ラテ飼育格闘日記(169)

毎日朝夕二度の散歩を続けていると季節の移り変わりに必然的に敏感になる。こんなことはコンクリートに囲まれ、朝早く家を出て会社に出向き夜遅くに帰宅するという生活を繰り返していた時代では感じなかったことである。それにしても最近ラテは一段と可愛くなった...。

 

2月もこの時期になると朝晩の散歩がかなりやりやすくなってくる...。それは少し前までなら朝出かけるときも、そして夕方に出かけるときにも懐中電灯は欠かせないアイテムだった。
朝家を出てまず駅方面に歩くがその10分程度の距離でも外灯の有る無しには関わらず懐中電灯で前方を照らして歩くのが日課だった。それがここの所、天気がよい日にはその明かりは不要になってきたのがありがたい。無論懐中電灯はラテの安全を確保するために重要な役割を果たす...。
愛犬との散歩をはじめてから再認識したことだが、我々人間のマナーの悪さから道路にはさまざまな危険が牙を剝いている。
タバコの吸い殻をポイする人は相変わらず多いし、コンビニ食の食べかけを容器ごと捨ててあったり、わざわざガラス瓶を叩きつけて粉々にして捨ててあるといった具合だ。

そんな所を何も知らずに歩いては災いがない方がおかしいではないか。
また以前にも書いたと思うが、明かりをつけて歩いていることで行き交う人や向かってくる自転車にこちらの存在を知ってもらうサインにもなるのである。なにしろ特に信号がない交差点などでは注意をしていても無灯火の自転車が突っ込んでくる場合もあるからだ。
しかし指が凍えるほどの寒い時期に懐中電灯ひとつでも持ち物が多いことは面倒なものだし、懐中電灯の明かりを照らせるのは極狭い範囲だ。それが自然の...太陽は例え薄明かりでも向こうまで見通せるわけでより安全がとりやすい。
夕方も同じで、帰る頃には真っ暗だったのが時間帯によっては懐中電灯の明かりが不要な日が増えてくるのは嬉しいものである。
そして春がそこまで来ているのは日が延びたということだけではない。この週の散歩では暖かくなったからだろうか、大きなカエルが歩道を横切っているのを2度も見た。

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※午前6時過ぎでも天気が良いと美しい朝焼けを見ることができ


そんな季節の朝夕は天気が良いとさまざまな朝焼けや夕焼けに出会う事ができる。そして都心とは違い空を見渡せる面積が抜群に広いからまさしく吸い込まれそうな気がするほど雄大で美しい空の下をラテとアイコンタクトしながら歩くのは無類の喜びなのだ。

そういえば最近偶然なのだろうが、4,5人の方から「最近のラテ、ますます可愛くなったね」といった声をいただいた。半分はお世辞だと受け取らなければいけないのだろうがオトーサンもそれは感じていることなので嬉しくて仕方がない。

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※真面目な顔のラテ。何を考えているのやら...


ただ人間と違い、化粧もしないスッピン顔のラテは意外とその場その場で表情が変わる...。
一番は顔の毛並みとその色合いの差がある種の模様となり、それが可愛い感じだったり時には滑稽な見え方になったりもする。とはいってもブラッシングでそうしたパターンをオトーサンがコントロールできるわけでもなく自然に任せるしかないのだ。その上にラテは柴犬のような短毛ではないためそのままにしていると結構体毛が伸びる。そして顔の周り、特に首回りなどの伸び具合によっても随分と印象が違うのも面白い。
かなり短く刈ってしまうとボーイッシュで精悍な感じもするが適度に伸びるとやはり柔らかい印象をかもし出す。
その上にブスっとしている顔と満面の笑顔ではそれこそ雲泥の違いがあるし、この項でご紹介してきたラテの写真も一瞬の時を捉えたわけでいつもいつもが同じ顔をしているわけではない。

あらためて昔の写真を眺めてみるとまず目立つのは顔云々より体の細いことだ(笑)。
ともかく我が家に来た頃は推定だが生後6ヶ月ほどだったこともあり、幼犬特有で頭が大きいから今見ると笑ってしまうほどバランスが違う。そしてかなりの枚数の写真を見てみると確かに顔つきが大きく変わってきたことは確かなようだ。
無論人間同様、子供の顔と成人の顔はちがうわけだがラテも1歳半頃から随分と大人顔になってきたように思える。
マズルが長くなり精悍な感じがする一方で、幼犬時代の少々はれぼったいような目の周りもはっきりしてきたし、両耳が垂れていたものが片耳だけだが立った姿は随分と違う印象を受ける。

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※オカーサンと一緒に何見ているのか?


それにオトーサンの思い過ごしかも知れないが、我が家に来てしばらくはラテもいろいろと不安なことも多かったからだろうか、その視線はどこか強く不審感というより常に緊張しているような感じを受ける。いや、それはラテだけでなくオトーサンたちも一緒だったに違いない。
ラテの視線を受けるオトーサンの目もどこか自信がないオロオロした表情だったのかも知れない(笑)。

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※我が家に来た直後(2006年12月)のラテはこうした険しい表情をすることもあった(上)。写真下は2007年2月のスナップだが、それにしても...細い(笑)


ともかく間違いないことはこの1年ほどでラテの感情表現はより豊かになったし、それに関連してその表情も柔らかで良くなった。
公園で会う友達ワンコたちと比べると五月蠅いといえば一番五月蠅いのがラテである。なぜなら友達ワンコである柴犬のクロちゃんやポン吉ちゃんはまず吠えることはないしその動作も穏やかに思えるがラテはまったく違う。
大好きな飼い主さんたちには声を出して近づくし...挨拶のつもりなのだろうか、あるいはオヤツ頂戴というおねだりなんだろうか、ともかくその人の前に座って「ワンワン!」と吠える。その方が屈んで撫でてくれようものならその膝に前足をかけ、口元を舐めようとする。場合によっては一緒に遊ぼうのポーズをとり、自分だけで飛び回る...。

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※マキちゃんと嬉しそうにお話し中のラテ


少なくとも回りのワンコの中でラテほど感情表現が大げさなワンコは少ないようだ。
当然、それらの動作に合わせて表情も変化する。目を見開いたり口を開けたり、そして首を傾げたりと様々だがその少々太めの体全体で思いを表現しようとするその姿が愛おしいオトーサンなのである。

佐古克行さんの訃報を聞いて...

