パソコン世界を創造した傑物たち【第1話】〜 エド・ロバーツ

これから数回にわたり、不定期になるがパーソナルコンピュータの開発あるいはその市場の創造に大きく貢献したユニークな人々の人生を取り上げてみたいと思う。我々がいま手にしているパーソナルコンピュータや多くのガジェットたちも様々な苦難をいとわず、あるいは先例のない行為と批難され、時には蔑みを受けたりしながらも新しいテクノロジーの到来に一石を投じた人々がいたからこその成果でもある。その第1回目はMITS社の創業者エド・ロバーツを取り上げたい。


エド・ロバーツ(Henry Edward Roberts)に関してはこれまで「ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(1)」から(5)で紹介したとおり、1975年に個人用…ホームコンピュータ「Altair8800」をリリースした人物として知られている。この「Altair8800」はときおり "世界初の個人用コンピュータ" とか "世界初のパーソナルコンピュータ" といった書かれ方をすることもあるが、厳密にはいずれも正しくない。
それらは定義にもよるが価格や入手のしやすさなどを別にすれば「Altair8800」以前に個人が持つことが出来るコンピュータが物理的になかったわけでもないし、逆に「Altair8800」をパーソナルコンピュータと称するのは早計であろう。

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※MITS社の創業者でAltair8800を開発したエド・ロバーツ


ただし間違いないことは「Altair8800」の登場以前と以後とは、人々のコンピュータというものに対する見方が180度変わったことは事実であり、個人でコンピュータを所有しよう…所有したいと考える人たちが爆発的に増えていった。さらに「Altair8800」なくしてあのマイクロソフト社の設立機会はなかったかも知れない。

ビル・ゲイツとポール・アレンはポピュラーエレクトロニクス誌(1975年1月号)表紙ならびに記事掲載された情報に衝撃を受け、時機到来と「Altair8800」用BASICを開発してMITS社に売り込んだことがマイクロソフト社設立に繋がったのである。

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※Altair8800の雄姿


時機到来と記したが、「Altair8800」が登場して多くの人たちの関心を得たのはテクノロジーの進歩・進化といった単純なことだけではなく時代という大きなうねりが様々な形で背中を押し始めたといえる。
なぜならそれまでコンピュータとはメインフレームを代表として高価で大型な商品であった。したがって当然のことながらユーザーは必要なものに関する詳しい情報を得ることは勿論、メーカーや代理店と入念な打ち合わせをし、時にはオプションや特注品を含めたシステムを購入するのが普通だった。

しかしMITS社だけではないが、彼らたちが手がけた販売方法は通信販売だった。広い米国において現在も当時も通信販売は売り手にしても買い手にしてもトラブルがなければ至極手軽で効果的な方法だったのである。雑誌の広告やカタログで製品の存在と魅力を知ってもらえば時に需要に追いつけないほどの販売結果をもたらす可能性も期待できたからだ。
それに、当時のマイコンやラジオあるいは無線機器などの価格はメインフレームやミニコンと比較すれば格段に安かったし初期の買い手のほとんどはホビイストだったから通信販売にも慣れていた…。

なにしろ「Altair8800」を手に入れたいと考えた人々は雑誌(ポピュラー・エレクトロニクス誌)に載ったとはいえ、それまで聞いたことも見たこともない会社に数百ドルもの小切手を送金することに臆する人たちではなかった。リスクは承知で自分の趣味や新しい物への拘りを大切にする人々だった。それらの多くは製造される前に販売されたし、現在のように電子メールで出荷案内が手軽に届く環境はなかったから、いつ届くかもわからなかった。だからひたすら届くのを待つのが常だった。

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※Altair8800を掲載したポピュラー・エレクトロニクス誌(1975年1月号)表紙(筆者所有)。ただし表紙のAltair8800はダミーであった


さてMITS社社長だったエド・ロバーツはなぜ個人用のコンピュータを開発しようと思い立ったのかはいたってあやふやであった。市場調査をしたわけでもなければ強いビジョンがあったわけでもなかった。ただし彼は空軍時代にコンピュータに接し、いつの日から「自分のコンピュータを持つことはSEXよりも素晴らしい」と思うようになる。
彼は機械狂でマイアミでの少年時代からエレクトロニクス工作に取り組み、十代で簡単なリレー式コンピュータさえ作っていた。本音は医者になりたかったが、エレクトロニクスの教育を受けるために空軍に入りその後空軍の同僚たちとMITS社を作ることになる…。

