白昼夢〜私の音楽歴とは?

先日電話で仕事の打ち合わせをした後、音楽の話になったが「松田さんはギターを弾くようですが音楽歴は?」と聞かれた。音楽歴...とあらためて言われるとそれほどの事でもないので申し上げるのに躊躇もするが、音楽は聞くだけでなく楽器を演奏することこそ醍醐味を味わえると思っているひとりではある。

 
というわけで、今回は私の音楽との関わり合いの歴史といったことを書き連ねてみよう...。とはいえ私らの歳になると音楽歴も長いだけでなく色々とあってひと言では説明できず、話が長くなって嫌われる(笑)。

さて、私の生まれた年代は六畳一間のアパートに両親と兄弟3人が住んでいた戦後の混乱期だから当時の我が家の経済状態など説明する必要もないだろう(笑)。ただし母が若いときに琴を習っていたとかでいわゆる音楽には理解があった家庭だった。なにしろ物心ついたとき、そんな貧乏暮らしの我が家に大正琴とウクレレがあった...。
大正琴は母の十八番であり、古賀政男などの曲を上手に弾いていた。
そんな母の趣味趣向からだったろう、私が小学校に入学する前から三味線を習わされた...。月謝が幾らぐらいだったのか聞いたこともないが、私たちが住んでいたアパートの崖下に住居を構えていた師匠のところに1週間に一度程度だったか通わされた。

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※筆者九歳の夏


三味線そのものは父が中古品を探してくれたようだが、稽古の日に私が近所の友達たちと遊んでいると「若旦那、お稽古だよ!」と崖下から粋な声がかかるのだった。
「は~い!」と返事をした私は急いで自宅に戻り、自分の背丈ほどもある三味線を肩に担いで坂道を下っていく...。

その師匠...子供の私にとってはオバサンだったが若い頃には新橋...柳橋かどこかの芸者であったとかで鴨居の上に若い頃の写真が額に入って飾ってあった。確かにその写真は子供心にも綺麗な女性だった記憶がある。
子供の、それも男子の弟子は他にいなかったようで師匠には可愛がってもらった。そして新年の会には大人ばかりの席で師匠のとなりに座らされたことを覚えている。

私の三味線習得はその後高校に入ってからも続いたが正直本人としてはあまり好みではなかった。いや、三味線そのものが面白くないというのではなく、男の子が三味線を抱えているその自分の姿がどうにも好きになれなかったのである。それに師匠は、小唄、長唄、端唄、清元などなど何でも教えてくれる人だったが粋な台詞の意味も分からずに弾き語っても面白いはずもなかった。

まあ、特に高校生ともなれば同級生...特に女の子たちの目を意識する年代になったこともあり、高校1年のときギターが上手い同級生に感化され「ギターの方がもてるだろう」と三味線を止めた(笑)。その同級生は1年後だったか突然に亡くなってしまうのだが...。
その高校1年の夏休み、近所のおもちゃ屋でアルバイトした金で3,000円のギター買った。それはスチール弦が張ってあった文字通りの安物だが嬉しくて数日間は枕元に置いて寝たものだ。
一緒に古賀政男著「1ヶ月ギター独習」とかいった教本を買い、弦をナイロン弦に替えてとにかく練習した。

朝起きて学校に行く前に練習、学校から帰ってきたら夕食まで練習、夕食が終わったら寝るまで練習の連続だった。味噌汁のお椀を持つ指が痛いほど練習した。
自分でいうのも烏滸がましいが、三味線などをやっていたこともあり音感は良かったし努力の甲斐があってまずまずの曲は弾けるようになったが、最初に取り組んだのがクラシックギターだったのが幸いしたのか独学ながら指がよく動き、学校でもギターを持たせたら誰にも負けなかった。

時代はビートルズ、そして反戦歌を含むフォークが台頭してきたときだったが誰いうともなく同好会を作ろうということになった。それは学校で…教室で誰はばかることなく練習が出来るというメリットを考えてのことである。
結局お堅いことで知られていた担任のT先生を口説き落として顧問に祭り上げ、職員会議と生徒会を無事パスして「フォークソング同好会」を発足した。ここに初めて「ビートルズ来日演奏会に行ったら退学」という時代、そして「ギターなどやる奴は不良だ」と白い目で見られていた我々は逆に憧れのグループとなった。なにしろそれまでは学校にギターを持ち込むことさえ難しかったのであるからそれは大きな一歩だった。

そして卒業生を送る送別会や自分たちの卒業式のときなどに我々数人は楽器を持って舞台に立った。
しかしまあ思い返すと私以外の3人はまともに楽器をやったことがなかったらしい。その3人と銀座の十字屋に行き、バンジョー、4弦ギターなどを買い込んで悦に入っていたのだから面白い。

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※椿山荘の舞台でフォークソングを演じる(高校の卒業式)。左が筆者


ただし個人的にはギターはあくまで自分の楽しみのためにと考えていたから就職するとバンド活動などコロッと忘れてしまう。しかし時代が私を放っておかなかったのである(笑)。
確かに履歴書にはギターとか三味線といった楽器演奏の趣味を書いたはずだが、それがどのようにして知れたのか...ある日総務部に配属された同期のK君から「バンドを作るのでリードギターを担当してくれないか」という話が舞い込んだ。何しろ今思えば景気もよい時代だったしめちゃくちゃな時代だった...。

