菊池ひと美著「江戸衣裳図鑑」を楽しむ

江戸中期を舞台に時代小説を書こうと決めたものの、あらためてその時代に関しての知識が絶無なことに気がついた。当時の人たちはどのような衣裳でどんな髪型だったのか、食事はもとよりどのような住居でどのような生活をしていたのかといった情報はテレビの時代劇程度しか頭に浮かんでこない。


とはいえいくらフィクションだとしても時代考証はなるべく尊重したいとあれこれ資料となる書籍を集めたが、中でも菊池ひと美著「江戸衣裳図鑑」は役に立ったという以上に素敵で面白い本である。

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※菊池ひと美著「江戸衣裳図鑑」東京堂出版


本書の筆者にはこれまで馴染みがなかったが、江戸衣裳考証家であり文筆家、日本画家だという。
したがって本書は図版がそれもカラーの図版が豊富なことも特長のひとつだが、そうした掲載図版は絵画資料や版本をもとに原則として原典通りに筆者が模写、彩色をしたものだという。

筆者は330ページを越えるそのコンセプトを「はじめに」で記しているが、一つは縦軸に「階層軸・歴史軸」をとり、横軸に衣裳という糸を通して織り上げていったことで、男服は仕事服なので身分、階層別にそして女服は流行の変遷なので歴史軸をとっているのだという。
二つ目の試みは、江戸衣裳をするべく全体として俯瞰で見ることができるように、体系化していることらしい。
さらに基本として「人々歴史が主役」の本であり、「衣裳を通してみた人と歴史の本」だという。こうした点が単なる資料本と一線を期す理由に違いない。

無論一人の読者として自身が知りたいことのすべてが本著のみで解決するとは思っていないが、あらためて江戸260年がモノクロの世界、静的な世界ではなくダイナミックで大江戸ルネサンスともいうべき百花繚乱の服装シーンを創り出したオリジナリティ溢れる時代だったことに驚いた。
ともあれ、江戸中期を中心にした武家と町人、男と女の衣裳および髪型についてまったくの付け焼き刃ではあるが知識を得ることが出来たし、貴重な資料であるべき本書であるが思わず引き込まれて読み進んでしまう魅力を持っている。

現在もファッションは女性主導であるが、江戸時代も身分制度のしばりをものともせずに帯の締め方ひとつ、髪の結い方ひとつにも人々の創意工夫があり時代時代にファッションリーダーがいたことにも驚きを覚えた。
本書「江戸衣裳図鑑」は同じ筆者の「女性たちの日常〜江戸の暮らし図鑑」と共に素敵な本に巡り会えたと喜んでいる。









時代小説「首巻き春貞 小石川養生所始末」を自身の誕生日に公開

筆者の誕生日に初めての時代小説を公開することにした。読んでいただける方がどれほどいらっしゃるかは心許ないが、ある意味これは自身へのプレゼントでもある!


私は池波正太郎、藤沢周平、佐伯泰英、司馬遼太郎らのいわゆる時代小説のファンである。しかしまさか自分が時代小説を書くとは正直思いもよらないことだった。
それが今年 (2017年) の春先、急に「書きたい」と思った。
まさしくいきなりストーリーやプロットが浮かび、主人公を初めとする登場人物たちが自然に自己主張し始めた。
大げさに思えるかも知れないが本当である。

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自分なりに分析するなら、良くも悪くもこれまで見聞きした時代小説は膨大な量でもあり、流行り言葉でかつ大仰に例えるなら、そうしたビッグデータが私の頭の中で何らかの形を取り、自分なりに興味のあるストーリーやプロットを生み出したのではないかと思っている。
それらしいものが書けるかどうか、それはやってみなければわからない。
それに歳を取ると言うことは実に過酷なことだ。自身は30代とか40代の自分とそう変化はないと思っているが体が思うように動かないし記憶力も落ちていることがわかる。せめて興味のあることに向かう意欲は衰えたくないと思っていた矢先だから、これは良い刺激でありモチベーション向上の試みであると考えた。

江戸時代中期の風俗や言葉、医療、食べ物などなどこれまで気にも留めなかったことを織り込まなければならない。数十冊の書籍や資料を集めてにわか勉強を始めた。しかしそのことを面白く楽しく感じる自分がいることにまずは驚き、意欲高揚を目的として一編の小説を書いてみるのも自分にとっては大きな意味のあることではないかと挑戦をしてみた。