とはいえそもそもMITS社は電卓およびそのキット販売で成功したもののその後に製品の低価格化と多くの競合メーカーの乱立のおかげで多額の負債を抱え込んでいた…。その一発逆転を期待して考えたのが安価な個人向けコンピュータキットの開発と販売だったのである。

そもそもエド・ロバーツは根っからのホビーストだった。190センチの長身と110キロを越す体重の巨漢であり好奇心の塊でもあった。
凝り性といってしまえば簡単だが、例えば写真に興味を持つと1週間のうちに彼の家にはカラー写真の現像が出来る暗室と機材が整い、専門家と対等に話が出来るほどの知識をも吸収するというエネルギーを持っていた。

もともとMITS社は模型飛行機やら模型ロケット用の送信機を通信販売する会社からスタートした。"MITS" という社名は "マイクロ・インストルメンテーション・テレメトリー・システムズ" の略だった。
そのうち技術者用のデジタル・オシロスコープの製造販売をやったりしていたがロバーツはもっと先端テクノロジーに関係するビジネスをやりたがった。しかし他の共同経営者は反対する。しかたなく1969年までにロバーツは彼らの持ち株を買い取ってワンマン経営者となった。
そうした過程でLEDを使った製品開発に興味を持ち、デジタル時計の完成品ならびにキットの販売を手がけ、必然的に電卓の製造と販売を行うようになっていた。

しかしその電卓にも陰りが見え、ともかく後がなかった彼は個人用の安価なコンピュータ開発を決意した。とはいえさすがにコンピュータキットが受け入れられるのかを知りたくなったロバーツは知り合いのエンジニアたちにキットの説明をして買う意志があるかを尋ねたが誰も欲しいとは言わなかったという。

逆境だからこそこれまでの損失の穴埋めにはこれしかないと思い込んだのだろうが、実に危ない橋を渡った…。ただしロバーツは自身が開発するコンピュータの販売が電卓で生じた大きな穴埋めとなるためには大量に売らなければならないことを十分承知していたもののまずは最低200台売れば元はとれるからと目標にした。とはいえ最初の難関は開発のための資金調達だった。それまでにも銀行から30万ドルもの融資を受けていたから追加の融資申込みは困難と考えていたが、幸運の女神はロバーツに微笑んだ。
銀行はこのまま会社を倒産させては元も子もないと考え、少しでも返済が進むようにと6万5千ドルの融資をしてくれることになったのである。

そんなときポピュラー・エレクトロニクス誌の技術編集者レスリー・ソロモンから一報が入る。ロバーツが個人用コンピュータのキット販売を考えていること、そしてそのCPUに最新のインテル8080を採用するつもりであることを評価し、同誌に紹介記事を載せるだけでなく表紙にも本体写真を載せたいと連絡が入ったのだ。それは世間に知られていない会社が手がける新製品にとって願ってもないことだっただけにロバーツと2人の技術者は編集部に送る試作機を完成させるため猛烈に働いた。同時に記事を仕上げる準備も進められた。

しかしポピュラー・エレクトロニクス誌に表紙掲載用写真を撮ってもらうため鉄道便の速達で送った試作の「Altair8800」は鉄道のストライキに巻き込まれ編集部には届かなかった。ためにポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾ったのは金属の箱にそれらしい穴を開けランプとスイッチをはめ込んだダミーだったが、読者にはそんなことはどうでもよかった…。
結果多くの人々に個人でコンピュータが持てる時代が到来したことを強く印象づけることになったのである。

反応はロバーツの考えていた予想をはるかに超えたものだった。1975年1月号のポピュラー・エレクトロニクス誌が1974年の年末に書店に並んだ途端、一夜にして世界が変わった…。
確かにMITS社のエド・ロバーツは会社の存続を「Altair8800」の販売に賭けていたが、それまで99ドル程度の電卓キットを販売してきた彼には当初395ドルのコンピュータキットの売れ行きを予測するすべはなかった。
それに電卓には目的がはっきりしていた。何に使うかは明白だし、ためにそれを必要とするユーザーを想像することは容易だったがコンピュータは違った。

私自身1977年に秋葉原の電気街でワンボードマイコンを購入したが、ショップの店員は「コンピュータは何でもできます」と何度も繰り返した。確かに広範囲な応用が可能ではあったが「Altair8800」の能力は限りなくシンプルでありユーザーが果たしてそれに何を求めているのかはロバーツにしても想像だにできなった。事実ユーザー側も本来なら電子技術に造形が深く、ハンダごても難なくこなすという人たちだけが飛びついたのではなく、いつかはコンピュータを持ちたいと曖昧に考えていたすべての人たちの想像力に「Altair8800」は火を点けたのだった。

