[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第27話 コーブンに会う

スティーブ・ジョブズは稀代のビジョナリーであり、未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第27話 コーブンに会う
「トモ、ちょっと頼みがあるんだが…」
久しぶりに休暇が取れた日曜日の午後、私の自宅をスティーブが訪れた。
そう言えば彼が我が家を訪れたのは引越直後にお祝いを持って現れてからは初めてだった。

スティーブの豪邸とは比べものにはならない小さな借家だったが、私はそのお気に入りのリビングルームに彼を誘い入れた。
「おい、俺ははじめてみるが、これは君の奥さんかい」
小さなフレームに入れてテーブルの端に置いてあった女房の写真に気づいてスティーブは聞いた。
「ああ、たまたま名刺入れに若い時の写真が一枚入っていたのに気づいてね…」
「ふうん。子供みたいに見えるな...可愛くてさ」

スティーブ精一杯の世辞なのだろうが、私が反応する間もなくソファーに座り込んで話し始めた。
「トモ、休みなのに悪いがまずは君が仏教とか禅についてどう考えているのか教えてくれないか」
スティーブは真面目な顔をしていった。

確かに私は日本人だが、あらためて日本文化とか仏教や禅といったことを急に話題にされてもきちんと勉強したわけではないので実に心許ない。
「スティーブ、君が仏教とか日本文化について興味を持っていることはよく知っているけど私は単に日本人というだけで詳しくないから雑談しかできないよ」
私は最初に言い訳めくが釘を刺しておいた。
「ああ、それでいいんだ」
スティーブはリラックスした姿勢をしながら窓の外を眺めた。
「相変わらずひとり暮らしで何もないけど、ワインでもあけようか」
私は先週買いだめした赤ワインのボトルとワイングラス2つを持ってきてスティーブの前にあるテーブルに置いた。
グラスが汚れてないかを確かめながら私は、
「何が知りたいの、スティーブ」
と聞いた。

「トモ、君は俺がコーブン(知野弘文=乙川弘文)を禅の師と仰いでいることは知ってるよな」
「知ってるよ。前にも聞いたことがあるしスティーブ、君が知野さんを知ったのは確か私が君のガレージ前に現れた年の数ヶ月前だったみたいだね」
「うん、禅センターに行った時に知り合ったんだ」
スティーブは私がワインをグラスに注ぐのを待ちきれないかのように手を出した。

「久しぶりに近々そのコーブンと会う約束をしたんだけど、トモ...君も一緒に来てくれないか」
スティーブはあの人を射貫くような視線を一瞬私に向けたが、すぐに穏やかな表情に戻った。私は何だか禅や仏教を勧誘されているみたいでこそばゆい感じをしつつ、
「それはかまわないが、私を誘うなにか意図があるのかい」
思ったことをストレートに言ってみた。
スティーブと四六時中付き合ってきたが、彼に対して日本人特有の遠慮はすべきでないことを勉強したし、スティーブ自身も曖昧な物言いを好まなかったから極力ストレートに発言するよう心がけていた。

「いや、まさか君に禅を勧めようというんではないんだ」
私の考えたことが分かったのかスティーブはワイングラスを目の高さまで上げて、
「いつかコーブンと電話で話したとき、トモのことが話題になったんだ。彼が君と会ってみたいというんだ」
そういいながら一杯目を飲み干したスティーブは自分のグラスに自身でワインを注いだ。
私は自分が苦笑したのをスティーブに知られないようにと顔の向きを変えたが、
「嫌かい」
スティーブは私の心を読んだかのようにいう。

私はスティーブの真正面に椅子を向けて彼の視線を跳ね返すように話し始めた。
若い頃に私は宗教といったものの魅力と怖さを知った。スティーブがそうだったように自分という人間は何者であるのか、どのような人生がこれから待っているのかを知りたくて、というより自分の未来に大いなる不安を抱いて聖書を読んでみたり弘法大師空海の生涯を追ったりした時代があることを話し始めた。
要はどのような宗教もそれを信じた人と信じられない人の間には大きな壁ができること、特定の宗教の信者になったために人格が変わった人も見てきたこと。本人が幸せならそれでよいのかも知れないが、仏や神に依存しすぎ、ましてや新興宗教にのめり込みすぎて家庭まで壊した人を見聞きしてきただけに宗教とて人生万能の薬ではないと肝に命じていることを話した。

「なにかを信じることは悪い事ではないけど、そのために他の世界が見えなくなったり人の意見に耳を傾けないのでは何の為の宗教なのかと思うんだ、スティーブ」
両手の指先を合わせながらスティーブ・ジョブズは私の話を黙って聞き続けた。
「スティーブ、私は君に説教をする気はさらさらないけど、人生の師は決して僧侶だけではないと思うんだ。無論両親や学校の先生、ビジネスの先輩たち、近所の老人たちもそうかも知れないし時には友人たちこそが自分にとって人生の師でありうるときもあるんじゃあないかな」
私はまだ口をつけていなかったワインをひとなめして続けた。

「特に僧侶という立場は我々凡夫にとって、ああ “凡夫” って意味分かるよね」
スティーブは頷いた。
「しかし僧侶という立場は我々凡夫にとって学校の教師や近所の老人、友人たちとは比較にならない影響力を持っているんだ。なにしろ僧というのは本来仏教の戒律を守る、男性の出家者である比丘、女性の出家者である比丘尼(びくに)の集団のことを意味するから職業でもない…。そして一般人には絶えられないきつい修行を続け人の欲望をコントロールでき人生の意味といったことを悟っているというのがあるべき姿だよ。だからこそ人々に尊敬されるわけだし、我々は僧侶を大学の先生に対するのとは違った立場で相対するわけだね」

スティーブは穏やかな微笑をたたえながらいった。
「トモ、君は僧侶が嫌いなのかい」
私は明確な言葉でそのことを言わなかったが、私の意図をスティーブは理解したようだ。
「トモ、君の僧侶や宗教に対する危惧は俺も分かってるつもりさ。僧侶とて人間だし食事もすれば宗派によるようだが女も抱くだろう。だけど俺の知らない世界を知っていることも事実さ」

ワイングラスを見つめながらスティーブは、
「それに俺は一時期、日本に行って僧侶になろうとしたこともあったしダンと一緒にインドまで行ったけど正直宗教やスピリチュアルなあれこれには幻滅して帰ってきたんだ。だから俺は仏教をそのまま信じているわけでもないんだ。そうそう、俺の考え方が間違っているのかも知れないが俺にとって禅は宗教というより心身共に自分を磨き上げるメソッドだと捉えているんだ。禅に魅せられたのは知的理解よりも体験に価値を置いていたからなんだよ」
一気に話したスティーブはソファに座り直して続けた。

「前にも話題にしたが俺も仏教に関する本を大学の図書館で読みあさったよ。『あるヨギの自叙伝』『宇宙意識』『タントラへの道』『仏教と瞑想』そして『禅マインド ビギナーズ・マインド』などかな」
さすがに複数の著名をすらすらと話すスティーブだったからそれらを本当に熟読したんだろうとあらためて感心した。
「しかし、だ。トモ、俺は知的理解...そうだな、頭でいくら理解しても実践なくしてなにも変わらない変われないことを思い知ったよ。いくら本を読んでもそれだけでは現実は変わらない。その点禅は実践を重視するだろ、そこに科学的なニュアンスを感じたんだ。その頃の俺に一番足りなかったのは知ることではなく体で体験することだったんだ。どうだ、おかしいかな」

「そうだなあ、私には明言する資格はないけど禅ももともと禅宗といって坐禅を基本的な修行形態とする宗教だよね」
私は若いときに興味本位で知った裏覚えの知識を絞り出しながら話しを続けた。
“禅” とはもともとサンスクリットの dhyāna(ジャーナ、パーリ語では jhāna)の音写であり、音写「禅那(ぜんな)」の略である。さらに禅那を今風に和訳すれば “瞑想” ということになる。
「ただし受け売りだけど、禅はまさしく体験によって伝えるものこそ真髄だとする “不立文字(ふりゅうもんじ)” を強調するから、瞑想と禅は別物だというのが専門家の通例のようだね」

