本当に昔はよかったのか?

先日お若い方々と話をしていたら、オヤジたちはすぐ「昔は良かった…」という言葉を口にするから嫌いだという話になった。その上で「昔は本当に良い時代だったのですか?」と聞かれた。確かに自分にとって一番華やかな時代を懐かしむのであればそうした感慨もなくはないが、物心ついてから六十年ほど生きてきた1人しては「今の方がずっと良い」というのが正直な気持ちである。


どんな一生でも振り返って見れば「あの時は良かった」と思える一瞬があるに違いない。懐具合が今より格段によかったとか、若かったこともあり異性にもてたとか、毎日キラキラして生きていたとか…さまざまな思い出があるに違いない。とはいえ必ずといってよいほど病気や怪我の思い出、失恋、就職や受験での挫折、家族を失う、社会に出てからの失敗といったマイナス面もついて回るだろう。
ただし、よく言われるように過ぎ去った過去はどうしても甘く愛しく記憶に残りやすいから「昔は良かった…」という言葉が口から出てしまうのかも知れない。

勿論自分の人生を振り返り、なにをして「良い」と思うかは人それぞれだろう。私もこの歳になればすでに両親は他界しているし身体だって若い時のように思い通りにはいかない。また心を許せる真の友人も様々な紆余曲折があり極限られた数人だけとなってしまった。
またバブルがはじけて以来この方、確実に住みにくい世の中になっているという声も多いが、では昔は良かったのか…といえば残念ながら個人的に「昔は良かった…」とは決して思えない。どの時代でも清濁が混在し、運不運といえば叱られるかも知れないものの、時代の波に呑まれていくのは庶民の運命であろう。

今回は個人的な、まったく個人的ではあるが良かったとは思えない昔話を私の幼児期の写真を交えてお話しさせていただこうと思う(笑)。

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※私のお宮参りを記念して撮影したという1枚。母の腕に抱かれているのは勿論私である (1948年7月5日撮影)


私が生まれた戦後まもない頃はすべてにおいて貧しかった。とはいえうっすらと残っている記憶によると父が商売で成功し、周りとは不釣り合いと思うほど恵まれていた時期があったようだ。一歳半を迎えた正月に写真館で撮った写真が残っているが、食べ物もろくにない時代に毛皮のケーブを着てカメラに納まっている私がいる…。
ただしそれも一瞬のことだったようで、人が良いというか世間知らずというか、若い父は騙されて多額の金を失い一家5人は見事に貧乏のどん底に陥る。

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※1950年1月4日、晴れ着を着て近所の写真館で撮った一枚


東京都北区中十条…すなわち現在の東十条駅に沿った崖上に建っていたアパートの六畳一間に一家5人が住んでいた。そうした時代の印象的な出来事はこれまでにも「白昼夢 〜 忘れられない茶封筒の想い出」「白昼夢〜母とカレンダーの想い出」「白昼夢〜母と占い師の物語」といったものでご紹介してきたが、どちらかというとこれらは母の思い出であり少々美化し過ぎているかも知れない(笑)。

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※背景の東十条駅向かいの崖上にて一家5人が写っている珍しい一枚。長男の私が8歳くらいの時だったと思うが、当時の生活が偲ばれる(笑)


ともあれ、子供だったことでもあり我が家が生活苦であったことは薄々知ってはいたものの、食事も内容はともかく、両親の努力のおかげで食べられないということはなかったし現実的な親の苦労など知る由もなかった。
その頃の生活を思い出してみると、内風呂はなく銭湯通いだったしトイレは共同で水洗ではなかった。ガス・水道・電気は完備していたが六畳一間にある台所は割烹着姿の母が向かうとそれだけで一杯になるような極小のスペースだったし、湯沸かし器もなく洗濯はこれまた共同の洗濯場でタライと洗濯板を使っていた時代だった。

西日の当たる部屋は夏でもエアコンはもとより扇風機すらなかったし、冬場でも暖房器具といえるものは火鉢と湯たんぽ程度だった。無論冷蔵庫やテレビなどあるはずもないし、いわゆる黒電話が我が家に入ったのは小学五年生の夏休みに都営住宅へ引っ越した後だった…。そんな狭い一部屋の隅に母が陣取り、内職をしていた。
父は一年の半分は地方へ出張していたから、1番下の生まれたばかりの妹など父の顔を忘れた時期があったほどだ。東京に戻ってきた父も機嫌がよかった思い出はあまりなく、酒を読み、声を出して新聞を読んでいたこと程度しか記憶が無い。そしてよく叱られたし殴られた…。

