ラテ飼育格闘日記(269)

23日から降り続いた雪が24日の朝になるとかなりの積雪になっていた。オトーサンたちは早速ラテを朝の散歩に連れ出すことにしたが防寒対策は勿論、足下が危ないのでオトーサンは札幌を歩き回った雪靴を履き、電池式のウォームマフラーを首に巻いて万全の体勢で出かけることにした。


北国に住んでいる方からは笑われようが、東京付近はこの程度の積雪ですぐに交通機関に支障がでるし、路面などで転倒する人たちが続出するのが常なのだ。第1道路を走る車だって雪用のタイヤを装備した車はほとんどないからして危ないことこのうえない。しかしラテは一面真っ白の世界を眼前にして目を輝かしている。

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※出向いた公園は一面銀世界だった!


オトーサンたちはとにかくお馴染みの広い公園に向かった。その銀世界の中でラテを遊ばせてやりたいと思ったからだ。ラテもそれを知ってかカフェのある駅方向にリードを引くようなことなく積雪を踏みながら元気に歩く。
雪に覆われた面を嗅ぎ、時には前足で掘り返したり、表面の雪を食べたりしている。しかしすでにオトーサンたちは手袋している手も凍り付くような寒さなのにこのパンツ一丁履いていない娘は嬉々として雪の中を進むのだから感心してしまう(笑)。そして子供がそうするようにまだ誰も足を踏み入れていない場所を歩きたいらしくオトーサンの顔色を伺いながらリードを引く。

ただし雪が積もっているところは良いが、路面が凍結して凸凹している場所は肉球が痛いらしく慎重にそして場合によっては避けながら歩く。やはり昨晩も囓った部分がさすがに滲みるのかも知れない…。
それでも雪の積もっている面にオシッコをかけ、道ばたに出来ている雪だるまにちょっかいを出しながら元気に公園に向かった。

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※積雪の中にマズルを突っ込むのでこんな顔に(笑)


いつもの朝より時間が遅めだったことでもあり公園に行く間、馴染みのワンコたちに会うこともなかったし公園にも友達ワンコの姿はなかったが、ラテは一面の雪景色を見た途端にはしゃぎ出した。そして女房の周りを全速力で駆け出し、止まっては両前足とマズルを積雪の中に埋まるようにして「遊ぼう」のポーズをする。

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※オカーサンはへっぴり腰です(笑)


歌に「…犬は喜び庭駆け回り…」というのがあるがまさしくその通りのはしゃぎようなのだ。そしてどれほど喜んでいるかはその表情を見れば一目瞭然である。
オヤツやオモチャを見せたってなかなかこんな顔はしない。

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※こんな楽しそうな顔はめったに見られない!


しばらくリードをいつもより長く伸ばしてラテを自由に遊ばせたりしたが、なにせオトーサンたちの身体が冷え切ってしまう。ただ電池式のウォームマフラーを巻いた首筋だけがほんのりと暖かく気持ちが良いもののジーンズの裾も積雪で濡れ放題だしいつまでもこうして遊んでいるわけにもいかないとラテのリードを短くして「帰るぞ!」宣言するもラテは不満そうで抵抗する。

ともかく帰り道だって雪の感触は楽しめるだろうとオトーサンは強引にラテを公園から引き出した…。
面白いのは帰り道のラテの歩き方だ。
自宅を出た直後はリードをぐいぐいと引き、オトーサンの歩き方が遅いと思うほど勇んで歩いたラテだったが、帰り道は別人…いや別犬のようにトボトボと歩く(笑)。まるで違うその態度にオトーサンたちは苦笑いしながらもそれだけ雪の中での一時が楽しかったのだろうと思った次第。とはいえオトーサンたちにも都合というものがあるわけで一日公園で暮らすわけにもいかない。

歩きの遅いラテをなだめながらオトーサンたちは自宅に戻ったが玄関に座ったラテは心なしか不満顔だ。その顔とさきほど雪の中で見せた満面の笑顔を思い浮かべながらオトーサンは苦笑しつつラテの足や身体を拭く。
ぬるま湯で肉球を洗い、水分を綺麗に拭き取るが雪の中で暴れまくったからタオルで拭いたくらいでは完全に乾かず、久しぶりにドライヤーを使った。乾かしたに肉球をオトーサンの掌で包むとさすがにまだ冷たかった。

そのラテは女房が台所仕事をしている間に椅子の背にかけたダウンジャケットを引き下ろし、それをキッチンの床に広げその上でウトウトし始めている。

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※気がついたらオカーサンのダウンジャケットを椅子の背から引きずり下ろして寝ていた(笑)


ラテはそこにある敷物や寝具類をときに驚くほど巧妙に組み合わせてベッドメイキングするが、ダウンジャケットを椅子から引っ張り下ろしてその上に腹ばいになるという技にオトーサンたちは感心し叱ることも忘れてしばし見入っていたのだった。

スティーブン・レビー著「ハッカーズ」の勧め

スティーブ・ジョブズの人気がそうさせるのか、最近Apple Computer社が設立された時代背景について聞かれることが多くなった。そして同時に「なにか当時を知るためにお勧めの本があるか」といったことも問われる機会が多い。無論これ一冊で万全といったものはあり得ないが、まずお勧めすべき一冊はスティーブン・レビー著「ハッカーズ」であろう…。


スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックらが会社を興そうと考え始めたのは1970年半ばだが、その背景として個人で持つことが可能なホビーコンピュータ Altair 8800などが登場し始めたことによる。そしてホームブリューコンピュータクラブなどの設立がそうした時代の背中を強く押し始めた…。
これらの時代背景については当サイトでも多々取り上げてきたが無論参考となる資料や書籍もいろいろと揃えてあるもののそのピカイチはスティーブン・レビー著「ハッカーズ」(工学社刊)だと思う。

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※スティーブン・レビー著「ハッカーズ」(工学社刊)


ご承知の方やお詳しい方も多いと思うが、主に日本のマイコンとかパソコンの黎明期を克明に紹介したものとしては富田倫生著「パソコン創世記」(TBSフリタニカ)がある。この時代を克明に取材しこれほど詳しく記録したものは他に類がない大作である。

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※富田倫生著「パソコン創世記」(TBSフリタニカ)


またもう少し読みやすいものとしてはSE編集部編「僕らのパソコン30年史~ ニッポン パソコンクロニクル」(翔泳社刊)があるが、やはり本場である米国やらの歴史を追ったものとしてはP.フライバーガー/Mスワイン著「パソコン革命の英雄たち」(マグロウヒルブック刊)を筆頭にクリスチャン・ワースター著「THE COMPUTER~写真で見る歴史」(タッシェン・ジャパン刊)などがあるものの、白眉な一冊はやはりスティーブン・レビー著「ハッカーズ」(工学社刊)に違いない。

