[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第30話 ビルとアンディ

スティーブ・ジョブズは未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第30話 ビルとアンディ
スティーブ・ジョブズはラスキンを追いやり念願のMacintoshプロジェクトを率いることになった。まだまだ具体的なビジョンはまとまっていなかったが、ウォズの代わりに戦力となる人員が集まりつつあった。
アンディ・ハーツフェルドもそうした一人だった。彼は1979年8月にシステムプログラマーとして入社したが大のウォズファンだった。
ハードウェアの天才といわれるようになるビュレル・スミスと共に自分たちは (ウォズ大学の生徒だ)と公言してはばからなかった。

アンディは1978年に買ったApple II に魅せられソフトウェアの開発を始めたが、彼の目標は当然のことスティーブ・ウォズニアクだった。そういえばこの頃、すなわち1981年春も終わり頃になるとウォズも飛行機事故から立ち直り退院していたが、まだ精神的に完治していなかったしすぐに仕事をしたくないと会社を休むことが多かった。スティーブとのわだかまりも大きくなってきたようだ。

そんな1981年の春先のある日、ランチで席が間近だったこともあって、私はアンディと長話しをする機会を得た。
アンディ・ハーツフェルドは小柄ではあったが見るからに精力的な人物でポジティブな思考の持ち主だった。早速私が (なぜMacintoshチームにきたの) と聞くと少し声のトーンを落として話し出した。

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※Mac開発当時のアンディ・ハーツフェルド。Macのプロモーションビデオ「The Macintosh Story」より


「僕は先のブラック・ウェンズディのときAppleを辞めようとスコッティのところに行ったんですよ」
「慰留されたんだったね」
私が受けると大きく頷きながら、
「だって隣にいたパートナーが首になったしショックもあってこのまま職場に残っても意欲を出せないと思ったんですよ」
アンディは大きめの眼鏡を左手で直しながら笑った。
「だけどスコッティに留意されて (どのプロジェクトなら会社に残ってくれるんだ) といわれてちょっと感激しました」
「で、あなたはMacintoshチームに行きたいって言ったわけだ」
私が笑いながら合いの手を入れるとアンディも嬉しそうに、
「そうなんです。そしたらすぐスティーブがきて…」
今度は愉快そうに声を出して笑った。

このときのエピソードは私も印象深いものだったので覚えていたが、アンディ・ハーツフェルド自身から聞かせてもらえるとは思っていなかったので本当に楽しかった。
「トモ、あなたはスティーブと親しいから分かるでしょうけど、いや別に親しくなくてもスティーブはスティーブだな」
含み笑いしながらアンディは続けた。
「そのとき僕はMacintoshチームに移るためApple II の残務整理のつもりでプログラミングのまとめをしていたんです。そのとき (お前がアンディって奴か) とスティーブから声がかかったわけです。そして (お前は優秀か) と聞くから (そう思ってます) というと… (すぐ俺と一緒に来い) っていうわけ…」
「まったくスティーブらしいなあ」
私が残ったコーヒーを口にするとアンディも同じようにコーヒーで喉を潤して、
「当然僕はこれまでの仕事を引き継ぎしなければと考えていたので、この仕事は数日で終わるので待ってくださいといったんですよ」
さも可笑しそうに口を押さえるアンディに私は、
「スティーブはあなたの使っていたApple II の電源コードをいきなり引き抜いた…」
その言葉が終わらないうちに私とアンディは顔を合わせて笑い合ったが、向こうの列にいた十数人が何ごとかとこちらを振り向いた。ということで結局アンディは1981年2月からMacintoshチームで働くことになった。

そんなとき我々の背中を軽く叩きながら、
「面白い話しがあるなら僕にも教えてよ」
あのビル・アトキンソンがくしゃくしゃの頭、そしてブルーの目で笑っていた。そしてアンディの隣に長い足を伸ばして座った。
そういえばタイムワープする以前、私は2度ビル・アトキンソンに会っている。
1度目は1990年のこと、幕張メッセで開催されたマルチメディア国際会議に私の会社が自社開発したコンシューマー市場初のデジタルビデオシステムを展示デモしていたときのことだ。そこにビル・アトキンソンが立ち寄ったことがあった。

派手な横縞のTシャツを着たラフな格好だったが、なかなか神経の細やかな暖かい人のように思えた。私達がデジタルビデオソフトのデータをHyperCard (HyperCardはアトキンソンが開発)から使用するところを説明していた時、アップルジャパンの関係者がアトキンソンの袖をひっぱるようにして連れていこうとした。しかしアトキンソンは少し離れたところから体を反転させ後戻りして我々にお礼を言ってくれたのだった。

2度目は2004年、写真家として来日したビル・アトキンソンが自書写真集出版記念の講演をしたときのこと、私はそこでMacPaintのフロッピーディスクとマニュアルにサインをして貰ったことがある。しかしこの1981年の春先にApple本社内で出会ったアトキンソンは髪型も違っていたし口ひげを生やしていたからか別人のように思えた。