スティーブは私に言われなくとも禅の歴史やその成り立ちに関しても知っていたから話しそのものは難しいものだったがお互いに理解はできた。
私は小腹が空いてきたのでワインに合いそうなスナックを取りだしてテーブルに置いたが、スティーブは見向きもしなかった。

「スティーブ。これは私がワープしてきた2016年当時の情報だが、禅というより...瞑想には科学的な “効果・効用” があることが証明されたらしいよ。無論昔から精神統一に良いとか呼吸法が健康に役に立つといった話しは多々あったけど、アメリカの研究者がいくつか重要なことを発見したというテレビ番組を見たよ。確か “マインドフルネス” というんだが...」
私が口にしたスナックを横目で見ながらスティーブは (体によくないよ) とでもいうように両肩を上げた。

「最新の脳科学の研究で宗教性を廃したマインドフルネスは脳を改善し鬱病の再発防止やビジネスにおいても効率をアップさせる効果があることが証明されたらしいね。とはいえスティーブ、禅も仏教ならその究極は悟りを開くことが目的だろう。しかし君は禅から何を学ぼうとしているの」
スティーブは少し考えた後で笑いながらいった。
「そうだな、最初はともかく自分の気持ち、心を落ち着かせたいと思っただけなんだ。当時の俺は常に心穏やかでないガキだったからな。しかし正直にいえば、俺は当時何かにすがりたかったんだ。だから『禅マインド ビギナーズ・マインド』の影響を受けてロスアルトス禅センターに行った時にコーブンに出会ったんだよ。俺にとっては実に神秘的でさ、今まで出会ったことのない類の人だと思ったよ」

私はその頃の彼の心の葛藤を分かるような気がした。自分の来し方と未来が果たしてどうなのか。自分が何者で何を成すべきかも分かっていない若者がなにか拠り所となるものが欲しかったに違いない。
スティーブと2人だけで長い話しをするのは久しぶりだったが、数日後に彼と禅センターに同行することを約束して別れた。
帰り際にスティーブは真面目な顔で、
「だけどトモ、よい機会だから白状するけど、俺にとっての一番の師は...トモ、君なのかも知れないな」
そんな呟きを残してスティーブ・ジョブズは帰っていった。車の爆音を響かせながら。

一週間後、スティーブも久しぶりのようだったが彼の車に乗り一緒に禅センターに向かった。カリフォルニアの空は絵はがきの写真みたいに青かった。
知野弘文は小ぎれいな袈裟を纏い、両掌を組みながら笑顔で我々の前に現れた。
写真を見て想像していたとおり小柄な人だったが全身から活力がみなぎっているように感じられた。私はどう挨拶してよいか迷ったが右手を差し出しながら「加賀谷友彦です。お目にかかれて光栄です」といった。
知野は「ようこそ、おいでくださいました」と独特なイントネーションの日本語でいいながら軽く合掌した後に私の手を力強く握った。
「ここで日本の方に会うのは久しぶりです。スティーブから貴方のことを聞き一度お会いしたいと思っていました」
と今度はスティーブにもわかるようにとの配慮かブロークンな英語でいいながら、
「こちらへ」
私たちを日本間でもなければ洋風でもない質素な一室へ誘った。

どうやらコーブンは私の年齢が気になったようだ。Appleの社員としては確かに異例の高齢者であることは間違いないし、そうした人材を何故スティーブ・ジョブズが気に入り全幅の信頼をしているかに不審を持ったらしい。もしかしたら怪しい人物に丸め込まれているのではないかと危惧したのかも知れない。
とはいえまさか (私は2016年の未来からタイムワープしてきた人間です) と白状するわけにはいかない。第一スティーブとの約束ごとでスティーブの承諾なく本当の事を話してはならないと決めていた。そもそも本当の事をいったところで頭がおかしいジジイとしか見られないだろうが。

私といえば反対にスティーブが信奉するコーブンという僧侶とは実際どのような人物なのか、スティーブがなぜそんなにも高く評価しているのかを見極めたいとその場に挑んだ。知野弘文=乙川弘文が曹洞宗の僧だということ、スティーブとの関係については日本で出版された「ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ」などから知ってはいたが私の知っている情報はそんな僅かなことだけだった。

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※ケイレブ・メルビー原作/ジェス3作画/柳田由紀子訳「ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ」集英社インターナショナル刊表紙


コーブンとの話しは小一時間も続いたが、この初面談はスティーブの期待外れだったかも知れない。何故なら話題は禅とか仏教のことより音楽だったり映画の話題だったり、あるいは初めて渡米したときの戸惑いといった取り留めのないものとなったからだ。
特に初めてアメリカの土地を踏んだときのカルチャーショックについては話しが合った。

「私が初めてアメリカに来たのは1967年でしたが、カガヤさんの初渡米はいつだったのですか」
私はいきなりコーブンに問われて一瞬ドギマギした。それは私の初渡米は1987年のことだったからで、この年より6年も先の話だからだ。うっかり思ったことを口から出してしまえば大きな矛盾が露わになってしまうが、そうした点には最新の注意をする癖というか習慣がついていたので、
「オーディオ関連の仕事でスティーブに会う前に初めてアメリカを体験しました」
と誤魔化した。

幸いコーブンはそれ以上話しを突っ込まず話題は初渡米での言葉の不自由さは勿論、レストランで注文し出てきた料理の量が多すぎて困惑したこと、チップ社会に慣れるまでギクシャクしたことなどなどの思い出話となった。
特にコープンは私がボストンの日本食レストランで揚げ出し豆腐を食べていたとき、隣の客から (それはなんだ) と聞かれ、上手く説明ができないため (豆腐の天ぷらだ) と説明した話しや、ニューヨークでラーメン屋を見つけ嬉々として入ったまではよかったが、店内が日本的だったからか同行の一人が思わず (味噌3つに醤油1つね ! ) と日本語で注文したものの (Excuse me.....) と言われた話しに声を上げ手を叩いて豪快に笑った。しかし常にその目は冷静さを欠いていないように思えた。

後で思い返すとコーブンは私の持っている僅かなわだかまりを察し、意識的に仏教とか禅の話しを避けたのかも知れないと気がついた…。
このとき、スティーブ・ジョブズはまだ26歳であり、知野弘文も43歳だったが私は彼らとは年代がまったく違う年寄りだった。だからか、その私の目から見て、1人の日本人から見て知野弘文はどう見ても普通の僧侶であり特別な存在には思えなかった。
私の印象はといえば、コーブンは袈裟こそ着ているものの、話しのとおりの人物であるなら合理的な考え方をする人のように思えたし、かつ世俗というものをすべて肯定するようなその物言いに僧侶というより話術が巧みな優秀なビジネスマンのように思えた。

帰り際にコーブンは、
「スティーブ、カガヤさんを連れてきてくれてありがとう。この人は私の知らないことを沢山体験しているように感じる大変興味深い方だね」
といいながら、私に向かって合掌しつつ、
「また機会を作ってスティーブと一緒に来てください。楽しみにしています」
といいながら、コーブンは如才なく駐車場まで送ってくれた。

とはいえ暫くぶりにコーブンと会ったスティーブ・ジョブズの表情には喜びが溢れていた...。
なにしろ出会った当初、スティーブは日本に行き永平寺の門を叩いて僧侶になろうと真剣に考えていたというが、コーブンが「結局は禅の修行も事業も同じだ」と説き日本行きを断念させたことがあったという。
確かに、それが本当なら知野弘文の物言いが少し違っただけでスティーブ・ジョブズは禅寺に入りAppleという企業は残らなかったに違いない。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「ゼン・オブ・スティーブ・ジョブズ」集英社インターナショナル社
・「ジョブズ伝説」三五館社


[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第26話 魔の水曜日

スティーブ・ジョブズは稀代のビジョナリーであり、未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです。

■第1部 ー 第26話 魔の水曜日
ウォズが飛行機事故を起こし、まだ完治していない3週間後Appleにまたまた激震が走った。
Appleは業績は良かったものの、CEOのマイク・スコット(スコッティ)から見れば “Apple船” は少しばかり沈みかけていた。それは財務的というよりAppleという希有な企業の社風が壊れつつあったし、その原因はさまざまな人間が増えた結果、無能な社員が重荷になったからと感じたようだ。荷が重ければそれらを捨てないと船は沈んでしまう。スコッティはApple III の失敗に鑑み、一大決心をした。