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※SE編集部編「僕らのパソコン30年史~ ニッポン パソコンクロニクル」(翔泳社刊)


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※P.フライバーガー/Mスワイン著「パソコン革命の英雄たち」(マグロウヒルブック刊)


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※クリスチャン・ワースター著「THE COMPUTER~写真で見る歴史」(タッシェン・ジャパン刊)


この「ハッカーズ」の一番の魅力はマイクロコンピュータとかパーソナルコンピュータがどのように進化してきたか…といったことではなく、ハッカーと称された魅力的で好奇心と反骨精神および優れた技術を身につけた人たちが時代の渦の中でどのように新しいものを生みだし、あるいはそれらを咀嚼していったかを克明に紹介していることだ。いわばテクノロジーが主役ではなく人間を主役としてパソコンの歴史を追っている点にある。

簡単に目次をご紹介すると第1部「真のハッカーたち」では50年代と60年代のMITと題して第一章から第7章まで、第2部「ハードウェア・ハッカーたち」では70年代のサンフランシスコ周辺がテーマで第8章から第13章までが、そして第3部「ゲーム・ハッカーたち」は80年代のシェラネバダと題して第14章から第20章までが描かれている。
さらに「エピローグ」では真性ハッカーの終焉と題した一文がある。

面白いのは冒頭に「ハッカー紳士録」という登場人物とマシンの一覧リストがあることだ。
当サイトでも名前が登場したことのあるスティーブ・ドンビア、リー・フェルゼンスタイン、エド・ロバーツ、レスリー・ソロモン、ジム・ウォーレン、そしてビル・ゲイツやスティーブ・ウォズニアックも登場する。勿論本文にはスティーブ・ジョブズも出てくる。それぞれ登場した主なアーティクルにリンクを貼っておくので参考にしていただきたい。

さて、本書「ハッカーズ」が並の読み物と違うのはひとえに著者スティーブン・レビーの力量による。無論本書は翻訳本であり私は原文を読んだわけではないが、1951年生まれのスティーブン・レビーというジャーナリストは業界で高い評価を受けている人物なのだ。彼はニューズウィーク誌のチーフ・テクノロジーライターやワイアード誌のライターを経たジャーナリストであり、主な著書には本書「ハッカーズ」を始めとして「暗号化」「iPodは何を変えたのか?」「マッキントッシュ物語―僕らを変えたコンピュータ」などがある。

興味深いのは以前「Walter Isaacson著『スティーブ・ジョブズ 』への批判について」というアーティクルを書いたがそれは「MACLALALA2」にJohn Siracusa(ジョン・シラキューサー)とJohn Gruber(ジョン・グルーバー)両氏によりウォルター・アイザックソン著「スティーブ・ジョブズ」の痛切な批判がなされていることを知ったからだ。
そしてジョン・グルーバー自身のポッドキャストには「きちんとしたことが書けるとしたら(伝記を書く適任者は)誰だったろうかという問いにスティーブン・レビーの名前が挙がったという。
確かにもし、スティーブ・ジョブズの公式伝記をこのスティーブン・レビーが書いていたらAppleの内部事情や開発秘話といったよりリアルで私達が知りたいあれこれに関しても記してくれたのではないかと思うがこればかりは何ともならない(笑)。しかし公式うんぬんといった冠はどうでも良いので個人的にはスティーブン・レビーにスティーブ・ジョブズの伝記を書いて貰いたいと思う気持ちは日増しに強くなる。

ともかくパーソナルコンピュータの歴史はそれに関わったハッカーたちの歴史でもある。ただ単に箱物としての機器だけを追っていては真の歴史は浮かび上がってこないしリアリティが感じられない。
そうした意味においてもパソコンの歴史に興味を持った方々には是非本書をお勧めする次第である。名著である。

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ハッカーズ

1987年3月5日 初版発行
2007年3月1日 第3版第7刷発行

著者:スティーブン・レビー
発行:株式会社 工学社
コード:ISBN978-4-87593-100-3
価格:2,500円(税別)
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ラテ飼育格闘日記(268)

昨年12月でラテが我が家に来てから丸5年が経過した。5年という歳月は決して短い月日ではないはずだがオトーサンにとっては文字通り瞬きする一瞬のようにも思える短い時間だった。そしてラテを飼い始めたとき、5年後にこの娘がどんなワンコになっているかなど思いもしなかったが、ラテ自身は我が家族の一員としてのポジションをしっかりと身につけて育ったように思う。


この5年間、オトーサンは当ウェブサイトのタイトルのままに、まさしく格闘を続けてきた。
なにしろワンコを飼おうと決心したもののそれまでワンコについての予備知識は皆無だったから犬種の違いはあるもののワンコなどどれも同じだと考えていたフシがある…。
ただし2006年12月10日の日曜日、我が家に連れてこられたラテと早速最初の散歩を試みたとき、それまでオトーサンが思い描いていたワンコは絵に描いたようなものだったことを悟った。
実際のラテは当然と言えば当然だが実に生命感に溢れて生き生きとしていたからである。

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※オトーサンと散歩中、ラテは頻繁にアイコンタクトする


オトーサンは書物で得ただけの付け焼き刃的飼育方法が実際にはほとんど役に立たないことを初日で悟ったのである(笑)。
散歩を楽しみながらオトーサンはこの娘との生活を続けた3年後、5年後にどのような成長が見られ、オトーサン自身がどのように変化しているかを客観的に知りたいと思うに至り、それが当「ワンコの”ラテ”飼育格闘日記」を始めようとした動機だったのである。

多分に毎日毎日、ラテの世話で忙殺されるだろうし、日々を同じように過ごしていたのでは自身の心の変化やラテに対する観察結果はその瞬間瞬間の思いとして浮かんでは消えて行ってしまうだろう…。後からでも良いからラテの成長と共にオトーサン自身の格闘の様子を振り返ってみたいと文字通り自分のための日記のつもりで始めたものだった。

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※オカーサンにおこぼれをねだるラテ


まあ、力んでみても続かないだろうから1週間に1度…本家「Macテクノロジー研究所」サイトのアーティクルアップロードがお休みとなる土曜日にその軒下を借りラテの日記をアップしてみようと思い立ったわけだ。
当然ブログ的な日記をというなら写真も必要だとオトーサンは散歩にデジカメを欠かさずに持参し始めたし現在もiPhone 4Sを取り出して撮影することもある。しかしすぐに限界を感じて土日の散歩に女房が撮影するというパターンが出来上がっていった。