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※2004年、写真家として来日したビル・アトキンソン(筆者撮影)と直筆サインをもらったMacPaintのマニュアルとフロッピーディスケット


アトキンソンとハーツフェルドは私がついていけないほどの早口でなにかを言い合い、一緒に笑い合っていたがその瞬間私は奇妙な思いにかられていた。
それはいまから9年ほど経てば(1990年になる)前記したようにアトキンソンと私は幕張メッセの小さなブースで出会うわけだが、そのとき私は初対面だったものの彼は1978年にAppleに入社しこうして幾たびか私と出会っている。そんなアトキンソンは9年後に幕張で出会う私を私と認識してくれるのだろうかということ。それ以前に私自身はその1990年のマルチメディア国際会議のとき自分の存在が果たしてどうなっているのかと考えると頭が混乱し恐ろしくなった。

「どうしたの、トモ。気分でも悪いのかい」
アトキンソンの声で私は我に返った。
「いや、失礼。ちょっと考え事をしていたので」
私は笑顔でつくろったが、ビルをあらためて見上げると明るい表情ながら髭は伸びているし徹夜明けのようだった。
「ビル、また徹夜かい」
「そうなんだけどさ、別にスティーブに言われたわけではないんだ。アンディは分かってくれるだろうけどプログラマーという人種は厄介なものでね」
アンディが我が意を得たりと早くも頷いている。
「どういうこと」
私の問いにビルは、
「僕らは難しい問題に直面するほど燃えるんだよな。で、解決するまでぶっ続けで仕事をしてしまうというわけさ」
「そうだね。1度中断すると神の声が聞こえなくなってしまいそうでね」
アンディが同調した。

私はプロのプログラマーではないが、Apple II やPET2001のBASICで様々なプログラミングを楽しんだ。そして1984年アスキー「月刊 LOGIN」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」ゲーム部門に応募し入選したこともあった。
Apple II 用ゲームを作ったわけだがそれはグラフィックスおよびGUIとサウンドおよびスピーチを取り入れたものだった。とあるMac雑誌の編集長が後に (これぞマルチメディアだ) と称してくださったこともあり商品化もされた。そのプログラミングの中で短い間ではあったがプログラマの性といったあれこれを思い知った経験が甦ってきたのだった。

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※1984年にApple II用のゲームとして開発しアスキー「月刊 LOGIN」主催の「アダルトソフトウェアコンテスト」ゲーム部門入選を果たした


どうしても解決策が思い浮かばずああだこうだと寝る間も惜しんで試行錯誤をするが何ともならない日が続く。かと思うと食事中や散歩をしている時にまるで神の啓示のようにフト妙案が浮かんで解決するといったことが何度もあった。ただし偉そうなことを申し上げるとダラダラとやっていては神の啓示は降りてこない。考え得るあれこれを試しつつ新たな解決策を探ることを長い時間集中してこそ気を抜いた一瞬に閃くのかも知れない。

しかし誰であっても睡眠不足は良いはずがはない。ビル・アトキンソンはこの後大事には至らなかったものの運転中に居眠りをしてしまい大型トレーラーの後部に突っ込み、運転していたスポーツカーの屋根をはぎ取られるという事故を起こした。
アトキンソンとハーツフェルドの二人はMacintosh開発にとってソフトウェア面でなくてはならない人材であり、アンディはソフトウェアの魔術師と評価されていたしアトキンソンにはあのスティーブも一目置かざるを得なかった異才の人材だった。
事実ビル・アトキンソンはAppleで最初で最後といってよいかも知れないが、プログラマーという立場で大きな地位を築いた。LisaやMacintoshの描画ルーチン(後にQuickDrawと称される)開発はもとよりMacPaintやHyperCardの開発者として知られ、天才プログラマーの称号を欲しいままにした人物となった。また特別研究員に遇され、初代アップル・フェローとなった。

そうした秀でた彼らにしてもMacintoshの完成は見通しさえつかなかった。ただただスティーブは12ヶ月でMacintoshを仕上げると息巻いていたしその要求も相変わらず性急で突飛なあれこれが続いた。なにしろあるときの会議に現れたスティーブは手に持っていた電話帳を会議テーブルの上に放り投げながらいった。
「それがMacintoshの大きさだぞ。これ以上大きい設計は許さないからな」
といいながら、
「それからモニター一体型としてもだ、横型のコンピュータはもう見飽きた。Lisaも横型だし今度は縦長のデザインを考えて見ろよ」
そう言い捨てて出て行ってしまった。
ビル・アトキンソン以下、Macintosh開発メンバー全員は唖然としてスティーブの背中を見つめていた。
その場にいた私はビル・アトキンソンに、
「ビル、難しい問題に直面するほど燃えるまたとないチャンスだね」
と両肩を上げてジョークをいった。
ビルとアンディは (あ~あ~) というようにソファーへ大げさに倒れ込んで笑い転げた。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社



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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員