パソコンで絵ひとつ描くにも長い歴史があった!

絵を描くことが好きだった私はマイコンやパソコンを手にしたとき、いつの日かコンピュータで絵を描くことができる時代になるに違いないと願望を持って接してきた。確かにApple II にしてもそれらしいことはできたが書いたものを写真に撮って友人に見せたら「汚ったねぇ」の一言で返された...。


今回は大ざっぱではあるが、パソコンで絵を描こうとした個人的な歴史をご紹介したい。
1977年にワンボード・マイコン 富士通L Kit-8を手にしてBASICを走らせたとき、最初にやったことのひとつがアスタリスクをモニター上に配置して顔を描こうとしたことだ。まあ、絵とは言えないかも知れないが振り返ればこれがコンピュータで計算だのゲームだの…ではなく、何らかの意志を持ってパターンを描いた最初の作業だった。

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1978年春、BASICが走った富士通L-Kit8でアスタリスクをTVに打ち出して人の顔を作った


その翌年にコモドールのPET2001を買ったが、グラフィカルなコンピュータではなかったしモニターはモノクロだった。したがって人の顔は勿論なんらかのパターンを描くにはキーにアサインされていたキャラクタを組み合わせて表現するしかなかった。

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※コモドールPET2001一式(上)とアスキー誌に載った「モンタージュゲーム」(下)。キーにアサインされているキャラクタを組み合わせてパターンを描いた例


それから4年後の1982年、待望のApple IIを手にした。グラフィックモードは低解像度と高解像度の2種類を装備していたが低解像度は15色、高解像度の場合は6色(初期モデルは4色)というカラー表示が可能だった。そのカラー表示はそれまでモノクロの画面しか使えなかったパソコンの印象および実用性を大きく変えた。

このカラー表示機能を受けて周辺機器もゲームパドルといったものだけでなく多彩な製品が登場するようになった。例えばバーサライターという原稿をトレースする一種のグラフィックタブレット、ライトペンシステム、さらにはビデオカメラ(モノクロ)から映像を取り込むことが出来るデジセクターといったビデオデジタイザまで登場する。

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※Apple II 用のバーサライター(上)とライトペンシステム(上)


いまではタブレット類はもとより、なによりもデジタルカメラで撮影した映像を簡単にMacやiPadに取り込んで画像処理できるが、当時は無論デジタルカメラもなく、いわゆる自然画像をパソコンに取り込むだけでも数十万円の予算が必要だったしその解像度は当然Apple II のそれに依存した。

またApple II のカラーは色の滲みも目立ち、現在のフルカラーのように写真と見紛うクオリティを求めることなど夢のまた夢の時代だった。それでもライトペンやバーサライターあるいはビデオデジタイザで様々な試みを行い、自分なりに納得する絵を描いたつもりだが、パソコンの限界や制約を知らない友人知人たちに見せると必ず「汚いカラーだなぁ」と酷評されたものだ(笑)。
やっとカラーで絵を書けたと喜んでいた私は「ムッ!」としたが、冷静に見ればはみ出た塗り絵みたいな代物であることは確かだった。

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※Apple IIのビデオデジタイザ(上)でモジリアーニの絵を取り込み前記ライトペンで彩色した例(下)


文字通りパソコンで絵らしいものが描けそうだと思ったのは1983年に購入したNEC PC-100だった。512色の内16色をセレクトし、720×512ドットの高解像度をサポートした16ビットパソコンはやっと自分の長い間の思いを叶えてくれそうだと喜んだ。なにしろ翌年の1984年1月に発表されたAppleのMacintoshは9インチという小さなディスプレイはともかく相変わらずモノクロだったから...。

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※1983年登場したNEC PC-100


このPC-100がPC-9801のように正常進化したら、もしかして私はMacintoshを捨てたかも知れなかったがメーカー側の都合というか様々な確執からPC-100はその後のアップデートは期待できず埃を被るしかなかったのである。
それでもカラーのコンピュータグラフィックの魅力に開眼した私はMacintoshを使いつつ、PC-9801用のカラーグラフィックソフトや周辺機器を手当たり次第に確認した。PC-9801用のビデオデジタイザやカラービデオ入力をサポートした Z's STAFF + PlusKit Level-2 といったアプリケーションなどなどである。

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※PC-9801用グラフィックソフト「Funny」1985年(上)と「Z's STAFF」1986年のサンプル画


さらにアウトプット環境も揃えたいとインクジェットカラープリンタまで揃えるハメとなる。それでもドットが認識できる画質に満足できなかった私は1987年6月、サピエンスという会社まで出向きPC-9801用のフレームバッファボード、エプソンのGT-3000カラースキャナなどを揃えた結果やっと写真画質の映像を手に入れた。