事実Appleの自由を重んじる企業文化や会社が社員らに示していた善意と寛容さをもってしても社員各自の能力差を無視することは出来なくなったというのが大きな理由だった。
確かにそうした緩んだ空気がApple III の失敗につながったというのも説得力のある意見だった。
すでに気心が知れ友人となっていたロッド・ホルトがいみじくも私に言ったことがある。
「仕事ができないうえに、まともに働かないエンジニアが大きなヘマをしたら普通の会社なら首だよ。しかしAppleはそいつらを管理職のポストにして摩擦を避けている。この会社じゃ人を首にしないんだよ、トモ。それでは無能な管理職だらけになってしまう」

その頃、スティーブのオフィスに度々スコッティとマイク・マークラが集まり静かではあったが激論が繰り返されていた。そもそも私はCIOになって専用のオフィスを宛がわれていたがスティーブが社内にいるとき、ほとんど彼と一緒だったし重要な会議のその場にいた。

「いいかいスティーブ、俺は物わかりが悪い単なるシブチン社長ではないぜ」
スコッティは感情をおさえつつ口火を切った。
「俺は常に社内を歩き回り、良しにつけ悪しきにつけて仕事の進捗状況をこの目で確認し彼ら彼女らと話し合ってきた。彼ら彼女らがなにを考え、いまどんな状況にあるかを社内で一番知っているのはこの俺だ。なあ、マイク…そうだろう」
同意を求められたマイク・マークラは無言で頷いた。

「皆の志気を高めるため、承知のように会社の負担で全員をハワイ旅行させたこともある。スコッティは派手好きだという批難もあったが、それもこれも仕事によい結果を求めてのことだ」
スコッティはスティーブ、マイクそして私へと順番に視線を送りながら続けた。
「それがどうだ。いがみ合いが増え、責任のなすり合いばかりだ。Appleらしさとかよき時代の社風などどこにもないよ」

スティーブが口を挟んだ。
「だから何度も取締役会や改善委員会で皆で話し合ったよ。それだけの理由で君の言う41名もの解雇が本当に必要なのか説明してくれよ」
その言葉を吟味するようにスコッテは (君らしくもない物言いだな) といいながら話しを続けた。
「スティーブ。創業者の君に意見することではないが、社風というものは取締役会や委員会で定めるものではないし、求めてはいけないんだ」
「そしてこの決定は常々君の言う、B級の人間を増やさないための策なんだよスティーブ」

小一時間もの話し合いの末、スティーブの目にはうっすらと涙が浮かんでいたし、マイクも沈んだ気持ちを隠そうともしなかった。
スコッティがたたみ込んだ。
「誰かが悪者にならなくてはならないなら、俺が悪者になるよ。収まりが付かなくなったらこの俺を首にすればいい」
「ともかく、偽善とイエスマンと無謀で無責任な計画にはもううんざりだよ」
スコッティは吐き捨てスティーブのオフィスを出て行った。
後に残ったマイク・マークラは苦虫を噛みしめたような顔で、
「まあ、仕方がないなスティーブ」
といいながらドアを開けた。

こうして41名の社員の解雇が決まり、ひとりずつ対象者がスコッティのオフィスに呼ばれた。Appleという会社に “首” などあり得ないと思っていた社員らは次は自分が呼ばれるのではないかと恐れた。彼らにとってこれまで無邪気に信じ合ってきた時代の終わりであり、会社に対する忠誠心の終わりでもあるように思えた。
この最初の大量解雇はブラック・ウェンズディー(魔の水曜日)などと呼ばれたが、波紋は会社側が考えていた以上に大きくなっていった。それにスコッティは暗に (これは最初の一歩だ) と臭わすなど社内の反感を買っていった。

マイクとスティーブにも当然のことのように社員らの陳情やクレームが多々舞い込んだが、2人はまるで知らなかったかのような態度で社員らに接していた。ためにスコッティは次第に孤立し窮地に立たされていく...。
その数日後、受付カウンターを通ったとき、シェリー・リビングストンに呼び止められた。
「トモ、ちょっと話し相手になってよ。もう皆がギスギスしていて私も気が滅入るのよ」
「それは私も同じさ、どうにもスコッティだけに責任を押しつけて問題を終息させようという感じだからね」
我が意を得たりといった表情でシェリーは、
「あなたは創業時からAppleにいるんでしょう。そして今は CIO と偉くなったわよね。ならガレージで好き勝手に営業していたAppleという会社を株式公開し事業部制を置き、年商3億ドルに達する多国籍企業に育てたのは誰のおかげかおわかりでしょ、トモ」

「無論承知しているよ。それに君はスコッティが好きだからなあ」
少し伏し目がちになったシェリーは怒りをどう収めようか自分と格闘していた。
「皆はスコッティのことを気分屋だというけど、ここだけの話…気分屋というならマイクだってスティーブだってその上を行ってるわよ」
珍しくシェリーの口から経営陣への不満が出た。

結局事態の収拾を計らなければならなくなったマイクとスティーブは3月、ハワイから戻ったばかりのスコッティの社長解任を決めた。当のスコッティは社長解任が発表されたとき、飼い殺しのような待遇には絶えられないとAppleを去ることを決断する。
ロッド・ホルトは大きなため息をつきながら私に呟いた。
「スコッティは自分の全人生をAppleに捧げてきたからな。彼はいつも働きづめだったし飲酒したり二日酔いになる余裕もなかったはずさ。それに彼は他に就職しようなどという気はないだろうから今後が気がかりだよな」
事実スコッティは自宅のブラインドを閉めたまま一歩も外に出ず、電話にも出なかった。

この事態は予想以上にスティーブのメンタルな部分に大きな影響を与えたようだ。
あるときスティーブは小声で私に打ち明けた。
「トモ、皆がどう言ってるかはともかく俺はスコッティのことが気になって最近よく眠れないんだ」
「社長解任を後悔してるのかい」
私の問いには答えず、
「どうにも気持ちがざわついてさ、スコッティが自殺したという電話がかかってくる夢を見るんだ」
スティーブはスティーブで魔の水曜日の責任をすべてスコッティに押しつけたことへの罪の意識に苛まれていたようだ。

そういえばAppleを去るとき、スコッティはエントランスまで送っていった私の肩に左手を置きながら右手でシェリーと握手しつつ、
「長い間、世話になった」
「君とはもっと一緒に仕事をしたかったよ」
と笑顔をみせながら呟いた。
「Appleは私が育てた子供なんだよ、トモ」
そう呟いてマイク・スコットは背中を見せた。
Apple III の失敗、ウォズの記憶喪失、魔の水曜日そしてスコッティの辞職にもかかわらず、スコッティの育てたAppleは繁栄を続けた。それを支えたのは相変わらずApple II の売上げだった。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト社


[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第25話 セミナー開催

スティーブ・ジョブズは稀代のビジョナリーであり、未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第26話 セミナー開催
株式公開の騒ぎも一段落し、ウォズも去った1981年春先のある日、Apple本社の一番大きなフロアーで「パーソナルコンピュータの未来」と題するセミナーが開かれた。講師は私こと加賀谷友彦だ。スティーブ・ジョブズのたっての要望で開催された勉強会のひとつだったが、出席は任意というふれこみだったものの意外なことに予想以上のスタッフが集まった。

セミナー冒頭にスティーブの挨拶があった。
「これからトモがどんな話しをするのか詳しい内容については俺も知らないが、近未来のコンピュータ、パーソナルコンピュータに関わる内容のようだ。ただしひとつだけ君たち全員に注意しておくことがある。我々は仕事上これからパーソナルコンピュータがどのような進化を遂げるかをもし知ることが出来るなら目標も明確になるに違いないし社員全員の共通認識も持ちやすくなるだろう」

