"PowerPC" って何の略称だか、知ってますか?

今年も後1ヶ月ほどを残すだけとなったが2009年はMacintosh登場から25年目になる記念すべき年でもあった。その間、言うまでもなく多くのそして様々な出来事があったが、手元にあるアップルが1994年に発行した「Welcom to Macintosh Business」というリーフレットを参考に、ちょうど15年前の様子を覗いてみよう。

 
現在こそ好調だが、日本のアップルマーケット15年間だけを眺めてもアップルの社長が度々代わり、企業の危機もささやかれたりと大きな変動があったことは記憶に新しい。
さて、手元にある「Welcom to Macintosh Business〜Macintoshプラットフォームガイド」は当時のアップルコンピュータ社のデベロッパマーケティング部門が配布した10ページほどのA4版資料であり、デベロッパおよびこれからアップルの市場に投資をしようと考える企業や個人をターゲットに用意されたものだ。

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※アップルが1994年に発行した「Welcom to Macintosh Business」表紙


それらの概要は過去5年間を振り返り(1990年から1994年)、マーケットシェアおよび出荷台数の延びを報告すると共に、これからの方向性を明示してアップル市場に対する投資の保全にコミットし、自信をアピールする内容だった。
まず確認だが、1994年当時のアップルコンピュータ社は現在の初台ではなく、渋谷区千駄ヶ谷にオフィスがあり、別途サポートグループは世田谷区用賀に事務所を構えていた。また幕張にもオフィスがあったし大阪の中央区城見に大阪支店がある時代だった。
米国本社のCEOはマイケル・H・スピンドラー、日本法人の代表取締役社長は三田聖二氏だった。そして当時の主な製品ラインナップはといえば、PowerMacintosh 8100/80AV, Macintosh LC, PowerBook 540Cなどであったが、そのMacintosh本体は1994年4月に最初のPowerMacintoshが登場したばかりでありOSに関しては翌年に漢字Talk 7.5をリリースすることを明言していた時期にあった。

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※「Welcom to Macintosh Business」では過去5年間におけるApple成長を誇らしげに述べているが....


また現在から見れば特異な戦略が始まってもいた。当時から賛否両論が飛び交っていたが、この頃はMac OSのライセンス供与をスタートしていた時期であり、事実数社からMacintoshの互換機が登場し始めていた。そしてこの "Open化" の波のさらなる象徴のひとつにOpenDocの存在があった。
OpenDocはApple社が提唱した新しいソフトウェア技術のコンポーネント・ソフトウェア・アーキテクチャであり、Novell社、IBM社、Taligent社そしてAdobe社と協同で開発を行っていると発表されていた。そしてPowerPC RISCの能力および新しいハードウェア・インタフェースとしてPCIバスとPCMCIAをアピールしていた時代だった。
そうした背景を踏まえ、アップルはこのリーフレットの最後に「投資の保全」と題し、アップルの新しい転換が、デベロッパたちのこれまでの投資や製品をそのまま活かしていける点を強調し、安心してこれらの開発を含めた積極的な投資を促している。

本リーフレットの8ページには「デベロッパの皆様への期待」と題しアップルからデベロッパに対して次の5つの期待が宣言されている。
1.Power Macintoshに最適化したソフトウェアの開発
2.漢字Talk 7.5の新機能に対応した製品の開発
3.新しいハードウェア・インタフェース(PCI/PCMCIA)に準拠した製品の開発
4.OpenDocに準拠したソフトウェアの開発
5.今後大きな成長が見込める特定分野(教育/マルチメディア/CAD/制御/ディスアビリティー等)向けの製品間開発

事実当時のデベロッパとしてはPowerPCに対応するという大きな目標があったと同時に、多くの開発者はOpenDocに期待し、開発のパワーをそれにシフトしたメーカーも多かった。しかし皮肉なことにOpenDocに大きな投資をした企業ほどアップルに裏切られることになる。
なぜなら近未来の目玉のひとつであったOpenDocそのものが挫折してしまったからだ。
OpenDocを支援する非営利団体のCI Labsがその標準化を進めたが、1997年3月のApple社による自社OS戦略の見直しによりCI Labsも6月に解散となった。
こうした現実を前にしてかなりのデベロッパがアップルに幻滅し、怒り、離れていったことも記憶に新しい。そして日本でも三田聖二社長就任が1年経過した時期におけるデベロッパやディストリビュータを集めたパーティにどうした訳か姿を見せず、その場で退職が発表されるという何ともみっともないハプニングもあった。

したがって前記の「デベロッパの皆様への期待」もまったく白々しいばかりでなくアップルは自社の都合により多くのデベロッパに生き死にの苦渋を舐めさせたのである。
これらによりアップルの土台が様々な面で揺らいでいる印象を強く我々に与えることにもなった。
しかし現実はOpenDocだけでなくNewtonしかり、Pippinしかり...アップルはデベロッパに多くの投資を要請し続けたにもかかわらず、自社の戦略とそのプラットフォーム自体が揺らぎ、そして消滅していったあれこれも多かった事実は記憶しておくべきだろう。

■タイトルの解答
ところで "PowerPC" という名称は "PowerPCマイクロプロセッサ" などといった使われ方をしているが「Welcom to Macintosh Business」によれば、PowerPCは "Performance Optimization with Enhanced RISC on Personal Computer" の略でRISCの能力をパーソナルコンピュータ上で最大限に引き出すことを意味している...と説明されている。それは何かこじつけのようでウソみたいだが、アップルの資料に明記されているのだから本当...なはずだ(笑)。

ラテ飼育格闘日記(156)

朝晩2回、特別なことがなければ雨であろうと強い風が吹こうとラテとの散歩は欠かせない。春夏秋冬...さまざまな季節をラテと歩き回るわけだがその季節季節により多少の違いはあるものの散歩から戻る頃になればラテの体は泥が跳ね、塵芥が体毛に絡み、露や雨などでビショビショになる。

 

他の飼い主さんたちがどのような処置をされているか...オトーサンは知らないが、ラテを室内で飼うとなればまさか泥だらけのままで上げるわけにはいかない。
泥だらけ...というのは些か大げさかも知れないが季節季節あるいは天候により毛足の長めなラテは散歩から戻ると全身がけっこう汚れている。
雨であればレインコートを着ても頭と顔は勿論、尻尾やお尻は出ているわけだし、歩いたり走ったりする際にレインコートがカバーしていないお腹の後ろ部分などには跳ねがあがって結構汚れるものなのだ。
天気だとしても朝露でビショビショになったり、公園一面に生えている雑草の中には黒いつぶつぶがゴマのように貼りつくものがあったり、あるいは塵芥の細かなものが絡みついていたりとなかなか大変である。無論いわゆる土の汚れも軽いときもあればひどいときもある...。

汚れがひどいとき、理想はそのまま風呂で丸洗いするのが一番なのだがそうなると大事で時間もかかるだけでなく、なによりも水嫌いのラテが大暴れするので日常はいろいろと工夫しなければならなくなる。
ところで汚れで一番気になるのはやはり四つ足である。
なにしろ裸足で歩いているのだから汚れるに決まっているわけで、足元全体はもとより肉球などそのままでは到底家の中には入れられないほど汚れるのが普通である。
ラテが歩く道筋はコンクリートの舗装道路もあるものの、多くは芝生や雑草が生えている土の道である。またこれからの季節は落ち葉も多く、それが腐敗して細かな塵芥となると足元だけでなく全身にお土産として付いてくることが多い。
なにしろラテの尻尾は単純な棒状ではなく何だかアクリルで出来ているほこり取りのようなフサフサ状態なのでゴミや埃がつきやすいのだ(笑)。

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※ラテの尻尾はゴージャスなのだ(笑)