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※PC-9801用のカラービデオ入力をサポートした「Z's STAFF」と「Pl;usKit Level-2」によるカラー入力システムを用意した(1986年)


しかし画面に表示するだけでデータの二次利用、すなわち加工や編集を自在に可能とする環境ではなかったため画質は評価したものの急速に興味を失っていく。

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※PC-9801用、サピエンス社製フレームバッファとエプソンGT-3000カラースキャナでやっと写真画質に迫った(1987年)


その空虚な心の穴を埋めようと本格的なコンピュータ3Dを可能とする高価なPersonal LINKSまで手に入れ、その勢いで米国アナハイムで開催されたSIGGRAPH '87にまで参加することになった。1987年のことである。

そのSIGGRAPHから戻った直後、事前に注文しておいたMacintosh II が届いた。Apple最初のカラー機種である。当時ワークステーション級のパワーを持つとされたスーパーパソコンだったがそのカラーは1670万色からセレクトした256色を同時表示する能力でしかなかった。

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※Macintosh II がリリースされた直後に出回ったサンプル画例


この意味を...限界を言葉で説明するのは非常に難しいが、例えば結婚式で新郎新婦がそれぞれ黒の正装と純白のウエディングドレスを着た写真をカラーイメージスキャナでデジタル化することを想像していただきたい…。

いまでは何の衒いもなく純白のウエディングドレスも黒いモーニング姿も美しく再現できるが、当時は256色しか同時に使えなかった。純白のウエディングドレスも黒のモーニングも写真をよく見るまでもなく繊細なレベルで多くの階調を持っているが、その自然さは256色では表現できないのだ。

どういうことかといえばウエディングドレスやモーニングの一部に目立つ色飛び、色違いが生じて見られたものではなくなってしまうのである。さらに衣裳にカラーパレットのほとんどを取られた結果肝心の新郎新婦の顔...肌色まで無残な結果になってしまう。これが256色という限界の仕打ちだった。

一般的な景色やらを表現するときには256色もあればなんとか自然に見えたものもこうした極端な例では実用とならなかったのだ。
ちなみに私の会社では ColorDiffision というこの256色のカラーパレットをユーザーが任意にコントロールできるアプリを開発したり、カラースキャナ用のアプリ ColorMagician にも同様の機能を搭載し、優先するカラーとその数を調整できるようにした。

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※ColorMagicianによる256色カラーパレット編集機能


これにより前記結婚式の写真の場合だと、人肌の色および新婦を美しくデジタル化する点にカラーパレットのウエイトを優先的に多く取ることでまずまず自然で美しい花嫁姿をデジタル化できるようになった。ただし限界を突破したわけではないため、その余波は新郎のモーニング姿に向かってしまい、その黒い衣裳には色飛びが顕著となった。

ただしMacintoshにはPhotoshopをはじめ次々と優秀なグラフィックツールが登場し、その使い勝手は他のパソコンを凌駕していく。
結果現在ではハードウェアもそしてソフトウェアも黎明期と比較して信じられないほど安価にもなったしその処理能力は理想に近づいている。手法やアプローチはなんであれ、いまやっと絵画はもとより写真を素材にした表現も自在にできるようになった。しかし気がついたら私がコンピュータを手にしてからすでに40年にもなろうとしている…。

MacintoshとLisaのFont 秘話

スティーブ・ジョブズは2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で後世に残るであろう名スピーチを披露した。その中で彼は大学を中退後calligraphyの授業を受けたことが10年後最初のマッキントッシュを設計する際に役に立ったといい、もし大学を中退してその授業を受けていなければ、Macが複数の書体やプロポーショナルフォントを持つことはなかっただろうと言い切った…。


いまから思えば1984年に登場したMacintoshのフォントはモニタ表示も印刷も決して精緻なものではなかったが当時はもの凄く美しく思えた。
それまでのパソコンはいわばフォントというものを蔑ろにしていた。第一現在のように白い背景に黒い文字ではなく当時は黒い背景に白、グリーンといった文字が表示されていたのである。
だからこそMacPaintやMacWriteでまさしく白い用紙をイメージしたモニタに思うさま複数の書体を混在できたとき胸が躍った…。そればかりでなくそのプロポーショナルなフォントは本当に美しかったのである。