ポピュラー・エレクトロニクス誌のレスリー・ソロモンはいう。「あっというまに二千人が無名の会社に小切手を送ったんだ」と。
実際200台も売れればよいと考えていたMITS社のエド・ロバーツだったが、結果あっというまに注文が殺到し1ヶ月もするとMITS社は40万ドルほどの赤字だったものが25万ドルの黒字となった。しかし皮肉にもその大成功がロバーツの不幸の始まりだった。
もともと「Altair8800」の納期は60日とされていたが、送られてくる小切手の封筒を開けるだけでそのくらいの日数がかかったほどMITS社は混乱し、極一部を除いて注文への出荷が開始されたのは1975年の夏になってからだった。なにしろ4千件もの注文を受けていたのである。
到着が不透明で不安になったユーザーの中にはスティーブ・ドンピアのようにMITS社に直接駆け込む人たちもいたし苦情の電話はひっきりなしだった。しかしMITS社が「金を返す」というと「いや、コンピュータが欲しいのだ」と大人しくなったという。

前記したスティーブ・ドンピアは1975年4月16日に開かれたホームブリュー・コンピュータクラブでMITS社を訪問したことを語り、コンピュータに関心を持っていた会員たちの興味にこれまた火を点けた。「Altair8800」は確かに正しく組み立てたとしてもフロントパネルのランプをチカチカと点滅させることしかできない代物だったが、彼らにはそれが存在し手を伸ばしさえすれば手に入れられるという事実で胸が一杯だった。

MITS社の問題は納期が大幅に遅れたことだけではなかった。一部の能力ある人たちは別として「Altair8800」キットを正常に動作するよう組み立てることができない人たちも多かったし、さらにキットに含まれるパーツの品質に問題があるものも多く、正常に組み立てたとしても動作しないことも多かった。そのトラブルの原因を経験と計器で探り当て、代わりの部品を手に入れて組み立て直せる人はともかく、なぜ動かないのかを知ることもできない人たちもいたのである。
MITS社には「動かない」という「Altair8800」が頻繁送り返されたし電話でのサポートも困難を極めた。

ユーザー側から見れば、送られてきたキットはCPUカード、256バイトのメモリとランプとスイッチが列んだフロントを持つ金属製の箱だけだった。無論ターミナルもキーボードもなく当初様々な周辺装置が約束されていたにもかかわらず販売されなかったし、遅れに遅れて販売されたMITS社純正の増設メモリボードは動作しなかった。
とはいえロバーツは意欲的だった。ハードウェアを売るだけでなく独自のコンピュータ・クラブを全国的に組織し、自らコンテストを開催し、ニューズ・レター「Computer Notes」を発刊することもやった。このニューズ・レターの初期にはビル・ゲイツとポール・アレンが執筆に協力していた。

結果論ではあるがMITS社のエド・ロバーツは足下がおぼつかないうちに事業の手を広げすぎたようだ。事実ポール・アレンが手を広げすぎるからと反対したモトローラ製MC6800プロセッサを使った新しいAltairの開発をもエド・ロバーツは強行する。その頃にはMITS社の社員数は一時期の12名から100名以上にも膨れあがっていた。

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※MITS社Altair680bの広告。BYTE誌1977年1月号裏表紙より(筆者所有)


早くも1976年の半ばになると不安材料も目立って膨らんでくる。ひとつにはIMSAI社を筆頭に競合他社の台頭が目立つようになったことだ。コモドール社やタンディ社もパソコンの開発を始めていたし、あっというまに50社ほどのホビー用コンピュータ向けハードウェア・メーカーが市場に参入し始めていたのである。そして1977年4月にサンフランシスコで開催された第一回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)でコモドール社のPETが発表されApple Computer社のApple IIがきら星の如く登場した。
市場は確実にホームコンピュータの時代からパーソナルコンピュータの時代に移行しつつあった。その上に多くの反対を押し切って開発した製品群は失敗に終わった。高速テープ読取機はたった3台しか売れなかった…。
無論というかモトローラ MC6800プロセッサ版「Altair680b」も売れなかった。

その頃になるとMITS社のエド・ロバーツの頭の中はあの電卓の販売で失敗した悪夢が宿ってきた。
ロバーツは言う「一度ああいう目にあって、翌日給料を払えるかどうか毎晩眠れずに思い悩むとかなり臆病になり、まったくまともな決定を下すことができなくなる」と…。

次第にロバーツは孤立していく。自分の会社だったにもかかわらず、他の人たちとうまくいかず、会社の成長にどう対処して良いかもわからなかった。ロバーツは後に「当時あまりにも多くのことで悩んでいたため、全部が脅威に思われた」と自身に問題があったことを認めていたという。そしてロバーツはビジネスの頂上から降りたいと思い始める。過去に電卓で経験した不幸が再び「Altair」で起こる可能性に怯え始めていたのだった。

