パソコン世界を創造した傑物たち【第6話】〜 スティーブ・ウォズニアック

パーソナルコンピュータの開発あるいはその市場の創造に大きく貢献したユニークな人々の人生を取り上げてみたいとこれまで「パソコン世界を創造した傑物たち」と題して5人の人物を紹介してきたが、肝心な1人...そうApple IIの開発者でありAppleのもう1人の創業者、スティーブ・ウォズニアックを加えなければ完結しない...。


スティーブ・ウォズニアックという人物は現在でも時々ネットを賑わす言動があるから比較的最近Apple製品のユーザーになった方々もご存じに違いない。ただしウォズニアックという人間にあらためてフォーカスし、彼なりの人物像を浮かび上がらせたいと思うと意外に難しい人物でもある。

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※スティーブ・ウォズニアック


まず最初に申し上げておくが、本編はウォズニアックを単純に「天才」で「よい人」というような見方はしていない。しかし決してウォズニアックという人物やその輝かしい業績を否定し、彼の経歴に泥を塗るつもりはない。とはいえこれまでウォズニアックはジョブズと常に比較され、ジョブズは悪人だがウォズニアックは善人という単純な比較およびレッテルを貼られてきたが、ウォズニアックも生身の人間で長所も短所もあるという事実を知っておきたいと多方面から調べた結果の一部をご紹介したいと思う。ウォズニアックを崇めている方たちにとっては少々むかつく内容かも知れないが、ここでは些か視点を変えたウォズニアック像に光を当ててみたい。

早速だが、相棒のスティーブ・ジョブズが気むずかしくもカリスマ性が強く人を惹きつけるという多面性を持っている反面、スティーブ・ウォズニアックはどうなのか...。皆に好かれる常識人であればそうそう変わった人間ではないのだろうと調べれば調べるほど...これまた実に変わった人物なのだ...(笑)。
いや、世間はウォズニアックのことを天才という。特に技術系の方々にとっては神様みたいな人物といってもよいかも知れない。なにしろApple 1はもとよりApple II を1人で設計した人物であり、あのApple II用のフロッピーディスク装置 Disk II をも開発した技術者だと...。そのApple II の設計思想は天才でしかなし得ない成果だともいわれている。

繰り返すが、彼の素顔についてもよくジョブズと比較され、ずる賢く人当たりが悪いジョブズに対してウォズニアックは善意の人物であり、暖かく虚言を有しない真っ直ぐな男といったイメージのようだ。金にも綺麗で自分の持ち株をストックオプションの恩恵に与れなかった社員たちに分け与えたり、ロックコンサートに多額の資金をつぎ込んだりと多くの人たちから親しまれ崇められるにふさわしい人物として知られている。
それらの情報が間違っているというわけではないが、人間という生き物は必ず表と裏があり、良くも悪くもそうそう単純な生き物ではない。

スティーブ・ウォズニアックは1950年8月11日、カリフォルニア州サンノゼに生まれた。ジョブズより学年では5歳年上である。ちなみにウォズニアックのことを "ウォズ" と親しみを込めて呼ぶ場合があるが、これは「オズの魔法使い」に引っかけた愛称であり、彼が魔法使いのような天才技術者だという認識による。本人もサインには “Woz” と綴っている。

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※当研究所所有、ウォズニアックの直筆サイン入り写真。1977年第1回ウエストコースト・コンピュータ・フェアにて


さて、その本人が語るのを信じれば小学校6年生の頃、知能指数が200を超えていたという。それが正しいかはともかく、幾多の子供時代のエピソードからは確かに天才児としての姿が浮かび上がってくる。
脇英世は著書「スティーブ・ジョブズ 青春の光と影」の中でウォズニアックを天才児ではあるがと断りつつ「多少おめでたいところがあり、世間の一般的な常識に欠けている、頭が弱いのではないかとさえ思えることもあり、内気と言いながら常軌を脱した途方もないいたずら好きな男」と称しているのは興味深い。

