ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(6)

2011年に「ホームコンピュータの元祖 Altair 8800 物語」と題して5話を続けたが、今般新しい資料も含めてその続きを一篇付け加えたいと思う。5話目ではMITS社がパーテック(Pertec)社に身売りしたものの2年も経たないうちに消滅の憂き目を見たまでをご紹介した…。


なぜ今更40年も前になるコンピュータに思いを馳せるのか…。それはApple II が登場する2年ほど前、それまでコンピュータといえば大企業や大学などで広い一室を占有していたしミニコンと呼ばれた小型のものでも導入することは生易しいことではなかった時代にそのコンピュータを個人が所有し占有することに目覚めさせたのがAltair8800だったからだ。

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※Altair8800 (当研究所所有のAltair8800 Clone)


1975年1月号のポピュラーエレクトロニクス誌の表紙を飾ったAltair8800は組み立てキットが $397、組立済みの完成品で $498 という、CPUの価格だけで$360ほどもする時代に破格の安さと後にS-100バスと呼ばれるバスを有していた拡張性を買われ最初の2週間ほどで4,000台を超えるオーダーを記録した。そして繰り返しになるが、そのポピュラーエレクトロニクス誌の記事を見てポール・アレンは友人のビル・ゲイツと共にAltair8800用にBASICを移植する過程でマイクロソフト社を起業することになる…。

ともかくMITS社は市場における予想外の反応に答えられる体制が整っておらず、大幅に納期が遅れただけでなく完成品が動かないケースがあったりユーザーが組み立てたキットのサポートなどが十分に対応できずに市場の牽引力を失っていく。そして1977年5月にPertec社に身売りすることになった…。
なぜPertec社だったのかについてだが、それまでMITS社ではAltair8800を本格駆動させる周辺機器としてPertec社のターミナルやフロッピーディスク装置などをAltairブランドで扱ったからだ。

そうした理由とは別にMITS社社長のエド・ロバーツにとって魅力的な条件をPertec社が出したことが決め手となった。実はMITS社としてもPertec社への売却を決めるまでいくつかの半導体メーカーと交渉していたがPertec社はロバーツに会社の株式保有だけでなく研究所開発施設を提供し自由に使って良いという条件提示をした。ロバーツにとってそこで新製品を開発し新しいチャンスを夢見たかったし、できることならMITS社に自身の存在をつなぎ止めておきたいと考えた。一方ロバーツは会社経営という頂上から降りたかったのだ…。

問題はPertec社にとってMITS社買収は得なビジネスだったのだろうか。Pertec社側からMITS社買収を見れば、これまでにない安価なコンピュータと自社の周辺機器との組み合わせによりコスト的に大変魅力のあるコンピュータシステムが組めるという思惑があったのだろう。
Pertec社の傘下にMITS社が入ったのは前記したように1977年5月だというが「ホームコンピュータの元祖 Altair 8800 物語(5)」でも書いたようにPertec社のAltairコンピュータに対する期待はホビーストへ向けられたものではなかった。事実Pertec Computer CorporationのMicrosystems DivisionとなったMITSだが、Altairの販売戦略はそれまでとは大きく違った。

ちなみにAltairにもいくつかのラインナップがあった。1975年に出荷されたモデルAltair8800を初期型とするとAltair8800a(中間型)、Altair8800b(後期型)が存在し、さらにフロントパネルから入力用のスイッチなどが省かれ電源を入れるだけで接続したフロッピーディスクからCP/M等を起動できるTURN-Keyモデルが存在した。またCPUにi8080ではなくモトローラのMC6800を採用したAltair680もリリースしたがそのTURN-Keyモデルもあった。

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※カラー28ページからなるAltair総合カタログ。そこではAltair8800bなどをメインフレームと称している


