ジョブズとウォズが知り会ったきっかけは?

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが出会ったことがAppleという企業を誕生させ、現在誰もが知る世界有数のメーカーとなったことは周知のことである。ではそもそもジョブズとウォズニアックはどのようなきっかけで知り合い友好を深めていったのか?


無論アップルフリークの方々は断片的にも知っている情報だと思うが、先日お若い方に質問されたのであらためていくつか確認の上で今回はそんな話しをしてみたい。
一言で「縁」といってしまえばそれまでだが、ジョブズとウォズニアックが出会っていなければAppleという会社は存在しなかったに違いない。そしてパーソナルコンピュータそのものはAppleの有る無しにかかわらず進化したであろうが、その姿は現在のものとは些か違ったものになったとも考えられる。

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※Apple I の基板を前にした若かりし頃のジョブズとウォズニアック


ダイヤモンド社刊「アップルを創った怪物」の中でウォズニアック自身、自分はジョブズより4つ年上だったから学校で一緒になることはなかったという。しかしマグロウヒル社刊「パソコン革命の英雄たち」によれば5歳違いだという...。ちなみにジョブズの生まれたのは1955年2月24日、ウォズニアックは1950年8月11日である。したがってこの食い違いは学年と年齢の違いによるものと考えられる。
ともかくウォズニアックをジョブズに会わせたのはウォズニアックの高校の友人であるビル・フェルナンデスだったことは間違いないらしい。
学友たちが芸能人やロック歌手たちの尻を追いかけているとき、ウォズニアックはデータ・ゼネラル社から貰ったNOVAというミニコンのパンフレットを寝室の壁に飾って眺めていた。そしていつか自分のコンピュータを持つんだと決意し、それが彼の人生における最大目標となった。しかしその夢はとても非現実的だった。なぜなら1969年当時の人々はコンピュータを個人で所有するという考えなど持ってはいなかったし、NOVAやDEC社のPDP-8といったミニコンでさえ研究所向けの製品であり大変高価だったからだ。

そのウォズニアックは1971年の夏、大学を辞め小さなコンピュータ会社に就職し前記した友人ビル・フェルナンデスと共に外見が悪いからと不良品扱いされた部品を集めて最初のコンピュータを作った。
2人はクリーム・ソーダを飲みながら夜半までハンダ付けし続けしたことから出来上がったコンピュータに2人は「クリーム・ソーダコンピュータ」と名付けたという。
そのビル・フェルナンデスがクリーム・ソーダコンピュータ製作を手伝いながらも2年下で中学時代の友人をウォズニアックに引き合わせた。
「君に会わせたい奴がいるんだ。スティーブというんだが、君と同じように悪戯好きだし、エレクトロニクス関係でいろいろと作るのも好きなんだ」と...。そのスティーブこそがスティーブ・ジョブズだったのである。
ウォズニアックは即ジョブズを気に入った。ビートルズとボブ・ディランが大好きなことも同じだったが一番は自分の設計を説明しようとすると苦労することが多かったが、ジョブズはすぐにわかってくれたからだという。すなわちウォズニアックにとって自分の才能を認めてくれるだけでなく一番の理解者がジョブズだった...。

ジョブズも電子工学に興味を持っていたが養父は工場労働者であり一部の同級生たちのように財政的に余裕もなかった。したがって高校では電気部品を売り買いし、あるいは修理などで金を儲けたりしていた。なぜなら彼はマウンテンビューにあった電子部品や基板の旧型品や不良品が山積みされていたジャンク店で週末働いていたからだ。この時期にジョブズは電子部品の良し悪しや価格に対する嗅覚のようなものを自然に身につけつつあった。

ジョブズはまたはにかみ屋だったが大変落ち着いた大胆な面も持っていた。例えば電子回路の作成中に部品が不足したときヒューレット・パッカード社の共同設立者であるウィリアム・ヒューレットを電話で呼び出して助けを求めるといった行為をやったという。
驚いたことにウィリアム・ヒューレットはジョブズに必要な部品を与え、その夏には流れ作業現場での仕事まで与えたという。ジョブズにはこの頃から人を魅惑する天性のものを持っていたと思われる。

そうして出会ったジョブズとウォズニアックだが2人の関係を深めたのは電子工学ではなくもっぱら悪戯だった。ただしウォズニアックの目標は自身のコンピュータを作ること...という明確なビジョンがあったがジョブズは自分の人生をどうしたいのか...自身でも分からず悶々としていた。
その後ウォズニアックは工学をより勉強するためカリフォルニア大学のバークレー校に復学したが学年末の大半の時間をスティーブ・ジョブズと不正にタダで電話をかけることができるブルー・ボックスを作ったりして過ごす。
2人の悪戯は時には度を超し、ブルー・ボックスを使いキッシンジャーと名乗ってローマ法王を眠りから覚まそうとしたこともあったという。

しかしこの遊びを金儲けに繋げたのはやはりというべきか...ジョブズだった。2人はこの非合法の装置をどっさり売ったらしい...。
その後、リード大学に入学したジョブズは東洋の宗教に夢中になり、友人のダニエル・G・コッケと多くの哲学書や宗教書をむさぼり読む。ウォズニアックはそうした非科学的な探求には興味はなかったが2人の友情は変わらなかった。
ウォズニアックは週末になるとよくジョブズを訪ねてオレゴンまでドライブした。ちなみにジョブズにとってリード大学は特別の存在だったらしく後にローレン・パウエルと結婚し男の子に恵まれた際、その子にリードという名を付けたほどである。

1973年の夏にウォズニアックはビル・フェルナンデスと共にヒューレット・パッカード社に就職する。同社の計算部門で勉強を続けることにして大学の方は遅らせることにした。
対してジョブズはリード大学を6ヶ月で退学したものの寄宿舎には居残ることができた。そのリード大学での1年が終わると設立されたばかりのビデオ・ゲーム会社のアタリ社に職を得て金を貯めることに専念する。そしてその貯金で出発時期は少々違ったものの1974年にはダニエル・G・コッケと共に念願のインド旅行に旅立ったのである。
結局ジョブズは2,3ヶ月の間放浪した後、カリフォルニアに戻りアタリ社に復職しウォズニアックと連絡を取った。
この頃からウォズニアックは頻繁に夜勤をしていたジョブズの誘いもあり、金のかかるゲームセンターではなくジョブズの勤めていたアタリ社の工場に入り込んでゲームを楽しんでいた。このことはウォズニアックだけに利があったわけではなくジョブズにとっても多々実益が生じた。なぜならアタリ社が新しいゲームを設計するその仕事の一端をジョブズが請け負い、実際は自分にとって難しいところをウォズニアックにやってもらうという実益である。無論アタリ社には自分1人で問題を解決したと報告する。

この時ジョブズが手にしたという700ドルをウォズニアックと折半するが、実はジョブズが受け取った報酬は2,000~3,000ドルだったことをウォズニアックは後に知る。しかし彼は「人それぞれだから」とジョブズを責めることはなかった。
ともかくジョブズとウォズニアックはこの頃から2人が協力すれば期日の差し迫った問題でもうまくいくということを学んだのだった。
機は熟しつつあったのである...。

【主な参考資料】
・スティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・P・フライバーガー/M・スワイン著「パソコン革命の英雄たち」マグロウヒル社刊
・ジェフリー・S・ヤング/ウィリアム・L・サイモン著「スティーブ・ジョブズ 偶像復活」東洋経済新報社刊
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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員