「写真家へ」に見る、果たして写真とは何ものなのか?

写真とは本当にまか不思議なものだ。基本的に写真は誰にでも撮れる時代になった。それこそシャッターを押せば間違いなく写真は撮れる。子供でも老人でもカメラを対象に向けてシャッターを押せば写真は撮れる...。だとすれば、子供の撮った写真とプロの撮った写真との違いとはいったい何なんだろうか...。

 
コンピュータと共に写真が好きで紆余曲折はあったものの、何らかの形でカメラを手放すことなく35年以上が過ぎた。また特に最近はビデオより写真が気になってならない...。
私らが子供の時代はカメラは大変高価な代物で、例えば小学校5年の時の遠足で、いわゆるクラス一番の金持ちの女の子ひとりがカメラを首からぶら下げていた程度しか普及していなかった。
高校生のときだったか、修学旅行かなにかでカメラを欲しいといったとき母は私を近所の商店街にあった写真屋につれていってくれ月賦(古い言い方だ...笑)でリコーオートハーフを買ってくれたことを昨日のように思い出す。
そうした羨望、反動だろうか。社会に出てから自分の金で最初に買った高価なアイテムのひとつが一眼レフカメラだった。

それ以来スナップだけではなく、なにか残せる作品作りをしたいとずっと考えてきた。しかし私は絵も描くが、写真は絵とは違う取っ付きやすさ...簡便さに反し自身で納得する写真が撮れたためしはない。
さて、写真もひとつの自己表現の道具だというのが通説ではあるが、これまた大変曖昧である。例えば絵画なら水彩にしても油絵にしても描き手の技量や技法、あるいは作風といったものが目に見えて表現される。
意図的な贋作を別にすれば、マチスとゴッホの作を間違うことはないしデッサンの域から同じ対象を描いたとしてもそこにはディティールを含めた大きな違いが生じるはずで、同じ風景、同じモデルを描いても私の絵と貴方の絵は確実に違う。

しかし、写真はどうだろう...。写真も技法・技量・作風といったものがないわけではないが、例えば、同じ場所から同じモデルを狙った写真の違いは私と貴方の写真でも絵画ほどの違いはないはずだ。ヘタをすると後からどちらが撮ったか分からなくなる可能性すらある。

ただしここでいう写真とは商品撮影やポートレートの撮影を申し上げているわけではない。これらの写真を魅力的に撮るには確実に技術を必要とし、上手い下手は歴然である。この項ではあくまで芸術性を前面に出した作品の場合を考えているわけだ。
「いや、プロならそもそもアプローチが違うよ」という声が聞こえてきそうだが、それは構図の違いだったり、露出のコントロールだったりするだろう。あるいはプリント時の印画紙や技術的表現手法の違いによるものかも知れない。しかし乱暴ないい方をするなら、シャッターを押せば写真は撮れるのだ。だから多くの場合に写真から作家の顔が見えてこないケースが多い。
こんなもの言いをするとプロの写真家や写真を勉強中の方々のお叱りを受けるかも知れないが、昔から作品にとって被写体とは何なのだろうか...というもやもやしたものを持ち続けてきた私の正直な感想なのである...。

あえて挑戦的な書き方をしてみたが、書店のカメラコーナーに立てばいわゆる上手な写真の撮り方に関する本が沢山ならんでいる。しかし「写真を上手に撮る」ことが「良い写真を撮る」ことと受け取られかねないようなアプローチの本が多いように思うのだ。
続けて暴論を吐けば、そもそも絵画もそうだが、写真だって基本というか根本的な部分は人から教わるものではないように思える。
教わって上手になり、良い写真が...凄い作品ができるなら巷には凄い作家が溢れかえっているはずだ。
そりゃあプリントの方法などは確かに技術が存在し、上手な他者に教えてもらった方が習得は早いだろうが、写真を撮ることに関しては感性・姿勢・生き方の問題でしかないと私は思う。絵を描くのと同様に...。

