Kindle paperwhite ファーストインプレッション

今更だが Kindle paperwhite を手に入れた。本を読むためだがそれならiPad miniもあるしiPhone 6 plusもある。あらためてKindleを手にする必要はないだろう...という意見もあるに違いない。確かにこれまでそうした理由から手にしたことは1度もなかったが大人の事情もあって俄然興味を抱いた。


活字中毒者の私だが、そのほとんどは紙媒体を読む。長い間コンピュータを相棒にしつつ日々その前に向かう1人として自分でも偏屈かな...と思うが、いわゆるデジタル書籍は性に合わず物理的な書籍が好きなのだ。こうした思いの多くは長い間の習慣によるもので理屈ではないのである。

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※Kindle paperwhiteのパッケージ(上)と本体(下)


そんな私ではあるが本を手放せないとはいえこれ以上物理的な本を増やしたくないことがひとつ...。そして前記したことと矛盾するが視力に問題もあって印刷した活字では読みにくいこともあることなどを理由に今更だが電子書籍を考えてみようかと思った。
しかしそもそも私の好んでいるジャンルの書籍や文庫本あるいは新刊書などの多くは電子化されていないこともあってまだまだ望みどおりにはいかないが、まあ可能なことからやってみようと考えた。

それなら手元にあるiPhoneやiPadで即実行できるわけだが、これまでにもiPadで本を読むという行為を試みたことは幾度とあったがどうにも気に入らないのだ(笑)。
その一番の理由だが、例えばiPadにしても読書専用デバイスではない。インターネットに接続しブラウザであれこれブラウジングできるしTwitterもできればメールやSNSの配信も届く。要は気が散って読書に集中できないのだ。これはiPadのせいではなく使い手の問題だとは認識しているが...。

またiPadやiPhoneのディスプレイは確かにカラー表示は大変綺麗だが、活字だけを追うには反射が気になる。常用しているiPhoneにはノングレアのガラスフィルムを貼ってあるが私にとって決して文字を追うという意味では見やすいとはいえない。
それにiPad miniは手に取り読書するにはやはりサイズが大きいしiPhone 6 plusは縦横比が書籍と大きく違うことが気になってしまう。自然に読書に集中できるデバイスが欲しい…。

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※Kindle paperwhiteと文庫本のサイズ比較(上)。iPad miniとKindleのサイズ比較(下)


ということで Kindle paperwhiteを入手してみた。これは薄さ9.1mm、重さ205gで片手で持っても疲れにくいサイズと重量だ。なによりも電子書籍専用デバイスであり余計な機能は持っていない。そして最大の長所はE InkのCarta電子ペーパー技術を採用した6インチPaperwhiteディスプレイだ。16階調グレースケールでありカラー表示はできないがそれはこの場合欠点にはならない。

事実そのディスプレイ上の表示は実に見やすい。購入時のディフォルト画面などはディスプレイ保護のため印刷したペーパーでも貼ってあるのかと思うほど自然だ。仕組みはよく分からないが、液晶のようにバックライトではなくディスプレイの表面を照らす方式とのこと...。マットなE Inkスクリーンは印刷物を見ているようで目にも良いということが実感としてわかる。
勿論、フォントサイズも変えられるしスワイプしてページをめくることもでき、読書体験として違和感は少ない。

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※そのテキストは紙に印刷されたものに近く大変読みやすい


すでに多くの方が使っていると思うのであらためての詳細なスペックは記さないが、4GBのストレージは一般的なものだと数千冊保存するに十分だというし、購入した電子書籍はAmazonの専用クラウドに保存され、読む際に端末にダウンロードするという仕組みだからまず容量不足は当面考えなくてよいだろう。

そう、 Kindle paperwhite にはWi-Fi 版とWi-Fi +3G版があるが私はWi-Fi 版にした。
Wi-Fi +3G版はWi-Fiが使えない際には無料の3Gが利用できるタイプだが、購入時に価格が5千円ほど高くなる。個人的には外出時にはいわゆるポケットWi-Fiを携帯するので3Gは不要と考えた。

またバッテリーが長持ちするのも実用的だ。とはいっても充電もUSBケーブルで手軽に可能だが、例えばワイヤレス接続オフ、一日30分使用した場合だと数週間利用可能とのことだ。
というわけで今回専用のレザーケースもいっしょに購入した。カバーの開け閉めだけで自動オン・オフが可能だしディスプレイを保護するためだが、これはこれで持っているのも楽しい…。

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※Kindle専用のレザーカバー(上)とKindle本体を装着しカバーを開いた例(下)


早速シャーロック・ホームズ全集や先般芥川賞を取った又吉直樹の「花火」を勢いで買ってみた(笑)。Kindle paperwhiteを手にして数日経ったが、iPadも活用する気のない私ではあるが、kindleは意外と気に入っている自分を面白いと感じている(笑)。とはいえまだろくに使い込んではいないので数冊このkindleで読書体験を済ませた後にまた感想をご報告したいと思っている。


Altair 8800を開発したMITS社の企業ロゴ変遷の謎?

タイトルは大げさだが、要はAltair 8800を開発したMITS社のロゴが途中で変わっている。そのきっかけや動機など今更知りようもないが、いつの時点で変更になったかが気になったので調べて見た。まあ…こうした…今更…どうでもよい些細なことに気を向けるのが当研究所ならではの心意気である(笑)。


エド・ロバーツ率いるMITS社が社運をかけて開発した Altair 8800は爆発的に売れた。その狂騒ともいえる出来事はこれまでに「ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(1)(2)(3)(4)(5)」などでご紹介したが、そのAltair 8800のフロントパネルには "ALTAIR 8800 COMPUTER" とプリントされたパネルの左側にMITS社のV形ロゴがある。

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※Altair 8800のフロントパネルにあるMITS社のV形ロゴ


ただしコンソールパネルの機能を強化した第2世代モデルのAltair 8800b には円をモチーフとした六角形のロゴが採用されている...。

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※ComputerNotes Volume 2 Issue 1(1976年6月発行)にアナウンスされたAltair 8800bには新しい六角形ロゴが


Altair 8800は1974年12月に開発され、ポピュラーエレクロトニクス誌1975年1月号で紹介されたことがきっかけで販売に火がついた。なにしろ発売開始後1ヶ月も経たないうちに4,000台ものオーダーが舞い込んだという。あのビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフト社を起業するきっかけもこのAltair 8800だったといわれている。

さてそのMITS社はAltair 8800ユーザーを対象にした "Computer Notes" というユーザーグループ向けの会報を配布したが、初期にはビル・ゲイツやポール・アレンの記事もある。
その "Computer Nots" の第1号は1975年4月7日付けで発行されている。しかし前記したMITS社のロゴはどこにも記されていない。

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※ "Computer Notes" 創刊号のトップページ【クリックで拡大】


第2号の発行は同年7月となっているが、その後1975年10月号(第5号)ではマイクロプロセッサにモトローラ製MC6800を採用した Altair 680b のアナウンス記事が見られる。そして同号の10ページには "MITS Creative Electronics" といった企業を鼓舞する表記があるもののロゴはまったく見られない。
結局1975年中には不定期ながら"Computer Nots" は6巻発行されたが、ALTAIR 8800のフロントに記されたロゴはもとより、それらしい表記はまったく見られなかった。

結局1976年2月に発行されたVolume 1 Issue 11になって初めて割れた六角形のような何らかの回転を連想させるロゴが現れる。ともあれMITS社のロゴが三つ巴のような六角形ロゴに変わった経緯や理由についてはともかく一般に目に触れるようになったのは1976年初頭の頃だと思われた...。

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※ "Computer Notes" Volume 1 Issue 11に新しいロゴが使われた


とはいえもう少し核心が持てる情報は無いかと探してみた結果、MITS社のロゴに関しての記述を見つけた。それは "Wikimedia Commons, the free media repository" によるもので、旧V形ロゴはAltair 8800開発以前の1972年4月に最初に使われ、1976年2月に六角形ロゴと取り替えられたと説明されていた。

そして実際にMITS社が1972年に科学技術計算向けの電卓 “7400” の広告を見つけた! この広告にはV形ロゴと共にMITSの由来である “micro instrumentation & telemetry systems. inc” が記されている。

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※1972年、MITS社科学技術計算向け電卓 “7400” の広告。V形ロゴが使われている【クリックで拡大】


確かにこれで前記した " Wikimedia Commons, the free media repository" の情報の裏が取れたことになる。ただし厳密なことを言うならこの電卓公告に使われたロゴとAltair 8800で使われたロゴとは “mits” とあるフォントデザインが微妙に違っている…。さらにV形ロゴにある mits の後に®を付けただけの場合と INC. がある場合…といった具合にどこかその場しのぎといった印象を受ける。

”Computer Notes" で使われた六角形ロゴを見てもMITS社はロゴの扱いにあまり神経を使っていないことがわかる。何故なら本来企業にとってのロゴは企業理念や自社ブランドにつながる大切なものだと思う。しかし六角形ロゴにしても本来中心に小さな点(円)があるのが正規なはずだが、一部にそれがないロゴがあったりもする。本当にいい加減なのだ(笑)。

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※六角形ロゴは上のデザインが正規なようだが、下のように中心にあるべき点がないケースもある


別の資料も当たってみた...。それはポピュラーエレクロトニクス誌1975年1月号から12月号までの記事及び広告を確認してみた。幸い前記したように1975年の1年間12冊のポピュラーエレクロトニクス誌は完全な形で当研究所に保管されている。しかしあらためて全ページを確認してみたがこれまたロゴに関して統一感がまったくない。

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※ポピュラーエレクロトニクス誌1975年1月号から12月号全12刊 (当研究所所有)


例えば大きな話題となった1975年1月号の余韻を狙った広告なのだろうが、2月号にも1ページ広告が載っているものの、これには出荷されたAltair 8800にあるV形ロゴが誌面にも載っているが、実機を示す写真に写っているAltair 8800はまだβバージョンなのかそのパネルにロゴは見当たらない。
1975年の7月号や11月号に掲載されている広告を例にすればV形ロゴはなく “Creative Electronics” のテキストと共に白抜きの大きな “MITS” の文字がまるでこれがロゴだと主張している感じで使われている。

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※ポピュラーエレクロトニクス誌1975年11月号。MITSという白抜きテキストはまるでロゴ扱いに思える【クリックで拡大】


その後のポピュラーエレクロトニクス誌にも1ページ広告は続くがロゴが使われない号が連続し、次にV形ロゴが使われるのは6月号になってからだ。しかしどうしたことかその後はまたまた当該ロゴは使われず、例えば12月号には "MITS-MAS" と題したクリスマス特集の5ページ連続広告掲載がなされているがロゴに関しては相変わらず表記はない。
要は1975年の1年間はV形ロゴが使われたものの重要視されていなかったようだ(笑)。そして前記したように六角形ロゴが現れるのは1976年2月以降ということになる。

MITS社はその翌年の1977年5月22日、当時ミニコンとメインフレーム用のディスクやテープ装置のメーカーだったパーテック(Pertec)社に600万ドルで売却したが六角形ロゴはそのまま採用された。
現実問題としてMITS社はAltair 8800の大ヒットに右往左往しながらも文字通り手を広げすぎたのだ…。そして所帯は急激に大きくなったがトラブルは相変わらず多く、したがってロゴなどにかまっている余裕などなかったに違いない(笑)。

Altair 8800は大ヒットしたが、予想外の注文を抱えて発送が大幅に遅れたし部品の検査をやらなかったため組み立てても動作しない場合もあった。続けて開発したメモリボードはポール・アレンらの意見にも耳を貸さずに正常動作しなかった。MITS社のロゴの使われ方を見ていると同社の統一性の無さ、その場しのぎといった企業の性格を読み取れると同時に予想もしなかった注文殺到で混乱するMITS社が目に浮かぶような気がして今更ながら興味深かった。


トリニティ、BlueLoungeのユニバーサルヘッドフォンスタンド「Posto」レポート

ヘッドフォンスタンドそれ自体は珍しくもないが、今般トリニティ(株)から発売されたBluelounge(ブルーラウンジ)のPosto(ポスト)という製品が何故か気になったので購入してみた。デスクトップ周りに常備しているヘッドフォン用として使おうと考えてのことだ。


ヘッドフォンとかイヤーフォンといった類のものは私だけかも知れないが、使った後に決まった場所に置くというよりその場に外して放置...といった連続のような気がする。
さて、私は室内で使うヘッドフォンは2種を適宜使い分けている。Macで映画を見たりYouTubeを確認したり、あるいはMacの前に座ったまま音楽を聞く場合で外に音を出したくないときにはオープンエアー型のヘッドフォンをオーディオアンプ経由で使っている。これはコード付きだ...。

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※愛用のヘッドフォンを乗せたBlueLoungeユニバーサルヘッドフォンスタンド「Posto」


また室内で音楽に徹したい場合や読書はもとより、集中したい場合などではBluetoothのノイズキャンセリング式のヘッドフォンを愛用している。これはコードレスなので狭い空間だとしても移動しながら音楽を楽しめるし、読書時に無音のままノイズキャンセリングをONにすれば手軽に静寂の世界に入り込める...。

この2種の内、ワイヤー型はそれ故に利用範囲は決まっており、使用後に置く場所も限られるからあまり問題はないが、ワイヤレスの方は自分でもどこで外したのかをフト考えてしまうことがある(笑)。このワイヤレスヘッドフォンの定位置というか、休み所をと考えていたこともあって今般トリニティから発売されたBlueLoungeのユニバーサルヘッドフォンスタンド「Posto」を買ってみた。

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※「Posto」は3つのパーツから成っている(上)。上下のパーツをアルミ製の支柱に押し込めば組み立て完了(下)


「Posto」は高さが245mmほどで机上から垂直に伸びるアルミ製支柱とそれを支える樹脂製台座、そしてヘッドフォンを引っかけるラバー製ヘッドレストから成っているとてもシンプルな作りだ。
「Posto」の一番の特長はそのヘッドレストだろう...。なぜならヘッドレストは柔軟性のあるラバー製のため、ヘッドフォンを置くと、その重みでカーブに沿ってしなやかに曲がるよう設計されている。その形状と材質に相俟って滑り落ちないのは当然としてもフィット感が抜群で見栄えがよい。

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※安定感もよい


問題は安定感だが、台座は約108 mm四方の四角形だが底部には取り外し可能な吸着剤があるので見た目以上に安定感がある。利用時にはまず保護シートを剥がして使う…。

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※台座裏には滑り止めの吸着剤がある


ということでデザインがシンプルなだけに "あらゆるサイズのヘッドフォンに対応" と謳っているとおり様々なヘッドフォンで使えるはずだが、勿論特殊な形状のヘッドフォンにはそぐわない可能性もあるのでそうした場合は事前に確認をされた方が良い。

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※こうしたタイプのヘッドフォンには適合しない


なお「Posto」はブラックとホワイトの2カラーがあるが今回私はホワイトの製品を買ってみた。ブラックよりホワイトの方が机上に置いても自己主張しないだろうと考えたからだが、すでに重宝している。
その優れた利便性を直感したことでもあり、ヘッドフォンだけではなく常用しているBluetoothのイヤフォン類にも使えるかも知れないと思った...。

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※こんな使い方もあるかも(笑)


とはいえ現状ではそうした仕様ではないため少々煩雑に見えるが、「Posto」の次世代製品にはヘッドフォンと同時にイヤフォンも吊り下げるアイデアを加えて欲しいと思った。

BlueLoungeのユニバーサルヘッドフォンスタンド「Posto」



ラテ飼育格闘日記(451)

雨期も最終段階かと思っていたら台風の影響でまたまたレインコートと傘が手放せない散歩が続いた。その台風の影響が出る前に、ラテは久しぶりに以前通っていた広い公園に足を向けた。まあ歩みが鈍いのは良しとしても問題は帰り道だ...。


雨は上がったが蒸し暑さは続いていたからかラテの歩みはシャキッとしない。夕方の散歩時、馴染みだった公園に足は向かっているようだがこの調子では片道40分もかかる...。
オトーサンは途中でリードをUターンさせて戻るポーズを何度かとったが、その時だけはラテも意志の強いところを見せて「あっちへいく!」とオトーサンのリードに反抗する。仕方がないので「帰りもちゃんと歩いてくれよ」と言いながらも何とか公園が見えてきたところまで進んだ。

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※「ラテ、仲良く歩こうか...」


急によたよた歩きのラテの動きが変わった…。
オトーサンは公園内のような他に迷惑がかからない広い場所ではリール式のリードに変えて最長5メートルまで伸ばして遊ばせることもあるが、人が行き来する歩道をあるく際には1メートルほどの丈夫なリードを使い、ラテをオトーサンの側から離さない。
自転車が行き交い、人や他のワンコもすれ違う場所だからしてトラブルを避けるためだ。たまたまリードを長く伸ばしたまま散歩させている飼い主を見るが、それは周りに迷惑をかけるだけでなく当のワンコにとっても危険なのだ…。

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※ナイスバディ!


