド・A・ノーマン博士は私の知りたいこと、興味のある事柄について話をしてくれたように思う。 

所定の時間がきたときアップルの担当者が十数冊の本をテーブル上に持ち出した。なにが始まるのかと思ったがその本はドナルド・A・ノーマン博士の著書「誰のためのデザイン?〜認知科学者のデザイン原論」(The Psychology of Everyday Things)の翻訳本(新曜社刊)だった。 
嬉しいことに本の扉に "To Matsuda-san Tokyo feb.1996" という記述と共に、その場で博士はサインをしてくれたのである(^_^)。 

page4_blog_entry259_1.jpg

※D.A.ノーマン博士の著書カバーと、そのサイン


お返しといってはなんだが、私はExpo自社ブースで販売するために製作したオリジナル腕時計を鞄の中に持っていたのでそれをノーマン博士にプレゼントしようと差し出した。博士はお世辞もなかなかにお上手で「これはAppleグッズの時計よりいいね」といたずらっぽくウィンクしながら受けとってくれた。 
しかしそのドナルド・A・ノーマン博士もすでにAppleにいない......。 

昨年(2005年)のあるとき、アップルコンピュータ社のY氏とお会いした際「Appleには驚くばかりの優れた技術者が多い」という話をされた。それはAppleという企業の明るい未来を示唆しての発言だった。 
確かにそうかも知れないがスティーブ・ジョブズ氏がAppleに戻ってからはご承知のように新製品情報は厳重に封印され、事前に我々の耳に入ってこなくなった。その是非はともかく、結果としてどのような素晴らしい新製品が登場したとしても極論すれば「びっくり箱」を開けた感慨は味わえるもののアラン・ケイやドナルド・A・ノーマン博士が在籍していた時代のように「Appleは何を目指すのか」「Appleのビジョンは何なのか」といった近未来の目指す姿は見えてこない。 

かつてAppleはKnowledge Navigatorなどでパーソナルコンピュータの未来を垣間見せるプロモーションにも力を入れていたが昨今はまったく未来のビジョンをアピールすることはない。 
創業以来の良い経営状態の今こそAppleはアラン・ケイとかドナルド・A・ノーマン博士のような生産に直接寄与することではなく製品をよりよく未来に導くための人材が必要なのではないだろうか。いまその役割は想像するにスティーブ・ジョブズ氏本人が担っているように見えるが健康問題も含めて次の時代へ橋渡しができる人材がいるのかどうか、余計な心配をしてしまう。 
しかし小耳に挟んだところによれば現在のスティーブ・ジョブズは、ひとりの天才より努力のチームワークを重視しているという。そして良くも悪くも現在のApple社成功の鍵は「dream (夢)」ではなく「actuality (現実性)」なのだからビジョンが希薄なのも仕方のないことなのかも知れない。 

伝説となった Apple CONVENTION '86 裏話

時は1986年7月19日と20日の二日間、東京・本郷にある旅館:朝明館は異様な雰囲気に包まれていた。そこには200名ほどの熱心なAppleユーザーが集まり、貸し切り・徹夜のイベントを開催していたからである。 


どこからお聞きになるのか、今でもMacintoshユーザーの方から「昔、ユーザーたちが主導で開催したアップルのイベントがあったと聞いたが、それはどのような催しだったのか」と質問をされることがある。 
イベントと一言でいうが、ユーザーグループが企画する小規模なものからMacWorldExpo的な大規模なものまであるものの、それらを実現するために主催者側は大変なパワーを強いられるものだ。ましてや1986年という時代にメーカー主導ではなく、ユーザー主導で開催を企画し、それを成功させた人たちの苦労は並大抵のものではなかった。 

この日本初のコンベンションを企画した首謀者...いや事務局長は現在もMacintoshコミュニティで活躍されている松木英一さんだった。彼は実に不思議な人で(笑)、どのような角度から考えてもこのコンベンションは彼の強力な人脈無くしては考えられないものだった。 

