Mac生誕25周年の翌日にMacユーザーだった父が91歳で死去

 1月25日の日曜日、朝6時過ぎに自宅の電話が鳴った。こんな早朝に電話があるとは間違い電話でない限り、良い知らせであるわけはない。まさかと思いながら取った受話器の向こうの声は弟だったが、早朝午前5時頃に父が死亡したという知らせだった...。

 
父は今年の3月で満92歳になるところだった。90歳に至るまでは幸い元気だったし気丈にも一人暮らしを続けてきたが昨年当初から一部にボケの症状も出始め、一人暮らしは無理だと判断し本人納得の上で老人擁護施設に入ったのが昨年8月だった。
そこは個室があてがわれ冷暖房完備は勿論、24時間のケア付きであり、事実スタッフの方々はとても親身になって世話をしてくれていたからこれで一安心と考えていた。しかし歳が歳だからいつでも...いわゆる覚悟はしていたが、実際にその訃報に接すると自分でもおかしなほど動揺しているのがわかる...。

 一身上のあれこれを書き連ねても生臭いことばかりだから遠慮させていただくが、長男の私はこの頑固で我が儘な父親はどちらかといえば...苦手だった(^^;)。
なにしろ私の子供の頃、父はほとんど家にいなかった...。別に放蕩していたわけではないが、仕事の関係上九州や札幌あるいは東北といった遠方に長いときには1ヶ月以上も出張しているのが常だった。だから三人兄弟の末っ子の妹など、まだろくに言葉も話せない幼児のとき父の顔を覚えていなため、出入りの御用聞きのお兄さんを「パパ...」などと言っていたらしい(笑)。

大正生まれの父は関東大震災ならびに先の大戦を経験した一人だから、人並み以上の苦労を重ねたはずだが、戦後は自動車の部品会社を始めたのが大ヒットしインフレの時代だとはいえタンスに札束があふれいたという。
アパートに行商がくると「松田さんのところなら買ってくれるよ」と言われたほどだという。しかし残念なのはそうした好調な時期に私は幼児だったから記憶がまったくないことだ(笑)。
そしてまるで下手な小説みたいだが、家を建てようと支払った金を知り合いの大工に持ち逃げされたのをきっかけに一家の転落が始まる...。
だから終戦直後の混乱期だというのに私の1歳の誕生日は写真館でウサギのケープを着て記念写真を撮っているが、2歳違いの弟1歳のときの写真は近所のお墓の前で毛糸のパンツ一挺というありさまだ(笑)。

私が社会に出てからも人がいいというか、人を疑うということを知らないのか...ある人物に祭り上げられて社長になったものの数ヶ月で意見が合わずに辞めることになった。それはそれで良いのだが、その辞め方である。
代表取締役という立場は法律的にどのようなものなのかすら意識になかったようで、代表者印などをそのまま置いてきたため、父の退職後も父の名でかなりの額の手形を切られて、結局母があちこちかき集めて苦労の末にやっと工面することができたという。

時代背景もあり、確かに父は私たちを喰わすだけでいっぱいだったと思うが、世渡りが下手な人間だったと思う。そして余裕がなかったのだろうが子供時代に旅行に連れて行ってもらったことなど一度もなかったし、一緒に遊んでもらったという記憶がなく、ただただ怖いオヤジという存在だった。そして実際子供の頃はよく殴られたものだ。
とはいえ晩酌後機嫌がよいときには徹夜で私が学芸会で使う衣装や小道具を作ってくれたり、学校でオリジナルの紙芝居をやることになったと言えば「カッパのへーちゃん」という...いかにもその場で適当に考えたと思われるストーリーの紙芝居を絵と共に作ってくれた父だった(笑)。
それでも退職後、まだ元気だった母とそして女房と4人で毎年京都や北海道を回ったことは記憶に新しい。

haruojunichi.jpg

※1984年頃の写真だと思うが私はビデオカメラ、父は一眼レフカメラを携えて京都の哲学の道を歩いているシーン。父とのツーショットはあまり例がないのだが(笑)