先日友人の鵜沢さんよりニフティのフォーラム時代から懇意にしていただいた佐古克行さんが昨年11月26日、心臓発作を起こし亡くなられていたという連絡をもらった。まだ50歳前の若さでありMacintoshは勿論コンピュータグラフィックスに造詣の深い人で魅力溢れる男だった...。

 
佐古さんは古くからのMacintoshユーザーであり、当時150万円ほどもした3Dアプリケーションなどを早くから使われ仕事に活かしていた一人であった。
私がシスオペを務めていたニフティのMACCGフォーラム常連でもありオフラインだけでなくMacWorld Expo/Tokyoにブースを持った時などには立ち寄って下さった。

訃報を知らせてくれた友人とは違い、私自身は個人的に深いお付き合いをしたわけではないが笑顔が素敵な、そして話をよく聞いてくれ、一端話し出すと博識の持ち主という印象でひと言で言えばまさしく好男子であった。
彼に関して特に記憶に残っているのは1997年12月に大阪ドームで MacFan Expo in Kansai '97 が開催され私の会社も小さなブースを持った時のことだ。

1日が終わった後、我々のブースに立ち寄ってくれた彼の案内でスタッフ等全員が大阪で一番美味いというお好み焼き屋に案内してもらうことになった。
我々はテーブルを囲みながらExpoのこと、マックのこと、そしてラチもない冗談を言い合って楽しいひとときを過ごした。
その後、外に出て今度は美味しいたこ焼き屋というのをハシゴし、私はそこで初めて醤油味のたこ焼きを体験したのだった...。

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※左奥が筆者で向こう隣の白い服を着ているのが佐古克行さん。その隣が友人の鵜沢さん


まったくローカルな話で恐縮だが、残念だったのは彼が亡くなってからすでに3ヶ月ほど経ってしまったことだ。
これは私だけが知らなかったことではなく推測するにご家族の方々も彼の交際範囲のデータをご存じなかったものと思われる。したがって親しかった私の友人たちも数日前に知ったという...。

お互いに好意を感じ、一時だとしても気持ちの通じ合った人が亡くなるのは...それも若くして亡くなるのは本当に辛いことだ。
ともあれ個人的な信条だが、生きている我々が先だった人達にしてやれる唯一のことは彼ら彼女らを思い出すことだと思っている。

訃報を知らせてくれた友人とひととき電話口で彼の思い出話をし、そういえば彼の写真がどこかにあったと段ボール箱をひっくり返して見つけたのが前記したお好み焼き屋での1枚なのである。
心より佐古さんのご冥福をお祈りすると共に、ご同輩の皆さんも十分健康にご留意のほどを!
ま、私に言われたくはないだろうが(笑)。

合掌

ラテ飼育格闘日記(168)

ラテとの生活が3年過ぎたいま、つくづく感じることは基本的に気持ちが桁違いに楽になったことだ。勿論毎日の散歩や食事を通してラテの健康維持に最善をつくしてはいるし体力的には相変わらず格闘を続けているものの、この3年間でお互いが随分とわかり合えたように思う。

 

そういえばラテを迎えるにあたり...いや飼い始めてからも多くのワンコ飼育本を手にしたものだが最近は読み物として楽しむための本はともかく、ワンコを飼うためのノウハウ本の類を買うことはなくなった。
いま思えば随分と無駄な本も読んだが、結果的にはいろいろな意見を比較検討し、実際のラテに当てはめて考えることで随分とワンコという生き物のことを知り得たと思っている。
そうした過程で相変わらず「犬はオオカミの子孫でありその行動に影響を与えている」とか「飼い主との主従関係をいかにしたらうまく築けるか」といった古い考え方に固執している専門家と称する人たちがいる...。

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※まだまだ欠点もあるがラテは総じて良い子に育った...


例えば...「犬は人間を犬だと思っている」「犬は隙あらばリーダーになる機会をうかがっている」「飼い主より先に食事を与えてはいけない」「玄関の出入りも飼い主より先にさせてはいけない」「飼い主の視線より高い位置に犬を置いてはいけない」「帰宅したときの飛びつきは無視しろ」「家の中で遊ぶことは犬のストレスを増やす」「決まった時間に餌をあげるのはストレスの原因」「散歩にも先に歩かせてはいけない」「甘噛みを放っておくと本噛みワンコになる」「可愛がりすぎは犬にとってストレスとなる」「餌はいつも同じドッグフードだけにすべき」「早いうちに専門家に訓練を受けさせろ」などなど...いまのオトーサンはこうしたワンコに対する接し方、対処のしかたを信用していない。
当初は予備知識のない、それに経験もないオトーサンだったから「そんなものなのか?」と悩んだこともあったが、冷静に...理詰めに物事を考えれると何か納得できないことが多かったわけだ。しかし今ではこうした考え方が間違っている...というのが言い過ぎなら少なくとも正しい唯一の意見ではないということは確信に変わっている。

ただし勘違いされても困るが、オトーサンはラテの望むまま何でも許してしまおうと言っているのではないし我が儘を放置しても良いと考えているわけではない。
ワンコは確かに人間ではないしその行動様式も思考回路も違う生き物だが間違いなく高度な知能と豊かな感性を持った生き物だと言うことは得心できる。そしてそうした利口なワンコと強い信頼関係を結ぶにはワンコ側の生理や本能を理解しつつ、人間側の都合に合わせた生き方ができるように考えなければならないわけだ。

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※夕陽が沈むとシルエットが美しい。中央右の突起が富士山である


3年といえば毎日朝夕の散歩だからオトーサンはすでに単純計算でも2,300回ほどラテとの散歩を実施していることになるし、その間さまざまな出来事があったと同時に他のワンコたちとの比較や観察も意図的にやってきた。その上でワンコとは何者なのかを文字通り体で知ったといえる...。
もしかしたらラテが特別利口で聞き分けの良いワンコであった...という可能性もないではないが(笑)、オトーサンが意図的にラテに対して接した方法はこれからワンコを飼う人たちにも何らかの参考になるのではないかと考えるようになってきたので少しずつ発言していこうと考えている。
しかし世の中にはこれひとつが正解というものばかりではない。特にワンコを育てるといっても物言わぬワンコだからして感想や意見を言ってくれるわけではなく、あくまで人間側の一方的な解釈で物事の良し悪しを考慮するしかないのが心許ない。

ともあれ常識的に考えればワンコにもそれぞれ性格といったものがあるだろうし、いわゆる刷り込み期がどのような環境だったかにもよる。しかしノラだったラテの刷り込み期がどのような環境だったかは分からないが犬種や性格による違いよりそうした幼児期の環境を含め、いかに飼い主との接し方やその生活環境がワンコの行動に影響してくるということはひしひしと感じる。
そのラテは推定3歳8ヶ月にして自立心が旺盛なワンコとして、そして例外もあるものの人間特に子供達にフレンドリーで感情豊か、まずまず聞き分けもよく手のかからない良いワンコに育ったと思っている。
無論、コンテストに出すと言ったような系統だてた訓練や飼育はあえてしなかったが、家族の一員として愛情豊かに育てようと心がけてきた。
そうした体験から物言えば前記したような馬鹿げたワンコ飼育論を振り回すのは問題だと思わざるを得ない。なぜならオトーサンたちも当初は迷ったもののラテに対してそうした論理とは反する教育方針を取ってきた結果、いまのラテに満足しているからである...。
例えば「甘噛みを許してはいけない」といったマニュアル本のそれ自体は間違いない。ただし中には「スリッパなどの破壊も放っておくと大変なことになる。なぜなら犬にとってはスリッパも人間の腕も同じだから」といった無茶なことを明言しているカリスマ訓練士もいる。
ワンコが人を噛むといった行為は確かに問題だし止めさせなければならない。しかしオトーサンが自信を持って言えることは精神を病んでいるワンコは別にして「ワンコはスリッパと人の腕の区別ができないほどバカではない」と強くいいたい。
失礼ながらこうした訓練士に調教されたワンコはただ怖いというだけでトレーナーに従うに過ぎないように思えるし結局は人間不信に陥るに違いない。