さて、スティーブ・ジョブズの物言いのあら探しをするわけではないが、彼はMacプロジェクトを手がける前にLisaというスーパーパソコン開発の責任者だった。
その後彼がそのLisaプロジェクトの開発責任者から外され、その憤懣やるせない思いを埋めるために当時ジェフ・ラスキンが小さなプロジェクトとして進めていたMacintoshプロジェクトを乗っ取ったことはよく知られている話しである。

したがってApple IIや IIIはともかくスティーブ・ジョブズが自分の思い通りのコンピュータを作る機会としてはまずLisaという存在があったのだ。

そのジョブズが世界を変えようと息巻いて開発がスタートしたLisaだが基本的に「Type Style」メニューから選択できるフォントは「Modern」と「Classic」の2書体でしかない。

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※ Lisaの搭載フォントは基本的に「Modern」と「Classic」の2書体だった


理由は不明だがこのLisa開発の際に何故Macintoshのときと同様、複数のフォントを搭載する機会がなかったのだろうか…。なぜそれはMacの時に開花することになったのだろうか…。
斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイが言っているとおり、Macintoshのユーザーインターフェースと思われていることの基本はLisaで実現されていた。それはゼロックス社のパロアルト研究所の研究成果…ウィンドウインターフェースよりも大きく進歩したものでApple最大の功績のひとつに間違いなかった。

ケイは続けていう。そうした発想はスティーブ・ジョブズが視覚に極度にこだわったところから出てきたものだと…。ジョブズはスクリーンでどのように見えるかを常に気にしたからだ。
したがってもしジョブズがLisaの開発プロジェクトのリーダーであり続けたら、マルチフォントの栄誉はMacでなくLisaが最初になったのかも知れない。

では、そもそも最初のMacintoshに搭載されたフォントはどのようなものだったのだろうか…。
当時のシステムは現在のようにハードディスクにインストールしたシステムに頼るものではなく、アプリケーションと一緒にたった400KBの3.5インチ・フロッピーディスクに収められていた。したがって今回再確認するに際し、後にフォントを入れ替えたりした形跡も記憶もないオリジナルなMacPaintのディスクを使って起動してみることにした…。

それはディスクラベルにMacPaintの作者、ビル・アトキンソン直筆のサインをもらったという私にとっては貴重なものだが、これなら間違いはないと久しぶりに起動ディスクとして使ってみた。なにしろ1984年に手に入れたMacintosh 128Kに同梱されていたアプリケーションはMacPaintとMacWriteの2つしかなかったのである。

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※2004年に来日したビル・アトキンソンにサインをしてもらったMacPaintオリジナルディスクとマニュアル


ともかくマシンはそのMacintosh 128Kを使用したが、起動したMacPaintの「Font」メニューには Chicago, Geneva, New York, Monaco, Venice, London そして Athensの7種類が用意されていた。ちなみにメニューに使われているフォントは Chicagoだ。

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※最初のMacintoshには7種類のプロポーショナルフォントが搭載されていた。下は同じテキストによるフォントデザイン比較

アンディ・ハーツフェルド著「レボリューション・イン・ザ・バレー」によればこれらMacintoshのスクリーンフォントはVeniceという手書き風書体以外、皆スーザン・ケアがデザインしたとのこと。
スーザン・ケア女史といえばあのハッピーマックや爆弾マークなどMacをマックたらしめる数多くのアイコンをデザインした人である。そのスーザン・ケアは当初ローカルな通勤電車の駅名にちなみ Overbrook, Merion, Ardmore, Rosemontといった名前を考えていたという。

ある日のことスティーブ・ジョブズがメニューにあるフォント名を見て眉をひそめた。「何だこの名前は?」と…。スーザンが駅名だと説明するとジョブズは「都市の名前はいいだろう…」と言いながらも「でも誰もが聞いたことのないようなケチな名前じゃだめだ、世界的な都市名にするべきだ」といったことから前記のような一連のフォント名が決まったという。
ちなみにVeniceのフォントはビル・アトキンソン作として知られている。

スティーブ・ジョブズがcalligraphyを勉強したことがMacintoshに豊富なフォント、それもプロポーショナルフォントを採用することになった。しかしあらためてMacintoshというパーソナルコンピュータと向かい合うと今さらながらその斬新さ、凄さが身にしみて分かってくる。

AppleはMacintoshの販売時に「これはLisaテクノロジーを踏襲したもの」といった物言いを盛んにやった。そして巷ではMacintoshはLisaをコンパクトにしたものに過ぎないといった言われようもあった。しかし実際にMacintoshをきちんと評価すると単にLisaの安価版であったわけではないことは明白だ。

