「アンナ・マグダレーナ〜バッハの思い出」英語原著入手
フィクションとはいえ講談社刊「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」は大変面白かったし楽しむことが出来た。しかし私のような素人が読んでも些か首を傾げる箇所もあり、ドイツ語版を底本とした翻訳だという山下肇氏の訳は僭越ながらそのまま鵜呑みにできないのではないかと思い、英語版の原著を入手して取り急ぎ不審点を確認してみた。
「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」…原題「The Little Chronicle of Magdalena Bach」はイギリスの女流作家エスター・メイネルという人が20世紀初頭に書いた小説である。その後、アメリカで出版されたりドイツ語に翻訳されるなど多くの読者を得たという。
先般私が手にした講談社学術文庫刊「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」は扉に記載があるように1967年刊のドイツ語版を底本としたものだ。それは翻訳者の山下肇氏が東京大学独文科卒業という経歴の持ち主でありドイツ語を専門とする人だったからに他ならない。山下肇氏は後に東京大学教授、教養学部長を経て東京大学名誉教授となった人物である。なお2008年に鬼籍に入られた。
さて一介のアマチュアが東京大学名誉教授だった人の翻訳にケチをつけて喧嘩を売るつもりは毛頭ない(笑)。しかしおかしいと思う点はできるだけ公にして多くの方々に精査していただくのが一番だし重版の際にはそうした点を考慮していただきたいと願う。
とはいえそもそも英語版にしろドイツ語版にせよ、そうした洋書をすらすらと読めるのなら苦労をしないし訳本などに頼らない。そして本書にかかわらず翻訳というものの難しさ、困難な仕事だということは翻訳を仕事としている実弟からも聞かされているから理解はしているつもりである。しかし納得いかないことはそのままに出来ない性分でもあり、機会を見て原著に当たってみようと考えていた。


※「The Little Chronicle of Magdalena Bach」のハードカバー初版本
私が「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」の中であからさまに「これはおかしい」と思ったのは145ページであった。そこにはアンナ・マグダレーナ・バッハの言葉としてバッハが亡くなった時の楽器の遺品リストが紹介されている。
まずはその箇所をそのままご紹介してみるが、実際には縦書きである。
「彼が亡くなったとき、彼はチェムバロとクラヴィコードを合わせて五つ、クラヴィチェムバロを二つ、小さなスピネットを一つ、ヴァイオリンは小一に大二、ヴィオラが三つ、チェロ二つ、バスヴィオラ一つ、ピッコロひとつ、ギター一つを持っておりました。」
これまでバッハに関する文献を多々読み楽しんできた経緯や自身が手慰み程度だとしても楽器を弾き、最近では古楽器のリュートに凝っている1人としてこの箇所で首を傾げた…。
まず遺品に「ギター一つ」というのは明らかにリュートの間違いだろうということ…。そしてもう一度山下肇氏の和訳を読んでいただきたいが、彼は楽器の数をすべて “ひとつ、ふたつ” と記している。山下肇氏によればチェンバロもクラヴィコードもヴァイオリンもピッコロもすべて全部 “ひとつ、ふたつ” なのだ。
無論間違いとはいえないし英語やドイツ語には日本語の助数詞のような厳密な数え方はないが、日本語の扱いとしては些か気になる…(笑)。
ちなみに楽器はビアノやハープシコードといった大型の楽器の場合「1台2台」と数えるのが一般的だが、ヴァイオリンはオーケストラの中では「本」で数えられることがあるものの普通は「1丁2丁」だし、管楽器であるピッコロは「1本2本」と記すべきだろう。ただしこの “ピッコロ” については管楽器ではなく小型の高音ヴァイオリンであるヴィオリーノ・ピッコロだという事が礒山雅氏著「J・S・バッハ」(講談社現代新書刊)に載っている。


