ラテ飼育格闘日記(204)

今年は例年と比べると少々遅くなったが、ラテを5種混合ワクチン接種のために動物病院へ連れて行った。最初の頃ラテは動物病院がどんなところか分からなかったからか、嫌がるものの暴れたりはしなかったが最近は向かう途中で脱糞したり、待合室でも脱出しようと強い抵抗を試みるようになった。


動物病院へ予約するため診察券を確認したところ、5月に狂犬病予防注射のために連れて行った以来のことだった...。幸いその間トラブルがなかったわけであり肉球を咬むことは相変わらず繰り返しているもののまずまず健康で過ごしてきたことを再確認する...。
さて、日曜日の午前九時、病院に予約の電話をいれて今日の11時くらいに行きたい旨をいうが、当日の予約は少々お待ちいただくことになるかも知れませんとのこと。まあまあ日曜日ということもあるのかも知れないが随分と繁盛しているようで...なによりである(笑)。

しかし例年と比べて今年は遅くなってしまったこともあり、思い立ったら吉日と午前11時に予約を入れ出かけることに...。
目的の動物病院は自宅から徒歩約30分ほどのところなので10時半にラテを連れ出し、女房と共に散歩を装って歩くが今回は途中で脱糞するとか強くリードを引いて拒絶の様子を見せることはなかったものの、病院に入ってからがなかなか大変だった。

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※ラテはお陰様で太めではあるものの元気です(笑)


すでに数組、順番待ちしている待合室でラテが「ピー」と鳥の鳴き声のような声を出してドアから出ようと這いつくばる。しばらくオトーサンはラテの強い引きを制御していたが、あまりにもラテが引き続けるので女房を待合室に残してエントランスの外で待つことにした。
何だか年々というか回数を重ねるごとに病院での抵抗が強くなっているようなのが興味深い...。無論回数を重ねればそれだけいろいろと嫌なことをされ、それらを学習するわけだから当然なのかも知れないが以前はこれほどの抵抗はなかったのである。

病院のエントランスは当然のことながら様々なワンコやニャンコと飼い主さんたちが嬉々こもごもの思いを持って出入りする。その度にラテは気になるのかそれらの人たちを目で追うが感心に吠えたりはしなかった。いや、吠える余裕が無かったのかも知れないが...。
ガラス越しに女房が首を振り、まだだというサインを送ってよこすが10分ほど待ってからだろうか、やっと順番が回ってきた。後で女房に聞いたところでは「予約待ちの松田さん」と呼ばれたそうで、我々より先に来院していた人たちもいたそうだから一応予約の意味はあったといえる。

嫌がるラテを診察室に入れ、診察台に20kgの暴れるワンコを乗せるだけでも一汗かいてしまうが、乗った瞬間に毎度のことだが両前足をオトーサンの肩に乗せて「降りたい!」とにじり上がる。それをリードを引き、なだめながら診察台から落ちないように気を配るオトーサンはまったく大変である。
複数ある診察室のひとつからだろう、ニャンコの「ウワ~オン、ギャア~ア」といった悲痛な鳴き声も聞こえてくる中、結局お尻に体温計を入れて体温を計り、5種混合ワクチンを打ち、心音を聴診器で確認するというすべてのことはその格好のままで行われたのだ(笑)。ただし注射をするときも体温を計るときにも一言も発しなかったが、ただただ降りたい...嫌だとオトーサンの肩ににじり上がるラテなのだ。

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※ハート型の石に願をかけるラテ(ウソ)。本当は猫を追いかけているところ...(笑)


時間にして15分ほどか...診察室から出たがラテの心境を考慮してオトーサンはラテをまたまた外に連れ出して待つことにする。支払いを済ませて出てきた女房に聞いたところワクチンは8,000円、そしてついでにと購入したノミ・ダニ退治の薬品(プラクティック)3本が4,800円と消費税で計13,440円の出費となった...。まあ、愛犬の健康のためだから仕方がないし、万一病気にでもなったら桁が違う医療費がかかるかも知れないわけだが、オトーサンは「後360円足せばiPod nano買える...」とフト邪念が頭をよぎる(笑)。

ラテは病院での行動を忘れたかのように女房の足下に寄り添って笑顔で歩いている。
そういえば時刻は丁度昼時だし、出直すのも面倒だからこのまま何かを食べて帰ろうということになったがラテ共々座れるところは近場には2カ所しかない。
ひとつは駅ビルにあるタリーズコーヒーのテラスだが無論昼時だからして席が空いているという保証はない。またタリーズはラテとよく立ち寄る場所でもあるから今回はもうひとつ、普段立ち寄らないケーキ屋さんに行ってみようということに。
そのお店は昨年も動物病院帰りに寄ったが、店内の席とは別にテーブルがひとつだけ置いてあるテラスがあり、ワンコと共に落ち着ける場所なのだ。

動物病院から一級河川沿いに15分ほど歩いたが幸いそのひとつしかないテーブルは空いていた。
オトーサンはラテのリードを自分の足にしっかりと縛り付けている間に女房は注文をしに店内に入る。我々のいる場所は店の外壁に沿った店外でありテラスの橋はすぐ歩道なので人通りが結構あるのだ。それに日曜日だったこともあるのだろう、親子連れも多くたまたま大人しくしているラテを見て「大人しくて可愛いワンワンだね」などと指さしながら子供をあやしている。
ラテは店の人がコーヒーを持ってきてくれたときに少し吠えたものの、パンやケーキの美味しい臭いが充満している場所だからか終始ニコニコ顔なので知らない人には大人しいワンコに見えたのだろう(笑)。

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※ちょっとお洒落なお店なのです。キッチュとクロワッサンは大変美味しかった


テーブルにクロワッサンとキッシュ、そしてコーヒーが並ぶとラテは盛んに女房へ「頂戴」アプローチを始める。オトーサンたちの昼食でもあるし、カロリーが高いものを食べさせてはいけないのだがそこは星がきらめく視線で見つめられると望みは叶えてやりたくなる困った飼い主たちである(笑)。
先ほど病院で体重に関しても注意されたばかりなのに女房はキッチュの小さなかけらを当然のごとくラテに食べさせているではないか...。
まあまあ、先ほどは嫌な思いをさせたからその埋め合わせの気持ちもあるがオトーサンやオカーサンと一緒のものをひとかけらでも食べるとラテも幸せなのだ。

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※テーブルの下でオカーサンの一挙一動に注目しているラテ


ともかくワクチン接種をした日はいつも通りの散歩は問題ないが過度な運動はさせない方が良いと言われたことでもあり、夕方の散歩は近隣の駅までいき女房の買い物を待つという大変軽いものとなった。

ラテの様子を見ていると狂犬病予防注射の時ほどではないがやはり少し怠いのか、家に戻るとすぐに横になっている。これで病気や怪我がなければ来年の春まで病院へは行かなくて済むわけだ。しかしちょっと心配なことは相変わらず肉球を囓って血をにじませてしまう点だが、毎日を元気で過ごして欲しいと願いながらオトーサンは前足の上に顎を乗せ目をつむっているラテの頬にチューをしたのであった。

カタログから 薄幸のマシンApple III を考察してみよう...

AppleがMacintosh以前にリリースしたパーソナルコンピュータといえば、Apple Iは勿論Apple II、Apple IIIそしてLisaという具合になる。これらの機種の内、私にとって一番影の薄いマシンといえばApple IIIなのだ(笑)。まあ、Apple Iは今となっては高嶺の花過ぎるが幸いLisaは完動品が手元にあるしApple IIは自身で使ってきた経緯があるもののApple IIIは実物を触ったことさえない...。

 
今般、Apple III関連のカタログを3種類入手した課程でいくつかの発見もあったので、これまで具体的に触れることはなかったApple IIIについて考えてみようと思う。

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※Apple III


Apple IIIがリリースされたのは1980年5月19日にアナハイムで開催されたナショナル・コンピュータ・カンファレンスにおいてだった。そして当初は7月に出荷するとされていたものの実際製品が出荷されたのは秋に入ってからと随分と遅れる結果となった。
開発には2年ほどかかったようだが開発の陣頭指揮をとっていたのは勿論スティーブ・ジョブズであった。しかしApple IIがウォズニアック1人の仕事であったことと比べるとApple IIIはジョブズにより集められたチームで開発が進められたがそのコンセプトはビジネス市場をターゲットにしたものだった。というよりApple IIが持っている家庭ならびにホビー向けというイメージとは隔絶し、よりパワフルでプロフェッショナル向けの高性能マシンを目指したのがApple IIIだった。
しかし今回あらためてこのApple III誕生の経緯を調べているとこの時代のAppleは失敗に学ぶことはなく同じような失策を繰り返していることがよくわかる(笑)。

