Lisa 筐体デザイン再考

些かタイミングを逸したが1月19日(1983年)はLisaが発表された記念日である。そのLisaをあらためて現在の視点から眺めると30数年前に羨望の目で見ていた印象とはかなり違った思いを抱く...。あくまで本体のデザインや製品の作りといった点においての感想だが、今回はそんなお話しをしたい。早い話がLisaはデザインでもAppleらしからぬ愚行をやっている...。


Appleといえばデザイン、デザインといえばAppleといった感がする昨今だが、Appleのいうところのデザインは決して形だけを意味するものではなく使い勝手や機能までをも含む意味合いを含んでいる。とはいえAppleが作ってきたパソコンたちがすべてそうしたデザイン的に優れていたのかといえば...そんなことはない...。

Apple II のケースにしてもタイプライターを思わせるシンプルで実用的なデザインではあってもそのデザインは現在の視点からは観るべき点はあまりない。ケースに収めたということ自体が当時として斬新だったのだ。そしてApple III は贔屓目に見てもよいデザインとは思えない(笑)。ではLisaはどうなのだろうか...。

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※当研究所で常に可動状態にあるApple Lisa 2/10


Lisaの...あくまで製品の筐体デザインに関していうなら、これまた素敵とは申し上げられないだろう。スティーブ・ジョブズもカンチレバー上に突き出たスクリーンを持つその両サイドの形状を額が狭い原始人に例え「クロマニョンルック」と批判したという(笑)。

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※スティーブ・ジョブズが「クロマニョンルック」と批判したカンチレバー上に突き出たスクリーンを持つLisa


確かに横からのフォルムは顎が突き出た人の顔のようにも見えるが、スティーブ・ジョブズが心血を注いで開発したMacintoshだって横からのフォルムは程度問題で似たようなものだ...。

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※Macintosh 128Kのサイドデザイン。程度の違いはあれどLisaのサイドデザインと似ている


当ブログではこれまでにもLisaのあれこれに関して考察してきたが、今になって思えば商業的に失敗したその理由は決して1万ドルという高い値付けだけではなかったように思う。
最初に思うことはやはりその筐体のサイズだろうか...。ブラウン管式のディスプレイ、その横に2台の5.25インチのフロッピーディスクを装備し(Lisa 2になってからソニー製3.5インチを採用)当時としては広大な1MBのメモリを搭載したマシンは時代の壁は崩せずどうしてもこのサイズになってしまうのだろう。何しろLisaより1年後に登場したMacintoshのメモリはたったの128KBだったしLisaと同様な1MBのメモリを実装したMacintosh Plusは1986年にならないと登場しなかった。それだけLisaは進んだ設計ではあった。
したがって筐体のサイズがでかくなるのは仕方がないとはいえ、いくらアメリカのエグゼクティブの机が大きいといってもおいそれと乗せるわけにもいかないだろう。

例えばそのメモリだが、512KBのメモリボードを2枚装備して1MBを実現していたがその512KBのメモリボードのサイズにしても今では考えられないほどに基板が大きい。現在ならご承知のように204ピンのSO-DIMM規格では幅:67.60 mm x 高さ:30.00 mmといった小さなボードに数GBものメモリ容量を乗せることか出来る。

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※Lisaの基盤ユニット。手前の2枚がそれぞれ512KBのメモリボード


そして最大の間違いはProFileと呼ぶ5MBの外付けハードディスクの選択だ。
後にLisa 2/10 とマイナーチェンジされてから10MBのハードディスクが内蔵されたが、この外付けProFileはなんとも不細工だった。いやそのデザインとか外付けが...ということではない。当時として技術的な限界もあったし制約もあったから闇雲に批判するつもりはないしProFile単体で見るならこれはこれで素敵でもあると思う。

私が批判するのはLisa本体を考えた上でのProFileのデザインとサイズである。
このProFileは一般的にLisa本体の上に乗せられて利用することを推奨された。無論別途机上に置いても問題はないがそれだけスペースを要するわけで、Lisa本体の上に乗せるのがスタイルとされたしAppleのカタログの多くにもそうした形で写真が載っている。

問題は実際に置いて見ると実に見栄えが悪いのだ。それは単純にProFileの横幅とLisaの横幅が違うからである。なぜこんな事になったのだろうか...。それはこのProFile、そもそもApple III 向けに開発されたものであり、それをそのままLisaにも流用したからである。

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※本体側面に合わせてProFileを置いて見るとサイズの違いがよくわかる


スティーブ・ジョブズは早い時期にLisa開発のプロジェクトから外されたがためにジェフ・ラスキンが企画を進めていたMacintoshプロジェクトに頭を突っ込んだことはよく知られているとおりだ。ただしLisaの開発とMacintoshの開発はリリース時期を競い合っていただけでなくシステムソフトウェア類にしても情報の行き来はあったようだしプログラマーのビル・アトキンソンらは双方掛け持ちで仕事をしていたようだ。

しかし少なくとも強力な発言権がスティーブ・ジョブズにあったならProFileをそのままLisaに使うという愚行はしなかったのではないだろうか。ゼロから作り直すというリスクは犯さないにしてもせめて筐体のサイズはLisaの横幅に合わせてつくり直させたのではないかと想像しているのだが...。