いわば、我々も彼の掌の上で奔走しただけかも知れないが、最初「松田さん、Appleのユーザー主導のコンベンションかなにか、やりたいよね」が「今度ね、コンベンションのメドが付きそうなんだ」に変わり、気がついたら「松田さんはCG部会ね...」と主催側に回されてしまっていたというのが本当の話なのだ(笑)。 

それから、イベント企画のひとつとしてオリジナルのテレフォンカードを作ることも松木さんのアイデアだったと思うが、著名なイラストレーターである加藤直之さんデザインによるそのテレカは今ではかなりのプレミアムが付いているという。何しろ使用が厳しいアップルロゴが昔の話とは言え、テレカは勿論、ケースにも記されているのだから、事務局の力の入れようはご想像頂けるものと思う。そしてこの事実はいかに当時、ユーザー側とアップルとの間に良好な信頼関係が築かれていたかのひとつの証拠になるかも知れない。 

page3_blog_entry57_1.jpg

※加藤直之さんデザインのテレフォンカード。アップルロゴが本体とケース両方に付いている
 

ともかく、こうしてゲストには評論家の紀田順一郎さんやSF作家の安田均さんを迎え、各部屋毎に同時進行するコンベンションの責任者も決まった。それらをご紹介すると「通信の部屋」は当時日経パソコン副編集長の林伸夫さん、「音楽の部屋」はミュージシャンの安西史孝さん、「医療の部屋」は田辺一孝さん、「ゲームの部屋」は錦織正宜さん、「ハードの部屋」は村山雅巳さん、そして「映像の部屋」は私...松田が担当するという、当時最新のノウハウと情報を持った人たちが一同に介したのである。 

思い出せば、なんと贅沢な時代だったことか...。事務局の連絡用にと、専用の「アップル・コンBBS」が4月に開設されただけでなく、当時まだまだ物珍しい最新のテクノロジーだったボイスメールを我々スタッフの連絡用にと新設されたのだった。 

現在、NTTの災害用緊急連絡システムにもこの種のシステムが使われているが、相手のメッセージをいつでもどこでも電話で確認でき、そして自分もメッセージを残すことができるこのボイスメールシステムは本職を持つ多忙な関係者同士のコミュニケーションに多大な貢献をしてくれた。無論当時は現在のようにインターネットはもとより、それぞれが携帯電話を所持する時代ではなかった。 

ともかく一番心配したのは当初参加申し込みになかなか拍車がかからなかったことだ。当時の記録を確認すると「いま9名になった」とか「100名以上にならないと採算がとれない」といった話が飛び交った。なにしろ現在のようにインターネットで告知する方法がなかったから、雑誌などに小さく載ったニュース記事だけで、口コミたけでどれだけ人が集まってくれるかがまったく分からなかったのだ。 

「徹夜」と明言したイベントなのに「徹夜は苦手だから寝具を用意してくれ」といった要望があったり、「食事はどうする...」といった問題もあった。しまいには「Appleユーザーは年齢層が高く多忙、したがってオールナイトは場違いでは」といった声まで出始めた。 
それでも6月末近くになり、やっと50名ほどの参加者募集が集まったときには、正直ホッとしたものである(笑)。 

しかし当日、会場に入った我々はこれまでの不安はなんだったのかと思わせる熱気にたじろぐ思いをする...。 

page3_blog_entry57_2-1.jpg

page3_blog_entry57_3.jpg

page3_blog_entry57_4.jpg

※Apple CONVENTIONの受付(上)と一階ゲームコーナーの様子(中)。写真下は私が担当した「映像の部屋」の様子。一番右が筆者


そこには業種や性別、そして年齢といった垣根をとっぱらった、ただただAppleが好き、Macintoshが好きという人たちだけが集まっていた。 
私が担当した「映像の部屋」は畳敷きの二部屋ぶち抜きのかなり広いスペースだったが、そこにテーブルを置き、Macintosh 512K本体とMac10ハードディスク、MacVisionとビデオカメラ、それにThunderScanおよびImageWriterプリンタを設置した。またソフトウェアとしては、MacBillbord、ColorPrint、FullPaint、VideoworksそしてEasy 3Dなどを用意したが、ハード・ソフトともに当時としては最新のものでありその一部は日本ではまだ入手しにくい製品もあるという貴重なものであった。 