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※Apple III発売と同時に1980年製作されたカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」表紙。このカタログにはあのProfileハードディスクの記載はない


Apple IIIにはApple IIのエミュレーションモードも備えていたが、Apple III 用に開発されたソフトウェアでこそその実力を発揮し、Sophisticated Operating SystemというOSやリアルタイムクロック、80桁×24行表示、最大560×192ピクセルのモノクログラフィックスモードを活かすことができた。しかし結果論だがこのApple III用としてのソフトウェアも多くはなくハードウェア販売の後押しにはならなかった。
CPUはApple IIの2倍にあたる2MHzのクロックで動作する6502Aが採用され、RAMは最大128KB搭載でき、容量143KBのシュガート社製5.25インチフロッピーディスクドライブを一基内蔵していた。
またキーボードはテンキーが組み組まれていたこともあって重いと同時にApple III本体のサイズはApple IIと比較するとかなり大ぶりな姿だった。

当時ウォズニアックはこのApple IIIの開発には携わっていなかったという。Apple IIとIIIは狭いフロアの中で開発が進められていたためウォズニアックもその進捗状況を見ていたものの開発の主導権はエンジニアたちではなくスティーブ・ジョブズやマイク・マークラといった管理職や経営陣だったことが問題を多く引き起こす元凶だった。
なにしろジョブズは相変わらず昨日指示したことを今日は撤回するといった言動が続き開発に遅れを生じさせる。その上、ジョブズはApple IIIに冷却ファンは必要ないとしケースのサイズもエンジニアたちの要求を無視して決めてしまう。そうした原因も含めApple IIIは電源を入れたままにしておくとマザーボードは熱くなりチップは僅かながら膨張してソケットから抜け電源が落ちたり動作不良を起こした。さらに部品同士をつなぐ短いケーブルは金メッキされていないことで腐食が進み問題をさらに大きくしてしまう。

Appleは何としてでも自社のメインコンピュータをApple IIからApple IIIへ移行させたかった。そのためApple IIIの発表後、Apple IIに関する技術的なプロジェクトはキャンセルされ、その取り組みが禁止されたという。
文字通りApple Computer社の社運をApple IIIに託した様々な努力が続けられたが当のApple IIIはトラブルが続き売れず、結局Apple初の大失策となった。
「アップルコンフィデンシャル」によれば6番の社員番号を持つランディ・ウィギィントンの「Apple IIIは乱交パーティで身ごもってしまった赤ん坊のようなものだった。その後みんなはこの私生児に頭を悩まし、誰もが自分の子ではないと主張するんだ」という発言は当時のニュアンスを実に良く伝えているように思う。
Apple IIIは不良品の交換サービスや部品の改良などを続けたが市場に対して一度失った信頼を取り戻すことができなかった。
1983年12月、Appleは改良したApple III Plusを安価で提供したが結局1984年4月24日、この製品ラインを廃止した後、翌年1985年9月にはAppleの製品リストから消去させている。
業界ではApple IIIのOS (Sophisticated Operating System) を遭難信号と同じ頭文字から「SOS」と呼んで揶揄したという。

Apple IIIの失敗は6,000万ドル以上の損失とされたがスティーブ・ウォズニアックの個人的な試算では3億ドルに達したという。そういった時期、Appleの稼ぎ頭は相変わらずApple IIだった。Apple IIがAppleの屋台骨を支えていたのである。
ウォズニアックはその頃の印象を「1980年から1983年まで、AppleはApple IIIを最優先に動いた。Apple社ではなくApple III社といってもよいくらいだった...」と回想している。
そういえば1977年5月からAppleの社長を務め、Appleの株公開まで尽力したマイケル・スコットが1981年3月にAppleを去っている。Appleの歴史を時系列に眺めるとこのマイケル・スコットの不在が当時のApple経営の根幹をマイク・マークラやスティーブ・ジョブズの思い通りにさせてしまったように思えてならない。

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※1982年発行のApple IIIカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」表紙


ところで今回Apple IIIのカタログ類を数種入手でき、それらを比較していたときに気がついたが発表当時(1980年)のカタログ「Apple III Information Analyst ~ More Than A Worksaver 」にはあのプロファイル(Profile)ハードディスクは存在していないのである。
現在私たちが見ることが出来るApple IIIの写真の多くには後にLisaに転用されたこの5MBのハードディスクが装備されている。しかし繰り返すが1980年発売当時のカタログに周辺機器として紹介されているのはプリンタと外部フロッピーディスクドライブだけである。
ただし2年後の1982年に製作されたApple IIIのカタログ「The Apple III Personal Computer System For The Professional」にはこのシーゲイト社製ST506規格のディスクを利用した3,495ドルもするハードディスクが紹介されているが、そのリリースは1981年の11月だったようだ。

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※前記「The Apple III Personal Computer System For The Professional」に記載されているProfileハードディスク。後にLisaに転用される


この時期、IBM PCにはまだハードディスクがなかったこともあり、Appleの優位性が目立ったものの本体のApple IIIが売れなかったことでその存在意味はなくなってしまったのである。
Apple IIIはAppleにとって最初の悪夢であったし誰もがその悪夢をいち早く忘れようとした時代だったがこうした大きな失策をしても会社の経営に根本的な問題を生せず、Appleの屋台骨を支え続けたApple IIというパソコンの偉大さにあらためて敬意を表したいと思う。

そう、なぜ私がApple IIIを触ったことがなかったのか...。それは当時Appleの日本総代理店だったESD社の水島社長が「Apple IIIは高価な上にApple IIと同様8ビットマシンだしエミュレーションでApple IIのソフトも走るから存在が薄い。それにApple II以上に信頼性にかけるから取り扱わない」と判断されたからだ。この判断は正しかったわけだが、だからこそAppleの総本山であったESDでも私はApple IIIに巡り会った記憶がないのである。
まったくもってApple IIIは後のLisa以上に薄幸のマシンだったのである。

【主な参考資料】
・スティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・オーウェン・W・リンツメイヤー/林信行著「アップル・コンフィデンシャル2.5J」アスペクト刊

スペシャルイベントで発表の「Mac App Store」は世界を変える!?

Appleがスペシャルイベント「Back to the Mac」で発表したあれこれのうち、個人的に一番注目しているのが「Mac App Store」である。発表によれば90日間以内に公開されるというが、これはMacintoshの使い勝手を代えるのは勿論のこと、市場のあり方や流通形態をも変えてしまう大きな出来事となるに違いない。

 
パソコンのソフトウェアに対するとらえ方は当然と言え時代と共に大きく変わってきた。暫定ダイナブックとしてAltoおよびSmalltalkを開発研究していたアラン・ケイはその利用者が子供であったとしてもその理想形は使いたいソフトウェアを自分で作るというスタンスを考えていた。無論そうしたことが可能なほどコンピュータは人間に歩み寄る必要があるとされていたわけだが...。

1970年代後半に登場したパーソナルコンピュータにとっても状況はほとんど変わらず、後に一部オーディオカセット・テープに収録されたゲームソフトなどが売られ始めたものの現在のようにユーザーが欲しいと考えるアプリがそこいらに売っているわけではなく、基本的にはBASICなどのプログラミングを勉強してユーザー自身が工夫することが求められていた。まさしくBASICあってのパソコンユーザーという時代だった。そして雑誌にソフトウェアのプログラムリストが掲載され、ユーザーは徹夜でそのプログラムリストを自身のマシンに入力することも珍しいことではなかったのである。

その後初めての表計算ソフトとして知られたApple II用のVISICALCなどが登場しソフトウェアはハードウェアの販売促進に大きな役割を果たすと共にビジネスの対象となることもわかってきたのか、ソフトウェアを製品として流通させるパブリッシャーやソフトハウスが台頭してくる。

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※スペシャルイベント「Back to the Mac」で「Mac App Store」を発表するAppleのスティーブ・ジョブズ氏


私自身もそうした流れに押された1人だが、1989年にMacintosh専門のソフトウェア会社を設立し翌年の1990年から実にさまざまなアプリケーションを開発して世に問うことになったが、その販売形態はすべてパッケージ(箱)に収め、シリンクし、パソコンショップの店頭に並べなければならなかった。しかしまさか全国のパソコンショップに直売りするわけにもいかないからと現実にはカテナ、ソフトバンク、コンピュータウェーブ、ソフトウェアジャパンといったソフトウェア流通会社に持ち込んで販売してもらうための営業活動を行う必要があった。