というわけでオトーサンは散歩から戻ってもすぐに休憩はできないのである。
ともかくラテを家に上げるため玄関で全身の拭き掃除をするのが常となっているが、汚れ具合にもよるものの短くて15分、長いと30分近くかかることもある。
まず玄関に専用のマットが置いてあるのでその上にラテを座らせる。ラテも散歩で疲れ通常はそこに前足を投げ出して伏せの姿勢になりオトーサンの準備ができるまで大人しく待っている...。
オトーサンは雑巾を濡らして絞り、早速ラテの肉球から拭き始める。ただし肉球の汚れがひどいときには雑巾だけでは心許ない。そうした場合は洗面器にぬるま湯を入れたものを用意してラテの四つ足を1本ずつ揉み洗いした上で雑巾で拭かないとならない...。
肉球の間に雑巾を押し込んで汚れを取り、肉球自体も丁寧に拭くが総じてラテは大人しくされるがままにしている。しかし前記したようにラテは寝そべったままだから、何だかオトーサンはラテの下僕になったような気もする(笑)。
この雑巾で肉球を拭いているとき、腹ばいになっているラテは「ふう~」と大きなため息をつくことが多い。そのため息は一仕事を終え、満足のため息というよりオトーサンの拭き掃除に耐えなければならないという諦めのため息にも聞こえるのだが...(笑)。
一連の作業は実に厄介なことではあるが反面毎日2回のこの時間は大切なスキンシップの場だと考えている。事実肉球さえ触らせないワンコもいると聞くが、鼻先から尻尾の先まできちんと拭くことができるのはラテとの信頼関係が出来ているからだろう。

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※冬桜が咲き乱れる散歩道(上)だが、早朝はすでに霜がおりはじめる季節となった(下)


ともかく四つ足の肉球を拭いたらラテを座らせて、専用のウェットタオルで頭と顔、胸と腹を丁寧に拭く。さらに同じウェットタオルでお尻回りを拭くがこれらはいわゆる下拭きなのだ。
もう一回別のウェットタオル...時にはより大判で湿り気が多い「シャンプータオル」といった類のペーパーを使い頭と顔は勿論のことボディ全体も毛を逆立てながらなるべく体毛の奥まで濡らして拭く...。
特に腹とお尻はデリケートだが飼い始めの頃、オトーサンがお尻を拭こうとしたとき「ウッ」と唸りオトーサンの腕に歯を当てようとしていたラテだった。オトーサンの手首や腕はしばらくの間細かな傷で大変だったがその程度では動じずに続けたおかけで今があると思っている。無論いまではそんなことはなく静かにしている。ただしオトーサンが些か乱暴に扱ったり爪を立てたりすると「キャン!」と啼いて抗議をするが...。
この間、ラテを座らせたり四つ足で立たせたりとオトーサンが拭きやすい姿勢をとらすが、ラテはすでに手順を熟知しているから声をかけながら指で軽く突く程度で都合の良い姿勢をとるようになっている。

そうして体全体をウェットタオルで拭いた後は乾いたタオルでこれまた丁寧に拭き乾かすことになる。
このタオルによる仕上げは何故かラテは好きなようだ。特に雨のとき、レインコートを着用しても頭は濡れてしまうが、そうしたとき戻ったラテはオトーサンの差し出すタオルに自身から頭を突き入れてくる。
通常はこのタオルによる処置でほとんど全身は乾いた状態になるが強い雨に濡れた場合にはどうしてもドライヤーで乾かす必要が出てくる。
ドライヤーを使うのはこれはこれで大変だ。直接温風を吹き付ければ熱いだろうし、ワンコも一二度懲りるとトラウマになり後が大変だからといろいろと気を使う。だから右手に持ったドライヤーの熱風をオトーサン自身の掌でカバーしながらラテの毛を乾かすと言った少々手の込んだやり方をせざるを得ない。

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※さて、今日は友達ワンコは来るのだろうか...


完全に乾いたところで今度はブラッシングとなる。
通常は樹脂製のブラシで顔から体全体までを毛並みの逆に、そして毛並みに沿ってブラシをかけ整えていく。特にラテが自分の足で掻くことが多い左右の首筋とか両前足の付け根の腹側といった部分も優しくしかし確実にブラッシングをする。
最後はいわゆる点検だ。それは身体全体を触り撫でそして押したりして、痛がるような箇所はないか、毛が抜けたりでき物などがないかをザッとではあるが確認することにしている。
こうした一連の作業で重要なのは前記したようにスキンシップと語りかけだと考えている。
事実オトーサンは体を拭きながらラテに語りかける。
例えば両耳内部が湿っていないかを確認した後にオトーサンはラテの両目を覗き込む。無論にらみ合いをするのではなく彼女の目にゴミや毛などが入っていないかを確認するためだ。しかし一般的にワンコは凝視されるのを好まないという。それはワンコにとっては喧嘩を売られるような意味合いになるようだ。
したがって飼い主だとしても正面切って視線を合わせられるとワンコは怖がることもあるから、そうした時には優しく話をしながら両目を覗き込むオトーサンなのだ。

最後にお座りをさせ、大人しくしていたご褒美に小さなオヤツをあげて拭き掃除は終わりだ。
ラテをリビング向かわせるがオトーサンのミッションはこれで終わったわけではない。続いてこれまでの後始末と散歩中にピックアップしたウンチの処理をし、通常はリビングを中心に掃除機をかけやっとゆっくりできるのだ。
これを通常毎日朝晩2回と続けてきたのだから自分でも大したものだと思う(笑)。単なる義務感だけでは到底続かないだろう。
ラテを拭いているとき、ラテの方からも機嫌がよいといろいろなアクションがある。その第一はラテの笑顔だが、拭いているオトーサンの腕を舐めたり口元を舐めたりされるとデレデレのオトーサンなのだ。

当初は散歩から戻った際の一連のセレモニーがどのような意味合いを持つのか、ラテには分からなかったに違いない。しかしさすがに最近は体を拭かれるのが好きとはいわないまでも自分にとって必要なことだという認識はあるようだ。
まあ、できることなら散歩も軽い汚れで済ませたいところだが、こればかりはオトーサンの意のままにならないのである。
とはいえ辛いとか嫌だということではない。これからの時期、暖かいラテの体を抱くようにしながら綺麗にする過程でオトーサンの体も温まるのである。

ラテ飼育格闘日記(155)

おかげさまでラテの風邪がどうやら快方に向かったようだ。一時は再度病院に行かなければならないかも...と思ったりしてこの10日間は心配が続いた。しかし11月12日(木曜日)朝のラテは興奮すると相変わらず咳はするもののその表情と動きがこれまでとは違い明らかに活気を取り戻していた。

 

動物病院から処方された薬は咳止めが3日間、抗生物質が5日間分だった。無論それを飲んだことで見るからに苦しそうな表情は軽減されたように思えたが、興奮したり吠えた後にはやはり咳き込むことまでは直っていなかった。そして体調もいまいちだったように見えた...。
朝、オトーサンが起きて身支度をしてからリビングに降りていくとラテは軽く尻尾を振るときもあるが表情はほとんど変えないでオトーサンを向かえる。しか女房が降りてくるとお尻ごと尻尾をプルプル振って向かっていくのが何とも悔しいが(笑)そうしたときには「ゴフッ...ゴホゴホ」と咳き込むことになる。そしてオトーサンがラテの朝食を作り終え「ラテ!」と呼んでも気のない素振りをしていた。やはり食欲がないのかも知れない...。

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※この日の朝はラテの友達に会えずじまいだった...