何故ならラテのリードを操るのに手一杯のオトーサンであり、写真どころではないのだ。実際問題としてラテのリードを持っているから他のワンコと一対一で遊ぶこともできない…。せいぜいが頭を撫でたり、オヤツをあげる程度が精一杯で、それ以上の接触を続けているとラテが焼き餅を始めるから大変なのだ(笑)。そしてワンコ同士が喧嘩したり、近寄ってくれる子供たちに万一怪我でもあったらマズイとオトーサンはリードの扱いに全神経を集中するわけで写真どころの話しではなかった。

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※初めての公園で中の様子を伺うラテ


しかしサイトに使う写真にしても何でも良いわけではない。まあ、去年の姿で間に合わせたって誰も文句を言わないだろうが、そこは日記の性格から考えればその瞬間瞬間の生々しい写真が欲しいわけだからと日々撮り続けた結果、DVD-Rヘのバックアップもすでに数十枚にもなった。

そうして振り返って見ると…自画自賛になってしまうが、よくもまあ一度も休まずに続けられたものだと感心してしまう(笑)。これまた掲載を休んだところで文句も出ないと思うし、ありがたいことに毎週楽しみにしてくださる方々も少なからずいらっしゃることは知っているが1度や2度休んだところで「オトーサン風邪でもひいたかな」で済んでしまうに違いない...。

であるならもう少し肩の荷を下ろして適当に続ければよい…と自分でも思っているが、性分なのだろうか、自分で型にはめないと続かない気がしていまだに休まずこうして頑張っている…(笑)。
ただし我ながらこのページがあるからこの5年間の軌跡を振り返ることができるわけで当時の出来事やオトーサン自身があたふたしている姿をきちんと思い出すことができる。

実際の所、こうして自分で書いた内容であっても普段は忘れているし覚えていることは少ない。
サイトを振り返って見て「ああ、こうしたことがあった」と思い出す度に情報はできるだけ残しておくべきだとつくづく思うオトーサンである。

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※お嬢さん...頭が落ちてますよ(笑)


それに日々ラテの姿を見ているとその変化はなかなか気づかないものだが、5年前の今頃のページを確認するとラテの姿もかなり違っていたことが分かって面白い。
以前にも書いたが当初というか、飼い始めて2,3ヶ月までの姿を振り返って見るとラテは子犬だったこともあるものの頭でっかちで身体が細く、どこかアンバランスでオトーサンが見てもブス顔の写真が多い(笑)。
年を追う毎に顔つきがこうも変わるものかと驚くが、身体の細い太いだけでなく随分と表情が違う。

それは昔のラテは表情が大変厳しいことだ。やはり新しい環境にまだ慣れていないからだろう…。撮影当時はこんなものなのだろうとしか考えていなかったフシもあるが、事実オトーサンはリアルタイムにはラテの表情が硬いことに気がつかなかった。

思えば横浜の動物病院で1度会ったとはいえ、知らない人のところに連れてこられ「今日からここがお前の家」と言われても不安で気が休まらなかったに違いない。
しかし5年間という時間軸に沿ってラテの表情を追うと確実に変化が分かって面白い。
半年ほども経つとラテの表情にもいわゆる笑顔が見えるようになる…。

そんなラテも思いもよらないアトピーが発症して昨年末は慌ただしかったが、これからも可能な限りラテとの生活をエンジョイしながらこの「飼育格闘日記」を続けていくつもりである。


私的な「十手と捕物帳」物語

テレビドラマの水戸黄門が昨年末に最終回を迎えたが、これでNHKの大河ドラマを別にすると民放の連続時代劇のほとんどが姿を消すことになるらしい。無論時代劇なら何でも良いとは思わないが、剣とか刀が好きで居合いの真似事をやっているオヤジとしては些か寂しい…。人間を描くその背景が現代ではないというのもアリなわけだから是非スポットでも質の良い時代劇を続けて欲しいものだ。


テレビの時代劇にもいろいろあったが捕物をモチーフにした作品が多かったように思うし好みでもあった。
個人的にはテレビドラマ「銭形平次」だけでなく岡本綺堂の時代小説「半七捕物帳」なども好きで全巻読んだが、人情味溢れる岡っ引きたちの活躍が魅力である。
そんな捕物帳に不可欠なのが「十手」である。ちなみにこれを「ジュッテ」というのが一般的になりつつあるようだが、本来は「ジッテ」で「實手」と表記する流派もあるという。ちなみに私もオモチャ同然のものだが「藤巻十手」と呼ばれる物を所持している。これはその名の通り柄に滑り止めのため、籐を巻いたものだ。

よく岡っ引きの親分が紫の柄と房がついた十手を神棚に…といったシーンがテレビドラマにあるが、紫の房がついた「十手」は特別の恩賞を受けた同心しか使えなかったから岡っ引きふぜいが使うことはあり得ず、岡っ引きの十手は籐巻か縄や糸を巻く粗末なものだった。

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※柄に籐を巻いた「籐巻十手」


その「十手」は勿論武器及び捕具の一つであるが、私の持っている「藤巻十手」のような形状のものだけでなく長さも30cmから1mほどのものがあり、鉄・真鍮などの金属製はもとより、樫・栗などの堅い木でできたものもあったし同心たちの自費制作によるオリジナルな物もあったという。ちなみに十手を用いた武術を十手術という。無論その目的は「十手」を操り敵刃からの防御に用い、突いたり打つなどの攻撃、犯人の関節を極める・押さえつける、投げつけるなどを含めさらに柔術も併用して犯罪者捕縛に用いるためだ。

この「十手」の起源については諸説あるがもともと犯人捕縛の基本は生かしたまま捕らえることだ。殺してしまえば自供が取れず犯罪の細かな部分が分からないままになるし仲間の詮索もできなくなる。したがって兜割と呼ばれる刃が付いていない鉤を設けた刀状の捕具・武具が登場し、その系譜を継いで十手になったという説もある。

さてその「十手」といえば岡っ引き…すなわち「銭形の親分」とか「駒形の親分」などと呼ばれ「十手」を持って活躍する庶民の味方の岡っ引き、御用聞きを思い浮かべる。ただしこれらの呼び方は江戸でのことで関八州では目明かし、関西では手先などと呼ばれた。

しかし意外なことに岡っ引きたちは江戸時代の町奉行所や火付盗賊改方等の探索を補助し警察機能の末端を担った人たちには違いなかったが史実では非公認の協力者であったことだ。したがって岡っ引きたちを現在の警察官と同様に考えるのは誤りで、警察官に該当するのは同心たち以上である。さらに岡っ引きの手下、例えば銭形平次の子分の八五郎は下っ引と呼ばれた。