その上にショップ側の客引きを手伝うためもあって秋葉原のショップ店頭の一画を使いアプリケーションの実演を請われるケースも多く、人材不足の我々は苦慮したものだった。
ともかくその前提としてパッケージには流通させるに不可欠な商品コードの付加は勿論、ユーザーに渡った際のサポートを考慮してパッケージ毎にシリアルナンバーを付けて管理する必要が求められた。

我々ソフトウェア会社はパッケージに同封したユーザー登録葉書を返送してもらうことでユーザー個人とシリアルナンバーを照合したデータベースを持ち、不正利用を防ぐことはもとよりバージョンアップ時の告知をするなどしていたが、インターネットが普及するまでは登録ユーザー全員に郵便物として葉書や封筒を郵送しなければならず、手間はもとよりコストもかかったのである。

こうした状況はいわゆるパソコン通信の台頭とインターネット普及で大きく変わっていくことになる。
日本でMacintosh用アプリケーションがダウンロード販売という形で始められ、普及し始めたときにも私の会社はいち早く対応した...。
それは1993年4月だったが、NIFTY-Serveの中にSOFTEXというソフトウェアをダウンロード販売するシステムが加わることになり、我々関係していた会社にもその対応を求められたわけだがMacintosh関係として一番に対応した会社が私のところだった。

私たちは「QTアルバム」「QTフォトカッター」そして「QTシネマ」というパッケージソフトと比較してコンパクトなMacintosh用オリジナルアプリケーションを開発して事に当たったが、残念ながらまだまだ認知されずビジネスとしては成功したとはいえなかったし、シリアル管理などの難しさを味わった...。

しかし今やiPhoneやiPadのアプリケーションはご承知のようにiTunesという基幹アプリケーションにより管理運用され、いつでも手軽にダウンロード購入できる時代になっている。したがってMacintosh用アプリケーションも理屈は同じことができるはずだし、仲介の流通企業が不用でパッケージも不用となればコスト的にも安価な提供ができる理屈だ。無論「Mac App Store」でどれほどのアプリケーションが揃うかは分からないが、これまでのApp Store同様に開発企業はもとより個人の開発者の意欲に大きな影響を与えるものと思われる。

反面、これまで海外のアプリケーションの販売代理権を取得したり、日本語のローカライズをした製品を販売してきた企業らはその存続が危ぶまれることになるだろう。それは言うまでもなく開発者側自らが「Mac App Store」にアップロードする方が告知も販売戦略もストレートでコントロールしやすいからだしユーザーの利便性も格段に良いからだ。

Appleはこれまでの批判の答えとして「Mac App Store」の発表と時を同じくし、アプリの審査プロセスに関するガイドラインを公表したが、不透明さはまだ残っているものの「Mac App Store」による販売はシリアル管理からメーカー側を解放してくれることにもなり、大変効率がよい。
なにしろ「Mac App Store」による販売は勿論、その自動アップデートにはインターネット接続が不可欠であり、ユーザー側もその環境無くしては理想的なパソコン利用ができない時代になっているから開発側はパッケージにこだわる理由は少なくなったわけだ。

したがって機が熟せば例えばAdobeとかMicrosoftといった大手も「Mac App Store」で販売を開始するだろうし、ソフトウェアの流通のあり方が根本的に変わる時代になった。だから「Mac App Store」の登場でビジネスの形態を変えざるを得ない企業が多々出てくることは間違いあるまい...。
無論これからもパッケージとして販売される製品も存在するはずだがその数はかなり限られたものとなるに違いない。

とはいえこれまたApp Storeと同様に日々膨大な数の製品が登場する「Mac App Store」に於いてユーザーにそれを告知し、興味を持たせてダウンロードさせるに至ることは容易ではない。
アイコンデザインを別にすれば一昔前のようにショップの店頭で目立つようにとパッケージの箱を大ぶりにしたり、パッケージデザインに工夫をしたりといったことも出来ないから、これまで以上に販売促進のためのプロモーションやリリース告知に工夫と努力が問われることになる。

それに開発側に水を差すようだが、そもそも個人のプログラマが空いた時間を使ってプログラミングするならともかく、ビジネスとして正面から取り組む場合に採算を取るのは至難の業であることも承知しておく必要があるだろう。
消費者にとっても、そして商品を提供する側にとっても良い時代になったのだろうが、ビジネスとして成功することを考えるなら問題がなくなったわけではなく、新たな問題や壁をきちんと認識し、それにどう対処していくかが重要になってくるに違いない。


ラテ飼育格闘日記(203)

前回はラテがいかに人間の手から上手にオヤツを食べるかをご紹介してラテのオンリーワン的能力を自慢したが(笑)、今回は遊びについてのお話しをしてみたい。周りのワンコを見ているとどのワンコもボール遊びが好きなようだし飼い主さんの投げるボールやオモチャを執拗に追いかけ回しているが、ラテはまことに飽きやすい。

 

ラテと友達ワンコの比較第2弾である。比較というより違いといった方が適切なのかも知れないが、友達ワンコの多くは公園でボールやフリスビー遊びに夢中になっている姿を見かける。飼い主さんが投げるそうしたオモチャを嬉々として追いかけて持ち帰ることを飽きずに繰り返している姿はまことに微笑ましい。
ポメラニアンのリンちゃん、スタンダードプードルのムギちゃん、コーギーのアポロちゃん、ボストンテリアのボビーちゃん...そして柴のポン吉ちゃんなど皆飼い主さんが投げるオモチャを夢中で取りに行き驚喜してそれを繰り返している。
ではラテはどうかというとボールに興味はあるようだが残念ながらというべきか、まことに飽きっぽい。

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※オトーサンとラテは談笑中なのです(笑)

 
ボールを取り出して見せるとキラキラした目つきで明らかに喜んでいるしオトーサンが投げるとそれを咥えて持ってくるが、きちんとした行為はものの3回も続かない(笑)。
ここにもコンラート・ローレンツ博士ではないがラテはオオカミ系の血を引くワンコに思え、飼い主との協調性に欠けるというか、個人主義的傾向が強いように思える。
そういえば先に「哲学者とオオカミ」という本を紹介したがオオカミは飼い主の投げたボールや木の枝を取りに走らないという。飼い主がボールを投げ「取ってこい!」といっても「取ってこなければいけない大切なものなら投げるなよ」とでもいうような表情をするいう(笑)。

ラテはそこまで極端ではないがボール遊びひとつをとっても、オトーサンが投げ、それを咥えて回収する...といった繰り返しは性に合わないようだ。それは決してボールが好きではないという問題ではなく同じ事を繰り返すことに意味というか喜びを感じないといったことのようなのである。
その代わりと言ってはなんだが、ラテのボール遊びは他のワンコたちと違って少々変わっているのだ。どういうことかといえばまず1人遊びが好きだということ...。
まるで毛糸玉を追いかける猫のようにボールを追いかけ、両前足で転がし、くちで咥えて自ら放り投げてそれをまた追いかけるという遊びである。見ていると実に見事にボールを扱っている。



※1人ボール遊びをするラテ。120fpsで高速撮影した映像


ボールの遊び方にバリエーションがあるとすれば、それはボールが野球とかテニスボールほどのサイズでかつ堅いものなら前記したように前足でからんで転がし、口に咥えて放り投げる...といった形になるが、ボールのサイズが小さく柔らかいものだとまるでおでんの具のがんもどきでも食べているようにフガフガと口の中で甘噛みし、それをサッカーのリフティングのように軽く口から離して空中でまた咥え直し、興が乗ればそれを遠くに放り投げるという遊びをする。
他のワンコでも同じようなことをするのかも知れないが、ラテに放り投げる技を教えたのは実はオトーサンなのである。
大分昔の日記に書いたはずだがあるときラテがガムを咥え、頭を振りながら放り投げる仕草を見てこれは面白いとオトーサンの方に放らせ、オトーサンはそれをまたラテに向かって投げるというキャッチボールをやり始めたのだ。
勿論ラテの投げ返す方向は正確なものではないが、オトーサンに向かって投げ返すという意志は持っているようでたまたま具合がよい時にはその投げ返しは数回続くこともある。
ちなみにこの口に咥えて投げるという行為は場合によっては危ない...。その遊びのほとんどは室内でやるわけだが、ひと遊びしてオトーサンが一息入れているときラテの放ったガムがオトーサンの鼻先をかすめる...といったことも多々あるからだ(笑)。いや、かすめるどころか注意をしていないと大当たりになることもある。