page3_blog_entry57_5.jpg

※「映像の部屋」のシステム説明をするため、当時描いた図


はたして「映像の部屋」に人は来てくれるのか、徹夜をするほど話題は続くのか、などなど当初の心配をよそに夜が明ける頃にはMacintoshの隠しコマンドの話題といったことだけでなく、家族や職場におけるパソコンの使用例や、奥様に対してどのようにしたらMacintoshの予算を認めてもらえるか...と言った類の話題で盛り上がった。
 
そして久しぶりに本格的な徹夜を強いられた訳だが、頭の中は疲れていたものの、精神的には大いに満足して朝日を拝んだことを思い出す。 
しかし、唯一私にとって悔やまれることは自身、他の分科会に顔を出せなかったことだ。そこには別の、そして違った多くのドラマが展開していたはずだ。そうした他の部屋にまつわる思い出は機会があったらまた別途ご紹介することにしよう。 

こうして無事に日本で始めての、そしてユーザー主導のアップルコンベンションは成功裏に幕をとじたが、当時のビジネス世界では日本市場の代理店問題でアップルジャパン、キヤノン販売とイーエスディ社が反目をしていた時期でもあった。事実一階の酒場のコーナーではこれらの関係者同士が顔を合わせても目を背けるといったこともあり、問題の根の深さをあらためて知らされる思いをしたものだ。 

したがって事務局の松木さんらの苦労は一通りのものではなかったが、関係者の一人として誇れることは、ユーザー主導だからといった理由でゲストの方々は勿論、来場者の方々に対して妥協を強いるようなことはなかったと自負していることだ。 
とかくユーザーグループだから...ビジネスでなくボランティアだから...といった甘えが目に付く催事もあるが、一回限りのアップルコンベンションは完璧だった。というより、その一回で我々は燃え尽きてしまった(笑)。 


スティーブ・ジョブズのプレゼンテーション秘話

1989年7月10日、幕張の東京ベイNKホールは異様な熱気につつまれていた。Apple Computer社の創業者であり、自らが「生涯砂糖水を売って過ごすのですか...世界を変えてみたいと思いませんか?」と誘ったジョン・スカリーに追放された彼が新しいマシンをたずさえて我々の前に登場したのだ。そのコンピュータの名はNeXT...。


今の私たちはMacWorldExpoの基調講演などで、Apple Computer社CEOであるスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションの妙を知っている。私もサンフランシスコのExpoなどで、彼の基調講演を直接何度も聞いたが確かに話の間の取り方、話題の順序、常に客席を意識した話し方などなど関心することばかりである。

私がスティーブ・ジョブズのプレゼンテーションを最初経験したのはすでに彼がAppleを辞め、NeXT社が開発したマシン宣伝のために来日したその時が最初だった。
その日、私は噂に聞いていた彼のプレゼンテーションの秘密を見たのだった(^_^)。

1989年7月10日、私は東京ベイ・ヒルトンホテルのロビーに通じる場所で三人連れでこちらに歩いてくるスティーブ・ジョブズとすれちがった。プレゼンを前にした彼はきちんとフォーマルスーツに身を包みながらも噂通りの気むずかしい顔をしていたのが印象的だった。しかしステージにあがった彼のプレゼンは大変見事だった。