リードを伸ばしてワンコを飼い主から離していると行き交う人たちや他のワンコとリードが絡まったりする可能性もあるし、伸ばしたリードは他の人たちにとっては危険だし迷惑だ。それにたまたま見ていると数メートル伸ばしたリードの先でウンチをしても飼い主は分からなかったりしてそのまま立ち去ったりするケースもある。もしそれが確信犯なら言語道断だが。

ともかくラテのリードは通常1メートルほどだし、そのリードは指に絡ませて保持するといったことではなく必ず手首に投げ縄のようにして締めている。これは万一でもオトーサンの手からリードが外れないようにとの配慮なのだ。例えオトーサンが躓いたとしてもリードを離すことはない覚悟である。
またこの短さであれば多少前後になってもラテの行動に目が届くし、リードの引き方ひとつでオトーサンの意志を瞬時にラテへ伝えることができると思っている。

とはいっても常にリードが張っているわけではなく、歩調を合わせて歩くので普段のリードはラテとオトーサンの間でゆったりと弛んでいる。
特に力を入れて訓練したわけでもないが、そんな光景を見てすれ違う人が「よく訓練されてますねぇ」と誉めてくれるときがあるがこうした歩き方がお互いの息づかいを感じられ、散歩を一体になって楽しめるコツのひとつではないかとオトーサンは考えているのだが...。

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※「オトーサン、アタシ...ダメだぁ」と夏場が苦手なラテは散歩途中に休憩モードが多くなる...


さて、そんな調子でゆっくりではあったがラテと歩調を合わせて歩いていたが、ラテの動きが変わったことがリードの感触で分かった。オトーサンがあらためて前方を見ると、幼犬時代からの友達ワンコであるビーグル犬のハリーちゃんがお兄さんに連れられてこちらに歩いてくるではないか。ラテは早くもそれを察知したようだ。

ハリーのお兄さんとは2ヶ月半ぶり、そしてハリーちゃんとはすでに8ヶ月ぶりになる...。ラテはハリーちゃんと鼻面を合わせてすぐにお兄さんの膝元に突進し抱きつかんばかりに喜んでいる。

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※ラテの喜びようにお兄さんもタジタジだ(笑)


挨拶をしながら随分と久しぶり…という話しをするとお兄さんは「僕も今年は成人式ですもの...」といわれた。思えばこれから向かう公園でハリーのお兄ちゃんと最初に会ったのはお兄さんが小学校5年生の時だったのである。それだけオトーサンも歳を重ねたわけだが、ラテにとって人間の子供に可愛がってもらった最初の人がハリーのお兄さんだったこともあり身長が伸びようと声変わりしようと膝に乗って顔を舐めにいくほど大好きなのだ。

お兄さんがタジタジとなるほどラテは夢中になって喜びを表していたが、これで遠くまで歩いて来た甲斐があったと感謝しながらハリーのお兄さんたちと別れて公園に向かった。
残念なことに公園では知り合いの飼い主さんやワンコにも会えずじまいだったが、危惧したとおり帰り道は往路以上にゆっくり歩きで休憩モードも多いのには平行したが、ラテの表情は意外と明るかった。



A・ハーツフェルドが語るMacintoshチームへの参加経緯に矛盾が?!

少し前の事だが、黎明期からのアップルユーザーである友人から雑談中に聞かれたことがあった。彼が思い出したように言いだしたのはMac開発者の1人アンディ・ハーツフェルドのエピソードだ。ハーツフェルドがMacチームに参加するきっかけとして知られている周知の話しがあるが、どうもおかしいと彼は言う...。


多くの書籍や資料を見ていると重要な点で大きく異なった情報が見受けられる場合がある。それもスティーブ・ジョブズをターゲットにしたライターたちが矛盾したあれこれを書いているのなら取材不足だったりライターの認識不足や勘違いということもあるだろう。しかし本人の発言でそうした矛盾があると困惑する...。

これまでにも「スティーブ・ウォズニアックの発言が変だ!?」のようなアーティクルをご紹介したこともあるが、今回はMacintoshの開発チームで大きな力となったアンディ・ハーツフェルドに関してだ...。

同じ出来事を知らしめるとき、表現や言い回しを違えれば少々違ったニュアンスになることは多々あることだ。インタービューや書籍なども第三者や関係者に配慮して意図的に不明瞭な発言をする場合もあるだろう。しかし今回ご紹介するアンディ・ハーツフェルドの発言はひとつは自著、もうひとつはインタビューでの発言だが両者は違う内容になっている…と友人はいう。

アンディ・ハーツフェルドはMacintosh開発陣の中でもビル・アトキンソンに次いで知られている人物ではないだろうか。彼は "Software Wizard" と呼ばれたほどMacintoshの開発において重要な役割を果たした…。
そのアンディ・ハーツフェルドのエピソードだが、Apple II の部門にいたときスティーブ・ジョブズに請われてMacintosh開発チームに入るきっかけとなった話しである。そのシーンはアシュトン・カッチャー主演の映画「スティーブ・ジョブズ」にも描かれている…。

スティーブ・ジョブズが「A. ハーツフェルド...。ビル(アトキンソン)は君が優秀だというが、優秀か?」と机越しに問い、ハーツフェルドが頷くとそれまでApple II とモニターに向かって仕事をしていた電源をジョブズが引き抜く...というシーンだ。やりたい放題のジョブズの姿が描かれていて物語としては面白い。

これは公式な伝記と称されたウォルター・アイザックソン著「スティーブ・ジョブズ」にも描かれている。ハーツフェルドはジョブズが「...僕といっしょに来てくれ」という言葉に「しかかっているApple IIの作業を完了するのに2, 3日必要だ」と説明する。
ジョブズは「Apple IIなどどうでもいい」とハーツフェルドが作業中だったApple IIの電源コードを引き抜き、それまで書いたコードを消してしまったという話しだ。

このエピソードは結構知られていてハーツフェルドがMacintoshチームに引き抜かれた特異な話しとして好まれているが、その内容はライターや映画の脚本家が作り出したエピソードではなくハーツフェルド自身、自著「レボリューション・イン・ザ・バレー」の19ページでも実話として紹介している。
ジョブズは電源を引き抜き、Apple II と上に乗せたモニターを持ち上げ「僕といっしょに来るんだ...」と言ったと紹介している。

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※A. ハーツフェルド著/柴田文彦訳「レボリューション・イン・ザ・バレー」


しかし...である。
2005年4月6日付けのCNET Japanにハーツフェルドへのインタービュー記事が載っている。これはCNET Japan編集部より同年に行われた1月のMacworld Conference and Expoの開幕直前に行われたと明記されているがそれによれば確かに事情は違うように聞こえる…。

インタビューアーの「Macチームに配属されたいきさつ?」という質問に対してハーツフェルドは前記のエピソードとはまったく違ったニュアンスで答えている。
それは…1981年2月25日、彼の所属していたApple II 部門でも大規模なリストラがあった。彼のプロジェクト・パートナーも解雇されたので、ハーツフェルドは憤慨し、辞めさせてほしいと会社に申し出たという。後に「ブラックウェンズディ」と呼ばれたアップル初の大幅なリストラ発表の時期だった。

続けてハーツフェルドはいう...。「会社は私をいいヤツだと思っていたらしく、私を引き留めようとしました。『どうしたら残ってくれるのか』と聞かれたので、こう答えました。『では、Macの仕事をさせてもらえませんか』。その翌日から、私はMacの仕事をするようになりました。」と...。

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※Mac開発時期のアンディ・ハーツフェルド。Macのプロモーションビデオ「The Macintosh Story」より


これは本人が自著「レボリューション・イン・ザ・バレー」で書いているエピソードとまったく違うしスティーブ・ジョブズも登場していない。
無論インタビュー記者が本人の発言とは違う話を意図的に入れた可能性はゼロではないが、そうするための意味があるとは思えない。しかしこれだけ話しが違うとは一体どういうことなのだろうか。友人の疑問もその点にあるという…。
ちなみに「レボリューション・イン・ザ・バレー」の出版(原著)は2005年、CNET Japanのインタビュー自体も前記したように2005年1月であり時期は大きく離れていないしハーツフェルド自身の記憶がぶれるほどの年月の差はない。

冒頭の友人は「レボリューション・イン・ザ・バレー」の著作を読み、後にCNET Japanのインタビュー記事も読んだことで矛盾を知ったという...。そうした話しを聞き、早速私も両記事を確認してみた。
調べた結果だが、実はそのどちらも正しいのだ...。だから人の話が活字になった場合の見極めは難しい...。

前記した「レボリューション・イン・ザ・バレー」の19ページには確かにハーツフェルドの使っていたApple IIの電源が引き抜かれたエピソードが載っている。と同時にその2ページ前の17ページにもそうした状況に沿ったより具体的なことが書かれていたものの友人は19ページのエピソードの印象が強かったので17ページの内容は記憶に残らなかったようなのだ…。

それにCNET Japanの質問に対するハーツフェルドの答えは出来事の前半戦だけ述べただけだったから誤解を生じたのだ。
要はブラックウェンズディの件でウンザリしたハーツフェルドは怒ってもいたし会社を信じられなくなりアップルを辞めようと思ったが、社長のマイク・スコットに慰留されたわけだ。そのときハーツフェルドは「Macの仕事なら…(残っても良い)」と返事した。スコットはそれならとハーツフェルドにスティーブ・ジョブズとの面談の機会を設けたのだった。

その意をくんでスティーブ・ジョブズはハーツフェルドのデスクに出向いて「お前は優秀か?」という台詞を吐き、使用中のApple II の電源を引き抜いたのだ。
我々の日常も言葉足らずで誤解を招くことは多い。無論多弁であれば良いというわけでもないが、第三者に真意を伝えるということがいかに難しいものかをあらためて知った思いがする友人の問いだった…。



Apple、過去最高の第3四半期業績を発表

アップルジャパンは7月22日、米国本社が21日発表の抄訳として2015年6月27日を末日とする、2015年度第3四半期の業績を公表した。当四半期の売上高は496億ドル、純利益は107億ドル、希薄化後の1株当たり利益は1.85ドルとなった。


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前年同期は、売上高が374億ドル、純利益が77億ドル、希薄化後の1株当たり利益が1.28ドルだった。売上総利益率は、前年同期の39.4%に対し、39.7%となった。当四半期の米国市場以外の売上比率は64%。
これらの伸びに勢いを与えたのが、過去最高となったiPhoneとMacの第3四半期販売台数、過去最高を記録したサービスからの売上高、そしてApple Watchの発売の成功だと述べている。

Appleは、2015年度第3四半期業績発表のカンファレンスコールのライブストリーミングを、2015年7月21日14時00分(米国西部時間)より、AppleのWebサイトで配信。このウェブキャストは、配信開始後も約2週間にわたり再生が可能。

Apple Press Info




ビジネス回想録〜ソフトウェア流通に苦慮した思い出

1989年から2003年まで、自社開発のMac用アブリーション販売を行ってきたが現在の流通システムと比べて何とも壁が多かった時代を振り返って見たい。2010年10月にApp Storeが発表された折「スペシャルイベントで発表の「Mac App Store」は世界を変える!?」をご紹介したが、今回は当時のソフトウェア販売に苦慮した思い出としてもう少し問題点を掘り下げてみたい。


Macに限ってだがそのアプリケーションの大半はご存じの通りApp Storeからのダウンロード販売が浸透している。無論いくつかのソフトウェア...特に高額な製品や特別なサポートを必要とするものはメーカーの直販という形でビジネスが成り立っているケースも多い。それでもパッケージ販売よりダウンロード販売が主流か…。

今回はソフトウェアを自社開発し、そのパッケージを10年以上販売してきたその昔話を聞いていただこうと思う...。無論時代が違うし社会の価値観も、そしてユーザーの数もまったく今とは比較にならないほど違っているから現在のビジネスに役に立つ内容ではあり得ないが、まあ話しのネタにはなるかも知れない(笑)。

さて25年前ほどになるが、当時ソフトウェアを市場に流通させる現実的な方法はひとつしかなかったといって良いだろう。それはいわゆるメーカーとショップを取り持つ卸売業者というべき企業に口座を開き売り込むことだ。現在ではすでに無くなってしまった企業も多いが、ソフトウェアジャパン、カテナ、ソフトバンク、コンピュータウェーブといった物流専門の会社にパッケージを大量に販売することで秋葉原のパソコンショップを代表とする全国のパソコンショップ店頭に並べてもらい、顧客の目に触れることが可能となった。

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※私の会社が当時販売していたMac用アプリケーション・パッケージ(一部)


1990年代初頭と言えば我々の前にインターネットはなかったから開発元がパッケージをネットで直販はもとより、エンドユーザーに直接販売する手段も整っていなかった。例えば私の会社はショップを兼ねていたわけでもないからたまたま電話やFAXなどで学校や企業から注文が舞い込むことはあってもそれは希なことだったのである。それは近隣にパソコンショップがないためにソフトウェアを手に入れられない顧客に便を図るため、やむを得ず直販するという形だった。

事実流通会社に販売するメリットは大きいものがあった。繰り返すがソフトウェアジャパンとかコンピュータウェーブといった会社に納入できれば、それは全国のパソコンショップに当該製品が置かれることを意味していたからだ。何十人もの営業マンを抱え、経費の出費をいとわず全国を渡り歩くことができれば話しは別だが、現実には流通各社に取り扱ってもらうのが一番の方法だった。堂々と直販できたのはMacworld Expoのブース内くらいだったのである。

しかしどのような商売でも物を売り込むことは至難の業であり、杓子定規にかまえていては流通各社に口座を設けてもらい、販売契約するまでに頓挫してしまう...。
それは卸売価格の取り決め、返品や交換といった基本取引に関係する条件、注文時の最小ロットなどといった基本的なことをクリアしなければならないことを意味した。それをクリアしたとしても新しく開発したソフトウェアを取り扱ってくれるかについては別問題でもあった。

そのための営業努力、すなわち製品の魅力や市場における必然性といった情報を流通各社の担当者たちにプレゼンし、私たちの開発したパッケージソフトが全国販売に値する製品であることを理解してもらう必要があった。彼らにしても売れるであろう商品は喜んで買ってくれる理屈だった。とはいえ流通会社の仕入担当者たちが最新のコンピュータテクノロジーのあれこれやその意味するところについて我々以上に知っているはずもなかったから、どうしても是非の判断は情緒的なものや価格がらみになりがちだ。
結果1年もかけて開発した新しいアプリケーションもとある流通会社では販売に値しないと取扱を拒否されることだってあり得た…。

