パウル・クレー 「セネキオ Senecio」考

多くの画家の中でパウル・クレー(1879-1940)は私にとって特別の存在だ。クレーの絵にはリズム感があり、光があって、見つめているとまるでアニメーションのように脳内で動き始める…。それは何とも心地よい幻覚だが、数ある彼の作品のうち何といっても一番の好みは「さわぎく」と訳されている「セネキオ = Senecio」である。


今回は私的な「セネキオ」考と題して作品と共にクレーという画家を振り返ってみたい。
仕事部屋の狭い空間の一郭にいま掛けてある額はその大好きなパウル・クレーの「セネキオ」というよく知られた作品だ。和訳である「ひなぎく」というタイトルの方が知られているのかも…。勿論複製画だが、ほぼ原画(油絵/カンヴァス)と同サイズの額装である。

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※仕事部屋の一郭に掛けてあるパウル・クレー作「セネキオ(さわぎく)」の額


この絵に出会ったのは記憶に間違いがなければ小学校の図書館にあった画集だった…。子供の時から絵を描くことが好きで、漠然と画家になりたいと考えていた時期があった。しかし私の描く絵はいわゆる写実であったし、ピカソやクレーの絵は「子供の悪戯書きとどこが違うのか」が一向に分からなかった...。

中学のとき、目をかけてくれた美術の羽鳥先生は「子供の悪戯書きと思うなら模写してみろ」と言われた。ピカソでもクレーでも自分が少しでも面白い、素敵だと思う絵があったら「そっくりに描こうとやってみな」と私の背中を押した。そして、それが作品の理解に通じるだけでなく絵を巧く描くための練習にもなるとアドバイスしてくれた。
後年知ったことだがクレー自身も画家を志すまでに手元にあった画集や写真あるいはカレンダーの絵などを執拗に模写したという。

美術の先生に言われるまでもなく、それまでにも模写には幾度となく挑戦していた。しかし無謀にもそれはレオナルド・ダ・ヴィンチ「モナリザ」だった。しかしそれがスフマート技法によるもの...等と知る由もない子供だったから、ともかく何度も挑戦したものの、筆の跡が見えないような描写ができないばかりかどうにも顔が似ない(笑)。さすがに「万能の天才レオナルドの真似は難しいのか…」と変な感心をしつつ自尊心を保ちながらも諦めた(爆)。
しかし「モナリザ」の模写が難しいとしても...こんな子供が描いたような絵ならそっくり模写できるだろうと次に挑戦したのがクレーの「さわぎく」すなわち「セネキオ」だった。

まずカンヴァス一杯に円を描き、口元の位置を決めて上下に交差した直線を引く。続いて両目の位置およびサイズを間違えずに描けば「モナリザ」とは違い、そっくりに模写できるに違いない…。それはどこか数学的、幾何的であり分かりやすい構図に思えた。

勿論原画にならい、油絵の具を使って色味も可能な限り画集のそれに似せて筆を振るったつもりだったがどうにも出来上がった絵は自分でも気品がないと思わざるを得なかった。
もう少し「ここをこうすれば完璧だろう」と思い続けた結果、「セネキオ」の模写は実に10点ほど飽きずに模写し続けた。

それほど模写してもなかなか気に入る結果が出せなかったからして嫌いになったかといえば反対に私はこの「セネキオ」の魅力にのめり込んでいった。そして「なるほどこれは子供に描ける作品ではない」と思い知り、パウル・クレーという画家に興味を持つようになった。
したがって後年ニューヨーク近代美術館やボストン美術館で数点クレーの小ぶりな作品に出会ったときは小躍りしたものだ。ただし一番会いたかった「セネキオ」はバーゼル美術蔵なので原画にはいまだお目にかかってはいない…。

ところでこの作品は1922年の作だという。パウル・クレーは1879年12月18日、スイスのベルン郊外ミュンヘンブーフゼーで生まれたというから43歳頃の作品だ。
多くの芸術家の宿命なのか、クレーも順風満帆で画家となったわけではなかった。ヴァイオリン演奏にも才能を認められた彼が画家になることを決心しミュンヘンに旅立ったのは18歳のときだった。

