アップルジャパン社長の椅子が何故不人気だったか?

別途連載しているニフティのログ公開を整理しているとき、1995年8月15日発行の「愛と哀しみのコンピュータ企業」という書籍についての発言を思い出した。同書は別冊宝島230号として出版されたものだが、興味深いことに当時のアップルジャパン社長の椅子が何故不人気なのか…についての記事があり、そのタイトルは「『社長の』のスカウト、私も断りました」という過激なもの(笑)。今回は今だから話せるアップルジャパン社長の椅子に関しての昔話である。


この本が印象深かった点は、丁度三田聖二社長が解任されたというニュースが飛び交った時期と重なったことだ。その三田社長は本書の中にも数度その名が紹介されている…。
ご承知のようにApple Japanは1996年11月から東京オペラシティータワーに本社を置いているが、2011年10月30日に合同会社となりアップルジャパンを吸収して現行の体制となった。そして株式会社でいうところの代表取締役に相当する代表社員には米国本社のバイスプレジデントを兼任したダグラス・ベック氏なる人物が就任している。

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※1995年8月15日発行「愛と哀しみのコンピュータ企業」(別冊宝島)表紙


私は1989年から2003年までの間、Macintosh専門のソフトウェア開発会社を率いていたから、接触の度合いは色々と変化したもののアップルジャパンのデベロッパーとしてずっとアップルとお付き合いしてきた経緯がある。そして確かに一時期、頻繁に社長が代わったという印象が残っている。その変化が度々だったことと公表を避けていた向きもあって歴代の社長の名を正確に把握することすらなかなか難しいのが現状である。したがってかウィキベディアなどによるアップルジャパン社長のリストは残念ながら正確ではない。

ということで一部任期期間が不明な点もあるが、私なりに調べた範囲の歴代日本法人社長ならびに代表者をおさらいしておくと以下のようになる…。かなり複雑だしかつてアップルジャパンのサイトに表記されていたデータも1988年あたりまでは代表者の記述はなかった(笑)。

・1983年 (設立準備オフィス) ビル・ションフェルド氏
・1983年6月 ~ 1985年 福島正也氏
・1985年 〜 ロバート・コリー氏
・1986年 〜   アレクサンダー・D・バン・アイック氏
・1989年3月 ~ 1994年7月 武内重親氏
・1993年11月 ~ ジョン・フロイサンド氏
・1994年7月 ~ 1995年7月 三田聖二氏
・1995年7月 ~ 1996年9月 ジョン・フロイサンド氏
・1995年6月 ~ 1996年9月 志賀徹也氏 (取締役社長)
・1996年9月 ~ 1997年4月 志賀徹也氏 (代表取締役)
・1997年4月 ~ 2004年2月 原田泳幸氏
・2004年10月 ~ 2006年7月 前刀禎明氏 マーケティング担当(米Vice President兼任)
・2004年10月 ~2009月9月 山元賢治氏 セールス担当(米Vice President兼任)
・2009年10月 ~ 2010年2月 ジェニファー・ベーリー氏 World Wide Apple Online StoreのVice President
・2010年3月 ~ ダグラス・ベック氏(現代表役員)

この一覧をご覧になって、どのような感想を持たれるだろうか…。
私の個人的な経緯を申し上げれば、福島正也氏との接触はあったものの、当時は単なる1人のユーザーだった時代なので印象はあまり残っていない。また武内重親氏の社長就任は丁度その時期に私の会社が法人登記を済ませたものの、武内重親氏に最初にお目にかかったのは会社の代表者という立場ではなくパソコン通信NIFTY-Serveのシスオペグループとして数人の仲間と一緒にアップルに出向いた記憶がある。

問題の(笑)三田聖二氏とは一対一でお会いしたことはなかった。というか我々デベロッパーの間では関係者にもあまり顔を出さない人物ともいわれていた。
その頃、私的な問題としては確かに自社ソフトウェア製品がPerformaにバンドルされ始めた時期と重なるし、デベロッパー担当者とは頻繁に話をしたものの私も特に社長に物申す必要性も感じなかった。

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※1994年に発行された "Welcom to Macintosh Business" 表紙(上)。下は巻頭で挨拶の一文を載せた三田聖二、アップルジャパン社長


私がアップルジャパンの社長という存在を意識したのは志賀徹也氏からであった。なぜなら志賀徹也氏の社長在籍も短かったものの、これまでの社長とは違いディベロッパーの立場を理解してくれたし市場をいかに盛り上げるかに尽力する事を力説されていた。
そしてMOSAの運営にも協力していただいたし、それに関連していわゆる社長会という集まりを開催したこともあった。さらに私は雑誌のインタビュー企画のために志賀徹也氏と対談をもさていただいた。

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※アップルジャパンの会議室で志賀徹也社長にインタビューする筆者(左)


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※1997年2月Expo/Tokyo開催に合わせて来日したAppleの最高技術責任者だったエレン・ハンコック氏とのミーティングが実現した。向かってエレン・ハンコック氏の左が志賀徹也社長で右の一人ネクタイを着けていないのが筆者(笑)


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※1997年のアップルジャパン主催の社長会で乾杯の音頭を取る筆者(一番右)