そんなことでは企業として成り立たないからと開発がスタートする時点、途中経過、そしてβ版といった節々で担当者らに面会を求めてソフトウェア製品の売り込みを行うことになる。時には販売するために流通各社の希望をソフトウェアの機能に反映させることもあり得た。
まあ、いまだから言えるがどの世界でも売り込みは大変だし、買う方は時に尊大で無理難題をふっかけてくることもあった...。

例えば、流通過程で汚れたり壊れたパッケージは無償で取り替えるにしても私の会社では売れ残ったパッケージの返品は受けない契約を取り交わした。しかしそれを承知で堂々と返品を迫ってくる流通各社もあった(笑)。その上、後になって契約を返品可に変更しろと迫る…。
また当初注文を受ける最小ロット数を決め、それならと特別割引価格を提示したにもかかわらず、後には小さなパソコンショップからの直接注文かと思うほど極端な...ときには数本のオーダーが舞い込むようにもなった。しかし価格はそのままだと念を押される...。

なによりも繰り返すが力関係が歴然としていることでもあり、とある会社の担当者など対等にビジネスを語る姿勢などまったくなく、上から目線でしかない態度を取る輩もいた。
まあ、商社のサラリーマン時代に大手のバイヤーたちと仕事上の付き合いをしたが、ほとんどが嫌な奴ばかりだった(笑)。買う側の目線でしか物事を見ていないし、そもそも話し合いなどするつもりはなく一方的な押しつけで事を運ぼうとする輩だった。勿論それは担当者個人の問題だけでなく会社そのものがそうした意志でビジネスをしているわけだ。

それでも流通各社の極一部ではあったがビジネスはビジネスとして我々の話しをきちんと聞いてくれる担当者もいて、そうした人たちには札幌でのプライベートショーなどの催事に招待し、我々の仕事ぶりを直に見ていただく努力をしたものだ。とはいえこの種の苦労話は実際に経験したことのない者には実感としてわかり得ないものらしい。

私の会社では良くも悪くも営業を担当する人材は社長である私1人だったこともあり、こうした苦労のあれこれを社員らと共有する機会もなかったし話せば愚痴になるからと話題にしたことはほとんどない。それだけに理屈では分かったつもりでいただろうが、ソフトウェアはパッケージ化すれば間違いなく売れると勘違いするようなスタッフもいた(笑)。

パッケージ販売といえば、そうした販売面での苦労以前に製品を形にするための努力も重要だった。ソフトウェアといってもフロッピーディスクや後にCDといったメディアに書き込み、印刷製本したマニュアルと共に箱形のパッケージに収め、シュリンクすることが不可欠だった。
起業したての頃はフロッピーへの書込は勿論、パッケージに梱包するのも自社でやった時代があった。パッケージの数が知れていたからだ。しかし販売数が増えてくると見栄えは勿論だが間に合わなくなってきた。

幸い当初から超マイクロ企業の我々に親身になってお付き合いいただいたパッケージ業者のおかげで少しずつその会社にお任せするようになっていった。
要するにデザイナーが作ってくれた版下やDTPで作ったマニュアル原稿といったものを渡すだけで、ソフトウェアのフロッピーディスケットへのコピーからディスクラベルの印刷と貼り込み、マニュアルの印刷、外箱の製作およびパッケージ化に至る製品化の全工程をお願いできるようになった。

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※ソフトウェアパッケージの中身はこんな感じだった。フロッピーディスク(後にCD-ROM)、マニュアルそしてユーザー登録はがきが収納されていた


当初はコスト削減も含めて市販されていた樹脂製のゲーム用パッケージを採用していた。我々にとってはこれで十分だと考えていたが流通各社からは「このサイズではショップ店頭で目立たない」とか「ボリューム感にかける」といった指摘があり、やむなく紙製でサイズも他社に引けを取らないオリジナルパッケージを採用する。しかし当然ながら製作コストはかなり高くつくようになった。無論パッケージを大きくしたからといって販売数がみるみる増えることもなかった(笑)。

また業者に依頼することを考えるなら初期ロットを千個以上作らないと単品当たりのコストが高くなる試算となる。そして例えばひとつのソフトを1年間かけて開発商品化するには当然のことながらプログラマの給与や報酬、製品名の商標登録費用、パッケージデザイン費用、カタログの製作および前記したパッケージ業者への支払といった直接経費は勿論、様々な間接経費がかかってくる。これらを合わせると超マイクロ企業にとっては不用意に持ち出せる額ではなく、製品化は簡単ではなくなってくる。ましてや開発スケジュールが数ヶ月遅れれば資金繰りも大きく狂ってくるものの、これまた会社維持の資金は社長がどこからか自然調達してくるものだと思っているスタッフもいた。まあ確かにそれも仕事の内なのだが…(笑)。

ともあれアプリケーションの開発自体はともかくとして、流通の問題を何とか合理化する方法はないかと苦慮していたときNIFTY-Serveのフォーラムのシスオペをしていた私にとびきりのニュースが舞い込んできた。
それはフォーラムの中でソフトウェアのダウンロード販売をしたいという話しだった。まだ企業それぞれが現在のようにホームページを持って販売サイトを運営したり、楽天やらといったショッピングモールもなかった時代だった。ちなみに楽天は1997年創業である。

そのNIFTY-Serveにしても問題は山積みだった。確かに売上げ額の取りっぱぐれはないしサポートもフォーラムすなわちパソコン通信でやればよい。しかし匿名で運営してきたNIFTY-Serve上での販売となればユーザーをハンドル名のままで良いのか、シリアルナンバーはどう管理運営するのかといった問題もあった。またパソコン通信のスピードは現在のスピードとは桁違いに遅い時代だったからアプリケーションのサイズも機能豊富だからといっても極力小さくなければダウンロードしてくれなかった。

ということで取り急ぎ3種類のダウンロード販売用の小さなアプリケーションを新規に用意してことに挑んだのであった。思えば見切り発車的なスタートではあったがNIFTY-Serveでのソフトウェア・ダウンロード販売開始は私の会社が最初となった...。

それでも振り返れば1990年からの数年間はバブリーな時代だったとも言えるし特異な時代だった。パッケージソフトにしても販売価格は50,000円とか30,000円といった値付けができたからそれなりに数が売れれば我々のようなマイクロ企業は十分に維持できたし利益率もものすごく高かった。
さらに創立初期はソフトウェア価格が25万円という製品もあったから、オーダーが5本も来れば冗談に「今月の売上げ目標終わり」と皆で言い合った…(笑)。そしてこの調子でMacintoshの市場が拡大していくなら未来は明るいと希望を持っていたが、世の中は我々の予想より遙かに早く変わっていった。

世相に余裕がなくなっていくのと平行して我々が力を入れてきたいわゆるエンターテインメント系のアプリケーションがガクンと売れなくなった。何しろ前記した流通会社自体が大手商社に吸収されたり倒産したりで、形ばかりだとしても私の会社が債権者として債権者会議に出席するといったそれまで考えもしない出来事も生じた...。

ただしパソコンはソフトウェアがなければただの箱である点は昔も今も変わりはない。しかし多くのユーザーにとってソフトウェアはハードウェアを買えば付いてくる、あるいは無料であるべきだという感覚が浸透しているようで、そのことに危惧せざるを得ない。
まあ「金を払うだけの価値あるものが無い」と言われればそれまでだが、ソフトウェア業界に身を置いてきた1人としては、ソフトウェアの軽視は必ずやユーザー自身に大きなツケが回り回ってくると考えているのだが...。

ともあれApp Storeの存在は販売後のユーザー管理も含めてソフトウェアの販売を容易なものとした。販売価格がパッケージ販売時代とは一桁安いといった値付けになったり、アップルの認証が下りなかったりと問題は山積みだしビジネスとなればお気軽ではいられまい。しかし流通業者の顔色を伺いながらの無益なビジネスを思い出せば良い時代になったのか…とも思う。



私が初めて憧れのAltoに逢ったとき…

すでに20年以上も前のことなので記憶も薄れつつあるが、1992年7月に富士ゼロックス社初の「アップルフェア」が開催された。私の会社も依頼を受けそのMacコーナーの一つに自社開発のビデオ編集ソフトを展示するブースを設けた。そして私自身が説明要員として張り付いたが、そのフロアーにはあこがれのAltoが鎮座していた...。 


Altoは1970年代に米ゼロックス社のパロアルト研究所で開発された先進的なコンピュータだった。その先進性をAppleの Lisa や Macintosh が受け継いだことで、後にすべてのパーソナルコンピュータの源流とされるシステムと評価されている。その Alto ではマウスオペレーション、ビットマップ・ディスプレイ、リムーバブルなハードディスク、さらにEthernet まで実現されていた。そしてあのアラン・ケイは自身のコンセプトである暫定ダイナブックとしてAltoおよびSmalltalkを研究していた…。 

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※1992年7月、富士ゼロックス社主催「アップルフェア」において自社ブースをかまえた筆者


しかし Alto は Xerox Star など一部のワークステーションに間接的影響を与えたものの、ゼロックス社自身は Alto の市販を考えてはいなかったため、現在まで完全な形で残っている台数はきわめて少ないといわれている。だからというわけではないが、私にとって Alto は一度その実物を、完全な姿を間近で見てみたいと考えていた憧れのコンピュータだったのである。 

そんな Alto がなんと…展示フロアに鎮座していたのだから私は驚喜した。それだけでなく確か「AltoはMacintoshの母...」といったコピーと共に6色のアップルロゴがデザインされた展示ボードに Alto は眩しく飾られていた。 

私は一日の仕事が終わり、お客様が退出された時期を見計らって富士ゼロックス社の担当者に許可をいただき、Altoにカメラを向けただけでなく、Altoと共に記念の撮影をもお願いした。ご覧のようにAltoとアップルロゴが一緒にディスプレイされる例はこの前にも後にもほとんどなかったと思う。 

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※1992年7月、富士ゼロックス社において展示会が開催された際にディスプレイされたAlto。Appleロゴと一緒のディスプレイは珍しい。奥にJStarが写っている(筆者撮影) 


さて、1970年代にこれだけのマシンが完成していたのだから、物作りとは何かをあらためて考えさせられる。確かに現在であればハードディスクも小型化・大容量のものが使えるとか、処理スピードをもっと速くすることが可能だろうが、問題はそうした枝葉の問題ではない。 

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※Altoと記念撮影!


私は当時からアラン・ケイをはじめとする当時のパロアルト研究所の開発者たちが、1970年というその時代に、どのような発想...コンセプトの元でこの Alto の仕様に行き着いたのかに興味があった。そして Lisa や Macintosh にどのように受け継がれたのか...といったことに関しては「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」にまとめてあるのでご参照いただきたいが、Alto あっての Lisa あるいは Macintosh だったことは間違いない…。しかし反対に Macintosh およびその GUI を目標にして追従した Windows といったものの成功なくして今日の Alto への高い評価はなかったかも知れないのだ。

その展示されていたアルトの前に前記した「AltoはMacintoshの母…」とは別にもうひとつ印象的なコピーがあった…。
パネルには「J-StarとMacintoshはアルトから生まれた兄弟、したがって ゼロックスは再会したリンゴの味がよく分かる...」という意味のことが書かれていた (正確な表現は記憶していない)。これは富士ゼロックス社がアップルのディストリビューターになったからこその主張だったが、思えば皮肉な歴史の結果でもあった…。

さて、仕事を終えて帰宅して際、Altoに会えた嬉しさについ女房に向かって「アルトと写真を撮ってきた!」と言った。その時の女房の反応は Alto に会ったのと同じように記憶に残った…。女房は「スズキの?」ときた(笑)。無論女房がAltoを知る由もなかったからである。

※1979年にスズキ株式会社から発売されたハッチバック型軽自動車(国外仕様除く)の車名。車に疎い女房も知っていたほど大ヒットした



ラテ飼育格闘日記(450)

まだ梅雨明け前なので仕方がないものの実に雨天が続き憂鬱だ。オトーサン以上に雨が嫌いなラテには実に気の毒だが、こればかりはオトーサンにもどうすることもできず、これまた大嫌いなレインコートを着せて土砂降りの雨の中を散歩に出ることに…。


雨の日の散歩はラテにとって気が乗らない散歩だろうが、オトーサンにとっても気が重い散歩となる。まずラテは「これが散歩か」と思うほど排泄が終わるとオトーサンの思惑などどこ吹く風でスタスタと自宅に戻ってしまう(笑)。常にフル装備で散歩に望んでいるオトーサンとしては排泄が済んでいるなら早く戻れば楽ができる。しかし総じて雨の日は排泄に時間がかかる場合もあり、その際はレインコートを着せていても後始末が大変だ…。

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※なにかオトーサンに言いたそうだ(笑)


ともかくマンションのエントランスに戻ると体をブルブルと震わせて濡れた体から水滴を飛ばすが、長毛のラテはそれだけで済むはずはなく家に入ってからいつもの雨の日の儀式が始まる。
ラテはレインコートを着ている間は玄関マットの上で立ったままでいる。オトーサンがバッグや傘を定位置に置いてから濡れたままのレインコートを脱がすとラテにもやっと笑顔が戻り、座ったり伏せたりする。オトーサンは雨水が滴るレインコートをざっと拭いてから風呂場に吊して乾かす…。

レインコートを着せているため背中と胸、そして腹の一部は濡れないが頭や顔、尻尾やお尻はびしょ濡れだ。
リードを外し、首輪を外した後はバスタオルでまず全身を拭く。脚の後ろ側などは跳ねがあがり意外と汚れていることも多い。バスタオルで全身の水分を減らしてからいよいよ体全体の掃除本番となる。

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※つかの間の日射しの中、とある公園で子供たちに揉みくちゃにされるラテ


ラテ用の小ぶりなバケツにぬるま湯または水を入れ、それで四つ脚の肉球を含む足先を丁寧に洗う。
オトーサンのやり方としてはまず前左足から始め、次に前右足を洗いそれぞれ乾いたタオルでよく拭く。アトピーで肉球を噛んで傷付いていた時期には水で洗うときに滲み「ウ~」と唸ったり「ピー」と鳴いたりもしたが、幸い近年は落ち着いているので楽だ。しかしこのタオルで拭くことをいい加減にすると肉球内にカビが生えたりして痒みの元にもなるという。したがって場合によってはドライヤーで乾かさなければならない。

両前足が終わると勝手を知っているラテは向きを変えてオトーサンが後ろ足を洗いやすいようにする。後左足、そして後右足と洗った後はワンコ用のウェットタオルで頭や顔は勿論、尻尾やお尻に至るまでを濡らすように拭く。すでに要領が分かっているラテはお腹あるいは股の間に手を突っ込まれても怒ったり嫌がったりはしない。ただし腹や股は強く押したり擦ったりは禁物なのでオトーサンなりに気を遣う。

この頭の先から尻尾の先までを拭く際にはラテに話しかけながら動作するようにしている。「はい、今度は後ろ足だよ」とか「尻尾だぞ」とか…。そうするとラテは手順どおりに体の向きを変えてオトーサンが拭きやすい方向へと体の位置を変えてくれるし、無言より声を出している方が安心なようだ。
愉快なのはラテも散歩で疲れたからだろう…途中で玄関のマット上に腹ばいになってしまうことがある。その姿勢では後ろ足の一方がお腹で隠れてしまい拭くことができない…。

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※フィニッシュはやはり抱っこか(笑)


そんなとき、オトーサンは拭き終わった足を叩きながら「ラテ、次の足出して!」というと腹ばいのままでお腹の下にある後ろ足の一方をにゅ~っと出すのだ(笑)。実に怠惰な娘だが、なにをされるのかは十分理解していることが窺えて面白い。
ともかく全身をウェットタオルで良く拭き、乾いたタオルで十分に乾かした後はブラッシングだ。これまた愉快なのはお腹をブラッシングするときだ。