このマルチフォント採用はもとよりだが、マルチリンガル、リソース、QuickDrawといった仕様はもとより、Macintoshは最初から喋ることができたしグラフィックスの基本フォーマットとなったPICTなどを総括して考えると後にマルチメディアなどに代表されるコンセプトがほとんど包括されていたことがわかる。

そう、事実多彩なフォントとグラフィックスを容易に扱えるというMacintoshのコンセプトからあのデスクトップ・パブリッシング(DTP)が発生したことを思うとき、最初のMacintoshに多様なフォントが搭載された意義はいま考えるより遙かに大きかったのである。



NeXT 用マウス幻想

手元に黒くて丸くちょっと不思議な形をしているマウスがある。もちろんAppleの製品ではないが事情をよくご存知のご同輩には一目でお分かりのことだろう...。そう、これはあのNeXTコンピュータ用のマウスである。


申し上げるまでもなくNeXT Inc. はアップルを辞めたスティーブ・ジョブズが1985年に操業した会社だ。社名はその後、Next Computer, Inc.およびNext Software, Inc. と変わっていくが、最初の製品NeXTcubeは1988年10月12日、サンフランシスコにあるコンサートホール “Louise M, Davies Sysmphony Hall” で発表された。



※1988年10月12日にデイビス・シンフォニーホールで発表されたNeXTcubeとスティーブ・ジョブズによるプレゼン映像


NeXTはスーパー・パーソナル・ワークステーションとして時代を先取りしたコンピュータではあったが価格はともかく初期モデルは動作が遅くて不評だった。ただしオリジナルのWorldWideWebがNeXTマシンで開発されたことはよく知られているし、1996年末にNeXT社がAppleに買収された後、そのOSだった OPENSTEPの技術をベースにMac OS Xが開発されたこともパーソナルコンピュータの歴史の妙だ。

さて本体の話しは取り急ぎこのくらいにしてそのNeXT用のマウスに目を向けてみよう。NeXTのマウスもキューブ型の初期は角型のマウスでありインターフェースも独自仕様だった。しかし後期になって採用されたこの円形の2ボタンマウスはADB仕様のため、Mac OSでも特別なドライバー不要でそのまま使えたのだ...。

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※後期型NeXT用マウス。前面に突き出ている前掛けのような部分は2ボタンだ


当研究所には中古品と新品の2つが保管されているが、中古品の方も問題なく使えるしNeXTロゴをデザインしたポール・ランドによるロゴもしっかりと刻印されている。しかし初期型がロゴもカラーで立体的だったのに対してこちらは刻印でありどこか簡素化されている印象は拭えない。

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※制作したロゴをNeXT社に持参したデザイナーのポール・ランド。右はスーザン・ケア


この丸形NeXTマウスをしばらくぶりに机上に置いて眺めていたが、例によって様々な連想が浮かんでくる。
スティーブ・ジョブズの事だからこのマウス1つについてもそれなりに拘ったに違いない。そして現在の視点から眺めてみるとNeXT社も後期はビジネス的に苦しい状態で、結局ハードウェア部門はキヤノンに売却し社名もNeXT Software, Inc.と変わる。

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※後期型NeXT用マウスの背面


だからだろうか...そうした先入観からか、このマウスにはデザインといった妙は別にしてもどこか高級感が感じられない。ADB仕様にしたのも市場に併合すると共にコストダウンを計ったのかも知れないと勘ぐってしまう。ちなみに日本製である。

そして今更だが、もうひとつ…このNeXTマウスを眺めていたら気がついたことがある。これまた想像の域を出ないことだが、この丸形NeXTマウスがあの最初期の iMacに付属した円形マウスの原点だったのではないかということだ…。

iMacの円形マウスはAppleの歴史の中で汚点のひとつだと考えているが、当初はジョブズがAppleに復帰した直後に評価され表舞台に登場したジョナサン・アイブのアイデアだと思っていた。しかし復帰後、Appleの命運をかけた iMacだからしてこれまたそのマウスにもスティーブ・ジョブズの強い拘りがあったはずだ。

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※NeXT用マウスと初代 iMac用円形マウス


無論 iMacのマウスデザインもジョナサン・アイブが担当したに違いないが、その原点...コンセプトはスティーブ・ジョブズのNeXTマウスへの拘りからスタートしたのかも知れないことに思いついた…。何しろマウスとして適度なサイズということもあるにしても、NeXTの丸形マウスの直径とiMacの丸形マウスの直径は共に約74mm強 とほぼ同じなのだ!