そしてLisa最初のフロントデザインは当然のことながらキーボードやマウスとボディの面取りのデザインなどで共通性があったもののProFileは先の理由によりLisaの純正周辺機器としての主張は弱くなっていた。さらに後に価格を低く抑え、フロッピーディスクをMacintoshと同じ3.5インチのもの一基に変更したフロントは殺風景になったためだろうか、初期デザインにはなかった11本のスリットを入れた。

このスリットは向かって右側にフロッピーディスク上部へハードディスクを内蔵したモデルも用意したことでもあり、本体内の熱を逃がす目的も兼ねてはいるが、如何せんProFileはもとよりキーボードやマウスとのデザインの統一性は完全に崩れたといってよいだろう。

こうして34年も時を超えて現在の視点から見るとLisaという画期的なコンピュータはApple社内の覇権争いに巻き込まれ当初の理想を様々な意味で歪められたように思われる。
とはいえLisaがなかったらMacintoshもなかったし、Macintoshに刺激されたビル・ゲイツがWindowsの開発に着手することもなかったか…あったとしても現在のパソコンの状況とは随分と違った結果になったと思われる。

Lisaは商業的には失敗したパソコンであったし、その斬新的な仕様すべてがAppleのオリジナルであったとは言わないが、いわば現在のパーソナルコンピュータの母なる存在と言ってよいコンピュータだったことは間違いないのである。

【主な参考資料】
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オイラリー・ジャパン刊
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」(上) アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊






CASIO QV-10物語

手元に1995年に発売されたカシオ計算機のデジタルカメラ QV-10と数十枚の撮影データが残っている。そういえば忘れていたが昨年2015年はQV-10誕生から20年たったことになる…。今回はその一世を風靡し一般ユーザーにデジタルカメラというテクノロジーを知らしめたこの製品を振り返ってみたい。


デジタルカメラが一般市場に投入されたのは1990年のDycam社、1993年の富士写真フイルムそして1994年にAppleが発売したQuickTake100だった(製造はコダック)が、この新しい市場を活性化し我々にデジタルカメラの可能性と面白さを示唆してくれたのは1995年に発売されたカシオ計算機のQV-10だった。画素数は25万画素で定価6万5,000円だった。

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※CASIO デジタルカメラQV-10。当研究所所有


当時のMacintoshユーザーにとって前年に本家からリリースされたQuickTake100は多大な興味と期待を持って迎えられたが、35万画素で高画質設定だと内蔵メモリに8枚しか記録できなかったし液晶ディスプレイもなかった。なによりもアップルの販売戦略が現実的な性能に追いついてなかったことから広い支持を得られずにいた。

その辺の雰囲気は別項「Apple QuickTake100 リリース前秘話」を参照いただきたいが、使い勝手と入手しやすい価格を武器に市場に登場したQV-10は話題を独占した。結果としてQV-10はその後のデジタルカメラ市場が急速に発展する起爆剤となったのである。

コンパクトで軽いQV-10は携帯しやすくポケットやバッグに忍ばせて持ち歩くのに最適だった。時代は現在のように携帯電話にカメラ機能が搭載される遙か以前のことだから、小型で軽量そして扱いやすさは重要なことだった。しかしQV-10の特長は別途二つあった。
ひとつは液晶ディスプレイを搭載していたことだ。光学ファインダはなかったが、液晶面に映った範囲が撮影されるというわかりやすさは抜群だった。

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※所有のQV-10は電池を入れれば完動品だ


もうひとつが今で言う自撮りが可能な仕様で、レンズ部位がくるりと180° 回転できるのが魅力だった。無論デジタルカメラだからしてフィルムは必要なく単3乾電池4本を使い、320×240ピクセルのデータが96枚内蔵メモリに納めることが可能だけでなくパソコンと付属のケーブルで接続することで撮影データを転送することが可能だった。
以外と見落とされているかも知れないが、この家庭にも普及が進んできたパソコンとの連携もQV-10の可能性を広げたのではないだろうか。

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※レンズ部位がくるりと180° 回転し自撮りもできた


さて記憶と記録を整理してみると私はこのQV-10を当初買わなかった。QuickTake100があるという以前にキヤノン製のアナログ記録(専用フロッピーディスクに)を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群を仕事で使っていたしQuickTake100も同様だったがその画質は実用的レベルに達していないと考えていたからだ。ただし翌年の1996年1月にMacworld Expoサンフランシスコに出かけた際に気持ちが大きくなったのか(笑)オモチャとしてもどれだけ活用できるか試してみようと展示販売ブースがあったのでそこで購入した記憶がある。

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※1994年発売のApple QuickTake 100。当研究所所有


カメラとしてはその画質は印刷するにはまったく適さなかったが、撮影後に即液晶ディスプレイ上に再生して周りの人たちと話題を共有するといった使い方は従来の銀塩カメラには出来得ない世界を作り出した。いわゆるコミュニケーションツールとしては抜群の魅力を持っていた。

Expo会場で購入した当日から早速同行した会社のスタッフに持たせて撮影を任せてみたが、会場内で数度「それはなんだ?」と呼び止められ、新製品のデジタルカメラであることを告げると「見せて欲しい」と言われたという。事実その一例を付近で8mmビデオカメラを回していた私が撮影した記録が残っている。

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※サンフランシスコのExpo会場内で私の会社の女性スタッフが使っていたQV-10を嬉々として手にしている男性。Expo期間中、同様に数回声をかけられた