長毛のラテはお腹もブラッシングをするが、さすがにデリケートな場所だから優しく行うが、四つ脚立ちしているのではやりにくい。しかし、いつしかラテは左前足を持ち上げると丁度後ろ足立ちのような姿勢を取るようになったのでそのままお腹を見ながらブラッシングをすることにしている。その後に今度は右前足を持ち上げると同じく後ろ足立ちのままの姿勢を保ち続けるが、安定の為なのだろう左前足をちょうど良い位置にあるオトーサンの膝に置いてお腹を見せるようになった…。

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※玄関でラテの汚れた体を拭く(上)。お腹のブラッシング時は(下)まるで置物のタヌキみたいだ(笑)



どうやらラテは背中などのブラッシングよりこのお腹へのブラッシングがお気に入りなのか、それともデリケートなだけに意識せざるを得ないのか口を開けて笑顔を見せてくれる。オトーサンが話しかけながらブラッシングをする短い間、ラテはニコニコ顔というか、エヘヘ顔でいてくれるのがオトーサンの励みにもなっている。

毎日数回、この同じ事を繰り返しているわけだが、散歩から帰り足腰が辛い時もあるし狭い玄関で行うのでオトーサンの足が痺れてしまうこともある。しかしラテの時に非協力的な(笑)、時に協力的な態度を見ながらその太めの体を抱えるようにして綺麗にする日課はラテとの大切なコミュニケーションの場にもなっているに違いない。
しかし雨はもう沢山である。早く梅雨明けして欲しい…。



トリニティ、あらゆるサイズのヘッドフォンに対応するスタンド「Posto」発売

トリニティ株式会社は7月17日、Blueloungeのユニバーサルヘッドフォンスタンド「Posto(ポスト)」を全国の家電量販店、および一部雑貨店を通じて7月17日より販売すると発表。本製品はTrinity Online Storeでも取り扱いする。


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ポスト・ユニバーサルヘッドフォンスタンド[ Posto ]

・あらゆるサイズのヘッドフォンに対応
・使っていないときもヘッドフォンを美しくディスプレイ
・ゴム製フレキシブルヘッドレスト
・吸着剤で台座をしっかり固定
・ブラック、ホワイトの2カラー

Posto(ポスト)は、あらゆるサイズのヘッドフォンに対応するユニバーサルヘッドフォンスタンド。ヘッドレストは柔軟性のあるゴム製なので、ヘッドフォンを置くと、そのカーブに沿ってしなやかに曲がる。
台座の底面に配置された吸着剤(取り外し可能)により、スタンドをしっかり固定させる。使用していないときも、お気に入りのヘッドフォンを美しくディスプレイする事ができる。

▼ 価格/市場予想価格
オープン/市場予想価格:3,500円(税抜)

▽ タイプ/型番/JANコード
Black / BLD-POSTO-BK / 4582269469386
White / BLD-POSTO-WT / 4582269469393

製品ページURL



PLUSのコンパクト断裁機 PK-113 レポート

わざわざ言い訳を申し上げるのも変だが、私は自炊派ではない。一部の貴重な資料や書式は原本保護の目的で電子化しているものの一般図書などの電子化はこれからも予定はない。ただし古い雑誌やカタログがまだまだ膨大にあるので必要なものと不必要なものとを分別しながら電子化する予定なのだ…。


過去の資料となるカタログやらデータシートなどの印刷物はその内容を見るためなら電子化されたものは便利だ。検索もできるし劣化もしない。しかしその存在自体が貴重なものは電子化したとしても原本は破棄することなく保存する姿勢を貫いている。
そうした古い資料を裁断してバラバラにする必要もなくデジタル化するためScanSnap SV600を日々愛用しているがページ数がまとまったものには適さないし効率が悪い。

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※PLUSのコンパクト断裁機 PK-113、正面(上)と裏面(下)


ということで先般Amazonで限定販売されていたので初めて裁断機を購入した。プラスのコンパクト断裁機 PK-113 という製品である。ちなみにカッターマットとカッターナイフまで付いていた(笑)。

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※セール品のためカッターマットとカッターナイフまで付いていた


いまのところ雑誌や製本されている資料類の電子化を踏まえて準備のつもりなのだが...。なにしろScanSnap SV600の他にはScanSnap IX100が常時スタンバイになっているが、そのiX100で可能な範囲...程度のことをこれからも考えていくつもりである。

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※収納時には正面側のトレーを上げるととてもコンパクトになる


さて裁断機だが、それこそピンキリあるのでやはり用途と頻度を考えて選ぶべきか...。ちなみにプラスのコンパクト断裁機 PK-113 はその名の通りコンパクトな設計に安全性を考慮したパーソナルな製品だといえる。ただしA4用紙60枚を1度できれいに裁断(PPC用紙64g/㎡使用時)できる能力は一般的には必要十分だし従来の1/4の力で軽く裁断できるという謳い文句にも引かれた。

余談だがこの製品は "コンパクト断裁機 PK-113" と "断裁機" と呼んでいるが "裁断機" と呼んでいる製品もあり気になった。ウィキペディアで確認してみたところ「一般的に裁断機という言葉は、布・皮革などの素材や印刷物を含む紙全般を裁ったり、抜き型でプレスして型抜き加工したりする機械を指す言葉として広く使われる。これに対し断裁機という言葉は紙を直線的に切り離す機械に限定される」とのこと。まずは納得...。

断裁機は1度に多くの枚数(ページ)を、それも正確に綺麗に切り離すことが目的だ。まず断裁機 PK-113が1度に切れる60枚とはどの程度の厚さなのかを確認してみた。60枚ということは両面に印刷されている一般的な書籍類だと120ページということになる。
この際、紙の厚さをすべて標準として考えても120ページというのは決して多くはない...。例えば古いMACWORLD誌にしても見かけは薄いようでも145ページはあるから1度に断裁できないことになる。ただし私のようにカタログや資料のドキュメント類なら紙質は厚くてもページ数は少ないのでまずは1度で断裁できるに違いない。

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※テストを兼ねて145ページほどのMACWORLD誌を断裁してみよう...


ただしこの60枚という点だが、メーカーとしてたまたまという事ではないようだ。自炊用のスキャナとして知られているPFU社のヒット商品 iX500の最大給紙枚数が60枚だからだという。60枚程度ずつ断裁しスキャニングするということが一番効率のあがる自炊のやり方だということか...。

では早速コンパクト断裁機PK-113を見ていきたいが、断裁機としてPK-113の魅力はその名の通りコンパクトなことだ。他の普及機クラスの製品と比較すれば一目瞭然だが作業スペースをとらないし、特に使わないときはトレーを綴じることができるため便利である。とはいえ重量は5.2kgあるからして移動の際には取っ手を持ってしっかりと持ち上げることが大切だ。

さて、実用面での利点は安全面と小さな力で断裁できる工夫がなされていることに尽きる…。
まず、用紙の出入口には指が刃先に触れない安全カバーが付いていることだ。この手の道具で万一怪我でもしたらその切れ味からして大怪我となる。ましてや力を入れて切断しようとするわけだから安全第一の設計は重要だ。

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※正面側(上)および裏面側(下)と共に安全カバーが刃の部位に指が入るのを防いでくれる


ただし刃先の位置が奥まっているからして切断位置を確認するのは目視ではやりにくい。為にLEDによるカットラインが赤く点灯する機能があるので用紙の位置ガイドと共に切断位置をきちんと認識できるわけだ。なおこの機能は単4乾電池2本(別売)をセットし、カットラインスイッチをAUTO ONにしておくことが必要だ。

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※断裁する用紙をセットしカットラインスイッチ(上)をAUTO ONにしておくと赤くカットラインが点灯し切断位置を示す(下)


PK-113は使い方の基本も難しい事はない。トレー中央にあるガイドと前記したカットラインをたよりに断裁するものをトレー上にセットし位置決めをする。そしてハンドルを押し下げるだけだ。その際に用紙を手で押さえておく必要はない。なぜならハンドルを押し下げると用紙は自動的に固定されるからだ。

まだ本格的な使い方をするまでに至っていないが、コピー用紙数枚を断裁する程度ではPK-113の実力は分からないだろうと前記した古いコンピュータ雑誌、MACWORLD誌の1冊(2冊あるので)を実際にカットしてみようと試みた。ただし全部で145ページ弱あること、ページ厚の折り込み広告がいくつかあるなどそのまま1度で断裁できないと判断し、表紙や裏表紙を切り離し、折り込み広告や葉書類を取り去って全部で120ページにしてみた。

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※表紙・裏表紙をはじめ折り込み公告や折り込み葉書を予め取り去っておく


安定した台の上にPK-113を置き、最初120ページ...すなわち60枚にして断裁しようとした。しかし表紙などを外した背の側は接着剤が残っていて容易に取れないためにそのままではPK-113のトレーから前カバー内にスムーズに入らない…。それではと、最初の試みとということでもありページ数を100ページ (50枚) に減じてセットした。ちなみにマニュアルによれば断裁する厚さは5.5mm以下でなければならないとある…。

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※100ページ分、50枚を断裁位置を合わせてセットする


トレー上の移動ガイドおよびカットラインをたよりに雑誌の束をセットするが、正直カットラインはよく認識できるものの、前カバーを通しての確認のためか慣れないと少し分かりにくい。ともかく慎重に確認をした上で移動ガイドと固定ガイドを頼りにセットした。

後はハンドルを下ろすだけだ。雑誌を100ページ分1度に断裁する初めての試みなのでどれほどの力が必要なのかを頭の中でシミュレーションしながら片手でハンドルを下げた…。なお繰り返すがその際、紙を手で押さえる必要はなくハンドルを下ろすと紙は自動で固定されるのでズレる心配はない。

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※片手でハンドルを軽々操作。ただし写真を撮るためハンドルを押し切った位置でロックをかけてある


"コンパクト断裁機 PK-113" はこれまでの1/4の軽い力で断裁可能とされていたが、予測していたよりはるかに軽く雑誌50枚は断裁されていた...。正直「これで終わり?」といった感じだった。これは凄いと思った(笑)。さらにその切断面は驚くほど綺麗だった。

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※背面側から落ちた断裁部分(上)とその見事な切断部(下)


私はこの種の断裁機を使うのは初めてだが、その昔にいわゆるペーパーカッターの類を使った事がある。学校に必ず備わっていたアレだ…。そのカッターで “わら半紙” (お分かりだろうか?)を何十枚か切断するとき、かなりの力を必要とした記憶が残っている。そしてあるとき十分に注意したつもりだったが用紙を押さえていた左手親指の爪にカッターの刃を当ててしまった時があった。触れた瞬間に止めたため爪はほぼ切断されたものの指に怪我を負わずに済んだが、自分で肝を冷やした。
そうした負の記憶が残っていたからよけいにPK-113 の安全性と使いやすさが身にしみたのだろうが、これはよい買い物をしたと喜んでいる。





アップル、これまでで最高のiPod touchを発表

アップルジャパンは7月16日、これまでで最高のiPod touchを発表した。同時に、iPodすべてのモデルのカラーをスペースグレイ、シルバー、ゴールド、ピンクそしてブルーに一新。なお iPod touchには初めて128GBモデルが加わった。


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並外れて携帯性に優れたiPod touchは、美しい写真が撮れる新しい8メガピクセルのiSightカメラ、これまで以上に素敵なセルフィーを撮影できるように改良されたFaceTime HDカメラ、従来型と比べて10倍速いグラフィックス性能によりさらにのめり込むようなゲーム体験を実現するAppleが設計したA8チップ、そしてM8モーションコプロセッサによるこれまで以上に正確なフィットネストラッキングなどを特長としている。

新たに始まったApple Musicでは、ユーザは世界中の才能ある音楽の専門家が編成したプレイリストを楽しむことができるほか、毎日24時間ノンストップで放送されるグローバルなラジオステーションBeats 1では音楽や文化の情報を知ることができ、またConnectで好きなアーティストがシェアしたバックステージの写真や動画にコメントしたり、「いいね」をつけたりすることができる。

iPod touchにはiOS 8とパワフルな内蔵アプリケーションの数々が搭載されている。iMessageを使って無制限の音声およびビデオメッセージをWi-Fiを通じで送信したり、写真アプリケーションで素早く写真を編集したり、ヘルスケアアプリケーションでフィットネスや健康状態を追跡をしたりすることができる。ファミリー共有を使うと、iTunesやiBooks、App Storeから購入したものや、写真、カレンダーを家族で最大6人まで共有することができる。親が子どものためにApple IDを作ることもでき、それにはすべての買い物に対して親に購入の承認を得る設定が可能。

【価格と販売について】
新しいiPod touchは、16GBモデル(24,800円)を始め、32GBモデル(29,800円)、64GBモデル(36,800円)、128GBモデル(48,800円)が用意されている。5つのニューカラーで展開されるiPodファミリーの全モデルは、Apple Online Store(www.apple.com/jp)、直営店のApple Store、そしてiPod取扱正規販売店を通じて、本日より販売される。
iPod touchの利用にはWi-Fi接続またはMacまたはWindows PC、USB 2.0ポート、Mac OS X v10.7.5以降、Windows 7、Windows 8以降、そしてiTunes 12.2以降が必要。なお iPod touchの機能の一部にはApple IDが必要なものがある。

Apple Press Info



「MACINTOSH」 ライセンス・プレート考

私は車の運転ができないという今どき珍しい人種だから当然のこと車のあれこれに関しての知識は持っていない。その車音痴が何故カリフォルニア州のライセンス・プレート(ナンバー・プレート)など入手したのかといえばそこに “MACINTOSH” とあるからだ。そういえばこの種のライセンス・プレートもコレクションの対象になっているようで、物によってはかなりのプレミアム価格がつくものらしい。


アメリカのナンバープレート...すなわちライセンス・プレートは見るからに日本のそれよりカッコイイ。
どうも漢字や平仮名などが入るとデザイン性は薄れ、ただただ実用面からの仕様になっているように思えるからだが、それでも最近はナンバー取得に際して希望ナンバーが選択できるようになったりしているようだ。しかし米国はそれよりはるかに自由度があるという。

それは通常各州の...日本で言う陸運局に相当するところが発行するものだけでなく、各州によってデザインされたいわゆるオプション・プレートを取得することもでき、さらに “Personalized License Place” として別料金を支払えば自分の好きな文字や数字(2~7文字の組み合わせ)を採用することができることが知られている。それが各種の資金集めに貢献する仕組みにもなっているという。

まあ、この種のライセンス・プレートはコレクションの対象になっていることでもあり、詳しい方が沢山おられることだと思う。したがってにわか仕立ての知識で知ったかぶりをするとボロが出るのでやめておくが、ともかくそのライセンス・プレートには多々所有者のアイデンティティを表すオリジナリティ豊かなものとなる。

例えばMacintoshの開発者の一人で“ソフトウェアウィザード”と称されていたアンディ・ハーツフェルド所有BMWのライセンスプレートは “MAC WIZ” だったし、Appleの創業者のひとりでApple II の開発者スティーブ・ウォズニアックのライセンス・プレートはその昔 “APPLE II” だったという。ただし現在は“WOZ” のようだ。
またAppleを辞めBeを設立したジャン=ルイ・ガッセーのナンバープレートは “GEEK OK” だったという。そして極めつけはスティーブ・ジョブズだが、彼の乗るシルバーのメルセデス SL55 にはナンバーが入っていなかった...。

ライセンス・プレートは米国の場合、各州ごとにデザインが違うだけでなく何年か毎に変更になるようだ。この「何年の何州のデザインはどんなもの?」という疑問に応えてくれるサイト「ACME LICENSE MAKER」があるので確認することができる。

手元のライセンス・プレートはかなり前に入手したものだが、実はレプリカであり本物ではない。したがって国内は勿論米国でもこれをつけて公道を走ることは出来ない。またサイズは6 x 12インチほどのサイズでアルミニウム製。標準サイズのライセンスプレート・ホルダーにフィットするように出来てはいるものの作りはアルミプレートにプリントしただけの安易な作りで、それさえすぐに剥がれてしまいそうだ(笑)。
しかしそこに“MACINTOSH” とあるからには...当研究所のドアにでも貼っておこうと考えたわけだがまったくの洒落、お遊びでありアップルグッズ感覚である。

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※まあ、よく見れば少々チープな作りではあるが、当研究所のドアにでも貼っておこうか...