話しはまた迷走するが、Appleは1996年当時、次期モダンOS開発に頓挫していた。自社開発を諦めたAppleは外部のOSを採用しようとして一時はジャン=ルイ・ガセー率いるBeOSに傾いたが結局はNeXT社を買収しソフトウェア資産共々ジョブズを顧問として復帰させることになった。

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※サンフランシスコExpoにおけるBe社のブース。筆者撮影


スティーブ・ジョブズとしては当初、自分はあくまで顧問だという主張を繰り返していたがギル・アメリオCEOを退任に追い込んだ後には周囲の強い渇望もあって暫定CEO(iCEO)として職務に当たることになったわけだが、iMacは秘密裏に開発が続けられた。
そのiMac発表はNeXT発売からちょうど10年目となる1998年、5月のWWDCで発表されたがジョブズがAppleに復帰してから1年半ほどしか経っていない。

OPENSTEPがMac OS Xとして登場するには2001年まで待たなければならなかったが、ジョブズの思考回路にはまだまだNeXT時代のDNAが残っていただろうし、良いものはAppleでも継承させたいという考えがあったに違いない。

ボンダイブルーのiMacは初代Macintosh 128Kと同様、文字通りジョブズのマシンだった。内部にもメモリ以外アクセスできないクローズドな設計、冷却ファンはないしそのトランスルーセントから見える基盤や部品の配置の妙などはまさしくジョブズの作品だった。だからこそそのお披露目でモニター上に初代Macintoshの発表時を彷彿とさせる "hello again" と表示させたくらいだった。

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※1998年5月、WWDCの場で発表されたiMac。当時私の会社のスタッフが撮影


その初代iMacの円形マウスがスティーブ・ジョブズによるNeXT時代の拘り、残り香だと思うとNeXT本体には興味がわかなかった私でもちょっと愛しい気持ちになってくる。
ただしNeXTのマウスは前部分に明らかに目立つ2つのボタンがあったからその保持する位置を誤ることはなかったはずだが iMacのそれは明らかに使いづらいという違いがある。

いずれにしてもNeXTコンピュータといえば我々はキューブ型の本体を思い浮かべるが、後期型とはいえマウスに円というか半球を思わせるようなデザインを採用するといった多面性はさすが?スティーブ・ジョブズではなかろうか...。



Lisa 筐体デザイン再考

些かタイミングを逸したが1月19日(1983年)はLisaが発表された記念日である。そのLisaをあらためて現在の視点から眺めると30数年前に羨望の目で見ていた印象とはかなり違った思いを抱く...。あくまで本体のデザインや製品の作りといった点においての感想だが、今回はそんなお話しをしたい。早い話がLisaはデザインでもAppleらしからぬ愚行をやっている...。


Appleといえばデザイン、デザインといえばAppleといった感がする昨今だが、Appleのいうところのデザインは決して形だけを意味するものではなく使い勝手や機能までをも含む意味合いを含んでいる。とはいえAppleが作ってきたパソコンたちがすべてそうしたデザイン的に優れていたのかといえば...そんなことはない...。

Apple II のケースにしてもタイプライターを思わせるシンプルで実用的なデザインではあってもそのデザインは現在の視点からは観るべき点はあまりない。ケースに収めたということ自体が当時として斬新だったのだ。そしてApple III は贔屓目に見てもよいデザインとは思えない(笑)。ではLisaはどうなのだろうか...。

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※当研究所で常に可動状態にあるApple Lisa 2/10


Lisaの...あくまで製品の筐体デザインに関していうなら、これまた素敵とは申し上げられないだろう。スティーブ・ジョブズもカンチレバー上に突き出たスクリーンを持つその両サイドの形状を額が狭い原始人に例え「クロマニョンルック」と批判したという(笑)。

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※スティーブ・ジョブズが「クロマニョンルック」と批判したカンチレバー上に突き出たスクリーンを持つLisa


確かに横からのフォルムは顎が突き出た人の顔のようにも見えるが、スティーブ・ジョブズが心血を注いで開発したMacintoshだって横からのフォルムは程度問題で似たようなものだ...。

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※Macintosh 128Kのサイドデザイン。程度の違いはあれどLisaのサイドデザインと似ている