しかし原田泳幸氏に変わってからは、意識的にアップルジャパンの社長にアプローチする気持ちが失せた(笑)。すべてにおいて暖簾に腕押しといった感じで正直まったくアテにならないという感触だったからである。
また前刀禎明氏および山元賢治氏の両氏が就任した際にも折に触れてお会いする機会はあったが、山元賢治氏とはMOSAの運営などに関してかなり具体的なお話しを交わしたし、その対応もビジネスの視点に立脚した現実的なもので信頼できる相手と感じたが、前刀禎明氏はイケメンではあるがつかみ所のない人物としてデベロッパーの立場からはその存在価値を認められない人物と映った。

振り返って見ると武内重親氏および原田泳幸氏がアップルを去った直接のきっかけについて私は残念ながら噂以上はよく知らない。しかし福島正也氏から始まり山元賢治氏に終わる他の日本人社長たちは微妙な点はあろうが皆解任されたと聞いている。その原因にはさまざまなものがあるわけだが、やはりアップルという企業のひとつの特長である米国本社主導のビジネス形態にあると思われる。

別冊宝島230号「愛と哀しみのコンピュータ企業」のタイトル「『社長の』のスカウト、私も断りました」を読めばこの記事がどれほど当時のアップルを正確に描いているかはともかく、我々デベロッパーの耳に入ってきた多くの情報と照らし合わせてもそんなにずれていないことを思い出す。

ともあれ一般的に考えればアップルジャパンの社長の座は魅力あるものではないだろうか。報酬だって外資系企業の常として決して少なくないはずだし、一躍時代の寵児としてマスコミにも登場することになるだろう。しかし本書によれば「スカウト、私も断りました」という人が多く人気がないことが不思議に思えるが、真面目に数年当時のアップルジャパンと接触していた人ならおのずとその意味は分かってくるに違いない。

本書にも書かれていたが、我々はアップルジャパンをコンピュータ機器あるいは関連ソフトウェアのメーカーとは見ていなかった。あくまでその活動は日本市場にMacを売るためのマーケティング組織であり、私の目にはまるで広告代理店と映った…。
そして私自身もアップルジャパンのやり方に大いなる不満を持ってスティーブ・ジョブズ氏に直接手紙を書いたこともあったが、大事なことほどアップルジャパン自身で決済できることはなく、結局米国本社の顔色を伺う体勢だった点にアップルジャパン社長の限界があり、その魅力は薄いものだったに違いない。

何しろソフトウェアのライセンスひとつを締結するのに米国アップル本社に金を払って契約をしなければならず、アップルジャパンは何のために存在するのかといった苦情も多かったし、アップルジャパン不要論という意見もあった。

ところでヘッドハンティングの際にアップル側の条件は5つあったという。
それらは、コンピュータ業界に精通していること、リーダーシップを発揮できること、サプライヤーから尊敬される人物であること、アップルジャパンと同等規模の経営経験があること、そして日本人であることだ。
かなり厳しい条件だが、しかしこれらの条件を満たす人物がいたとしても果たしてアップルジャパンの社長就任に積極的になるとは思われない。なぜならそれだけの能力があるとすればすでに成功している人物である可能性が高い(笑)。

事実なかなかなり手がいないこともあって、ソフトウェアメーカーの役員にもヘッドハンティングがあったそうだが、その世界は創業者のひとりである可能性が多く、旨くいかなかったという。
ちなみに当時ソフトウェア企業の代表者(創業者)だった私にヘッドハンティングがなかったのは先の条件のうちで合致している点が最後の「日本人であること」だけだったからだろうか(爆)。

要するに能力があっても社長としての手腕を活かせる企業ではなく、無難にそして米国本社側のご機嫌を取りながらもきついノルマを消化するといった面白くない現実があるというのだ。事実当時我々に入ってきた情報によれば三田聖二氏や志賀徹也氏らは、日本市場の独自色を強く主張したために解任されたというものだった。

その三田聖二氏にしても難航した8ヶ月間の社長捜しの末にアップルジャパン社長となったわけだが、本書によればモトローラで移動体通信を担当した手腕は大きなものだったが、アップルが求めた先の条件のひとつである「コンピュータ業界に精通」というのには当てはまっていない。それは当時の日本の産業内から理想的な該当者を選出できなかった事を示しているというわけだが、なり手がいなかった結果と言わんばかりの書き方である。

私は2009月9月に山元賢治氏がアップルジャパンを去ったというニュースに接したとき、この業界のキーマン3人の方と何故アップルジャパンの社長の椅子は難しいのだろうかという話をする機会があった。
ひとりの方がいうには「これで日本人社長ではダメだという意識が米国本社に根付くかも知れない」といい、もうひとりの方は「要はアップルジャパンの社長はお飾りであり誰でもいいんだ」と言っていたのを思い出す。

確かに例えアップルの日本法人が合同会社になったとしてもその代表である座は国内事情をより良く知る上で本来は日本人というのが普通のようにも思える。しかし結局その椅子は米国本社のVice Presidentを兼任するダグラス・ベック氏となりそのまま合同会社に至ることになった。
グローバル化の表れだといえば聞こえは良いものの、アップルジャパン社長の椅子は日本人には向かなかったのだろうか(笑)。

なお本書別冊宝島230号「愛と哀しみのコンピュータ企業」にはアップルの記事の他、NECやマイクロソフト、IBMや富士通、東芝、NTTデータ通信、CSKそしてジャストシステムなどについても当時の現場について生々しいあれこれが語られているなかなか貴重な1冊なのである。

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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員