ともあれ舞台は小石川養生所である。
となれば主人公は榊原伊織と大岡越前となり竹脇無我と加藤剛の顔が浮かぶ(笑)。しかし基本は可能な限り史実に忠実でありたいと考えたし時代考証もこれまたできうる限りリアルなものにしたいと考え、養生所の肝煎は史実通り小川笙船とし、他の本道や外科・眼科の医師たちも実在の人たちを配した。
ただし主人公は得体の知れない風来坊、ヒロインは尾張藩江戸家老の一人娘とした。勿論フィクションだ。
さらに尾張藩主やその背景に関しては史実に頼ったが、家老や登場人物は架空の名である。また南町奉行所の奉行、大岡越前は申し上げるまでもなく実在の人物だが、登場させた与力や同心たちの名はこれまた創作である。

ストーリーはあまり深刻な展開はせず、心安らかに読めるようにと考えた。しかし何らかのリアリティを求めるとすれば時代小説の魅力は主人公たちの生き様はもとより、やはり剣術の魅力に他ならない。
この点も多くの文献を参考にさせていただき、尾張柳生新陰流の名手である主人公を引き立たせるべく気を遣った。そしていくつか剣を振るうシーンもあるが、私自身居合いの真似事をしていることが意外と役にたった。とはいえ柳生新陰流の一端を主人公に語らせているものの、それはあくまで筆者の勝手な解釈なので念のため。

また手前味噌ながら本小説には小石川養生所の設立当時の出来事が表現はフィクションながら史実を重視して書かれている。したがって養生所の描写は勿論、当時の医療、町火消し、湯屋といった江戸中期の風俗などにも興味を持っていただけたら嬉しい。
ということで、本編はまさしく筆者自身が楽しんで執筆したものだ。
考えたプロットの通りにシーンを決め、登場人物を決めると彼ら彼女らが自然に江戸の町を歩き回る様が手に取るように見える気がした。
一番厄介だったことは自身が考えたストーリーに時代考証をマッチングさせることだったが、いかんせん、にわか仕立ての小説故不備も間違いも多々あろうかと思う。しかし虚の世界を作る面白さを知ってしまったような気がして些か困惑もしている。それでも一般的な文庫本1冊分の量を2ヶ月半ほどで書き上げた。

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※PDFをダウンロードし例えばKindleにインストールすれば電子ブックとして利用できる


最後に、小説ではあえて説明していない事項も多い。例えば大岡忠相と主人公の出会い、岡っ引きの親分や「い組」の頭とどのように親交を持ったのかなどなどだ。これらを説明するとそれだけでページが増え、緊張感が間延びするように思えたのであえて次回作への布石と考えた。

縦書きで執筆したデータはPDFとしてMacTechnology Lab.ウェブサイトに載せた。そのままブラウザでお読みいただけるが、例えばダウンロードしていただき Kindle にインストールすればまさしく電子ブックとしてご利用いただける。
ともあれお一人でも楽しんでいただければ嬉しい。

時代小説「首巻き春貞 小石川養生所始末」



43年前、京都ひとり旅の思い出

京都には何度行ったか、正直数え切れない。女房と一緒にそして後半は私の両親を含めて4人で毎年、それも多いときには桜の季節と紅葉の季節、あるいは正月といった具合に至福のひとときを過ごした。実際 “桜” といえば京都の桜を思い出すほどだ。そうした京都旅行の中でも忘れなられない特異な旅がある。それは昭和49年(1974年)8月にひとり旅した思い出だ。


独身時代であり、懐具合もよかったものの、なぜ京都にひとり旅してみようと思ったのか、いまとなっては釈然としない。それ以前に京都といえば修学旅行で立ち寄ったことがあっただけだから、仏像好きの私としては自由に旅を満喫したいと思ったのかも知れない。
さて、なぜいまさらこのようなテーマで記事を書こうと思ったのかといえば、当時よほど印象深い旅だっのか、旅行の過程を写真と共に1冊のアルバムにしたものが出てきたからだ。決して几帳面とは言えない自分がよくもまあ、整理して残したと感心する。何しろすでに43年も前のお話しなのだから…。
京都の観光名所など、今となっては珍しくもないだろうがひとり旅の気楽さと不便さといった両極端を味わった旅でもあった。

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※43年前、京都ひとり旅したアルバムを発見(笑)