洒落...といえばプレート左上にある “JAN”および右上にある “年号” だ。この位置に貼られるシールは本来登録税を支払った年月を表すようだが、このプレートの年は1984年の1月そしてシリアルナンバーの “01241984”は無論Macintoshが発表された年月日を意味しているわけだ。

文字数制限などの関係からもこの “MACINTOSH” と表したライセンスプレートがカリフォルニア州で実際に存在することはないはずだが、きっと“MAC××××” といったナンバーは沢山あるに違いないし "iPhone" とか "iPad" をあしらったものもあるに違いない。そして前記「ACME LICENSE MAKER」でカリフォルニア州のデザイン的なことを調べてみると1969年から1983年まで使われたデザインでは手元のプレートのような「ブルーライセンスプレート」などと呼ばれるものがあるようだ。

したがって正確にはMacintoshが登場した1984年1月以降に申請した場合のプレートデザインではないが、濃いブルーの背景にイエローの文字はカリフォルニアのイメージに似合っているように思えて私には好ましい。
この種のカリフォルニア州の「ブルーライセンスプレート」の本物はオークションなどで見ることが出来るが、出来ることなら“MacBook”とか “iMac”だなんていう本物のライセンスプレートが欲しいものだ(笑)。



バード電子、MacBook用ジャケット(JKT-MB)発売

株式会社バード電子は7月14日、“着せる” MacBook用ケース、MacBook用ジャケット(JKT-MB)を発売すると発表。出荷予定は7月24日で本日より予約受付を開始する。また予約特典として通常5,400円(税別)のところ5,000円(税別)にて提供とのこと。なお送料・代引手数は無料。


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取引先での打ち合わせやイベント、プレゼンテーションなどで、MacBookを毎日のように持ち歩くなら、周囲におっ、と注目されるケースを使いたいもの。本革のような質感と個性的な色、そしてケースに入れたまますぐに使える、スマートなジャケットタイプのケースはいかが...。

MacBookを収納するには、上下2カ所のパーツをひょいっと引っ掛けるだけ。 お気に入りのジャケットを羽織るように、愛用のMacBookに“着せる”ことができる。そして“着せた”まま、ぱっと開いて使える設計。上下2カ所のパーツには適度な強度があり、使用中に勝手に外れることはない。それでいて、いっぱいに開けば簡単に取り外しができるよう設計されている。またスナップボタンやベルクロ等の固定具は使用していない。

裏地を含めて厚さ1.5mm以下という素材の採用により、鞄の中にもスマートに収納できる。愛用のMacBookそのままのスマートさを保ったまま、お洒落に保護することが可能。この質感と使い勝手と優れた耐久性を実現したのは、キップレザーのようなソフトな肌触りのある高級合成皮革「リーフフィルダー」を採用したため。
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MacBook ジャケット



書籍「Multimedia Tools」に見る1990年前後のマルチメディアとは

いつ頃から言われ出したのか、マルチメディアという言葉を出せばビジネスになるような一時期があった。CD-ROMタイトルをマルチメディアだと称する困った時期もあったが、多くの人たちは近未来の明るい技術展望をマルチメディアという言葉に託していたのかも知れない。


ところでここに一冊の本がある。「Multimedia Tools〜秋葉原感覚で考えるマルチメディア」(宮本学著/HBJ出版局刊/1990年12月17日初版)というペーパーバックだが、Macintoshというパーソナルコンピュータを中心に据え、当時の現実的なマルチメディアを考察した一冊である。 

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※宮本学著(HBJ出版局刊)1990年12月17日初版「Multimedia Tools〜秋葉原感覚で考えるマルチメディア」


当時は日本電子工業会などでもマルチメディア市場の市場予測などをアピールしたものだが、私などは実態が明確にされていないマルチメディアの市場を予測するなど困難であるという立場をとり続けていた。しかし時代はいわゆる良くも悪くもマルチメディアと叫ばれている方向に向かっていた。 

1989年に幕張メッセで開催された「マルチメディア国際会議 '89」が事実上、わが国で "マルチメディア" という言葉を全面的にアピールして開催した最初のイベントであったが、前記したようにその前年にはCD-ROMの活用が事実上始まったこともあり大容量のデータの扱いに大きな注目が集まったのである。 

私自身1990年と1991年の2度にわたり「マルチメディア国際会議」にアップルコンピュータ社(当時)の要請で展示コーナーを設けたが、いやはやその来場者の多さには驚いたものだ。狭い通路内で来場者同士にトラブルが生じて急遽翌日からレイアウトを変えるといったありさまだった。 

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※「マルチメディア国際会議 '91」におけるアップルブース中央付近


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※「マルチメディア国際会議 '91」におけるアップルブース付近遠景。右側の中央あたりが我々のブースだったが来場者で埋まり位置が良くわからない :-P


1991年にはQuickTimeが登場したこともあり、やはり一番の注目は動画の扱いだったといっても差し支えあるまい。それがCD-ROM上のデータだけでなく、当時はレーザーディスクを用いたチャプター検索などもまだまだ多くの人たちの興味を集めていた時代だったのだから面白い。 

さて、「Multimedia Tools〜秋葉原感覚で考えるマルチメディア」はまだまだ実態がよく見えないマルチメディアを一般のMacintoshユーザーの目の高さで考察しようとした意欲的な一冊であった。それがサブタイトルの「秋葉原感覚で考えるマルチメディア」というのによく現れている。 

そして新しいハードウェア、ソフトウェアが乱立し始める中にあり、メーカーへの意欲的な取材で具体的に様々な機器やシステムを分かりやすく紹介していくその姿勢は当時としても大いに評価されたのではあるまいか。 
本誌に紹介されている製品類は多義にわたる。ざっと記しても「HyperCard」 「電子手帳」「CD-ROM」「オーディオCD」「レーザーディスク」「ビデオデッキ」「スチルビデオカメラ」「ハードディスクレコーディング」「24Bitフルカラーボード」などが紹介されている。 

これら一連の製品群を眺めるだけで当時の状況およびマルチメディアと騒がれていたレベルがおわかりになるのではないか(笑)。 
HyperCardが1987年に、そして前記したようにApple CD SCが1988年に発表されていることから考えるとこの時代のポイントは3つあったと考えられる。 

ひとつは「HyperCardから機器をコントロールすること」だ。事実、CD-ROMは勿論だが「Multimedia Tools〜秋葉原感覚で考えるマルチメディア」には「HyperCardと電子手帳」「HyperCardからオーディオCDの再生をコントロールする」 「HyperCardからレーザーディスクをコントロール」 「HyperCardからビデオをコントロールする」「HyperCardからスチルビデオプレーヤーをコントロールする」などなど、HyprCardオンパレードなのだ。 

ふたつ目のポイントはやはり「ハードディスクレコーディング」である。この時期はまだQuickTimeは影も形もなく、Macintoshによるコンシューマー向けビデオ映像のハードディスクレコーディングは事実上僭越ではあるが私の会社のVideoMagician II だけであったが、そのデータもHyperCardから自由に使えるようにとXCMD (HyperCardの外部コマンド)を同梱していた。無論このVideoMagician II は本書のハードディスクレコーディングの項に取材と共に紹介されている。 
そして3つ目はフルカラー化と大量かつファイル容量が大きくなる画像をどのように扱うかにあった。

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※VideoMagician II は1990年リリース


したがって...というべきか。前記した1991年開催「マルチメディア国際会議 '91」のアップルコンピュータ社ブース、特に私どもの会社のコーナーの混雑ぶりは半端ではなかった。当日の写真がいくつか残っているが、いまパソコン展示のブースでこれだけの来場者を集められるブースはないのではあるまいか(^_^)。そう思えるほど凄い混雑ぶりであり、我々は当然の事ながら質問攻めにあい続けた。 

我々はQuickTimeに準拠した静止画のみならずハードディスクレコーディングした動画やレーザーディスクまでをも検索利用できる画像データベースソフトと、これまたQuickTimeにいち早く準拠したビデオから映像をハードディスクに取り込むソフトウェアを展示したのだから、そのフィーバーぶりは(古いねぇ...笑)、当然のことだったのだろう。 
瞬時に検索表示したそのカラー画像が音と共に動いたのだから...。まさしく当時求められていたマルチメディアのひとつの姿がそこにあったのである。

ところで、QuickTimeがまだなかった1990年の私たちのブースにはあのビル・アトキンソンも立ち寄ったが、愉快だったことはビル・ゲイツが基調講演で紹介したマルチメディア例のデモは私がVideoMagician IIとHyperCardで作成したデモと同様…偶然にも「野鳥図鑑」だったことだ。

そしてビル・ゲイツが基調講演で「これぞマイクロソフトのマルチメディアだ」と紹介した野鳥図鑑は鳥の名をクリックするとその野鳥の図が表示されて鳴き声を発するというものだった。しかし私の作った野鳥図鑑はそれらの野鳥がカラーの動画で羽ばたいたり鳴いたりしたのだ…。我々のプレゼンによる野鳥図鑑の鳥たちは動いたのだ…。
我々のブースを覗いた時のビル・ゲイツの表情は深刻な表情だったと後でスタッフから聞かされた(笑)。それは特異な時代の特異な例ではあったが、超マイクロ企業が超大企業に一矢報いた感じもする瞬間だった。



ラテ飼育格闘日記(449)

先日オトーサンが「ラテは子供たちに可愛がられて幸せだ...」といったとき、女房は「でもさ、子供たちがよくオトーサンに『触ってもいいですか?』などと声をかけてくれるよね」という…。まあ確かにそれは言える(笑)。


今更だが、難しい時代である。大人がよかれと思い、見知らぬ子供に声をかけただけで警察に通報されることもありうる昨今だ。したがって例えばオトーサン一人で街を歩いていたとしても行き交う子供たちと声を掛け合うことはまずあり得ない。だから、オトーサン自身は散歩途中で確かに心がけていることはある...。

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※子供が大好きなラテ。子供たちが遊んでいると目を輝かして近づこうとする


先日、駅に向かっていたとき自転車に乗っていた男の子がゆっくりながら横倒しになった。そして自転車を起こすのに難儀していた様子なので近寄って「大丈夫?」と声をかけながら自転車を起こしたことがあったが、そんなシーンでもない限り見知らぬ子供に声をかける機会もないし、子供たちの方からこのオヤジに声をかけることもないだろう...。
しかしラテと散歩をしていると特に小学生や中学生の女子から「可愛い!」「触っていいですか?」といった声をかけてくれることがある。

そういえば、以前住み暮らしていた場所から近い広い公園にはお仲間のワンコたちも多々集まっていたが、その公園の奥に小学校があったことでもあり、子供たちの遊び場でもあった。
そんな環境だったから子供たちはラテを仲間に入れてくれた...。女子たちが「だるまさんがころんだ」の遊びをしているときにラテが近づくと「ラテちゃ〜ん。一緒に遊ぼ!」と声をかけてくれた。

十数人が野球の真似事をしていたときに外野側から見ていたら一人の男の子が近づいたとき「ダメだよ邪魔しちゃあ」と注意された。オトーサンもまずいかな...とラテのリードを引いて遠ざかろうとすると「あっ、ラテちゃんはいいんだよ」と言ってくれた(笑)。

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※人間好きのワンコ嫌い...なのか、困った娘である


近くの砂場がある公園に入ったとき、馴染みの女子たちが「あっラテちゃんだ」と寄ってきたがオトーサンの袖を引くようにしながら「あのさぁ、オジサンにあたしたちの秘密基地を教えてやるよ」という。オトーサンは「秘密なんだからオジサンに教えちゃあダメでしょ?」と聞くと「いいの、いいのラテちゃんたちは」といいながら公園の土盛りの向こう側に連れて行かれた...。

なんということはない、そこにはルールを守らない大人たちが放置したテーブルや家具などがあった。それを子供たちは並べ直して自分たちの秘密基地として遊び場にしたらしい。

しかしそうした女子たちも中学生となり高校生となれば通学のための道も違うしそもそも公園で遊ぶ年齢ではなくなった。その上に近くの小学校が統合のために廃校になった関係で子供たちが公園に立ち寄らなくなってしまったのだ。

ともあれそうした数年の期間でラテだけでなくオトーサンも様々な事を学んだ...。
勿論それらの子供たちの身元はもとより、名前も知らない場合がほとんどだったし、彼女たちとの付き合いはそれこそラテがいたからこそであったが、いくらラテを連れているとは言え飼い主のオトーサンが嫌われては声をかけてくれるはずもない。

そもそも今の子供たちは家庭でも学校でも「知らない大人にかかわらないように」「声をかけられたら逃げろ」という教育もされているようだしオトーサンから声をかければ妖しいオヤジだとして怪しまれるに違いない。

そんなあれこれを意識し、公園で多々出会う機会が増えた後もオトーサンは意識的に彼女らのプライベートに関しては言葉にしないように勤めた。
例えば名前は勿論だが、学校名や学年も聞くことはなかった。数年間の付き合いで友達同士のやり合いから名前を知ったり通学している学校を知ったりすることもあったもののあえてそれらについて聞いたり問うことは避けた。あくまでその場の遊びに関してだけの話題に終始したのだ。

そのうち自然に彼女たちはラテと遊びながら胸襟を開いてくれ、学校での出来事や兄妹がいること、ときには父親の職業に至るまでを話してくれるようになった。
ある子供は中学1年になったとき「人を好きになるのは辛いことなのね」とオトーサンの前でポツリと言ったこともあった(笑)。またラテやその飼い主について家庭で話しをしたことがあるのだろうか、母親と一緒に歩いているところに出会ったときには「あっラテちゃんだ」と子供が近づいたとき、オトーサンの子供のような若い茶髪の母親から会釈をされたこともあった。

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※公園で歩きたくないとデカイ "ツチノコ" 状態になっているラテ(笑)


そうした年月を重ねて知り合った子供たちとはほとんど出会えなくなった...。だから当該ブログでご紹介する子供たちとの接触のほとんどは初対面なのである。しかしいくらワンコを連れているとはいえ、女房が言うようによくもオヤジ連れに近づいて子供たちから声をかけてくれるものだと思う。女房が不思議がるのはその点だ(笑)。

無精髭にウェブカメラを顔の横に着けている妖しいオヤジによく近づいてくれるものだというのが女房の言い分だし、確かにその通りだ。しかしオトーサンとしてもラテの喜びの機会をひとつでも作りたいと努力をしているのである。

まずはニヤニヤしながらは論外だが(笑)、笑顔と言うより明るい表情で歩くことだ。むっつりし暗い表情で歩くのではいくらワンコ好きでも声をかけづらいだろう。
それから言葉にして説明すると作為的で嫌だが、声をかけやすくするよう心がけることも大切だと思っている。例えば向こうからラテに興味がありそうな子供たちが歩いて来たとする。オトーサンはラテのリードを引きながら無表情でむっつりと通り過ぎるのではなく、意図的にラテと話しながらすれ違うことは大切なように思う。

