ラテ飼育格闘日記(134)

本シリーズは度々ワンコの知能の高さについてとりあげているが、ラテを見ていると親ばかは承知ながらその知能の高さは勿論、知識や経験から導き出す判断力とか感情の妙にも驚嘆することが多い。彼女は断じてデカルトというように命のある単純な機械ではなく、間違いなく高度な思考力と判断力を持っている。

 

ワンコは教えれば、「お手」とか「待て」という飼い主の命令を忠実に守る。しかしワンコは人間から教えられたことだけでなく、それまでの経験や体験から新しい概念と価値観を作り出し、それにもとづいて行動することもできる...。
先日の雨の日、オトーサンは親ばかを承知の上だがつくづくラテの行動に驚嘆したのだった。いや、興味深いのは彼女の行動がオトーサンから見て明らかにその真意が分かるところが凄いと思うのだ。

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※どうです...この存在感は(笑)


その日の朝は雨だった。かなり本降りだったのでラテにはどうしてもレインコートを着せる必要があった。
通常朝の散歩は女房と一緒に出て駅までいき、そこで女房と別れた後でオトーサンとラテはしばしの散歩を続けることにしている。その自宅から駅に向かう間、ラテは女房から1センチ四方程度に割った乾燥ササミのオヤツをいくつか貰うのを楽しみにしながら歩く。
ラテのリードはオトーサンの手にあるが、ところどころでそのオヤツを貰いながら駅に向かう。そして女房が忘れていると足元をツンツンと鼻面で突いて催促するラテである。

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※アジサイが群れる径をラテと散歩


その習慣は雨の日でも基本的には同じだが、ラテは濡れるのが嫌いなのと同時にレインコートを着るのが大の苦手である。
先日も女房がそれ以前のものより着せやすくラテも負担にならないようにと新しいレインコートを2種類購入したが、それさえ着せようとするとラテはハウスに逃げたり体を硬直させて嫌だということをアピールする。しかし本降りの雨の日にレインコート無しで外を歩けば後の処理が大変なのだ。
雨の臭いを消し、乾かすのにも手間と時間がかかるし、レインコートを着ていれば泥の跳ねなどにも対処出来るから不可欠なのである。
しかしレインコートが嫌いなのを知っているオトーサンとしては小雨ならなるべく着せないようにと配慮し、歩きながらさす傘もラテの方に向けるようにしているものの本降りとか土砂降りの時はどうしようもない...。

その朝も仕方なく黄色いレインコートをラテに着せ、女房と家を出た途端にラテは奇妙な行動を取った。それはいつもの方向とは逆の方向に行こうとするのである。
経験のないときのオトーサンなら「なにやってんだ!こっちだろう...」とリードを強く引いていつもの道を歩き出すのに違いないが、最近ではラテのすることには何らかの意味が...少なくともラテにとって...あるはずだと思うようになっているから、彼女の思惑を一瞬で気がついたのである。

話は前後するが、朝の散歩はラテと小一時間駅前の公園から自宅に向かうさまざまな行程と風景を楽しみながら歩くわけだが、その間にオシッコは勿論ウンチもさせるという重要なミッションを持っている。特にラテの場合、ウンチは外でしかしないので朝夕の散歩時にはそれを念頭に入れて行動し歩き回ることになる。だから馴染みの飼い主さんたちと出会うと「○○ちゃん、今日はウンチ出ました?」などと聞き会うのも挨拶のひとつになっているのだ。それだけ皆さんワンコにウンチをさせることを重要なことだと考えているからである。

ラテの場合、普段はほぼ朝夕の散歩時にウンチをする。しかしこればかりはいつも同じ場所で同じ時間帯に...というわけには行かないわけで2時間も歩き回ったのにしなかったという場合もあるし、強制すれば解決することではないのでなかなか難しいことなのだ。それにワンコにとってウンチをする場所はどこでも良いわけではなく、それなりに拘りがあるようだから余計に面倒だ。
オトーサンは「あっちでもこっちでも同じ芝生だろ...同じじゃあないか」と言いたいが、ラテはラテなりに考えるところがあるのでオトーサンの思うようにはならない。
問題は雨の日である。ラテも濡れていたり水たまりのある場所にしゃがみ込むのは嫌なのだろう。雨の日はウンチをなかなかしてくれないことが多い。だからはじめの頃はいつもより長い時間、傘を差して歩き回ることが多かったしそのためにオトーサンもびしょ濡れとなる。とはいえ、オトーサンが癇癪を起こして早めに散歩を切り上げてはラテにウンチを我慢させることになるからと痺れを切らしながらも散歩を続けるのが常だった...。

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※ラテが何を考えているのか...。オトーサン最大の関心事である


しかしこの2年半の生活でどうやらラテは「ウンチをすれば早く帰れる」ことを学習したのに違いない! とにかく雨は嫌いだしレインコートは大嫌いだから外に出たくないがオトーサンに引っ張り出されてしまった...。とにかく早く帰るにはどうしたらよいか。
いつものようにオカーサンと駅に向かえば、少なくとも最低30分以上は帰れない。しかし反対の方向に行くと小さな公園と共に大好きな階段があり、その上は芝生だ...。
ラテはきっと10数メートル先の公園に行き、その過程で早くウンチをして戻りたいと考えたに違いないのだ。
公園を横切り、造成地を囲むように作られた階段を上がりながらオシッコを2度ほどしたのでオトーサンはそれだけでも安心し、ウンチをしなくても戻ろうと考えていた。階段を上りきったときに狭い芝生があるが、そこでいそいそと座り込んだ...。

オトーサンがラテの一連の行動が「早く戻りたい」と考えて行動したと考えるひとつの根拠はウンチの量である。その日にしゃがみ込んだときのウンチはわざわざするほどの事もないほど微量だった。
天気のよいいつもの日なら次の散歩...夕方にすればよいとパスするに違いないホンの形だけのものだったのである。ラテはとにかく早く帰りたい一心で無理して形だけのウンチをし、オトーサンの顔を立てたのだ(笑)。

もうひとつの根拠は芝生からすぐ先にある別の階段を下りると自宅の前に出るが、普通はもっと散歩したいとその階段を下りるのを快く思わないラテなのだ。それが自分から「はい、アタシのミッションは終わりましたよ」とでも言うようにいそいそと階段を下りていくのだからオトーサンは苦笑しながらも舌を巻いてしまったのである。
結局自宅から出て戻るまでものの5分程度の時間しかかからなかったのであった。
そしてオトーサンが驚くのは、ともかく早く帰りたいためにオカーサンと駅まで歩きながら貰うオヤツの楽しみを犠牲にしたことだ...。食べ物を犠牲にすることはワンコにとって大変なことだと思う。
これだけのことを家を出た瞬間決断し、オトーサンに逆らってリードを強く逆方向に引いたのだから、ラテ...恐るべしである。

Lisa 2のMacエミュレーションソフト「MacWorks」とは?

iPhone 3G Sの発表やiPhone OS 3.0などの最新情報と渡り合いながら25年も前のマシンであるLisaをオペレーションしているのもなかなか “乙なもの“ である。さてLisaは後にMacintosh XLという名に代わりMacのラインナップとして位置付けられたがその際に標準添付されたのがApple純正Macエミュレーションソフトの「MacWorks」だった。

 
この「MacWorks」はMacintosh 512Kのエミュレーションソフトである。ちなみに「MacWorks」はその後、「MacWorks Plus」とか「MacWorks Plus II」といったものがリリースされたがそれらはすべてサードパーティーがからんだ製品だった。しかし今回ご紹介する「MacWorks」はApple純正品故に注目なのである。
とはいえ「MacWorks Plus II」がSystem 7.5までに対応できたのに対し「MacWorks」はMacintosh 512Kまでのシステムに限定されるので今となっては実用性は低い...。

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※Apple純正のLisa用Mac 512Kエミュレータソフト「MacWorks」パッケージ


そのLisa 2だが、別途専用のアクセラレータなどを装備の上でメモリを増設し本格的なMacintoshとして活用する方法もあるものの、私自身はLisaを本格的にMac化する気持ちはまったくない。あくまでLisaはLisaとして全うさせたいと考えている。
Lisa自身もきっとLisaとして生まれたからにはLisaとして活かして欲しいと思っているに違いない...(笑)。だから「MacWorks」はあくまでエミュレータであり文字通りMacを模倣するだけのツールとして認識しているつもりだ。
それに、Macintoshのソフトウェアを起動活用したいなら幸い私の手元にはMacintosh 128K, 512K, PlusはもとよりMacintosh Portableからシェル型iBookに至るまで様々なMac OSバージョンを使う機種があるから、わざわざLisaをMacとして使う必然性はない...。