そもそも「十手」は江戸時代だと奉行所の与力、同心たちに捕物用武具として、また鑑札(身分証明)の名目で与えられたが、同心に仕える岡っ引きは前記のように非合法に雇われた者であり本来「十手」を渡されることはなかったという。ただしそれでは現実的ではないため、臨時に貸し与える形をとり、結果として常時携帯させる場合もあったらしいし、私物の「十手」を所持していた岡っ引きもいたという。

だからドラマでよく使われる岡っ引きの台詞で「俺は…お上から十手・捕り縄を預かっている」という物言いがあるが、それは大嘘で町奉行所では十手も捕り縄も預けてはいないのである(笑)。したがって岡っ引きたちはドラマのように奉行所に表立って出入りすることも出来なかった。

また非合法ということから町奉行所より報酬や正式な任命があったわけでもなかった。とはいえ岡っ引きは担当の同心から配下の印として自筆の「手札」と月に2分ほどの小銭をもらっていたというが、女房に商売をさせ町内からの付け届けや裏取引の余録などで余裕のある親分もいたという。
したがってドラマや映画にもたびたび悪徳な岡っ引きが登場するが、事実博徒やテキヤの親分が岡っ引きになることも多く、これを「二足のわらじ」と称した。

例えば池波正太郎作「剣客商売」に登場する隠居した剣豪秋山小兵衛ご贔屓の御用聞き弥七は「御用聞きには良い奴と、悪い奴がございましてねぇ」とはっきり言っているとおり、女房が正業にでもついていなければ御用聞きだけで食っていくことはできず、あくどい事でもやらなければなかなか成り立たなかったらしい。ちなみに弥七の女房は「武蔵屋」という料理屋をやっている…。

また「十手」の扱いに関してだが、ドラマなどでは同心も親分たちも腰帯に挟んでいるがこれまた史実とは違っている。
本当は親分たちはこれ見よがしに腰帯に挿して歩いたりはしなかった。普段は背後の帯の結び目のところに見えないように挿し、羽織を着て意識的に十手者とは分からない姿をしていたし、同心たちも普段は「十手」を懐に入れ、必要な時に「御用の筋の者だが」と出して見せる程度だった。
そして捕り物の際にも岡っ引きは奉行所勤めでも奉公人でもないからドラマのようにいきなり「十手」を振りかざして「御用だ!」と捕縛はできなかった。人を捕らえる場合は同心から令状をもらい、はじめて代行として召し捕る権利を与えられることになった。

こうして一本の「十手」にも多くのドラマが見え隠れするわけだが、事実質素な「十手」一本でも十手術に優れた者にかかれば10本の手に匹敵する働きをするとも言われ、そこから「十手」と呼ばれたというまことしやかな話しもあるくらいなのである。
武術の心得がない者にとっては単純に短い「十手」で大刀を振りかざす奴らと対等に戦えるのかと思うが、一般的には複数の捕り方が大八車、刺又(さすまた)、突棒(つくぼう)、袖搦(そでがらみ)など効果的な捕具を使って犯人を追い詰めたし、狭い場所や室内などでは短い武具が有利な場合も多かったから十手術に優れた者にとって「十手」は実用的な武具だったのだ。

【主な参考資料】
絵で見て納得!時代劇のウソ・ホント (遊子館歴史選書)


ラテ飼育格闘日記(267)

お陰様でオトーサンの風邪もほぼ完治したようだ。とはいえ朝晩はかなり冷え込む日もあるので再び風邪を引かないようラテとの散歩時にはネックウォーマーや手袋は欠かせない。しかしラテはワンコとはいえこの寒さの中、お尻丸出しで元気なのだから恐れ入ってしまう(笑)。


肉球を噛み、痛いときを別にするとこのところラテは散歩に出れば通常以上に散歩を続けたいようで、いつもなら階段を降りて右折し、自宅の方面に向かうところを左折してまたまた新規開拓をしたいような素振りを見せる。
ある日の夕方の記録をiPhoneで確認すると、散歩の所要時間は1時間45分06秒で歩いた距離は4.78キロメートルだった...。オトーサン疲れるはずである(笑)。

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※この日の夕方散歩は4.78kmも歩いた...


本来オトーサン的には明るい時間帯に夕方の散歩を終わらせたいところだが、朝まで時間が長いとオシッコを我慢させるのも可哀想だと思ってなるべく時間帯を遅めにしているが、この時期は途中ですでに真っ暗になってくる。無論自宅でオシッコなどをする場所はラテが我が家に来たときから同じ場所に設置してあるがこの2,3年はオシッコも室内でやらなくなってしまったのだ。

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※この時期、散歩の途中でかなり暗くなってしまう...


ともかく明るくても暗くてもラテは実に嬉しそうに、あるいは仏頂面で黙々と歩く。そしてオトーサンの左右どちらにいても時折オトーサンの足の後ろ...関節裏から太ももあたりを鼻先や前歯で「ツン」と突く。たまに前歯や犬歯が当たるときは些か痛いこともあるが、ラテに悪気があるわけではない(笑)。
この動作は実に様々なニュアンスを含んでいることは経験上分かっているが、実のところ今の「ツン!」が何の意味なのかを咄嗟に判断するのは難しい。
まあ、一番確率的に多いのは「オヤツチョウダイ」だ。しかしその他、アイコンタクトならぬ「ツン!」という行動でオトーサンの気を引き絆を確認しようとする場合もあるし、同じ「ツン!」でも批難の意思表示の場合もあるからその判断はなかなか難しい…。
オトーサンのリードさばきが気にくわない時にも「ツン!」とくるし「ネエネエ…オトーサンったらあ」と甘えたいときにも「ツン!」が来る。

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※オカーサンのリードでご機嫌なラテ


それはその瞬間瞬間の状況とラテの表情で判断するしかないが、オトーサン的にはそれがなかなか楽しいのだ。問題はオヤツの催促でもないのにオヤツをあげては教育上よろしくないしオトーサンに意志が伝わっていないことがバレバレになる(笑)。しかしワンコの吠え声を翻訳するバウリンガルでも声を出さない「ツン!」は判断できるわけもなく、そこはオトーサンの勝負所なのである。
この5年間、試行錯誤の上でオトーサンが知った(つもり)範囲でいうなら、まず「ツン!」と来たとき、初回は意識的に無視してみる。
すると我が娘は「いまのは伝わらなかったのか」と思うのか2度3度と「ツン!」を繰り返すことがある、初回で止めてしまう時ほどオヤツの要求ではなくコミュニケーションを取りたい場合のように思えるのだ。

したがって1度目の「ツン!」を無視し、ほんの5秒程度様子を見てその間2度目の「ツン!」がないときにはオトーサンはあらためて腰を屈めてラテの頭や顔を撫でたり軽く叩いてやる。このとき、さも嬉しそうな表情でアイコンタクトしてくるならそれは間違いなくオトーサンと意志の触れ合いをしたい場合だと思っている。
それを確認してオトーサンも2度3度、ラテの頬などを軽く叩いてやるとラテは口を開け、嬉しそうにアイコンタクトしながら歩くがしばらくは「ツン!」はない。それはラテとしては「ツン!」の目的を果たしたからである種の満足感があったからだろう。