"いたずら" といえば “友人たちを楽しませる害のない遊び” というニュアンスにも受け取れるが、ウォズニアック(たち)が手を染めたいたずらの中には多いに他人に迷惑をかけただけでなく犯罪そのものに発展する可能性大の事例もあった。犯罪者にならなかったのは運が良かったとしかいいようがない。
高校3年生のときにはメトロノームを時限装置に見立てたいたずらで学校長たちを振り回し、結局ウォズニアックは一晩少年院に留置された。

そう...電話を無料でかけられる「ブルーボックス」をジョブズと一緒に作って友人たちに売ったという逸話が知られているが、無料で電話交換機に入り込み電話回線を利用するのはこれまた犯罪に違いない。ウォズニアックとジョブズはこのブルーボックスでバチカンにヘンリー・キッシンジャーと偽り電話をしてローマ法王を眠りから起こそうとしたこともあったという。まあ直接関係ない我々は昔話の英雄談として笑っていられるが、いくらなんでもガキでもない年齢なのに危ない橋を渡っていたことは事実なのだ。

ジョブズと2人で車に乗りブルーボックスを売っていたとき警察官に尋問され、ウォズニアックのポケットに入れていたブルーボックスを「これは何だ?」と問われたことがあった。どうやら電話会社からの通報で駆けつけたらしい...。
その際「シンセサイザーだ」と答えて逃げ切ったとウォズニアックは自慢げに言っている。警察官はブルーボックスを手にしながら「ムーグって奴の方が凄いぞ!」とそれ以上追求しなかったので助かったという。
ウォズニアックは自著「アップルを創った怪物」で「警察官がシンセサイザーだと信じてくれた」から助かったとか「警官に一杯食わせることができた」などとお目出度いことを言っているが、ロバート・モーグ(ムーグ)を知っていたほどの警官だ、これは警察官を誤魔化せたというより微罪と大目に見てくれたと考えた方がいいだろう。

そういえば “車” で思い出したが、ウォズニアックは何度か車の運転中に事故を起こしている。また事故と言えば自家用飛行機で大事故を起こして5週間ほど記憶喪失になったという話しもよく知られているが、時に驚くほどの集中力を見せると思えば、注意力散漫な人にもなるという不思議な人物である。事故の中には居眠り運転もあったというが...。

要するに気持ちが移ろいやすいということか...。あのレオナルド・ダ・ビンチは次々に新しいアイデアや極めたいあれこれが眼前にちらつき、取りかかった依頼事をきちんと完成させることは苦手だった。作品点数が少ないだけでなく今日残っている作品でも未完のものがある。それと同じとまでは言わないがスティーブ・ウォズニアックも気が移ろいやすく、自身の興味のあることに関しては突きつめるもののやり遂げる間にまた別のことに興味が移ってしまいがちだった。
ウォズニアック自身が言っている。「僕は、たとえば1年に10種類くらいのことを次から次へとやりたいと思う」と...(アスキー出版局刊「実録!天才発明家」)。

以前「Apple1誕生物語」に記したが、ウォズニアックは共同経営者として企業に関わったのはAppleが最初ではなかった。アレックス・カムラットという人物から誘われ、ヒューレット・パッカード社に勤務したままでよいからとタイムシェアリングに接続するためのビデオターミナル開発を依頼され共同経営者になったことがあった。

カムラットとの条件や契約がどのようなものであったかは不明だが、カムラットにとって不幸だったのはウォズニアックが真にやりたかった仕事はコンピュータの設計・開発だったことだ。パートナーとしてのウォズニアックはしばらくすると非協力的な立場を取り始め、尻つぼみとなってしまう。それにウォズニアックの天才ぶりが裏目に出ることもあった。なぜならウォズニアックに課せられたビデオターミナル開発はいかに部品数を少なくして回路を設計できるかに才能を発揮したが、それはあまりに技巧的でウォズニアックしか理解できず、問題が生じた場合に他人が直すことが難しい代物だった。