QV-10は320×240ピクセルの撮影が基本だったが補間拡大した640×480ピクセルも可能だった。そして約2MBの内蔵メモリに96枚納めるために専用のアクセラレータチップで1/10の容量に圧縮しフラッシュメモリにCAMイメージとして保存された。
距離合わせは「標準」と「接写」を、絞りは「F2」と「F8」の2段階に切替スイッチで設定する。後は液晶モニターで被写体を確認してシャッターを押すだけだ。

ここであらためてQV-10の詳細な使い方やスペックは記さないが、いま思うとQV-10がヒットしたのは遊びの要素を忘れなかったこととオールデジタルの強みを活かしたプロモーションが成功したものと思われる。その点、繰り返すが従来からの銀塩カメラに及びもしないスペックなのにDTPやらを指向したQuickTake100は販売戦略の方向性を間違ったのだ。

QV-10の長所と短所を知り尽くし、従来のカメラとの比較がどうのこうのといった御託は横に置いて、QV-10を楽しんで使い回そうというコンセプトの本が1995年10月に早くも登場する。筆者はご存じの方も多いと思うがあの大谷和利さんだ。
フロッピー付きのこの1冊...「QV-10 FUN BOOK」(アスキー出版刊)を見れば文字通りQV-10の面白さとユニークさ、そしてデジタルカメラとはどのようなものなのかが自然に身につくように思える。

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※大谷和利著「QV-10 FUN BOOK」(アスキー出版刊)


未完成な部分も否定せず、それを好奇心と熱意、そして工夫で補おうとする心意気に充ち満ちた1冊だった。そもそもQuickTake100にこうした取り組みがあればまた別の展開もあったような気がするが、アップルの戦略間違い、市場に対する認識不足はどうしようもないレベルだった。

アップルファンの1人としてはデジタルカメラとしてQV-10より先鞭をつけたQuickTakeにもう少し業界をリードして欲しいと思ったが、ユーザー視線を的確に捉えていたカシオ計算機の戦略には及ばなかったということだろう。

私はといえば繰り返すが、幸いなことに創業時からスチルカメラをはじめQuickTake100は勿論、リコー、キヤノン、富士写真フイルムといったデジタルカメラメーカーの開発陣の方々とお付き合いし、関連アプリケーションを開発していた関係上、最先端の情報を知り得ていたし当時はまだまだ銀塩カメラに遠くおよばないものの近未来は必ずや銀塩に近づき追い越す事を確信していた。

1996年か1997年だったか、札幌で開催した恒例のプライベートイベント「Macintoshの匠たち」で私は近い将来は使い捨てカメラの "写ルンです" ももしかしたらデジタルになるかも...と予言した。その予言は外れたが(笑)それだけデジタルカメラの勢いは増すだろうと考えた...。
ちなみにその "写ルンです" は今年2016年で発売から30周年となる。そしていま思えば、QV-10は一般ユーザーにとって肩肘を張らずに簡単に扱えるという意味において、オールデジタルカメラ界の "写ルンです" だったようにも思える。

取り急ぎQV-10で撮った640×480ピクセルの写真の中でまずまずの例をいくつかご紹介してみよう。ただし当時はパソコンモニターの解像度も現在とは違うのでユーザーの印象もかなり違うはずだ。また今回急ぎJPEGに変換する過程で縦横数ピクセルの誤差が出ているかも知れないがご容赦いただきたい。まあ、こんな解像度だったのか…が分かっていただければ幸いである。

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※QV-10で撮影したデータを640×480ピクセルで保存し、JPEGに変換した例【クリックで実寸に拡大】


ということで、現在のデジタルカメラ隆盛の時代しかご存じない方から見れば当たり前に思えるだろうが、例えば iPhoneであれだけ美しい写真が撮れるのはQV-10が登場した時代には文字通りの夢物語だった。
銀塩カメラを生産してきた企業もこれからデジタルカメラの開発に力を入れるべきなのかを真剣に迷っていた。デジタルカメラ事業に力を入れ、それが成果を上げればあげるほどこれまで企業の基盤となってきたビジネスが崩壊するのは目に見えていたからだ。

またカメラの...写真のプロフェッショナルたちの間でもデジタルカメラの評価は二分されていた。これはオモチャであり到底こんなものは仕事に使えるはずもなく、進化したところで銀塩フィルムをしのぐことはできないだろうという専門家もいた。
反対に解像度はイマイチでも撮影した写真(データ)を即利用できるデジカメはニュースを追うカメラマン達に希望を抱かせた。世界のどこにいてもインターネットやパソコン通信を介して特ダネ写真をたちどころに送れるからだ。

QV-10の成功がひとつのきっかけとなりデジタルカメラ戦争は火ぶたが切られた。リコー、ソニー、キヤノン、ミノルタ、ニコン、セイコーエプソン、富士写真フイルム、京セラ、オリンパス、ペンタックス、松下電器産業などの世界有数のカメラメーカーや光学機器メーカーあるいは家電メーカーまでもが日々高性能なデジタルカメラの開発を進めていったのだった。
当のQV-10だが2012年9月4日、国立科学博物館より第5回重要科学技術史資料(通称=未来技術遺産)として登録された。