そうするとラテも表情が明るくなるし、オトーサンも子供たちに近づこうとするラテに「ラテ、ワンコが嫌いな子もいるからダメだよ」とか「こんにちは!」と口に出しながらすれ違うように心がけている。ともかく飼い主がワンコと何かしらやりあっていると子供たちも声をかけやすいようなのだ。

ということで、以下に子供たちとの接触例をご紹介するが、現実には申し上げるまでもなくその展開は相手次第なのでオトーサン側に決まったあれこれがあるはずもない。しかしまずはこんな感じのシーンも多い…。

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① 前方から二人の子供が近づいて来る。手前の女の子がラテに近づきたい感じ。ラテは早くも期待している(笑)


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② 確実にラテに向かってきたのでラテにお座りをさせて待機。子供が声をかけやすいようにと演出(笑)


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③ 「触ってもいいですか?」と女子。「ありがとうございます」とオトーサン。「大きい犬、大丈夫ですか?」と確認


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④ どうやらワンコの扱いに慣れているようで、一安心。ラテは早くも女子の差し出した手を舐めている


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⑤ 女子の笑顔とラテの歓喜の表情がコラボ(笑)。ただ右側の女子はまだ腰が引けている


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⑥ 「さようなら」と離れていく。ラテは追いかけたいみたいだが、女子たちにオトーサンは「ありがとうございました」と声をかけて歩き始める


一番の問題は深追いはしないこと。ラテの挙動に最大の注意を払いながらも子供たちにプライベートな事や余計なことは一切口にしてはダメだし、子供たちが離れようとすれば「ありがとうございました」とラテがいくら追いかけようとしても許してはならない。

来る者は拒まず、されど去る者は追わず...である。そして次に出会ったときのことを考えてできるだけその子の顔を覚えておくことができれば免許皆伝だ(何の…笑)。余談だがパナソニックのウェアブルカメラ HX-A500はそうした散歩途中の映像を振り返ることができる点でもオトーサンには有用なのだ。

ま、オトーサンとしてもラテの喜ぶ顔が見たいのと、正直ひとりでもワンコ好きの子供が増えて欲しいと願いつつそれなりの努力をしているということなのである…。しかしオトーサンが言うのもおかしいが、ワンコ連れだからまともな大人だとは限らないし、ワンコがすべて子供好きとは限らないから子供側からの安全対策は難しい…。



Apple、"取っ手" の物語

ポストPC時代といわれるこの時代から見て、旧来のパーソナルコンピュータといえば “大きい” そして “重い” という印象は拭えない。後にいわゆる携帯可能な製品やノート型が登場するものの多くは机上スペースをかなり占有するものばかりだった。だからということなのか、移動も考慮すれば必然的に持ちやすい工夫も重要だった…。


ということで今回はApple製品と “取っ手” の関係についての雑談である。
さて、Appleの歴史をすべて振り返るつもりはないが、Apple II は樹脂ケースに納められていたこともあり、かつ比較的軽量だったから、こちらの机からあちらの机に…といったことは容易だった。事実専用のキャリングケースに誇らしげに収納し、自宅と勤務先を往復していたApple IIも結構知っている。ただし別途モニター(TV)の用意が必要だったが…。

しかしApple III やLisaは重く大型だったから移動に適してはいなかった。しかし1984年に登場したMacintosh開発をリードしてきたスティーブ・ジョブズの夢は携帯できるマシンの開発だったという。とはいえ当時の技術ではディスプレイひとつを取ってみても現在の液晶ディスプレイのようなものを実現できるはずもなかった。

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※初代Macintoshのハンドル部位


そのMacintosh 128Kにはジョブズの意向もあり “取っ手” がデザインされていた。正面から見れば取っ手の有無はわからないという巧妙なデザインだったが、事実この取っ手はユーザーに “とって” とても実用的な工夫だった(笑)。何しろ本体の重量は約7.5 kgもあったから取っ手のおかげで移動の際にも落とす危険性が減少したことは確かだ。事実アップルはMacの製品コンセプトに移動が楽だという点もアピールしていた。

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※Macの最初期カタログ表紙にもバッグから片手で取り出すシーンが...


「Macは知的自転車」とはスティーブ・ジョブズの言葉だが、それを説得力ある言葉にするにはMacを1箇所に固定して使うパソコンではなく、必要な時に必要な場所へ手軽に移動できるパソコンというイメージが欲しかったに違いない。だからアップルの公告にはMac専用バッグに片手で出し入れするシーンが目立ったし、最初期カタログの表紙もまたバックから片手でMacを取り出す一瞬が表現されていた。さらに女性がキャリングケースに入れたMacを自転車のカゴに乗せて走るシーンがプロモーションビデオやらに多用された。

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※Macのプロモーション・ビデオには女性がMac一式を専用キャリングケースに入れて自転車で運ぶシーンがある


とはいえ実際にキャリングケースに入れたところで移動は楽ではなかった。室内での移動程度ならともかく、例えば自宅と職場といった距離を肩に担いで歩くには無理があった。自動車に積んでなら何ということもないだろうが、キャリングケースに本体はもとよりキーボードとマウス、そしてマニュアルなどを収納して肩に担ぐと一瞬でまともな距離を歩くには相当な覚悟と体力を必要とすることを自覚せざるを得なかった…。

そういえば1984年のMac発表会ではスティーブ・ジョブズ自身がキャリングケースからMacを取りだしてプレゼンするというパフォーマンスをやった。初代Macは決してポータビリティに優れたマシンではなかったが、スティーブ・ジョブズはポータビリティを強調したかったに違いない。

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※Macの発表会におけるスティーブ・ジョブズ(1984年)


この初代Macを皮切りにMacintosh 512K、Plus、SEにも同じような取っ手が採用されていた。無論512K、Plus、SEのバックケースは初代Macの金型を踏襲したものだったが…。さらに初代Macintoshと同時に発表のApple IIcにはやはりハンドルが付いていた…。

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※Apple Iicのハンド


スティーブ・ジョブズは1985年の9月にアップルを去ったが、1996年末に復帰し1998年に発表された iMacにはやはり取っ手が付いていた。ジョブズにとっては初代Macの再来の意味もあったようだが、iMacも実に重かった(笑)。

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※初代iMacのハンドル部位


勿論パソコンに取っ手を...というのはアップルの発明ではない。商業的に成功した最初の持ち運び可能な「オールインワン」コンピュータである「オズボーン」は1981年4月3日にリリースされている。また1990年初頭にはMac PlusやSEの純正ROMを用いた互換機「アウトバウンド」もハンドルがあった。
とはいえ重要なのはハンドルを付けることは容易でも、デザインや機能面からきちんと考慮されているかが問題であろう...。

ところでスティーブ・ジョブズが不在時代のアップルでも取っ手の付いた製品はいくつか存在する。それは当時のジョン・スカリー CEOが提唱したナレッジ・ナビゲーター(Knowlegs Navigator)という近未来を見据えたコンセプトモデルは勿論だが、1989年9月に実際にリリースされたMacintosh Portableは取っ手が液晶面を開けるロックを外す役割を与えられていた。後は1990年のMacintosh Classic、翌年1991年のMacintosh Classic II、1993年のMacintosh Color Classicそして1997年のeMate 300 だ。

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※Macintosh Portableのハンドル部位(上)。Macintosh Color Classicのハンドル部位(中)とeMate 300のハンドル部位(下)


ただしその他のデスクトップ型としてカラー機能が付加されたマシンはスティーブ・ジョブズが追放された影響もあるのだろうか、拡張性を増して大型化してくる。
1987年に登場した最初のカラーマシンとなったMacintosh II は当時ワークステーション並の能力を持つパソコンと言われたが、横に長い箱形であり、NuBus拡張スロットが6個用意されていたしすでにデスクトップ専用マシンとして移動を考慮したものではなくなっていた。

スティーブ・ジョブズがAppleに復帰してからは iMac以降も取っ手はデザインの重要な一環になっている。例えば1998年のPowerMacintosh G3(Blue & White)に始まりG4までの樹脂製筐体とアルミニウム筐体のPowerMacintosh G5シリーズ、そして後継機種Mac Proには上部の前後に取っ手があったが、本体を接地面から浮かして空気の流れを作るためか下部にも同一デザインが施され、それは足台の役割を果たしていた。ためにこれらの取っ手は純粋にデザインの一部になって本来無骨とも思われかねない「取っ手」の存在を目立たなくしていた。

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※PowerMacintosh G3


後は2001年発表のシェル型 iBookも印象的なデザインだが取っ手もデザイン上大切な役割を果たしていた。


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※シェル型 iBookのハンドル


スティーブ・ジョブズにとって彼が作るマシンには「冷却ファンがないこと」そして「ハンドル付き」がひとつの条件だったと考えられる。無論CPUが高速化しマシンの能力が上がるにつれて放熱ファンは無視出来なくなったが…。とはいえMacBookや iPadといった製品にはハンドルは採用されていない。それらはサイズ的には勿論、重量的にも問題なくハンドル無しで手にすることができると判断されたに違いない。

そういえば、A4判といった大型スクリーンを持ったiPadが登場するのではないかという噂も絶えない。もしそれが実現するとなれば大型化はその取扱がしにくくなってはユーザーの支持は得られないと思う。その対策のひとつとして何らかのハンドルが付くのではないかと考えているが、さてどうなりますやら…。



インスタグラム、Amebaブログへの共有機能を追加

写真・動画のソーシャルネットワーキングサービス、インスタグラムは7月8日、インスタグラムの投稿をアメーバブログにも簡単に同時シェアできる新しい共有機能を発表した。


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日本の利用者のために開発したこの機能により、インスタグラムで投稿している写真や動画を、他のサービスに加え同時にアメーバブログにもシェアできるようになり、計7つの多様なプラットフォームでのシェアが可能になった。
以前より、両社のサービスの利用者は、アメーバブログに投稿する際、インスタグラムで共有した写真を事後に選んで投稿することが可能だったが、この機能の導入により同時シェアが可能となった。iOS版では本日から、Android版は近日中に提供開始する。

インスタグラムの投稿をアメーバブログにシェアする場合には、インスタグラムのシェア画面で「Ameba」ボタンを選択すると、初回のみAmebaのログイン画面に移る。アメーバブログのアカウントを持っている方はアカウント情報を入力、アカウントを持っていない方は新たにアカウントを作成することができる。その後、自動的にシェア画面に戻り、「Ameba」が選択されているのを確認したのち、画面下の「シェア→」ボタンをタップすると、インスタグラムと同時にアメーバブログにもコンテンツがシェアされる。

また、プロフィールページ内のオプション設定(画面右上の歯車マークをタップ)から「リンク済みアカウント」に進み、Amebaのログイン情報を入力して連携設定をすることも可能。こちらでは、投稿したいアメーバブログのテーマを設定することもできる。

この他、インスタグラムのみに投稿した後にアメーバブログにシェアしたい場合は、従来と同様、写真右下の「・・・」をタップして「Ameba」へのシェアを選択(iOS版のみ)。

■インスタグラムのダウンロード
iOS版アプリ
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インスタグラム 日本語版公式アカウント(日本語)



ルルドの奇跡〜聖ベルナデット死後の物語

過日は無学で貧しい少女ベルナデット・スビルーとルルドにまつわる奇跡を描いた映画、20世紀フォックスが1943年制作の「聖処女(The Song of Bernadette)」をご紹介した。今回はそのときにお約束したとおり続編をお届けしてみたいと思う。なぜなら彼女の物語は死して終わらなかったからだ…。


1879年4月16日、結核のため35歳で死去した彼女の遺体は鉛とオーク材で作られた二重の棺に納められ、その棺は証人同席のもとに封印された。そして修道院の中庭にある聖ヨセフ小聖堂の地下墓地に安置されることになった。

ただしベルナデットは死後も注目を浴び続ける...。なぜなら彼女が自らの手で掘ったルルドの泉が多くの人たちの病気や怪我を治癒させるという事実が重なったことに加え、彼女の聖性等の調査のため法律と教会法に従って1909年の秋を皮切りに3度の遺体鑑定が行われ棺が開けられた。そして1933年12月8日には列聖に加えられたからだ…。
要するにベルナデットは聖人となったのである。

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※1860年代に撮られた修道女になってからのベルナデット・スビルー。残された写真の中で最も好きな1枚だが、オリジナルプリントを購入したもので元写真は約21.5 x 15 cmのサイズ


それら一連の行為は公文書に記録されているというが、1度目に棺を開いたとき完全な状態で保存されているベルナデットの遺体が現れた。腐臭はまったく感じられなかったという。
ただし遺体全体につやがなく、かさかさで硬直してたもののすべての部分はまるで生きているかのような印象を与えた。修道女たちは遺体を洗い、決められた手順に従って白い絹がはられた新しい棺に納めた。

死後30年経った遺体が完全に保存されていたそのことを単純に "奇跡" と呼び "聖人の遺体は腐敗しない" と名言するには抵抗あるが、あり得ることとはいえやはり特異なことには間違いない。なぜなら地下墓地の湿気でベルナデットが持っていたロザリオは錆び付き、十字架は緑青のためか大きく変色し修道服まで湿気を帯びていたというから、肉体を腐敗させる要因は十分にあり得た環境だった。

その後、 1919年4月と1925年4月に計3度目の遺体鑑定が行われた。その3度目の儀式はベルナデットの死後46年と2日後にあたる...。
立ち会った医師の報告によれば、骨格、腱膜、靭帯、皮膚が完全に保存されていたこと。特に死後46年も経過している肝臓が普通の状態といってもよいままに保存されていたことに驚愕する…。ただし3度の遺体鑑定のためとはいえ棺が開けられたことから遺体の一部が傷つき皮膚が黒ずんできたため、修道女たちはベルナデットの遺体に新しい修道服を着せると共に、顔と組み合わされた両手の型がとられ、薄く精巧な蝋のマスクが被せられ現在に至っている。

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※ヌヴェールのサン・ジルダール修道院の大聖堂にガラスの棺に納められているベルナデットの遺体


ベルナデットの遺体は現在もヌヴェールのサン・ジルダール修道院の大聖堂にガラスの棺に納められており、参詣者はその姿に接することができる。そして繰り返すが1933年12月8日、ベルナデットは教皇ピオ11世によって列聖に加えられた。とはいえそれらのことはベルナデット自身が望んだことではなかった。

ベルナデットは聖母に愛されたゆえに残りの短い一生を孤独に生きなければならなかったし事実彼女は黙々と生き、黙々と死んだだけだ...。
「なぜおまえなんかが聖母を見たのか、なぜ自分ではないのか」などと罵られることも度々だったという。また修道女となってからも病気がちだったこともあって「役立たずのシスター」と陰口をたたく輩もいた。

信徒でもない私がこの種の話しに最初に興味を持った点は、聖母出現といった奇跡を疑うよりももっと根本的な点においてこの種の話しに不自然さを感じたからだ。
それは…もし聖母マリアが本当に現れたとして、何故小さな地方都市に貧しくも慎ましやかに生活している、それも無学な少女の前に出現するのだろうかという点だった。他にも少女たちの眼前に聖母マリアが出現したという話しは珍しくなく、ファチィマの聖母の例は特に有名だ。まあ、夢見がちな思春期の少女たち特有のことだと主張する人たちも多いだろうが…。

そのファチィマの聖母だが、それは1917年5月13日、ポルトガルの小さな町ファティマの3人の子供たちの前に聖母マリアが現れて毎月13日に同じ場所へ会いに来るように言ったという。そして聖母は教皇への要望を訴えた...。
繰り返すが信徒でもない罰当たりのオヤジが "いちゃもん" をつける訳ではないものの、聖母マリアが教皇へメッセージを伝えたいのであれば何故バチカンの教皇自身の眼前に素直に出現しないのか? わざわざ田舎町の子供たちの前に現れ、大騒ぎを起こす意図はどこにあるのだろうか...と素直に思った(笑)。