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※友達ワンコのボーちゃんと体をぶつけ合って遊んでいるラテ。しかし抱擁しているみたい(笑)


公園で見る限り、前記したようにボールを追いかけ続けるとか、口に咥えたまま離さないといったワンコは沢山いるが、ボールを自分で転がし、口に咥えて放り投げて遊ぶワンコはいまのところラテしか見たことがない。
外での遊びはともかく我が家の室内での遊びは夕飯が終わったときに始まる。というか、オトーサンたちが一息つき、ラテも夕食を終えてオトーサンたちのおこぼれも貰って満足した後に遊ぶものだと思っているフシがあるのだ。
食事が終わるとラテはオトーサンたちの足下に座り込み「ウォ...ウォオ〜ン」と遊びを催促する。
ここしばらくそうした時にラテお気に入りのオモチャはボールでなくモンキーの縫いぐるみだ。この種のオモチャにも当たり外れがあり、せっかくオトーサンがなけなしの小遣いをはたいて飼ってきたものでも遊んでくれない場合もあるし、ものの5分で壊してしまうことも多々あった。そうしたことを考えるとこのモンキーの縫いぐるみは久しぶりのヒットだといえる。
それにボールだと放り投げて壁や床に当たると音がでる。日中ならともかく夜の11時過ぎにそれではお隣さんに迷惑をかけることになるが縫いぐるみなら音がしないので都合が良いし、ラテと取り合いになったときや強制的に取り上げる場合もボールだとラテの歯にぶつかったりと怪我をしかねない場合がある。しかしある程度の大きさの縫いぐるみは大変扱いやすいのだ。ただしビーズなどが入っている縫いぐるみは壊したときに危ないし、飾りが多くて食いちぎりやすいものもダメだ。その点いま遊んでいるモンキーの縫いぐるみはなかなかしっかり作っているし丈夫なのでお徳用だったが、それでもすでに一部から綿が出てしまったのでそろそろ買い換えないといけない...。

その縫いぐるみをオトーサンは部屋の隅に投げ「ラテ、もってこい」と命令する。ラテはモンキーの首根っこを咥え、振り回し、リフティングし、床や壁にたたき付けながらもオトーサンのところに持ってくる。
それだけお気に入りの縫いぐるみも結局オトーサンや女房が一緒にかまってやるからこそラテはその気になる。たまたま忙しくて相手をしてやれないとモンキーを横に置いたまま足を舐めていたりする覚めた性格のワンコがラテなのである(笑)。

そういえば...覚めた性格で思い出しが先日散歩から帰ったとき、珍しいことがあった。その日の散歩はラテが執拗にリードを引くのでオトーサンも負けてはならじと無視したり逆にリードを「バシッ」と強く引いて「ダメ」と言うなど対立の多い散歩だった。
自宅に戻って玄関のタタキでオトーサンがラテの体を拭く準備をしている間、ラテは大人しく伏せて待っているわけだがフト視線を感じてラテの方を見ると伏せてはいるものの、上目遣いでオトーサンを睨んでいる(笑)。いや、オトーサンの気の迷いではなくまさしくラテは不機嫌そのままの表情で視線をそらさずにらみ続けているのである。
そもそも知らないワンコとは視線を合わし続けることは危険である。睨むことは文字通り「ガンを飛ばす」ことになり攻撃される可能性もあるくらいなのだが、その日はラテがオトーサンにガンをつけているのだった(笑)。
ここがオトーサンの実力のみせどころである。オトーサンは視線を受けたままそらさずラテに近づき、黙ってにらみ返した。
そんなとき、普通ラテはすぐに目をそらすものだがその日は余程面白くなかったのか文字通り視線を外さず、瞬きもせずににらみ返している。そしてよく注意をして見ると尻尾を小刻みに振りつつ、何と口唇はめくっていないがマズルにほんの少しシワが寄っている...。

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※ラテのこの顔はちょっと不満足なことがある表情なのだ...


これまでそんなことはなかったが、どうやらラテは本気で怒っているようにオトーサンには思えた。これが知らないオヤジなら確実に飛びつかれて咬まれているのかも知れないが、ここでオトーサンが自ら視線を外したり愛想を使っては今後の力関係にさわると思い意識的に無言でにらみ返した...。
万に一つもラテが飛びかかってくるとは思っていないし怖いとは思ったことはないが、ラテの琥珀色の瞳に睨まれるとなかなか迫力があるのだ(笑)。そもそもオトーサンは果たしてラテが睨み合いの末にどんな反応を示すのかに興味があったのである...。
ラテとの距離は50cmほどだったが、そう...にらみ合いは20秒ほど続いた。瞬間ラテはフッと視線を外し脱力すると同時に立ち上がりオトーサンの顔に突進しオトーサンの口元をペロペロと舐め、いつもの笑顔に戻ったのだった。
まさしくこれはラテから和解を求めてきた証拠のような気がしてオトーサンはラテの太めの体を抱きしめてやった。

ラテ4歳半の秋、この小さなオオカミ犬のようなワンコは確実に利口にそして賢く育っている。彼女の7歳とか10歳の頃を想像することは難しいが、まだまだ日々学習しオトーサンたちの心のヒダまで読み取れるようなワンコになるのではないかと期待しているのだが(笑)。

ビクトリノックスのアーミーナイフ

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全長約6センチほどの小型でスイスのビクトリノックス製。本体片面には "Apple" のプリントがなされている。



ジョン・スカリー氏、最近の発言についての考察

最近、Appleの元CEOだったジョン・スカリーの発言が目立つ...というより私には酷な言い方だが目障りである(笑)。1985年にジョブズを閑職に追いやり辞職させた経緯は「さもありなん...」と思ってきたが、何をいまさら「AppleがCEOとして自分を雇ったのは大きな失敗だった」だなんて寝言みたいなことを言っているのだろうか?


ジョン・スカリーはスティーブ・ジョブズに「一生を砂糖水を売って過ごすのか、それとも世界を変えてみないか」と口説かれて東海岸の大企業からカリフォルニアのAppleに移ったことはよく知られている話しである。

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※John Sculley (1939年4月6日生まれ)。ペプシコーラ社長からアップルコンピュータへ華麗なる転身は当時大きな話題となった


AppleInsiderやCult of Macの記事によればジョン・スカリーは「AppleがCEOとして自分を雇ったのは大きな失敗だった」といい、「スティーブ・ジョブズ氏がCEOに就くべきだったと」述べたとのこと。
また自分はコンピュータのことを何も知らずにAppleに移籍したといい、当時Appleの取締役会は、スティーブ・ジョブズ氏はCEOになるには若すぎると考えていたため、ジョブズ氏をヘッドハンターとしてスカリーを説得したという意味のことを述べている。

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※1989年MACWORLD Expo/BOSTONにおいてプレゼンテーションを行うジョン・スカリー(筆者撮影)


当時(1983年から1993年)の最高権力者が例えインタビューに答えたのだとしても、何故いまさら自分の存在を全否定するような発言をするのだろうか。何だか告白し懺悔でもしているように思えるものの彼の発言は私にはそのまま素直に受け取れないものがある。
ましてやジョブズを追放した後もコンピュータのことを良く知らなかったしAppleの経営立て直しをどのように図ったらよいかが分からず、ジョブズの手法と理念を継承したという物言いは、何で今さららそんな寝言みたい事をいうのかと奇異な感じを受ける。

外部から社長を呼ぶ場合に、その業態についてよく知っている人材が必要かどうかという点については絶対条件ではない...。スカリーがコンピュータのことを何も知らなかったからとしても、もともと彼に白羽の矢が立った理由はコンピュータ・テクノロジーへの理解を望まれたからではなくペプシ時代のマーケティング能力の妙を買われたからだ。それにコンピュータのことは知らなかったというが、彼自身の自伝によれば僅か14歳の時にテレビのブラウン管に関する発明をしたもののすでに特許が出ていた...。それはソニーのトリニトロンと同じものだったという話しがあり、アナログとかデジタルといった話しは別にしてもそれだけ電気・電子技術に興味があった利発な人物の発言とは思えない。そしてスカリーといえばコンピュータの未来像としてナレッジ・ナビゲータというマシンを考えた人物としても知られているわけで、程度問題はともかくも1983年当時にパーソナルコンピュータについてまったく知らなかったというのも妙な話ではないか。