※小型のチェンバロであるスピネット(上)とクラヴィコード(下)。共に英国The Early Music Shopのカタログより転載
読み進む内に不審を感じた私は1925年にイギリスで刊行されハードカバー版としては初版だという原著を思ったより早く手に入れる機会を得たので早速当該箇所がどのような記述になっているかを確認してみた。できれば山下肇氏が底本とされたドイツ語版も確認したかったが、もし手にしたところで残念ながら読めないのでそれはまた後のお楽しみとしよう(笑)。
問題の箇所の原著は次のようになっていた。
「When he died he possessed a clavier and four clavecin, two lute-harpsichords and a little spinet, two violins, three violas, two violoncellos, one bass viol, one viol da gamba, one lute, and a piccolo」
やはりギターという記述はなくリュートだった 。ドイツ語版への翻訳時に間違ったのかあるいは山下肇氏の勘違いなのかは不明だが、明らかに原著とは違う。
それに英語版の原著をそのまま読み下し、山下肇氏の和訳と比べてみるとこれまた些か変な箇所がある。
まず原書にある”one viol da gamba” すなわち「1台のヴィオラ・ダ・ガンバ」の箇所がどういうわけか和書にはスポッと抜けている(笑)。そして原著をそのまま読めば「クラヴィーアと4台のクラヴサン」というところを「チェムバロとクラヴィコードを合わせて五つ」と2種類の楽器の数を合算しているし、原著では「2台のリュートハープシコード」とあるべき箇所を「クラヴィチェムバロを二つ」としている。これまたドイツ語版底本がそうなっていたのかも知れないが「クラヴィチェンバロ」という呼び名はクラヴィツィテリウム (clavicytherium) のような楽器を意図したのか、あるいはクラヴサンやチェンバロ類の総称として使われているのかは分からないが、「リュートハープシコード」とは楽器が違う…。
リュートハープシコードとはラウテンヴェルクとも呼ばれ、金属弦ではなくリュート同様ガット弦を張ったチェンバロを意味すると考えられているが、そもそもは大型のリュートに脚と鍵盤を付けたような楽器だったという説もある。
実際に1740年頃、バッハがヒルデブラントという製作者に自分の設計したリュートチェンバロを制作させたという記録があるそうだ(礒山雅著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」より)。
まあまあ…「バッハの思い出」自体20世紀の女流作家が書いた小説であるからしてそんなに目くじらを立てる必要はないのかも知れないが…(笑)。
勿論日本語で良書が読める幸せは日々感じているものの、このたった半ページでさえこうなのだから翻訳本は100%鵜呑みにしてはいけないこともまた確かなのだ。
僭越ではあるが、ドイツ語に限らず他国の言葉を和訳する際に重要なのは無論当該言語に精通していることは必須だが、日本語への高度な理解がないとおかしなことになる。
また以前、L・M・モンゴメリの「赤毛のアン」を新訳した松本侑子氏の訳者あとがきなどを読み、翻訳の難しさにあらためて気づいた。
余談になるが、我々が幼少の頃から親しんだ「赤毛のアン」はこれまで原文と比較して大幅に省略されている訳本があったり、和訳だけ読んだだけでは真意が不明な文章が多い。それもそのはずで「赤毛のアン」は児童文学と受け取られがちだが原文は子供向けではなく、ヴィクトリア朝の大人向け文体で書かれているだけでなくアンが口にする多くの言い回しはシェイクスピア劇、バイロン、テニスン、ブラウニング、ロングフェローなどからの引用が満載なのであり、その文化的・時代背景的なニュアンスを訳者が知らなければ実に意味不明な日本語になりかねない。
さらにキリスト教世界の文章には旧訳・新訳を問わず多く聖書からの引用も見受けられるが、例えばそうした文をそれとは知らずに日本語にするといったケースはこれまでにも多く見受けられた…。したがって肝心な箇所で納得がいかない点があれば英語が苦手な私にとっても可能な限り原書を当たってみることは重要なことなのだ。