オトーサンは機会があればラテをしっかりと抱きしめるし時間のある限り積極的にラテに触れ、語りかけるようにしてきた。
散歩の途中でラテがアイコンタンクトしてきたときや室内でも視線が合った場合、まずは意図的に笑顔を返すように心がけてきた。なぜならワンコは飼い主が機嫌がよいのか悪いのかを絶妙に知り得る能力を持っていると思われる。そのワンコと一緒に散歩しているのにオトーサンが不機嫌ではラテ自身が楽しんだりリラックスしたりができないと思うからだ。
「オトーサンもラテとの散歩を楽しんでいるよ」ということを笑顔で知らせることが必要だと思う。オトーサンが鼻歌でもやっているとラテも笑顔が増してくる。
その結果、普段は言うことを利かないときもあるラテだが、散歩から戻った際に玄関のたたきの上でオトーサンがラテの体を拭く準備をする間、そう...数分でも大人しく待っているワンコになったしその拭き掃除の手順などをすぐに覚え、体の向きを自身で変えたりもしてくれるようになった。

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※夕食が終わり満足したのか横になったままボールで遊ぶという横着なラテ(笑)


勿論人間社会において困る悪さをしたときにはその場で強く叱る。ただしいたずらに大声を上げる必要もなくオトーサンはリードを「ビシッ」と引き、まずはお座りをさせマズルを軽く握り、ラテの目を見て「ダメ!」と叱る。
極初期には思わずビンタをしたことがあるが、その後は痛みを感じるほどの体罰はやったことがない。なぜなら今ではその必要がないからだ。
その場ですぐに叱ることでオトーサンが怒っていることは十分に伝わる。ただし人間に対してのように言い聞かせは無理だと考えているから「おまえは何度言ったら分かるんだ。それはダメだって言っただろ!」的なじくじくした叱り方ではなく、今やった行為にオトーサンが不快感を示していることが伝わればそれで良い。
またオヤツは面倒でもひとつひとつオトーサンの手のひらや指からあげるようにしてきた。人間の手や指は怖いものではないことを知らせなければならない。
手や指を甘噛みしたらその場で「痛い!」と大げさに騒いで不快を示し叱る。もし遊んでいたら即遊びを止める...。だから今では子供達がラテに餌をあげる行為も安心して見ていられるまでになった。ラテは絶妙に指を避けて食べ物に当たりをつけて咥えるからだ。決してガブッとはせず、オトーサンにはその歯の感触が心地よいほどである。
そして何か上手にできたり、いうことをきちんと利いたらこれまた大げさに褒めてやる。

飼い主はマニュアル本にあるような飼育を考えるよりともかく一緒に散歩に出ることがワンコにとって何よりも一番の学習の場だということをもっともっと認識すべきである。
ワンコは毎日の散歩の中で飼い主が何を許し何をダメというのかを学習するだけでなく、飼い主の嗜好や感情まで読み取る名人なのだ。したがって散歩もろくにしないで愛犬がいうことを利かないと嘆くなどオトーサンにとっては本末転倒のように思える。
こんな感じでラテと接してきたが、オトーサンが出かけるときも普段は騒ぐこともなく大暴れして物を壊すこともない。近所のコンビニに行くときも出窓に顔を出しているラテに手を振って出かける。そして戻ったとき嬉しそうに飛びついてきたら思い切り受け止めて抱きしめてやる。

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※新たに散策メニューに加わった公園にて


こうしたもの言いをするとラテには欠点などないように思われるかも知れないが当然のことながら欠点というか問題点も多々ある。ただし大切なのはその欠点を知ることであり、それが不要なトラブルを生むことを避けることにもつながる。
そのラテもまだまだ良い意味で成長・変化するのではないかと楽しみにしているのだが...。

iPhone 3GSでUstreamをと… gorillapodおよび三脚固定ホルダー購入

Twitterを始めてまだ40日ほどしか経っていないが面白いとか楽しいというより次々に新しい世界を垣間見せてくれるので戸惑っているというのが正直な話...。そのひとつにUSTREAMがある。ご承知のように例えば iPhoneで撮る映像を配信し簡単に共有することが可能になるわけだが、そのためにiPhoneを固定するgorillapodおよび三脚固定ホルダーを購入した次第。

 
まあUSTREAMに限らないが iPhoneで動画を撮る際に肝心のiPhoneを固定しておきたい場合が多々ある。しかしiPhoneには一般的なビデオカメラやデジタルカメラに備わっている本体を三脚などに固定するためのネジ穴がない。
したがって簡単にそして好みの場所あるいは角度的にiPhoneを設置するには何か相応の機器が必要となる...。
ということで調べた結果今般「gorillapod」というフレキシブルな脚を持つ小型三脚とそれにiPhoneを固定するための「三脚固定ホルダー」という製品を手に入れてみた。

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※フレキシブルな脚を持つ小型三脚「gorillapod」(上)と「三脚固定ホルダー」(下)


すでに多くのiPhoneユーザーが使い始めているかも知れないが、この組み合わせはなかなか強力であり、実用性十分なように思う。
まず考えるまでもなくiPhoneで動画を撮る場合、手に持って撮影することが一般的だと思うが、フレームを固定して撮る場合は手ぶれも含め持ち続けるのは適当ではない。したがって何らかの工夫でiPhoneを何処かに固定する必要があるものの、それは机上だけではなく時にはなかなか難しい環境に対処しなければならない場合もある。
例えば公園で,旅先の絶景場所で、森林の中で...などなどといったシーンではよくある三脚が機能しない場合もあり得る。というか手軽でどこにでも...いつも携帯しているiPhoneで撮影を行うことを考えればそうした一般的なケースでない場合の方が多いのではあるまいか。

「gorillapod」という製品には様々なタイプのものがあるようだが、私が手に入れたのは325g程度の重量に耐えられる小型なものでAmazonでは1,680円と安価な製品である。
この「gorillapod」が一般の三脚と違う点は文字通りその3本の脚が複数の球体型ジョイントで構成され、フレキシブルに曲げられる点にある。したがって例えば平坦ではない岩の上や斜面は勿論、鉄柵とか木の枝などに巻き付けてカメラを固定することも可能になる。また曲げた際にもある程度の強度が保てるためにそのまま撮影が続けられるわけだ。

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※「gorillapod」と「三脚固定ホルダー」でiPhone 3Gをドアノブに固定した例


ただし前記した理由で一般的なコンデジならそのネジ穴に「gorillapod」を装着すればよいもののiPhoneの場合はそうもいかない。
そのために活躍するのが今般もうひとつ購入した治具「三脚固定ホルダー」という代物なのだ。
この「三脚固定ホルダー」の特徴だが、まず一般的な三脚ネジに固定することが出来るためまずはこれを先の「gorillapod」にしっかりと装着する。そして「三脚固定ホルダー」のネジを回すことで左右のアーム間隔が狭くなったり広くなっりし、アーム内側には滑り止めと傷防止のためのラバーが貼られているため、ここにiPhoneをカメラ側を外に向けて挟み込めば準備はOKである。

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※「gorillapod」に「三脚固定ホルダー」をセット(上)。そしてiPhone 3GSを固定した例(下)