それにCult of Macらの記事によるニュアンスや理解が正しいとしてもそもそもAppleの取締役会の判断として、スティーブ・ジョブズがCEOになるには若すぎるからとスカリーに白羽の矢を立てたという話しは単純すぎる。
確かにジョブズは当時26歳だったがAppleの取締役会が彼をCEOに推薦しなかったのはその年齢の問題だけではなかった。スカリーは後にジョブズを評して「彼は我が儘、暴虐、激しくないものねだりの完全主義者。そして未成熟でかよわく、感じやすく傷つきやすい。さらに精力的で構想力がありカリスマ的で強情、まったく我慢のならない男」だといっている。
当時のスティーブ・ジョブズは確かにスカリーのこの評価の通りの人物だったと思われる。彼の成功談ばかりが目に付く昨今だが私は以前に「スティーブ・ジョブズの陰の部分に光を当てる!」というトピックを書いたが、若い頃の彼はまさしく鼻持ちならない男だった。

企業の取締役会というものはその構成上多くは保守的な傾向があるものだし、ジョブズのような男をCEOにしたらAppleが今後どのようなことになってしまうかを危惧したのは当然のことだった。スカリーは「Appleという会社は...実はどこを探しても見つからないような最も洗練され、経験に富んだ役員たちに支えられていた」とも言ってるほどなのだ。
そしてAppleの驚異的な成長に対応できる経験豊かな人物を求めていたわけで事実1981年8月にはIBM PCを世に送り出したチームリーダー、ドン・エストリッジを引き抜こうとして失敗している。

対して当時有名な経営者として知られていたジョン・スカリーだが志はあったにしてもペプシでの年間50万ドルの報酬を大きく上回る条件を提示されて心が動いたことは確かだろう。なぜならAppleは彼に年俸100万ドル、100万ドルの契約金、100万ドルのゴールデンパラシュート(重役を退任させられた際の報酬)、Appleの35万株の株券、そしてカリフォルニアに新居を購入するため、それまでのコネチカットにあった持ち家売却との差額を支払うという破格の条件を提示したからである。
あえて嫌みな物言いをするならスカリーはスティーブ・ジョブズに「一生を砂糖水を売って過ごすのか、それとも世界を変えてみないか」と口説かれたからではなく、砂糖水ならぬ甘い汁に引き寄せられたともいえるかも知れない(笑)。
それにスティーブ・ジョブズ自身、スカリーがコンピュータのことを知らない...この業界のことを知らない事は都合のよいことだった。いってしまえばジョブズはスカリーをお飾りのCEOに祭り上げ、自分が彼をコントロールすることを考えていたに違いないしスカリーに対してならそれが出来ると考えていたフシもある。



※MACWORLD EXPO SF 1992 でKeynoteを行うジョン・スカリー(筆者撮影)


ともかく歴史を後から俯瞰すると面白いことに多々気がつく。スカリーは事情はどうあれジョブズを追放したが、スカリー自身も後に同じように取締役会から追放された。またジョブズはAppleがウォズニアックのマシンで成功したといわれるのを嫌い、自分のマシン欲しさにLisaを企画しMacintoshの開発に打ち込んだようにスカリーもMacintosh以外の自分の生み出したマシンが欲しかった。その結果Newtonに力を入れすぎたともいえる。
そういえば「コンピュータのことを何も知らなかった」「ジョブズがいなくなっても彼のやり方と理念を継続した」というスカリーだが、1990年に自身をアップルの最高技術責任者に任命した経緯がある。これは自身の立場をより正当性のあるものにしたいという気持ちからだと思うが、この決定にAppleのエンジニアたちの多くは、技術的なことを何も知らない彼のこの上ない思い上がりだと批判したという。
ただし結果として見ればスカリーの時代にAppleは消滅しなかったし10年もの間、Appleという舵取りの難しい企業のトップに君臨していたのだから個人的にスカリーの存在は未来のAppleにとって悪くはなかったと考えている。

そう、ジョン・スカリーという人物はAppleにとって存在意味のなかった人物ではない。スカリーがAppleに来て1年ほどのうちに管理職を含めて700人以上にのぼる従業員を解雇し、自社開発中のディスクドライブをSONY製の外注品に切り替え、下請けを含めて強力なクオリティコントロールを実施させたという。またMacintoshの発表に際して後にソフトドリンクメーカー並と揶揄されたほどの広告費を計上し普及に努めたし、ガレージ企業の時代を終焉させAppleという会社を誰もが認める大企業とする礎を作ったことは確かなのだ。まあその集大成がジョブズの追放だったことは皮肉だが...。そしてスカリーはジョブズに学んだというが、ダイナミック・デュオと言われていた時代にはジョブズがスカリーに学んだことの方が多かったのではないだろうか。

では何故今更スカリーはこうした物言いをしたのか...。これまた穿った見方をするなら、メディアは何でも良いからAppleに関する情報を欲しがっていることが前提にある。そしてジョン・スカリーもApple就任当時の話しをすればメディアに注目されることをよく知っているからだと思う。
そして彼の物言いはそのまま素直に受け取るべきではないが、間違いのないこととしてスカリーはいま、無性にAppleにいた時代を懐かしく思い、そして自身の人生で一番エキサイティングな時期だったことを再認識しているのではないだろうか。
過ぎ去った過去は美しく見えるものだ。

【主な参考文献】
・オーエン・W・リンツメイヤー著「アップルコンフィデンシャル」アスキー出版局刊


ラテ飼育格闘日記(202)

ラテの日常を文字通りつぶさに観察しつつ、友達ワンコたちと比較する楽しみを味わっているオトーサンだが、犬種による違いを超えてワンコの個体差がこれほど大きいとはラテを飼う前には思いもよらなかったことである。生まれつきの性格および飼い主との生活を通してワンコの考え方や行動に大きな違いがでるのは我々と同じなのかも知れない。

 

ワンコを飼う前には知ったつもりになっていたのだろうが、ワンコは犬種による違いを別にすればその知能の高さや行動に大きな違いなどあろうはずもないと考えていたオトーサンである。
まさかネル・デカルトではないが、ワンコは機械のようにある種の条件反射で動作が決まってしまう生き物であり高度な意識などもっていないと思っていたわけではないが、ラテを飼い始めてこれほど個々に違いがあることに大げさでなく驚嘆した次第...。
今日は親ばか丸出しの一編となるだろうが、ラテの特徴...長所の一端をご紹介したいと思う。

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※遊びの合間にも好奇心旺盛な表情を見せる


まずラテが特出しているひとつにオヤツの食べ方がある。
いつもの公園にいくと時にはお馴染みの飼い主さんとワンコに多々会えるが、ラテもそしてオトーサンもそれを楽しみにしている。そして時にはオトーサンは出会ったワンコにささやかながら持参しているオヤツを食べさせたり反対にラテも飼い主さんたちからオヤツを貰えることをいただくことになる。
無論ラテもどの飼い主さんに近づけばオヤツが貰えるかは学習済みだからその方の姿や声に気づくと近づいて「ウォゥオ~ン」と催促する(笑)。そして「ラテか、おいで!」などと言っていただくと驚喜して飛びつかんばかりだがそこは同じワンコの飼い主さんであり「ラテ、お座り」「待て!」とコマンドを与えて制御することを忘れない。
時にラテが膝頭に前足をかけて口元を舐めようとすると「チューはいいからお座り!」と厳しくしてくれる。それでもラテは嬉しくて口を開け目をランランにしてオヤツを貰えるのを待っている...。

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※オトーサンがオヤツを取り出すとまことに良い表情をする。それにしても牙は凄い!