では何故「MacWorks」など手に入れたのか。それは「MacWorks」が100% Apple純正ソフトウェアだからである。
Appleの思惑はともかくMacと互換性のないLisaを何とかMacとして生き延びさせようとした「MacWorks」がどのような製品であるかを知りたいという知的好奇心からである。
まあ、そんな理窟は実際の「MacWorks」を目の前にするところりと忘れ、Appleフリークの一人としては実に心がうきうきしてくる。
とにかくこの頃のパッケージはその中身を含めて非常に素敵な物が多く、この「MacWorks」もその構成やデザインに当時のAppleの思想が垣間見れるだけでなく、製品の目的が目的だけに奇妙な部分も際立っていて楽しいのである。

“奇妙”というのは他でもない。このパッケージは紛れもないLisa用のソフトウェアだが、それは最初期Macintosh用ソフトのそれに近いデザインだからだ。パッケージを開けるとそこには「MacWorks」のシステムディスケットと共に懐かしい「MacPaint」と「MacWrite」のフロッピーディスクが入っている。

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※「MacWorks」のパッケージ一式


何かMacintoshのパッケージを開けたときの感慨を思い出すようだ...。そしてそれぞれのディスケットと共に「MacWorks」「MacPaint」ならびに「MacWrite」のマニュアルがセットされているが、特に興味深いのは「MacWorks」のマニュアルである。
「MacPaint」および「MacWrite」のマニュアルはMacintosh付属のものとまったく同じだが「MacWorks」はそのユーザーズガイドの表紙が例のピカソ風デザインによるLisaを描いたものである。そしてページを捲れば、最初の数ページは「MacWorks」についての説明があるものの、後はLisaに関して示唆する部分を別にすれば中身は写真を含めてMacintosh 128Kのそれと同じである。
無論「MacWorks」はLisa上でMacをエミュレートするツールだからMacintoshを解説することになるのは当然だが、このLisaとMacを融合させたパッケージはユニークこの上ない存在ではないだろうか...。

さて、前置きが長かったが早速Lisaの電源を入れ「MacWorks」のフロッピーから起動させてみよう。
「MacWorks」が起動し問題なく読み込まれるとフロッピーは吐き出され、画面には「MACWORKS XL 3.0」およびコピーライト表示が出てアプリケーションフロッピーを挿入するよう促す。

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※Lisa 2で「MacWorks」を起動したところ


ここで例えば「MacPaint」のフロッピーディスクをドライブに入れるとアプリケーションが読み込まれて起動する。後はオペレーション上Macintoshそのものであり特に変わったことはないが、その画面を見ればすぐにわかるようにLisaとMacとはそのモニタの縦横ピクセル比が違うためご覧のような表示になってしまう。

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※Lisa 2上で「MacPaint」が走っている


実用上に問題があるわけではないが、やはりモニタの一部が空いているのでは気になってならない。ただし本格的なMac化を目指すためにLisaの画面をMacintoshのそれに合わせる「Macintosh XL Screen KIt」といったパッケージも用意されていたことも記しておきたい。

まあ、Mac化していないLisa 2上でMacintoshをエミュレートする「MacWorks」の限界はここまでだが、実用云々といったことよりこうしたプロダクトが存在していたその事こそがAppleの歴史を追っている一人としては感慨深いことなのだ。

空海と最澄1200年の対立を超えて天台宗座主、初の高野山公式参拝

空海とか最澄といった名を出すと何だか話が古すぎて現実味がないが、2009年6月15日に天台宗と真言宗の座主が高野山真言宗総本山・金剛峯寺にて1200年ぶりの歴史的な和解シーンをアピールしたというニュースに空海フリークの1人としては思わず頬が緩む...。


ニュースによれば、6月15日天台宗(総本山・比叡山延暦寺)トップの半田孝淳座主が高野山真言宗総本山金剛峯寺を訪れ、宗祖空海の誕生を祝う同寺最大の法要「弘法大師降誕会」に同寺の松長有慶座主と並んで参列し手を取り合ったという。
両座主はこれまでにも交流があったらしいが、両宗派の開宗以来1200年間で初めて公式な和解の場となった。

天台宗と真言宗うんぬんといった宗教宗派のあれこれは正直私には興味がない。あの司馬遼太郎ではないが、ただただ日本人にもこうした天才...本当の意味での天才が存在したという事実から弘法大師空海に魅せられたひとりなのである。
無論空海の生き様を見ていく上で彼の強い思念の源泉となっている密教という教義を無視しては話にならないからと素人ながら多くの書を読んできた。そして筑摩書房刊「弘法大師 空海全集 (全8巻)」読破は私のライフワークのひとつでもある(笑)。

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※筑摩書房刊「弘法大師 空海全集 (全8巻)」


それはともかく、とかく島国である日本は世界の歴史に胸を張って誇れる歴史的人物が少ないと感じざるを得ない。
いわゆるオールマイティの天才といえば私たちはレオナルド・ダ・ヴィンチらの名を思い浮かべるが、空海をそれらの人たちと対峙させてもまったく劣ることなくますます彼の人間離れした生き様を認識せざるを得ない。それほど空海は現実離れした人物だが...史実の人なのである。

ここで空海の生い立ちやその足跡を詳しく記すつもりはないが、幼少のときから秀でた能力を持っていた。一族からも大切に育てられ将来を嘱望されていたにもかかわらず大学に飽きたらずに中退し19歳で山岳修行に入る。
乞食同然の姿で山野を歩き回っていたとき1人の沙門に出会い「虚空蔵求聞持法」を授かり、室戸岬での修行中に明星が招来し悟りを開いたといわれている。
私のような凡夫にはもの凄い荒行とか悟りうんぬんといったことにイメージがわかないが、ともかく彼の人生にはまるで作り話のようなピンポイントといってよい強い運がつきまとっている。こんな桁違いの天才なら、もしかしたら...ひょっとして宇宙の道理を理解してそれらを動かせるのではないか...などと期待してしまう。
大日経に巡り会ったこと、遣唐使船に乗船できたこと、遣唐使船4船のうち2船は沈没あるいは行方不明になった中で空海の乗船した船は無事だったこと、命が尽きる直前の恵果阿闍梨に迎えられ直接教えを受けられたこと、その後30年も行き来が無くなる最後の船で帰国できたことなどなど、どれひとつが欠けても後の弘法大師空海は存在し得ない出来事だったが彼はすべてをクリアする。そして長安に入っても通訳を必要とせず、当時世界一の文化を誇っていた長安の知識人たちを驚嘆させる文章と優れた書芸を見せたことは歴史的事実なのだ。
結果、空海は恵果から密教の全体系を伝授され、真言密教の第8代後継者となる...。

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※筆者が昔、京都国立博物館で手に入れた「聾瞽指歸」のレプリカ二巻。空海が延暦16年(797)12月、まだ入唐前の24歳のときに戯曲の形式で書き上げた作品


さて空海と最澄が仲違いしたその理由にはいろいろと説もあって残された資料から決定的なことはわかっていない。
空海が自費で渡った唐から戻ったとき最澄はすでに時の天皇に認められ確固たる地位を築いていたが、空海はまったく無名だった。ただし青龍寺の恵果から胎蔵界・金剛界の灌頂を授けられ、正式な密教の後継者となって帰国した空海から見れば天台教学を究めるために国費で唐にいき、ある意味ついでといった感じで持ち帰った最澄の密教は不完全極まるものであった。無論最澄もある意味で行きずりに巡り会った密教を表に出すつもりはなかったようだが、桓武天皇は奈良仏教勢を押さえ込むために新しい教えを必要としていたこともあり、注目されてしまったのが最澄の不幸でもあった。

いや、その不完全さは最澄自身も充分に認識していたからこそ帰国した空海に積極的に接触し、空海が唐から持ち帰った膨大な経典類を貸して欲しいと申し出、2人の交流が始まったといわれている。そして最澄は空海の弟子になるとまで謙り、空海から灌頂を受けたほどだった。
空海直筆とされる「風信帖」など残された資料が語っているように空海は最澄の求めに応じて快く貴重な経典を貸し出し交流が始まった。しかし突然空海側からの悪意とも取れる拒絶の手紙をきっかけにして両者は完全に袂を分かつことになっとされており、それから1200年もの歳月が流れたというわけである...。