しかし12日の朝、彼女の態度は違った。
オトーサンが朝食の支度をしているとその足元まで近寄り、早く食べたいというようにちょこんと座って待っている。あまりに可愛いのでオトーサンは手元にあった袋から煮干しを一匹差し出すと美味しそうに食べた...。
「おっ、風邪の峠は越えたな」とオトーサンは思った。
ラテの食事はドライフードの食いつきを良くしようと少々の牛肉とササミの肉そしてブロッコリーをトッピングしているが、体調が悪い一週間はブロッコリーとドライフードにはほとんど口をつけない日が続いたのである。

プレーンヨーグルトの容器と共に主食の食器を差し出すとまるで水洗いしたかのように綺麗に舐め上げ完食した(笑)。それでも足りない様子でオトーサンたちのテーブルの下で見上げている。間違いなく食欲が戻ったのだ!
そして回復傾向にあることは朝の散歩でも明らかだった...。
いつもの時間に家を出てまずは駅まで行く。駅から隣接している駅ビルのコンコースを通って木々の多い空気もよい道をラテと歩く。
雨上がりだったこともあり道は濡れているがウンチを早めに済ませてくれたことでもあり朝の散歩は短いと45分くらいで自宅に戻るのが通例だ。これがウンチをなかなかしてくれないと、あっちに行きこっちに戻り...といたずらに時間がかかるのだが、ウンチも健康な便だったしこの点でもラテは元気なことは証明できたようだ。

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※朝日に輝くラテの笑顔は素晴らしい(笑)


道がぬかるんでいることでもありオトーサンは自宅に戻る道を歩きはじめる。小学校の裏門を通りすぎ、階段を下りて桜並木の道を右折するのが普通である。というか、以前はこの階段を下りてから左折し、さらに15分ほど歩いた広い公園まで進むのが朝の散歩の日課だったが、いつの頃からラテは左折するのを嫌がるようになったのである。
理由は不明だがオトーサンが左に行こうとすると強くリードを引き、道路に腹ばいになって「行きたくない」と我をはる...。
まあオトーサンとしてはラテのいうように右折した方が早く帰れるわけで大歓迎だからと強引に左折することもなくこの1年くらいは階段を下りてからずっと右折を続けていたわけ...。
しかしどうしたことか、12日の朝のラテは珍しく自分からリードを引き左折したのである。
やはり気分が良かったのだろうか。あるいはこの数日、雨も続き体調も悪かったこともあり友達ワンコたちとも会えないことが続いたからか、その埋め合わせをしたいと思ったのだろうか?

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※オトーサンが風で飛ばされたキャップを嬉しそうに運ぶラテ。おい、返してくれ!


ともかく天気はまずまずだったし前記したようにすでにウンチも済んでいる。したがってオトーサンもラテがもっと歩きたいのなら付き合おうとしばらくぶりの道を公園に向かって歩きはじめた。
その時間帯はちょうど通勤時間であり、駅に向かうサラリーマンたちがゆるやかな坂を登ってくるその道をオトーサンとラテは逆に下がっていく...。
ラテはすれ違うオジサン、お兄さん、お姉さんたちひとりひとりを仰ぎ見ながら散歩を楽しんでいるようだ。
ただし目的の大きな公園に着いたものの朝早くということもあるが芝生がびしょ濡れだからか他のワンコがいない...。
仕方がないので公園を一回りした後に帰路につくことにする。しかしラテはまだまだ歩きたいようでいつもの帰り径に誘おうとするオトーサンを無視して寄り道しようとリードを引く。
しかしすでに家を出てから1時間半ほど経っていることでもありオトーサンの都合というものもあるわけだからとラテの引きを無視して歩く...。
ラテも負けずとリードを引きながらオトーサンを見上げ「こっちはダメ?」とでもいうようにアイコンタクトする。オトーサンは声に出して「ダメ!」と言いつつリードを引くといった攻防戦を何回かやるはめに...。

そうしてやっと自宅の近くまで来たもののラテは道なりにすんなりと歩かず、小さな公園に入ろうとする。まあそのくらいならいいか...とオトーサンも妥協するがその小さな公園は一面に砂がひきつめてあるのだが、どうしてワンコは砂場が好きなのだろうか...。
感触がよいのか動きやすいのか、ともかくここに限らず砂場に入るとラテはオトーサンに向かってお尻を上げて頭を下げるワンコ独特の “遊ぼうのポーズ” をすることが多い。
オトーサンもそれに答えて相撲の立ち会いのようなポーズを取る。ワンコと相対してオジサンが遊んでいる姿は少々変かも知れないが、なに別にどう思われようとかまわないではないか(笑)。そしてオトーサンがそのまま「ワッ」と声でも出しながら1歩踏み込むとラテは脱兎のごとく砂場を駆けずり回るのだ。さらに時には狂ったように砂場を両前足で掘ったりと驚喜する。
オトーサンとしては完全に乾いている砂場ならまだしも、まだまだ水分を含んでいる砂場なのでこの後の拭き掃除が大変だと思う反面、ここまで元気になったラテを見て何だか嬉しくなってくる。
激しく走ったからか、その後少し咳き込むが満足そうなその表情を見ると大したことはないようなので安心する。

こうしてひとしきりラテと一対一の駆けっこをした後に「ラテ、帰るよ」とリードを引くとさすがにラテも気が済んだのか素直についてくる。
玄関に入り、マットの上に腹ばいになったラテはやはり少々疲れたのか、雑巾で肉球を拭こうと近寄ったオトーサンの足の甲に顎を乗せてきた(笑)。
オトーサンはラテの調子が戻ったことは勿論、心が通った気がしていつもより長い時間歩き疲れたことも忘れラテのすました顔を覗き込んでいた。

1993年7月開催、第4回JDCに見る当時のデベロッパたち

手元に残っている資料のほんどは元々きちんと保管すべく考えたものではないため、時系列的な物証を探すには苦労する。しかし残った一枚の印刷物からでも当事者としては往時の状況が目に浮かぶようにフィードバックできるものだ。今回は1993年7月1日と2日に行われた「The 4th Japan Developers Conference」の様子を振り返る。

 
現在、JDC(Japan Developers Conference)は開催されていないが、1990年代の半ばまでデベロッパを対象に現在のWWDC(Worldwide Developer Conference)の日本版として年一回の開催が約束されていた。
この1993年の会場は東京ベイヒルトンホテル地下1階の「朝凪の間」と2階をほぼ借り切った状態で行われた。
これからその様子を振り返ってみるが、残念ながら私は後述するように単なる参加者というよりパネルディスカッションに出演する役割があったため、自身で写真を撮る余裕がなく、写真などのビジュアルは残っていない。
手元にあるのはアップルコンピュータが配布した「The 4th Japan Developers Conference〜PROGRAM」のA4版見開きパンフレットのみである。

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※1993年7月1日と2日に開催された「The 4th Japan Developers Conference」プログラムの表紙および会場レイアウトページ


面白いのは7月1日および2日の両日共に基調講演が組まれていることだ。
一日目は米国Apple本社のデベロッパグループ副社長カーク・ロブナー氏と当時アップルコンピュータ社社長の武内重親氏が務め、二日目は米国Apple本社ニューメディア・ニューマーケッツ副社長だったサチーブ・シャヒル氏と、当時アップルコンピュータ社のマーケティング部部長だった原田永幸氏が務めた。
両日とも、基調講演は午前10時から2時間行われ、一時間の昼食時間を挟んで各プログラムが平行して開催された。

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※「The 4th Japan Developers Conference」2日間のスケジュールプログラム


まずは一日目のプログラムから覗いてみよう。
初日は、4つのプログラムと1つのラボが平行して行われた。一番大きないわゆるメイン会場(クリスタルの間)では「PowerPCの全体像と詳細(第1日)」と題し、米国のスタッフ3人がそれぞれ1時間づつ各セッションを行っている。
また地下「朝凪の間」では「AppleScriptの全体像と詳細」と題する3時間のプログラムがあり、米国アップルのスタッフの他、アップルの福島哲氏と鈴木誠一氏、ベルデ企画の内田則政氏、メディアドライブ研究所の高村俊介氏、エルゴソフトの岩田勇氏そして私共の会社コーシングラフィックシステムズの高橋政明が熱弁をふるった。

その後「新しい開発ツール」と題して米国アップルと米国シマンテックの担当が1時間のセッションを行い、続いて私の出番となった。
それは1時間の枠であったが「デベロッパ・パネル」と題するパネルディスカッションだった。
出演者は私の他に、エーアンドエーの新庄宗昭社長、アルダスの手嶋雅夫社長、ビーユージーの服部裕之社長の4名だった。
今となってはどのような話をしたかほとんど記憶にないが、その性格上ほとんどが堅い話題に終始する中で唯一雑談めいた話が出来る...聴ける場として多くの参加者があったように記憶している。