実は今般新しい資料として28ページにもなるカラー刷りの Altair カタログとMITS社がユーザー向けに会報誌として1975年から1978年初頭に至るまで配布していた「Computer Notes」のほぼ全容を手に入れた。特に「Computer Notes」は全米各地のホビーストクラブの紹介はもとより、ビル・ゲイツやポール・アレンを始めとして当時の名だたる人たちが記事を書いていることもあって、当時の米国マイコン界の状況を知る第一級の資料であることは間違いない。

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※「Computer Notes」1976年4月号表紙部分 Volume One Issue One【クリックで拡大】


ビル・ゲイツが「The Status of BASIC」といったBASICの開発状況を解説する記事などは当時の期待の高さを感じさせてくれるに十分だ…。
なお先般「ソフトウェアのコピー問題に注意を喚起した最初のプログラマはビル・ゲイツだった」も「Computer Notes」を参照する形でご紹介したものだ。

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※「Computer Notes」1975年4月号(上)にはテッド・ネルソンやレス・ソロモンの姿が。また別のページにはソフトウェアコンテストの発表を行うポール・アレンの姿が載っている(下)。【クリックで拡大】


さてカタログだが、正確な発行時期を知るデータはないもののどうやらPertec社の傘下に入ってからのものに違いない。なぜならそこにあるイメージ写真はすでにホビー用ではなく明らかにスモールビジネスを指向したものであることだ。
TURN-Keyモデルとフロッピーディスクドライブ、そしてラインプリンターがあり、その中央にはCRTターミナルまでが専用のデスク上に納まっているからだ。そして何よりもAltairコンピュータはメインフレームというカテゴリーに分類されている…。もともとAltair8800はホビーコンピュータとかミニコンピュータとは呼ばれていたがメインフレームという呼び方はやはりホビーストというかまったくの個人利用を想定したシステムではないと考えるべきだろう。

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※Altairカタログ最初のページにはメインフレームとしてのフルセットを思わせる写真が見開きで載っている【クリックで拡大】


とはいえAltairシリーズを実用的に活用しようと思えば当然ながら本体だけではどうしようもない。テレタイプやCRTターミナルはもとよりフロッピーディスクドライブ程度の周辺機器および増設メモリは不可欠と考えなければならない。だとすればすでにそのシステムは気軽にホビースト用などとは言ってはいられない…。それに時代はハードウエアの探求を楽しむということよりBASICやCP/Mを走らせて何らかの実用的な用途に活かすことを考える人たちが多くなっていく。

そしてこのカタログには初期型Altair8800は載っていない。さすがにPertec社としてAltair8800bがあれば良しと考えたのだろう。とはいえAltair680b は扱っている所を見るとAltair8800の故障率やサポートに手がかかる事を避けたのかも知れない。
繰り返すが本カタログではAltairシリーズはビジネスマシン扱いだ。周辺機器としてAltair Mini SystemやAltair Floppy Diskがあり、CRT ターミナルが2機種とプリンターが2機種、そしてグラフィック・プリンターが1機種載っている。

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※Altairカタログよりターミナル紹介ページ(上)とプリンタ紹介ページ(下)【クリックで拡大】


さらにPlug in Optionとして増設RAMボード、PROM メモリボード、シリアルインターフェースボード、パラレルインターフェースボード、オーディオカセットインターフェースボード、TTLシリアルインターフェースなどをはじめアナログ/デジタルコンバータなどのS-100バスボードとして掲載されているが、全てが供給されていたかは不明だ。

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※各種増設ボード類のページ(部分)【クリックで拡大】


そういえば ALTAIR SOFTWARE のページがあるが、これらがMITSの純正品ソフトウェアとして供給されたものなのだろう...Altair BASICとして4K, 8K, Extended BASICおよびDiskバージョンの他Altair680b 用のBASIC、Altair Timesharing BAISC、Altair Disk Operating System、Altair 680 Assembly Language Development System、PROM Bootstrap Loadersが、また内容が不明だがPackage II というものもある。