1974年8月29日、日の高いうちに私は京都大原に向かった。新幹線で京都まで来て駅のコインロッカーに荷物を預けタクシーを拾った。
ときはちょうど昼時だったようで大原三千院入り口近くにあった一福茶屋という店で “とろろ蕎麦” を食す。350円也。
勿論カメラを持って行ったが、三千院門前は三脚禁止だったので自分撮りができないことにもどかしさを感じた。

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※三千院門前で。三脚が使えず自撮りができなかったので旅行者の方にお願いした


三千院の往生極楽院で本尊の阿弥陀如来三尊を仰ぎ見る。会うのは初めてだった。
中央の阿弥陀さまより両脇士に魅せられる。お尻が少し上がり、いまこのとき衆生の救済に向かおうとする瞬間の姿なのだそうな。

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※三千院の往生極楽院


三千院から200mほど離れた来迎院へと立ち寄るが、ここは本堂しか見るべきものがないと5分で退散。一路、東海道自然歩道とかを歩き出す。
現在のように道々に土産物屋がある時代ではなかったが、一件の喫茶店を見つけてアイスコーヒーを注文。私はここではじめて京都ではコールコーヒーと呼ぶことを知った。
どのくらい歩いたのか、寂光院にたどり着いた。あの建礼門院陵があることで知られているが、さすがというべきか、女性の観光客ばかりで見回した限り、男性は私だけのようだった。
院内に置かれていた建礼門院の像は彩色され京人形のようだった。

 思いきや 深山の奥に すまゐして
 雲居の月を よそに見むとは

の歌が哀れ。だからであろうか、パラパラと天気雨が降ってきた。私には建礼門院の涙に思えた。
寂光院門前で運良くタクシーが拾えたので京都駅に戻り、コインロッカーから荷物を出して旅館へと思ったが時刻はまだ15時。
時間つぶしと話しのネタにと駅前の京都タワーに登ってみた。無論初めてである。
しかし正直あまりにも俗っぽい土産物屋ばかりで見る気が失せ、早々に降りて旅館に向かった。

実はこの旅行のひとつの目的はこの旅館にあった。
三条河原町西に懐石・京の宿「大文字家」があった。ここは亀井勝一郎や水上勉らが愛した京の宿として紹介されていた雑誌の一文を読み、是非そのうち1度で良いから利用してみたいと考えていたのだ。

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※懐石・京の宿「大文字家」のパンフレットと記載されていた亀井勝一郎と水上勉による推薦文


ただし京都の宿は一見は利用できないところもあるので私はおそるおそる電話をしてみた結果、利用可能とのことだったので予約をした。
何度も写真で見た水打ちされた狭い道を入ると夢にまで見た(笑)大文字家の玄関だった。

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※水打ちされた石畳を入ると雑踏が嘘のように消える


通された部屋は八畳だったと思うが、近代的な旅館とも、無論ホテルとも異質な独特の空間だった。
覚えているのは一品ずつ出でくる懐石料理の数が多くて驚いたこと、そして一人で飲むビールが効いたことだった。

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※二泊した宿、大文字家の一室。背景のテレビが時代を感じさせる


翌日は嵯峨野へ行き、三条大橋を渡ったり、化野念仏寺を経て祇王寺へと向かった。

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※祇王寺、控の間の吉野窓


途中、檀林寺があったのでちょいと覗いたら、門前で週刊新潮を読んでた老人に「おいでやす」と言われ入ってみたが見るものはなかった。

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※化野念仏寺奥の竹林


さらに南に下って少々右に折れると二尊院。またまた歩いて落柿舎に寄り常寂光寺。そして回り回って嵐山に出た。

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※落柿舎、中は撮影禁止だった


京の夏は本当に暑い。よく歩いたものだが、ここからタクシーで八坂神社へ行く。せっかくここまで来たのだからと祇園一、いや日本一の茶屋である一力の暖簾を眺めて踵を返した。

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※現在この付近はお土産やなどが立ち並んでいるはずだが、三脚を立てて自撮りした一枚


四条小橋あたりだったと思うが実に京らしい若い女性に出会った。
出会ったといっても向こうは風呂敷包みを抱え、浴衣を着て歩いていただけだが、若造の私から見ても一般女性ではないように思えた。勇気を出して声をかけ、写真を撮らせてもらったが、どうやら舞妓になりたての女性のようだった。
ようだったというのは、一応失礼にならないようにと気を付けながら二三聞いたのだが、帰ってきた京言葉がよくわからず、結果不明のままだった(笑)。

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※四条小橋あたりで舞妓さんと思われる若い女性とすれ違い、写真を撮らせていただいた