「金の間」では「漢字Talk7.1と漢字フォント」と題してアップルの水野孝之と福井裕之が1時間のセッションを行い、その後で「Macintoshプログラミングチュートリアル」と題するアップルイベント対応のプログラミングについて、アイチアイの酒井公治氏が、続いてアップルの福島哲氏が「デベロッパプログラムガイド」と題して1時間のセッションを行っている。
さらに「銀の間」ではアップルの田中太郎氏が「QuickTimeの現状と展望」と題して2時間のセッションの後、ビーユージーの佐藤俊彦氏、SRAの松尾正敏氏、クボタの葛原基志氏の3氏がそれぞれ「デベロッパ事例研究」を1時間づつ発表していた。

続いて二日目をご紹介する。
基調講演および昼食を挟み、「クリスタルの間」では「QuicklDraw GXの全体像と詳細」と題するセッションが2時間組まれており、米国Appleのジム・ストーンハム氏がセッションを受け持った。その後は1日目の続きとして「PowerPCの全体像と詳細(第2日)」を前日とは違う米国Appleのスタッフが3時間に渡って詳細なセッションを行った。
「朝凪の間」では「Newtonの現状と展望」と「AOCEの全体像と詳細」と題するプログラムが各2時間づつ、米国のスタッフで執り行われ、同時に「金の間」では「ソフトウェア流通パネル」「ソフトウェア著作権保護への対応」そして「マルチメディア」と題するプログラムが進行していた。
「銀の間」は終日「デベロッパの事例研究」と題してボイジャー、エーアンドエー、三菱商事、サムシンググッドマクロメディア各社がデベロッパーを代表する立場から各社独自の取り組みと製品紹介などを展開していた。

会場が高級ホテルだけに参加費用も高かった。たぶん一人30,000円程度だったのではないだろうか。しかし現在のようにWWCDのために米国に出向かなければ新しいテクノロジーのセッションを見聞きできないよりは予算的にも時間的にも余裕があった。しかし米国Apple本社からそのために数人の担当者が来日したものの、WWDCのそれと比較すれば当然の事ながらこれまた時間的、人的リソース的にも劣るわけで、米国での開催と同じレベルを期待できるものではないのは申し上げるまでもあるまい...。

1993年という時代はまだまだパーソナルコンピューティングの未来には多くの明るい材料があると期待されていた時でもあり、東京ベイヒルトンホテルに集まったデベロッパの方たちの顔は、総じて明るかったように記憶している。
いくつか参加したJDCのプログラムの内容はまったく忘れているが、ホテルの様子や馴染みのデベロッパの方々の晴れやかな姿は脳裏に焼き付いているのだから面白い。

林檎創世記物語〜思えば特異で贅沢な時代を懐かしむ

1989年に私がソフトハウスを起業するに当たり、意識・無意識はともかくそのお手本とした会社が三つあった。一つは現在もVectorWorksなどで良質のサービスを提供しているエーアンドエー社、二つ目はMac書道やクリップアートで知られている演算星組、そして最後はApple II時代およびMac登場黎明期まで活躍したイーエスディラボラトリ社である。

 
エーアンドエー社は我が国でAppleに関わる最古参の会社だ。古くはSweetJAMという独自の日本語利用環境を提供してくれた企業であり、現在もCADアプリケーションのVectorWorksなどで知られている会社である。
高田の馬場に同社のオフィスがあった当時はひとりのユーザーとしてよく寄らせていただいたものである。しかし今思えば仕事中に迷惑な話だったと思うのだが、社長(現在は会長)の新庄さんはいつもいやな顔のひとつも見せずにこやかに歓迎してくれた。
私はそれまでこうした雰囲気を持つ会社というものを知らなかっただけに色々な意味で大きな影響を受けた。
事実起業してからも1995年にMOSAを設立した際、新庄さんは会長に私は副会長の立場でお世話になったし個人的にも新庄さんには言葉では語り尽くせぬ恩義を受けている。
そして企業といえども、根本は人の問題なのだということを身をもって感じたのがこのエーアンドエー社だったのである。

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※当時のMOSA主導で実現したディーラー、デベロッパーを交えた社長会で進行を務めるエーアンドエー(株)の新庄宗昭氏(左)と筆者(右)。1997年アップルジャパン会議室にて


また演算星組は、新しいタイプの頭脳集団という感じがしてその情熱に随分と感化されたし仕事の帰りにこれまたよく立ち寄らせていただいた。その勢いで「Mac書道」のマニュアル一部の執筆まで担当するはめになった。そしてオリジナリティがいかに大切なのかという点においても参考になった。

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※1988年 Macworld Expo/SF に出展した株式会社演算星組ブース。左奥が代表の井上弘文氏(筆者撮影)


さらに私にとってApple IIの時代から通い続けていたイーエスディラボラトリ社の雰囲気はこれまた格別であった。
例えば...勤めを終え夜になり、イーエスディラボラトリ社のドアを押すと...。
「あら、松田さん...いい所へ来たわね」「良いワインが入ったところなので一緒にいかが」などということもしばしばあった。
イーエスディラボラトリ社はこうして顧客を非常に大切にする反面、利益は当然のことだがきちんと取った。事実安易な安売りはしなかった。
しかし馴染みの客には太っ腹を発揮する時もしばしばで、ろくに支払い条件もままならないときでも品物を真っ先に届けてくれることもあった。
とはいえ、イーエスディラボラトリ社の信念・信条を本当に理解してくれる客はひとり、また一人と少なくなってきた反面、急速に拡大してきた市場に現れた過去と未来をまったく考えない、文字どおり1円でも安い方が良いという客層が増えてしまったことも事実だった。

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※1983年のイーエスディラボラトリ社ショールーム「コンピュータラブ」。1983年6月発行APPLEマガジンより


必要なシステムを考えうる予算の中で1時間でも2時間でも辛抱強く客にアドバイスし、見積を作ってくれるイーエスディラボラトリ社だったが、そのノウハウの権化とも言える当の見積書を持ち、そのころから乱立し始めた安売りショップに駆け込むマナー違反の客も多くなったのである。
顧客から見れば、1円でも100円でも安い方が良いのは当然である。しかし彼らは企業が何で成り立ち、何が故に自分たちがそのような行き届いたサービスを受けられるのかを考えたことはないのだろうか...。
パーソナルコンピュータがマニアの世界から一般の世界へと広がったのがひとつの要因でもあるのだが、皮肉な結果としかいいようがない。時代が変わりつつあるのと同時に人の心にも大きな変化が目立ってきたように感じた...。

時はアップル社をも変えていく。Appleの日本代理店もイーエスディラボラトリ社から一時意外とも思えた東レに変わったかと思うと、またまたイーエスディラボラトリ社が担ぎ出された。そしてアップルジャパンという日本法人が設立されたと思うと、今度はキヤノン販売がアップル製品を取り仕切ることになり、イーエスディラボラトリ社は蚊帳の外という運命となった。

1977年4月16日、サンフランシスコで開催された「第一回ウエストコースト・コンピュータフェア」でイーエスディグループ社長の水島敏雄氏が、あのスティーブ・ジョブズに袖を引かれたことが縁で、発表したばかりのApple IIを日本に持ち込むことになったことは知られている。
しかし、わが国で最初にアップルを高く評価しApple IIやMacintoshを愛した水島さんに一番辛い思いをさせて日本のMacintosh市場が大きくなったことを考えると、思い出す度に当時その現場近くにいた一人のユーザーとしては何ともやるせない気持ちになる...。
確かにアップルはその製品の魅力故に、一時期力任せに進んできた感もある。日本の市場で成功しなければならないというその大義名分の為に...。しかしAppleに決して頼まれたわけではなく、これまで市場の拡大に貢献し続けた多くの人たちの存在を、たとえAppleが忘れたとしても私は忘れないだろう。そして「企業を育てるのは良質の顧客である」という真実はどのような時代においても変わらないと私は思っているのだが...。
しかしすでにそうしたことが期待できる時代ではなくなってしまったのかも知れない事実が現在の閉塞感を打破できない大きな要因なのではないかとも考えている。

さてさて、これら3社からは外れるが長い間アップル製品の販売拡張に力を尽くされた企業としてはやはりキヤノン販売(現:キヤノンマーケティングジャパン株式会社)を筆頭にしたキヤノングループを忘れてはならないだろう。