そういえばこれまた記憶に残りにくいことだが、子供時代は現在と比較にならないほど衛生面に鈍感だったし貧しい時代だった。あちらこちらにドブがあり、その上に木製のドブ板が乗っていたがよく壊れていたので遊んでいて足を突っ込んだし、家々の前にはいわゆる今で言うゴミステーションがあった。その多くは一部がコンクリート製のものもあったが黒塗りの木製の箱が多く、密閉度はゼロだったからして夏場にはゴミの臭いが辺り一面に充満していたものだ。

さてこうした日常生活を見ていくとやはり現代の方が生きやすいということには大方賛成していただけると思う。とはいえ「三丁目の夕日」ではないがあの時代は貧しくとも人情があり、人々は夢と希望が持てた時代だったという回顧も目立つ。しかしどのような時代でも光があれば闇があり、明るい場所があれば影の部分もあることを忘れてはいけない。

生きにくいことはすべて政治が悪いと切り捨てれば気持ちは楽かも知れないが、当時の経済は急激な成長期だったから歪みも大きかった。近くの工場からは常に黒い煙が出ていて光化学スモッグなども珍しいことではなかったのである。
子供だったから、暗い部分を極力見なくて済んだ感もあるが、暴力や虐めもあったし小学校の担任教師が家庭訪問と称して各家庭から少額とは言え金を無心していたことなども後で知った(笑)。

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※北区荒川小学校一年当時の下校シーン。教師を除き前から四人目の帽子をかぶっているのが私だが、下駄を履いている(笑)


医療だって教育だって貧富の差はそのまま子供たちの生き様に影響した。私の弟の話だがオートバイにひき逃げされ、おでこが紫色に腫れたときも医者には行けなかった…。
長屋と称していた都営住宅の端に住んでいた中村さんの小母さんは子だくさんで明るいお母さんだったが、大病したもののろくに病院へも行けず若死にした…。
その小母さんが「あのねぇ、ちょうど味噌きらしてさあ、申し訳ないけど少し貸してくれる?」といってドアを開けることもしばしばだったが、丁度もなにも…いつものことだった(笑)。そうした意味で人情といった機微はあったものの、トラブルも日常茶飯事だったし、そもそもが個人情報とかプライバシーなどないも同然だった。
「電話貸してね〜」とこちらが食事中でも他人が上がり込んでくる時代だった。
清濁併せ持つといえば聞こえは良いが、東十条のアパートの住人の中で一番綺麗な服を着ていたのは某チョコレートメーカーのお妾さんだといわれていた女性だけで、後は皆大差がなかった(笑)。

アパートの裏には寺があり墓地が隣接していた。墓地は子供たちにとって日中は格好の遊び場だった。隠れん坊にしろ鬼ごっこにしろ墓石や様々な石仏像はまるで私たちのオモチャのように思えたものだ。大人達も中央付近にあった閻魔像の冠を灰皿代わりにするなど罰当たりなことを平気でしていたが夜になると状況は一変する…。
前記したようにトイレが共用だったから夜中に暗い廊下を進み、左に折れ洗濯場の奥にあるトイレにたどり着くまでが実に怖かったのである。
なぜなら薄暗いだけでも十分なのにガラス窓から見える視界は昼に駆けずり回ったとはいえ墓地なのだ。その不気味さ怖さはこの歳になっても時々夢に見るほどトラウマになった…。

そう、それに現在の方が贅沢をいわなければ食品も総じて美味しいし安い。中には身体に良くない食品も多く食べてはいけないといわれる物もいろいろとあるが、私らが子供時代は有害な発色剤も多々使われていたし食の安全は現在よりずっと脅かされていた。さらに問題は食だけではないがそもそもネガティブな情報はほとんど知らされていなかったし、だからこそ多くの公害や健康被害の問題が後々になって報じられ社会問題になった…。
そういえば子供時代に両親と旅行に行ったことは自慢ではないが一度もなかった。確か映画館に2度ほど連れて行ったもらった記憶があるが、映画は小学校の校庭で観るものだと思っていたくらいだ。それは親の怠慢というのではなく食うだけで精一杯だったのである。