これまでを振り返ると、私自身絵画に対して感動を受けることは多々あっても、写真に対してそれと同様な感動を受けた記憶はゼロではないが大変に少ない。
もっと簡単に言えば、その市場価値という一番魅力ある部分をあえて別にしても「自分の部屋に飾りたい一点の絵」は世の中に多々存在するが、同じ意味で「飾りたい一点の写真」というのはめったにない...。ほとんどない。これは何故なのか?
勿論写真は芸術性のみ認められるものではなく、報道や資料の記録といった面でも重要視されるが、こと芸術性を追い求めるには大変難しいものだと思える。
そして白状するなら個人的にはロバート・フランクの写真も土門拳の写真も私は自室に飾りたいとは思わない。というか欲しくない。
以前「飯沢耕太郎著「Photographers」(1996年刊)によせて」にも書いたが、私はどうも多くのファンを持ち高く評価されている土門拳の写真が好きではなかった。しかし写真仲間にこんなことを言えば単なる「へそ曲がり」だと思われるのも癪だから黙っていたが...(笑)。
そんなことを自身への自戒を込めて考えていたところ、2002年に出版されこれまでとは違ったアプローチから写真を、写真家を論じている著書と巡り会った。それが安友志乃著「写真家へ」(窓社刊)である。

Photographerbook.jpg

※安友志乃著「写真家へ」(窓社刊)表紙


本書にはこれまで私が頭の中にあって言語化ができなかったことが扱われており、目から鱗の箇所が沢山あった。そして様々な意味で辛口ではあるが、写真を志す人に対しての真の愛情が貫かれているように思えて心地よい。
それに安友氏が本書の中ではっきりと「土門拳の写真はわからない」と言っているのに出会い、膝を叩く思いだった。
詳しくは本書をご覧いただくとして安友氏は「被写体というのは作品にとって重要な要素の一つですが、それは、あくまで自分の確信を表現するために、有効な要素として選ばれるものだと思うし、作品にとって(被写体は)重要な要素ではあるけれど、絶対ではない」と言い切っているのも興味深い。

また安友氏は「作家に会って、最初に何を見るんですか?」という問いに対し「(作者の)顔です」といつも答えるという。
なにやら曖昧で不真面目な受け答えのようだが私にはその感覚はよく分かる...。
何を写したのか、どこで写したのか、いつ写されたのか、どんな印画紙を使っているか、機材は何かといった作品の表層を巡るさまざまな質問は会話を進めるうえでの道具立てに過ぎず、何を見ているというか、見たいのかといえば作家の確信を見ているのだという。

無論こうした意見には反論もあるだろうが、私が長い間写真とその作品という代物に対してもやもやとした疑問と言語化できないある種の不安を持ち続け来たその答えのひとつが「写真家へ」という一冊に明確に示されていたのである。
絵画でも写真でもいわゆる本物はもの凄いオーラーを持っているものだ。
私は若い頃に「いまさらゴッホでもないでしょう...」などと生意気にも口にしていた時期があったが、確かニューヨークの近代美術館で巡り会ったゴッホの「星月夜-糸杉と村」の前に偶然立ったとき、正直動けなくなってしまった。
自分でも何故だが分からなかったが、そのときまさしく私は「ゴッホ光線」を浴びてしまったのだ(笑)。そう...ピカソの「ホワイトウーマン」の前でも動けなかった。

絵画と同様に素晴らしい写真も時間を忘れさせるものだ。ただしこれまた絵画と同じく画集ではダメで、写真展の会場に足を運びオリジナルのプリントを眺める必要がある。
本物の迫力はサイズだけの問題ではなく、写真集ではうかがい知ることができないほど迫ってくるものがまったく違うのだ。それらは被写体が何であれ強烈に作者の確信と人生を感じさせるに違いない。

一生に一度でも、誰かにそうした思いをさせる写真を撮るにはさてどうしたらよいものか...。答えはまったく見えないしそもそも私などには無理な話なのだが、考え続け、実践し続けるしかない。そして分からないからこそ魅力なのかも知れないが、私にとっての「写真とは何ものなのか」という命題が解ける日は果たしてくるのだろうか...。




関連記事
メイン広告
ネットショップ先行販売
ブログ内検索
New web site
[小説]未来を垣間見たカリスマ  スティーブ・ジョブズ
ジョブズ学入門
WATCH 講座
大塚国際美術館ひとり旅
ラテ飼育格闘日記
最新記事
お勧めの新旧記事
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

appletechlab

Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員