スティーブは全員を見回した後、
「ただしトモの話しはもしかすると君たちには荒唐無稽、単なる夢物語に聞こえるかも知れない。いや、戯言だという奴もいるかも知れない。しかし俺はここで断言しておく。トモの話しを笑いものにする奴がいたら俺が許さない。今回のセミナーは俺やマイク・マークラらが無理に頼んで実現したものだ」
一息いれたスティーブは少し微笑みながら、
「俺はトモと仕事は勿論それこそ衣食住を一緒に4年過ごしてきた。トモは承知のように多弁ではないが彼と話をした奴は分かるだろう。彼の話すビジョンはときに突飛なことに思えるかも知れないが後で振り返ってみるとその通りになっていることがほとんどだった」

「俺自身驚かされたことが幾たびもあった」
スティーブは思い出すように天井を見上げながら、
「トモと始めて、そう1976年12月に会ったときのことだ。マイクらの支援で俺たちは来年早々法人化することに決めていたが、トモはその日を ”1月3日ですね” といった。俺たちはまだ手続きがどのように運ぶかも分からなかったしマイクと打ち合わせをする前だった。だから瞬間マイクが勝手に決めたのかと怒鳴ったくらいだ」
会場内に笑いが起こった。

「その種のことは創業からのメンバーだった…ここにいるマイクやロッドをはじめクリス、ビル・フェルナンデス、ダン・コトケらには頷くことが大いに違いない」
出席しているスタッフらは近くにいるマイク・マークラやロッド・ホルトあるいはダン・コトケらに顔を向けたがスティーブが名指しで呼んだ人たちがこぞって静かに頷く姿に皆は息をのんだ。

「しかしトモは占い師ではないし予言者でもない。正直彼がどのような理屈でそうした結論に達するのかは俺にも分からないが断言するけどトモは本物のビジョナリーなんだ。彼は技術者ではないが、コンピュータはどうあるべきかを良く知っている、俺たちよりよく知っている。もし彼の思いを俺たちが共有できるのならその実現にはここにいる君たちの力が是非にも必要なんだ。真摯な態度で聞いて欲しい」
スティーブは深呼吸し、
「ではトモ、始めてくれ」
といいながら壇上から降り自分の席についた。

私は緊張しながらもスティーブのいた壇上にあがり、全体を見回した。いやはや錚々たるメンバーたちだ。マイク・スコットやマイク・マークラらAppleの役員らはもとよりだが、ジェフ・ラスキン、ビル・アトキンソンそしてPARCからきたばかりのラリー・テスラーやラスキンのMacintoshプロジェクトに参加したばかりのジョアンナ・ホフマン、バレル・スミス、そしてアンディ・ハーツフェルドらの顔も見えた。

私は現役時代、数十人のセミナーから500人近くも聴衆がいる前でスピーチしてきたから大勢の前で話すことに躊躇はなかった。例えば1993年だったか、私は機会学会の “ScentificVisualization研究会” の講師として招かれ、QuickTimeのテクノロジーに関して講演をしたことがあった。
後でお聞きしたところによれば、そこに参列されていた方々は東大や慶応、東工大の教授や先生方だった。しかし当時アップルのデベロッパーでもあり、かつコンシューマ向けとしては最初のデジタルビデオ・ソフトウェア開発にたずさわりQuickTimeに関しては最先端の情報を得ていた自負もあったから臆することもなかった。
しかしそんな私でも天才、伝説の人たちと語られる大勢の人たちの前に立つのは実に場違いに思えたが、ここまできたらやるっきゃない。

「先般、CIOの職責を命じられたトモヒコ・カガヤです。今日は皆さんそれぞれ大変お忙しい時間を調整し出席いただけたことにまず感謝いたします」
私はそう述べた後、すぐに本題に入った。ただし1時間ほどにもなった話しの全てをここで再現するのは長すぎるし退屈だろうから要点のみを記してみる。

まず今日の話のテーマはパーソナルコンピュータが今後35年ほどの間にどれほどの進化を遂げるかについての考察だと明言した。なぜ40年とか30年という切りの良い数値でなく35年という半端な未来を示すのかについては説明しなかったが、無論それは2016年からタイムワープした私の持つ知識の限界だったからだ。
そしてスティーブも言ってくれたようにこれは占いでもなければ私の個人的な夢や希望ではなく “事実” だと告げ、なぜならそれが歴史というか進化・進歩の必然性だからだと述べた。

「皆さんには釈迦に説法ですが米インテル社の創業者のひとりであるゴードン・ムーアが1965年論文上に示したムーアーの法則が知られています。大規模集積回路の集積度の進化はまずこの通りに進むものと思われます」
断言した私の言葉が終わらない内に小さなざわめきが起こったがすぐに静かになった。
「我がAppleは申し上げるまでもなくパーソナルコンピュータメーカーの雄です。Apple II でこの世界を切り開きホビーにしろビジネスにしろいままでには考えられなかった世界を実現してきました。しかし我々が単に機能が豊富で優秀、そして安価な製品を作るだけのメーカーに甘んじるならあと数年でこの業界から消えてなくなるでしょう」
さきほどより大きなざわめきが起こった。

「Appleは単なるメーカーであってはならないと思っています。確かにコンピュータという最も進化したテクノロジー製品を製造することがビジネスの根幹ですが忘れてはならない1番大切な事があります」
少し遅れて席に着いた受付のチーフ、シェリー・リビングストンが胸の前で軽く手を振ってくれた。
「Appleの使命はハードウェアを開発するだけでなく、それらのプロダクトやサービスでいままでにないユーザー体験を提供することが大切です。ただ珍しいものというだけなら皆さんも経験がおありのように早々埃を被って倉庫の奥にしまい込まれるでしょう」

続いて私はパーソナルコンピュータは人類初の無目的な製品なのだといった。冷蔵庫にはテレビにはあるいは洗濯機にはその目的があるし冷蔵庫に洗濯をさせようとする人はいない。しかしパーソナルコンピュータは計算機としてだけでなく絵を描き音楽を奏で、様々なゲームを楽しむことができる。近い将来には写真の美しさをそのままパソコンの画面で確認するだけでなくその編集までできるようになるし、離れている人たちと気楽に電子メールで情報交換ができるだけでなく相手の顔を見ながら会話することもできるようになる...。
しかしそれだけに目的意識のない人にパーソナルコンピュータを与えても彼・彼女はなにをしてよいのかが分からないし、ましてや何が出来るかも知らない。何が出来るのか、どのような可能性を秘めているのか、ユーザーはどう変われるのかを製品に添えて提供できることがポイントとなる。それにApple II は使いやすく分かりやすい製品であり、ために教育の場でも注目を浴びつつあるが、現行のコンピュータは覚えなくてはならないことが多すぎて決して普通の人が遊び半分で扱えるものではないと論じた。

「ここにいらっしゃる皆さんは世辞ではなく異能な人たちばかりです。したがってご自分をユーザーと見立てた製品設計、製品企画をやってはなりません。このことは人として優秀であるとか無能という違いがあると申し上げているのではないのです。私たちにはそれぞれ役割があり得手不得手もあり、望む世界が違うのです。理想的にはその世界の全ての人たちが目を光らせ嬉々として手にとってくれるような製品を作らなければなりません」

私は座っている人たちの反応をみようと再び100人以上もいるであろう参加者をゆっくりと見回した。
「したがって我々はApple IIあるいは将来の新製品で普通の人たちが何ができ、日常の生活やビジネスにおいてどのような可能性と変化が期待できるかを明確に示す必要があるんです」
話しのスピードを少しあげて、
「ハードウェア・テクノロジーは先のムーアーの法則をベースにICの集積度が飛躍的に向上します。ということは3つの改革が期待できることになります。ひとつはコンピュータの小型化、2つ目は処理スピードの向上、3つ目にコストダウンですね」

続いて私たちはApple II でこれまで大型コンピュータしか知らなかった人たちに机上に乗る小型のコンピュータで多くのことができることを知らしめたこと。しかし35年後の未来を考察するならコンピュータはアラン・ケイ氏が提唱しているダイナブックのサイズを通り越し掌に乗るサイズになること。いや、SFの世界を申し上げるのではないが腕時計がコミュニケーションツールになるのだといった。
しかしそれを実現するためには集積度のさらなる向上、ディスプレイの進化、バッテリーの小型高性能化が是非とも求められることは申し上げるまでもないことだとも…。