娯楽もいま思えば貧弱というよりほとんどなかった。外に出て墓地をガキ大将たちと走り回ったりもしたが一番仲がよかったのは野良犬たちだった…。家にいれば工作好きな私は紙切れやボール紙で何でも作った。ロボット、街並み、自動車や飛行機などなど。後年プラモデルという魅力あるアイテムが存在することを知ったがしばらくは買えなかった。何しろ小遣いはあるとき払いの1回10円程度だったのだから…。
楽しみは夕食前にラジオから流れてくるラジオドラマ程度だったし、習い事といえばどうしたわけか母の勧めで崖下に住んでいた芸者上がりの女性に三味線を習った程度だった。

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※西日の当たる部屋で三味線の稽古


絵を描くのが好きだったが、クレヨンやクレバスは授業で使うだけしかなく絵の具も買えなかったからもっぱら鉛筆画だった。ただし紙も画帳など望むべくもないから新聞の折り込み広告の裏や空きスペースあるいは古新聞そのものがキャンバスとなった。
新聞紙で思い出したが、一時期トイレの紙や鼻紙も古新聞をよく揉んで使った記憶がある(笑)。

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※日中の遊び場はアパートの隣にある墓地だった…。中央が私である


中学生や高校生時代でも池袋に出かける場合、真っ昼間でも入ってはいけないエリアが多々あった。なぜなら恐喝はこれまた日常茶飯事だったし、見るからに怖そうな男達が闊歩していたからだ。事実私も西武百貨店内の階段で僅かだったが金を巻き上げられたことがある。それでも警察に出向いたところで何もしてくれないことを知っていたから届けもしなかった。
東武東上線に真っ昼間乗り込んだとき、空いていそうな車両に駆け込んで座ったら周りはすべてその筋の男ばかりで池袋駅に着くまで文字通り息を潜めていたこともあった。

勿論比較の問題だが良いと思われる事項もあったことは確かだ。就職は多くの人たちがまずまず望む会社に入れたし私自身も同時に東証一部上場メーカー、銀行そして生命保険会社の3社の入社試験を受け、ある意味よりどりみどりといった感もあった。とはいえそれが労働条件を含めて一生働くに値する場所だったかは別の問題である。
私が就職したその東証一部上場企業の本社勤務でも机の上には4人ほどが共同で使う電話しかなかった。FAXもいわゆるゼロックスコピー機も電卓もなかったし当然コンピュータなど思いもよらない時代だった。したがってというべきか残業も多かったし土曜日も半日出勤の時代だった。それに遅くなるからと蕎麦でも食べれば安い残業代をオーバーして持出となった。

初任給は私の場合、約20,000円ほどだったから親に5,000円を渡し残りで昼飯は勿論一切合切をやりくりしなければならないのはなかなか大変だった。思えば安物のスーツにしろ靴にしろ見かけ上の価格は現在とあまり変わらなかった。そういえば池袋の西武百貨店などでレコードを1,2枚買えば昼は菓子パン2個と牛乳で半月過ごす覚悟も必要だった。
粗悪品も多かった…。着る物にしてもスーパーで安売りしていたものの中には酷いものもあり、ある時などはジャンパーに手を通したらまったくフィットしないので確認すると左袖にも右用の袖が縫い付けてあった(笑)。

現代は情報化社会、グローバル社会というと弊害の方に目がいきやすいが、本人に学ぶ意欲と情熱があれば、海外に出て才能を伸ばすことも可能な時代になっている。我々の若い頃は経済力を別にしてもいまより様々な制約やらで壁が高かった。

ちなみにちょうど10年前の2004年3月に書いた記事、「自分の生まれた56年前の新聞を手にして...驚く!」を一読いただければわかるが、私の生まれたその日の新聞紙面に載った内容を見ると見事に現在と大差無い世界であったことがわかる(笑)。
それらは政界への不正な個人献金、国会での強行採決、パレスチナやアラブ・ユダヤでの戦い、奇病蔓延の恐怖、増加する少年犯罪、PTAの実態と称する教育現場の闇…などなど、本日のニュースだと言われても違和感がないものばかりである。

自分の人生を振り返り、「昔は良かった」と感慨にふけるのは自由だし、そういった人生を送ってきた方もいるに違いない。しかし思い出は大切にしたいものだが、同時に今の時代は決して良い時代ではないし生きるのが難しいとしても、私は半世紀ほど前の世の中よりいまの世の中の方が段違いに良い…と断言したい。そしてより安全で生きやすい世の中になって欲しいと願うばかりだ。



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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員