現在の京都は、旅行者が舞妓の姿になり、数時間歩き回ることができるサービスもあり、偽舞妓・偽芸子を本物と思って写真を願っている観光客も目につくが、無論当時そんなサービスはなかった。
スッピンの顔から判断してせいぜい高校生といった年齢に思えたが、どこであれすれ違い様に女性に声をかけたことは初めてだった。いや本当だってばあ(笑)。
そして旅館に戻った。

三日目の朝がきた。ニュースによれば台風が接近しているというものの空はまだ晴れていたので鴨川のほとりを散策した後に三十三間堂に向かった。建物の中に入ると修学旅行当時の思い出が湧き上がってきた。この千体の仏像の中に亡くなった知り合いの顔があるとかないとか…といったガイドの説明があったことも思い出した。
そして慌ただしく清水寺へと急ぐ。途中、七味屋で唐辛子を買い、清水人形の店を覗いたら地蔵の焼き物と目が合ったので購入した。

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※清水寺の舞台


小さな買い物袋を下げながら清水寺の舞台へ。そして三年坂を下り八坂の塔を眺めながら円山公園に出て長楽館で一息しようとコーヒーを頼む。BGMはベートーベンだった。

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※八坂の塔


この日はメチャ暑かったが、神宮通りを歩きに歩いて平安神宮へ到着。少々プラモデル的だが美しい。そして左近の桜の前で三脚を立てて自撮りする。
次ぎに目指したのは南禅寺。途中あまりの暑さに自動販売機でコーラーを立ち飲み。80円也。
山門を通って歩くと目的のレンガ造りの水道橋が見えてきた。琵琶湖疏水が流れる水道橋を堪能して昼飯をと店に入った。するとテレビで台風情報をやっていて今にも京都付近に上陸するという。

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※南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水道橋を背景に


本当なら銀閣寺に向かうことを考えていたが、仕事上新幹線に止まられると困るので一泊切り上げ帰る決心をした。せっかくの旅行だったが、サラリーマンだからして仕事に穴をあけるわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで一日早く帰ることにした次第。

大文字家に戻り、事情を説明すると快く一泊のキャンセルを承諾してくれ、三つ指ついて送ってくれた。
「また来ます」と言いつつ背を向けた。実際にその数年後、女房と一緒に再び大文字家に泊まったが、代替わりしたのか趣がかなり変わっていて残念感が強かった…。

ともあれ京都駅に戻り、新幹線のチケットを買うが、小一時間余裕があるので近所の東寺に寄ってみた。
空を見上げると明らかに暗くなってきている。「おのれ台風16号」
こうして私の京都ひとり旅は終わった。なお京都へは冒頭に記したように数え切れないほど行ったが、ひとり旅はこのとき以来機会が無い。

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※15時44発東京行きの新幹線にて急遽戻ることに


それにしても僅かな点数とはいえ、さらに退色しているとはいえこうした記憶をフィードバックできるのも写真が残っているからだ。
余談ながら、現在デジタルカメラで撮った写真は果たして43年後に問題なく楽しむことができるのだろうか?
以上43年前の京都旅行のレポートでした(笑)。



「大江戸鳥瞰図」で江戸を遊ぶ

本書「大江戸鳥瞰図」は江戸(文久二年・1862年)の町並みを高度6万6000メートル上空から眺めた地図だ。勿論実際にそんなものが残っているはずもなく、誰も見たことがないものだ。これはすべてが手書きで描き起こした前人未踏の鳥瞰図である。


本書は鳥瞰図絵師、立川博章氏が三点透視図法により神奈川中心部を29区に分けて描き起こしたもので、江戸東京博物館館長の竹内誠氏および横浜開港資料館副館長西川武臣氏がそれぞれ専門の立場で監修を行っている。

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※立川博章画「大江戸鳥瞰図」朝日新聞出版刊の表紙


まず、なぜ江戸の地図などを手にしたのかということから説明しなければならない。
それは…年代は100年ほど違うものの、江戸を舞台にした時代小説を書こうと思い立ったからに他ならない。
私が作り出した主人公が活躍する本拠地は江戸小石川村の幕府薬園内に建てられた小石川養生所であるが、現在小石川植物園として知られている一体だから、分かりやすく言えば文京区白山三丁目あたりだ。