すべてのハードウェアあるいはソフトウェアがきちんと供給され、問題なく稼働したのかどうかはわからない。またこのカタログを見て面白いと思った点がひとつある。それは28ページにもなるカラー写真とデータで構成されているカタログのどこにも “Pertic” の名がないことだ。あくまで MITS とか Altair ブランドとしてアピールしているのが逆に何らかの意図を感じる。

ところでAltairを “Mainframe” と呼び始めたのは前記したように当初Pertec社の傘下に入ってからだと考えていたが、MITS社がユーザー向けに配布していた「Computer Notes」によれば1976年7月号にAltair8800bの広告中 “The Aitair 8800b is here today, and it may very well be the mainframe of the 70 s.” とある。しかしそのニュアンスはAltair8800bが70年代のメインフレームに匹敵する…といった意味合いとしてだろう。とはいえ市場の拡大や変化に伴いMITS社もホビー向けだけでなくビジネス用途も意識し始めた頃なのかも知れない。

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※「Computer Notes」1976年7月号に載ったAltair8800bの広告【クリックで拡大】


「Computer Notes」をはじめ多くの資料すべての一字一句に目を通すことはできないので話しは限定的になるが、これらを精査することで当時の市場がいかにAltairに期待していたか、あるいはMITS社がどのような販売戦略をもっていたかの片鱗を知ることができる。あのホームブリュー・コンピュータクラブにしても事実上Altair8800の存在がクラブ設立のきっかけとなったのだから…。
そしてもっと具体的なこと、例えばMITS社のロゴがいつ頃変わったのか…などについても「Computer Notes」を精査することで推察ができるに違いない。

さて、結局Pertic社のMITSデビジョンは成功しなかった。その原因は単純ではないのだろうが一言でいえば中途半端な製品群だったということにあったと思われる。
個人やホビーストたちならAltair8800がそうであったように安価なことが第一の魅力だ。そして動作させるにもに活用するにしても基本的な責任はユーザー自身の問題となる。しかしMITSのメインフレームとなれば話しは違ってくる。

安価であることは歓迎としてもビジネス利用となればまずメーカーのサポートやメンテナンスといったサービスは不可欠だし故障も度々では話しにならない。無論ハードウエアだけの問題ではなく周辺機器やソフトウェア類の供給体制もきちんとしていなければ実用とならない。
それにもともとホビーストや個人向けにと開発されたAltairシリーズはいわゆる本格的なメインフレームというべきミニコンと、台頭してきたApple II といったパーソナルコンピュータの狭間で急速に影が薄くなったものと思われる。そればかりではなかった…。Altair8800に触発され、互換機のIMSAI 8080やプロセッサ・テクノロジー社のSolなど強力なライバルたちも登場し始めた。

事実売却後、Pertic社側はほとんどのMITS社幹部を遠ざけ、MITS社をあたかも既成産業の中の大企業のように運営し始めたこともあり、市場はもとよりユーザーも離れていく。前記のカタログを見ればそれは察することができるだろう。結局Pertic社は買収後約1年間Altairを生産し続けたものの2年も経たないうちにMITS社は消滅する。

ともあれパーソナルコンヒュータの歴史においてMITS社とAltair…特にAltair8800の重要性は声を大にしても評価し過ぎることはない。MITS社は個人用のコンピュータ・キットを開発しただけでなく新しい産業を生み出したのだ。マイクロコンピュータがほとんど実用的でなかった時に始めて年商数十億ドルの産業を開発しただけでなく、それ以上のことをした…。
最初の大衆価格のコンピュータを発売しただけでなくコンピュータの展示会、コンピュータの小売り、会報誌の発行、ユーザー会開催、キャラバン・セミナーの実施、ソフトウェアコンテストの開催そして様々なハードウェアとソフトウェア製品の先駆者でありその後の業界のあり方を示し、後進へのレールをひくことにもなったのである。

【主な参考資料】
・マグロウヒル社刊「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績~」



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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員