会場内にはいくつかため息が漏れ始めた。
私は少しリラックスしてきたこともあり、再び会場内の人たちと視線を合わせながらゆっくりと見回しながら続けた。

「デバイスは小型化するだけではありません。そのタバコの箱より一回り大きなサイズの中に大別して4つの機能が包括されるでしょう。ひとつは無線を使う携帯電話、ミュージックプレーヤー、ネットワークインフラを使う電子メール等の情報端末機能、そして超小型のパーソナルコンピュータとしてアプリケーションやゲームソフトの実行です。さらにこの小型の端末はより新しい世界を作り出す可能性を秘めています。その第一はクレジットカードの情報をこのデバイス内に記憶させ、ショップのレジ近くに設置してある読み取り機にかざすだけで安全にスマートに買い物が出来る “財布のいらない” 時代が来ます。さらに電車やバスは勿論、ドライブインなどでもそうしたデバイスを読み取り機にかざすだけで通過できるようになるのです」

私は手元に用意された水を一口飲んで喉を潤した。
続けてすべてをいま想像するのは無理かも知れないが、こうしたデバイスがAppleからリリースされたら世の中は、いや世界はどのようにかわるのだろうかを真剣に考えるべきだといった。そしてこれまた重要なのは「何かができること」だけではない。いかに直感的に分かりやすく目的の機能を呼び出して実行できるか操作を極力シンプルにしなければならないとも…。分厚い取扱説明書を端から端まで何度も読まなければわからないようなユーザーインターフェースでは誰も使おうとはしないだろうと。我々がこれから相対する顧客のほとんどは技術者ではなく一般的な人たちであり、主婦であったり学生あるいは子供たちなのだから。

「例えば未来の極小・極薄のモニターは当然カラーでプリントされた写真を見るのと同等の精緻な表示が可能になります。そのデバイス自体には物理的なボタンはほとんどなく操作はディスプレイ上の仮想ポイントをユーザー自身の指で触れればそれだけで目的を達することが出来るようになります」
私は強調した…。

続けて、画面上のボタンはデザイン的にもサイズや機能的あるいはその位置もソフトウェアによるものだから自由度が高いことになる。そして単に触れるという行為だけが操作ではないと行った後に、
「いまこの会場の中には Lisa のGUI開発で苦労されている方々もいらっしゃいますが、貴方たちなら理解してもらえると思います。LisaはGUIを持ちその操作の多くはマウスと呼ぶ小型のデバイスを使うことを目指しています。
さて、そのマウスボタンの数をいくつにすれば良いかで苦悩していると聞いてます。数を増やせば一見便利そうですがオペレーションの瞬間にどのボタンを押すべきかでユーザーは迷うことにもなりがちです。
例えばマウスのボタンがひとつだけと仮定してみましょうか。普通に考えればボタンは押すことで目的を果たすわけですからひとつでは役に立たないと思う人もいるかも知れません。ひとつのボタンでは機能というか働きが限られてしまうと考えるのが普通でしょう。そうするとボタンは2つ必要だ、いや3つはあった方がいい…という議論になります」

マウスボタンの数について研究していたラリー・テスラーが思わず我が意を得たりと手を叩いた。
それにつられて周りが和み始めた。

「だとしても我々は固定観念に凝り固まってはなりません。例えひとつだけのボタンだとしてもその操作は押す、長押しする、押したままマウスを移動させる、2回続けて押すといったバリエーションをソフトウェアで認知させそれぞれの機能にわりふることもできることを知っています。いや押さずにある領域にマウスポインタ、すなわちカーソルを置くということも一種のコマンドになり得ます」
ラリー・テスラー、ジョン・カウチそれにビル・アトキンソンら数人が大きく頷いているのが見えた。

それとこうした携帯可能なデバイスを実現するのにはバッテリー駆動が肝心となること。それもフル充電すれば最低12時間程度連続使用が可能な超小型のパッテリーが必要だと話した。

「しかし残念ながら…申し上げるまでもないが現在のテクノロジーではこれらを実現するのは無理です。しかし無理だから関係ないと切り捨ててはAppleに未来はありません。できることからいわゆるデスクトップ機にこうした能力・機能を実現しようとする意志、心がけが肝心だと思います」
この世界にタイムワープして4年にもなるというのに相変わらずつたない英語ではあったが、ゆっくりと話した。

繰り返すが近未来のパーソナルコンピュータは現在のDOS(ディスク・オペレーション・システム)のようにユーザーが暗号のようなコマンドを入力しなければならない操作系では普及に限界が生じるだろうこと。Apple II は大変使いやすいと評価されているが、それでも一般ユーザが理解できることはほんの一握りのことに違いない。
スティーブらと一緒に一昨年の末にゼロックスのPARCへ見学に行ったが、そこで見たことが我々の当面の目標に違いない。無論Altoの真似をすればすむことではないはず。Appleならではの新機軸を多々取り入れて市場の、業界の度肝を抜く製品作りをしようではないかと説いた。
パラパラと小さな拍手が湧き起こり、それが次第に大きくなった。

最後に私は2016年12月6日にタイムワープした際、持参していたiPhone 6s Plusをポケットから取りだした。すでにバッテリーは完全に切れているので起動する心配はなかったし事前にスティーブ・ジョブズの了解を得、私が独自のネットワークを使って製作した未来を予測する “モックアップ” だと称して見せることにしたのだ。

拍手が収まったところで私はそのiPhoneを右手に持ち、壇上から皆に見せながらいった。
「これまでの私の話は通り一変の夢ものがたり、SF、悪い冗談と聞いた人もいるかも知れない。しかし情報の出所は教えられないが正確性を重視した話しだと理解して欲しい。とはいえ話しだけでは面白くもないだろうからここではじめて皆さんに私が話した未来のプロダクト、掌に乗る情報端末とも呼べる製品のモックアップをお見せしたい」
そういうと会場が大きくざわついた。口笛が飛び交い奇声を上げる者もいた。

「遠くてよく見えないかも知れないが、興味のある方はセミナーが終わった後で時間の許す限り手にとって見て欲しい。無論モックアップだから動作するはずもないが、未来のAppleがこうしたプロダクトの実現に努力することこそ世界の覇者になれる道だと信じています。そしてそれが世界中のユーザーの手にポケットにバッグ内に入ることを目標にしようではありませんか」

そう告げた後、続けてこの場では触れるだけに留めるものの、後30年ほど経ったとき、ひとつの重大なキーワードをいかに制することができるかがAppleを含めたIT企業の運命を左右するだろうと話し、それはAI すなわち人工知能だと付け加えたが、これにはほとんど反応がなかった。

「ただし、いまお話しした一連の進化はセグメント毎に…年代順にくぎれるものではなくシームレスにそして一部が重複し繋がっているものです。だからこそ我々も日々の基礎研究を怠ってはならないと思います」
と締めくくった。
「スティーブ、これで私の話を終えるがなにか付け加えることがありますか」
私は満足そうに最前列に座っているスティーブ・ジョブズに話しを向けた。

スティーブは座ったまま首を横に振り、特に話すことはないと無言で意思表示した。
「長い間、静かに聞いていただきありがとう」
私はお辞儀をしながら両手を軽く合わせて合掌した。そして壇からから降りようとしたがその瞬間、壇上に数十人のスタッフらが駆け寄ってきた。無論モックアップとして提示したiPhoneを身近に見るためだ。

ビル・アトキンソン、ラリー・テスラー、バレル・スミスらは明らかに顔色が変わっていた。ジョアンナ・ホフマンは周りに押されたのか羽織っていたカーディガンが片方肩から外れかかっていた。
後にハードウェアの天才と呼ばれるバレル・スミスが我先にiPhoneを手に取って私の顔を見ながら「これって本当にモックアップなの」と聞いた。
頷くしかない私だったが、ハードウェアに詳しい彼から見て精度の高さだけ見ても尋常な作りではないことを察知したようだ。無論iPhoneの背面にはあのアップルロゴが燦然と輝いていたから皆それにも目を見張った。