ともあれこの調べ物の過程で知的好奇心も満足できたし、それまで知らなかった多くの事実を見聞きできたわけで、収穫は小さくなかったのである。
「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」…原題「The Little Chronicle of Magdalena Bach」はイギリスの女流作家エスター・メイネルという人が20世紀初頭に書いた小説である。その後、アメリカで出版されたりドイツ語に翻訳されるなど多くの読者を得たという。
先般私が手にした講談社学術文庫刊「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」は扉に記載があるように1967年刊のドイツ語版を底本としたものだ。それは翻訳者の山下肇氏が東京大学独文科卒業という経歴の持ち主でありドイツ語を専門とする人だったからに他ならない。山下肇氏は後に東京大学教授、教養学部長を経て東京大学名誉教授となった人物である。なお2008年に鬼籍に入られた。
さて一介のアマチュアが東京大学名誉教授だった人の翻訳にケチをつけて喧嘩を売るつもりは毛頭ない(笑)。しかしおかしいと思う点はできるだけ公にして多くの方々に精査していただくのが一番だし重版の際にはそうした点を考慮していただきたいと願う。
とはいえそもそも英語版にしろドイツ語版にせよ、そうした洋書をすらすらと読めるのなら苦労をしないし訳本などに頼らない。そして本書にかかわらず翻訳というものの難しさ、困難な仕事だということは翻訳を仕事としている実弟からも聞かされているから理解はしているつもりである。しかし納得いかないことはそのままに出来ない性分でもあり、機会を見て原著に当たってみようと考えていた。


※「The Little Chronicle of Magdalena Bach」のハードカバー初版本
私が「アンナ・マグダレーナ・バッハ~バッハの思い出」の中であからさまに「これはおかしい」と思ったのは145ページであった。そこにはアンナ・マグダレーナ・バッハの言葉としてバッハが亡くなった時の楽器の遺品リストが紹介されている。
まずはその箇所をそのままご紹介してみるが、実際には縦書きである。
「彼が亡くなったとき、彼はチェムバロとクラヴィコードを合わせて五つ、クラヴィチェムバロを二つ、小さなスピネットを一つ、ヴァイオリンは小一に大二、ヴィオラが三つ、チェロ二つ、バスヴィオラ一つ、ピッコロひとつ、ギター一つを持っておりました。」
これまでバッハに関する文献を多々読み楽しんできた経緯や自身が手慰み程度だとしても楽器を弾き、最近では古楽器のリュートに凝っている1人としてこの箇所で首を傾げた…。
まず遺品に「ギター一つ」というのは明らかにリュートの間違いだろうということ…。そしてもう一度山下肇氏の和訳を読んでいただきたいが、彼は楽器の数をすべて “ひとつ、ふたつ” と記している。山下肇氏によればチェンバロもクラヴィコードもヴァイオリンもピッコロもすべて全部 “ひとつ、ふたつ” なのだ。
無論間違いとはいえないし英語やドイツ語には日本語の助数詞のような厳密な数え方はないが、日本語の扱いとしては些か気になる…(笑)。
ちなみに楽器はビアノやハープシコードといった大型の楽器の場合「1台2台」と数えるのが一般的だが、ヴァイオリンはオーケストラの中では「本」で数えられることがあるものの普通は「1丁2丁」だし、管楽器であるピッコロは「1本2本」と記すべきだろう。ただしこの “ピッコロ” については管楽器ではなく小型の高音ヴァイオリンであるヴィオリーノ・ピッコロだという事が礒山雅氏著「J・S・バッハ」(講談社現代新書刊)に載っている。


※小型のチェンバロであるスピネット(上)とクラヴィコード(下)。共に英国The Early Music Shopのカタログより転載
