パソコン世界を創造した傑物たち【第2話】〜 リー・フェルゼンスタイン

エジソンやライト兄弟の伝記あるいは教科書の中に登場する偉人達と比較するとまったくといって良いほど一般に知られていないが、世界を変えたパーソナルコンピュータの登場に重要な役割をはたしたハッカーたちがいる。彼らがどのように時代背景をバックグラウンドにコンピュータ、特にパーソナルコンピュータの発展に寄与したのかを振り返るのは決して無駄ではないはずだ。ということで、パソコン世界を創造した傑物たち【第2話】はリー・フェルゼンスタインという男をご紹介したい。


真空管を使った世界初の全電子式デジタル・コンピュータ ENIACが開発されたのは1946年、その翌年の1947年にトランジスタが完成。
1964年には最初のBASICが開発され、1968年にはインテル社あるいはエド・ロバーツが創立したMITS社が設立された年だった。1969年になるとインテル社が最初のマイクロプロセッサ4004の製造を決定し1971年には8008を開発。
こうしたマイクロプロセッサの登場を機にして1960年代は特にアメリカ、それも西海岸のエリアにおいてコンピュータの魅力とパワーを認識し、それを個人のものにしようとする意志がハッカーらに芽生え始めた年代でもある。

ちなみに1960年代の後半は米国の大学にとってまさしく動乱期だった。そして多くの若者が既成の価値と体制・体系に疑問を持ち自身の価値とのギャップに苦しみながら現状に大きな違和感を感じていた時代だった。その背景のひとつにはベトナム戦争がある。
ベトナム戦争がいつ開始されたかについては諸説あるものの一般的には1960年12月という説が、そしてアメリカが北爆を開始した1965年2月7日説を主張する人たちも多いようだ。
この泥沼の戦争には無論学生達を主として猛烈な反戦運動が巻き起ったが反戦運動は同時に反体制運動とも無関係ではなかった。そうした風潮は政治の話しを別にしてコンピュータに関わることでも根っこは一緒だった感がある。

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※ “POPULIST ENGINEER” と称されたリー・フェルゼンスタイン。ソースは1983年11月14日号「InfoWorld」より転載


パーソナルコンピュータの登場はいわゆるカウンター・カルチャーとは無縁でないとはよく言われることだが、確かに日本でも反戦運動や学生運動はあったもののいまひとつピンとこないものがある。しかし1960年代のアメリカにおける戦争や徴兵などに反対する反統制指向の考え方が当時のハッカーたちの原動力だったことは確かなのだ。
この反戦運動とドラッグが相乗的にアメリカのアート、音楽、文学、思想などありとあらゆる文化に多大な影響を与え、既存の価値観を否定する気風が高まった時代だったのである。

話をコンピュータに戻すと、IBMをはじめとする巨大コンピュータメーカーの市場支配を打破し、それらのコンピュータ利用を牛耳っているプログラマやエンジニア、オペレータたちを「コンピュータの聖職者」と揶揄するいわゆる革命家とも呼ぶべきハッカーたちが登場しつつあった。その中心的役割を果たした1人にリー・フェルゼンスタイン(Lee Felsenstein)という人物がいる…。

1970年代の後半までユーザーは一般的に大型コンピュータ、すなわちタイム・シェアリング式のコンピュータを使わざるを得なかった。
通常鍵のかかった部屋に設置してあるメインフレームとそれに接続した端末装置を使うにはセキュリティの問題も含めて前記した聖職者といわれる人たちの許可を取らなければならなかったのだ。
確かにミニコンは存在したがそんな高価ものを個人で持っている人はほとんどいなかった。勿論リー・フェルゼンスタインのようにタイムシェアリングシステムを使いやすくしようと努力している人物もいた。フェルゼンスタインは鉱石ラジオ技術が普及したようにコンピュータも一般に普及させたい...させるべきだと考えるようになっていたのだった。

