日本市場におけるLisa販売当時を振り返る

私自身がLisaを入手する機会を得たこともありこれまで様々な視点からこの革新的なパーソナルコンピュータに関する話題を取り上げてきたが、今回は日本市場においてLisaはどのように販売されようとしたのか、どのような状況にあったのかについて再び考えてみたい。

 
冒頭からいきなり変なもの言いになるが、いくら公知の事実であったとしてもすでに25年以上も過ぎた昔のあれこれを掘り起こして幾多の方々のお名前を記すのも少々気が引けるものがある。しかしその点をぼかしてしまうとリアリティも何もなくなってしまうしノンフィクションではなくなってしまうのでご容赦いただきたい。

さて、Apple IIの先進性に目をつけ、それを我が国に紹介したのはイーエスディラボラトリ社(ESD)の社長水島敏雄氏だった。1977年4月16日、米国のWCCF (West Coart Computer Fair)というコンピュータショーに出向いたときスティーブ・ジョブズ氏本人に「ほら、凄いだろう」と袖を引かれた...といったことを私自身直接水島さんからお聞きしたことがある。それが日本人とApple IIの最初の巡り会いだったことになる。それが縁で水島氏の会社でApple IIを扱うことになる...。

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※筆者の所有するLisa 2 。その勇姿を眺めていると多くのあれこれを思い出す...


いまさらではあるが私たちがAppleならびにApple IIと触れ合い、そのカルチャーを含めて深く心に刻むようになったのは実にこの水島氏のおかげといってよい。いや、水島氏がApple IIを持ち帰り、ESDで扱うことがなかったとしても後に何らかの形で日本に入ってきたに違いないだろうが、その様子は些か違ったものになったと思う。

ましてや私個人にとってESDの存在はAppleという遠い米国の香りの一端を嗅がせてもらえる唯一無二の場所だった。私はESDでAppleを知り、Macintoshを購入し、後にイケ・ショップが発行したユーザーグループ向けマガジン「MacTalk」Vol.3では「日本一Appleに金を注ぎ込んだ人々」の一人として紹介されたほどESDでAppleの周辺機器やソフトウェアを手に入れた。

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※1987年12月15日発行「MacTalk」。その編集後記には無理矢理?金注ぎ込み人にさせられた筆者らに編集長から労いの言葉がある(笑)


また自身がプログラミングしたApple II用ゲームソフトをESDのショップで販売していただいたり、展示会にブースを出させていただいたり、「APPLEマガジン」の編集長を一年間務めさせていただいたりとお世話になった。
さらにそのESDを媒体にして実に多くの方たちと知り会い大げさでなく自身でも思いもかけない方向に人生を変えた原動力はESDだったのである。

ともかくESD社は正規にAppleを扱う代理店として日本にApple IIを知らしめた企業となった。その後に2年ほど国内総代理店の権限は東レに移った時期があったものの、1982年の7月以降は再びESDが務めるようになるがその辺のあれこれは一冊の本が出来てしまうほど複雑で当時ESDに頻繁に出入りしていた私から見ても同社の困惑は明らかだった。

1983年の夏、それまで東レに勤務していた羽根田孝人氏がESDに移籍して営業部門の強化を図ることになったが、いみじくも羽根田氏がESDに来て最初に担当した大仕事がAppleの新製品 Lisaの発表会開催だったという。
興味深いことだが水島氏は技術者の視点と経営者の立場、そしてこれまで多くのApple IIを販売しサポートしてきた経験から、Lisaは高額な点はともかく安定性に疑問があるので大がかりな発表会開催には反対したという。できたら積極的に扱いたくなかったのかも知れない。

かつてApple IIIが登場したときも水島氏は技術者の視点から厳しい評価を下して扱おうとはしなかったことがある。そしてApple IIの不良率の高さ、Apple本社の対応の悪さなども手伝ってAppleに対して不信感が膨れていったものと思われる。ましてや近々Lisaよりずっと安くて高性能だというMacintoshのリリースを間近に控えてLisaを扱うことに関して慎重になるのは当然だった。

利益の問題は勿論、不良在庫などにも神経を尖らせるのは経営者の水島氏として当然のことだったが、営業畑の羽根田氏には別の事情があった。何故なら彼はESDが東レの日本総代理店をESDに移管したことを受け、Appleの製品を売るため営業部門の強化のためにESDに入社したわけで、入社早々Appleの事業が萎んでは何のために東レを退職してESDに入社したのか分からなくなってしまう。

結局羽根田氏は水島氏を説得して同年10月に帝国ホテルでLisaの発表会を開催することになった。結果として発表会は大盛況でたったの2日間で最初に仕入れたLisa 50台は完売した...。
ただしさすがに水島氏の杞憂は的を得ていたわけで、販売後のトラブルも多かったが運命の歯車はとんでもない方向へと回ってしまう。なぜなら正にLisaの発表会の最中にアップルがキヤノン販売との業務提携を発表したのだ。ESDと総代理店契約を結んでいるのに...である。

その背景にはAppleは日本市場でもっと多くの製品が販売できるはずだと考え、そのためにはメジャーな企業、全国展開を積極的に進めることが出来る企業を探していたことによる。反して当時のESD社は自社が得意とする計測器回りのコントロールにApple IIを積極的にからませた販売をしていたこともあり、そのターゲットとしていた市場はそんなに大きなものではなかったらしい。

それはともかく当時の認識からいえば、キヤノン販売との業務提携は明らかに契約違反であったが、企業の屋台骨を揺るがす大問題の前にはいかに革新的なパーソナルコンピュータのLisaだとはいえ性根を据えたビジネスなどできるわけもなかったに違いない。