このラフな仕様のためiPhoneは本体のみならず、何らかのケースをつけたままでも装着でき、バッテリー内蔵ケースなどと使えば長時間の撮影にも対処可能となる。

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※バッテリー内蔵型ケース使用中もそのまま固定可能


しかし一般的な撮影ならともかくしっかり挟んだとしても車とか自転車など振動が伴うものに固定することは危険だからあくまで動かない場所で使うことが基本だと思う。

ともあれiPhoneに限らずコンパクトデジカメをフレキシブルに使う場合にもこの「gorillapod」と「三脚固定ホルダー」の組み合わせはいろいろと役に立つのでひとつ持っていると便利だと思うのでお勧めである。


JOBY ゴリラポッド
三脚固定ホルダー


ダニエル・スタシャワー著「コナン・ドイル伝」日暮雅通訳を読む

シャーロッキアンを自認する1人としてシャーロック・ホームズの生みの親であるアーサー・コナン・ドイルについての概要は知っているし他の作品のいくつかも読んでいる。しかしあらためて考えてみると彼の生み出した主人公がリアリティ溢れ強烈だったこともありその作家自身の存在がどこかフィクションのように思えるからか、これまでも彼の評価は不当に低いように思える...。

 
ダニエル・スタシャワー著「コナン・ドイル伝」はアメリカ探偵作家クラブ賞を受賞したにもかかわらず、刊行後10年を経てなお邦訳の機会に恵まれなかったという。それが今般ホームズ個人全訳をなしとげた訳者により邦訳され充実の評伝が明らかとなったのは嬉しい。
ところでシャーロッキアンたちはホームズと相棒のドクター・ワトスンを実在の人物と考え、2人の友情と数々の冒険にワクワクし、ワトスンが生涯に何度結婚したか...などなどを真面目に研究し論じ合う(笑)。
そのシャーロッキアンたちにとってホームズ物 60編(長編4、短編56)の記録者のほとんどはドクター・ワトスンであり、コナン・ドイルは同じ医者仲間として出版仲介者だったと認知されている...。無論それはシャーロッキアンたちの大人の遊びであるが、ホームズとワトスンが作者の手から独り立ちし作者より有名になった好例といえよう。

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※ダニエル・スタシャワー著/日暮雅通訳「コナン・ドイル伝」(東洋書林刊)


実際のアーサー・コナン・ドイルはイギリス・スコットランド、エジンバラ生まれで医者を目指しエジンバラ大学で医学を学ぶ。このときにエジンバラ大学医学部教授で外科医のジョセフ・ベルから指導を受ける。
そのベル博士の口癖が「ただ見るだけではなく観察せよ」であり、彼は未知の患者に対して「どこからきたのか」「子供の数」「どこで働いているか」などを言い当てたという。まさしくシャーロック・ホームズその人のようではないか...。
事実ドイルはベル博士のやり方、イメージを念頭にシャーロック・ホームズを作り出したという。

ドイルは後に眼科専門の医院を開いたが患者に恵まれず、生計をたてることも含めて余暇を小説書きに専念し原稿を出版社に送り続けたという。
ただしドイル自身ホームズ物は娯楽作品であり文学ではないと考えていたようだ。したがって最初は思わしくなかったものの結果としてホームズ物語が大成功を収め、家計にも潤いができたとはいえホームズの存在が他の文学作品を書く妨げになると考え「最後の事件」でホームズを宿敵モリアーティー教授と共にスイス、ライヘンバッハの滝壺に落としてしまう...。
ドイルはこれで一件落着と考えたようだがその反響はもの凄く、母親にもなじられた。そして熱狂的な読者は喪章をつけてロンドンを歩き強迫まがいの手紙も多く届いたという。
結局もう書くまいと思っていたホームズ物を復活させるわけだが実際にドイルが生んだ小説のキャラクタはホームズだけではなく「失われた世界」に登場するチャレンジャー教授なども大変個性的で魅力のある人物である。しかしホームズとワトスンは別格だった...。
なお「失われた世界 (The Lost World)」は恐竜ものの元祖であり、映画「キングコング」誕生などにも大きな影響を与えたと共にあの「ジュラシック・パーク」へと繋ぐ原点となっている。ちなみに余談ながら私は先般イギリス国営放送が2002年に映像化した同名作品を観たが、実に面白かった...。
進化論を信じない牧師役にあの刑事コロンボのピーター・フォークが演じていたのも印象深かった。

さて本稿は作品の講釈の場でないからこれ以上深入りはしないが、ドイルも1人の人間であり表向きは快活で正義感が強いスポーツマンだったものの子供の頃からの家庭環境は決して恵まれたものではなかった。
父親がアルコール依存症を発端として精神病院へ入院を余儀なくされ、一家の家計を助けるため大学在学中に捕鯨船の船医として働いたりする...。その後級友と診療所を共同経営するも喧嘩別れし、あらためて眼科を学んで診療所を開設するが繁盛しなかった。

こうした若いときの状況は以前ご紹介したDVD5枚組の「コナン・ドイルの事件簿~シャーロック・ホームズの誕生秘史」にも恩師ベル博士との交遊を軸にドイルの苦悩が描かれている。
またこれまた余談ながら今般本書「コナン・ドイル伝」を読みあらためて「コナン・ドイルの事件簿」に登場するストーリーがフィクションとはいえドイルの史実を上手に捉えていることに感心する...。
ドラマには父親を精神病院に入れる苦悩や恩師ベル博士がドイルの診療所が上手くいっているかを心配する場面がある。
特に「死者の声」ではドイルが後年心血を注いだ心霊学といったものがテーマになっているのも興味深い。
事実ドイルは近親者の死をきっかけとしたとしても晩年心霊学にのめり込み、有名なコティングリー妖精事件において妖精が実在する立場を取ったためにその評価を大きく落としたことは事実である。なにしろ1922年3月にドイルは「妖精物語:実在する妖精世界」という本まで出版した。
「.....わたしたちはわたしたちの色のスペクトルを構成する範囲内で対象を見、この世にもあの世にもわたしたちが使わない霊気が無限にある」とぶち上げた。これで心霊主義者の仲間さえドイルから離れていく...。
アメリカの友人で縄抜けの名人だったあの奇術師フーディーニーも仲違い後に「それにしてもサー・アーサー(ドイル)も老いぼれたものだ。簡単に欺されている」と言わしめたほどドイルの心霊学傾倒は深まるばかりだった...。

そうしたことも影響してか1902年にナイトの称号を受けた人物にしては、そして聖書の次に世界中で読まれているといわれるシャーロック・ホームズ物語の作者にしてはその作家としての評価が低いと思わざるを得ない。
ともあれドイルとてひとりの生身の人間であり完全無欠の神ではない。そして多くの人々と同様に長所と短所を兼ね備え、他人に知られざる苦悩を背負って生を受けているわけで心霊現象を信じる立場にいたとしてもその全人格を否定するのも酷ではないだろうか...。また功績は功績として認めなければならないと思う。
心霊学傾倒を「ドイルは狂ったのか?」とか「老いぼれたのか?」と切り捨てるのは易しいが、ドイルは実際に持ち込まれた事件を解決し無実の罪に問われた人物を助けたりと騎士道精神にあふれ、自身でチューバを演奏する音楽好きでもあった。そしてホームズの相棒であるワトスン博士とオーバーラップする正義感あふれるキャラクタの持ち主でもあり総じて常識人で好人物であったようだ。