当ブログではこれまでにもLisaのあれこれに関して考察してきたが、今になって思えば商業的に失敗したその理由は決して1万ドルという高い値付けだけではなかったように思う。
最初に思うことはやはりその筐体のサイズだろうか...。ブラウン管式のディスプレイ、その横に2台の5.25インチのフロッピーディスクを装備し(Lisa 2になってからソニー製3.5インチを採用)当時としては広大な1MBのメモリを搭載したマシンは時代の壁は崩せずどうしてもこのサイズになってしまうのだろう。何しろLisaより1年後に登場したMacintoshのメモリはたったの128KBだったしLisaと同様な1MBのメモリを実装したMacintosh Plusは1986年にならないと登場しなかった。それだけLisaは進んだ設計ではあった。
したがって筐体のサイズがでかくなるのは仕方がないとはいえ、いくらアメリカのエグゼクティブの机が大きいといってもおいそれと乗せるわけにもいかないだろう。

例えばそのメモリだが、512KBのメモリボードを2枚装備して1MBを実現していたがその512KBのメモリボードのサイズにしても今では考えられないほどに基板が大きい。現在ならご承知のように204ピンのSO-DIMM規格では幅:67.60 mm x 高さ:30.00 mmといった小さなボードに数GBものメモリ容量を乗せることか出来る。

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※Lisaの基盤ユニット。手前の2枚がそれぞれ512KBのメモリボード


そして最大の間違いはProFileと呼ぶ5MBの外付けハードディスクの選択だ。
後にLisa 2/10 とマイナーチェンジされてから10MBのハードディスクが内蔵されたが、この外付けProFileはなんとも不細工だった。いやそのデザインとか外付けが...ということではない。当時として技術的な限界もあったし制約もあったから闇雲に批判するつもりはないしProFile単体で見るならこれはこれで素敵でもあると思う。

私が批判するのはLisa本体を考えた上でのProFileのデザインとサイズである。
このProFileは一般的にLisa本体の上に乗せられて利用することを推奨された。無論別途机上に置いても問題はないがそれだけスペースを要するわけで、Lisa本体の上に乗せるのがスタイルとされたしAppleのカタログの多くにもそうした形で写真が載っている。

問題は実際に置いて見ると実に見栄えが悪いのだ。それは単純にProFileの横幅とLisaの横幅が違うからである。なぜこんな事になったのだろうか...。それはこのProFile、そもそもApple III 向けに開発されたものであり、それをそのままLisaにも流用したからである。

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※本体側面に合わせてProFileを置いて見るとサイズの違いがよくわかる


スティーブ・ジョブズは早い時期にLisa開発のプロジェクトから外されたがためにジェフ・ラスキンが企画を進めていたMacintoshプロジェクトに頭を突っ込んだことはよく知られているとおりだ。ただしLisaの開発とMacintoshの開発はリリース時期を競い合っていただけでなくシステムソフトウェア類にしても情報の行き来はあったようだしプログラマーのビル・アトキンソンらは双方掛け持ちで仕事をしていたようだ。

しかし少なくとも強力な発言権がスティーブ・ジョブズにあったならProFileをそのままLisaに使うという愚行はしなかったのではないだろうか。ゼロから作り直すというリスクは犯さないにしてもせめて筐体のサイズはLisaの横幅に合わせてつくり直させたのではないかと想像しているのだが...。

そしてLisa最初のフロントデザインは当然のことながらキーボードやマウスとボディの面取りのデザインなどで共通性があったもののProFileは先の理由によりLisaの純正周辺機器としての主張は弱くなっていた。さらに後に価格を低く抑え、フロッピーディスクをMacintoshと同じ3.5インチのもの一基に変更したフロントは殺風景になったためだろうか、初期デザインにはなかった11本のスリットを入れた。

このスリットは向かって右側にフロッピーディスク上部へハードディスクを内蔵したモデルも用意したことでもあり、本体内の熱を逃がす目的も兼ねてはいるが、如何せんProFileはもとよりキーボードやマウスとのデザインの統一性は完全に崩れたといってよいだろう。

こうして34年も時を超えて現在の視点から見るとLisaという画期的なコンピュータはApple社内の覇権争いに巻き込まれ当初の理想を様々な意味で歪められたように思われる。
とはいえLisaがなかったらMacintoshもなかったし、Macintoshに刺激されたビル・ゲイツがWindowsの開発に着手することもなかったか…あったとしても現在のパソコンの状況とは随分と違った結果になったと思われる。

Lisaは商業的には失敗したパソコンであったし、その斬新的な仕様すべてがAppleのオリジナルであったとは言わないが、いわば現在のパーソナルコンピュータの母なる存在と言ってよいコンピュータだったことは間違いないのである。

【主な参考資料】
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オイラリー・ジャパン刊
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」(上) アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊






CASIO QV-10物語

手元に1995年に発売されたカシオ計算機のデジタルカメラ QV-10と数十枚の撮影データが残っている。そういえば忘れていたが昨年2015年はQV-10誕生から20年たったことになる…。今回はその一世を風靡し一般ユーザーにデジタルカメラというテクノロジーを知らしめたこの製品を振り返ってみたい。