テレビ東京「Pコング」出演の思い出

昨年末、とある忘年会で「松田さんテレビに出演したことはあるんですか?」と聞かれた。かつてのマイクロ企業時代は本を出し新聞や雑誌に多々載ったことを知ってのことで、彼はどこか「TVには出てないだろう...」という期待感?があったようだが、残念でした...1992年7月15日にテレビ出演を果たしているのだ(笑)。


えらく昔の話で恐縮だが、そういえば…と後でその番組のことをウィキペディアで調べようとしたが、あらら…マイナーな番組だったのか、あるいはインターネットもない時代の出来事だったからか、記載がほとんどないことに驚いた。何しろ司会の "くず哲也" さんで検索しても彼のテレビ出演番組リストにさえ記載がないのだ。これは記録という意味でも一言残しておこうと今回はその番組出演の思い出を綴ってみる。

時は1992年、起業したばかりのマイクロ会社がやっと丸1年少し経ち、先行きへの道筋が見えてきた頃だったが毎日はとても忙しかった。オリジナル製品の企画から販売はもとより、大企業からの開発依頼への対応、そしてイベントへの出展依頼や雑誌等の取材が切れ目なく続いた。そしてなんとテレビへの出演依頼も舞い込んだのである。友人たちは私がカメラの前で “しどろもどろ” になるのを楽しみにしていたそうだが放映後「何であんなに落ち着いて笑顔なんだ!」と呆れていたことを思い出す(笑)。

時代はパソコンがマニアだけのものでなくビジネスへも浸透し始めた頃だったが、パソコンを題材にした番組が生まれ始めた頃でもあった。確か「パソコンサンデー」とかいう番組が知られていたと思う。
さて1992年6月、テレビ東京の深夜番組だった「Pコング」という番組から出演依頼が舞い込んだ。私はその番組は知らなかったが司会はくず哲也さんだと知り、面白そうだと依頼を受けた。

後で知ったことだが、「Pコング」は深夜番組とはいえかなりマニアックな番組であり、時にAV女優の出演やエロゲーといった話題も積極的に取り上げるというどこか時代というか作り手の実験番組といったニュアンスを感じる30分番組だった。私の役割はその中の「今マックが人気、なぜ」といったコーナーに出演することだった。

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※テレビ東京系で1992年8月まで放映されていた「Pコング」オープニング画面。ビデオ録画からキャプチャした画質があまりにも悪いため見やすいように加工してある


コーナーの放映時間は12, 3分ほどだったが、当時はその番組内容以前にAppleとかMacintoshを知ってもらうのに時間と手間がかかった時代だったから、さてどのように話しを持って行くべきかと考えた。しかし司会のくず哲也さんと話しを持ってこられたディレクター共にMacintoshユーザーだったので基本的な部分は予想していたより楽だった。

私は収録の日、スタッフを1人連れて指定の場所に向かった。収録場所は六本木にある今で言うところの "クラブ" みたいな所で、明るい照明下ではおせじにも奇麗な場所ではなかった。全体的にコンクリート打ちっ放し的な内装、鉄の棒で作った椅子やテーブル、そのテーブルも何やら下手なペイントがあったり、スタッコ仕上げのような粗いコンクリートむき出しの柱だったりと...。勿論開店は夜だそうで照明は暗いしミラーボールが回っているという場所だった。

この出演依頼がまとまり、ビデオ収録日が間近になったとき、会社のスタッフや取引先、そして友人知人達の関心事はどうやらひとつだったようである。
それは初めてのテレビ出演で、私がどれほど緊張するか、そしてしどろもどろになるか...ということだったらしい(笑)。やはり照明とテレビカメラが回ると緊張するし事前に多くの時間を割いて台本が出来ているわけでもなく、すべてが一発勝負の場で緊張しないはずはない...という至極当然の興味だったし、私があたふたしている姿を酒の肴にしようという輩もいた(笑)。

さて、本番前にくず哲也さんとアシスタントの女性、そしてディレクターたちと進行の概略を取り決めて本番収録となった。私がテレビカメラの前でやることはくず哲也さんとの雑談の他、QuickTimeと自社開発のソフトを使い、司会者であるくず哲也さんの姿をMovie化し、それを使ってデジタル名刺を作る実演をやった。またデジタル動画とはどういうものなのかを自社開発のアプリケーションを例にして説明した記憶がある。

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※話題はQuickTimeのことに終始した記憶があるが...


当初まだまだ知られていないQuickTimeとかMacintoshの話しで会話が進むのかと危惧していたが、くず哲也さんはさすがにプロフェッショナル...。カメラが回ると果然饒舌で面白くボイントを付いた突っ込みをしてくれた。結果正味12, 3分のはずが司会者も乗ってしまったのか全部で45分間くらいしゃべってしまい編集が大変だろうなと皆で笑った。

それにカメラは1台だったことをカバーしようとしたのかやたらに動き回るのが少々気になったが、大変気持ちのよい収録が出来た。それにカメラを通すと面白いもので無味乾燥な店内の造作がそれなりに意味のあるように立派に映っていた。

放映は翌月の7月15日(水曜日)だったが数日後、取引銀行に出向いた折に支店長から「テレビ見ましたよ!」といわれたが、なによりも私は友人知人たちの期待を完全に裏切り、「普通、照明がついてカメラを向けられると多少はあがるのに、まあぁ、松田さんったら普段のまんまでしたねっ…!何故?」と文句を言われたほどリラックスした出演だった。