いや、理屈は分かっているつもりだ。聖母はこの世の中で一番貧しく無力で純真な少女だからこそ、彼女らを使者としたのだと…。とはいえ確かに子供たちの信仰心は強まるかも知れないが、結局聖母マリアと出会った子供たちは大人たちの懐疑や嫉妬あるいは利害に巻き込まれ波乱の人生を送ることになりがちなのだから…。聖母マリアも罪なことをするなあ…と考えたのだ。とはいえ「信仰とは、信じることと見ることの間にあるものなのだ」とはシルヴィ・バルネイ著「マリアの出現」(せりか書房刊)にある言葉だ。

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※シルヴィ・バルネイ著/近藤真理訳「マリアの出現」(せりか書房刊)


...ただし少女ベルナデット・スビルーの場合は私なりに書籍をはじめ幾多の情報を得た限り、少なくとも彼女自身や両親らに聖母出現を政治的・経済的に利用しようとか、有名になりたいといった野心や意図はまったくなかったと信じられる点に心を引かれた。
ベルナデットが当初、自分の前に出現した人を「あれ」とか「貴婦人」と称し、聖母マリアとは語っていない点も興味深いし、聖母マリアの出現のことを口にすることを嫌がった。

"聖母はたった1人の少女が見ただけだった。それだけだったのに母親が怯え、警察は騒ぎ、ジャーナリズムが揶揄し、司祭が当惑し、市長が夢見、病者が期待し、人々が興奮し、無数の人の無数の思いが交錯し狂騒となっていく..." (竹下節子著「奇跡の泉ルルドへ」より)。

また彼女の名が知られるようになると贈り物と称して多々届けられる品々があったとされるが貧しくその日の食べ物にも困窮していた家庭であってもそうした心付けを受け取らなかった。さらにお金を握らせようとする人たちもいたが、彼女は投げ返したという。そして後年兄妹たちが正業につかず、ルルドの泉で記念品販売をはじめ、ルルドの巡礼者相手のアルバイトなどをしていたことを嘆き、いつも諫めていた…。

ただしベルナデットにとって幸か不幸か、彼女がルルドの洞窟の地面を両手で掘って湧いて出た水たまりは多くの残された資料と証言があるとおり、ルルドの奇跡として知られていく。それらは前回にも記したとおり2,500例にも上る「説明不可能の治癒」と記録されている事象からカトリック教会が慎重に調査した結果 "奇跡" と認められたのが65例だとはいえ、これまたそれらの事実はベルナデットの意志ではない。ベルナデットは聖女扱いされるのを嫌がった。

そういえば…そもそもマリア信仰...マリア崇拝はカトリック独特のことだとはいえおかしなことだ。キリスト教は当然のことながら救世主イエスへの信仰を意味するはずだ。その拠り所となる聖書にも母なるマリアが崇拝の対象となるようなエピソードなどないも等しく、せいぜい処女受胎の話しくらいではないか…。
勿論ベルナデット・スビルーはカトリックに属するからこその話しとなるが、プロテスタントでは基本的にマリア信仰は認めていないという。そう聖人の存在も ^^;

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※わが家のマリア像。中学3年の頃、デッサンの練習用にと買った小ぶりな石膏像。一部塗り直したりしながらもいまだにわが家に置かれている


ともかくカトリックでは神の子の母というそのことが「マリアという女性は神性な存在」と見なされるようになったと思われるが、単純な感想としてベルナデット・スビルーに限らず、多くの人たちの眼前に出現したというのがなぜにイエスではなくマリアなのかという点は興味深い。

まあ、イエスはただ一人の神の子であり救い主であるからして我々凡夫には近づきがたいことは確かだ。原罪を持つといわれる我々はイエス・キリストに直接あれやこれやと哀願することは恐れ多いが、母親のマリアならより親近感をもって近づくことができるし…女性の優しさをもって些細なことでも聴いてくれるのでは…といった心理が働いているのかも知れない。

ところで、私の手元にその聖ベルナデット・スビルーに関連した品がある。若い時代に1度手に入れたが紛失し、これは後に再度手に入れたものだが、それはベルナデットの姿が彫られているメダイである。
もともとはブロンズに銀メッキされていたもので、前記したように1933年12月8日、ベルナデットがローマで列聖とされた時期にフランスで製作された数種のもののひとつだと思われる。

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※筆者所有の聖ベルナデット・スビルーを象ったメダイの表裏


サイズは直径 16.35 ミリほどの小さなものだが、表面には修道女姿のベルナデット・スビルーが彫られている。これは残されている彼女の写真のひとつから取った姿に違いない。そして裏面にはルルドにおける聖母出現のシーンが刻まれている。なお表面の縁にある "Sainte Bernadette, priez pour nous." の文字は「聖ベルナデットよ、我らのために祈りたまえ。」という意味だという。

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※メダイは一円玉より小さい


さらにこのメダイだが、表裏をスライドさせて “ずらす” と裏面の内側にベルナデットの聖遺物として極小の布片が封入されている...。この布は聖人に列せられたベルナデットの聖遺物(遺体)に触れた布を裁断したものとされている。勿論、この布の切れ端が本物であるかどうかを知り得る手段は私にはないし、ベルナデットにしてみれば至極迷惑な話に違いない(笑)。

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※メダイの表裏を “ずらす” と裏面の内側にベルナデットの聖遺物が封入されている


なぜなら…こんな逸話が残っている。前記したようにベルナデットにとって一番辛かったのは聖女の扱いを受けることだった…。ひっきりなしに訪れる人たちはベルナデットに触ってもらおうとロザリオなどを持参して彼女に願った…。しかしベルナデットは「そういうことは禁じられています」と断るのが常だったが、訪問者も何とか触れてもらうためにと卑劣なことまでやった。それはロザリオをベルナデットの前でわざと落として拾わせようとしたという。

「拾って欲しい」と言われたベルナデットは「落としたのは私ではありません」と突っぱねた。またある時には後ろから近づいてきた女性が「彼女のスカートの端でも、ほんの少しでいいから切ることができないかしら」といった。それを聞いたベルナデットは「みんな、なんておばかさんなのでしょうね」と言ったそうである。したがって彼女の聖遺物をお守りとして大事に持っている私をベルナデットは軽蔑するかも知れない…(笑)。

ともあれ彼女に関して伝えられていることの多くも後から周囲の人たちが取り繕った話しが多く、彼女自身は奇跡やらの話題には興味がなかったようだし存命中に広まった噂の多くについても否定している。
例えば自身が右膝結核性関節腫瘍で悩まされ病弱だったが、周囲の人たちに「ルルドの泉に行けば直るかもしれない」と言われたときも「(自分には)効果はないから」と耳を貸さなかった。

ということで、カトリックの聖人はそれこそ膨大にいるようだし古い時代の人物には民間信仰も加わり実在しない聖人もいるという。そうしたことを踏まえると明治12年に亡くなったベルナデット・スビルーは写真に撮られた最初の聖人でもありとても身近に感じるし、ルルドの泉の存在と共に忘れがたい女性なのだ。

【主な参考資料】
・竹下節子著「奇跡の泉ルルドへ」NTT出版刊
・小林珍雄著「聖ベルナデット」エンデルレ書店刊
・ルネ・ローランタン著「ベルナデッタ」ドン・ボスコ社刊
・安藤敬子訳「ベルナデッタ 魂の日記」ドン・ボスコ社刊
・シルヴィ・バルネイ著/近藤真理訳「マリアの出現」せりか書房刊


LightningケーブルとUSBケーブル内蔵のオールインワンモバイルバッテリー発売

フォーカルポイント株式会社は7月6日、LightningとUSBケーブルを本体に内蔵し、これ1台で機器の充電・同期はもちろん、バッテリー本体の充電も可能な7,000mAh搭載の大容量オールインワンモバイルバッテリー「mophie powerstation plus 4X (Lightning)」を全国の取扱店などを通じて発売と発表。同社の運営するオンラインストアでも本日より販売を開始した。


powerstation plus 4X

【mophie powerstation plus 4X (Lightning)】
mophie powerstation plus 4X (Lightning)(モーフィー パワーステーション プラス 4エックス)は、7,000mAhの内蔵バッテリーと最大2.4A出力で急速充電にも対応したモバイルバッテリー。内蔵のLightningケーブルとUSBケーブルにより、ケーブルを持ち運ぶ必要がないので、バッテリー本体と充電したい機器もいつでもどこでも充電可能。また、本体に搭載されているUSBポートで他の機器を同時充電することも可能。ケーブルは本体に収納してアルミニウムの蓋を閉じることで、かさばることもない。

[製品仕様]
本体サイズ: 約109.5(W)×57.4(H)×15.5(D)mm
   重さ: 約164g

定価はオープンプライスだが、オンライン直販価格は13,980円(税抜)。

mophie powerstation plus 4X (Lightning) 製品ページ



1988年ゼロワンショップ発行「WINDOW誌」に見る思い出

今回は1988年11月20日、キヤノン販売が発行した「WINDOW」というゼロワンショップのニューズレターがテーマだ。誌名からWindows関連誌だと思われるかも知れないがWindowsとは関係がない…。当時Macintoshというパソコンもやっと少し認知され始めた時代だったが、この「WINDOW」から往時を思い出してみたい。 


本誌はキヤノン販売(株)のゼロワン推進本部が発行していたもので手元に残っているのはそのNo.4だけである。価格は200円と記されているが現実は全国のゼロワンショップで無料配布されたものではないだろうか。 

ではなぜNo.4号だけが残っているかといえば、当時小さな貿易商社に勤務していた一介のサラリーマンだった私がキヤノン販売の担当者から声をかけていただき、対談が本誌に載ったからである。 

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※キヤノン販売ゼロワン推進本部発行「WINDOW」No.4表紙(1988年)


これまでの「WINDOW」、そしてその後の「WINDOW」がどういったものなのかについては不明だが、このNo.4号は特集が「Mac・エンターテインメント」となっている。また目次を兼ねた扉には「WINDOWは、MacintoshII, Macintosh Plus, LaserWriter II NTX, IX-12と以下のソフトによって作成されています」と明記され、続いて「TeachText, EGWord, Outlook, PageMaker-J, Illustrator88, SuperPaint, MacScan, MacDraw, Excel, HyperCard-J」とある。 

さらに「表紙は Illustrator88で作成し、Linotronicでフィルムを打ち出しました。」と書かれ、往時のハードウェアならびにソフトウェア環境が偲ばれる…。しかしSuperPaintはまだしも、TeachTextというのも...すごい(笑)。 
ともかく、ポストスクリプト対応のLaserWriterの登場で、一躍MacintoshはDTPの世界で注目されるようになり、各方面で本格的な使い方とその可能性を探り始めていた時期だった。 

では内容を駆け足で見てみよう。 
まず「特集 Mac・エンターテインメント」と題してMIDIをターゲットにしたコンピュータミュージックの解説と紹介記事が巻頭にある。そして新作GAME紹介として「Shufflepuck Cafe」と「Advanced Flight Trainer」「The Colony」「Tetris」そして「バランス・オブ・パワー」が紹介されている。

ちなみに蛇足だろうが念のために記せば、「Shufflepuck Cafe」はいわゆるエアーホッケーゲームのMacintosh版であり、また「Advanced Flight Trainer」はフライトシミュレータ、「The Colony」はアドベンチャーゲーム、「Tetris」はいわずと知れた凸凹を旨く組合わせて消すパズルゲーム、そして「バランス・オブ・パワー」もブームになったが核戦争を起こさずに任期を満了できるかが問われるシミュレーションゲームだ。 

Balance of Power

※「バランス・オブ・パワー」の画面例


Shufflepuck Cafe

※「Shufflepuck Cafe」のプレーヤー相手を選ぶ画面


続いて「ユーザールポ●第4回 インターアーツ」と題し、インターアーツ社のMacintoshとサウンドにこだわる取材記事がある(タイトルの中の●は原文のまま)。 
さて、続いて私の出番となる。題して「Macで楽しむ方法~ゲームとグラフィックスについて語ろう」といった内容であり、当時キヤノン販売アップル販売企画部:石川雅康氏の司会で、私とゲームプレゼンテーター:多摩豊氏の対談が6ページに渡って載っている。 

そこでは多摩豊氏がMacintoshによるゲーム論を、そして私がMacintoshによる絵画論を展開しているわけだが、知っていただきたい事としてその当時はMacintoshもやっとカラー時代に突入したばかりであり、まだPhotoshopも無かった時代なのだ。 
司会者から「お勧めのソフトウェアは?」と問われた私の答えが、PixelPaintやStudio 8なのだから、まさしく時代がわかるし、個室での対談だったとはいえ多摩豊氏の指には常時タバコが挟まれ紫色の煙が揺らいでいた時代だった(笑)。 

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※グラフィックソフト「PixelPaint」の画面 


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※グラフィックソフト「Studio 8」の画面


この対談は強く記憶に残った対談であった。なぜなら私がアマチュア時代の経験であったことも原因だが、対談相手の多摩氏は1997年12月18日に若くして他界されたからだ..。享年35歳だった。 また "多摩豊" という名はペンネームだと知らされたのは後になってからだったが、編集者、ゲームデザイナー、ゲーム評論家、翻訳家であり、1986年には安田均氏と共に日本初のテーブルトークRPG月刊情報誌「ウォーロック」を創刊、編集長の職を1989年11月まで務めた人だった。

またパソコン通信ニフティサーブのSFフォーラムを管理する初代シスオペであり、私がMacのCGフォーラムのシスオペだったこともあって面識もあった。そしてこれまた後に知ったことだが、彼は20歳の頃から膠原病を罹い闘病生活を続けながらの執筆活動であったという...。

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※左ページに筆者の写真、右ページに多摩豊氏の写真が載っている対談ページ


その他の記事としては、「Macintosh入門講座~プリンター選びの基礎知識」、「ビジネス講座1 Excel 現金出納システム」、「ビジネス講座2 HyperCard~スタックウェアを作ろう」、「ビジネス講座3 DeskTopPublishing~ページメーカーをビジネスに使う」といった記事が並んでいる。 

1988年という時代におけるAppleをあらためて振り返れば、その前年にHyperCardを発表したAppleは、1988年1月に「Knowledge Navigator」構想と「ハイパーメディア」コンセプトを発表する。そして近未来のMacintoshの姿を強烈にそしてリアリティあふれる形でユーザーにアピールした年だった。

また現実の製品としてはApple CD SCによりCD-ROMドライブのプラグ&プレイを印象づけた年でもあった。 そして当時最新のMacintoshは最初のカラーMacであるMacintosh II、そしてMacintosh SEの時代であり、日本における環境を振り返れば、そのOSはまだ漢字Talk 2.0だったのである。

というわけで「WINDOW誌」はMacのPR誌ではあったが、その裏表紙にはキヤノンのワープロ専用機「キヤノワード」の一面公告が載っているという時代であった。



ラテ飼育格闘日記(448)

ラテの嫌いなものは雨とレインコート、そして暑さである。したがってこれからの季節で雨の日はラテにとって気の乗らない1日となるが、オトーサンにも雨や暑さはどうしようもないし、なるべくレインコートを着せずに散歩できるタイミングを図るしかない…。


ラテに聞いたことがないので分からないが(笑)、雨とレインコートのどちらがより嫌いかといえばそれはレインコートではないだろうか。しかし飲み水は別だが、濡れるのを嫌うのは笑ってしまうほどで雨の日は散歩に出てもそそくさと戻ってしまう。

さて、今では笑い話でありオトーサンにとっても愉快な思い出のひとつだが、ラテがわが家に来て間もない頃、はじめて本格的な雨降りの中、散歩に連れ出したときのことだ。

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※ご機嫌で〜す!