後年スティーブ・ジョブズもウォズニアックの仕事に対する取り組み方に苦慮したらしい。ウォズニアックは自分の気に入った仕事には常人に真似できない集中力を持って素晴らしいアイデアを出し得るが、彼を企業の目標とか計画に沿って働かせることは難しいことだった...。
無論ウォズニアック側から言わせればApple II の売上げで企業(Apple)が成り立っているのに経営陣たちの目は別の新しい方向へと向き、自分やApple II 開発スタッフらを蔑ろにしていると映ったようだ。

そのApple IIもウォズニアックが直接手を染めたのはApple II Plusあたりまでであり、開発担当者らと親密な関係を維持していたものの、Apple IIcあるいはApple IIIの開発には直接手を染めることはなかった。その理由としてウォズニアックは「マッキントッシュ伝説」(アスキー出版刊)の中でAppleも自分も有名になり、マスコミへの対応でエンジニアとして働く時間がなかったという意味のことを述べている。しかしそれはどうにも言い訳としか聞こえてこない。

マスコミへのサービスで苦慮しつつも巧く利用しようと考えたスティーブ・ジョブズにしてもマスコミへの対応を理由に仕事ができなかったなどとは言っていない。やはりウォズニアック自身、自分が目標としていたApple II コンピュータが完成し、それをより活用するに必要なフロッピーディスクドライブの開発が終わった後は目標を失い、新しいコンピュータの開発への意欲が失われたのではないか。それに時代はひとりの天才が一からコンピュータを開発する時代ではなくなっていたことも事実だ...。
したがって本来、ウォズニアックの力量からすれば後のAppleにおいても新製品開発にその名を連ねて当然だと思うが、少なくとも彼の表向きの実績はApple 1は勿論、Apple II とDISK II の開発そして彼がGameBasicと名付けApple IIのROMに書き込んだ整数BASICなどに留まるわけで残念に思う。

ウォズニアックは小学生時代に何度もサイエンス・フェアに自作の作品を出品しいずれもが絶賛されたという。小学6年のときにはブール代数を使った3目並べのマシンを作ったというが、残念なことに提出前に火を噴いて消失してしまった...。
火を噴くといえば、後に友人のビル・フェルナンデスと共に作ったクリームソーダー・コンピュータも火を噴き完成させることはできなかった。このクリームソーダー・コンピュータが出来上がる頃、ウォズニアックの母親がメディアに電話して取材が決まった。記者が取材時に電源コードを踏んだからだという話もあるが、やはり電源の設計に問題があったと考えるべきだろう。なお散々な取材だったが、この時の取材は新聞に載ったとウォズニアックは発言しているが相棒のビル・フェルナンデスは新聞には載らなかったと言う。どうもウォズニアックの話しは100%鵜呑みにできないように思える(笑)。

この電源周りの問題についてはごく最近も小さなニュースが記憶に残った。それはApple 1の所有者で "The Apple 1 Registry" というサイトやブログを公開しているMike W. 氏によれば、電源の気まぐれがシステムメモリーを時折「不安定」にするという欠陥に気づきウォズニアックにメールを送ったという。そのウォズニアックの興味ある返事がここで読むことができる。

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※当研究所所有のApple 1(レプリカ) システム全景


鵜呑みに出来ないといえばウォズニアックは「アップルを創った怪物」で1975年6月29日、Apple 1の開発の肝となる6502を搭載したプロトタイプでキーボードから文字を入力し、TV受像器にそれを表示することにはじめて成功したという意味の発言をしている。
無論それは記念すべき日だと言いたいところだが、脇英世は「スティーブ・ジョブズ 青春の光と影」の中でそうだとすればそれはマイクロプロセッサー 6502であるはずがなくMC6800ではないかと考察している。なぜならウォズニアックが示した月日は6502が入手できる3ヶ月も前だからという。勿論ウォズニアックはApple 1で使うマイクロプロセッサーを6502ではなくMC6800を使うつもりだったことは知られている。事実Apple 1のマザーボードには “6800 Only” とプリントされている部位が2箇所あり、一部の回路変更で6800でも動作するようになっていたらしいが、Apple 1の完成にまつわる話であればやはり6502によるものでなければならず、ウォズニアックの話しは混沌としている。

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※Apple 1のマザーボードには "6800 ONLY" と印刷されている箇所が2箇所ある


ついでにもう少し核心に踏み込めば、Apple 1の完成に至る苦労は「アップルを創った怪物」で本人が述べているものの、果たして苦労は苦労としてApple 1は素直に動作したのだろうか...。ウォズニアックが文字通り自分1人で回路設計をやったことは間違いないが誰の手も借りずに「自分1人でApple 1コンピュータを作り上げ完成に導いた」のだろうか?