オトーサンも他のワンコにオヤツを与えるときはなるべく「お座り」をさせ「待て」の後で差し出すようにしている。これはワンコに必要な作法でもあり急く気持ちを落ち着かせるにも大切な事だからだ。
さて問題はオトーサンが差し出すオヤツをワンコたちはどのように食べるのかだ...。
「パクッ」で終わりじゃあないの...と言われるかも知れないがワンコによってかなり食べ方は違うのである。
ここで1番の問題はオヤツの差し出し方だ。ワンコのトレーニング本の中にはオヤツは指で挟まず掌に乗せて食べさせるようにと書かれているものも多いが、それは親指と人差し指で挟んで差し出すと指を咬まれる可能性があるからだという。
オトーサンはこれまで覚えているだけでも30数頭にわざと指で挟んだ...それも小さなオヤツを差し出してそのワンコがどのようにして食べるかを体を張って体験してきた(笑)。事実いまでも指には小さな傷が絶えない...。

多くのワンコは嬉しさを隠さず、文字通り「パクッ」と食らいつく。したがってその力と歯の位置によっては程度問題ではあるものの指を咬まれることがあるわけだ。では掌に乗せたら安全かというと実はそうでもないのである。
オトーサンの経験では焦って早く食べようとするワンコだと上下どちらかの犬歯が掌を傷つけることが多い。
多くのワンコは指に歯の圧力がある程度かかるとブレーキというか自制して咬む力を弱めるが、それでも指は痛い。無論同一ワンコでも周りに競争相手がいるような時には他のワンコに取られまいと焦ることが多く、そうした場合にはオトーサンの指に血が滲む可能性は高くなる。

対して不思議なほどオヤツを食べることに慎重なワンコもいる。
決してオヤツが嫌いだとか食べたくないということではなくそのワンコはどんな場合でも「パクッ」とはやらないのだ。オトーサンが差し出すオヤツを前歯で一端受け止め、それを必ずといってよいほど地面に落として確認でもするかのような作法の後に食べるのだ。したがって時には地面に落としたときに隣にいるワンコに取られて一騒動起きることもあるが、ともかく事ほど左様に慎重なワンコもいる。したがってそうしたワンコはオトーサンの指からエサを咥えるときも実にゆっくりと取るので安全なのだ。

ではラテはどうなのだろうか...。先日も公園で初めて会った女の子が怖々ラテを触っていたがそのうち安心したのか食べ物をあげたいと言い出した。
オトーサンはそれならばといつも携帯している鶏ササミで出来ているオヤツを女の子に渡して「これを小さくしてあげてくれる?」といった。
女の子は「小さいと指咬まれないかな...」と少々不安そうだったがオトーサンは「お姉ちゃんが優しいから大丈夫だよ」というと早速オヤツをちぎってラテの前に出した。ラテは前歯で当たりをつけ、決して歯で指を挟むことはしない。
このラテのやり方を知ったのは無論我が家に来てからすぐだった。ワンコのトレーニング本には人間の手に慣らすためにも餌やオヤツを掌などから食べさせる訓練が良いとあったのでそれに従ったが、そもそも里親会でラテと最初に会ったときオヤツこそあげなかったもののオトーサンの指などを上手に舐め、歯を立てるようなことは一切しなかったラテなのだ。

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※試しにこんな小さなオヤツを指に挟んでラテにあげてみる(上)。ラテはオトーサンの手を押さえ込んで食らいつくが奥歯を使うとしてもオトーサンの指を咬むことはない(下)


女の子はラテの唾液で指が濡れ、舌が当たるのを嬉しそうに「くすぐったい」といいながら実に小さくオヤツを分割してラテに与えてくれた。
オトーサンも昔はそんなとき万一の可能性もあるからと正直ビクビクものだったが最近は注意を怠らないようにしているもののラテの行為については信頼をしているのだ。何故ならこの4年の間、こうした食べ物の与え方を様々な人がしてくれたがラテが人間の指を傷つけたことは幸い一度もなかったからだ。
オトーサンなどは逆に指の間に挟んだオヤツをラテが前歯で咥えても、意地悪してすぐには離さずそのまま保持することすらある。そうするとラテはほんのゼロコンマ数ミリほど深く咥え直すがその歯の当たりが指に心地よいほどなのだ。そして万一指に歯が当たった場合にラテは一端離すのである。
無論ラテの他にもオトーサンの指に心地よい感触を残すような食べ方をするワンコもいるが、親ばかを承知のうえではあるものの、もし「指の間の餌を上手に食べようコンテスト」があったらラテは間違いなく上位入賞を果たすに違いないと心密かに思っているオトーサンなのである。

ラテ飼育格闘日記(201)

あれだけ暑かった今年の猛暑もやっと過ぎ、日の出も遅くなったし逆に日の入りは早くなり夕方6時にもなるとあたりは暗くなってしまう時期になってきた。さて、ラテとの生活も足かけ4年ともなれば要領も分かってきたこともあり正直馴れというかオトーサンの行為も惰性になってしまう傾向がある。そうした「あたりまえ」という感覚が過ぎると反対に思いもしない事故にあったりする可能性も出てくるからと油断せず気を引き締めているつもりだ。

 

しかし反対に4年近くも一緒にいるにもかかわらず新しい発見というか気がつかなかったような思いもあって毎日がまことに面白い。
ラテを含めたオトーサンたちの日常は当然のことながらパターン化している。朝何時に起きるか、散歩の時間とコースは、朝晩のラテの食事メニューは...等々といったことはほぼ決まっているわけで大きく違うことはない。しかしその限られたパターンの中ではあるものの生き物であり高度な意識を持っているワンコとのやりとりには微妙な変化というか違いが生じてくる。
日常の生活が一見いつもと何の変わりもないように過ぎていくようで人間より寿命も短いからだろうか、ラテの学習能力や行動に対する好き嫌いが半年程度のスパンでかなり変わっているという印象を受ける。

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※機嫌が良いときのラテは輝くような表情を見せる


この1年、ラテの行動に大きな違いがあるとすればその一番はオトーサンとの散歩時に、その道順やどこに向かうかといったことにはっきりと拒絶と好き嫌いを示すときが出てきたことだ。別の言い方をするなら自己主張が強くなってきたということである。
ラテを飼い始めてからこの方、オトーサンはワンコとの散歩は飼い主...すなわちオトーサンがすべてのリードを取ることが大切だからと道順やどこに向かうかといったことをラテに委ねることはなかった。無論その課程で行きたい方向にリードを引くことがあってもオトーサンがそのリードをチョンと引けば納得したかどうかはともかく素直に着いてくるのがこれまでのラテだった。
いや、現在も基本的にはそれに変わりはない。しかしたまたまではあるがいつものようにと家を出て目的地に向かおうとすると強力に抵抗する場合が出てきたのである。

ラテの体重は20Kgほどだが彼女が本気で引っ張ったり地べたに這いつくばって抵抗するその力は並のものではない。しかしオトーサンもまだまだ力ではラテには負けないつもりだし負けてはいけないと思っている。
実際ラテと引っ張りごっこをするにしても片腕で引き戻す腕力は持っているが、それが頻繁に続くとこれは正直辛いものがある。
いや、それ以前に何故ラテがオトーサンが向かおうとしているいつもの方向を嫌うのかということに興味があるのだ。それに単なる力任せのやりとりだけなら単純なのだがラテはもうひとつ強力な武器をもっているのである。
それはグッとリードを引いた後でオトーサンの顔を見上げて何ともいえない表情をするのだ(笑)。

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※寝ているときオトーサンが近づくと愛想のつもりなのか腕に前足を絡めてくれる...


たまたまちょっとした気まぐれの時の表情は「オトーサン、こっち行ってはダメ?」と問うような少々悪戯っぽい目つきをする。そんな時には「ダメ!」と言いながらリードを引くことも多いが時には何といったら良いのか...オトーサンの思い過ごしなのかも知れないが...強い意志を示し恨みがましい目つきで見上げるのである。オトーサンはその目つきに大変弱いのだ(笑)。
何故、そちらに行きたいのかはオトーサンにはわからない。なにかそちらに魅力的な臭いがあるからかも知れないし、もしかしたらいつも同じ道などつまらないと反抗しているのかも知れない。しかしそうまで言うのならそっちに行ってやろうかという気になってしまうのも仕方のないことだ。

ラテがどのような思考回路から判断するのかは不明だが、例えば家を出る瞬間にいつもの公園ではなく今日は駅に向かい、明らかに「コーヒーショップで美味しいもの食べたい」と思っているに違いないという時も多々あるのだ。それは特に天候が悪いときに多いのだからこれまた不思議である。
雨が降っていなくても路面が濡れていたりするとそうした傾向があることは統計的に分かっているがオトーサンにも都合というものがあるではないか(笑)。それにいつもの公園に行けば少なからず仲間のワンコと触れ合うことができるかも知れないし、馴染みの子供たちにも会えるかも知れないとオトーサンは親心で公園を目指すのだ。しかし駅に向かい、コーヒーショップに向かう道ではまず知っているワンコには会わないしこれまた馴染みの子供たちと会うこともない。まったく親の心子知らずとはよく言ったものだとオトーサンはため息をつきながらも小雨のけむる中、そのコーヒーショップに向かった...。

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※公園に行けば友達ワンコに会えるかも知れないのだが...