「どうして、何故」といわれても困るが(笑)、私自身は話し自体がMacintoshのことであり自社製品のことだから、曖昧なことや難しい事などひとつもなかったし、好きな話しをくず哲也さんらと楽しく進めただけだから特別に緊張するはずもなかったのである。

その時のテレビ番組を録画したテープも今や行方不明だが、以後「Pコング」は気になって数回ビデオ録画して見ていたものの残念なことにその後番組はすぐに終わってしまったのだった。
とにもかくにも、私は一応...テレビ出演の経験があるのです(笑)。




Performaへのソフトウェア バンドル物語

僅かであるが会社時代の遺物が残っている。そのうちのひとつが契約書類だが、先般私の会社のアプリケーションをApple Performaにバンドルするための「ソフトウェア販売契約」の書面が出てきたので今回はバンドルのお話しをさせていただこう...。


Mac用アプリケーションと一言でいっても様々なジャンルがあるが、私の会社では当時QuickTimeをサポートした映像系の製品といわゆるエンターテインメント系の製品が稼ぎ頭だった。
それらのパッケージソフトは現在のようにインターネットを通じてダウンロード販売といったビジネスが出来得ない時代だったから、大手の流通会社に売り込んで全国のショップ店頭に並べてもらい、ユーザー諸氏の手に渡るよう努力を続けていた。

一方、1990年の半ばにもなるといくつかの自社開発ソフトウェアのバンドル依頼が舞い込むようになった。自分たちを卑下するわけではないが、極小企業の我々が開発した製品をソニーのハードウェアにバンドルすることが決まったときには正直しばらくドキドキ感が収まらなかった。

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※ソニーのパンフレット(1995年7月)。同社のVISCA製品に私の会社のMac版ソフト「QTJOY」と「QTアルバム」がパンドルされた。裏面はソフトウェアの紹介となっている(下)


「バンドル」の意味をあらためて説明する必要はないと思うが、念ために記すと「ある製品に別の製品を付属して販売すること」であり、通常バンドルされるものはソフトウェアが多いわけだ...。またバンドルする意味は当該ハードウェアを活用する際にバンドル製品を使うことでユーザーにより有用な体験を提供することを意図するのが普通である。
ただし我々の場合だけではないが、すでに流通している製品そのものをバンドルするといったことだけでなく、その対象製品や予算といった条件面によっては一部機能を制限したものをあらたに作って対処する場合もあった。

我々にとってバンドルに関わるビジネスの利点はいくつかあった。まず大きいのはソニーとかキヤノンといった大手製品にバンドルされることは超マイクロ企業にとっては正直誇れることだった。世界的に知られている企業から我々の技術力が認められたことを意味するし、結果として自社努力だけではなし得ない広範囲に対象製品を広めることができる可能性を秘めていた。

2つ目は契約内容にもよるが、まとまった数の販売が最小の努力で可能になる点だ。パッケージをひとつ販売するのもなかなか大変であり、その販売促進のために秋葉原のラオックス店頭で製品デモを続けたりといった地道な活動を日々必要としたが、バンドルは通常ロット毎にまとまった数の出荷が見込まれたから売上げに即効性が期待できた。

勿論バンドルビジネスに欠点もあった。これまた契約条項にもよるもののユーザーサポートが単純に増えた場合のリスクはそれにかかるコストと共に十分考察しておく必要があったし、いたずらにバンドルでソフトウェアを配布すれば正規の販売自体に悪影響を及ぼすとも考えられた。

さて、本題になるが1994年に忘れ得ない話しがアップルジャパンからもたらされた。詳細な日時は記憶にないが面談をしたいという電話を受けて私は渋谷区千駄ヶ谷にあるアップルジャパンを訪ねた。話しはいつも世話になっていたデベロッパーリレーションではなくコンシューマー事業部に呼ばれたのだった。

初対面の男性は多少日本語がたどたどしかったものの、彼の話しが進むうちに私の驚きと期待は大きく膨らんでいった...。その概要はアップルが1992年からコンシューマー市場向けに投入したPerforma(パフォーマ)シリーズに私の会社のソフトウェアをバンドルしたいという話しだったのである。

Performaは当時のアップルが、それまでのルートで販売していたMacintoshのローエンド機として用意したパソコンのシリーズ名である。なおこのPerformaが登場する背景などについては別途「コミック版Performaで始めるMacintosh」に見る1994年」に詳しいので参照していただきたい。

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※手描きアニメーションソフト「ムービーペイント」もアップルジャパンからバンドル依頼された製品のひとつだった


要は国産のパソコンは数十ものソフトアウェアをバンドルして販売する事が一般的だったこともあり、アップルとしてもソフトウェアのバンドルは無視出来ないことだった。問題はどのようなソフトウェアをバンドルすべきなのか...だが、クラリスワークスとかキッドピクスといった定番アプリケーションの他に国産のソフトを選択したいという主旨でもあった。ちなみに私の会社の製品には他社にないエンターテイメント系製品が揃っていた。「キューティマスコット」「ムービーペイント」というアニメーション作成ソフトだ。
アップルジャパンはまずはこの2つをバンドルしたいというのが当日の依頼だった。

これに後半「キューティアルバム」という画像や写真を素材にデジタルアルバムが作れるソフトが加わり、Performaへのバンドルが終了する1997年まで私の会社の3製品がバンドルされることになった。同業者の中には「不公平だ。ひとつの会社から3つものバンドル製品を出すのは...」とクレームもあったそうだが、申し上げるまでもなく当時Performaにバンドルするに相応しい国産のアプリケーションなど他にほとんど無かったのだから仕方がないではないか(笑)。