面白いといっては語弊があるが、科学的思考を基本とするホームズを生み出して名声を得たのも、そして心霊学で名声を失ったのも間違いなくアーサー・コナン・ドイルその人だったのであり、人間とはそんな矛盾した生き物なのであろう...。
そして本書「コナン・ドイル伝」によりドイルの人生を深く知ったいま、ホームズ物語のあちらこちらに意識・無意識はともかくドイルの人生が刻まれていることをあらためて知り興味深い。

コナン・ドイル伝

ラテ飼育格闘日記(167)

ここのところ、オトーサンの膝が痛い事を別にすればラテの体調もよく毎日平穏無事に過ごしている。ラテにとって毎日2回の散歩は食事以上に大切なものに違いないが以前みたいに様々な友達ワンコに会える機会が少なくなったことでもあり、いつもの公園ばかりでなくこれまで足を向けたことがないような場所にも出向きラテの好奇心を満たすよう努力している...。

 

雪が降ったかと思えば日中の気温が20度にもなる日があったり、近隣では梅が咲き始めたりと...確実に春の気配を感じるこの頃である。
とはいえ朝晩はまだまだ0度とかマイナスの気温になる日が多く、オトーサンの散歩時は完全武装の冬支度で挑むことになる。
オトーサンは若い頃「自然などクソくらえ、コンクリートの中の方が快適」と考えていた。それは春夏秋冬変化し、私たちの目を楽しませてくれる自然は反面過酷なものであり、コンクリートに囲まれエアコンで調節された場所の方が居心地が良いという理窟だった。
だからというべきか、決して感受性が鈍いとは思わないまでも木々を愛でるとか空に浮かぶ雲を楽しむ、あるいは野鳥などを含めた生き物たちにほとんど興味を持つことはなかった。まあ、今から思えば若さとはそんなものなのかも知れない。

とはいえ今でももしラテがいなければそもそも毎日こんなに散歩などする訳がない(笑)。
その散歩の課程で名も知らない樹木や草花たちの姿を楽しみ、空という見事な自然のスクリーンに雲や太陽で不思議な模様を描く様を楽しむ気持ちが強くなっている。そしてオトーサンが住んでいる場所は東京とはいえ自然が多く残されているからだろうが、そこで出会う犬猫は勿論、野鳥やさまざまな生き物に目を見張る毎日を過ごしている。

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※オトーサンが「ラテのしっぽ雲」と名付けたダイナミックな雲が続く...


なにしろ人間の言葉を話はしないものの、散歩にはラテという楽しい相棒がいる。
彼女の猫を見るとすり寄り、鳩やカラスを追いかけ、雪だるまに一瞬ひるむ...といった一挙一同を楽しみながら時にはまさしく会話をし歩き回っているオトーサンなのだ。

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※実に表情豊かにオトーサンたちと歩くラテ


そのラテとの散歩もただ単に排泄を促すだけの散歩にはしたくないからと可能な限りいろいろと工夫をしている...。
例えば回りの安全を確認した上でだが、歩道を歩いているとき落ちている松ぼっくりのうち形がよく綺麗なものを選びラテの前で軽く蹴ったりする。
普段歩いている時にそうした松ぼっくりに飛びつこうとする際、オトーサンは危ないからと禁止することが多いのでラテは喜んでその松ぼっくりを咥え、前足で押さえて弾き...それをまた追いかける...といった遊びをする。
そんな時にはオトーサンも少々脇に逸れた松ぼっくりを蹴ってラテの前に置いてやるといった具合だ。まさしくラテとのサッカー遊びである。

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※最近立ち寄るようになった公園には美しいカワセミに出会える。写真はそのベストショットだ


また車の侵入がなく道幅も広く人通りがない道では巻き取り式のリードに替え、5メートルいっぱいに伸ばして歩かせてやる。
普段はオトーサンの右側あるいは左側に着いて歩かせているのでこれまたラテは開放感からかはしゃぎながらオトーサンから遠ざかる。しかしオトーサンが「ラテ!」と呼びながらリードをチョンと引けば戻ってくる。
勿論他のワンコと遭遇しそうな時にはリードを巻き取るが、砂場がある公園などではそのリードをいっぱい伸ばしたままでラテは走り回る...。
動き回った...歩き回った後には近くにあるベンチで数分の休憩をとり、ラテにはペットボトルを取り出して水を飲ませる。
ラテが喉を鳴らしながら美味しそうに水を飲んでいるその表情を眺めてオトーサンは疲れが癒されるのだ(笑)。

途中知っている方とお会いするときもあるが、それがラテの好きな方ならラテは大げさなボディランゲージで喜びを表し、隙あらば飛びついて口元を舐めようとする。
そして時には「ラテちゃ〜ん!」と子供達に囲まれ、複数の子供たちから同時に「ラテ...お手!」「ラテ...伏せ!」「ラテ...こっち向いて!」と言われてどうしてよいか分からずドギマギしながらはしゃぐラテを眺めるのもオトーサン幸せのひとときである。
それに女の子たち(小学生)は本当に面白い...。
ラテに頬ずりしながらオトーサンに「ラテちゃんの誕生日はいつなの?」と聞く。
オトーサンは「6月10日だよ。ただし子犬のときノラだったから本当の誕生日は分からないけどオジサンたちが決めたんだ」ときちんと説明...。
女の子は「ふうーん...6月なの?ではまだ先だけど..さ、ラテちゃんの誕生日には首輪につけるお花をプレゼントするよ」と可愛いことをいってくれる...。
まあまあ、当日までそんなこと覚えているとは思わないけどオトーサンはその気持ちが嬉しくて思わず「ありがとう。楽しみにしてるよ」と答えた。すると今度は「オジサンの誕生日はいつなの?」とこれまたいきなり話をこちらに振ってくる(笑)。
「オジサンも6月なんだ」というともう1人の子が「うちのオトーサンも6月...一緒だあ」と笑顔。
オトーサンは思わず「6月生まれのオトーサンは皆いい人だよ」とウインクしながらいうと「うっそだあ~」と友達たちと笑い合う。
その間、ラテはその環に入ってきた男の子の膝に前足を乗せ口元を舐め続けている(笑)。

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※噴水のある公園では久しぶりにコーギー犬のアポロちゃんと会うことができた


本来なら友達ワンコたちと思う存分駆け回るのが一番なのだろうが、最近ではそうした機会が少なくなったもののこうした子供達に可愛がって貰えるラテは本当に幸せものである。
ともかく「犬も歩けば...」ではないが、さまざまな場所を歩き回ることがラテの喜びに通じるわけで、少しずつ新しい場所、行ったことのない公園を巡るよう心がけているオトーサンなのであった。

スティーブ・ジョブズにとってiPadとは?