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※前記社長会で初めて前田達重氏(左)とお会いし、名刺交換する筆者。前田達重氏はキヤノン販売において初代のアップル営業部長として辣腕をふるった方だが、お会いした当時はキヤノテック株式会社(現:キヤノンネットワークコミュニケーションズ株式会社)の代表取締役だった。しかし残念なことに2005年3月11日に逝去された


私の起業した小さな会社は幸いなことに最初期から当時のキヤノングループと親密な取引をさせていただきその過程でさまざまなことを学ばさせていただいた。
日本を代表する大企業にもかかわらず担当の方々は皆さん腰が低く真摯で、ベンチャーといえば聞こえはいいもののどこから湧いて出たかも分からないような我々を対等に扱ってくれた...。
生き馬の目を抜くビジネスのことだから当然紆余曲折はあったものの、もしキヤノングループの努力がなかったら日本におけるMacintosh、いやアップルのあり方は大きく違っていたものと思われる。

こうして振り返って見るとソフトメーカーとしては勿論だが私は1人のユーザーとしても大変贅沢な時代を過ごしてきたことを痛感せざるを得ないしその過程で素晴らしい企業やそれらに関わる人たちのおかげで現在の私があることを実感している。


ラテ飼育格闘日記(154)

ラテの症状がなかなかよくならない。医者から処方された抗生物質と咳止めの錠剤を飲ませたが時折肩を揺らすような...苦しそうな嘔吐とも咳とも取れる行為をする。ただし固形物を吐くことはなく唾液を垂らす程度であることなどから消化器系のトラブルではなく風邪だとオトーサンは睨んでいるのだが...。

 

ラテとはこの11月12日で出会いから丸3年が、そして来月12月10日に我が家に来てから丸3年が経過する。その間多くの出来事があったがラテの成長ぶりは目覚ましくオトーサンたちとの日常も変化の多い毎日となっている。
とにかくエピソード記憶というのか、ラテは記憶力も抜群のようだ。
例えばオトーサンたちの寝室にラテが遊びに来たときそこで遊んだ小さなボールをオトーサンがチェストの上...ラテの視線の届かないところに片付けたことを数ヶ月経った今でも覚えているようで、部屋に入るとその場所を探ろうと後ろ立ちしたりする。無論嗅覚による認識ということも考えられるが感心することしきりである...。
オトーサンたちの行動を四六時中観察しているのは確かでその喜怒哀楽の激しさもワンコとは思えないほどなのだ。
しかし年齢を重ねるに連れて自己というものを確立してきたのだろうし、オトーサンたちとの間に信頼関係が深まれば深まるほどラテに対して言うことを聞かせるのが難しくなってきた。

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※体調がいまいちのラテは散歩の途中にあるベンチで一休み...


いや...言うことを聞かない...というと何だかコントロールできないような印象を与え誤解を招くかも知れないが、別の言い方をするなら「誤魔化しが効かなくなった」といったらよいのか、なかなか御しにくくなってきたのである。
例えば医者から処方された薬...錠剤だが、極々最初の頃は朝夕2回の食事に単純に混ぜておくと苦もなく食べてくれた。なにしろ1回分の量のドッグフードをものの十数秒もかからないでガツガツと食べていたので薬が紛れ込んでいることなど分からず知る由もなかったに違いない。
そのうち食事を吟味するようになってくると混ぜておいた錠剤だけ食器の外に吐き出すようになってきた(笑)。
そうなれば薬を飲ますには最後の手段しかない。それは強制的にラテの口を開け、錠剤を舌の奥に置いてマズルを軽く握る...。ラテはそのままでは苦しいから「ごっくん」を繰り返し薬は胃に収まる...といった具合だ。ただし舌の奥に置かないとマズルの脇から出してしまいかねないので難しい...。

これまた当初は嫌がるもののオトーサンのさせるがままに口を開けていたが次第にこちらの要領が分かってきたのか思うようにさせなくなってきた。オトーサンは一計を案じ、錠剤を指先程度のアイスクリームに乗せたところ今度は素直にゴックンしてくれるようになった。
しかしこれまたラテの方が一枚上手になってきて、アイスクリームがないときヨーグルトで代用しようと口を開けても舌を巻いてしまい錠剤を舌の上に簡単に乗せられないようにしている(笑)。したがって薬を飲ませるのもなかなか大変なのである。
無論ワンコの中には飼い主でさえ口を開けさせたりは勿論、肉球でさえまともに触らせないワンコもいるというから嫌がるにせよ口に入れたオトーサンの指を噛まないラテは良い子なのに違いない...。

さて...ラテの症状だが...。
薬を飲むようになって2日目あたりになるとラテの症状は明らかに咳だとわかるものになってきた。それも乾いたような「コホ、グホッ」といった感じ...。
落ち着いているときはそうでもないが、喜び興奮したり大きく吠えたりした後にはやはりそうした咳がでる。ただし初日のように吐くような肩を大きく上下させるようなことは少なくなってきたので少しは回復に向かってきたのかも知れない。

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※自らハウス(クレート)に入って眠るラテ。早く元気になって!


人間なら具合の悪いときには外出せず、寝ているのが一番だがワンコはそうもいかない。
一応は食欲もあるし熱もないようだ。何よりもウンチも快調なので朝晩の散歩も通常通り出かけることにした。それに何よりもオシッコやウンチをさせなければならない重要なミッションもあるから欠かすわけにもいかないのだ。
というわけで土曜日の朝も夕方も一応連れ出してみるが調子はよくない...。気に入らないワンコとすれ違ったりすると興奮しすぐに咳き込む。
そんな具合だったが夕方いつもの公園にでかけ友達ワンコ数匹がいたものの万一風邪をうつしてはまずいからと本格的な絡みはさせなかった。

ひとしきりベンチで休んでいたとき、ボストンテリアのボビーちゃんを連れたご夫婦と出会った。オトーサンはラテが風邪をひき体調が悪いこと、日中より夜寝ているときに咳き込むことが多いことなどとお話ししたときボビーちゃんのオカーサンが「加湿器をつけると咳が和らぐと思う」とアドバイスをしてくれた。
オトーサンはなぜ気がつかなかったのかと思いながらもお礼を言ってボビーちゃんたちと別れたが、帰宅後早速買ってからほとんど使った事の無かったスチーム式の加湿器を探し出してラテのいるリビングにセットした。
この加湿器は安物なので室内の湿度を感知してスチームの噴出を調整するような機能はなくタンクに水のある限り出し続けるといった単純なものだが、とにかくこの季節...特に室内は乾燥しがちだからと就眠中はずっとONにしておくことにした。

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※オカーサンの寝顔を見つめるラテの眼差しは何て優しいのだろうか


その甲斐があったのか、初日の夜はかなり激しい咳をしていたこともありオトーサンは午前1時半、3時半、そして5時15分頃と3回も目を覚ますはめになりラテの背中をさすったりしたが、加湿器をつけた夜、確かに数回「ゴホゴボ」といった咳をしたものの比較すれば大分楽になったように思えた。
無論ラテの症状が完全に治まったわけではなく前記したように興奮したりするとまだ咳き込むが、友達のコーギー犬、アポロちゃんと走ったり取っ組み合ったりと元気はある。
この咳が一週間以上も続くなら今度は血液検査でもしなければならないと思うが、何とかこの感じで直って欲しいと願っている。
まあ、人間同様1年に一二度風邪をひくこともあるのは生きている証拠だと思っているが、ワンコはその症状を話してくれないだけに心配してしまう。それに人ごとならぬワンコごとではないが、オトーサン自身もこのところ少々風邪気味なのだ...。
オトーサンが万一寝込むようなことになればラテは看病してくれないし(笑)、散歩にも連れて行けなくなる。注意をしなければ...。

ACM SIGGRAPH '87 の思い出とMacintosh II

今回は大変昔のこと...私にとって初めてのアメリカ旅行でありその後十数年に渡りMacworld Expoに出向くきっかけとなった「SIGGRAPH '87」に参加した思い出と、当時のMacintoshの状況をご紹介してみたい。