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※アップルジャパンと取り交わしたソフトウェア販売契約書の一部。一ページの冒頭(上部)と11ページの書名ページ(下部)


それにこのバンドル要請は100%アップルからのものであり、無条件で喜んだわけではないことも知っていただきたい。なぜならPerformaの売れる台数だけバンドルした製品も売れることは間違いないし、Performaの売上げはいくら国産のパソコンより劣勢にあったとしても相当な数になることは想像できた。しかしである...。

前記のソニーといったメーカーへのバンドルとは違いアップルへのバンドルはいくつかの点において覚悟が必要だった。
ひとつはアップルに対する単価が常識的な販売単価と比べて著しく安価なことだ。具体的な契約額は伏せさせていただくが、例えば市場価格が23,000円のソフトウェアだとしても一般的な卸値は通用せず、アップル側の提示額は○○○円程度なことだった。そして金額については交渉の余地はなかった。

2つ目はそれだけ安価にそして大量に配布した製品のサポートは一般製品なみに実行しなければならない。そしてそれだけ大量にばらまかれたとすれば、ショップで正規のパッケージを買ってくれるユーザーは必然的に減少するに違いない...。

ただしここ3年ほどの売上げを見るにアプリケーション販売ビジネスはその当時がひとつのピークではないかという思いもあった。近未来にまで生き残るのに十分なビジネスができるという保証はないとすれば目の前にぶら下がったチャンスを逃すという事は後に悔いを残すと考え、思案の末にアップルの求めに応じることにした。

それに作業自体は大層なことではないのも背中を後押しする。バンドルのためにあらためて大層な仕事量をこなさなければならないとすればコストも含めて大変だが、契約書の取り交わしを別にするなら我々のやることはソフトウェアのマスターディスクとマニュアルの版下(PDF)をアップルに渡すだけでよかった。後はすべてアップル側でやってくれる...。

こうしてアップルとのバンドル契約は締結したが、売上げの支払いは四半期毎とされた。要は3ヶ月毎に指定口座に振り込みされるということで別途詳細な販売明細の提示があるとも聞かされた。
ただし日々どれほどPerformaが出荷されているのかなど知る由もないし、途中経過は一切公示しないということだったから私の思案の中でPerformaへのバンドルに関しては一件落着であり懸案事項ではなくなった。なぜなら後はなにもすることはなく結果を待つだけなのだから…。

さてそれから3ヶ月後のとある月末に一生忘れないだろう強烈な出来事を体験する…。
当時はインターネットによる電子メールを仕事上で使うに至っていない時代だった。電話の他、文書などで急ぐ場合はFAXを使うのが一般的だった。したがって現在、朝起きてパソコンの前に座る、あるいはiPhoneを手にするといった際に最初に確認するのがメールやメッセージであるのと同様、その当時は朝会社に行くとまずはFAXを覗き、なにか通知が来ているかどうかの確認が習慣となっていた。

その日もいつもの通り朝早めに事務所に入った。勿論社員たちはまだ誰も出社していないから私1人だった。上着を脱ぎながらいつものようにFAXを見ると受信があるのが分かったので用紙を掴んで確認するとそれはアップルジャパンからだった。
Performaバンドルのことを忘れたわけではなかったが初めての経験でもあり、どのタイミングでどのように報告があるのかは不明だったから「何の連絡なのか?」と思いながら受信した用紙を見た瞬間、何といったらよいのだろうか、宝くじの高額当選に接したらこんな気持ちなのか…と思うほど心臓がバクバクし顔が熱くなった。

それはアップルからバンドル契約後3ヶ月間経った最初の売上げ報告および我々が受け取る金額が記されていた。私は馬鹿みたいに用紙の最後に記されている数字を「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん...」と確認していたが、それは○千万円もの思いもしない高額だったのだ。それも「同金額を今月末にご指定口座に振り込みます」と記してあった...。
いや、確かに3ヶ月間の売上げだから数百万ほどにはなるかなあ...と漠然と期待していたが、心の準備がなかっただけに誰もいない事務所のFAXの前で私は数回飛び上がったはずだ(笑)。

この成果は大きな手間をかけたわけではないしある種の不労所得といった感覚もあったので余計に嬉しかった。しかし営業マン兼社長の私としては新しいアプリがβ版になると必ずアップルジャパンのデベロッパーリレーションズ担当者に連絡し、関連部署の人たちを集めてもらい、新製品のコンセプトからその特長までをもアップルのブリーフィングルームでデモンストレーションすることを欠かさなかった成果でもあったのだ...。

ということで、結果数年間の累積で例えばムービーペイントという手描きアニメーション作成ソフトはPerformaのバンドルが好調で40万本は出荷したことになる。しかしある程度予測したことだが一部熱心なユーザーが生まれたものの多くのPerformaユーザーの反応は乏しかった。

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※1994年当時、アップルジャパンのPerforma販促チラシの一例【クリックで拡大】


後日Macworld Expo/Tpkyoに出展し、ムービーペイントをデモっていたとき、1人のユーザーが感激してくれてこの場で購入すると財布を取り出した。私は習慣で「機種はなにをお使いですか?」と聞いた。場合によっては古い機種では動作しないといったこともあるし1994年にMacはCPUをPowerPCに移行したこともあったからだが、その男性の答えは「Performa XXXXです」だという...。