また尾張藩江戸藩邸の家老の娘をヒロインとして作り出したが、この藩邸のあった場所は現在防衛省のある場所であり市ヶ谷である。
さらに町火消し「い組」も登場するが、そこは日本橋室町に、そして主人公の音曲の師匠の住居は日本橋富沢町、さらに南町奉行所も登場するがここは現在有楽町朝日マリオンのある場所だった。
という具合に江戸の町と現在の位置を確認し、大まかな歩くルートなどを決めるためには是非とも江戸時代の古地図がいる。
幸い現在の地図と切絵図を比較できる地図も販売されているが、当然のことながら二次元平面でしかなく町並みや名所の感じは浮世絵などを参考にするしかない。

その点、本書「大江戸鳥瞰図」はちょうど江戸の町を航空写真で見ているような感じで捉えることが出来、切絵図では伝わってこないリアルな町並みを感じる事が出来る。そして次ページには鳥瞰図にオーバーラップさせた現在のランドマークと解説が載っている地図もあり、位置関係を比較することも出来る。ただし人物は書き込まれていない。

とはいえ書籍の限界か、特定の場所をと思えばいかにも図のスケールが小さいのが残念だ。せめて拡大縮小ができる画像データをデジタルで提供してもらいたいと思うのは私だけではないと思うのだが…。
また色調を意図的に統一されているようだし、当時の江戸は現在のように建物や構築物にしても高いものがほとんどない。したがって「大江戸鳥瞰図」の縮尺で見ると建物、畑、森林そして川といった単調なイメージに見えるが、これが江戸の町だったということなのだろう。
なお、巻末に「御府内中心部」と「大江戸鳥瞰全図」が裏表に印刷されたものが折りたたんで付属している。

ちなみにあらためて「大江戸鳥瞰図」をはじめいくつかの江戸地図を眺めると武家の町だったのだと認識をあらためざるを得ない。例えば享保年間あたりだと武家屋敷が占める面積は全体の70%弱、寺社地が15%強、町人たちが済む面積はたったの12%強程度だったという。
ともあれ「大江戸鳥瞰図」は立川博章氏の偉業のおかげで私にとって江戸を "感じられる" よい資料のひとつとなっている。





「聾瞽指歸」をご存じですか?

ニューヨークのメトロポリタン美術館などにいくとその収蔵品はもとよりミュージアム・グッズの豊富さに圧倒される。しかし日本の博物館はそれが貧弱だったが近年だいぶ豊富な品ぞろいとなってはいることは喜ばしいと思っている。今回は大昔に京都国立博物館で求めた弘法大師著作「聾瞽指歸(ろうこしいき)」のレプリカをとりあげる。

■歴史上の興味ある巨人
もしここにタイムマシンがあり、歴史上の人物の誰にでも会うことができるなら貴方は誰を希望するだろうか。
私には日本の歴史上会って話をしたい人物が3人いる。笑わないで聴いて欲しい...。その3人とは聖徳太子と弘法大師空海、そして幕末に無血開城を導いたあの勝海舟である。

なぜこの3人なのかと問われてもいまはその理由を聞いていただく場ではない。しかしなかでも弘法大師空海は宗教家として歴史に大きな足跡を残したことを別にしても日本の歴史上希有な人物でありいわゆる万能の天才だったようである。奇しくもあの司馬遼太郎氏も自著「空海の風景」において「空海を肉眼でみたい...」といわれている。

さて、万能の天才というと私たちはすぐにあのレオナルド・ダ・ヴィンチを思い出すが、彼と比べられるような歴史上の日本人を思い出そうとしても残念ながら難しい。せいぜい名高い戦国武将たちや一部の学者・芸術家程度しか頭に浮かんでこない。
結局「万能の天才」といったキャッチフレーズに当てはまるほどスケールの大きい人物は日本には生まれてこなかったようにも思える。
しかし空海...後の弘法大師だけは世界の天才達と肩をならべても遜色のないほど多方面で実績を残し、伝説的な語りぐさになっているだけでなく事実後世に大きな影響を残した巨人であった。

第十六次遣唐使として当時の世界一近代国家であった唐に渡った時、通訳がいらなかったといわれるその言語能力やかの地の一級の知識人たちが舌を巻いた文章力、さらに後に嵯峨天皇と橘逸勢(たちばなのはやなり)らと三名筆と呼ばれたことを考えるとまさしく超人である。そして故郷の満濃池による水害を救った土木技術はもとより、日本に筆の工法を持ち込んだとされる話やいろは唄の作者だとされる伝説も彼ならあり得ると思わせるリアリティを持っている。事実、空海は唐から真言密教と共に当時最先端の文化やテクノロジーをも持ち帰ったのだ。