残された資料から判断するに空海が最澄にあてた最後の手紙はどう解釈しても...空海フリークの1人から見ても気持ちの良いものではない。その一点がこれまでわだかまっていたことでもあった。しかし物事には表に出ていないことが多々あるわけで、空海から見ればその怒りとも思える感情には何らかの理由があったはずだ。
その第一はやはり両者の密教に対する考え方の違いにあったとされている。
空海が最澄に強い感情の手紙を送ったのは最澄から「理趣釈経」の借覧要請があった時とされている。なお近年この説は疑問視されているようだがまず教義ありきの宗教家としては度重なる経典借用といった交流の中で無視あるいは容認できないあれこれが表面化してしまったと見るべきかも知れない...。

要は空海が体得した密教は修行と形式を重んじ、法の伝授は師から弟子へ伝えるといういわば実践を顧みずには成立しないものだった。しかし最澄はこれまでの教学がそうであったように、新しいことを学ぶには経典を読み、深く文章を理解することで真理が求められると考えていた。
最澄は自身が多忙の身であったことから弟子を空海の元に置いて修行させることまでした。無論最澄はその弟子が会得した密教の真理を自分自身も会得できるものと考えていたのだろう。
空海は “最澄ともあろう人” が、密教の真理に近づくには言葉や文字にはできない教えの部分があることを何故理解できないのかイライラしている様子も垣間見える...。さらに最長は密教を天台宗の一要素として取り入れようとしていたが、空海にとって密教はすべてであり、大日如来は宇宙そのものであり天台はもちろん他の宗教を包括するものであった。
問題の「理趣釈経」だが、密教の秘教とされある意味その文字面だけで学ぼうとすると誤解を招く記述が多い経典である。例えば一般的に仏教は男女間の性的欲望を否定するが「理趣釈経」は男女の性的和合を肯定している...。それをそのまま文字面だけで理解すれぱ後の歴史が証明しているように、例えば立川流のような認識のされ方になってしまう恐れがあった。だから実践としての修行が終わらない内は「理趣釈経」は貸せないという空海の主張は一応理にかなっている。

この2人の考え方の違いは弘法大師御入定1150年記念映画「空海」(北大路 欣也主演)で最澄と対峙するシーンによく表されている。
最澄が空海を訪れたとき、空海は胎蔵界・金剛界、すなわち両界曼荼羅を指さし「あなたはあれを文字で表すことができますか?」と問う。私が好きなシーンのひとつなのである。ただし余談ながら最澄のその真っ直ぐな人柄を演じているのがこれまた大好きな加藤剛なので辛いところなのだが(笑)。

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※1984年4月に公開された弘法大師空海御入定1150年御遠忌記念映画「空海」のDVD


ともかく例え1200年も前の出来事だとはいえ両者のわだかまりは当然のことその後の多くの宗徒のわだかまりにもつながる。今回の二ュースに頬が緩んだのはそうした意味合いもあるのだ。それでなくともギスギスした時代である。「仲良きことは美しき哉」だと思うし宗教の存在意義はそこになくてはならいない。
それこそ空海も最澄も喜んでいるに違いない。

ラテ飼育格闘日記(133)

毎日朝夕2回の散歩は大雨でも降らない限り中止せずに続けている。そして毎日毎回となれば特に変わったこともなく粛々と散歩が続くと思いがちだが、この平凡であるはずの散歩にもいろいろな出来事や出会いがあり、なかなか興味深くまた考えようによっては結構面白いものなのである。

 

通常朝の散歩は時間帯が早いことでもあり、そしてオカーサンを駅まで送っていくという使命もあるので馴染みのワンコに会ったり一緒に遊ぶという時間はないし、そもそも馴染みのワンコたちにも会えない。
駅まで歩き、コンコースを通って駅前の公園に向かうことを含めて3通りのバリエーションの中からオトーサンの都合とラテの気分によって道順が変わってくる。その間、駅のコンコースで出会うことがある女性が「ラテ、ラテちゃん」と近寄り可愛がってくれることもあるが、時間帯が通常数分我々の方が早いようなので会うのは2週間に1回程度である。したがって通常はハトを追ったり、定番の箇所でクンクンを楽しんだりしながら一通りの散歩を続けてる中で自宅が近くなってくるという道順を選んでいる。その間にオトーサンとしてはウンチをさせるべく気を使うが、こればかりはラテ次第なのでなかなか思うようにいかない。しかしラテも自分の使命を分かっているようなので最近ではあまり無理強いをしないように心がけているのだ...。

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※これは一暴れして帰るところ...。さすがにラテも少々疲れたようだ


そうしたシンプルな朝の散歩と比較すると夕方の散歩は些か刺激的なことが多い。それはいつもの広い公園に向かうとそこには天候や時間帯にもよるが様々なワンコたちと飼い主さんらが集う可能性があるからだ。そして日によって面白い日と何にもない平凡な日があるものの楽しみも多いのである。
無論広い公園はワンコ専門の公園ではないから、季節や天気にもよるがサッカー練習をしたりキャッチボールをしている人たちもいればランニングや太極拳みたいな体操に励む人も見受けられる。そしてそれぞれが迷惑のかからないように楽しんでいるわけだが、中には無視できない人たちもいて少なからず悲喜劇が起こることもある。
公園は前記したようにスポーツ練習のために来る人たちだけではない。例えば詩吟を唸りにくるオジサンもいるし、何か目標があるのだろうかリコーダーを練習しにくる初老のオヤジもいる。
まあこれらは家庭内でやれば少なからず家族からクレームがくる可能性もあるからと広い公園に出向いて練習するのだろうが、オトーサンたちにとってはある意味、球技などをやっている人たち以上に気を使うことになる。

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※仲良しのボーちゃんと身体全体を使って遊ぶラテ


それは詩吟のオジサンが唸りだすとラテやビーグル犬のハリーちゃんたちがいっせいに吠え始めるのである(笑)。ワンコは音に敏感だから詩吟の一節が遠吠えに聞こえるのだろうか、とにかく気になってしかたがない様子である。しかしお互いに「吠えるな」とか「詩吟は五月蠅い」といったことは言える立場にないから、知らない振りして続けることになる。
その結果「鞭聲肅肅(べんせいしゅくしゅく)夜河を渡る~」「ウォ~ン、オ~ン」といった合唱になることもある。
これはもう根比べである(笑)。
オトーサンとしては元気だったときに母が詩舞を習っていた時期があり、詩吟は耳慣れしていたのであまり苦にはならないが、最近公園で神経をいらだたせる第1は初老のオヤジがベンチに陣取ってリコーダーの練習をしているそのことである。
いやいや、無論練習そのものに文句を付けるつもりはないがすでに公園に来るようになって3ヶ月以上にもなるのに失礼ながらまったく上達しないのだ(笑)。
極々専門的なことはともかく、リコーダー演奏の要点は楽曲を間違えないよう吹けるようになることは勿論だが、大切なのはメリハリのある演奏と良い音を出す練習も必要である。しかしそのオヤジはスタッカートもなく適切な息継ぎもなく「息を吹いたら自然に音が出た」といったレベルの吹き方からまったく進んでいないから音楽にもなっていない。
思わずリコーダーを取り上げて昔取った杵柄ではないが、見本を吹いてあげようかと思うほどいつもいつも単調なそしてどこか抜けたような音ばかり聴かされるとイライラしてくるのである。ラテではないが「ウォ~ン」と声を上げたくなるのである(笑)。

反して子供たちとの出会いは楽しく刺激的でオトーサンにとっても楽しみなことが多い。特に公園内や近くの遊び場で遭遇する女の子たちはラテを可愛がってくれるし、ラテ自身がそうした子供たちが好きなので嬉しくてならないようだ。
先日も砂場へラテと行くと3人の女の子が「すみませ~ん。ワンちゃんに触ってもいいですか?」と駈け寄ってきた。ラテはすでに耳を倒し、尻尾を大きく振りながら目を輝かせて喜びを表している。

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※好きな飼い主さんたちに撫でてもらうと、もうメロメロである(笑)