実はPerformaの全機種に同じソフトウェアがバンドルされているわけでもなかったが、男性のいうPerformaはムービーペイントがバンドルされている製品だったのである。
どうやらユーザーの感覚としてバンドルされている製品は無料で手に入れた "おまけ" であり、したがってそれらは大したものではないと最初から思い込んでいたらしく購入後バンドルのパッケージ類はほとんど見たことがないという話しだった。

結局Performaは1997年まで製造されたが、ビジネスとしては芳しくなく消えて行くことになる。無論同時にバンドルも消滅し、現在はご承知のようにアップル純正のアプリケーションがいくつかプリインストールされているだけとなる。

…ということでアップルのバンドルビジネスおよびPerforma自体の販売は一定の存在感は示したものの国産のパソコン陣営の一郭に風穴を開けるには至らずビジネスとして成功したとはいえなかった。
ともあれあの朝日が差し込む早朝、まだ誰もいないオフィスでアップルから届いたFAXを見た瞬間の感激はある意味で一生の思い出となった(笑)。





1983年12月に開催された「第3回Apple Fest 東京」の思い出

古い話題をほじくり返すのが我がMacテクノロジー研究所のコンセプトでもある(笑)。ということで今回はこれまで「私製アップルロゴ入り『レターヘッド』物語」などで背景としてご紹介したことがある「第3回 Apple Fest 東京」というイベントを思い出してみたい。


「第3回 Apple Fest 東京」は(株)イーエスディ ラボラトリの主催、アップルコンピュータジャパン(株)の後援で1983年12月10日と11日の両日、後楽園展示場で開催された。イーエスディ ラボラトリ(以後はESD)はAppleの日本総代理店を勤めてきた企業であり、サードパーティ20社の参加も得て当時としてApple関連の催事としては最大級のものだった。

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※「第3回 Apple Fest 東京」のチラシ(上)と招待券(下)


ただし後から振り返ればこの2日間にわたるイベントはある意味で日本のアップル市場が大きく変化する前触れであり、ESDが最後に放った輝かしい光だったといえる。なぜならそのイベントの少し後、年末の挨拶を兼ねた酒宴の席でアップルジャパン社長の福島氏とESDの水島社長は決定的な溝を作ってしまい、総代理店契約の解消に至ることとなったからだ。

1983年といえばキヤノン販売は6月に念願の1部上場を果たしたばかりだったが、翌月にアップルジャパンの福島社長がキヤノン販売の滝川社長を訪れ日本の総販売元としての打診をし、基本合意となった年だった。さらに10月6日付けの朝日新聞朝刊一面に「アップル社がキヤノンと提携」と発表され、同月11日にホテルオークラで合同記者会見が行われた。問題はそれまで日本市場で販売はもとよりサポートや啓蒙活動を行ってきたESDに無断だったことで明らかにアップルジャパン側の契約違反だったという。

さて、アップルやキヤノン販売の思惑は別にして私個人としてもこのイベントは忘れられない特別なものとなったのである。
なぜならいま振り返っても得意な時代であり、得がたい体験をさせてもらったとしみじみ思うし、単なるアマチュアの私が当該イベントにブースを持ちサードパーティ側として過ごした2日間だったからだ。しかしなぜそんなことになったのか...。

その2,3ヶ月前だと思うが相変わらず本郷のESDのショールームに出入りしていた私に、社長の手塚さんから意外な誘いがあった。それが「Apple Festという展示会にブースを持ってみない?」というものだった...。
当時の私は小さな貿易商社に勤務するサラリーマンだったし、Apple II の熱心なユーザーだったが、それらを仕事としていたわけではなかった。

「ビデオデジタイザを専門に展示して欲しいのよ! 勿論ブースの出展料は取らないからさ...」との話。思わず私は膝を乗り出しOKしてしまったのである(笑)。
振り返れば出展各社は当時として錚々たるものだった...。書き出してみると、(株)アシスト、(株)イケショップ、(株)石橋楽器店、(株)イワタ、今井コンサルタント、喜島科学、Gibuson Laboratories、(株)協和商会、啓学出版(株)、(株)東レリサーチセンター、東京ニーズ、日本デジタルイクイップメント(株)、日本ビジネスオートメーション(株)、(株)富士音響、ブラザー工業(株)、マミヤ機器販売(株)、(株)メディァセールスジャパン、アップルユーザーズサロン、TPO、コンピュータ ラブ、そして私のブース(JUN I.G.C.)といったメンバーだった。

それぞれのブースの概要はESD発行の季刊誌「APPLEマガジン」1984年 Vol.2 Nomber 1 に詳しいが、ブース出展は単なるアマチュアだった私にとって1大決心のいる出来事だったし小さくてもブースを持ち来場者に接するという経験はこれまた始めてのことだった。

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※「第3回Apple Fest 東京」が特集として掲載されている「APPLEマガジン」1984年 Vol.2 Nomber 1 号


私に声をかけていただいたのはそれまでApple II 用のビデオデジタイザをいち早く購入し「APPLEマガジン」へレポートを書いていたしESDのショールームには入り浸りの客の1人だったわけだが、最新テクノロジーのひとつだったビデオデジタイザを展示するブースは他になかったからに違いない。