「スティーブ・ジョブズ 青春の光と影」によると、6502を設計したコモドール社のチャック・ペドルは「コモドール ア・カンパニー・オン・ザ・エッジ」という本の中で証言しているという。それによれば、彼ら(ウォズニアックとジョブズ)のシステムは動作しなかったのでチャック・ペドルたちは開発システムを持参してガレージの中でシステムを立ち上げられるよう午後の間中、手伝ったと書いているという。どうやらそれは1976年2月より前のことだったらしいが、結局Apple 1は1976年7月、ホームブリュー・コンピュータ・クラブで披露された後に発売となった。

誰にでも自己顕示欲というものがあるわけだから、目くじらを立てて重箱の隅を突かなくても良いのかも知れない。しかし正直で裏表がないウォズニアックと言われている本人の弁としては肝心の点で少々謙虚さが見られないようにも思える...。少なくとも厳密にいえばウォズニアック1人で何から何まで開発したというのはApple 1に限らず不自然だし無理があることは明らかだろう。前記したブルーボックスでさえ、完成前にはキャプテン・クランチことジョン・T・ドレーパーに国際通話のやり方を指南してもらったおかげで無事正常動作するようになった。

どうやらウォズニアックは天才ならではのアプローチで新しいものを作ることには秀でていたが、ある意味技術的な弱点も抱えていた。それはアマチュアの限界でもあり、あれもこれも高い技術力の裏付けがあったはずもないのである。
例えばApple II はウォズニアックが発明したものであり、彼の技術力と天才的な閃きなくしてはなし得ない成果だということに異存はないし、それを自分や友人らが使うのなら何の問題もない。しかし大量生産し世界中に販売するとなれば話しはそうそう単純では済まない。

前記した電源の設計に関わることだが、Apple IIの試作段階でスティーブ・ジョブズはウォズニアックによる設計の大きな弱点は電源回路にあることを認識していたという。だからこそApple II の電源はきちんとした基礎技術と知識を持った専門家に作らせなければならないと考え、新しい仲間になったロッド・ホルトに依頼する。
すでに経験豊かだったホルトは信頼性が高く軽量そして発熱が少ない電源装置を作るため従来のリニア型ではなくスイッチング電源装置を採用することにした。
Apple II 成功の要因はいくつかあるが、ホルトの設計したこの電源は多いに貢献したに違いない。放熱ファンのないApple II だったこともあり電源のトラブルが多発すればビジネスとしても致命的な問題となったはずだ。

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※Apple II のスイッチングレギュレータ。当研究所所有


ウォズニアックは飛行機事故の直後にAppleを離れ、1年ほどでコンピュータ科学の学位を得たが、Apple 1やApple II を開発していた時期は天才とはいえ電子工学に詳しい1人のアマチュアの範囲を超えることはできなかったに違いない。第1回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)に出展するため急遽作った数台のApple II も静電気に弱くトラブル続きだったという。要はウォズニアックの閃きは天才そのものだとしても安全性とか商品化に際しての完成度は決して高くはなかったといえよう。

事実ビル・フェルナンデスの発言は軽視できない...。彼はApple II を世に出すのは決して簡単なことではなかったといい、これまたダニエル・コトケも「1976 年の Apple II (試作)は動きさえしなかった」という。ウォズのプロトタイプは確かに動いたが、(ウォズの指示通りに)回路基板にすると動かなかった。「これにはウォズ自身どうしようもなかった」という。要するにApple IIの完全な設計はウォズニアックの頭の中にだけあって量産するために必要な配線図すらなかったのだ。