オトーサンが「いいよ。だけどやさしくね」というと女の子たちは「ハア~イ」と屈託なくラテを取り囲む。どうやら小学一年生らしいが「名前はなんていうんですか」「あのね、うちにもネコがいるの」「オジサンたちどこからきたの」などなどと3人同時にまくしたてる...。そのうち「ネエ、オジサン...ラテちゃんの尻尾...可愛いから触ってもいい?」と1人の子がいう。
「はじめて会ったばかりだから尻尾はなるべく触らない方がいいよ」とオトーサンがいうと「どうしてですか!」と強く迫ってくる(笑)。
オトーサンは「オジサンたち人間だって他人に触られたくない所もあるでしょ。ワンちゃんも一緒なんだよ」と理論然に説明したつもりだったが、その子は「ふーん、でもさ、ワタシはどこ触られても怒らないよ」と問題発言(笑)。もうオトーサンはアセアセ...タジタジである。

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※このキラキラした表情で仰ぎ見られるとオトーサンは弱いのだ(笑)


3人の女の子から解放されたオトーサンたちは公園に戻る途中に上から「ラテちゃ~ん」という声に呼び止められる。ふと声の方向を見上げると1本の木の上にたまたま会うこれまた女の子が登っていて声をかけてくれたらしいとわかった。
ラテは嬉しくて木の幹に前足をかけたりするが勿論登れるわけではない。面白いのは「ラテちゃ~ん」の後に「元気?」とか「また会ったね」といったもの言いになるのかと思ったら「またね!」であった(笑)。なんとも...さっぱりした女子である。

しばらく公園で遊んでいるとさきほどの女の子3人が公園に入ってくるのが見えた。そして近くにいる柴犬のハチちゃんのオカーサンに「すみませ~ん、ワンちゃんに触ってもいいですか?」と駈け寄った...。
ハチちゃんのオカーサンは安全を考えたのだろう「噛むかも知れないから向こうにいるラテちゃんにしてね」という(笑)。女の子たちは「ラテちゃんはさっき遊んだもん...」と少々不満そうにまた別のワンコに向かって「「すみませ~ん...」のハシゴをやっている。
しばらく女の子たちにつき合っていた小型犬がさすがに疲れて嫌になったのか尻尾が下がってしまったようで飼い主さんが抱き上げてしまった。
女の子たちも乱暴な扱いをするわけではないが、子供特有の動きの激しさとその甲高い喋り声にワンコたちもタジタジなのかも知れない。というか子供の嫌いなワンコも多いのである。
その後の女の子たちの行動には思わず吹き出してしまったが、なんと彼女らはこちらに向き直しながら「やっぱり、ラテちゃんだなあ!」などと勝手なことを言いながら駆けてくる。幸いラテはまだ歓迎しているようで再びお腹を出して精一杯の喜びを表した。
ラテのそうした喜びの姿がオトーサンの原動力なのである。

ラテ飼育格闘日記(132)

今年の6月1日からペットフードの安全性確保に向けて新しい法律が施行された。それが「愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律」であり、違反した法人には最高1億円の罰金が科される他、法人代表者らに対して1年以下の懲役や100万円以下の罰金も設けられるという私たちペットの飼い主たちには待ちに待った法律施行なのだ。

 

こうした法律が施行された背景には無論近年のペットブームがある。しかしそれ以前にいわゆる市販のペットフードにより犬や猫が健康を害し最悪の場合は死亡する事故も多々発生していることが引き金になっている。
日本では意外のようだがこれまでペットフードの安全性を目的とする法律は存在しなかった。まあ、我々人間の口に入る食べ物にしてもご承知のように多くのニュースで報じられたとおり酷いケースもあるのだから、ペット向けの食べ物が実際にどんな原料で作られているかなど分かったものではないだろう。

米国でメラミンが混入した中国製原料を使用して製造されたペットフードを原因として発生した大規模な犬猫被害は我々飼い主には記憶に新しい。しかし原料が何であるかを明記しなければならない法律もなく、都合の悪い食品添加物などは記さなくても罰せられなかったのだからメーカーはある意味やりたい放題だったわけである。
とにかく常識で考えれば人間が食するものより高級で安全な原料・材料を使っているとは思えないわけで、いわば人間の食べられない物が大量に使われている可能性が考えられる。

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※オトーサンが投げたボールを咥えて走るラテ。無論オトーサンも走る...走る(笑)


アメリカでは安楽死させられたペットの肉がペットフードに使われているという話や、日本でも動物管理センターなどで殺処分された犬猫が廃肉業者に引き渡されていた実態が報告されているそうだから、それらがペットフードの原料になった可能性は十分考えられるだろう。
その他、ダイオキシン系の化学合成物質でベトナム戦争の際に枯葉剤の原料にもなった酸化防止剤や安定剤として知られたエトキシキンが使われているケースもあるし、発がん性や歩行困難、歩行障害を生じるブチレーテッド・ヒドロキシン・アニソール(BHA)、これまた発がん性が認められているブチレーテッド・ヒドロキシン・トルエン(BHT)といった添加物をはじめ農薬とか抗生物質などが多く残量している材料が使われているケースも考えられるという。

そういえば、野村獣医科Vセンター院長の野村潤一郎著「Dr.ノムラの犬の悩み相談所」(講談社刊)には有名な国産ペットフードとして知られているビタワンの偽物について書かれているページがある。
大変安く売っている店があったのでよく見ると“ビタワン”ではなく“ワンピタ”という中国製のパチモンだったが、野村先生は一袋買って仲間の研究所で成分分析をしてもらったところ、中身はほとんどニワトリの羽だったという。これでは栄養もなにもあったものではなく、そもそも食べ物ではないわけだ。
とにかくこれまでペットフードに法律で決められた安全基準がまったくなかったのだからどんなことがあっても驚いてはいけないのかも知れない。繰り返すが原材料や添加物の表示義務もなかったから、知られるとまずい材料は隠すことが簡単だった。

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※ラテが毎日食しているドッグフードはユーカヌバの体重管理用(ライト)だ


近所のスーパーにあるペットコーナーに行くと数多くのペットフードが並んでいるが、昨年こうした法律の施行を目前にしたからか、内容表示に問題があったとかで回収扱いになった製品があったことをオトーサンも実際目にした。
どうやら大阪に本部のあるペットフード製造会社が原材料に使用していないのにもかかわらず「ササミ」とか「ビーフ」といった不当表示をしていたらしい。たぶんオトーサンもラテのために何度かは購入した可能性がある製品だったが、一体何の肉だったのだろうか?
事実ペットフードも値の張る物から安い物まで多々あるが、一般消費者がその多くの中から安全なものを選ぶのはまず無理だろう。
意識的にできることといえば、極端に安いものは買わないこと。同じ程度のサイズの包装なのにかなり軽い製品は避けること。中国産あるいは原料が中国のものは避ける。添加物の表記を(一応)確認する。そして信頼できそうなメーカー品を選ぶといった程度でしかない。しかしそれも製品に明記されている表示が産地偽造であったならどうしようもないし、前記したように人間の世界だって高級料亭が一度客に出して残った物を使い回して大騒ぎになる時代に「たかがペット用だから」と考えるメーカーや製造者がいてもそれは不思議ではない。

ドッグフードは本来栄養価が高く、それと衛生的な水だけを与えれば愛犬はバランスの取れた健康な体を維持でき成長するものと考えられてきた。しかしそれは原材料の厳選はもとより、食の安全をきちんと守って製造されたものでなければ意味がない。
したがってオトーサンは「愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律」だけでは十分ではないと思っている。
要は犬猫の法的地位が低すぎるところに問題はあると思うのだ。なぜならワンコは法的に愛護の対象であり生き物と認知されてはいるものの、例えば傷つけられたり殺されたりしても動物虐待は当然だが器物損壊の対象でしかない。これでは罪が軽過ぎると思わざるを得ない。
いやいや...世の中には罪を重くしても犯罪抑止にはならないというもっともらしい意見を主張する人たちもいるが、それでは被害者側の心情は無視されていることにほかならないではないか。