それはともかくモックアップとして見せたiPhoneの説得力は絶大だった。これを見せなければ何といわれようと彼ら彼女たちの多くは私の話を一種の戯言としか捉えなかったように思う。
後年、Appleのデザインチームは数多くのモックアップを制作して実機への期待度を高め、設計段階だけでは分からない操作性の確認などを行うのが好例となっていくがそれはこの時の教訓を生かしたものだといわれている。ともあれ私はしばらくの間、そのモックアップと称した未来の超小型デバイスについて様々な説明を求められることになり、整合性のある合理的な言い訳に苦労することになった。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト社


[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第24話 Lisa誕生前夜

スティーブ・ジョブズは稀代のビジョナリーであり、未来のテクノロジーを時代の最前列で考え見つめてきたといわれている。しかしその陰には2016年12月6日、アップル銀座のエントランスから40年前のカリフォルニア、ロス・アルトスにあるスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にタイムワープしたひとりの男の存在があった。
ー 優れたビジョナリーといわれたスティーブ・ジョブズ。その若かりし時代の秘密に迫る!ー
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第25話 Lisa誕生前夜
一般的にLisaという画期的なプロダクトはスティーブ・ジョブズらがゼロックス社のパロアルト研究所(PARC)を訪れ、そこで見た暫定ダイナブック...すなわちAlto上で走るSmalltalkのデモを見て触発され開発がスタートしたという話しが知られているが、これは文字通りには正しくない。
何故ならそもそもPARC訪問は1979年末だったが、Lisaという開発コード名でプロジェクトがスタートしたのは同年初頭のことだからだ。

またLisaという名に落ち着くまでには Apple III、Apple 400あるいはLisa 400といった案も根強かったが結局シンプルなLisaに落ち着いた。
それはApple II に縛られないまったく新しいコンピュータを作りたいというスティーブ・ジョブズの考えに基づいた計画だったが、当初は標準的なインターフェースを持った...GUIもなければマウスもない伝統的なコンピュータとして考えられていた。

そのLisaプロジェクトがゼロックス社パロアルト研究所(PARC)訪問後にGUIを持つコンピュータ開発に変わっていったのは自然なことだったに違いない。何しろスティーブ・ジョブズはAltoを見て「人生で最良の物を見た気がするし理性のある人なら、すべてのコンピュータがやがてこうなることがわかるはずだ」と言い放ったからだ。
それらに伴いAppleも新しい人材が必要だった。そしてLisaを完成させるために "宇宙をへこませるために" 個性豊かで異能の持ち主たちがAppleに集まりつつあった。

その頃、スティーブの口から出る言葉には "Lisa" というワードが入らないことがないくらいだったが、私を含めて周囲の人間たちは "Lisa" という名はスティーブが頑なに父親であることを拒んできたクリスアン・ブレナンが生んだ娘の名だと知っていただけになんとも奇妙で口に出しづらかった。しかし当のスティーブは平気だった。

社内でも意見や思いは複雑に交錯していた。無論スティーブ・ジョブズはブレナンが生んだ娘の名であることを認めたわけでもなかった。そしてあのウォズも奇妙なことに同意見だった。
「Lisaがジョブズの私生児の名から取った命名というのは事実ではないんだ。あれは別のキーパーソン、そうケン・ロスミュラーの娘の名から取ったんだよ」
ウォズがなぜこんなガセを信じたのか、あるいは意図的にスティーブをかばおうとしたのかは分からないが、頑なにそう主張していたのは確かだった。
しかし当のロスミュラーは、
「ばからしい話しさ。スティーブほど自尊心の強い男が大切な新プロダクトの名に他人の娘の名をつけるはずはないだろう」
苦笑いしながら私に説明してくれた。その後、ロスミュラーは協力的でないことを理由に解雇されるはめになったが一部ではLisaの名を巡る確執が原因なのではないかとも噂された。そういえばLisaプロジェクトのリーダー、ジョン・カウチの娘の名だといった噂もあったりして混乱していた。

実際ロスミュラーの娘の名はLisaではなかったし、ともあれAppleとしては他の命名をとコンサルタントに依頼もしたが、すでにLisaという名はマスコミに広く行き渡っていたからレジス・マッケンナ・エージェンシーの案で「Local Integrated Software Architecture」の略だと報道されていた。無論それを信じるものなどApple社内ではひとりもいなかったが。

そのLisaプロジェクト開発はPARCでスティーブ・ジョブズらにAltoの紹介をしたラリー・テスラーと同僚たちなどがAppleに入社したことで加速したが、ここでもスティーブの言動がプロジェクトの進行にマイナスの影響を与えると考えたスコッティによりスティーブは早々Lisaプロジェクトから外され、かわりにジョン・カウチがリーダーに任命されたのだった。
この一件でもスティーブとスコッティはバトルを繰り返すことになる。

スティーブは私と二人っきりになると愚痴が多くなった。
「Lisaは発案からコンセプトをまとめるまですべて俺の努力の賜だぜ、トモ。そうだろう」
両手を振り回しながらスティーブは悔しそうに喋りまくった。
「スコッティの野郎は、俺にAppleのスポークスマンに徹しろといいやがる。このままではLisaもApple III の二の舞になるぜ」
私はそもそもスコッティがApple III の二の舞を恐れてスティーブをLisaプロジェクトから外したことを知ってるだけに笑いを押さえるのに苦労した。

ただし現場の雰囲気はスティーブが考えているものとはかなり違っていた。ラリー・テスラーやジョン・カウチなど学位を持った技術者から見てスティーブ・ジョブズの存在はAppleの創業者、企業家として尊敬するにしても製品開発に関しては耳を傾けるべき意見ではないと受け流された。中には技術者でもない奴が (なにほざいてるんだ) とストレートに批難する人もいてそれがまたスティーブを苛立たせた。要はビジョンを共有できなかったのだ。

さて、私はラリー・テスラーがAppleに入社したのを聞き早速彼のオフィスへ挨拶に向かった。
ドアは開いており、足音で振り向いたラリーは一瞬驚いたような表情をしたもののすぐに笑顔で入るように促した。
「ご挨拶が遅れました。トモヒコ・カガヤです。以前PARCではお世話になりました」
私は軽く会釈しながら右手を差し出した。
「新米のラリー・テスラーです。トモヒコさんよろしく」
ラリー・テスラーは私の右手を握り返しながらいった。
「まだ資料などの整理が終わってないんだ。散らかってるけど座れる椅子に腰掛けてください」
ラリーの勧めで私は空いていた背もたれがない椅子に腰掛けたが、
「いや、僕の方からカガヤさんのところへ挨拶に行こうと思っていたんですが、先を越されました。ラリーと呼んでください」
といった。
私も (トモって呼んで下さい) といいながらオフィス内を眺めた。彼の持参したものは膨大な資料のようだがそのほとんどは書籍とファイリングされた印刷物のように思えた。

「凄い量ですね」
私の問いにラリーは苦笑いしながら、
「まだまだ整理には時間がかかるが、ちょうど一休みしようと思ったところです。コーヒーでも一緒にどう」
と気楽に対応してくれた。このときテスラーは35歳だったが、生まれた年は私より3年前の1945年のはずだ。しかし私が2016年からワープしたこともあって変な感じだが彼は私の年齢の半分程度だった。

オフィスの隅にあったコーヒーサーバーからカップを2つ持ち、
「何の変哲もないコーヒーだが、何もないよりはましさ」
ラリーは笑いながら私にコーヒーを勧めた。

私は (ありがとう) とコーヒーカップを受け取りながらながらまずは聞いてみた。
「テスラーさん、いやラリー、早速たたみ込むようで悪いけど貴方はなぜAppleに来る決心をしたんですか」
ラリーは微笑をたたえながらこれまた椅子に座り、私の問いが意図していたことのようによどみなく話し始めた。
「それはあなたたちがPARCを訪問したのがきっかけなんです」
一呼吸入れたラリーは、
「これは相棒のアラン・ケイとも意見が合ったんだけど、僕らの研究を一番正当に評価してくれたのがあなたたち...Appleだということに気づいたからといったらいいのかな」
私は無言で先を促した。
「僕は1973年にPARCに入ったんだが、沢山の人たちにAltoとSmalltalkのデモを見せました。それも僕たちの大切な仕事だったからです。アラン・ケイの言い方でいうならダイナブック構想を現在出来うる最良の形で実現したマシンがAltoだと僕たちは自負していたし可能な限り興味のある方に見せて感心を引きたかったんですがそもそもゼロックスの反応は冷たいものでした」
「無論あなたたちの目標はAltoの製品化だったわけですね」
頷きながらラリーは、
「面白いように、というと語弊があるけどAltoをビジネスに繋げようと考える人は絶無でした」
「でもスティーブをはじめ、我々が驚き (これだ!) と思ったのだから、誰か同じように考えた人はいなかったんですか」
私はずっと気になっていたことを聞いてみた。
「いや、見学に来る人たちは様々だったことは確かですよ。一流といわれる学者から研究者たち、無論企業からも見学者は多々いたけど、ほんとに僕たちもいらいらするくらい (これが欲しかった) といってくれる人はいなかったんです」