ではなぜ彼らはコンピュータに魅せられたのだろうか。それはまず新しい領域だったからという明白な理由がある。
Apple創立者の1人スティーブ・ジョブズも「新しくまだ誰もが真剣に取り組んでいない分野だったから魅力を感じた」という意味の発言をしている。
多くの産業機器が単純労働者を肉体的な苦役から開放したように、あるいは自動車一台あればこれまでには考えられない遠くまで足を運ぶことができる...。
後にエド・ロバーツもいっている。「コンピュータは、平均的な人間に、例えばハイスクールの一年生だとしてもここ三十年前までの数学者が誰1人できなかったことを1週間でやれる力を与えてくれるんだよ」と。

コンピュータという科学は人工知能に対するイメージが代表するように、我々人類に輝かしい未来を約束するために不可欠なものだと彼らは確信したのだ。しかしそのためには体勢側、すなわち厳重に管理運用され、コストも含めて一部の人間しか使えないコンピュータでは意味はなく、個人でコンピュータが所有できることを夢見たのだった。
個人のコンピュータというものがなければプログラミング技術も限られた人たちだけのもの、体勢側に有利なばかりだと彼らは考えたのだった。

フェルゼンスタインは高校時代にコンピュータを自作してみようと考えたほどの人物だったが、上手くいかずにそれ以降しばらくはそうした試みに消極的になっていたという。
その後1960年代に大学の工学部を中退し下級技術者としてアンペックス(Ampex)という会社に就職。1度同社を辞めたが反体制文化誌やアングラ雑誌の編集に関わりながら1970年代に再度アンペックス社に戻りデータ・ゼネラル社、ノバ・コンピュータのインターフェースを設計している。
彼は学生時代から反体制意識に目覚め、国のために働くという事を嫌悪していたが、アンペックス社に戻った頃からコンピュータテクノロジーへの興味が再燃したらしい。

1970年代に入るとフェルゼンスタインはコミュニティ・メモリの運動というプロジェクトに参加する。それはカリフォルニア州にあるバークレーのエリアに中古のコンピュータ・ターミナルを設置開放し、パソコン通信による情報提供を実現しようとする働きだった。志は彼らの理想通り、望む一般の市民すべがコンピュータネットワークを利用できるようにとする試みだったものの、運営資金やサポートの煩雑さなどの問題を生じて結局続かなくなった。しかしフェルゼンスタインらのアイデアは狭義だとはいえその後に広まるパソコン通信の原型ともなったといえるのではないだろうか。

そんな折も折、1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌にAltair 8800が紹介され、結果ホビーコンピュータ革命が勃発する。フェルゼンスタインはポピュラーエレクトロニクス誌の表紙のマシンはダミーだと気づいたし完成させたところで点滅ランプがチカチカするだけの箱であることを十分に知っていたが、彼はその価格と将来性、特に一般大衆にコンピュータを普及させる原動力となるであろうことに大きな衝撃を受け、同時に自身が培ってきた志しに一筋の希望が差し込んだ思いを強める。

Altair 8800の登場はそれ自体ハッカー達に大きな影響を与えたが、コミュニティー活動にも大きな変化が訪れる。そのひとつにホームブリューコンピュータクラブ設立があった。このコンピュータクラブの設立のひとつのきっかけは間違いなくAltair 8800の登場にあったが、その活動は後述するように業界に名前を知られるようになる人たちを多々輩出しパーソナルコンピュータ発展にとって重要な役割を果たすことになる。

ホームブリューコンピュータクラブは機械技術者でコンピュータ・ホビイストのゴードン・フレンチとフレッド・ムーアにより設立されたが、彼らはコンピュータに関心のある者、教師ならびに革新的な教育家などのリストを得てコンピュータ技術に関する共通の情報を持ち合う場を持とうと檄をとばしたのだった。
こうしてホームブリューコンピュータクラブは1975年3月5日、シリコン・バレーに隣接したメンロ・パーク郊外にあったゴードン・フレンチの自宅の車庫で第1回が開催され32人が集まったのである。無論リー・フェルゼンスタインも友人を誘って参加したがそこにはあのスティーブ・ウォズニアックもいた。