嗚呼...すでに22年も昔になる...。1987年7月27日から31日の5日間、米国ロサンゼルス郊外のアナハイムで開催された世界的CGの祭典「SIGGRAPH」に参加した私にとってこの旅行は始めての米国旅行であり、その後MacWorldExpoサンフランシスコやボストンに出向くきっかけとなった記念すべき数日間だった。
現在とはその規模は違うと思うが、当時のSIGGRAPHは、2日間にわたるセミナーと3日間で合計30以上にもなる講演および研究発表、そして最新のコンピュータグラフィック機器の展示・デモンストレーション、さらにフィルム・ビデオショー、アートショーから構成されていた世界最大のCG分野のイベントであった。

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※アナハイムのコンベンションセンター前の筆者(上)と「SIGGRAPH '87」のレジストレーション会場前(下)


もともとSIGGRAPHは本来Association for Computing Machinery's(ACM)というコンピュータに関する専門家の集まり、つまり学会であり、その中のSpecial Interest Group on Computer Graphicsが主催する国際会議だった。
いまでこそおなじみになった3Dやそのアニメーション、そしてテレビコマーシャルや映画で使われているCGの概念と用語、そしてその技術のほとんどはこのSIGGRAPHで紹介され、実用化されたものがほとんどといってよい。
しかし学会とはいえ、近年CGが認知されるにつれてエンターテイメント化も著しく、その展示会や上映会を一般の人たちでも楽しめるようになっていた。

私がこのSIGGRAPHになぜ行く気になったか...だが当時、東京・池袋西武百貨店のカルチャースクールにおいてPersonal LINKS講座がスタートしたのを機会に参加したことがきっかけとなった。
その機材を販売している会社がSIGGRAPHへのツアーを企画したのである。
ちなみにそれまで私は米国に行く気も、そして機会もないままだったため、それが最初の渡米となったこともあり文字通り右も左も分からず気苦労が多かったが、大変多くのことを学べたと思っている。また良い意味でカルチャーショックも多々受け、翌年1月から毎年MacWorldExpoにでかけるきっかけとなった。

さて会場はアナハイムのコンベンションセンターで行われ、ホールと呼ばれる三つの会場を使っての機器展示、アリーナという円形会場でのフィルム・アンド・ビデオ・ショーが開催された。その他、パシフィック・ルームでの教育セミナー、オレンジ・カントリールームでのアートショーなど多彩な催事が目白押しだった。
7月27日の夕刻にディズニーランド・ホテルの隣にあるエメラルド・オブ・アナハイム・ホテルにチェックインした私たちは翌日の朝から時差ぼけも忘れ、ホテルから徒歩で10分程度ほどにあるコンベンションセンターに急いだ。幸いカリフォルニアの空は驚くほど青く綺麗だった。そして日向に出ると汗をかく気温でも日陰に入ると大変涼しく、梅雨時の日本が恨めしく感じたものだ。
早速3つの広い会場内に展示されているCG専用機や関連機器を驚きと共に見始めた時のワクワク感をいまだに記憶している。
ただし私自身が勝手がわからなかったこともあり、当日までどのような企業が出展するかといった情報はほとんど知らなかったのだ。しかし嬉しいことに、そこにはApple Computer社もかなり大きなブースを用意し、リリースしたばかりのMacintosh IIとSuperMAC Technology社の19インチ・カラーディスプレイをずらりと並べてデモしていた。

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※「SIGGRAPH '87」に出展していたApple Computer社ブース


このSIGGRAPHに出向く前に、私自身最初のカラーMacintoshであるMacintosh IIを注文していたこともあり、このApple社の様々な展示は大変嬉しかった。そこには一番知りたかったカラー版ソフトウェアに関する情報もあり、実際にVideoWorks II、CriketDrawのカラー版、MacPaintのカラー版のような試作(後で知ったことは、PixelPaintのβ版だった)が動作していたのを見て驚喜したものである。
特に安堵したことは、カラー版の各種ソフトウェアの価格が日本で噂されていた300ドルとか500ドルが最低価格では...といったものではなく、例えばModernArtistというペイントソフトは149ドルで販売されていたことだった。

本来私がこのSIGGRAPHに来た目的はコンピュータグラフィック専用機の情報を集めるためだった。しかし思いもしなかったApple Computer社の出展を見て、私はCG専用機にはまだまだ及ばないものの、一層Macintosh IIの魅力にとりつかれてしまったのだった。
フィルムショーではPIXAR社の「RED 'S DREAM」が放映され、日本の作家代表としてメタボールを駆使した河口洋一郎などの作品に感動したものの、私の気持ちは一日も早く日本でMacintosh IIを使ってみたいという思いがつのるばかりだった。
このフィルムショーのCGを制作するために使われていた1980年前半の名機であるDEC社のVAX-11/780の演算スピードは1MIPSくらいだったと思う。ちなみに1MIPSとはコンピュータの処理速度の指標だが、1秒間に1,000,000万回の命令を実行できることを意味する。
それと比較してMacintosh IIは当時最大2MIPSの能力を持つと噂されていたこともあり、米国にいながらも私の思いは早くも自身のMacintosh II環境のことに思いを馳せていた。

とはいえ一般的な能力からすればMacintosh IIなど、およびもつかないパワーを持つ最新鋭のCG専用機がなぜか色あせたように思えたその憧れのMacintosh IIは、SIGGRAPHから帰国した翌月の1987年8月22日に自宅に届いた...。
それは現在のマシンと比較すると思わず笑ってしまうほど貧弱なスペックであり、CPUに68020/16MHzを搭載しFPUには68881が搭載されていた。そして私が手に入れたのは40MBの内蔵ハードディスク、そしてメモリがたったの5MBのマシンだった。しかし往時は最新最高のパーソナルコンピュータであり自動車の購入と比較されるほど高価だった。

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※Macintosh IIが到着した1987年8月22日に撮影。PC-9801の上にあるカラーモニタはMacintosh IIに接続されVideoWorks IIカラー版が走っている(上)。写真下は当時Macintosh IIによるモデリング例として配布されていたビジュアルだが当時は1677万色のフルカラーではなく256色カラーでしかなかった


SIGGRAPH参加は短い期間だったものの、私にとってアメリカンカルチャーに刺激を受けた大変貴重な機会だったし、本来CG専用機を見に行ったわけだが皮肉にもパーソナルコンピュータとは何か...をあらためて考えさせられるきっかけとなったと同時に、CG専用機よりパーソナルコンピュータというものがいかに我々の将来にとって重要なのかという事を再認識する旅となった。
その確信は翌年に私をしてMacintosh専門のソフトウェア開発会社を起業する決心をさせたのである...。

(社)日本臓器移植ネットワーク「グリーンリボン検定上級」に合格

先日、社団法人 日本臓器移植ネットワークから封書が届いた。中には「グリーンリボン検定上級に合格された方へ」という文書と共にグリーンリボンのピンバッジといくつかの書類そして臓器提供意思表示カードが入っていた。                                               

 臓器移植といえば我々にはAppleのスティーブ・ジョブズ氏が肝臓移植を受けたことが記憶に新しい...。
ジョブズ氏自身がスペシャルイベントに登壇した冒頭に「わたしの肝臓は20代なかばで自動車事故で亡くなった、そして臓器提供をするほど優しい心の持ち主だった人のものだ。その広い心がなければ、わたしはいまここにいなかっただろう。我々皆がそうした心を持つことができ、またドナーに登録することになればと思う。」と述べていたことが強く心に残っている。

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※Apple special Event 2009で自身の臓器移植について話すスティーブ・ジョブズ氏


自分が死んだ後、その臓器がそれを必要としている第三者に役立つことの重要さ大切さについて異存がある人は少ないと思うが問題はご承知のように「人の死の判断基準」である。
脳死が人の死と決めつけて良いか...についてはまだまだ大きな反論・異論もあるし、そもそもが臓器移植を成功させるためには死後時間が経ってしまっては役に立たない場合があるのだから難しい。