出展の依頼を受けたはいいが、繰り返すもののそうした経験はなかったし準備は多忙を極めた。出展のための機材は基本的に自前だ。そして何らかの魅力的なデモンストレーションのビジュアルも作りたいしブースに特化したなにがしかの作戦も立ててみたいと文字どおり寝る時間を惜しんだ毎日が続いた。

結局小さなブースではあったが、時間を決めて1日に数回希望の来場者の顔をビデオデジタイザで取り込み、フロッピーディスクに記録しプリントアウトするなどしてお渡しするサービスを考えた。

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※ビデオデジタイザのデモはとても人気があった


またデジタイザ関連やいくつかの映像関連ツールの日本語マニュアルを作り販売することも考えた。なにしろ輸入製品のほとんどは和文のマニュアルなど付いていない時代だったのだ。さらに6色アップルロゴを印刷したオリジナル・レターヘッドまで用意して販売するという熱の入れようだった。まあ最初から大赤字明白なイベントだった(笑)。

さてそれらが用意できたとしても実現には最大の問題が控えていた。車の運転ができない私はかなりのボリュームとなった機材や物販品を後楽園の会場にどのようにして持ち込むかということだ。それにいくらなんでも2日間、ブースに詰めるのが私1人というのでは現実的でない。食事の時間も必要だしトイレにいくその間、誰もいなくなるとすれば事故も起きるだろう。

そんなあれこれを当時の勤務先の同僚(女性)に話したら面白そうだから手伝ってくれるという。結局同僚とその親友2人でブースに立ってくれるだけでなく車を私の自宅まで回して搬出入もやってくれるというありがたい話となった。幸運がめぐってくるときにはすべてがこんな風に順風満帆となる(笑)。ただし手伝ってくれるという彼女たちはアップルもApple II もパソコンもぜんぜ〜ん、まったく知らないのだが、まあそんなことは些細なことに違いない(笑)。

てんやわんやの末に当日が来た。約束の時間に同僚の友達が運転する車が自宅の前に到着。早速機材を運び込んで後楽園を目指したが、その運転の危なっかしいこと...。ウィンカーを出さずに路線変更し後ろからクラクションを鳴らされると彼女は窓から顔を出し「すみません」と笑顔。これで許してもらえたが「松田さん、姿勢を低くして」といわれる。何故かと聞く私に彼女は「やはりさあ、男が乗っていると分かれば世間は厳しいじゃない!?」と(笑)。

こうして奥行き1.8メートル間口3.6メートル、壁高2.1メールという一小間のブースで2日間の催事が始まったのであった。
一番の心配は来場者がどれほどかという点だが、主催者側はすでに過去2回の実績があった。告知のためにアップルユーザーやディーラー、関係する教育機関や企業に9千通のダイレクトメールを出し、全国のマイコンショップやマイコンクラブや学校に1,500部のポスターを配布。さらにLOGIN誌とBASICマガジンに広告を掲載し、各マイコン雑誌に案内記事を掲載すると言った告知を行っていた。

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※一時は大変な込みようだった


会場は後楽園展示場の5階と6階のツーフロアーを貸し切っての催事だったが、私のブースは5階だった。左にはメディアセールスジャパンのブースが、そして正面の広いブースはイケショップだったしその隣は富士音響のブースが列んでいた。

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※後楽園展示場の5階(上)と6階(下)のフロアプラン【クリックで拡大】


個人的にはイケショップや富士音響へはしばしば足を向けていたから例えばイケショップの名物専務とは顔見知りだったしメディアセールスジャパンの社長もひとりの客として存じ上げていたから気が楽だし嬉しかった。一介のアマチュアがこうした世に知られている企業とブースを並べられるのだから...。

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※私が担当したブースの隣はメディアセールスジャパン(上)、正面はイケショップ(下)だった。イケショップの名物専務も若かった...


いやはや来場者は考えていたよりずっと多く、一時は対応できないほどだった。この催事はLisaの展示もあったし各所には来場者プレゼントとして用意された卓上カレンター、Appleマークタイピン、Lisaタイタックがそれぞれ1000個、マグカップが500個そしてアップルの飴が60Kg用意されていたがあっと言う間になくなったという。

当然だが私にはそれまでこうした経験はまったくなかったし来場者からの様々な質問にどのように答えるべきかを考えたこともなかった。しかしこの2日間の経験はその後、Macのソフトウェア開発を目的にソフトハウスを起業し、様々なプライベートショーやMacworld Expoなど多くのイベントへの出展企画をする際に大いに参考となった。

またこの体験を通して単なる顧客だったESDへとのお付き合いは少しずつ形を変えていった。結果翌年にはMacintoshの購入をきっかけに「APPLEマガジン」の編集長を仰せつかったり、アスキー刊 LOGIN誌が企画した「アダルトソフトウェアコンテスト」に入賞したApple II用のゲームを商品化しESDで販売させていただいたりもした。

ただし残念だったことは冒頭に記したとおり、「第3回 Apple Fest 東京」の後でESDとアップルジャパンは決定的な溝ができてしまい日本市場はキヤノン販売が牛耳っていくことになってしまった…。
こうしてそれまで日本におけるAppleの総本山だったESDはその座をキヤノン販売ならびにアップルジャパンに譲らざるを得なくなったし、当然のことApple Fest 東京はその後開催されることはなかった。




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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員