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※オトーサンと公園の小山を駆け上がるラテ


しかしすぐに「ツン!」が来る場合はオトーサンの判断間違いでそれはオヤツの催促あるいは文句ということになる(笑)。
とはいえ文句の「ツン!」は比較的分かりやすい。それは「ツン!」がかなり強い場合が多いからだ。やはり不満は即行動に出やすいようで自分の行きたくない方向にオトーサンがリードを引き続けたり、人混みだからとリードを極端に短くして歩いたりするとこの強い「ツン!」を喰らうことになる(笑)。
最近ではあまりやらなくなったが、それでもオトーサンが無視し続けると今度は両前足を上げ「ドン!」とオトーサンを突き飛ばすこともあった。まことに感情表現がオーバーで面白い娘ではあるが、最初は随分と面食らったものだ。
何しろ人混みでワンコに背中をド突かれながら歩く飼い主というのは、絵にならないし情けない(笑)。ただしこれまた同じく両前足を上げてオトーサンの身体に体重を預けるにしても突くのではないときは「抱っこしてチョウダイ」の意思表示だ。この時オトーサンは嬉々としてしゃがみ込み、体重18Kgのラテを抱き上げてやる…。ちなみに抱っこして欲しい理由だが、怖いとき、足が痛いとき、そして歩きたくないときなどなどこれまた様々である。

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※すれ違った飼い主さんに「アスリートみたいね!」と言われた...


それからなかなか判断は難しいが、コンタクトの「ツン!」のとき、オトーサンはわざと「ツン!」が足に届かないように速攻で足を前に出して外すとラテは慌てて「ツン!」を再度繰り出す。しかしこれまた足に当たらないよう外すとラテはムキになって「ツン!」を繰り返すときがあって面白い。その時の顔は口を大きめに開け、目をキラキラさせて嬉しがっている。
無論最後は頭を撫でてオヤツを差し出せばご機嫌である。

ラテのこうした日常の行為ひとつにも観察を続けていると少しずつではあるもののその意味が分かってくることがある。まあオトーサンの思い込みだという可能性もなきにしもあらずだが、要はオトーサンとラテとの間である種の意思疎通が図れればよいわけだし、ワンコすべての「ツン!」がこうした意味を持つとは限らないのでアシカラズ…。
あっ、向こうの部屋で寝ているラテが悲しそうな声を上げたので静かに覗いてみると背を振るわせ「クフッ…ウウウ」と鳴いている。オトーサンに叱られている夢でも見ているのだろうか。

心が温かくなる本「見上げてごらん夜の星を」

いま私の机の上に一冊の文庫本がある。竹之内響介著「見上げて ごらん 夜の星を」というご存じ坂本九が歌ってヒットした歌のタイトルをつけた本である。実はこの文庫本はご縁があり、著者ご本人からいただいたものなのだ。


1月21日(土曜日)から映画「三丁目の夕日 '64」が公開上映されるという。この映画は東京オリンピック開催を目前にした時代がテーマなわけだが、本書「見上げて ごらん 夜の星を」も東京オリンピックを翌年に控えた、東京墨田のとある小さな町…が舞台となっている。そして短篇連作集(9篇)による昭和30年代を生きる人々の清々しい生きざまが描かれている。
その時代を私のようにリアルタイムに生きた人たちは勿論だが、お若い方々だとしても本書のページを追う毎にご自分の両親が生きた時代の一端を本書はありありと眼前に再現してくれるに違いない…。

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※竹之内 響介著「見上げてごらん夜の星を」(泰文堂刊)表紙


「3丁目の夕日」の時代、すなわち1960年代は貧しくとも幸福であったように言われることが多い。確かに家族は勿論隣近所は文字通り肩を寄せ合い、一生懸命助け合って生きた時代だった。
返すあてもないのに毎日、米や味噌醤油などを借りにくる近所の子だくさんのオバサン…。いつもきまって「うっかりしゃってさあ!きらしちゃった」と明るく、それも毎回同じパターンでやってくる(笑)。母や近所のおかみさんたちも「この前のまだ返してもらってない」などと野暮なことはいわないで「あら、大変だねぇ」といいながら僅かの米などを渡していた。
本書を読み進んでいるとそんなオバサンたちや今から思えば粗末な態で遊び回る子供たちの顔が小説の中の主人公たちと重なる…。

私自身も1964年の東京オリンピックのときは高校一年生であり、「3丁目の夕日」の時代のど真ん中で育った1人なのである。しかし公平に見るなら記憶は美しく残るにしても当時は決して幸福であったとは思えない。
何故なら貧しいということは決して美しいことではないからだ…。

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※昭和34年(1959年)前後の珍しく家族全員が揃った写真。時代とは言え貧しさが滲み出ているが(笑)一番右が私で当時10歳か11歳くらいだったはず...


いま振り返ってみても父母だけでなく多くの人々にとって苦労が絶えなかった時代のように思う。我が家も父の仕事が定まらなかった時期など子供心に辛いものがあった。
ただしその時代は確かに貧しかったが、一生懸命勉強し努力し困難に打ち勝てば必ずや未来は明るいのだ…と皆が心のどこかで信じていた時代だったし東京オリンピックがそのひとつの象徴だったといえよう。

さて本書のタイトル「見上げて ごらん 夜の星を」だが、本小説の中にもこの歌が登場するとおり、この歌はそもそも1960年にいずみたく作曲、永六輔作詞による同名ミュージカルの劇中主題歌だったのだ。そして1963年5月に坂本九がシングルレコードとしてリリースすると大ヒットしたわけで1963年が舞台になっている9篇の短篇連作集にはまことに相応しいタイトルだともいえよう。

9篇の短編小説のページをめくると...無論そこに登場する人々は小説中の登場人物だが、描かれている情景がありありと浮かんでくる。
アパートの玄関から見えた筑波山やお化け煙突、そして電車から降りて橋を渡ってくる父の姿などを思い出す。さらに忘れかけていた商店街の街並みや近所の路地に至るまで…そう板塀にあった大きな節の模様や時に異臭を放っていたゴミ箱やドブ板までもが懐かしいように思い出される。
そして気がつくと涙が溢れていた…。

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見上げてごらん夜の星を

2011年10月5日 初版第1刷発行

著者:竹之内 響介
企画・編集:(株)リンダパブリッシャーズ
発行所:株式会社泰文堂
コード:ISBN978-4-8030-0227-0
価格:648円(税別)
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スティーブ・ジョブズはAppleを首になったのか?