ラリーはコーヒーカップを積んであるダンボール箱の上に置きながら、
「あなたたちの反応を見て僕が働く場所はAppleしかないと本当に思ったんです。やはり仕事というものはきちんと評価してくれるところでやりたいものです。僕の年齢を考えてもいまが一番働き盛りだと思うし」
(当然でしょう)というように微笑んだ。

突然ラリーは、
「僕の方からも質問があるんだけどいいですか」
申し訳ないような顔でいった。
私は (なんなりとどうぞ) というしかない...。
「失礼な質問だとは承知していますが」
ラリーは断りながら、
「Appleの中でトモ、あなたの存在は異質に思えるんですよ。これはアラン・ケイも同意見でした…。ケイはなんか思うことがあるらしく僕にも話してくれなかったが、ともあれあなたは創業時代からの社員なんですか」
私は頷きながら苦笑するしかなかったが、
「それは私がAppleの中で浮いた存在だということかな」
そういうとラリーは慌てて、
「いやそういうことではないんですよ。しかし口火を切ったのでいわせて貰うけど、Appleは出来たばかりの企業...数年前までガレージカンパニーでしたね。新しい時代の新しい会社ですから皆若い人たちばかりと思っていました」

なるほど、そういう話しかと私は少し安堵した。
「いや、本人の口から言うと実に嫌みに聞こえるかも知れないけど、確かに私のような高齢者は特例のようです」
それは成り行きなのだから仕方がなかったがタイムワープの事実を話すわけにはいかない。
私は1976年12月にスティーブ・ジョブズに出会い一緒に仕事を始めたこと。確かに彼らとは大きく年が離れているがそれゆえに異能な存在として扱われていることなどを話した。

口を挟まず最後までラリー・テスラーは私の話を聞いていたが、
「なるほど、実は僕もここに来てトモ、あなたのことを様々な人たちにあれこれ聞いてみたんです」
彼は空になったコーヒーカップに再び一杯コーヒーを注ぎながら続けた。
ラリーいわく、Appleの社員たちは口を揃えて実に私は不思議な存在だというらしい。スティーブ・ジョブズの直轄でもあるが敵がいない、素性や経歴を誰も知らない、分かっているのは日本人であることと年齢くらいだと笑う。そして技術者でもなく事務方でもない独自なポジションをAppleの中で勝ち得たただひとりの人という評価らしい。
なによりもあの五月蠅いスティーブ・ジョブズに全幅の信頼を勝ち得ている人間というよりスティーブ・ジョブズが一目置いている不思議な人物だと言われているという。
(なるほど、こうしたこともあってスティーブは私にセミナーをさせ、一種のガス抜きをしようと考えたのか) と納得した。

「少し前にスティーブ・ジョブズから命を受け私は “Chief Information Officer” という役職についたばかりなんですよ」
私の説明をラリーはあまり納得していない様子だった。
「なるほど、しかし失礼ながらあなたの待遇としては遅きに逸した感じがするなあ」
とラリーは悪戯っぽく笑った。

ラリーは2杯目のコーヒーを飲み干しながら聞いた。
「そういえばあなたがPARCを去るとき私に言った言葉を覚えていますか」
私は (なんといったのかな) と記憶をたどった。
「あなたは (今度会うときは一緒に仕事をしよう) といったんですよ。妙に耳の底にその言葉が残っているんですね。それがAppleに来る引き金になったんです」

「それに」
ラリーは一呼吸おいてから、
「その言葉と関係あるのかも知れないが、あなたは未来が見える特殊能力があるという人も複数いました」
ラリーの目は笑っていなかったが、私がどう答えるかを楽しんでいるようにも思えた。
「これまた変人と見られているいう証拠かな。スティーブがそんなことを言いふらしているようですね。しかしラリーあなたがAppleに来たのはあなたご自身の決断であり意志に間違いないわけです」
そう誤魔化すしかなかった。
「う~ん、トモあなたにはきっと私らにはわからない情報収集能力とそのソースをお持ちなんでしょうね」
ラリーは科学者らしいいいかたでその場は和やかに過ぎていった…。

確かに私の存在は十数人のガレージ時代にはスティーブの一言でそれこそ特別な存在として認知されたがすでにAppleの従業員は千人をはるかに超えていた。その中で特別というより異質な人間が存在すること自体おかしなことに違いない。そろそろ今までのように成り行きでAppleに在籍するのには無理があるのかも知れないしスティーブから先日受けたセミナーの依頼もそれらを気にしてくれた結果に違いない。

ところでLisaの開発陣は苦悩していた。それでもラリー・テスラーはビル・アトキンソンと共にLisaのユーザーインターフェースに関わる基本原則を定義し始めた。
多くの天才や鬼才がAppleに集まり始めたことにスティーブは、
「Appleはエリス島のような会社なんだよ、トモ。つまりだ、他の会社から移ってきた人たちによって成り立っているんだ。それぞれ個人的には皆超一流の頭脳を持っているんだが、それゆえ他の会社ではトラブルの元になるような連中なのさ」
と、どこか他人事のようにいった。

しかしスティーブの懸念はある意味では的を得ていた。ジョブズがLisaプロジェクトから離れざるを得なくなった1980年以降Appleは大きく変化していった。ましてやジョン・カウチの元で天才たちがそれぞれの能力を十分発揮し協力体制が確立できたかどうかは疑問であり、その開発の進め方は良くも悪くもすでにAppleらしさの欠如はもとより経営陣と技術者たちとのビジョンには大きなズレが生じていた。

※1892年1月1日、アメリカ合衆国アッパー・ニューヨーク湾内にあるエリス島に移民局が建設されヨーロッパ移民たちが踏み入れる最初のアメリカとなった。そして名高い自由の女神像は1892年から1954年まで機能していた当該移民局のあったエリス島の近くの島にある。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト社


[小説]未来を垣間見たカリスマ 〜 スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第23話 ラスキンのMacintosh

加賀谷友彦は2016年12月6日、久しぶりに出向いたApple銀座の店頭でiPhoneのホームボタンを押した瞬間目眩にに襲われた…。思わず座り込み気がついたとき彼はタイムワープし40年前のカルフォルニア、ロス・アルトスのスティーブ・ジョブズ家のガレージ前にいた。そして彼はスティーブ・ジョブズらと一緒に働くことになった。
※本編はフィクションです※

■第1部 ー 第23話 ラスキンのMacintosh
これまた1981年の年明け早々だったと思うが、クパチーノのとあるコーヒーショップで少々遅いランチ代わりの軽食を取っていたとき、あのジェフ・ラスキンがテーブルの前に立っていた。
「トモヒコさん、ご一緒していいですか」
その髭面の顔からのぞくふたつの眼は少々疲れているように思えた。

「勿論ですよ。私はひとりですから、ご遠慮なくお座りになってください」
私は対面の椅子に座ることを勧めた。
「あなたも一休みですか」
私は話しのきっかけをつくろうと差し障りのない問いを発した。
「ええ、ちょっと資料を探しに出た帰りだったんですが、あなたが店内にいらっしゃるのを見て声をかけさせてもらいました」
ジェフ・ラスキンは教師をしていたとかで心地良い声と明解な話しっぷりの男だった。私は (ああ、ラスキンは音楽家でもあったなあ) と考えながら相づちのつもりで笑顔を返した。