読み進む内に不審を感じた私は1925年にイギリスで刊行されハードカバー版としては初版だという原著を思ったより早く手に入れる機会を得たので早速当該箇所がどのような記述になっているかを確認してみた。できれば山下肇氏が底本とされたドイツ語版も確認したかったが、もし手にしたところで残念ながら読めないのでそれはまた後のお楽しみとしよう(笑)。
問題の箇所の原著は次のようになっていた。
「When he died he possessed a clavier and four clavecin, two lute-harpsichords and a little spinet, two violins, three violas, two violoncellos, one bass viol, one viol da gamba, one lute, and a piccolo」
やはりギターという記述はなくリュートだった 。ドイツ語版への翻訳時に間違ったのかあるいは山下肇氏の勘違いなのかは不明だが、明らかに原著とは違う。
それに英語版の原著をそのまま読み下し、山下肇氏の和訳と比べてみるとこれまた些か変な箇所がある。
まず原書にある”one viol da gamba” すなわち「1台のヴィオラ・ダ・ガンバ」の箇所がどういうわけか和書にはスポッと抜けている(笑)。そして原著をそのまま読めば「クラヴィーアと4台のクラヴサン」というところを「チェムバロとクラヴィコードを合わせて五つ」と2種類の楽器の数を合算しているし、原著では「2台のリュートハープシコード」とあるべき箇所を「クラヴィチェムバロを二つ」としている。これまたドイツ語版底本がそうなっていたのかも知れないが「クラヴィチェンバロ」という呼び名はクラヴィツィテリウム (clavicytherium) のような楽器を意図したのか、あるいはクラヴサンやチェンバロ類の総称として使われているのかは分からないが、「リュートハープシコード」とは楽器が違う…。
リュートハープシコードとはラウテンヴェルクとも呼ばれ、金属弦ではなくリュート同様ガット弦を張ったチェンバロを意味すると考えられているが、そもそもは大型のリュートに脚と鍵盤を付けたような楽器だったという説もある。
実際に1740年頃、バッハがヒルデブラントという製作者に自分の設計したリュートチェンバロを制作させたという記録があるそうだ(礒山雅著「バッハ=魂のエヴァンゲリスト」より)。
まあまあ…「バッハの思い出」自体20世紀の女流作家が書いた小説であるからしてそんなに目くじらを立てる必要はないのかも知れないが…(笑)。
勿論日本語で良書が読める幸せは日々感じているものの、このたった半ページでさえこうなのだから翻訳本は100%鵜呑みにしてはいけないこともまた確かなのだ。
僭越ではあるが、ドイツ語に限らず他国の言葉を和訳する際に重要なのは無論当該言語に精通していることは必須だが、日本語への高度な理解がないとおかしなことになる。
また以前、L・M・モンゴメリの「赤毛のアン」を新訳した松本侑子氏の訳者あとがきなどを読み、翻訳の難しさにあらためて気づいた。
余談になるが、我々が幼少の頃から親しんだ「赤毛のアン」はこれまで原文と比較して大幅に省略されている訳本があったり、和訳だけ読んだだけでは真意が不明な文章が多い。それもそのはずで「赤毛のアン」は児童文学と受け取られがちだが原文は子供向けではなく、ヴィクトリア朝の大人向け文体で書かれているだけでなくアンが口にする多くの言い回しはシェイクスピア劇、バイロン、テニスン、ブラウニング、ロングフェローなどからの引用が満載なのであり、その文化的・時代背景的なニュアンスを訳者が知らなければ実に意味不明な日本語になりかねない。
さらにキリスト教世界の文章には旧訳・新訳を問わず多く聖書からの引用も見受けられるが、例えばそうした文をそれとは知らずに日本語にするといったケースはこれまでにも多く見受けられた…。したがって肝心な箇所で納得がいかない点があれば英語が苦手な私にとっても可能な限り原書を当たってみることは重要なことなのだ。
ともあれこの調べ物の過程で知的好奇心も満足できたし、それまで知らなかった多くの事実を見聞きできたわけで、収穫は小さくなかったのである。
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