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※ちょっとバテたので...一休みするオトーサンとラテ


話は少々横道に逸れるが...世の中はまさしく「小説より奇なり」で許せない悪人が山ほどいる。
例えば近隣にあった動物病院の医師が、連れてこられたワンコが健康体にもかかわらず検査入院を勧め、結果愛犬は胸から腹にかけて切り開かれた...。そして飼い主が駆けつけたときにはすでに死んでいたという。
不審に思った飼い主が別の病院で検査解剖してもらったところ、なんと気管の奥にビニールの固まりがきつく押し込まれているのが発見された...。無論それは人為的でしかあり得ないことで死因は窒息死である。
他の被害者と共に飼い主が民事訴訟を起こし昨年(2008年)やっと有罪の判決が下り、その結果農林水産省も重い腰を上げて当該医師に医師免許3年の停止処分をくだした。詳しくはGoogleで検索すればすぐに詳細はご覧いただけるはずだ。
まあ、動物病院の医師でありながらこんな人間もいるのだ。

飼い主の愛情を利用しそして医師の立場を悪用しあらゆる理屈を付けてペットを預かり、治療目的で法外な金銭を要求するだけでなくその目的のためにはペットの命さえ奪い続けたのである。なにしろ分かっているだけでも100人以上の被害者がいたらしい...。また別のケースでは飼い主をクレーマー扱いし暴力を振るったこともあったという。
オトーサンが毎日通う公園でもその医師の噂は多々囁かれていたし「あの病院にだけはいかないように」という飼い主さんたちも多かった。
問題は医師免許剥奪ではなく停止という判断だ。これだけのことをやって前例がない処罰とはいえたった3年の停止とは...オトーサンは納得いかない。なぜなら3年が過ぎたらこの輩はまた動物病院をどこかで開業するかも知れないのだ...いやするに違いない。

少々感情的になってきたから頭を冷やして話を元にもどそう...。
こうした極端な犯罪は勿論だが、健康を害するようなペットフードを作る製造業者は確信犯である。過失ならまだしも意図的な犯罪はその対象がペットであっても関係機関はもっと迅速にそして厳正に対処し厳罰を処すべきだと思うのだ。それが被害を拡大させない策でもあると思うのだ。
そもそも犬猫に限らずペットの命を軽く見る人間に人の命の尊さも分かるわけはないと考えるオトーサンである。

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※オトーサンに微笑みを返すラテ


理想にはまだまだ遠く十分とはいえない「愛がん動物用飼料の安全性の確保に関する法律」施行だが、とにかくやっとあるべき第一歩は踏み出したのだから、看板だけに終わらず、メーカーや関連の業者に対してきちんとした監視監督と指導を怠らないようにして欲しい。
無論我々飼い主もマナーとルールを守らなければならない。しかしその飼い主の中にも糞の始末さえしない者がいる。こうした問題が大きくなれば「この遊歩道は犬の散歩禁止」とか「この公園は犬の散歩禁止」といったことになりかねない。
まったく...人間とはなんて厄介な生き物なのだろうか...。

ある意味...古くて新しいマシンLisa 雑感

Lisaを手に入れてから1ヶ月が過ぎた。そのLisaを見学にこれまで友人ら十数人我が研究所を訪れている...。彼らはみなYouTubeなどでは見たことがあるものの、動いている実機を一度も見たことがないらしい。遠慮のない彼らは口々に「どうやって手に入れた?」「金額は?」といった質問攻めをする。しかしそうした問いには一切答えないことにしている(笑)。


入手方法や金額といった話しに答えないのはなにも勿体をつけたり意地悪しているわけではない(笑)。答えないのは説明をしたところで意味がないからだ...。
今回私が完動品のLisaを手に入れることができたのは世話をして下さった方と廻り合えたまったくの個人的なことから発端した問題でありまことにラッキーだったわけだ。したがってLisaは一式をどこどこに連絡すれば私が入手したレベルの完動品をいつでも購入できるという代物ではないのである。だから興味本位で入手ルートや価格を聞くことは我が研究所では禁句である(笑)。

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※当研究所では「入手経路の話し」と「価格の話し」は禁句である(笑)


さて、Lisaは市場におけるその実質的な販売期間が大変短かったこともあり、そしてすでにリリースから25,6年も経っているいま、正直Lisaに関する情報を集めるのはやさしいことではない。このことはGoogleでLisaを検索してみればお分かりだろう...。
もしMacintoshのように多くの人たちの手に渡ったマシンならその人気あるいは賞賛に値する痕跡が多々残っているはずだ。その証拠といってはなんだがMacintoshに関する書籍はMACWORLD誌などといった戦略的なものも含めてリリース当初からかなりの数が出版され現在も私たちの手に残っている。

本場の米国はもとよりだが、日本においてもいわゆるシェアの数字とは違った意味のステータスが論じられ、早い時期に書籍はもとより多くの雑誌に載るようになったことは周知のとおりである。しかし残念ながらLisaに関してはそうした痕跡はほとんどない。
それだけ市場が成立する前に販売が頓挫したからだろう...。少なくとも現在、さまざまな手段を講じたとしてもLisaのことに触れた記事を目にすることは大変少ないし、ましてや「月刊Lisa」とか「エグゼクティブのためのLisa」などという書籍が豊富にあるわけではない。そういえば「LisaWorld Expo」といった催事も聞いたことがない...(笑)。
Lisaはまさしく多くの方々にとって幻の製品であり、ある意味で古くて新しいマシンなのかも知れない。

そんなLisaだが、ブツとしてのLisaはこれまでにもごく稀にオークションに出品されることもあった。ただし動作を保証するケースはほとんどない。そしてオークションはタイミングにより当然のことながら出品価格はまちまちだが、ごく最近の例だと動作しない一式は5万円台から10万円台といった範囲だったと思う。

ただし世の中は広いからいまでも大切にLisaを保存保管し、あるいは楽しんでいる方たちもいないわけではない。しかしだからこそ良いものが適切な価格で売り出される可能性は極めて低いと考えなければならない。
とはいえ例えばVintage Computer Inc.やOld Apple WorldのようにLisa関連アイテムやオールドMacを販売しているケースもあり絶無ではない。しかし当然ながら常に豊富な在庫があるわけではない。
また万一修理となっても必要なパーツや部品が潤沢に手に入るかは大変心許ないと考えた方が良いだろう...。

今となっては外観的に大きな傷がなく汚れが目立たないものを探すのだけでも一苦労だろうし、ましてやきちんと安定して動作するマシンを探そうとするのは簡単ではない。
まあ、今さらLisaを...それも動作するLisaを欲しいと考える人がどれほど存在するかはわからないが、私自身も欲しいという相手が単なる興味本位なら「おやめなさい」とアドバイスするだろう...。とにかく一般的に考えればリスクが大きすぎると思われるからだ。繰り返すが私はラッキーだったのである。

というわけでLisaが鎮座したしばらくの間、来訪される方も多く私自身気持ちが高揚していたのだろう...落ち着いてLisaの前に座ることがなかなかできなかった。それに起動から終了までの簡単なデモを人前でするとき正直「万一起動しなかったら...」というプレッシャーもある(笑)。

設置場所も決まったし改造やあれこれといじくり回すわけでもないからそうそう簡単に壊れることもないとは思うし、これまたラッキーなことに一部のパーツはデッドストック品...すなわち新品で構成されているからして安定度に貢献しているはずだ。それに一番不安定なハードディスクをコンパクトフラッシュ化しているわけで、システムの起動に関しての不安材料も少ないはずだ。

しかしそこは何と言ってもオールドな機器である。最初期のMacintoshだって昨日問題なく機能したのに今日になると爆弾マークの嵐...といったことも多々経験しているから起動する度に緊張せざるを得ない(笑)。
何とか一通り目的を達成できるまで...そう、3年間ほどは無事に動作して欲しいと願っているのだが...。

ともかくまずは当研究所に鎮座することになったLisa 2を少々仔細に眺めてみよう...。
まず本体だが天板の正面に小さな傷があるのを除けば全体的にも大変美品である。それに話を急くようだが、本体および頭上に乗せるProFile、そしてキーボードおよびマウスの色合いがまずまず均一なのがよい。厳密に言えばProFileの色合いががほんの少し明るい感じもするが...。

本体やProFileはもとより、キーボードやマウスといったものもそれぞれ別のルートで日本に輸入したものだし、ロットの違いや保管の状態も違うはずだからいわゆる年代を経ての変色に違いが生じるのも当然だといえる。
事実Lisa本体と共にProFileが写っている写真の中には双方のカラーリングが著しく違って見えるものもある。しかしその点、今回のLisa 2は全体的にほぼ同色といってよいほどなのでいわゆる絵になるのだ。
あと、よくよくその画面を凝視するとモニタの映りを締まって見せるためのグレアフィルターに小さな傷がある。しかしこのフィルターは取り外して使用しているユーザーが多いと聞くし機会があれば傷のないモノと取り替えたいと考えている。