結局エド・ロバーツは1977年5月22日、MITS社を当時ミニコンとメインフレーム用のディスクやテープ装置のメーカーだったパーテック(Pertec)社に600万ドルで売却することになる。
買収される直前MITS社はすでに業界での支配的なポジションを失いつつあったが、パーテック社のもとでMITS社は確実に終焉を迎えていく…。

MITS社の創立者エド・ロバーツはその後、ジョージア州に農場を買うと共に以前から望んでいた医学の道に進んだが、その後2010年4月1日、肺炎で亡くなった。68歳だった。
ビル・ゲイツとポール・アレンは同日、「われわれの友人、そして若き日の指導者でもあるエド・ロバーツの死を深く悲しんでいる。ご家族にお悔やみ申し上げる」と合同で追悼の声明を発表した。さらに2人は、ロバーツを「パーソナルコンピュータ革命の真のパイオニア」と呼び、「彼はわれわれ~コンピュータが一般的になるずっと前にこの技術に関心を持った2人の若者(ビル・ゲイツとポール・アレン)~に賭けてくれた。彼には常に感謝してきた」と述べている。

ロバーツは「Altair8800」の開発ならびに販売に関していくつかの間違いを犯した。存在しない製品を売り、キットのパーツを検査することもなく売った。
MITS社の販売方法は米国の郵便法規に則ったものばかりではなかった。雑誌の広告写真でしか存在しない商品の代金を郵便を通じて受け取ることは好ましからぬことだった。それに一連の開発に関しても技術的洗練さには無縁だった。後にS-100バスと称され標準規格となったAltairの拡張バスにしても洗練されたものではなかった。互換のボードを作るハッカーや競合各社たちはチップのどこをバスのどこに接続すべきかを試行錯誤で行わなければならなかったほどその場しのぎの設計だった。

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※S-100バス用4Kbyte RAMボード。1975年IMS ASSOC. INC.製 (株式会社技術少年出版 マイコン博物館準備室提供)


しかし会社が注文に追いつけないことを知りつつも一時期ロバーツの気分は高揚し、自分の信念の正しさを再確認していた。なにしろあのテッド・ネルソンまでが電話で祝福をいってきたりもした。ロバーツ自身も「Altair8800」への驚異的な反応に驚き、一時だったにしてもMITS社がIBMのような大企業になると夢見るようにもなった。しかし現実は厳しかった…。

ともあれマイクロプロセッサの存在はコンピュータを作ることが可能である点については公然の事実だったがエド・ロバーツ以前にあえて挑戦しようとした人はほとんどいなかった。そして全てのパーツを揃えキット販売して成功した企業はなかった…。
なにしろコンピュータ界の巨人IBMは、非力なオモチャみたいな製品など意味が無いと考えたし、個人がコンピュータを欲しがるというその意味も理解できなかった。それにマイクロプロセッサを開発したインテル社でさえ、その用途はコンピュータというより各種制御装置の部品として使うべきものだと考えていた時代だった。

「Altair8800」は無事に動いたとしてもそれはランプが点滅するだけの箱に過ぎなかったが、ハッカーのリー・フレゼンシュタインのようにそれは今にも起ころうとしている革命の発端なのだということに気づいた人たちもいた。「Altair8800」の重要性は製品の有用性やテクノロジーの進歩といった点にあるのではなく、その一番の価値は価格の安さと将来性だった。それにコンピュータを所有すると言うことはその限りにおいて利用者は神にもなり得る力を持つことが期待できるのだ。

ロバーツはコンピュータをキットの形で販売、それもできるだけ安くすれば年間数百台の販売も可能だと考えたが、皮肉にも自身が起爆剤となった市場の拡大スピードについていけずにドロップアウトしたものの、結果論だが彼が考えていた以上に人々にインパクトを与えた…というより新しい市場を作り出し、未来への明確な橋渡しを果たしたことは間違いない。

なにしろホームコンピュータがほとんど実用的とはいえない時にエド・ロバートは年商数十億ドルの産業を開拓し個人でコンピュータを持つという夢が叶うという事実を生んだことは勿論、「Altair8800」の存在はそれまでなかったソフトウェア市場というものも生み出したのである。
なぜならハードウェアはソフトウェアなくして意味をなさないからだ。その最も象徴的な会社がビル・ゲイツとポール・アレンにより創業されたマイクロソフト社だった…。

【主な参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~4月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊




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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員