デジタルカメラが一般市場に投入されたのは1990年のDycam社、1993年の富士写真フイルムそして1994年にAppleが発売したQuickTake100だった(製造はコダック)が、この新しい市場を活性化し我々にデジタルカメラの可能性と面白さを示唆してくれたのは1995年に発売されたカシオ計算機のQV-10だった。画素数は25万画素で定価6万5,000円だった。

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※CASIO デジタルカメラQV-10。当研究所所有


当時のMacintoshユーザーにとって前年に本家からリリースされたQuickTake100は多大な興味と期待を持って迎えられたが、35万画素で高画質設定だと内蔵メモリに8枚しか記録できなかったし液晶ディスプレイもなかった。なによりもアップルの販売戦略が現実的な性能に追いついてなかったことから広い支持を得られずにいた。

その辺の雰囲気は別項「Apple QuickTake100 リリース前秘話」を参照いただきたいが、使い勝手と入手しやすい価格を武器に市場に登場したQV-10は話題を独占した。結果としてQV-10はその後のデジタルカメラ市場が急速に発展する起爆剤となったのである。

コンパクトで軽いQV-10は携帯しやすくポケットやバッグに忍ばせて持ち歩くのに最適だった。時代は現在のように携帯電話にカメラ機能が搭載される遙か以前のことだから、小型で軽量そして扱いやすさは重要なことだった。しかしQV-10の特長は別途二つあった。
ひとつは液晶ディスプレイを搭載していたことだ。光学ファインダはなかったが、液晶面に映った範囲が撮影されるというわかりやすさは抜群だった。

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※所有のQV-10は電池を入れれば完動品だ


もうひとつが今で言う自撮りが可能な仕様で、レンズ部位がくるりと180° 回転できるのが魅力だった。無論デジタルカメラだからしてフィルムは必要なく単3乾電池4本を使い、320×240ピクセルのデータが96枚内蔵メモリに納めることが可能だけでなくパソコンと付属のケーブルで接続することで撮影データを転送することが可能だった。
以外と見落とされているかも知れないが、この家庭にも普及が進んできたパソコンとの連携もQV-10の可能性を広げたのではないだろうか。

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※レンズ部位がくるりと180° 回転し自撮りもできた


さて記憶と記録を整理してみると私はこのQV-10を当初買わなかった。QuickTake100があるという以前にキヤノン製のアナログ記録(専用フロッピーディスクに)を行う「電子スチルビデオカメラ」という製品群を仕事で使っていたしQuickTake100も同様だったがその画質は実用的レベルに達していないと考えていたからだ。ただし翌年の1996年1月にMacworld Expoサンフランシスコに出かけた際に気持ちが大きくなったのか(笑)オモチャとしてもどれだけ活用できるか試してみようと展示販売ブースがあったのでそこで購入した記憶がある。

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※1994年発売のApple QuickTake 100。当研究所所有


カメラとしてはその画質は印刷するにはまったく適さなかったが、撮影後に即液晶ディスプレイ上に再生して周りの人たちと話題を共有するといった使い方は従来の銀塩カメラには出来得ない世界を作り出した。いわゆるコミュニケーションツールとしては抜群の魅力を持っていた。

Expo会場で購入した当日から早速同行した会社のスタッフに持たせて撮影を任せてみたが、会場内で数度「それはなんだ?」と呼び止められ、新製品のデジタルカメラであることを告げると「見せて欲しい」と言われたという。事実その一例を付近で8mmビデオカメラを回していた私が撮影した記録が残っている。

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※サンフランシスコのExpo会場内で私の会社の女性スタッフが使っていたQV-10を嬉々として手にしている男性。Expo期間中、同様に数回声をかけられた


QV-10は320×240ピクセルの撮影が基本だったが補間拡大した640×480ピクセルも可能だった。そして約2MBの内蔵メモリに96枚納めるために専用のアクセラレータチップで1/10の容量に圧縮しフラッシュメモリにCAMイメージとして保存された。
距離合わせは「標準」と「接写」を、絞りは「F2」と「F8」の2段階に切替スイッチで設定する。後は液晶モニターで被写体を確認してシャッターを押すだけだ。

ここであらためてQV-10の詳細な使い方やスペックは記さないが、いま思うとQV-10がヒットしたのは遊びの要素を忘れなかったこととオールデジタルの強みを活かしたプロモーションが成功したものと思われる。その点、繰り返すが従来からの銀塩カメラに及びもしないスペックなのにDTPやらを指向したQuickTake100は販売戦略の方向性を間違ったのだ。