外側はともかく問題はやはりメカニカルな部分である。例えばLisaマウスで状態のよいものを探すのはすでに難しく多くはXLタイプのものが使われている。だから実用的にはXLタイプのマウスの方が安定しているわけだが可能な限り往時を再現したいという願望があってLisaマウスに拘ったのである。

さらに意外だったがキーボードもトラブルの多い機器のひとつのようだ。なぜなら私の手元のキーボードも当初のものはスペースキー、shiftキー、フルキー側の数字の3、テンキー側のアスタリスクなどが接触不良で時々機能しないか完全に機能しないという状態だった。

いくらLisaは常用の実用マシンではないといってもこれらのキーが思うように使えなければ使用には耐えられない。
ということでその交換用としてシリンクされた新品だというキーボードを送っていただいた。新品なら外見はもとより綺麗に違いないし問題もないだろうということで...。しかしシリンクを外して接続しても今度はまったく、どのキーも反応がないのである。

結局はストック数台のキーボードをすべてテストした上で完全なものを提供いただく結果となったが、キーボードひとつでもこの調子なのだから25,6年も経過した古いマシンをきちんと再現しようとするのは大変なことなのだとあらためて認識せざるを得ない。

さてこのLisa 2について一番の特徴はProFileにある。一連の記事で何度か記しているとおり本来は5MBの外付けハードディスクなわけだが、その内部をコンパクトフラッシュ(CF)カード化している。無論その理由は往時のハードディスクでは信頼性が著しく欠けるからだ。

具体的には32MBのCFにLisa 7/7 Office System (LOS)をインストールしてあり、そのCFから起動すべくX/ProFileという専用のカードが搭載されている。したがって現在メインとしてLOS 3.0をインストールしたCFを使っているが例えばCFを取り替えればLOS 2.0など他のシステムでも起動が可能である。

しかし、そもそもProFileはハードディスクだったわけでその筐体はネジでしっかり閉められており頻繁にケースを開けるようには作られていないし、CFを替える度にケース底のネジを回さなければならないのは非現実的である。
ということで私のProFileはその背面一部をくり抜き、背面からCFを自由に抜き差しできるように改造してある。

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※X/ProFile化したProFile筐体の背面はコンパクトフラッシュが抜き差しできるように改造してある


それから改造といえば、3.5インチのフロッピーディスクドライブだが、本来400KB仕様のものを800KB仕様のものになっている。これは今後MacWorksのように擬似的にもMacintosh用のソフトウェアをフロッピーベースで使う際には自由度が広がるだろう。

このLisa 2がMac Proと並んで置いてあるのも何か不思議な感じがするが、私自身Lisaと毎日顔を合わせるようになって約一ヶ月過ぎ、やっと平常心で対峙できるようになった。
その昔...1984年にMacintosh 128Kを買ったとき、朝起きるとまずはMacの前に行き電源を入れるのが嬉しくて仕方がなかった。そして今、Mac Proの隣に置いたLisaもそんな思いを彷彿とさせ、6色のアップルロゴを目にしながら電源を入れ起動の様を眺めているとこの25年間のあれこれがフラッシュバックのように思い出す。

イーエスディラボラトリー社でのあれこれ、最初にLisaやMacに出会ったこと、Macが縁で多くの人たちと出会えたこと、北は北海道から南は山口県まで全国を講演やデモのために回ったこと、サンフランシスコやボストンでの思い出、多くの催事での出来事、素晴らしいクライアントと酷いクライアントのこと、エキサイティングだが苦労の連続だったアップルとのビジネスなどなど多くの出来事がデスクトップの向こうに見え隠れする。

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※これは合成したイメージだ(笑)。まあこんな感覚でLisaのモノクロモニターを眺めているとこの25年間の出来事を思い出す...


毎々Lisaの電源を入れるとき、私はいつも条件反射的に一瞬タイムワープする...。したがってLisaは私にとってタイムマシンなのかも知れない(笑)。そしてこの大変古いマシンをいまだにきちんと動作させようと情熱を持って行動している方たちが存在することに驚嘆と尊敬を感じざるを得ない...。

今週も数人の方がLisaを見に来てくださる予定だが、今週といえばWWDCの開催時期でありAppleから新製品が発表されるかも知れない...。そんな時期に今さらLisaでもないだろうという人たちもいるかも知れないが、前記したように多くの方たちにとってLisaは古くて新しいマシンなのである。


ラテ飼育格闘日記(131)

 引越までしてラテと一緒に生活し始めて早2年半になろうとしている。とにかくワンコを飼うことは始めてだったわけだが、こんなにもコミュニケーションを交わしあえる相手だとは夢にも思わなかった。無論ラテはオンリーワンであり他のワンコとの単純比較はできないものの彼女特有の生い立ちも関係してか、感情表現が豊かなワンコに成長したようだ。

 

6月10日はラテの誕生日である。今年で満3歳になるが無論本当のところは不明なので保護して下さった方や当時ラテを診察した獣医の話などから推定した誕生日だがまあ...「中らずと雖も遠からず」といったところだと思っている。
しかし当初は毎日をラテと過ごすだけで余裕もなければ予備知識もないという状態だったから気がつかなかったものの最近あらためて考えると「ああ、なるほどそうだったに違いない」と思い当たることが多くなってきた。

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※ラテもこの6月で満3歳になりました。太めですが元気です!

 
オトーサンはラテと暮らしはじめてすぐに彼女が非凡な能力を持っていることを感じ、何とかこの子の心の中を知りたいと願ってきた。
無論思い入れであることも承知の上だが「人は犬の心を理解できる」と思えたとき、逆にラテの方がより以上に我々のことを知ろうと努力しまた知っていることも分かってきた。事実動物は我々が想像する以上に我々の感情の機微を知ることができるようだ。
その一例だが皆さんは20世紀の初頭のことだが...「賢いハンス」と呼ばれていた馬の逸話をご存じだろうか。

ハンスはドイツの馬だったが数学ができるということで知られるようになった。この馬は黒板に書かれた公式や数式を見せられ、条件となる数字を与えられるとその答えを蹄で床を叩いたり答えの書かれたカードを示したりして知らせることができた。
高名な科学者たちがこぞってハンスを調べに来たが、飼い主だけなく他の人が出した問題も苦もなく解き学会の驚異となった。
その後やっとハンスは数学を解いているのではなく、質問者が無意識に出している「そこで止まれ(終わり)」というサイン、例えば深呼吸、緊張が解ける瞬間、目つきの変化などを読み取り床を叩くのを止める...あるいは正解のカードの前で止まっていたことが分かった。
こうした結果を知った人たちの中には「そら見たことか。動物に計算能力はおろか意識などないのだから」と言い合ったそうだが、計算能力はなくてもハンスは間違いなく賢い馬だったのだ。

ここで言いたいことはワンコは馬と同等かそれ以上に人の心の機微を読む名人(犬)だということだ。そしてオトーサンたちには不可解でもその行動には何がしかの理由があるのだということもわかってきた。無論その理由が何であるかが理解できないのが問題なのだが...。
そうしたことを前提にラテの些かオーバーな感情表現と嫉妬深いその心理を探ってみるとオトーサン自身納得できるあれこれが分かってきた。

何度もご紹介しているとおり、ラテはオトーサンにベタベタするワンコではない。
飼い犬の中には常に飼い主の膝に乗りたがったり、足元にくっつくように踞ったり、添い寝をしたり、あるいは飼い主の歩く後を追うワンコも多いという。しかしラテは残念ながらそうした行動をほとんど見せない。特にオトーサンには...。
最初に厳しく接しし過ぎたのだろうか、オトーサンがラテに近づくと緊張する様が手に取るようにわかるのだ。耳を引き倒し、アクビを頻繁にする。無論アクビは眠いからではなく緊張を解く動作だという。そしてオトーサンがより近づくと体を離そうと傾ける(笑)。
嫌われているのかと思えばそうでもないようで(ホントか...)、興がのれば居眠りしているオトーサンの口を舐めにきたり、椅子に座っていると靴下を引っ張って脱がしにかかったりもする。そして公園ではオトーサンに頭を低くしお尻を高くする「遊ぼう!」のサインを出して駆けっこをせがんだりもする。