私自身のことを言うなら、ある意味この歳まですでによく生きたと思っている。したがって万一脳死状態になってしまいそのまま形だけ生きているというのは私の本意ではない。それは家族にとっての経済的負担だって無視できないではないか...。
したがって健康が取り戻せないなら人生に終止符を打つのもこれまたひとつの人生の選択だと思うが、これが家族のこととなればそうは割り切れないのも事実...。

例えば女房が植物人間となったとすれば、例えそうであっても生き続けて欲しいと思うのが人情だし事実そうあって欲しいと思う。
ただし送られてきたパンフレットによれば、ここでいう脳死とは自分で呼吸できる植物状態を意味するのではなく脳全体の働きが無くなり、人工呼吸器などの助けがなければ心臓が停止してしまう状態を意味するという。

ともかく脳死による臓器提供は本人の意思が明白でなければならないようだが心臓が停止した死後には本人の意思が不明でも家族の同意で腎臓や眼球の提供ができるという。すなわち提供する臓器に制約がでるものの、脳死ではなく心臓停止後の臓器提供を意思表示することも可能なのだ。

さて、送られてきたグリーンリボンのピンバッジは移植医療のシンボルだという。
そもそも「グリーンリボン検定上級合格」と書くとたいそうに聞こえるかも知れないが、これは臓器医療の普及啓発活動をめざし多くの人たちに理解を求めるための活動の一環である。したがって「検定」とはあるものの質問に対して答えを間違ったら再度やり直せばよいわけで、実はどなたでも合格できるという代物なのだ。

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※社団法人 日本臓器移植ネットワークから届いた封書の内容(上)と「グリーンリボン検定上級」合格を示すグリーンリボン・ピンバッジ(下)


自分がどれほどこの臓器移植のことを認識しているかを試すという興味だけで「グリーンリボン検定上級」にトライしてみたが、こうした機会にこの難しい問題に真正面から取り組んでみることも必要ではないかと考えている。そしてインターネットからでも臓器提供の意思表示は可能なので家族とも十分に話し合い、自分の臓器提供の意思を考えたいと思う。

社団法人 日本臓器移植ネットワーク

貴方は「現実歪曲フィールド」を体験したことがあるか?!

先日数人の方とスティーブ・ジョブズ氏の巧みなプレゼンの話題になったとき、「 現実歪曲フィールド」の話になった。古参のMacintoshユーザーは知っているが2,3の若い方は首を傾げた...。今回はこれまでにも数度取り上げた「 現実歪曲フィールド」について掘り下げてみよう。


まずこの言葉は一般の辞書は勿論だがMacintosh関連辞書にも載っていない...と思う。ただし好い加減な言葉ではなく例えば毎日コミュニケーションズ刊「未来をつくった人々」(マイケル・ヒルツィック著/鴨澤眞夫翻訳)にもきちんと登場する...。
どうやら「歪曲フィールド」といった言葉はもともとゲームキャラクタが持っている特殊能力に対して名付けられたもののようで、敵から受けた攻撃ダメージを半減するための能力を意味するようだ。
しかしスティーブ・ジョブズという生身の...それも実在する人がそのようなパワーを持っているわけはない(笑)。

スティーブ・ジョブズが身につけているという特殊能力は「歪曲フィールド」に「現実」がついた「現実歪曲フィールド」と呼ばれている。
理屈から考えれば「フィールド(field)」とはこの場合、電場・磁場・重力場などの「場」を意味すると考えられよう。そしてその前に「現実歪曲」と付くのだから文字通りその意味は「現実や事実を歪めてしまう場」といったことになる...。

結論めくが「現実歪曲フィールド」は、スティーブ・ジョブズの持つカリスマ性が現実世界に及ぼす影響力を意味することだと理解して間違いはない。
Apple社が創立以来、彼の回りに多々語り続けられている逸話があり、すでにその多くは伝説化している。そしてそれらは主役がスティーブ・ジョブズでなければなし得ない結果を生むような場合に例えば「ジョブズの現実歪曲フィールドが発動するや否や、一瞬で無理が有理に変化した...」などと使われる訳だ。

どんなに実行不可能あるいは不利な状況に見えるときでも、彼の自信に満ち希望に満ち溢た台詞と態度はビジネス相手や聴衆を魅惑して「なるほど..」と思わせ、結果として不可能を可能にしてしまうパワーが「現実歪曲フィールド」なのである。
その原動力はAppleというブランドはもとより、自身が考えるビジョンに対する絶対的な自信から来るものに違いない。ただしジョブズとて人の子であり、その自信を裏付づけるために我々の想像を絶する大いなる努力をしているに違いない。

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※「現実歪曲フィールド」パワーを発するスティーブ・ジョブズ氏のイメージ(笑)


さて、異論はあるかも知れないがスティーブ・ジョブズが現実歪曲フィールドを発動する効果を眼前に見られる手近なものはMacworld Expoの基調講演だったろうか。
残念ながらAppleはすでにMacworld Expoへの出展はしないことに決まったから、一般ユーザーとしてはApple社が主宰するプレミアムイベントなどで登壇する彼の姿でしかそれらを体現できなくなったが...。

ともかく...例えばそのステージ上でリリースされた新製品は彼がそれを「クール!」と壇上で得意げに掲げてみれば会場にいる多くの人たちはもとより、ストリーミング放映を見ている人たちにもそれは画期的ですばらしい製品であり、即Apple Storeに予約しなければ...と思わせるあのパワーは正しく「現実歪曲フィールド」なのだ(笑)。

古い話を持ち出すなら、かつて基盤むき出しのApple Iを世界で初めてのコンピュータショップとなったバイトショップに50台売りつけたこと。マイク・マークラ自身に先見の目があったにせよ彼に多額の資金提供させたこの時期はジョブズにとって最初の現実歪曲フィールド効果を十二分に発揮した重要な場面だった。なぜなら創業時のジョブズたちにはまったく金がなかったのだから...。
またジェフ・ラスキンが考え主導してきたMacintoshプロジェクトを奪い、Lisa mini的なマシンに仕立て上げたのもジョブズの現実歪曲フィールド効果だと思う。

Macintoshの開発には様々な困難が存在したにもかかわらず、結果としてビル・アトキンソンをはじめとするプログラマたちを先導し、週90時間労働まで強いりながら現在私たちがよく知っているあのMacintosh 128Kを誕生させたのはジョブズの現実歪曲フィールド効果なくしては考えられないのである。
あるいはまたペプシ・コーラUSAの社長であり、すでにビジネスマンとして成功していたジョン・スカリーを口説き落としてAppleの社長に迎えたこともジョブズの現実歪曲フィールド効果だと考えられるし、その後のNeXT社においてキヤノンやロス・ペローから莫大な資金支援を取り付けたのも現実歪曲フィールド効果なくしては無理だったと思うのだ。

ある年のMacworld Expo/Tokyo開催時、私はアップルから招待されて幕張のホテル・ニューオータニの一室に向かったがそこはデベロッパーや販売店などのVIPたちが集うパーティー会場だった。
しばらくの後にスティーブ・ジョブズが突然あの基調講演の姿のままで会場に入ってきたが私には現実歪曲フィールドはともかく、彼の周り数十センチには人を近づけないバリアーが張り巡らされているのを感じた。いや...膨張ではない。

我々にしてみれば一般的にはジョブズと話し、あるいは握手をし、名刺交換でもできる願ってもないチャンスであるにもかかわらず10数分その場にいたと思うがAppleの同行者以外、そこに100人もいたであろう誰ひとり彼に声をかけるものがいなかったのは凄いと思った。
私もギル・アメリオ CEOやビル・アトキンソンに声をかけてサインをもらったし、エレン・ハンコックやドン・ノーマンとも話す機会や会食のチャンスを得た。そしてあのガイ・カワサキとは一緒に写真を撮ってもらったりとそうしたチャンス時にはかなり図々しいのだが(笑)、いや...ジョブズの場合は圧倒的な緊張感を感じて気軽に挨拶できる雰囲気ではなかったのである。