Appleが生み出した製品はApple II以降その大半を手にしてきたがiPhoneを別にすればiPadほど期待が膨らむ製品はなかったように思う。何しろ当事者のスティーブ・ジョブズ自身 iPadに対して「これは、私がこれまでやったことの中で最も重要な仕事」といった意味のことを発言したというのだから...。しかし大方は「何を取って付けたようなもの言いだ」と思うかも知れない。

 
iPadが正式に発表される以前、さまざまな噂とリークらしき情報が飛び交ったがそのひとつに TechCrunch に載ったジョブズのコメントが注目を浴びた。
それは近く発表されるであろうApple製タブレットマシンについて「これは、私がこれまでやったことの中で最も重要な仕事である」と発言したという...。そしていかにジョブズがこの製品に入れ込み興奮しているかという話が伝わってきた...。
自社の新製品を評価するのは当然だとしてもマルチタッチインターフェースと10インチほどのサイズの液晶モニターを持つタブレットマシンにしては大げさではないかと思った反面、ジョブズがそう言うのならどれほど画期的な製品がリリースされるのか...という期待も大きくなった。
言葉通りに捉えればMacintoshはもとより、iPodやiPhoneも次のタブレット登場の前座だとなればそれは確かに凄い製品に違いないと...。

まあ、こうした情報はApple側の意図的リークも含め、話は半分に聞いておく必要があるが、多くの方々にとって意外かも知れないしそうしたニュースを短絡的に聞けば「なにをまた都合の良いもの言いだな」と思うかも知れない。何故ならそれまでAppleはこの種の製品開発を拒むポーズをとり続けてきたからでもある。
しかし...あまり知られていないようだが実のところポータプルなマシン開発の夢は1980年代すでにスティーブ・ジョブズが強く願っていたことなのだ。
確かにiPodならびにiPhoneといった製品を経てiPadというタブレットマシンが登場したわけだが、ジョブズは単純な思いつきでiPad開発を始めたのではなくパーソナコンピュータのひとつの完成形としてのマシンを模索していたと考えても無理はないのだ。

ところで単に “持ち運びが可能” というマシンならApple IIだって...そしてMacintosh 128Kだって持ち運びは可能だ(笑)。
事実専用のキャリーバックにMacintosh 128Kを入れ電車に乗り多くの場所に持参したこともあったが、いやはや実に重かった...。
ただしAppleが本格的に携帯可能なマシンを開発した最初の製品はApple IIc ということになろう。
1984年にMacintoshと同時に発表されたこのマシンは “Apple II” の冠がついてはいるがすでにスティーブ・ウォズニアックの意図から外れスティーブ・ジョブズならびに当時のCEO ジョン・スカリーの臭いがついたマシンだった。
なぜなら本体は小型化のために拡張性は失われただけでなく実は馬鹿でかいACアダプタとグリーンモニターを考えれば携帯性に優れたマシンとは到底言えなかった。無論液晶のモニターも用意されたものの表示が狭くTFT液晶ではなかったこともあり不評だったしその5インチ・フロッピーディスクはエラーが多くかつ従来のApple IIソフトの中には動作しないものも生じた。
私はリリースの時系列通りではないもののApple II、Apple II J-PlusそしてApple IIeを手に入れたがApple IIcは買わなかった。
その理由のひとつは当時持ち運びするといったコンセプトをそれほど必要としなかったこともあるが、Apple IIを使ってきたユーザーとしてApple IIcの評価を低く考えていたからに他ならない。

さてApple IIシリーズはともかくMacintoshの登場以来最初の携帯性を謳ったマシンはご承知の通りMacintosh Portableである。
もともとコンピュータを携帯するといったコンセプトは1972年代にアラン・ケイが提唱したあのDynabookに行き着くわけだが、コンピュータメーカーは多かれ少なかれその小型化を目指して研究開発を続けてきた。しかし時代の壁は厚く当時の一連の製品達は現在から観れば笑止とも思えるものも多かった。
1982年にジョブズはMacintoshデザインにスノー・ホワイトのデザイン構想を推し進めたが、当時ジョブズはMacintosh開発チームの人たちに「デスクトップMacは単に暫定的なものに過ぎない」と言っていたという。そして彼の目標は1986年までにブックタイプのMacを世に出すことだったのである。
事実フロッグデザイン社ではジョブズの意向にマッチングするポータブルコンセプトのデザインを延べ数百時間もかけて進めていたという。
何だか暫定DynabookがAlto + Smalltalkだったことを思い出すような台詞だが、理想家肌のスティーブ・ジョブズだからして1984年にAppleのフェローとして向かえたアラン・ケイの影響を色濃く受けていたと考えても良いのかも知れない。

1985年にジョブズがAppleを去った後、ジャン=ルイ・ガッセーがジョブズの夢を引き継ぎ、1986年秋までにMac SEを再構築して6ポンド程度の重さと8.5×11×1.5インチほどのサイズのマシンを仕上げるという企画を推進したものの当時のAppleには本格的なポータブル開発のノウハウが無く四苦八苦することになる。
先のガッセーはビジネス・エグゼクティブにターゲットを絞りポータブルとはいえ妥協のない完璧な製品を作るよう指示したがそのコンセプトが明確でなかったツケが表面化した結果馬鹿でかいMacintosh Portableとなった。
確かにMacintosh PortableはApple初のバッテリーで駆動するマシンであり取っ手もついていたがその重さは7.2kgとMacintosh 128Kの7.5kgとほとんど変わらなかった。
その後Appleが本当の意味でポータブルなマシンを開発したのは1991年12月に登場するPowerBook 100を待たなければならなかったわけだ。

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※Apple初のノートパソコンとして誕生したPowerBook 100とハリボテiPad


スティーブ・ジョブズにしてみれば技術的あるいはコスト的に解決できる時期を探り機を熟すのを待っていたのだろう。
「これは、私がこれまでやったことの中で最も重要な仕事である」という発言も、iPhone OSも含みハードからソフトまでそのすべてに彼がたずさわってきた自負がそう言わしめるのかも知れないし、文字通り長い間の夢がかなった充実感があるのだろう。ましてや企画ならびに開発途中で彼は腎臓移植手術を受け命の危機も体験したからこそ余計にこのiPadに入れ込む気持ちが大きいのかも知れない。

【主な参考資料】
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」(上) アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊

ラテ飼育格闘日記(166)

2月2日の朝、前日夕刻からの雪が積もり今年初めてまともな積雪となった。雪景色は暖かい室内から眺めている分には美しいが、路面は滑るし交通機関には影響が出るなどあまりありがたいものではない。しかしラテにとっては素晴らしく嬉しいものらしく、その朝の散歩時はオトーサンが差し出すオヤツに目もくれず雪の感触を楽しんでいた。

 

ワンコにも寒さに強いワンコと弱いワンコがいるようだが、ラテは寒さに強いようでまさしく「犬は喜び 庭駆け回り 猫はこたつで 丸くなる...,」の歌どおり、雪が積もっている場所へ場所へとオトーサンを連れ込む(笑)。
朝の散歩はまだ暗く歩きはじめてしばらくは懐中電灯が不可欠だが、幸い当日の朝は積雪はかなりのものだったものの凍結しなかった。
オトーサンは路面が見える部分を探してなるべく歩きやすさを求めるわけだがラテは逆で、なるべく積もっている場所へ場所へとリードを引く。それに雪の感触が嬉しいのか、あるいは雪がいつもの臭いを消してしまったからなのかは分からないが熱心に積雪に鼻面をつけてクンクンし、いつもの「オヤツ頂戴」という行為を忘れているほど熱中している。

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※積雪の早朝、懐中電灯をつけて歩く。正面には皎々と照る月が...