余談だが現在経営状態もよく、カリスマ経営者であるスティーブ・ジョブズ氏の存在も相まって世界に類のない魅力的な企業とされているAppleだがその市場やデベロッパーなどに対峙するやりかたはどのように釈明したとしても褒められることばかりではなかった。

Appleのビジネスをその業績や外面からのみ見て良い評価をするのは勝手だが、どうしようもないダークな部分をいまだに持っている企業でもあることは一人のデベロッパーだった人間として忘れることはできない。
私がアップルのデベロッパーだった約14年間はLisaの時代とは10年近く隔たりがあるものの、それでも裏切られたことなど数え切れない(笑)。

担当者が変わればそれまで多大な時間とコストをかけて交渉してきたことでも一瞬で無かったことになってしまうしライセンス支払のために送ったバンクチェックは退職した担当者が引き出しにしまい込んで行方が知れなくなってしまうという有り様だった。当事者としてはそれこそ生き死にの問題でもあり笑って済ますことなどできない...。
ソフトウェアのバンドルなどに関する契約ひとつでもそれは交渉ではなく一方的な押しつけに近いものだった。無論その条件を承知の上で契約遂行したわけで文句の言える筋合いではないものの、条件ひとつ価格ひとつに注文をつけるとすれば話は無かったことになったに違いない。

ただしひとつ申し上げておかなければならないことは当時アップルジャパンのデベロッパー担当部署の方たちには大変お世話になったし良くしていただいた。あくまでアップルジャパンの権限内ではあるものの彼ら彼女らの尽力や協力無くして我々のような超マイクロ企業がAppleと渡り合うことはできなかったと思っている。

そのような訳だからアップルとのビジネスシーンのあれこれで苦境にたたされたとき、私はこの時のESDが味わった歴史的事実を何度思い出したことか...。したがってこれまで痛い目にも合わずに「Appleは世界一素敵な企業だ」と言っていられる方々はほんとに幸せな方たちである(笑)。やはり物事は遠くから眺めていたほうが粗が見えないものなのだろう。

さて熱くなり過ぎるとまずいので話を元に戻そう...(笑)。確かにESDでは「APPLEマガジン」などにLisaの紹介記事を掲載したり、同社が1983年12月10日開催したイベント「第3回APPLE FEST東京」でLisaを初めて一般公開するなどの販促活動を進めていた。そのイベントに私は個人的にブースを出し出展側として楽しませていただいたが、実はESDとしてはこの頃が一番辛い時期だったように記憶している。

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※第3回APPLE FEST東京は大盛況だった。写真中央が筆者のブース。右はメディアセールスジャパン


すでにアップルジャパンの初代社長として福島正也氏が就任し、彼もそのイベントに来場したことは以前にご紹介した通りである。
実はこの1983年12月10日および11日のイベントはある意味でも日本のアップル市場が大きく変化する前触れであり、ESDが最後に放った輝かしい光だったといえる。なぜならそのイベントの少し後、年末の挨拶を兼ねた酒宴の席でアップルジャパンの福島氏とESDの水島氏は決定的な溝を作ってしまい、総代理店契約の解消となったからだ。

結果としてESDがAppleの販売から手を引いた後は望むところだとは言えキヤノン販売がその責を担うことになった。
これまた「日本におけるLisa販売期のブローシュアから当時を再考する」でも紹介したが、キヤノン販売からなかなか立派なLisa日本語カタログなども用意されたもののLisaという革新的なパーソナルコンピュータに関してまだまだ情報不足だったことが伺える内容だ。そしてなによりもその1983年9月にAppleは高価なことが販売の足を引っ張ると判断し、ソフトウェア一式の添付を止め、本体単体を6,995ドルに値下げする。販売不振のためにApple本社自体がグラグラしていたわけだ。

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※キヤノン販売が用意したLisaの一枚物のカタログ(両面)


それでも10月にはキヤノン販売本社の会議室で担当の社員が集まり滝川社長の口から月間100台というLisaの販売目標が提示された。そして翌月には全員が出席した研修会において実際のLisaを眼前にすることになるが、ほとんどの方たちがLisaの真価を見極めることはできなかったのではないかと思われる。

何しろセットアップはともかくソフトウェアのマニュアルだけでも大変なボリュームであったし、無論それらはすべて英語であった。したがってそのコンセプトや革新性を云々いうまえに販売のための最低限の知識を得るのも大変だったに違いない。
その上に当時すべての国産機が当然のことながら漢字対応していた時代に事実上はその予定すら立っていなかったし、MS-DOSはもちろん他の環境ともまったく互換性のないマシンは受け入れられ難かっただろう。

私の持論だがLisaは決して高価だったからという理由だけで売れなかったわけではないのだ。さらに翌年1984年1月にはMacintoshがリリースされかつ改訂版Lisa 2も発表されるという中でLisaの魅力は急激に焦点を失っていった。

その後もESDはもとよりだが、ゼロワンショップなどを頻繁に覗きに回った私だがMacintoshにはお目にかかったもののLisaを触ったという記憶はない。
パーソナルコンピュータとして文字通り革新的な能力と性能を誇って開発されたLisaはどこでどう間違ったのか...ユーザー不在の環境にうち捨てられるはめになったのである。

【主な参考資料】
・斎藤由多加著「マッキントッシュ2〜林檎の樹の下で」毎日コミュニケーションズ刊
・Mac Fan編集部編/我孫子竜也取材・文「もうひとつのMacintosh物語」毎日コミュニケーションズ刊
・林信行著「アップル・コンフィデンシャル 2.5J 上」アスペクト刊


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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員