そのときの彼は黒っぽい服を着ていたし、無造作に生えたままにしているような髭もまだ真っ黒だったからどこかの宗教家のようにも見えた。それだけ見かけは温和で紳士だったが内に秘めた熱いものを閉じ込めているのがわかった。
「楽しい話しでなくて恐縮ですが相談にのってもらいたくて」
それまで社内では挨拶程度しかコンタクトしたことがなかったので私はどう対応したら良いかを考えながら、
「まだしばらく時間がとれますから、私で良かったらなんなりとどうぞ」
と返答した。このときラスキンは38歳だったが、年齢よりずっと老けて見えた。

「Macintoshプロジェクトのことなんです」
ラスキンは私と視線を合わせて静かに話を切り出した。
歴史を知っている私はどんな内容なのかはすでに承知していたが、まずは彼がどのような話しをするのかを聞いてみたくてうなずき先を促した。
「あなたはもっともスティーブに近い存在と知っているしジェントルマンだと見聞きしていますので是非アドバイスをと思いまして」
やはりラスキンとてストレートに話しを切り出すのは憚れるようだった。

「スティーブがあなたのプロジェクトの邪魔をしているようですね」
私の方から核心をついた物言いをしてみた。
大きな体のラスキンは小ぶりな椅子に座りにくそうにしながらテーブルに一瞬目を伏せて話し出した。
「ええ、私がするはずだったプレゼンテーションをスティーブは (中止になった) とふれ回って妨害しようとしたこともありました。もともとスティーブはLisaに関わっているときは (お前のプロダクトはAppleのビジネスの邪魔をすることになる) と猛反対でした。しかしご承知のようにLisaチームからスコッティに追放された後、やることがなくなったからでしょう、私のプロジェクトに顔を出すようになりました」

いまではMacintoshはMacと呼ばれ、Apple製品の根幹となっているがそもそもはジェフ・ラスキンがほそぼそと始めたプロジェクトの名前だった。
Macintoshという名はAppleという社名にならい、ラスキンが好きなリンゴの種類であるMcIntosh (和名:旭)から取った名前だったがどうやらラスキン自身なのかあるいは別のスタッフなのかはいまとなっては不明だが、スペルを間違ったのがそのままコンピュータの名前として認知されるようになってしまったといわれている。

「最初プロダクトに反対していたスティーブもしばらく後に顔を出したときには私と同じ考えを持っていたこともあって話しが合ったんです」
私は少々意外だという気がして首を傾げた。
「Macintoshはなにもかも必要なすべてを缶詰のように詰め込んだアドオンなしで使える1000ドル程度の製品を目指しています。マシンの電源を入れたら小難しいコマンドなど入力しなくてもすぐに使えるしポータブル性も高い製品なんです」
オーダーを取りに来た店員にコーヒーを注文したラスキンはグラスの水で口を湿らせて続けた。
「私のMacintoshはApple II のような拡張スロットもありませんしグラフィックスも不要、マウスも採用するつもりはありません。とてもシンプルなマシンなのです」

私は後にラスキンがAppleを去った後、そのラスキンの思いをキャノンで製品化したという「Canon Cat」を思い出していた。1,2度しか触ったことがなかったので詳しい事は知らないが1984年にリリースされたMacintoshに夢中になっていた時期でもあり地味なOAマシンといった印象しかなかった。

ラスキンの声が私の回想を現実に戻した。
「そうしたシンプルさはスティーブの考えている理想のマシンに近いと賞賛してくれました。彼がApple II の拡張スロットに反対だった話しはよく知られてますしね。私のトースターなみに使いやすいコンピュータというコンセプトも気に入ったようでした」

この1981年という年はスティーブ・ジョブズにとって内に抱えた膨大なエネルギーのはけ口を失っていた時機だった。Lisaプロジェクトから外されたものの会長という役職に就任していたし株式公開で莫大な金も手にした。世の中で自分の思い通りにできないことはないといった意気込みだったに違いない。
そうしたスティーブにとってラスキンがこつこつと進めていた小さなプロジェクトは格好の標的だったのだ。

ラスキンは姿勢を正して続けた。
「そもそも私がAppleで働くことになったのはあなたもご承知だと思いますが1977年に私の小さな会社ごとスティーブが買収し私はドキュメンテーション制作を任されたわけです。ですから私はスティーブ・ジョブズという男を毛嫌いするつもりはありませんでした」
すでにテーブルにあるコーヒーは冷めていたが、ラスキンはそれを一口二口飲んで、躊躇いがちにまた話し出した。
「スティーブは最初自分はハードウェアを担当する、だから私にソフトウェアを担当しろといいました。申し上げるまでもなく彼はAppleの会長ですし私は一介のドキュメント部門のマネージャーに過ぎませんから面と向かって拒否するわけにもいかなかったんです」

ラスキンは意識してセーブした話し方をしていたのか、次第に両手をテーブルの前に突きだしながらオーバーアクションも見せ始めた。ただし私は形だけだとしてもCIOの肩書きを持っている人間だからだろう、ラスキンは終始紳士的で丁寧な話し方を崩さなかった。
「確かにスティーブがプロジェクトに加わることは良い面もあったのです」
「あ、聞きました。予算面で援助が増えたとか」
私はスティーブ・ジョブズ本人から聞いた話しを思い出しながら口を挟んだ。
「そうなんです。しかしバレル・スミスが苦労して作ったマザーボードを見ていきなり (CPUを68000にしろ) とスティーブが言い出しまして」

ジェフ・ラスキンは現状の危惧を私に訴えながらスティーブ・ジョブズの介入を阻止あるいは緩和する策はないものかと核心に入った。しかし繰り返すが会長と一介の社員とでは現実問題喧嘩にもならなかったし、社長のスコッティもスティーブがMacintoshプロジェクトに頭を突っ込むのはAppleとして悪いことではないと考えていた。
なぜならLisaの開発にちょっかいを出さないでくれるのであればMacintoshプロジェクトにどのような影響があったにしても大した問題にはならないと考えていたようだ。

私はジェフ・ラスキンを前にして良策を即答できる問題ではないこと、スティーブ側の思惑も確認してなにかできることがあれば知らせようと返事をした。
その後私もCIOという立場からMacintoshプロジェクトの進捗状況に注視していたが、スティーブの参加はチームの士気を鼓舞していることは確かだった。なにしろスティーブは資金を集める力も、数少ない開発用機器やそのスペースをぶんどる力も、そして優秀なスタッフを他部署から引き抜いてくる力も持っていた。

このMacintoshプロジェクトはその年のクリスマス間近になったときその動きが急に激しくなった。何故ならバレス・スミスが68000を使った設計の目処をつけたからだ。これがスティーブの感性を激しく揺さぶった。
68000ならLisaと一緒にGUIもマウスも採用できるはずだしMacintoshはクロックもLisaより速いという。それにLisaは数十人のエンジニアたちが手を染めていたし数枚の回路基板とカスタム・コンポーネントが使われていたものの依然開発に苦慮していた。対してスティーブの目の前のMacintoshは回路基板が1枚で価格はLisaの数分の1で可能なのだ。

それを知ったスティーブはこのマシンは (第2のApple II になる) という確信を得たようだ。さらにLisaチームに、そしスコッティに一泡吹かすことができると踏んだのだ。
Macintoshチームのマーケティング担当だったジョアンナ・ホフマンに近況を聞いたとき彼女は近頃スティーブの目が輝いているといいつつ、
「トモ、確実にジェフに暗雲が立ちこめているわ。私の勘では近々スティーブが実力行使し自分の思うものを手にすると感じるの。だってあんなに地味なMacintoshプロジェクトだったけど今では後光が射しているもの」
少し変わったイントネーション、そして情熱的な高い声のジョアンナは心配そうにしかしどこか愉快だと感じているような複雑な表情をしながら私に語ってくれた。

後年ラスキンを「Macintoshの父」と称する人たちもいるが、ラスキンの思いはその名前だけしか残っていない。コンセプトもデザインもそしてユーザーインターフェースもラスキンの描いたものとはまったく違った製品でしかなかった。そしてことの是非はともあれ1984年1月24日、正式に発表されたMacintoshはまさしくスティーブ・ジョブズのマシンだった。

(続く)

【主な参考資料】
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「スティーブ・ジョブズの王国」プレジデント社
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版刊




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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員