リードギター兼リードボーカルの私(笑)、ドラムを担当したK君、そして我々より2,3歳先輩だった2人がベースギターとサイドギターを担当し4人でバンドを組むことになってしまった。何よりも驚いたことに我々のバンドはその東証一部上場の本社唯一の公認社内バンドという触れ込みだったのである。
それに他の部署の部長などがたまたま通りかかると「三味線とギターを弾くというのはおまえか?」と肩を叩いてくれたりとまさしく芸は身を助けるではないが、名前を覚えてもらう一助になった。

夏のビヤパーティーや暮れのクリスマスパーティーの時期になると会社側の依頼で練習が仕事になるのだから可笑しい(笑)。ただしリードギター兼ボーカルは良いとして、そのギターはエレキギターだったので最初は戸惑ったしダンスパーティーのためのバンドでもあったためレパートリーはフォークなどではなく歌謡曲までをも含む何でも屋でなければならなかった。

ある時の舞台で演奏したレパートリーは確か...スプートニクス「霧のカレリア」、ベンチャーズ「パイプライン」、ロス・プリモス「ラブユー・東京」、加山雄三「蒼い星くず/旅人よ」などなどだったはずだ。ただしこのとき、舞台に上がる直前にフロアーにいた先輩に「飲んで景気を付けろ」と渡されたビールのグラスに口を付けたこともあり、1曲目の「霧のカレリア」の出だしで何度もとちったことは忘れられない想い出となった。

もともと飲めないアルコールを飲み酔ったからか、珍しくどのフレットから始めるのかレロレロになってしまい、私自身の記憶だと3回は出だしが上手くいかずにやり直した。ふとフロアーに目をやると同じ部署の同僚や先輩達が心配顔で見上げており、関連部署の常務取締役からは「なにやってんだ。早く始めろ!」と叱咤の声が...。
幸いその後は自分を取り戻したのでそつなくこなしたが、後で同僚からは「寿命が縮まったよ」と笑われた。しかし今更ではあるが私らのバンドでダンスを踊る人達も人達である(笑)。

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※1973年から76年までにソニーのワンポイント・ステレオマイクを使い実家の四畳半で録音したテープを後にデジタル化したCD。「アランフェス協奏曲2楽章」や弟との二重奏、F.カルリの「アンダンティーノ」他全17曲が家庭内ノイズと共に残っている(笑)




※前記した弟との二重奏、F.カルリの「アンダンティーノ」。1973年頃四畳半スタジオで練習録りしたもの(笑)


この時代、父が弟の英会話勉強のためにと購入したホータプル式オープンリールのテープレコーダーを使い練習時に使ったが、その後所在が分からず当時我々の腕前がどの程度だったのかは確認不明である。ただし当時300人近く在職していた本社社員のほとんどが参加したパーティーだったわけで私が在籍した足掛け8年ほどの間は何らかの形で続いたのだから聞くに耐えないものではなかったのだろうと自負しているのだが(笑)。
そして当時芥川也寸志が指揮をとっていたアマチュア演奏家たちのオーケストラ、新交響楽団にチェロ奏者として参加していた人に私のギター演奏は過大に評価されたこともあり、会社内にギタークラブまで作らされるはめになった。

その後も、クラシックギターは趣味として続けていたし30歳を過ぎたころには1年半ほど近所の教室でピアノを習った。また2001年4月から大沢憲三先生にフラメンコギターをこれまた1年半ほど習ったが、音楽...特にギターは付かず離れずいつも私の身の回りにあった。
またギターは弾くだけでなくギターの構造や仕組みを理解する意味も含め、数本手作りした。その中にはN.イエペス調弦の10弦ギターもあったし古楽器のリュートもどきも自作したことがある。

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※1973年11月に自作したモダン・リュートもどき。当時は正確な資料も手に入らなかったので苦労した


ただし歳のせいか、この数年は新しい曲を覚えるのが大変だけでなくせっかく弾けるようになった曲も都合で2週間ほど練習しないと忘れてしまうという情けないありさまである。その上、近年両手指の腱鞘炎に悩まされ、右手はともかく左手がギターのフレットを正確に押さえるのが難しくなっている。

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※1974年に製作した10弦ギター


過去には友人達の結婚式などでギターを独奏したこともあったものの、クラシックギターの演奏も20代前半にワンポイント・ステレオマイクで録音した十数曲のみしか記録に残っていない。それに一番活躍したサラリーマン時代のバンド活動も演奏はともかく私自身には1枚の写真も残っていないのも残念だ。
確かにあの時代、今のように常にカメラを携帯する時代ではなかったからそんなものなのかも知れないが、舞台上での我々の姿は文字通りあやふやな記憶の中にしか残っていない...。

しかし数日前に夢で昔のバンド仲間が出てきたのには驚いた...。その夢には懐かしくもエレキ・ギターを振り回していたそんなシーンらしきものが登場した(笑)。そういえばその会社で出会った無二の親友K君はその後独立して事業で成功もしたが、若くして癌で亡くなった。その彼と夢の中とは言え久しぶりに笑顔で会えたのだから...嬉しかった。
ともあれこの原稿を書きながら、久しぶりにとフラメンコギターのケースを開けたら...弦が1本切れていた(笑)。「何をか言わんや」である...。


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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員