ミュンヘンでは昼間画塾に通い、夜になると音楽会のヴァイオリン奏者などで食いつないでいたが、あるとき共演したピアニスト、リリー・シュトゥンプフと出会って恋に落ちる。とはいっても良家の生まれだったリリーの両親は収入のない画家の卵との結婚など許すはずもなく大反対だった。しかし1906年、リリーは親の反対を押し切ってクレーと結婚する。

クレー家の家計は必然的にリリーがピアノ教師で得た収入に頼らざるを得ず、クレーは専業主夫として一切の家事を引き受けた。リリーは画家クレーのパトロンとなったのだ…。
ただしクレーにとって仕事部屋などあろうはずもなくキッチンがアトリエだった。そして結婚の翌年には息子フェリックスが誕生する。しかしクレーの作品が売れる気配はまったくなかった。

その後、チュニジア旅行で多くのインスピレーションを得、第一次世界大戦で友人や先輩画家が戦死するなどという紆余曲折の中、1919年にミュンヘンの画廊と総代理店契約を結ぶことができ、先行きに安堵感が生まれるようになる。ただし生活が本当の意味で安定するのは1920年10月にワイマールの総合工芸学校バウハウスへ新進気鋭の芸術家として迎えられてからだ。

そこでは十分な報酬、広いアトリエ、そして常に刺激的な同僚たちがいたこともあってクレー生涯の黄金期となった。そのバウハウスでの講義で使われたクレー直筆のノートについては「『パウル・クレー手稿~造形理論ノート』ファーストインプレッション」として以前ご紹介したので興味のある方はご一読いただきたい。

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※バウハウスでの講義で使われたクレー直筆のノート「パウル・クレー手稿~造形理論ノート」美術公論社刊


その後、デッサウへと移転した新しいバウハウスには3棟の教員住宅があったが、パウル・クレー家の隣はカンディンスキー夫婦が暮らした。彼らはテラス越しに毎日顔を合わせたという。

さて話しを「セネキオ」に戻すが、完成した1922年はバウハウスで教鞭を執り始めた時期であり、未来への不安もなく精神的にも充実していた時代であったろう。だからか、「セネキオ」の画面からはその暖色系の色使いも含めて温かさが伝わってくるようにも思える。

ちなみに「セネキオ=Senecio」とはキク科の植物であり華やかなオレンジ色で時間が経つほどに真っ赤に変色するという。したがってその花と花弁を真ん丸のムーンフェイスに再構築したとも解されるが、一方この絵はクレーの自画像であるという説もあるようだ。ともあれ美術の専門家がどう評価するかはともかく、「セネキオ」は画家パウル・クレーにとって一番充実していた時代の作品であり、数千点ほども残した作品の中にあってひときわクレーらしさを漂わせている名作だと考えている。

ともあれその定まらない視点とも相俟ってシンプルな表情には常に見る物へ刺激を与え動きを感じさせる。そしてその動きにはどこか音楽的なリズムを感じるのは彼が音楽家でもあったからだろう。
ただしパウル・クレーの平穏な暮らしは長くは続かなかった。1931年にはデュッセルドルフ美術学校に籍を移すが、2年後にナチスの弾圧を受けてスイスのベルンに亡命する。とはいえドイツ国内の銀行口座が凍結されたことで経済的な困窮に陥る。さらにその後難病である皮膚硬化症を患いながらも制作を続けたが1940年6月29日、心臓麻痺のため南スイス・テッシン州のマッジョーレ湖を見下ろすサンタニェーゼ療養院の一室で妻リリーに看取られながら60年の生涯を閉じた。

「セネキオ」はその前に立つと彼(彼女)はいつでも “フッ” と視線をそらせるものの、こちらが視線を外すと私を注視するように感じる…。要は命の息吹を感じるのだ。したがってパウル・クレーがもし現代人なら画家というより映像作家になったのではないかと思うときがある。きっと彼は自身の描く線や面、あるいは矢印やフォントが音楽に合わせて動き回ることを思い描きつつ筆を振るったに違いない…。

「見えるものの形をそのまま描くのは、私の仕事ではない。カメラのすることだ。」~ パウル・クレー

【主な参考資料】
・「クレーの手紙 1893ー1940」南原実訳 (新潮社刊)
・「クレーの日記」南原実訳 (新潮社刊)
・「パウル・クレー手稿~造形理論ノート」西田 秀穂/松崎 俊之訳 (美術公論社刊)
・「もっと知りたい パウル・クレー 生涯と作品」新藤真知著 (東京美術刊


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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員