QV-10の長所と短所を知り尽くし、従来のカメラとの比較がどうのこうのといった御託は横に置いて、QV-10を楽しんで使い回そうというコンセプトの本が1995年10月に早くも登場する。筆者はご存じの方も多いと思うがあの大谷和利さんだ。
フロッピー付きのこの1冊...「QV-10 FUN BOOK」(アスキー出版刊)を見れば文字通りQV-10の面白さとユニークさ、そしてデジタルカメラとはどのようなものなのかが自然に身につくように思える。

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※大谷和利著「QV-10 FUN BOOK」(アスキー出版刊)


未完成な部分も否定せず、それを好奇心と熱意、そして工夫で補おうとする心意気に充ち満ちた1冊だった。そもそもQuickTake100にこうした取り組みがあればまた別の展開もあったような気がするが、アップルの戦略間違い、市場に対する認識不足はどうしようもないレベルだった。

アップルファンの1人としてはデジタルカメラとしてQV-10より先鞭をつけたQuickTakeにもう少し業界をリードして欲しいと思ったが、ユーザー視線を的確に捉えていたカシオ計算機の戦略には及ばなかったということだろう。

私はといえば繰り返すが、幸いなことに創業時からスチルカメラをはじめQuickTake100は勿論、リコー、キヤノン、富士写真フイルムといったデジタルカメラメーカーの開発陣の方々とお付き合いし、関連アプリケーションを開発していた関係上、最先端の情報を知り得ていたし当時はまだまだ銀塩カメラに遠くおよばないものの近未来は必ずや銀塩に近づき追い越す事を確信していた。

1996年か1997年だったか、札幌で開催した恒例のプライベートイベント「Macintoshの匠たち」で私は近い将来は使い捨てカメラの "写ルンです" ももしかしたらデジタルになるかも...と予言した。その予言は外れたが(笑)それだけデジタルカメラの勢いは増すだろうと考えた...。
ちなみにその "写ルンです" は今年2016年で発売から30周年となる。そしていま思えば、QV-10は一般ユーザーにとって肩肘を張らずに簡単に扱えるという意味において、オールデジタルカメラ界の "写ルンです" だったようにも思える。

取り急ぎQV-10で撮った640×480ピクセルの写真の中でまずまずの例をいくつかご紹介してみよう。ただし当時はパソコンモニターの解像度も現在とは違うのでユーザーの印象もかなり違うはずだ。また今回急ぎJPEGに変換する過程で縦横数ピクセルの誤差が出ているかも知れないがご容赦いただきたい。まあ、こんな解像度だったのか…が分かっていただければ幸いである。

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QV10_004.jpg

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※QV-10で撮影したデータを640×480ピクセルで保存し、JPEGに変換した例【クリックで実寸に拡大】


ということで、現在のデジタルカメラ隆盛の時代しかご存じない方から見れば当たり前に思えるだろうが、例えば iPhoneであれだけ美しい写真が撮れるのはQV-10が登場した時代には文字通りの夢物語だった。
銀塩カメラを生産してきた企業もこれからデジタルカメラの開発に力を入れるべきなのかを真剣に迷っていた。デジタルカメラ事業に力を入れ、それが成果を上げればあげるほどこれまで企業の基盤となってきたビジネスが崩壊するのは目に見えていたからだ。

またカメラの...写真のプロフェッショナルたちの間でもデジタルカメラの評価は二分されていた。これはオモチャであり到底こんなものは仕事に使えるはずもなく、進化したところで銀塩フィルムをしのぐことはできないだろうという専門家もいた。
反対に解像度はイマイチでも撮影した写真(データ)を即利用できるデジカメはニュースを追うカメラマン達に希望を抱かせた。世界のどこにいてもインターネットやパソコン通信を介して特ダネ写真をたちどころに送れるからだ。

QV-10の成功がひとつのきっかけとなりデジタルカメラ戦争は火ぶたが切られた。リコー、ソニー、キヤノン、ミノルタ、ニコン、セイコーエプソン、富士写真フイルム、京セラ、オリンパス、ペンタックス、松下電器産業などの世界有数のカメラメーカーや光学機器メーカーあるいは家電メーカーまでもが日々高性能なデジタルカメラの開発を進めていったのだった。
当のQV-10だが2012年9月4日、国立科学博物館より第5回重要科学技術史資料(通称=未来技術遺産)として登録された。




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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。日本リュート協会会員。ゆうMUG会員