すでにラテがその気になっているのはよく分かる。いつものところでオシッコをしてこれまた判で押したようにウンチを済ます。オトーサンを見上げるその顔は「ねっ、これでコーヒーショップに行ってもいいでしょ?」と自慢げに言っているようだ。
ウンチの始末をしながら歩き始めると年配の女性が笑顔で近づいてくる。こうした場合、ラテは吠えることを知っているからオトーサンはリードを短くして進むが明らかに女性はラテが目当てのようで近づいてかがみ込み「可愛いわねぇ」と言いオトーサンに向かって「四国犬が入っているんですか?」と聞く。
オトーサンは四国犬とは天然記念物に指定されている土佐犬のことで、土佐闘犬と区別するために近年「四国犬」と呼ばれるようになったという程度の知識はあったので「いや、まったくの雑種なのでわからないんですが四国犬の血は入っていないと思いますが...」と答えた。
女性は「いや、左耳の形からすると四国犬の血が入っていると思いますよ」と譲らない。その間ラテは吠え続けである(笑)。

私はラテが五月蠅いので「申し訳ありませんね...」と言いつつその場を離れようとすると女性も「ありがとうございました。私、犬が大好きなものですから...」と会釈をして歩き出した。ラテはその後ろ姿に向かってまだ吠えている。
まあオトーサンの目にはどう見てもラテは四国犬には見えないが、四国犬の気質である飼い主には異常なまでに忠実だが他人(初対面の大人)にはもの凄く警戒するといった点は似ているかも知れないと思いつつラテをなだめながらコーヒーショップに向かった。
傘がいるかいらないかの微妙な霧雨の中、コーヒーショップのテラスに陣取ったオトーサンとラテはしばしカプチーノとデニッシュに舌つつみをうつ。
飲み物をかき回すための木製の棒(マドラー)でカプチーノ・コーヒーのミルクフォーマをすくってラテに与える。そんなオトーサンにとっても至福の時間を過ごした後、来た道を戻ることになるが不思議にラテはまだ歩き足りないとか帰りたくないといった反抗はせず、まるでリードがいらないほどに大人しくオトーサンの足下に付いて歩くのだから面白い。

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※街灯が点きはじめた帰り道は何とも不思議な世界を感じさせる


すでに帰り道には街灯が点き、迫ってきた夕闇と不思議な世界を作り上げている中、オトーサンとラテは仲良く帰路についたのであった。

ラテ飼育格闘日記(200)

本連載が今回で200回となった。200回程度では驚くことではないかも知れないが開始以来足かけ4年、毎週土曜日に更新することにしているが1回も休んだことがない点は「自分を褒めてあげたい」と思う(笑)。それもこれも愛犬ラテへの尽きぬ愛情と知的興味が原動力になっているわけだが嬉しいことにそれは現在も衰えていない。

 

本編の原稿は1997年初頭のスタート時点と現在とではそのボリュームは些か違うが、最近では一編約2,000文字から3,000文字程度になっている。したがって平均を2,000文字と些か低めに見積もっても200回だと合計40万文字という量になる。
40万文字といってもイメージとしてどれほどのボリュームなのかはピンとこないが、400字詰め原稿用紙で例えるなら1,000枚ということになる。
無論問題は「量ではなくて内容...質だ」という声が聞こえてきそうだが、そもそもがまったく個人的な愛犬との葛藤を日記・記録の意味で書き付けたものなので神経質なものではないわけだが、これまでお陰様で多くの方々から励ましのメールをいただいた。特に最初の頃には甘噛みなどに関してオトーサンの泣きが入ったりしてたので心配してくださったらしい...。
またこの「"ラテ" 飼育格闘日記」に載せるため写真を日々撮るように努力しているがその枚数はこれまでDVDに十枚近くにもなり枚数など到底数えられないほどになった。

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※1997年の春頃に撮った一枚。リードを引くオトーサン自身がラテのスカート姿に魅惑されていた時期だ(爆)


散歩にはデジカメを携帯することを常としているが、都合で持って出られないときにはiPhoneを使ったりしてなるべく記録を残そうと考えてきた。
それらの写真のいくつかにはラテと遊んでくれる友達のワンコたちも写っているわけで、何とかお見せできるレベルのものはプリンターで写真印刷して飼い主さんにお渡しすることも楽しみのひとつである。
しかしデジタルカメラの性能が向上し、使い勝手も大変良くなってはきたもののラテのリードを持ち、周り360度に注意をしながら写真を撮るというのは正直簡単ではない。よい写真を撮ろうとカメラに注意を集中している隙にラテが変なものを拾い食いするとかノーリードで近づいてきたワンコに「ガウッ」としては...されてはまずいからとなかなか良い条件での撮影は難しいのである。

無論ラテと私が一緒に写っているシーンは女房が撮ったものだ。というより土日の散歩、すなわち女房と一緒に散歩する場合には100%写真撮影は女房の役割になっている。本人はデジカメを扱うのは苦手だと公言している1人だし、常に「ああだ、こうだ」と小うるさいオトーサンが側にいるのでやりにくいだろうが、良い写真を撮ろうとは考えずとにかく数多くシャッターを切るように頼んでいる...。
もともと動く相手にカメラを向けてこれはという一枚を撮るのは大変難しい。手ぶれ防止機能があるデジカメを使っても50枚撮ったその大半はワンコたちがフレームの外に出た瞬間だったり、大きくぶれていたりと使い物にならないものがほとんどなのだ。ただし手前味噌だがそうした中にも「こうしたシーンを撮りたい」と考えたところで到底取り得無い一枚が撮れているということもあるのが写真の面白いところでもある。

写真というものは...今さらだが大変興味深いもので同じ瞬間は物理的に2度と撮ることは出来ない。例え同じ角度、同じフレーミングで撮ったところで天候や季節、そしてなによりも刻々と変わるラテの表情が違ってくるからだし、昨年撮った一枚と同じようなものでも並べてみるとそこにはラテの成長がしっかりと刻まれている。だから二度と同じ写真は撮れないと思ってまずはシャッターを切るのが先決なのだ。
ただしワンコといったペットの写真を撮るにはある種のセオリーがあるのも事実である。その第一はカメラをなるべく近づけて撮ることだ。無論ズームを使ってもよいがともかくフレームのどこかにラテがいる...というのではなく顔でも全体でも近くで撮るというのが大切。
そして第2に我々はとかく自分たちの背丈のままでカメラを構えるが、それではワンコを上からしか撮ることはできない。したがってなるべく視点をワンコの体型に合わせて低くして撮ることも重要である。
そうして足かけ4年の間、撮りに撮った写真の中には嬉しいことに数は少ないものの大のお気に入りの写真、自慢の写真もいくつか生まれた。

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※女房は変な顔だというが、こんな笑顔の写真は滅多に撮れない


そんなわけで早くも約2ヶ月後の12月10日でラテとの生活は丸4年となる。
普段は以前の写真などそうそう見ることはないが、あらためて我が家に来た当時の写真を眺めて見ると大変痩せていて細いのに驚く(笑)。そして体型は別にしても顔つきが随分と違うことに気づく。
友人は「最近ラテ、ベッピンになったね」といってくれたが、昔はブスだったということか(笑)。
しかし実際に1997年の春頃までの写真を眺めてみると当時は気がつかなかったものの、ラテの表情は総じて険しい感じがする。無論知らない人たちの中にある日突然放り込まれたわけだから不安で一杯だったに違いないしその気持ちが写真の表情にもよく出ているようだ。

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※ラテが我が家に来た直後の写真。ラテの表情はどれも険しい


ここにお見せする数枚の写真は特にラテの機嫌が悪いものを選んでご紹介したわけではないが、こうして見るとさまざまなシーンに見るラテの表情は現在とはまったく違って堅く険しいのである。
対して最近は感情表現がより豊かになったしその表情も自信と安心感からか柔らかで好奇心一杯の様を見せる。

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※最近の表情はとても穏やかで優しくそして豊かな変化を見せる


先日も公園の隅で馴染みの小学生の女の子3人が県名を言い合うような言葉遊びをしていた。そうした声が聞こえたからかラテはそちらにリードを引き自分から女の子たちの側に陣取り「ウォ〜ンンン」と挨拶(笑)。女の子たちも「あら、ラテちゃん来たの!?」と声をかけながらも言葉遊びを続ける。
オトーサンはその遊びのルールがまったく分からなかったが、例えば「北海道...北海道は○○県!」といった声を出す度にラテも「ウォウォ〜ン」と詰まった遠吠えのような声を出す。まるで女の子たちの遊びに自分も参加したつもりのようなタイミングの良さに女の子の1人も「ラテちゃんも一緒だあ」と喜んでくれた。
ラテの表情がより一層明るく、そして毎日元気に過ごせるようにと5年目もラテと格闘を決意するオトーサンなのであった...。

ジョブズとウォズがApple Computer社を作った経緯は?