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※オトーサンが石垣に足を乗せると早速真似をするラテ

 
そんなラテだが例えば休日の散歩で公園に行き、オトーサンがちょいとトイレに行く間リードを女房に渡す。そしてほんの2,3分で戻るとラテは大げさと思うほどの歓迎ぶりで喜びを表すのだ。
満面の笑顔をし、尻尾だけでなくその大きなお尻まで振ってオトーサンに向かって駆けてくる。まあオトーサンとしては大変嬉しいのだが「おいおい、ほんの2,3分会わなかっただけにしては大げさでないか」とも思う(笑)。
また朝の駅コンコースで会う犬好きの女性にお願いされてラテのリードを渡そうとしたとき...ラテの顔には明らかに恐怖の表情を見たとオトーサンは思っている。そして慌ててオトーサンに抱きついてきたのだ...。
こうした一見脈絡がないように思うラテの行動だが、一緒に暮らして早2年半になったいま考えるとラテなりに一本筋が通った思いを見て取れるようだ...。

そういえば1996年11月、横浜の動物病院で開催された里親会でラテ(その時は違う名だったが)に初めて会ったとき、彼女の我々に対する接し方だが.....その時に予備知識のなかったオトーサンには分からなかったものの.....今思えばラテは自分の運命の行く末を案じていたのではないかという確信みたいなものを感じるようになった。
他のワンコたちも程度問題一緒だったのかも知れないが、ラテはまだ6ヶ月程度の子犬だったものの我々がその場にいた2時間ばかりの間、暴れたり騒いだりは勿論、吠えたりすることは一度もなかった。
たまたま行きかがり上、係の方にお願いされてラテのリードを持つことになったオトーサンもそこにいる7,8匹のワンコの中からどのワンコがいいかと考えていたわけだ。キャバリエに興味を持ったり、あの白いテリア系のワンコが大人しくていいかなぁ...などと係の人に聞いてみたりする間、ラテはずっとオトーサンの帽子を舐め回していた(笑)。そして初対面なのに尻尾やお腹を触ろうと、そして口の中に指を入れたりしたオトーサンを嫌がらなかった。

いま思うとラテはその場がどのような意味を持っているのかを本能的に知っていたのではないだろうか。
例え一ヶ月かそこいらだったとしてもノラ犬の経験があったであろうラテにとって、ここは自分の飼い主が決まる大切な場であり、いまリードを握っている男はその飼い主になるかも知れないことを知っていたのではあるまいか。
確かにオトーサンたちは結果としてラテを選んだが、実はラテの方もオトーサンたちを選んでくれたのかも知れない。その気持ちが態度や行動に出たこともありオトーサンたちの選択肢に大きな影響を与えたのかも知れない...。いや、もしかしたら選ばれたのはオトーサンたちだったのだ。そう思い当たるようになったのである。

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※公園で一休み...。オトーサンとラテは雑談中です(笑)

 
散歩の途中でラテを柵などにリードを固定し、オトーサンが数歩離れようとすると吠えて大変である。また散歩から自宅にもどったとき、直前までまだ散歩を続けたいとリードを引いていたラテが、オトーサンがドアを開けて玄関に入る際に遅れてはならないとばかりオトーサンの脇を急いですり抜けて中に入る...。
また宅配便のお兄さんはもとより、来客の人たちも姿が見えない場合はほとんど吠えないラテだが、ドアが開き相手の姿が見えると...ましてやラテのいる部屋に入ると猛烈に吠えるしその尻尾は下がってしまう。

これらの行動は自分だけ置いてけぼりにされるのが怖いのかも知れないし、先のリードを渡そうとした際に見せたラテの恐怖の表情と合わせて考えると、万が一にも自分の選んだオトーサンたち...飼い主が変わるかも知れないことに常に恐怖感みたいなものを持っていると考えるとその態度は理解がしやすいように思う。
だから数分でもオトーサンの姿が見えないと不安になり、それが解消されると喜ばざるを得ないラテなのだ。ただし誤解がないように申し上げておくと、ラテに分離不安といった傾向はない。日常はきちんと留守番ができるワンコに成長している...。だからこそ興味深い行動なのだ。

ともかく人一倍...いや犬一倍嫉妬深いのも同じ類の思いからくるのかも知れないしこうしたラテの一連の行動・性格は一時期ノラ犬だった事実や保護預かりしていただいた方が変わったり...という体験がトラウマになっているのではないだろうか。
そんなことを考えながらラテをそっと抱きしめたオトーサンだが、ラテは迷惑顔である(笑)。

伝説のマニュアル「Apple II Reference Manual January 1978」とは?!

パーソナルコンピュータのために書かれたマニュアルは当然ながら製品の数だけ存在するわけだが、私たちの記憶に残るいわゆる「マニュアルの名品」は...となればアップルフリークなら「Apple II Reference Manual January 1978」がその代表という意見に異論はないだろう。今回はその表紙の色から「レッド・ブック(赤本)」と呼ばれて愛されたこのマニュアルをご紹介しよう。


これまでにも当サイトはLisaやMac 128Kなどのマニュアルとかユーザーズガイドといったものにも意識的に目を向けてきた。それはマニュアル類も立派な製品の一部であるという考え方からだ。
マニュアルは決して厚いものが良いものではなく、製品の理解を深め製品の特徴並びにその使い方を誰にでも分かりやすく解説するものが理想とされる。例えパソコンのマニュアルだとしてもそこに技術用語ばかりが羅列していては何のための“パーソナル”なのだろうかということになる。
しかしマニュアルには確実に良い物と良くない物とが存在するが、その良いマニュアルとて時代というものを無視して評価はできない。
今回はApple IIのマニュアルとしてすでに伝説になった感のある通称レッド・ブックと呼ばれ賞賛され特別視されてきた「Apple II Reference Manual January 1978」についてのお話しである。

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※1978年2月にリリーされた「Apple II Reference Manual January 1978」通称Red Bookの表紙と裏表紙


ご承知のようにApple IIも製造年代により様々な機種が登場し、それにともなって幾多のマニュアルが用意されたが「Apple II Reference Manual January 1978」は最初期のApple II 用に用意されたものである。まさしくその表紙に“January 1978”とあるのが生々しいではないか。
私の手元にあるレッド・ブックは表紙を含めてかなり傷んでいるが内容を確認するには十分な代物だ。
実はこのマニュアルが重要視されるのには理由がある。そのひとつは無論Apple IIというパーソナルコンピュータに関してハード・ソフトの両面から充分に知りつくすことができる点にあるが、このマニュアルの内容自体がApple IIを開発したあのスティーブ・ウォズニアック自身手書きしたものを1977年に社長としてAppleに迎えられたマイク・スコットらがリタイプしたものだからである。さらに掲載されている手書きの図版にもウォズの手によるものがある。

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※この手書きの図はApple IIを開発したスティーブ・ウォズニアックの手書きを版下にしたもの


Apple IIのリリースは1977年だが、このレッド・ブックは1978年2月にリリースされた。そして同年6月にはDOS 3.0がリリースされApple II本体より重要な発明だとウォズ自身も述べているDisk II (フロッピーディスクドライブ)がCES(コンシューマ・エリクトロニクスショー)で発表されている。
ちなみに思い起こせばこの1977年から1978年は個人的にもそしてパーソナルコンピュータのその後にも大きく影響する印象的な出来事が多々起こった時代であった。
私は1977年11月に結婚したが、翌月の12月になけなしの10万円をポケットに秋葉原へ行き、L Kit-8という富士通のワンボード・マイコンを購入した。その同年5月にはあのアスキー出版が資本金300万円で設立され、6月にはASCII誌の創刊号が早くも登場している。
また私は1978年暮れにコモドール社のPETも入手しパーソナルコンピュータのアーキテクチャを理解し始めることができたと同時に本格的なBASIC習得を始めた時代だった。

さて、まず申し上げておきたいこととしてこのレッド・ブックはその名の通りリファレンスマニュアルだということだ。したがって参考書、技術解説書でありApple IIを入手した際のセッティングなどを説明するガイドブックではないということだ。
無論本書は英文だが、もしその内容を100%理解できたとするなら、Apple IIのコピー品を作ることができるほどの内容である。ただし一部に印刷ミスがあるようだが...。
ともかく回路図はもとより、6502のアセンブラによるソースコードなどが満載で最先端のコンピュータという代物のハードウェア・ソフトウェアを学べる素晴らしい教科書だったのである。
とはいえ前記したようにこのレッド・ブックは現在の視点から見れば決して分かりやすい解説書ではないだろう。