Apple II を製造するためには、必要なすべての部品の技術情報が不可欠だった。そこで電源を設計したロッド・ホルトはフェルナンデスにその仕事を依頼したという。
結果フェルナンデスのおかげでApple II 最初の完璧な配線図が出来上がった。ウォズニアックがグラフ方眼紙に描いた数ページのメモのコピーを頼りに作業した結果Apple IIが製造できるようになったのだ。

1977年、WCCF (ウェストコースト・コンピュータ・フェア)に出品されたApple II に関してマイケル・モーリッツ著「スティーブ・ジョブズの王国」で筆者はいう...。
「このコンピュータは1人の人間のつくった機械ではなく、デジタル理論設計、アナログ技術、美的訴求性などの点でさまざまな人びとの協力の賜物だった。キーボードとカセットレコーダへの接続用素子の操作、ROMチップ〜実際にはマザーボード〜に記憶されるBASIC言語などは、ウォズニアックの貢献の賜物だった。ホルトはきわめて重要な電源装置の考案で、ジェリー・マノックはケースのデザインで、それぞれ貢献した。(中略) しかし、これらすべての背景で、みんなの音頭をとり、みんなを励まし、あと押ししたのは、ジョブズであり、不撓不屈のエネルギーを発揮して、ことの是非をてきぱきと判断して事業を推進した中心人物も、ジョブズだった。」

少々長く退屈かも知れないが、重要なことなのでマイケル・モーリッツにもう少し耳を傾けてみよう...。
彼は続けて「ウォズニアックは、なにごとにつけても最後の仕上げの点で、(社内において)けっして高い評価を得てはいなかった。すべてを設計仕様どおりにすべきだと主張したのはロッド・ホルトである。マイクロプロセッサから、メモリ・チップやカセットレコーダに流れる信号をチェックするため、コンピュータにオシロスコープを取り付けたのもホルトだった。ウォズが新しいアイデアを思いつくと、すぐさまその新しい着想をきちんと説明し、立証し、図に描いて示すよう、うるさく主張するのもまた、彼の仕事だった。ホルトにいわせれば「ウォズの判断はほとんど信用できなかったからだ...」と。
これでも「Apple II は僕ひとりで作った」とウォズは主張できるのだろうか?

しかしApple IIは自分1人で開発したとウォズニアックはいう。無論その完全な試案は確かにウォズニアックの頭の中にあったにせよビル・フェルナンデスやロッド・ホルトなくして...いやジョブズも含めて様々な人たちの努力なくしてはApple IIは製品化できなかったに違いない。そしてAppleの歴史は存在しなかったかも知れないのだ。
こうして考えると個人的に「私が...自分だけで」と主張するウォズニアックをどうしても好きになれないのである。

製品としてのApple II を完成させるまでには他にもAppleロゴの製作、マイク・マークラなどの支援者を引き入れ、企業としての役割を整える力がなければ成功しなかったと思う。そうした様々な人たちの思惑、あるいは努力でApple II という世界初のパーソナルコンピュータといわれる製品は生まれたのであり、もし「自分のためのコンピュータ」というだけの機会しかなかったとすれば1人の無名のアマチュアが作ったホビー作品として他にも多くあったであろう事例と同様、歴史の闇に埋もれたに違いない。

ウォズニアックが設計したApple 1はテレビとキーボードを繋げばプログラミングができる画期的なマシンだったし、Apple IIはさらにグラフィックス機能をはじめカラーが使え洒落たケースに納まっていた。すべてが新しく斬新でウォズニアックらの発想に天才を感じるが、類例がなかったわけではない。
例えばロックウェル・インターナショナルが1976年に発売した高機能のワンボードマイコン AIM-65 もCPUにはR6502 を搭載していたし20桁の英数字LEDおよびキーボードやサーマルプリンタが揃い別売でケースもあった。無論設計思想はまったく違うが、業界の新製品に敏感だったはずのウォズニアックがこのAIM-65の存在を知らなかったとすれば不自然だ。事実ホームブリュー・コンピュータ・クラブにロックウェルの技術者たちも出入りしていたはずだからして接点がなかったとは思えないしウォズニアックが参考とする情報はあったに違いない...。