オトーサンはさすがに素足で歩き回るラテを「冷たくないのか」と心配するがラテは嬉しそうなのだ。そしてまだ誰も足跡を残していないような場所を見つけるとお尻を上げ、頭を伏せる例の「遊ぼう」ポーズをオトーサンにして駆けずり回る...。
しかし積雪の上に真新しいラテの足跡がついていくのを見るのもなかなか楽しいものだ。
本当ならいつもより早く自宅に戻りたいと考えていたオトーサンだが、ラテのあまりにも嬉しそうな姿を見て延長タイムを許してしまった(笑)。

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※雪の感触が嬉しいのか、オトーサンを遊びに誘うラテ


それは良いが、帰ったら四つ足は勿論お腹もビショビショ...。なぜそんなに雪が好きなのかなあ?
そうそう...雪と言えば...というか雪からの連想だが先日レンタルが始まった「HACHI ー 約束の犬」をDVDで観た。
無論あの渋谷駅を舞台にした実話「ハチ公物語」のリメイクでありリチャード・ギア主演のハリウッド映画だ。したがってストーリーの大方はわかってはいるものの愛犬家の1人として理窟でなく号泣してしまう...。だから映画館で観るのを躊躇したのだが、オトーサンの涙顔をラテが不思議そうな顔で眺めていた(笑)。

「HACHI ー 約束の犬」は昨年(2009年)8月8日にロードショーされたもので今年1月27日にDVD&Blue-rayがリリースされ同時にDVDレンタルが開始された。
このリメイク版「ハチ公物語」の舞台は架空の街、米国東海岸ヘッドリッジ駅。その午後5時、駅にはいつも君が待っていた...。
嗚呼、オトーサンはこの「その午後5時、駅にはいつも君が待っていた...」というコピーだけで視界がぼやけてくる(笑)。
ともかく映像が美しい。
大学教授のパーカー・ウィルソン(リチャード・ギア)が旅行から戻って自宅に帰ろうとするとき、迷子になったハチとはじめて会うシーンで早くも涙。
そして雪の降るヘッドリッジ駅で健気にも待ち続けるハチの姿は...なんといってよいのか、犬という生き物がいかに人間を信頼してくれるものかということに心を動かされる。
一般的にはハチを単純に二度と戻ってこない飼い主を待ち続ける可哀想なワンコの姿と見るかも知れない。しかしもしかしたらハチは素晴らしく幸せな一生を過ごしたのかも知れないとも思う。
まずそれほど信頼するそして愛するパートナーと出会ったということはハチ最大の幸せだ。
ハチは待つことが楽しくて嬉しくて仕方がなかったのかも知れない。笑顔のパーカーを待つことが...命の限り待つことこそパーカーに対してハチに出来る友情と信頼の証だったのだ。
とはいえ本映画は決して子供だましの作品ではないし、いたずらに観客を泣かそう泣かそうという絵作りではない。しかし悲しい別れとハチの健気さにどうしても心を揺さぶられてしまう。
それにしても、悪役が登場しない映画というのも実に心地よく良い物だと感じた。

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※大好きなマキちゃんと何を話しているのか(笑)


パーカー・ウィルソンの年齢設定は不明だが、考えてみれば...リチャード・ギアとオトーサンは1歳しか違わない。まあ年齢は別にしてもオトーサンだっていつ急病になるか...事故などで帰らぬ人となる可能性もあるだけに一面雪に覆われた公園で誰か友達ワンコが来ないかとお座りをして待つラテを見ているとハチの映像とダブってくるのだ。
ティッシュで鼻をかんでいたオトーサンを見てそばで遊んでいた馴染みの女の子が「おじさん風邪引いたの?」と気遣ってくれたが、オトーサンが鼻をすすっていたのは寒いからとか風邪をひいたわけではなかったのだ...(笑)。
自宅に戻り、雪でビショビショになっているラテの体を丁寧に拭き、新しいタオルで乾かしているとラテもオトーサンの腕を舐めあげてくれる。
その暖かくザラザラした感触がなんとも心地よい。
汚れたラテの体をきれいにするのは大変なのだが、こうしたいつもの変わりのない毎日こそオトーサンにとってラテと心がつながっていると思える至福のひとときでもある。

拭き掃除が終わり、リビングに行けと指示するとラテはオトーサンの指先をぺろりとしてから大人しくリビングに向かう。
後始末をしながらラテを眺めているとハウスの中やマッサージチェアの上などにあったマットやタオルを口に咥えて床に引きずり落とし、器用にベッドメイキングしてからその上に横になった。

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※床にタオルケットを敷き、ベッドメイキングするラテ


オトーサンはラテのそうした一連の行為を感心しながら眺めつつ、あちらこちらにガタがきているとはいえ毎日散歩できる幸せを感じるのだった。




白昼夢〜母とカレンダーの想い出

記憶というものは本当に興味深い...。何かのきっかけでスイッチが入り、それまでまったく忘れていたシーンがまるでドラマの再放送のようにみごとに蘇る...。何しろ男子と母親という関係は距離が近いようで遠く、いまだに私は母のことをよく知らないようなのだ(笑)。

 
母の若いときのこと、父との出会いなどなどに関し私はほとんど知ってはいない...。
両親というものは子供にとって絶対であると同時に存在を冒さざるものであり神のような存在だ。だから知っているようでその実は1人の人間としての母のことなど知りたいと思ったことがなかったし、母自身も男の子供に自分の人生のあれこれを語ることなど恥ずかしい事と思っていたフシもあった。
だから、面白いというか...女房の方が私より母のことをそして少年時代の私のことを知っているくらいだ。なぜなら女房を気に入ってくれた母は一緒に行った旅行の機会などをとらえ断片的に自分の若かりし頃のことや私の子供時代の苦労話などなどを語っていたようなのだ。

ところで私はいわゆるカレンダーというものを見るとそれこそパブロフの犬...条件反射のように割烹着を着た母を思い出すのである。
昭和30年代、一家は六畳一間のアパートに家族5人で暮らしていた。いま思えば現在の六畳よりは随分と広かったはずだが、それでも決して余裕のある生活ではない。そして事実当時は父の仕事が定まらず母も随分と苦労をしたらしい。

さて、今でこそ私たちはカレンダーというものは自分の気に入ったものを買って使うものだという思いが強いだろうし、パソコンや携帯電話の普及でそもそもが部屋の中にカレンダーを吊さなくなっているものと思われる。
我が家とて同様でまともなカレンダーは愛犬が行く美容室でもらったものがひとつあるくらいだ。

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※カレンダーも無いと不便なことがある...


しかし当時はクリーニング店、酒屋、八百屋などが「御用聞き」と称して毎日各家庭に立ち寄り注文をとっていた時代だった。
無論コンビニやスーパーマーケットはなく商店街まで買い物に行くしか術がなかった当時の家庭ではそうした御用聞きのお兄さん達に依存していた部分も多かったのである。
「いつもの醤油1本と砂糖一袋お願いします」といった依頼だけで夕方には配達してくれる利便性に御用聞きは生活に密着していた。
そうしたお店の利用者は盆暮れともなるとお店の名入りの手ぬぐいやカレンダー、湯飲み、あるいはお皿といったサービス品の恩恵を受けることになる。
「いつもありがとうございます。また宜しくお願いします」という気持ちである。
物のないそして貧乏な我々にはそうした品物も実用品として使うありがたいものだった。無論カレンダーも買うものではなくどこかの店名とか会社の名前が入ったものを壁に掛けるのが普通だった。