確かにApple IIは本当の意味において最初のパーソナルコンピュータであることは間違いないし、箱から出して電源ケーブルとモニターをセットすれば即使えるマシンであった。そしてカセットテープからゲームなどをロードすれば簡単にカラーグラフィックスを堪能できたわけだが、当時のユーザーは良し悪しではなく現在のパソコンユーザーとは些かアプローチが違っていた...。
ひと言でいうなら当時のパソコンユーザーは程度の差こそあれ自身がプログラマであったといえよう。でなければ充分に使いこなせなかったからだ。そしてハードウェアに強い人がいれば公開された情報を元に周辺機器を開発することもできたし事実Apple IIはそうして多くのユーザーやサードパーティーに支持され広まったのだ。

例えば発刊されたばかりのASCII誌にゲームが掲載されるといっても現在のようにダウンロードできるサイトが明記されていたわけでもアプリが収録されたCD-ROMが付属していた時代でもなかった。
ゲームはすべてBASICかマシン語をダンプしたものが載っているだけで、読者はそれを徹夜でマシンに入力するのが当然のことだった。それも見間違うことのない鮮明なプログラムリストならともかく、ドットマトリックスのプリンタ出力のものはまだ良い方で、滲んで見えるプログラムリストを写したモニター画面を撮影したものが平気で掲載される時代だったのである。

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※システムモニターのダンプリストにウォズの名 "S. WOZNIAK"が見える


このレターサイズのレッド・ブックを開いて見るとその紙面はタイプライタの出力をそのまま版下にしたものが中心だし、サーマルプリンタだろうか...その出力はまだ見やすいほうだ...。したがって単に見やすさとか読みやすさを期待できるものではなかった。ただし当時のユーザーは情報に飢えていたというより数少ない資料を隅から隅まで...すり切れるまで読んだものだ。したがって当然のことながら、集中し時間をかけて物事に当たるわけだから理解を深めることも必然であり、このレッド・ブックはApple IIのヘビーユーザーや開発者にとってなくてはならないものになったのである。

現在のパーソナルコンピュータはApple IIが登場した時代とはその様相はまったく違う。どちらかといえばパソコンは完全にブラックボックス化され、ある種の文具であり事務機となった。
決してApple IIの時代に戻りたいとは思わないが、この「Apple II Reference Manual January 1978」を眺めているとどこかに大切な落とし物をしてきたように思うのは私だけではないだろう...。

その後Apple II関連のマニュアルはあのMacintoshプロジェクトを立ち上げたことでも知られているジェフ・ラスキンが手がけることになり、ユーザーの視点から考えられた仕様になっていく。内容は技術用語を極力避けた表現に力を入れると共に例えばマニュアルを広げた場合にそのまま机上に開いて置けるようにとリングバインダ形式になったといわれている。

【主な参考文献】
・「Apple II 1976‐1986」毎日コミュニケーションズ刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー刊

ロマンを感じる...五十音「ミミック」(赤)を持つ喜び

先日我が研究所に大谷和利氏らと共に来訪された和田哲哉氏が運営されているサイト「信頼文具舗」を拝見したとき、一目惚れしてしまったアイテムがあった。それがアセチロイド素材の鉛筆補助軸「五十音 ミミック」(赤)だった。文具好きの人にとってはすでにご存じかも知れないが、ほとんどの方には説明しないと分からないだろう...。



東京の銀座四丁目に「ボールペンと鉛筆の店 五十音」という小さなお店がある。そのサイトを訪問しただけでユニークなお店であることは得心できるに違いない。
とはいっても私自身、近くにある天賞堂とかGUCCIの店舗は知っているが「五十音」の前まで行ったことはないのだが...。
そのお店のオリジナルに「ミミック」と名付けられたアセチロイド素材の鉛筆補助軸があり、一般には店頭でのみ販売されているものだという。しかし来店できない人たちのためにと前記した「信頼文具舗」で取り扱っているためネットで購入できるというわけだ。

さて、もしかしたら「鉛筆補助軸」といってもお若い方はご存じないかも知れない。
この種のものはデザインこそ違うものの、私が子供時代には多々活用していた文具のひとつだった。
その目的をひと言で言うなら、手に持って使えなくなるほど短くなった鉛筆を補助軸に差し込むことで最後までその鉛筆を使いこなそうとする道具である。
当時はエコなどという感覚はなく、単純に鉛筆を最後まで大切に使う、あるいは節約術のひとつだったわけだ。無論当時のものは無骨なものだったが、この「ミミック」の姿はなんと美しいこと!

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※独特な雰囲気を持つ「ミミック」(赤)。持つ喜びを感じさせてくれる...


そのデザインは古風な万年筆といった感じだが、そもそも“ミミック”という名は生物学用語で「擬態」すなわち、「あるものの様に似せること」の意味で名付けられたものだそうだ。まさしくお婆ちゃんが女学校のときに使っていた万年筆...といった風情がある。
この「ミミック」はキャップを取り、その軸に芯を削った鉛筆を差し込みアルミの部分(チャック)を回して固定する。したがって形は万年筆だが実際は鉛筆でありそのキャップ...いやギャップが面白い(笑)。

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※鉛筆はアルミ製のチャックを回して固定する一般的なものだが感触は素晴らしい


素材はセルロイドと同じく植物繊維から合成されるアセチロイド製で大阪・生野の職人、藤本寛さんの手により、旋盤で1本1本丁寧に作られた軸だそうである。したがって同じ柄のものはその一本しかないという。だからちょっと値は張るが実際に持ってみると自然に笑みがこぼれてくる。
鉛筆そのものより太めの感触が馴染むし、筆圧が強い私でもチャックのアルミ部分に指が当たってもギサギサが心地よいのである。

キャップを閉じた全長は149ミリ、中央付近の軸径は12ミリだがその素材と丁寧に作られた艶からくる感触は手元の筆記具にはまったくない誠に心地よいものだ。
そしてなによりもその赤と白の模様が心を和ませてくれる。
またキャップに付いている金属製のクリップも何ともいえない作りだし、ウェブの写真で見る印象より実物はしっかりしていて存在感がある。

そういえば最近はとみにペンは勿論鉛筆で文字を書かなくなった。無論パソコンのワープロやテキストエディタで文章を入力するのが当たり前になったからだが、以前からいわれているとおり弊害も感じる。
そのひとつは少し複雑な漢字が書けなくなったことだ。読めても書けない...。パソコンの日本語変換システムに頼りすぎた結果である。
さらに私の場合は腱鞘炎の影響もあるのだろうが、ペンを久しく持たないからかペンを握る力が極端に弱くなった。
昔はつけペン、鉛筆やシャープペンシル、万年筆、そして近年はボールペンの使用率が多かったし、いわゆる指に “ペンだこ“ ができるほどだった。しかしいまは宅配便の伝票にボールペンで送り先などを書くだけで手に疲れを感じるしその文字も下手になった(笑)。
自分で言うのも変だが、ペン習字で習ったわけでもないからして特に美しい文字が書けるわけではないが、一時期友人たちの影響もありまずまず読みやすいはっきりした文字が書けていた...。それがいまボールペンを持つと余計な力を入れてしまうと同時に前記したように手の握力が落ちたからか思ったようには書けなくなってしまった...。

私は外出時に文庫本をよく持ち歩き、気になる箇所に線を引いたりメモを書き入れることが多くこれまではボールペンに頼っていた。しかしこれからはこの「ミミック」で鉛筆書きを楽しみながら使いたいと思っている。
無論「ミミック」の書き心地は中に収める鉛筆にも依存する。したがって堅さは2B程度の良質な鉛筆と小さな鉛筆削りも手に入れた。
この鉛筆削りは数百円の安物だがダイアルを合わせることで削り具合が5段階に変えられるというものだ。

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※鉛筆は半分に切断して「ミミック」に装着してみた


そう、念のために記せば「ミミック」に鉛筆はついていない。
それにしても...鉛筆削りを手にするなど何十年ぶりだろうか...(笑)。
文具類に凝る方は多いと思うが,本当に気に入ったアイテムを揃え、そして身につけることは大げさでなく生きる喜び...力となる。

信頼文具舗


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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員