対人関係のトラブルの真意を掴むのは非常に難しい。こちらの言い分もあればあちらの言い分もある。但し多くのマスコミはセンセーショナルな方を好むし我々も1度すり込まれるとそれが本当のように思い込んでしまう。スティーブ・ジョブズが1985年9月にAppleを辞職した際「Appleから首になった」といった説がまかり通っているのもその一例だ。


ここでいう "首" とは一般的には申し上げるまでもなく企業側の一方的な意思表示であり、雇用契約の解約に当たり労働者の合意がないものをいう。しかしスティーブ・ジョブズがAppleを去った経緯は単純なものではなく事は複雑だった…。そして結論を先に言えばジョブズは首になったのではなく役職を剥奪され、居場所がなくなったと感じ自分の意志でAppleを辞めたのだ。

ジョブズがAppleを去らねばならなかった直接の理由はジョン・スカリーとの確執だった。もともとスカリーはスティーブ・ジョブズに口説かれてAppleのCEOの職についた。スカリーはペプシ・コーラUSAの有能な社長として知られていただけでなくジョブズにしてみればコンピュータやテクノロジーに詳しくないという意味で自身の思うがままに操れると考えたらしい。

ともかくスカリー入社時期といえばAppleはちょうどMacintosh発売の時期でもあり、2人は目的を共有することが可能だった。スカリーは「アップルのリーダーはただ一人、スティーブ・ジョブズと私です」と関係が良好であることをアピールし、世間も二人をダイナミック・デュオと呼び賞賛した。
しかしそれは長く続かなかった。
大きな問題はMacintoshが売れず、在庫の山が膨大になりAppleは創立以来初めての深刻な危機に遭遇していたからだ。そしてAppleの取締役会や幹部達の中にはその原因がジョブズの言動にあると考えた者が多かった。
ジョブズはMacintoshの開発は勿論、販売にいたる細部にまで口を出し、経営に疎いにもかかわらずビジネス面にも干渉していた。それに人のやることにも首を突っ込んでかき回すことも多く、スティーブ・ジョブズを重荷と考え始めていたのである。

1985年4月10日から始まった取締役会でスカリーは苦慮した上の結論としてジョブズを上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座から外すことを重役達に告げる。ただスカリーはこの時点でジョブズをAppleから追放することなど考えもしなかった…。あくまで経営には口出しをさせず新製品開発に集中してもらいたいという考えだった。
結局取締役会はスカリーの考え通りジョブズを会社の経営権がない会長職に置くことに同意したがジョブズは黙ってそれに従う男ではなかった。

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※スティーブ・ジョブズは後年Appleをクビになったことは人生最良の出来事だったと振り返った...


ジョブズはスカリーが中国に出張する時期を捉え、立場を挽回する策に出ようとしていた。ジョブズが間違ったのはその作戦をジャン・ルイ・ガッセーに話したことだった。ガッセーは当時製品開発部門の副社長だったがジョブズがスカリー不在中にスカリーを追い出す秘策を練っていることを本人に密告したのである。
無論ガッセーにも言い分はあった。彼は後に「事が起きれば会社(Apple)は滅びてしまう。この会社は我々の誰かよりもずっと大事なものなのだ」と発言している。

スカリーは急遽出張を取りやめてジョブズに事の真相を糺すが、ジョブズは「あなたはアップルにとって有害だ。この会社を運営すべき人間ではない」とかつて熱烈なラブコールを送った相手に対し悪意に満ちた反撃をする。
スカリーとしてはそうまで言われれば後には引けない。スカリーはすべての重役達に自分とジョブズのどちらかを選ぶように宣告するが重役達は一人、また一人とスカリー側についた。ジョブズの思うように事は運ばなかったのである。

この日から2日後にジョブズはスカリーが会長になり自分がCEOになるという子供だましのような提案をするが無論スカリーはそれを拒絶し5月31日にジョブズからすべての経営権を剥奪するという書類に署名する。
ジョブズは名目だけの会長職となり、離れにあるオフィスでグローバル・シンキングの任が与えられた。しかしジョブズにしてみればそれは死を意味するに等しい仕打ちだった。
彼には普通の経営報告書すら見ることを許されていなかったからだ。
ジョブズは泣きながらビル・キャンベルとマイク・マレーに電話をかける。マレーが電話口に出るとジョブズは「僕はもう終わりだ。ジョンと取締役会にAppleから追い出されたんだ」と言ったきり電話を切る。
マレーが電話をかけ直してもジョブズは出ない。時刻は22時を回っていたが自殺でもするんではないかと心配したマレーはジョブズの自宅に出向きジョブズと抱き合って泣いたという。

ジョブズは気晴らしになるかと考え以前から予定されていたバカンス兼ビジネスの旅に出る。
ヨーロッパを回り、ロシアでApple IIのプロモーションを行い、フランスやイタリアなどを回って戻ってきた。その間ジョブズは自分なりにいろいろと考えたに違いないが自身の言動を反省した形跡はない…。

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※スティーブ・ジョブズはよく言い訳をしない男と評価されるが、反省のないところには言い訳もない(笑)


またAppleに戻り何とかスカリーとの関係を修復できると考えていたようだ。しかしクパチーノに戻ってみると自分の居場所はすでになかった。
オフィスは自身がシベリアと呼んだ別のビルに移されたがジョブズはともかく出社はした。電話をかけたり郵便物を確認したりするが数時間いると気が滅入ってくる。
これを数日繰り返したようだが精神衛生上もよくなく出社を止める…。

ただしジョブズはまだAppleの会長職であった。この間、仕事はやめて自宅の改修をやったりスペースシャトルの搭乗員に応募したりもする。
しかしその後、ジョン・スカリーが証券アナリスト達に対して発したコメントに愕然とする。それは「当社の経営にスティーブ・ジョブズが関与することは現在も今後もありません」というものだった。
スカリーにしてみればAppleの株価が下落を続け6月末終了の四半期決算で1720万ドルの赤字を計上した直接の責任はスティーブ・ジョブズにあると考えていたからこそ、その災いの元を封印することで市場の同意を得ようとしたのだろう。

しかし何とかスカリーとの確執を修復したいと考えていたジョブズは愕然とする。そして自身の望む形の復職は望みがないことを知る。
その数日後、彼は決心し所有するApple株を売り始める。一株だけ残してすべて売り払いたかったが発起人株の売却にはルールがあり分割して売るしかなかった。ともかくこの株売却でスティーブ・ジョブズは何か新しいことを企んでいるのではないかという憶測が市場やマスコミに飛び交った。