若い頃には大酒飲みの父もさすがにそんなに量が飲めなくなったが、息子が下戸なので女房相手に嬉しそうに酒をやっていた姿が目に浮かぶ。
母が癌で長期入院した時期にはよく看病していたが、80歳を過ぎても自前の歯だったし、ジーパンを好み私たちが不自由だからと薦めるステッキや補聴器を嫌って使わなかった。
その父と2週間ほど前、弟妹から一緒に昼食をたべようという誘いがあったので出かけてみると父はその嫌いだというステッキを握っていた...。それでも歩くのが困難なようで一緒に付いてきた弟の手にすがりながら姿を現したとき、正直「そろそろかな」と悲しくなった。

エレベータから降りてきた父は私に向かい「どうした...元気か?」と不機嫌そうに問う...。
私は「なんとかね...」と答えると「元気なら...来いよ!」と叱るように言い放った。
整った設備とサービスが行き届いた老人養護施設に入居後も、弟と妹がかなり頻繁に顔を見せているのと比較すれば3ヶ月前の昨年10月20日にやはり昼食を共にしたきりの私は親不孝に思えたのかも知れない。
しかしまあ、男同士というか男親のところにちょいちょい出かけても話すことなどないではないか(笑)。
というわけで私にとって「元気なら...来いよ!」と叱られたのが父からの最後の言葉となった。

施設の個室に入るとすでに弟が待っていた。そこには無精ヒゲをはやした父が眠っていたが、その表情はとても穏やかだったものの凄く小さく見えた。
話を聞くと1月24日の土曜日にも弟と妹が来たという。そして弟の煎れるコーヒーを美味いと喜んでいたそうだが顔は少しむくんでいたらしい。
コーヒーを飲み小さなケーキを食べた後、父は「身体が辛い」とこぼし冗談交じりに「こんな調子が続くんなら死んだ方が楽だろうな」と言ったそうだ。
妹が「そんな簡単に死ねるものではないらしいよ」とこれまた茶化すと父は「そうだよな...」とベッドに潜り込んだとのこと...。
その明け方に死亡したわけだから、なにか前兆を感じたのかも知れない。
そしてその夜の24時巡回時には問題がなかったが、翌朝25日の午前5時の巡回時に死亡していたという。
近年心臓が悪かったこともあり、死亡診断書には心筋梗塞とあったがその姿は苦しんだ形跡もなかったから、年齢を考えれば大往生なのだろう。

私はその額に手のひらを乗せその冷たさを味わったとき、嫌でも父が死んだことを現実として認めなければならないことを悟った。
しばらくすると施設出入りの葬儀社の担当者がきて遺体を専用の台に乗せるという...。私も父の腰の当たりを支えて手伝ったが、額とか足先とはまったく違い、そのあたりはまだ硬直せずに柔らかで温もりがあった。
葬儀社の人たちは事務的に遺体を車に乗せて走り出したが、施設のドアの前にはお世話してくださった方たちが10数人も並んで見送ってくれたのは嬉しかった。

母が亡くなった後と同様に、父の存在も今後私の心の中で生前以上に大きな存在になるのだろうか...。
葬儀社と弟が細かな打ち合わせをしているとき、ふと窓際に置いてあるiMacが目についた。
それは4年前の2005年3月に「iMacを買いたいから一緒に行ってくれ」といわれ、父と共にApple Store Ginzaに出向いて買ったものだ。そして日々新聞のお気に入りコラムをPagesを使って入力するのが日課だった。
そんなことを思い出していると、1991年1月に父をサンフランシスコのMacworld Expoに連れて行ったときの記憶がフラッシュバックのように蘇ってくる。
そういえば...前日の1月24日はMacintosh生誕25周年だった。その翌日、ひとりのオールドユーザーが逝った...。

hm.jpg

※ゴールデンゲートブリッジの前で笑顔を見せる18年前の父(当時73歳)。キャップにはExpo会場でもらったマックの缶バッジが...

怖い父だったし、どちらかというと私にとって苦手な父だった。しかしその嫌だと思ってきた気質のかなりの部分を自身が持っていることも自覚している(笑)。そして鏡を覗けばそこに写った姿の半分以上は父そのものなのに我ながら苦笑せざるを得ない。
訃報を聞いたときも、そして父の遺体を見送ったときも涙とは縁がなかったが、いまこの一文を書きながら私は泣いている...。

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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員