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※ロックウェル・インターナショナル製AIM-65 (写真提供:株式会社技術少年出版)


ウォズニアックは整数BASICプログラムの開発は紙と鉛筆でやったという主旨のことを発言しているが本当なのだろうか。動作確認やデバッグはどうしたのか...。凡人が天才の技に疑問を呈したところで説得力がないが、例えばAltair8800用のBASICを作ったビル・ゲイツはAltair8800の実機が手元にないので大学のミニコン、PDP-10でシミュレートするプログラムを書き活用したという。
しかし、「スティーブ・ジョブズ 青春の光と影」によれば1978年3月、DISK IIで使うDOS の開発が求められていたが、さすがのウォズニアックもDOS開発の知識と経験はなく結局シェパードソン・マイクロシステムズのポール・ロートンという人物に開発を依頼することになった。このとき、Appleからロートンに渡された機密文書によれば、ウォズニアックは開発をすべて手作業でやっておりアセンブラー...すなわちコンピュータを使っていないそうだ。天才故のことだと驚くと同時になにか悲壮感も感じる...。

ところで1987年と1988年、アスキー出版からインタビューシリーズ本として「実録!天才プログラマー」「実録!天才発明家」という書籍が出た。本稿の主人公であるスティーブ・ウォズニアックも登場しているが、興味深い事に彼のインタビューは「実録!天才プログラマー」ではなく「実録!天才発明家」の方に収録されている...。
スティーブ・ウォズニアックは他に類を見ない、正に魔術師の妙をもってApple II やDISK IIの設計をした。しかしウォズニアックはそれまで誰もがなし得なかった回路設計を成し遂げ、それを周りが評価してくれることを一番喜んだ。彼はそれを商品化するとか製造にかかわる問題解決には興味がなかったようだ。要はスティーブ・ウォズニアックという男の正体は天才技術者という以前に “天才発明家” なのだ!
1985年、革新的で重要な技術の開発に多大な貢献をした発明家に対してアメリカ合衆国大統領から授与される「アメリカ国家技術賞」の最初の受賞者にスティーブ・ジョブズと共に選ばれている。無論パーソナルコンピュータの開発に対してである。

...そろそろ本稿を終える頃合いだが、僭越ではあるもののウォズニアックは自分の置かれた立場をよく理解している点においては聡明な人物だと思う。斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」のインタビュー最後に「...今後コンピュータ産業に関わるつもりはないか」と聞かれ、かつての分野や方法で貢献するのは難しくなっているとし、かつてそれが可能だったのは取り組む十分な時間があったからだという。もうそんな時間はないし、かつてのように長けているわけでもない...なぜなら現在の技術にも追いつけないと話している。そして「もう二度とできないと思います」と結んでいる。
謙遜があるにしてもスティーブ・ウォズニアックの才気が天才ぶりを発揮したのは1970年代という特別な時代背景を抜きにしては考えられない事だったに違いない。

ともあれウォズニアックが自分の為とはいえApple 1を、そしてApple IIを開発したからこそAppleという企業が生まれ紆余曲折はあったものの現在のAppleが存在することは確かだ。そのApple IIをリアルタイムに使ってきた一人として当時を振り返れば何ともエキサイティングなパソコンだった。またApple IIで本格的なプログラミングを勉強し、コンピュータのアーキテクチャを学びソフトウェアの重要性と面白さに驚喜し続けた一人としてはウォズニアックに心から感謝している。

ウォズニアックは言う...。「人生で一番大事なのは幸せであり、どれだけ笑って過ごせるかだと思うんだ。頭がちょっといかれたようなヤツのほうが幸せなんだ。僕はそういう人間だし、そうなりたいとずっと思ってきた」と。

【主な参考資料】
・ダイヤモンド社刊「アップルを創った怪物〜もうひとりの創業者、ウォズニアック自伝」
・東京電機大学出版局刊「スティーブ・ジョブズ 青春の光と影」
・アスキー出版局刊「実録!天才発明家」
・アスキー出版局刊「マッキントッシュ伝説」



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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員