結局ジョブズは1985年9月17日付けで辞表を提出するが、その中で自分はまだ30歳という若さだし会社に貢献したいし目的も果たしたいと書いている。
ジョブズは同じ辞表の文章をマスコミにも流す。そして最後の砦、会長職もAppleは剥奪しようとしていると多分に同情票を獲得しようとしたのだろうが、残念ながら当時の市場はジョブズがAppleを去ることを歓迎し、ためにAppleの株価も上昇した。
事実後述するスタッフの引き抜きに激怒したAppleの重役達はジョブズの会長職をも剥奪することを考えたが、ジョブズは首になる前に先制攻撃をかけ会長職と共にAppleから完全離脱すると辞表を提出する。

この辞表を出すまでの間、ジョブズとAppleは喧喧諤諤の争いを続けていた。それはジョブズがAppleを辞め新しい会社を興すという計画についてだった。Apple社内は騒然としていた。
中でもかつてジョブズの強力なイニシアティブの元でひとつになりMacintoshを開発したチームの人たちはどうやらジョブズの新しい旅立ちに自分たちは選ばれないことを知り失望し大半はほどなくAppleを去って行く。
ちなみにMacintoshが誕生して早々、その開発関係者の多くがAppleを辞めていく直接の理由が分からなかった。燃え尽きたのだろうかと漠然と考えていたが、この時のジョブズの言動が彼らを失望させたのが直接の原因だったようだ。

例えばアンディ・ハーツフェルドは「どんなに意志が固くても、スティーブ・ジョブズに残って欲しいと言われたら、Appleを辞めることは難しかった」と自著「レボリューション・イン・ザ・バレー」で語っている反面、1984年2月にLisaチームと統合された以降、「それまで自分たちが物笑いの種にしていたような、官僚的な弊害やくだらない縄張り争いがはびこる大きな組織に組み入れられてしまったようだった」と当時を振り返っている。そしてジョブズに今後のことを相談するが彼は何かに気を取られていたようだという。それは無論ジョブズ自身の今後とスカリーとのトラブルに関することで頭が一杯だったに違いない…。

ジョブズはハーツフェルドに「俺はお前に戻ってきて欲しいと思っているが…」と切り出したものの次の言葉にハーツフェルドはAppleに対する気持ちが離れていくのを感じたという。それはジョブズが「…どっちにしろ、おまえは、おまえ自身が考えているほど重要じゃないってことだ」と言ったからだ。
スティーブ・ジョブズはこの時期、自分のことで精一杯だったのかも知れないがMacintosh開発チームの中でビル・アトキンソンと共にソフトウェアの魔術師ともいわれ貢献したハーツフェルドに対してのこの仕打ちは…やはり当時のジョブズは人の上に立つだけの器量がなかったのだろう。

さて、当初Appleは場合によってはその会社に投資をしてもよいと柔軟策も見せたが、ジョブズが引き抜くスタッフのリストを確認してスカリーらは激怒する。マイク・マークラでさえ取締役会後の声明で「取締役会はスティーブ・ジョブズの行為を前日の取締役会における説明と矛盾するものと判断し、現在対策を検討しています」と発表する。
それはジョブズが当初引き抜いてもAppleには影響のないスタッフたちだと明言した事実とは違い、彼らはAppleが計画していた次世代製品開発プロジェクトの機密情報を握っている重要なスタッフたちだったからだ。

ジョブズ辞職後Appleは受託義務違反でスティーブ・ジョブズを訴えることにした。ジョブズはAppleに対して一定の受託義務を負っていたにもかかわらず、Appleの取締役会会長として、また役員としてその職務を行いながら、またAppleの利益に対して忠実であるかのように振る舞いながらもAppleと競合する企業(NeXT社)の設立を秘密裏に計画したこと。さらにジョブズが新設する競合企業が、次世代製品の計画・開発・販売に関するAppleの計画を不当に利用することを秘密裏に画策したから…という理由で…。

まあ、Appleの言いたいこともわかるが、これは些かおかしな訴えでもあった。なぜならスティーブ・ジョブズは当時のAppleにおいて不要な人物と評されたからこそ閑職に追いやられた。いわば役立たずのトラブルメーカーだと考えられたわけだ。その人間がAppleを辞めた途端にAppleにとって脅威な存在になったと捉えるのは無理があるように思える。
ジョブズ自身も「4300人あまりを擁する20億ドル企業(Apple)が、ジーパン姿の6人(NeXT)とまともに競えないなんて、考えられないね」と反論し、スタッフたちと共にNeXTの仕様を決めるため全米の大学に散った。しかしAppleというブランド抜きにジョブズが成功できるかは本人も含めて誰も分からなかった。
「ジョブズ・ウェイ」の著者で身近でジョブズのサポートをしていたジェイ・エリオットは当時スティーブ・ジョブズから「死ぬほど怖かった」と打ち明けられたという。

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※スティーブ・ジョブズ(1955ー2011) R.I.P.


スティーブ・ジョブズはスタンフォード大学における有名なスピーチの中でも「30歳の時、アップルを首になった( I got fired )」という物言いをしているが、それはかなり屈折した心理からきた発言に違いない。実際は会長職へ追いやられ現実的な仕事はすべて剥奪されたものの首にはなっていないし自ら辞表を出しているのだ。そしてもし前記のように「上級副社長兼マッキントッシュ部門のジェネラルマネージャーの座」を首になったというならニュアンス的にはアリだろうが...繰り返すがジョブズはAppleそのものを首になってはいないのだ。
いずれにしろジョブズにとってAppleの仕打ちは首を宣告されたに相当する過酷で納得のいかないものだったのだろうが...。

また「追放された」という表現も多々使われるが「首」よりは実情に合った表現のような気がする。しかし少なくともジョブズ本人が言うように「首になった」事実はないし形として辞表を出して受理され辞職したことになっている。
いかにも「首」というと突然問答無用で放り出されたといったイメージがあるが、それは事実とはほど遠かったのだ。
「アップルを創った怪物」の中でジョブズの盟友だったスティーブ・ウォズニアックははっきり述べている。「スティーブは取締役会との権力争いに敗れ、辞任した。権限の大半を取り上げられたので、辞めたんだ。スティーブがクビになったって思っている人が多いけど、それは間違い」と...。
とはいえスティーブ・ジョブズはジョン・スカリーを生涯許さず決して仲直りしようとしなかった。10年も経ったときテレビ・ドキュメンタリー「Triumph of the Nerds」 でのインタビューでジョブズはスカリーについて「間違った人間を雇った」と答えている。

ともあれ例えばスティーブ・ジョブズがAppleの提案を受け入れてAppleの閑職に数年我慢していればスカリーの綻びからまたまた脚光を浴びたに違いない。しかしジョブズにはそれが出来なかっただけでなく運命はAppleとジョブズにより過酷な試練を与えた。その間Appleは経営難に苦しみ、ジョブズも多くの失敗を重ねた末に両者の運命は11年後再び相まみえることになる。