というわけで、確かにスティーブ・ジョブズは現実歪曲フィールドだけでなく人を寄せ付けないバリアーを発動する能力を持っているに違いない。しかし残念なことにその発動効果がいつも芳しいわけでもなさそうなのは彼のこれまでの人生が証明していることでもある。
ともあれスティーブ・ジョブズの現実歪曲フィールドに見舞われることを他人事と思っていては間違いである。
あのApple Storeの店内に入れば必ずや気分が向上し、いま必要のないものまで買うはめになり、その上にニコニコ顔でショップを後にしている自分に気付くに違いない。それこそ貴方がスティーブ・ジョブズの発した現実歪曲フィールド真っ只中に取り込まれている証拠でもあるのだ (爆)。

ラテ飼育格闘日記(153)

ラテの調子が何だかおかしい...。食欲はあるから大丈夫だと思っていたが朝の散歩から戻り一息ついたとき咽が詰まるような音と共に数回吐いてしまった。ワンコは比較的よく吐く動物だというがラテは通常そんなことはないし、なにか喘息持ちのように咳もするので夕方の散歩の前に動物病院に連れて行った。

 

散歩の後始末をしていたオトーサンの後ろで「ゲッ...」という声と共にラテが苦しそうに肩を大きく揺らしながらリビングで吐いた...。
まあ吐いた程度で驚くオトーサンではないが、片付けている側からまたまた「グフッ...ゲッ」とやっている。すでに固形物は出なくなり唾液の跡が床にいくつか落ちていた。
オトーサンはラテに駈け寄り、思わす人間にやるのと同じように背中をさすってしまった。それが効いたわけでもないのだろうが何とか落ち着き、マッサージチェアに飛び乗り横になった。
オトーサンは床を拭き、消臭ならびに除菌のスプレー(ラテが舐めても大丈夫なやつ)で綺麗にしたものの、ラテが気がかりでしばらくの間、ラテの側にいた...。

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※雨上がりの朝はさすがに寒くなった(上)。また紅葉が始まり色づきはじめた沢山の落ち葉を踏みながら歩く(下)


ラテは特に苦しそうというのでもなく静かに目を閉じたのでオトーサンはその場から離れた。
実はオトーサンが日常仕事をしている2階のコンピュータ室に設置してある小さな液晶モニタでラテのいる1階リビングの様子が観察できるようにしている。
それはリビングの端に超小型無線カメラを置いてあるからだが、そのおかげでラテがいま何をしているのかがわかる。
その設備がないとき、階下でラテが吠えても何事かを知るにはオトーサンがわざわざ1階に下りないと分からなかったが監視カメラのおかげでラテがどこで何をしているのかが一目瞭然なのだ。無論映像だけでなく音声も同時に聞くことができる...。

その後オトーサンが見ていた範囲では昼前に一度「ゲホッ...」とやった程度で吐いた様子はなかった。ただしやはり体調が悪いのか、いつもなら出窓のたたきに乗り、道路を行き交う人たちやワンコに向かって吠えたりする日課をやらず、ずっとマッサージチェアに踞っていた。
オトーサンとしては一時的なものだと思ったしそうであって欲しいと願っているわけだが、昼に一度階下に降りてラテの様子を見たが特に問題はないようだったから安心していた。
しかし夕方の散歩に出かけようと準備をするため階下に降りたとき、ラテも喜んで興奮したのかまたまた「ゲホッ、グハッ!」と大きく咳き込む様子を見せた...。
これはやはり放っておけないからと決心し、散歩の身支度をしたまま家を出ていつもの公園に向かわずに動物病院へと向かった。
動物病院までラテを連れて歩いて約15分ほどかかるが、前回のワクチン接種のときに連れていったケースと比較して途中嫌がるわけではなくスイスイと歩く。そろそろ何処へ向かっているのか分かっている頃だがリードを強く引くこともないのがかえってオトーサンを不安にさせる。

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※久しぶりに朝の散歩でマキちゃんに会えたラテはチューをねだる(笑)


なぜなら2008年1月、公園でリードフリーで近づいてきたワンコに肉球を噛まれたとき、急ぎ病院に連れて行ったがいつもは嫌がる病院のドアを開けたらラテは自分から進んで入ったことがあった。やはり痛かったのだろうし、ここが嫌いな場所であっても何をする場所なのかを本能的に知っているのかも知れないとオトーサンは感動したものだ。
そんな記憶を思い出すほど動物病院まで後100メートル近くになってもラテはオトーサンの前をヒタヒタと歩いて行く...。
「やはり具合が悪いのかな」と心配しながら動物病院のエントランスに入ろうとしたが、ラテは小走りに通り過ぎようとするではないか(笑)。
何と言うことはない...ラテはこの道を進まなければならないなら早く病院を通り過ぎようとしていたようなのだ。
ともかく無理矢理病院に入り受付を済ませるがラテは落ち着かない。

待合室のスペースはそんなに広くはないのだが、ラテが腹ばいになるとオトーサンが座っている木製の椅子4個分ほどのスペースを取ってしまう(爆)。夕刻なので空いていたから良いが、これは後から来た人にも迷惑だからとラテの伏せる方向を変えようとするが、彼女はテコでも動かない構えでチャンスがあればドアを開けて外に逃げたいとあがく...。
そんな攻防戦を10分ほど続けていてやっと名前を呼ばれ診察室に入るがラテは猛烈に脅えて診察台に乗せるために抱きかかえようとするがオトーサンの手からも逃げようともがく。それを何とかしようと屈んだオトーサンは診察台の角に頭をぶつけて若い看護師に苦笑されてしまった。
ともかく台に乗せ、体重を確認した途端にこれまたいつもだが両前足をオトーサンの肩にかけ半分抱っこ状態のラテだ。その機会を逃さずお尻に体温計を入れて体温を測るが38度6分と平熱でありまずはホッとする。

抱っこ状態も続くと辛いものがあるがオトーサンはラテをアヤしながら待っていると院長が入ってくる。
症状を聞きながらカルテをめくっていた院長は「昨年の7月にも同じようなことで来院されましたね」という。そういえば...と思い出したがその時は明らかにクシャミもしていたが今回はそのクシャミはない。
ともかく聴診器による診断では問題はなく熱もないからと抗生物質と咳止めの薬をもらって様子を見てみることにする。
万一薬を飲んでも症状が改善されない場合は血液検査をすることになるようだが、まあそこまでには至らないことを祈りたい...。

病院を出るとラテはすっかり元気になった(笑)。オトーサンに笑顔のアイコンタクトをとりながらスムースに歩く。
時刻はすでに午後6時を過ぎていたがこのまま自宅に戻っては少々ラテが可哀想だと思い、自宅を通過してさらに15分ほど歩くことになるいつもの公園に向かう。
すでに周囲は外灯のないところは真っ暗だがラテはルンルンのようで軽快な足取りで歩く。
この時間だからラテのお友達ワンコたちも帰ってしまったかも知れないが、ともかく公園に行くだけ行ってみようとオトーサンも先を急いだ...。

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※ラテ...明日も元気に遊ぼう!


公園に入る直前の歩道橋を渡ろうとしたとき「あら...」と声がかかった。そこにはお馴染みの柴犬...クロちゃんとハチちゃんが公園から出てきたところだった。ラテは嬉しいらしくハチちゃんに遊ぼうのポーズを繰り返している。
クロちゃんとハチちゃんと別れ、真っ暗で懐中電灯がなければ足元もおぼつかない公園に入ると嬉しいことにまだコーギー犬のアポロちゃんがいた。
ひとしきりアポロちゃんと絡んで気が済んだのかオトーサンが「ラテ、帰ろう」とリードを引くと素直についてきた。
幸いラテは夕食をきちんと平らげたので病院で出してもらった抗生物質と咳止めの錠剤をヨーグルトと共に口の奥に入れてマズルを軽く握る...。ラテが何度か「ゴックン」とやった後、念のために口を開け残っていないのを確認しオトーサンのミッションは終了した。
薬の影響だろうか、しばらくするとラテはうとうとしている。少しでも早く完治してほしいのだが...。
その愛らしい寝姿を見ているとオトーサンの足の痛みなどどうでも良くなってくるから不思議である(笑)。

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appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員