ある年の暮れ、日差しが当たっていた円いちゃぶ台の上に母は1枚の画用紙を広げ私に「じゅん、クレヨン貸してちょうだい!」と言った。
父は若い頃から油絵を描いたらしくそれらの道具もあったし事実興が乗るとチラシの裏などに絵を描いてくれたその絵は子供心に上手いと思っていた。しかし音楽好きではあった母がまともな絵を描いたという記憶もなく「何するんだろう」と思いながらも私は自分で使っていたクレヨン一式を母に渡した。

私は母の横に座り事の成り行きを眺めていた...。
母は1枚の真っ白な画用紙を縦に置き、真ん中ほどに横線を画いて画用紙を2分するとその下部分を小さな枠で埋め始めた。
それは1月のカレンダーだった。
母は大変文字が綺麗だったから日付を書き、曜日を入れたカレンダーの日付部分は子供心にもなかなか綺麗に仕上がっていた。

次に母は用紙の上半分に海岸らしき砂浜の絵を描き始めた。...といっても簡素な線描写であったが...。
そして大小2匹の蟹を赤いクレヨンで書き入れ、最後に黒のクレヨンに持ち替えて「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」と石川啄木の歌を書き入れた。
無論それが啄木の処女詩集「一握の砂」の冒頭にある歌であることは後で知ったわけだが、母は石川啄木の歌が大好きだったらしい。

歌を一気に書き込むと母はそれを声に出して読んだ。何度も...。
歌の意味など知る由もない私だったが、母の声はどこか寂しそうだった。しかしそのときの私は「母も興が乗れば絵を描くんだ」程度にしか思わなかったが後に大企業のサラリーマンとなり、盆暮れに届けられる文字通り大量のカレンダーの山を整理していたときフトあの時の母の姿を思い出し急に涙が溢れてきた。
あの日、何故母はカレンダーを自作したのかという理由が電光のように閃き私は倉庫で1人座り込んだ。
カレンダーを自作したのは趣味でも手慰みでもなく何と言うことはない...あの年の我が家には年末に御用聞きらから届けられるカレンダーさえもなかったのだ。
1枚のカレンダーさえも手にできなかった母の苦労を思うと今更だが心臓をわしづかみされたように苦しい気持ちになった。

当時の我が家はとにかく貧しかったし食べ盛りの3人の子供を食わすだけで両親は大変だったに違いない。だから必然的に御用聞きのお兄さんたちへの依存も少なくせざるを得なくなったのだろう。
勿論酒屋も八百屋も、ましてやそば屋なども注文のない家庭に盆暮れの付け届けはしない(笑)。
しかし昭和30年代の小さな部屋...それも貧乏暮らしの一家にもカレンダーの1つくらいは生活に不可欠なアイテムだったに違いない。
あのとき、どんな気持ちで母がカレンダーを自作したかを思うとき、私は今でも涙を禁じ得ないのである。

まるでウロボロス〜Alto/DynabookからiPadへと巡る環

前回 iPadはアラン・ケイの提唱したDynabookに限りなく近づいたのではないか...というお話しをした。まあ賛否両論あって当然だがもし私のイメージが大方のところで間違っていなければまさしく歴史はぐるっと回って回帰したことになる...?

 
「ウロボロス」というイメージをご存じだろうか。これは蛇が自身の尻尾を咥えて環のようになっているイメージで表されるが、このイメージこそ錬金術の印象...固有の形象であり永遠あるいは完全性のシンボルなのだ。

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※永遠、完全性のシンボル「ウロボロス」


iPadを考えているとAppleのプロダクトはまさしくその「ウロボロスの環」よろしく30年の歳月を経てAltoおよびSmalltalk...すなわち暫定Dynabookを機縁にしてLisa、Macintoshを開発し、再びiPadというDynabookに限りなく近いものに...すなわち回帰したように思えるのだ。

当サイト「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」に詳しいが、市販されたパーソナルコンピュータとしてはじめてGUIを採用したLisaは1979年にゼロックス・パロアルト研究所(PARC)でAltoとSmalltalkのデモを見てスティーブ・ジョブズらが得たインスピレーションが開発のきっかけと言われている。

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※ゼロックス・パロアルト研究所(PARC)で見たAltoならびにSmalltalkのデモからインスピレーションを得て開発されたLisa。写真は筆者所有のLisa 2/10


そのLisaテクノロジーは多少精査されてはいるもののこれまたスティーブ・ジョブズ指揮のもとMacintoshに継承されたことはご承知の通りである。

Macintoshは勿論デスクトップ機であったが、Appleはその後持ち運びを意図したマシンを企画したものの馬鹿デカイMacintosh Portable(1989年)を経てやっと本格的なノート型モデルMacintosh PowerBook 100をリリースする(1991年)。

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※Macintosh Portable (上)とPowerBook 100 (下)


その後、ジョン・スカリーの時代にはNewton MessagePad H1000を製品化(1993年)するがビジネスとしては成功しなかった。そしてNewtonプロジェクトはスティーブ・ジョブズがAppleに復帰し経営の実権を握るとその開発は即お払い箱となったこともまだ記憶に新しい...。

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※Newton MessagePad H1000


そもそもスティーブ・ジョブズはMacintosh 128Kの販売が開始された1年後(1985年)にAppleを追われたわけで、Appleへの復帰翌年の1998年5月にあのiMacを発表する間当然のことながらAppleのプロダクト開発には無縁だった。
ただし、iMacにしても確かにジョブズの仕事だったものの企画自体はそれ以前にスタートしていたという話もあり、当時のMac OSも関係しジョブズにしてみれば100%やり甲斐のある仕事ではなかったのかも知れない...。
言ってみればApple IIはスティーブ・ウォズニアックのマシンだったし、Lisaも途中で開発メンバーから外されたジョブズだったから本当の意味で自分の意図した通りのパーソナルコンピュータを作ってみたいという意思は誰よりも強かったと思われる。その強い意思がMacintosh 128Kを生んだとも言えよう。したがってApple復帰後現在もいわゆる世界を変える...宇宙に痕跡を残すような画期的なプロダクトを生み出したいという情熱はあいかわらず強いに違いない。

そうした意味から考えるとNeXT時代に精魂かけて開発したNeXT StepをMac OS Xに移植し、それをベースに開発したiPhone OSを乗せたiPadはハードウェアおよびソフトウェア共にジョブズが真に「自分のマシン」と豪語できるプロダクトなのかも知れない。
それだけ彼がiPadに入れ込む理由のひとつがここにあるのではないか...。そして蛇足ながら記せばiPodやiPhoneも彼の業績ではあるものの言葉の綾みたいだがこれらはパソコンではない。

さらに暴論が許されるなら...そしてもしiPadがDynabookそのものとは言わないまでもアラン・ケイのビジョンに限りなく近い製品だとすれば、ジョブズの思いはケイらの開発したAltoをきっかけにして膨らみ、紆余曲折を経たものの「ウロボロス」のごとくまたAltoならびにSmalltalk...すなわち暫定ダイナブックの夢に回帰したことになる。

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※iPadはDynabookなり得るのか...


また実際のiPadそのものもドック付きの専用キーボードに立てかけたその姿は縦型のモニターだからこそなのか...どこかAltoを彷彿とさせるが、それは考えすぎであろうか(笑)。
それにしてもアラン・ケイはiPadをどのように評価するのだろうか。もしかしたら「批評するに足りる最初のタブレット機だ」とでも言うのだろうか(爆)。
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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員