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※WCCFのApple Computerブースにてスティーブ・ジョブズと視線を交わすリー・フェルゼンシュタイン


結局フェルゼンスタインはゴードン・フレンチに頼まれホームブリューコンピュータクラブのモデレータを1975年から1986年まで務めることになったが、フェルゼンスタインのモデレータ、司会ぶりは誰もが認める素晴らしいものだったという。
あるときには750人もの参加者が会場にいたが、彼は秩序を維持しユーモアたっぷりの当意即妙な受け答えを交えながら議事を進行させた。フェルゼンスタインがいるから集会に集まるのを楽しみにする参加者も多かった。
当時参加者の1人で後にApple最初の従業員の1人となったクリス・エスピノサは「彼(フェルゼンスタイン)は集会をロックコンサートのように運営した。彼が説教師のように群衆を動かすさまは見事で偉大だった」といっている。



※2004年にテレビ出演した際のリー・フェルゼンスタインら往年のメンバーたち。ホームブリューコンピュータクラブの紹介やゴードン・フレンチ、ジェフ・ラスキンそしてスティーブ・ウォズニアックらも出演している


ホームブリューコンピュータクラブの参加者数はあっというまに増え続け、多いときには1,000人近くにもなったためスタンフォード大学の講堂を借りるまでになった。いや、ホームブリューコンピュータクラブの功績は参加者数の増加だけでなくその集会にはスティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニアックをはじめ、アダム・オズボーン、テッド・ネルソンなどなど後にパソコン業界でその名を知られるようになる幾多の人物を輩出したことでも知られている。

ちなみにフェルゼンスタインは確かな技術力を持ち、Altair用のメモリボードを設計したりAltair 8800bのビデオディスプレイモジュールの設計をも行い、マイクロコンピュータ革命に一石を投じたりもする。さらに1975年にはソル(SOL)コンピュータ、1981年にはオズボーン I 型コンピュータを開発したのも彼である。

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※フェルゼンスタインが開発したソル(SOL)コンピュータ(上)と「Osborne I」コンピュータ(下)


しかし彼はハッカー倫理に則り、メモリボードを設計した際の報酬として500ドルの支払を呈示されたが50ドルしか受け取ろうとせずあくまでボランティアの姿勢を崩さず、仕事がなくなって困ったことがあっても必要以上に金を儲けることは避けたという。

フェルゼンスタインは若い時の姿を見てもハッカーの多くがそうであったような長髪髭面といったヒッピースタイルではなく、どこにでもいる普通のサラリーマンといった印象だ。だからというわけではないが、彼は優秀だけれども世渡りが下手なハッカーたちと、形成されつつあった個人向けコンピュータ市場とのインターフェースとなったほどバランス感覚の優れた男だった。
例えばスティーブン・レビー著「ハッカーズ」という大著があるが、リー・フェルゼンスタインの名は様々な場所で登場する。それだけその時代のコンピュータ・コミュニティにおいて必要とされた人物だったのである。
ちなみに1983年11月14日号「InfoWorld」紙表紙を飾ったリー・フェルゼンスタインのコピーには “POPULIST ENGINEER” とある。さもありなんと考える…!

フェルゼンスタインが育てたともいえるホームブリューコンピュータクラブの戦士たちは、他者のために自分たちの才能をふるい、ハッカー倫理を実践していた。そして誰にでも使えるコンピュータの実現という共通の夢を分かち合い実践されてきた同クラブは1986年12月17日、スタンフォード大学の講堂に80名が集まり最後のミーティングを行った。その会合をもってホームブリューコンピュータクラブは11年間の歴史に終止符を打った。
リー・フェルゼンスタインは言う。「我々は自分たちが時代遅れになり役に立たなくなったと言っているのではない。こういったスタイルでの集まりこそ時代遅れになったと考えたのだ」と…。
フェルゼンスタインの言うとおり、時代は確実に代わり、彼のポリシーだったハッカー倫理もそのままでは通用しなくなったのである。

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊



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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員