壇上にはトラブルを想定し、2セットのNeXTマシンが置かれていたが、開口一番「プレゼンでのトラブルは観客の数とその期待度に正比例します」という彼一流のユーモアで笑わせた後にNeXTマシンの説明に入った。
アメリカ本国と同様に伝説化した有名なプレゼン.....NeXTマシンのサウンドの良さを際立たせるために、NeXTから出力させたバイオリン演奏がいつのまにか壇上に紹介された実際のバイオリニストが演奏するものにすり替えられるというもの.....はこの会場でも拍手喝采だった。

page4_blog_entry257_1_20130623161027.jpg


私にとって一番の収穫はスティーブ・ジョブズ氏のカリスマ性の確認とそのプレゼンの巧みさの一端を覗けたことだった。
壇上でスクリーンに映し出されたビジュアルで効果的な映像と共に、彼が熱弁を振るう様はすべてが正しく、そして素晴らしいことなのだと思わせる説得力があった。その説得力やカリスマ性は彼の「自信」と「直感」によるものと感じた反面、先にすれ違った時の緊張した気むずかしい顔を思い出すにつれ、彼は彼なりに寝る間をも惜しんで努力をしているのではないかということにあらためて気づかされた。

ただし、彼のプレゼンや方法論がいつも正しいわけではないことも冷静に観察した。例えばプレゼンの巧みさに通じるテクニックではあるが、当時のNeXTマシンに搭載されていた256MBのOptical Driveは決して速いものではなかった。しかしそれを起動する時、オペラグラスでよく目をこらしていると「起動します!」の言葉より以前に起動のオペレーション、すなわちマウスクリックがなされた時があった!

したがってスクリーン上では、彼が「起動します!」の声と同時にアプリケーションが素早く立ち上がるように見えるのだ。私は「ずるいな」と思う以前に「これは凄い!」と感嘆したことを今でも覚えている。
それから、NeXTのメインボードがフル・オートメーション設備の工場でロボットを使って生産されている様をスクリーンいっぱいに映し出し、NeXT社の優れた品質管理や生産性をアピールした時には会場から拍手が起こった。

しかし日本の中小企業でも、当時はすでに生産性向上や合理化そして品質管理をうたい文句にオートメーション技術は取り入れられており、本質的にそれらは珍しいものではなかったはずだ。
面白いのはスティーブ・ジョブズの一挙一動に大変説得力があるため、冷静な判断を妨げてしまうのだ。これこそ彼のカリスマ性の証明だった。

しかしNeXTの魅力的なプレゼン後も私にはそれがMacintoshより魅力のあるものには映らなかった。したがって私はNeXTマシンを欲しいとは思わなかった。当時買うつもりなら手に入れることはできた環境だったが買わなかった事実がそれを物語っている(笑)。

そしてその日、スティーブ・ジョブズが「コンピュータ10年寿命説」という持論を披露し、NeXTが90年代前半の主流になるという説をブチあげたときも納得できなかった。
彼はいま、そのときの自分の言葉をまったく忘れているのだろうか(^_^;)。

まあ我々はずっとAppleの...いや、スティーブ・ジョブズの魔力に振り回されっ放しなのだから今さらの話ではない(笑)。第一昨今のIntelプロセッサに移行するに際し「4倍のスピード。ついに願いは現実に」などと...いけしゃあしゃあのコピーを打っているアップルだが(笑)、つい数年前にはPowerPCが最速・最強であることをイメージさせるためIntelプロセッサをカタツムリの背に乗せたコマーシャルまで作ったくせに...。いまではそんな事実など無かったかのような振る舞いではないか(爆)。

易経には「君主豹変、小人面革」とある。この意味は元来、豹の毛が抜け変わり鮮やかな模様が現れる様に、君主は自らの過ちをはっきりと改めるという事だ。そもそも責任感とか初心貫徹などとこれまでの言動に拘る私たちが小者なのだろうか(笑)。



メイン広告
ネットショップ先行販売
ブログ内検索
New web site
[小説]未来を垣間見たカリスマ  スティーブ・ジョブズ
ジョブズ学入門
WATCH 講座
大塚国際美術館ひとり旅
ラテ飼育格闘日記
最新記事
お勧めの新旧記事
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員