前回「ジョブズとウォズが知り会ったきっかけは?」というトビックをご紹介し、ジョブズとウォズニアックの2人がどのようなきっかけで知り会ったかを記した。今回はその続きとして2人とロン・ウェインあるいはマイク・マークラたちがApple Computerという会社を作るに至るまでの前後をご紹介したい。

 
スティーブ・ジョブズを紹介されたスティーブ・ウォズアックはすぐに彼のことを気に入った。音楽の趣味も一緒だったしエレクトロニクスに関してもジョブズはウォズニアックのよき理解者となった。そして何よりも2人とも人を驚かす悪戯が大好きだったからだ。
ではジョブズから見たウォズニアックはどのように写ったのだろうか...。その頃、インドから幻滅して帰国しアタリ社で働いていたジョブズは周りから変人扱いされ友達もあまりいなかったらしい。
なにしろ当時、菜食主義者は風呂に入らなくても問題ない...といった思想にかぶれていたジョブズは長髪、ホーチミン髭をはやしていただけでなく薄汚いジーンズをはき、そばに寄ると異様な臭いがしたという。
しかしそんなジョブズをウォズニアックは諸手を挙げて迎え入れてくれただけでなく、ジョブズはウォズニアックに会ってはじめて自分よりエレクトロニクスに詳しい人間と出会ったのである。

巷でスティーブ・ジョブズという人間は技術者でないからしてエレクトロニクス技術に関しては何も知らない...というまことしやかな話しもあるが事実は違うようだ。
確かに彼はエンジニアとして優れていたわけではないが、子供の頃から養父が持ち帰ったレーザーの部品を使ってオモチャを作ったり、回数計を部品レベルから組み立てたりと自身ではエレクトロニクスに関してかなりの自信を持っていたようだ。
それが自分よりはるかに広くそして深い知識を持っているウォズニアックに出会ったとき、同士に巡り会ったと同時に尊敬の念さえ感じたに違いない。

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※回路図を前にしたウォズニアックとジョブズ


その後ウォズニアックはヒューレット・パッカード社の友人、アレン・ボームからコンピュータの端末機に興味のある人たちのクラブが結成されたことを知り会合に顔を出すようになった。それがホームブリュー・コンピュータクラブだった。
第1回会合はメロンパークのガレージで開催され30人ほどが集まったがそこでウォズニアックは自分と同じようにコンピュータに興味を持ち、自身よりコンピュータに詳しい人たちやそれまで見たことも聞いたこともなかった ALTAIRを所有している人たちと出会った。
最初ウォズニアックはクラブを場違いだと感じたという。なぜなら当初はテレビ技術に関する会合だと思っていたし8008や8080、4004といった最新のマイクロプロセッサー・チップの話題についていけなかったからだ。しかしクラブの会員たちはビデオ・ターミナルを設計したことのあるウォズニアックを歓迎し興味を持ってくれた。ウォズニアックは勇気づけられそれから最新のマイクロプロセッサのチップについての勉強を猛烈に始めたという。

一週間おきのクラブ参加は彼の人生を大きく変えた。ウォズニアックの豊かな技術知識と無邪気で人当たりの良い態度は次第に人気の的になり、期待されるだけクラブに報いたいと努力することになる。そして他の会員たちが作った自家製コンピュータを見るに付け、以前ビル・フェルナンデスと一緒に作ったクリームソーダーコンピュータに似ていることもわかり、それなら自分でも一層優れたコンピュータを自作することができるのではないかと思い始めたのである。
折も折、チャンスが訪れた。MOSテクノロジー社がサンフランシスコで開催されるコンピュータの展示会、ウェスコン・ショーで新しい6502チップを20ドルで販売するという戦略的な広告を出したのだ。早速ウォズニアックはそれを買いに行く...。
それが縁でその後、Apple IおよびApple II に6502が使われるようになったのである。
実はウォズニアックはヒューレット・パッカード社の社員割引でモトローラ社の6800を40ドルで買える環境にあったが、6502はその半値だっただけでなくコンピュータアーキテクチャとして6502の方が好みだったことが選択の要因となった。

ウォズニアックは念願の自分のためのコンピュータを作り始めた。そして1975年6月29日の日曜日、午後10時過ぎウォズニアックのオリジナルコンピュータはキーボードから入力するキャラクタを目の前のスクリーンに表示させることに成功する。

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※ウォズニアックが開発したApple I


彼はそのコンピュータと共に回路図のコピーをホームブリュー・コンピュータクラブに持ち込み無料で配布した。クラブの会員たちは拍手喝采であった。無論それがApple Iの原型である。

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※筆者所有のApple I マニュアル表紙(ウォズニアックのサイン入り)と回路図の一部


Appleという名の由来についてはすでに定かではないが、それがジョブズの命名であったことは確からしい。そしてその基板むき出しのコンピュータを見たジョブズは機会到来と考えウォズニアックに会社を興そうと提案する。
ジョブズは「お金は損するかもしれないけど、自分の会社が持てるよ。一生に一度のチャンスだ」と説得する。
ウォズニアックは趣味を金儲けにすることには気が進まなかったものの取り急ぎヒューレット・パッカード社を辞める必要もなさそうだと判断しジョブズに薦められるままに会社を作ることに同意する。こうして1976年4月1日にApple Computerはスタートした。

ジョブズ家の車庫が事務所兼工場となった。実際にはジョブズの友人だったロン・ウェインを誘い3人で仕事は開始されたがロン・ウェインは最初のアップルロゴをデザインした後リスクが大きいと早々に離脱する。
ところでジョブズとウォズニアックが始めにやったことはApple Iを製造するための資金作りだった。ジョブズはフォルクスワーゲンのマイクロバスを、ウォズニアックはヒューレット・パッカード社製の関数電卓2台を売却した。
彼らは製造したコンピュータはホームブリュー・コンピュータクラブの会員たちに売れると考えたが、ジョブスはそれだけに留まらずクラブに参加していたコンピュータショップ「BYTE SHOP」のオーナー、ポール・テレルに売り込みをかけ、結局50台の注文を受けたのだった。

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※最初のコンピュータショップ「BYTE SHOP」


ジョブズとウォズニアックの2人はその50台のApple Iを作るため「BYTE SHOP」からの注文書を抵当に部品の調達先に30日間の支払い猶予を取付たのである。
2人は友人たちやジョブズの姉まで手伝わせて組立を行い、29日目に50台のApple Iを「BYTE SHOP」に納入することができた。無論部品の支払も期日ぎりぎりではあったが無事支払うことができ2人は8,000ドルもの利益を上げた。
ウォズニアックの弁によれば結局175台製造されたApple Iは150台出荷されたという。

その初めての成功に意を強くしたウォズニアックは続けて改良型のコンピュータ開発に取りかかる。Apple IIである。
紆余曲折の後、Apple IIはジョブズの意向でプラスチックケースに収められキーボードが付属していただけでなくカラー機能とグラフィックス機能を備えROMにはBASIC言語が搭載されていた。
一方大会社を興したいと考えていたジョブズはアタリ社時代のボスであったノラン・ブッシュネルに相談し、結果として1年前にフェアチャイルド・セミコンダクタ社およびインテル社のストックオプションで一財産を築き悠々自適の生活を始めていたマイク・マークラ・ジュニアを紹介される。
1976年10月にジョブズの車庫を訪れたマークラは興味を持ち事業計画を作ってみようと申し出た。
結局マークラはAppleのメンバーとなることを決め、9万2千ドルの個人資産提供と銀行に対して25万ドルの債務保証を取付け、ジョブズとウォズニアックそしてマークラの3人は1977年1月3日、Apple Computerを法人化した。
そしてAppleは1977年の第1回WCCF (ウェストコースト・コンピュータ・フェア)でApple IIを発表したことで歯車は回り始め、時代の風はApple Computer社の背中を強く押し始めたのである。

AppleFoundation_05.jpg

※Apple IIと後にウォズニアックが開発したフロッピーディスクドライブ


【主な参考資料】
・スティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・P・フライバーガー/M・スワイン著「パソコン革命の英雄たち」マグロウヒル社刊
・斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・オーウェン・W・リンツメイヤー/林信行著「アップル・コンフィデンシャル2.5J」アスペクト刊

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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員