【主な参考資料】
・アスキー出版局刊「アップルコンフィデンシャル」
・東洋経済新報社刊「スティーブ・ジョブズ-偶像復活」
・オイラリー・ジャパン刊「レボリューション・イン・ザ・バレー」
・三五館刊「ジョブズ伝説」
・講談社刊「スティーブ・ジョブズ I 」
・早川書房刊「アップル(上)」
・ソフトバンク・クリエイティブ刊「ジョブズ・ウェイ」
・ダイヤモンド社刊「アップルを創った怪物」


ラテ飼育格闘日記(266)

オトーサンの風邪もまずまず収まり、平々凡々の正月を迎えることが出来た。「一年の計は元旦にあり」とはいうものの特に新しい決意や決心をするでもなくいつもと同じユルーイ1日で今年もスタートした。しかし困難が山積みの時代に平凡な生活ができることは感謝しなければならない…。


大晦日も元旦もラテとの散歩で始まり、散歩で終わる日々としてはいつもとまったく同じである。ただしちょっといつもと違ったのは女房が大晦日の夜に芸能人のカウントダウンを観るために出かけてしまったことだ(笑)。
大晦日は夕刻の散歩から戻った後に年越し蕎麦を食したが、その後女房はいそいそと外出してしまった…。残されたオトーサンとラテはしばらく一緒に時間を潰していたが、ラテがウトウトし始めた頃、オトーサンは仕事部屋に入りMacの前で年末最後の片付けなければならないあれこれを開始。

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※アタシはカフェに行きたいのよっ!!


もともと紅白歌合戦はもとよりテレビを観るつもりもないオトーサンはひたすらMacのモニターに集中していたが、気がつくとすでに24時近くになっていた。
実は自宅のすぐ近くに小さな神社がある…。近所の地主たちが氏子になって守っている本当に小さな神社で普段はほとんど意識しないが祭事がある時期は小さくともやることはやる(笑)。
「初詣では○○神社」と手描きのお知らせがあちらこちらに立てかけられたりもするし、夏は御輿も出るし露天らしきものも並ぶ。

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※近所にある小さな神社の社


それはそれで季節感もあって悪くはないが大晦日の夜は困ったことに太鼓を叩き始めるのだ。神事には疎いオトーサンだが、そんなものなんだろうか?
近所だからして太鼓の音は容赦なく響くし深夜だからして他の騒音がない分興味の無い罰当たりのオトーサンには迷惑千万なのだ(笑)。
この地に引っ越してきた最初は何事が起こったのかと飛び起きたが、何にせよテレビも見終わりこれから寝ようという人たちは多いはずだが、誰も苦情をいわないのだうか…と思う。まさしく罰当たりな考えかも知れないが、ヘタな太鼓を叩くのは神様でなく人間なのだからありがたくもない(笑)。

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※大晦日の朝の散歩にてボーちゃんと格闘。「おっ、やったな...これでどうだあ!」


それに女房が戻ってくるのは早くても午前3時過ぎになる筈だからオトーサンとしてはやはり心配で熟睡することもできない。それでもラテの寝ている側でしばし横になったオトーサンだが太鼓の音はまだ止まないのでこれまた寝付けない。
ウトウトしかけているとiPhoneに連絡が入り、女房が最寄り駅に到着する時間がはっきりしたのでラテと迎えに行こうと準備をした。
意外と街灯が明るく感じる元旦の深夜、歩道の向こうに女房のシルエットが確認できるとラテはステップを踏むように喜びながら駆け始める。仕方がないのでオトーサンも走る...。

というわけで、これまでは毎年元旦の日の出を見るためにいつもの大きな公園に出向くのが恒例になっていた。寒いけれど公園に行けばラテの友達ワンコに会えるかも知れないからでもある。そこで「今年もよろしくお願いします」と挨拶し合うのも楽しみのひとつだったが、女房はさすがに疲れて起きられず、オトーサンはオトーサンで寝不足で起きられず、日の出を拝む時間を逃してしまった元旦の朝となった。

まあ、ラテにとってはそれこそ正月もお盆も関係ないわけだからと遅ればせながらラテと朝の散歩を済ませ、女房の作った雑煮を食べてやっと新年の気分が出てきたオトーサンなのであった。
とはいっても昨日と何かが大きく変わるわけでもなく、ラテは相変わらず肉球を噛んでは血を滲ませている。オトーサンはその部分に薬を塗り、包帯を巻いてやると少しは楽になるのか眠り始めたりする。オトーサンはその寝顔を眺めながら思わず頬ずりしたりする(笑)。

そういえばいつの頃からか正月といっても特別扱いがなくなった。せいぜい1,2度雑煮を食すくらいで親戚が一同に介すこともなくなったし旅行はもとより初詣にいそいそと出かけることもなくなった。
玄関には女房が買ったしめ飾りが飾ってはあるものの、正月らしさはなくなった。それにテレビで正月番組を見ながら過ごすこともなくなったしおせち料理を数日間続けて食すこともなくなった。
なにしろ元旦だけは近隣のスーパーも休みとなるが2日から営業開始だし、コンビニは無論元旦もお店は開いている。したがって買い置きをしなければならないものも少ないし正月だからといって特別な準備をする必要がなくなってしまった…。

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※アタシ正月嫌いなんですけど、文句あるぅ?


そんなわけでかなり出遅れた元日の散歩だったが、困ったのは事情を知る由もないラテが駅コンコース上にあるお馴染みのカフェの方にリードを引くことだった。しかし元旦の今日だけは休みなのでオトーサンはリードを強く引いていつもの公園の方に向かう。しかし頑固な娘は不満らしく時折反抗してはリードを強く引く。
女房は「今日はお休みなの!」「ね、行っても何にもないの!」とラテに向かってこれまたお目出度い言い聞かせに熱心だが、無論ラテは知らん顔でオトーサンのリードさばきに反抗する(笑)。

それでも公園を一回りして戻ってきたが時間がいつもより大夫遅いし何しろ元旦でもあり、さすがに人通りも少なく出会うワンコもいなかった。
こんな何の変哲もない1日を重ねていくだけでは面白くもないかも知れないが、その平々凡々の毎日がいかに貴重で大切なものなのかを2011年は教えてくれた気がする。
その元旦の午後2時27分過ぎ、ちょっと大きめの揺れを感じた。震源地は鳥島近海だという。
何だがオトーサン的には「正月惚けせず、東日本大震災を忘れるな!」と言われているような気がして昨年の3月11日、ラテと共に恐怖の数分を立ち尽くした同じ玄関でラテの首回りを抱え込んだ...。


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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員