オトーサンはまだまだ慣れないものの、ラテのリードを引く要領が少しは分かったと思えるある日のことだった。その日は本降りの雨だったから当然傘を差してでかけた。ワンコを飼われている方にはあらためて説明する必要もないが、ワンコのリードを持ちつつ一方の手で傘を差すというのは両手が塞がるのでなかなか大変だ。その上に幼犬のラテは当時リードの引きも強く、オトーサンはその引きの強さをコントールすべくラテと格闘を始めていた。

その日は雨ではあったがラテはレインコートを着ていなかった。というよりまだ買ってはいなかった…。
ラテがわが家に来たのは2006年12月10日、はじめてレインコートを着せたのは翌月(翌年)1月3日だった。したがってその約20日間ほどの間の出来事だったことになる。

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※初めて買ったラテ用のレインコートを着せるオカーサンと険しい顔で硬直するラテ。2007年1月3日撮影


オトーサンは自分が濡れるのもかまわずになるべくラテが濡れないようにと傘を差し出しながら歩くが、ラテは珍しく自宅の玄関から出るのを嫌がった。オトーサンもそれはラテが雨が嫌いだからだと察したが、ともかく一旦外に連れ出した後は時折濡れた身体をブルブルと振るわせながらも機嫌良く歩いていた。

オトーサンもラテを飼うためこの地に引っ越ししたばかりであり、近隣のロケーションには当然のことながら疎かったがなるべく幅が広い歩道を選んで歩くことにした。
しばらくすると雨も小降りになったがアスファルトの路面がデコボコでもありオトーサンの靴に早くも水が浸透してきた。気持ちが悪いので濡れた靴下を直そうとラテのリードを短く持ち、傘を開いたまま肩に掛ける形でその場に座り込んだ。

目の前にいるラテが動く気配にオトーサンが顔を上げた途端、思ってもいなかったことが起こった。
ラテは後ろ足で立ち上がり、両前足を…なんとオトーサンの両肩に乗せたのだ!一瞬何事かと思ったが、ふとラテの体越しに前方を見ると大きく深そうな水たまりがあるではないか。なるほど、ラテはその避けられない水たまりを渡りたくないのだとオトーサンは直感した。

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※ラテがオトーサンに抱っこされるまでの分解写真(笑)。ラテの体重は20kgを越えているので慣れていないと腰を痛める...


オトーサンは雨に濡れるのも構わず傘をたたみ、当時10キロ程度の体重だったラテをそのまま抱き上げた…。ラテの前両足はオトーサンの両肩に巻き付き、まるで人間の子供を抱き上げたようになった…。これが今でも「珍しいわねぇ」と笑われながらも続いているラテの抱き方でありその時が最初だった。

大きな水たまりを通り過ぎてからラテを降ろそうとしたとき、我が娘の前脚爪がジャケットを通しても痛いほどオトーサンにしがみついているのが分かって驚くと共にオトーサンは至福の一瞬を味わったのだった。

雨は嫌だが、こうした体験ひとつひとつがラテとの絆をより太いものにしていったのだと考えている。
そういえば、台風の時もラテと散歩に出た。なかなかラテがウンチをしてくれないので強風で大雨の中、かなりの距離を歩いた。まだまだ勝手がわからない時期でもありオトーサンは何とかラテにウンチをさせようと頑張っていたが、いま思えばラテはラテでびしょ濡れの路面ではもよおさなかったのだと思う。

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※体重20kgのラテをバランス良く抱き上げて歩くのは長年の格闘のおかげ(笑)


勿論ラテもびしょ濡れになった。やっととある草むらで用を足したラテの落とし物を片付けて帰ろうとしたとき、アイコンタクトするラテと眼が合った…。
思わずオトーサンは声を出して笑った。びしょ濡れのラテは無残にも長めの体毛が顔中にへばりついて何とも気の毒なご面相になっていたからだ(笑)。その上にオトーサンの笑いに誘われたのか、ラテもレインコートは着ていたものの雨が顔を伝いながらも笑顔を向けてくれた。ラテから見ればオトーサンだって傘が役に立たないほどの雨風で上着だってよれよれだったから惨めな姿だったに違いない。

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※路面にへばりついて動かないラテ(笑)


何だかオトーサンとラテがお互いの酷い姿を見て笑い合っているようでそれが可笑しくも楽しかった。
帰り道は直径15センチほどもある木が倒れて道を塞いでいたが、それほど激しい台風だった。幸い無事に自宅の玄関にたどり着きドアを開けてくれたオカーサンが驚くほど我々はびしょ濡れだった。しかし正直、そのラテとの帰り道は往路とは違いラテと気持ちが通じ、同じ体験をしたという一体感で些か楽しかったのである。



Apple Musicがスタート、そのファーストインプレッション

6月に開催されたApple WWDCの基調講演において発表されたApple Musicだがやっと提供開始になった。正直すべての機能というか全容を理解したわけでもないが、まずは第一印象をお届けしたい。


Appleに言わせれば、Apple Musicは音楽を楽しむ最良の方法を組み合わせて、すべてを一つに集約し、直観的に使えるアプリケーション…。そして革新的なストリーミング型音楽サービスで、1日24時間、Appleから全世界に向けて生放送する先駆的なラジオステーションでもあり、音楽ファンにとってはお気に入りのアーティストとつながるためのすぐれた新しい方法でもあるということになる…。

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※Apple Musicは音楽の新しい楽しみ方だ


我々がApple Musicと相対するには難しいことはない...と言いたいところだが、特にiOS版の UI は直感的とはいえずに考えてしまう場合も多い。ともかく iOS なら「ミュージック」を、Macなら「iTunes」を起動すればアップデートしたそれぞれのアブリはApple Musicを統合した形で使えることになる。

ところで iTunesやiPodあるいはiPhoneによる音楽の楽しみ方は確実に我々の日常を大きく塗り替えてしまった。しかし最初のiPodが発表されたとき、スティーブ・ジョブズがいった「我々は1,000曲を持ち歩くことができる」という説明を嘲笑したアナリストやジャーナリストもいた...。1,000曲もの音楽を持ち歩いてどうするのだと。

いまやiTunesやiPhoneのプレイリストにはiCloudも含め桁違いの曲をそれこそ自分の好むままにインストールして楽しむことができている。それらの曲は有償でダウンロードしたものであり、あるいは自身で買ったCDをコピーしたものだ。しかし音楽の世界は深淵である...。

iTunesのすばらしい点は、お気に入りの曲を好きなときに再生できることだが、同時に世界中にはそれこそ星の数ほども未知の音楽が存在する。そして意欲と興味があればそれらの膨大な中から新しい魅力をたたえた曲や演奏家と出会えることができる。

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※ iOSの「ミュージック」よりApple Musicを使い始める


これまでにも新しい曲と出会う機会はあった。友人知人たちからの情報はもとよりだが iTunesで検索すればこれまで知らなかった様々な曲がワンサカとリストアップされた。しかしそれらの再生はあくまで試聴であり、全曲を聴きたければ当然ながら購入する必要があった。

しかしApple Musicは月額980円ですべてではないものの、iTunesで管理されている3,000万曲以上で構成されるApple Musicをいつでも試聴ではなくフルに楽しめることだ。
無論Apple MusicにはApple Music Radioなど新しい魅力的なコンテンツがあり、たまたま流れた曲に心を奪われたり、友人知人たちと共有もできたりもするが、やはり一番の魅力は検索するなりした任意のアーティストや音楽にシンプルに出会える事ではないだろうか。

例えば旧来の iTunesで「アランフェス協奏曲」と検索すれば当該曲名の検索結果としてマッチングしたものがリストアップされる。それらは表示された範囲において一曲ずつ、あるいはアルバム単位で購入できるものの試聴はあくまで各曲ごとに90秒と決まっている。

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※これまでのiTunesで検索した結果の楽曲は購入前には90秒間の試聴しかできなかった


片やApple Musicで同じ検索をしたとすればマッチングした多くの「アランフェス協奏曲」が試聴のレベルではなくフルで聴くことができるし、各アルバムやアーティスト毎に些細なプレイリストを確認でき、これまた全てではないものの大半の曲をフルで再生可能なのだ。とはいえこのApple Musicの始まりは iPodの役割が終焉を迎えたことにも通じる。少し寂しい気もするが、世界がまた動いたということか…。

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※Apple Musicでは検索結果のリストの多くをフルで再生可能になった


Apple Musicで気に入った曲に出会ったなら iTunesの場合曲名の右にある "…" をマウスプレスし表示するポップアップメニューから「マイ ミュージックに追加」を選択すれば文字通りマイミュージックに追加される。

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※Apple Musicで気に入った曲はマイミュージックに追加できる


さて、繰り返すがこのApple Musicのサービスは無料ではない。Appleの大盤振る舞いでスタートから3ヶ月間は無料となっているが、9月末が終わった時点から月額980円が加算される。まあ課金が嫌なら自動更新をOFFにしておくことをお勧めするが、音楽を楽しみ、これからも楽しんでいくつもりなら月額980円は安い!絶対に安い。

その昔、レコード店の中を行ったり来たりして目的の棚からジャケットを引き上げたり元に納めたりと購入を迷い…またべつの日に出かけて同じ事をしたものだ(笑)。何故なら1,800円とか2,300円のLP1枚を買うべきか我慢すべきかで迷いに迷ったのである。何しろそれを買えばこれから1週間昼飯は食パンだけになる...。しかし大概は買った。

大げさに思えるかも知れないが、給料が手取で2万円程度の時代だったのだからレコード1枚でその1割が飛んでいくことは本当に決死の覚悟だった(笑)。その上に試聴というものができなかった。レコード店で流れていたり店頭用の十数枚を別にして、売り物のレコードをプレーヤーにかけてくれという話しはありえなかった。だから知っている曲はともかく、ジャケット裏の解説などで興味を持ったレコードを買っても後悔することもあり得たのだ。

それがいまApple Musicは月額980円で聞き放題だ。3,000万曲すべてが全曲聴けるわけではないが、それでも大半は楽しむことができる。
Apple Musicは世界中の曲を、これから出会うであろう曲たちをAppleのレコード棚に預けているという感覚か...。いつでも懐かしい曲に涙を流し、初めて出会った曲に思わず膝を打つ楽しみがある...。

ただしApple Musicの利点はそのまま問題点ともなる。いくばくかのジャンル別やお気に入りの重み付け機能もあるが、そもそも3,000万曲という実感できない膨大な楽曲の海をどう泳げば一番効果的に自分が漠然と望んでいる音楽に出会えるかは...なかなか難しい。まあ泳ぐそのことこそ楽しいのかも知れないが。

さらにApple Musicの機能面ではまだまだ必要と思われる機能が付いていない。音楽は音楽として純粋に楽しめれば良いという考えもあるだろうが、"すべてを一つに集約し" と宣うなら個人的にはアルバムのライナーノートといった情報も欲しい...。まあ今回は最初の一歩だからしてまずは楽しむことに専念しようか...。



Apple Watchの傷と汚れの検証

Apple Watchを寝るとき以外毎日手首に巻いて早くも9週間が過ぎた。愛用のApple WatchはケースがシルバーアルミでガラスがIon-Xの38mmタイプである。今のところ毎日の使用に際してトラブルなどはないが、ケースや保護フィルムといったアイテムは使わず着用してきた。そのApple Watchを今回メンテのつもりで傷や汚れ具合を確認してみることにした。


ちょうど本原稿を書き始めた頃、タッチラボさんのサイトで「50日間でApple Watchに付いたキズの数々」という記事を見た。こちらはステンレスのボディだそうだが、結構細かな傷がついていた。では私のシルバーアルミニウムのボディはどうなのか...。

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※愛用のApple Watchだが約8週間使ったところで傷や汚れを検証してみた


iPhoneとは違いApple Watchにケースや保護フィルム類は使わないことにしている。ただし別途レポートを記したがマイクロソリューションのCRYSTAL COAT PROを塗って素のままの形で日々を楽しんでいる。

さてもともと私は腕時計が好きなのでApple Watch以前にも何らかのものを左手首に付けて生活していたからApple Watchの装着感の良さも含めて何の違和感も感じないでいる。また意識の上に昇った際にはなるべく周りにぶつけるようなことを避ける気遣いもするが、日常のほとんどは過保護とはほど遠く、一般的な腕時計と同様の意識で愛用してきた。

したがって腕に、それも手首の外側に巻いている関係上、何らかの形で周囲のものと触れたり、場合によってはぶつけたりすることは避けられない。液晶面を割ったり本体が壊れるほどの衝撃はともかく、多少の傷は当然だと考えている...。
ということでこれまでガラス面が汚れた時にクロスで拭く程度のメンテしかやっていないかったApple Watchをあらためてじっくりと観察してみた。

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※まずは各面を調べていくが、ここまでは汚れはともかく傷はないようだ【クリックで拡大】


まずはそのガラス面...液晶面だが目視の範囲では無傷のようだ。通常の利用においてIon-Xガラスは十分その役割を果たしてくれていることになる。

続いてアルミケースの表裏それぞれを4方向から仔細に確認を続けるがルーペーを使って見る限り、6時方向のガラスに接しているケースの縁に小さな傷を発見しただけだった。傷は擦ったというより堅い物にぶつけた感じで大げさに言うなら凹んだというより欠けた感じ...。ただしこのガラスの境界線に何かをぶつけたとするならガラス面にも同時に衝撃があったはずだが、前記したようにガラス面に傷はなかった。

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※この面には赤い▲の箇所のみ小さな傷があった【クリックで拡大】


ひととおり確認した範囲では傷といえるものはその一点だけであり、酸化皮膜処理されたこのアルミケースは標準的な合金よりも60パーセントも強いとはアップルの弁だが、確かにに傷が付かない...付きにくいのかも知れない。

対して汚れは大別して2箇所が目立った。この9週間の間、数回ベルトを交換した際に気がついたがベルトとケースの縁、特に裏面は意外と汚れていることも分かった。そして裏面の円形センサーの縁にも手垢といった汚れが付着していた。

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※手垢だろうか、センサー周辺が目立って汚れていた【クリックで拡大】


例えば愛犬の体を拭き、四つ脚を水で洗う際などにもApple Watchは外さずにいることもあってか、意外と傷より汚れが目立つことを知った次第...。特に肌に触れる裏面は汗をかいたりもするからだろう。さらにフルオロエラストマー製のスポーツバンドだが、丈夫で装着感も抜群だが、これまた新品の時と比べれば全体が少々くすんだ感じを受ける。

この際だからと取り外し、ベルト全体を拭き掃除したが、バンドのエンドピースを取り付ける溝の周りも結構綿埃で汚れていることも分かった。

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※バンドのエンドピースを取り付ける溝の周りも綿埃で汚れていた【クリックで拡大】


ということでApple Watch本体は別としてバンドの微細な汚れは拭いて済むとは思えなかったので超音波洗浄機で洗ってみた。超音波洗浄機の中に水を浸し、中性洗剤を1,2滴垂らしてバンドを沈めて5分ほどスイッチを入れる。愛用の超音波洗浄機はメガネの洗浄用にと昔手に入れたものだが、これならバンドの子穴のひとつひとつまで超音波の振動による目に見えない気泡(キャビテーション)がはじける瞬間の衝撃波が手のとどかない微細なすき間の汚れまで落としてくれるからだ。
したがって布やブラシ、水流では容易に落ちない汚れまで取り除いてくれる。

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※フルオロエラストマー製のスポーツバンドを超音波洗浄機で洗った


ともあれ今回の検証で個人的な事ながらApple Watchの傷や汚れの傾向が分かったような気がして今後は毎日のメンテナンスに注視しようと思っている。



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appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員