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※京都国立博物館内のミュージアムショップで購入した「聾瞽指歸」と弘法大師空海像の軸


話を戻そう...。今回のテーマだがその空海が唐に渡るはるか前、延暦十六年(797)十二月、彼が二十四歳のとき(一説では二十五歳)に書き上げた一種の戯曲作品であり優れた漢文で書かれているという「聾瞽指歸(ろうこしいき)」である。
この原本は高野山金剛峯寺所有物としてその霊宝館に保管されている国宝であり、弘法大師空海の真筆とされているものだ。どうやらもともとは一巻の巻物だったようだが現存している物は上下二巻に分かれた巻子本であり、わが国漢文学史上の白眉とされる貴重なものなのである。
そのような国宝とMacテクノロジー研究所にどんな関係があるのかといえば、実は以前「聾瞽指歸」の複製縮小版を京都国立博物館内のミュージアムショップで購入し愛蔵しているからだ。

■「聾瞽指歸」とは?
興味深いことに弘法大師の作として「聾瞽指歸」とほとんど同じ内容の「三教指歸(さんごうしいき)」という作品がある。その違いとしては序文と巻末にある詩が違うものの、その他の大部分でほんの少しの字句を変えている程度だという。どうやら「聾瞽指歸」が原作であり「三教指歸」はそれを書きあらためたということらしい。ちなみに「聾瞽指歸」とは「無知の者に生きる価値...仏道への指針をさし示す」といった程度の意味のようである。

さて空海は十五歳の時に都にのぼり、十八歳の時に当時の中国の制度をまねて設けられた大学に入学している。またそれ以前においても母方の叔父にあたる阿刀大足(あとのおおたり)という当代一流の漢学者について漢籍を習っていたというから中国語はもとより経書や中国文学についても当時から相当な知識を身につけていたと思われる。しかしその後の彼の行動や著作などから察するに世俗的な栄達を目指す教義としての儒教に満足できず、大学を中退し仏教に傾倒していった。

仏門に入ることに反対した親族たちに空海は「私が思うに、人間にはいろいろの性質があるので、それに応じて聖人の教えも三種ある。それは仏教と道教と儒教である。教義に深いと浅いの相違はあろうが、いずれも聖人の教えであって、どれか一つに入れば、忠孝にもとることはない」という言葉を残しているという。

当時聖人の教えとされていたものに仏教・道教・儒教の三つがあったが「いろいろと良い教えはあるけれども結局仏教が一番優れており、仏教は素晴らしい」とその理由を表明しているのが「聾瞽指歸」なのである。
それも戯曲風に仕立て、亀毛(きぼう)先生という登場人物に儒教を説かせ、虚亡隠士(きょぼういんじ)が道教を語り、そして仮名乞児(かめいこつじ)は仏教を説く。そして結局は仏教の真理がもっとも優れている事を皆が納得するまでの経過を対話により解説している。

いい換えれば「聾瞽指歸」は若い日の空海自身の思想遍歴や実体験を基として自らの決心を述べたものであり、仮名乞児は当時山野に入り苦行・荒行を実践していた自分の姿を映したものといわれている。
この「聾瞽指歸」が注目されるのはその後膨大な著作を残すことになる空海の第一作であることだ。
私が所持しているものは冒頭にも記したとおり京都国立博物館において買い求めたものだが、昭和48年(1973)に株式会社便利堂から出版されたものらしい。

それは縮小版とはいえ原本と同じく上下二巻の巻子本になっているのでただ単に活字本を見るより雰囲気が伝わってきて大変好ましい。また解説書として高野山霊宝館々長の山本知教氏になる小誌が付いている。
ただしいうまでもなく中国六朝から唐代にかけて使われた四六駢儷体(しろくべんれいたい)で書かれた空海の直筆を私がそのまま読める訳はない。
日常愛読しているのは「弘法大師 空海全集」(筑摩書房刊)であり、ここには読み下し文と口語訳、そして大変詳しい解説などが載っている。

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※「聾瞽指歸」のセット内容


ところでこれまで何回か「巻子本」と表記したがこれは「かんすぼん」あるいは「けんすぼん」と読む。念のため記せば「巻子本」とは近年のような冊子形式をとる以前に行われた図書の古い形の装丁であり、俗に巻物といわれることは周知のとおりである。
絹や和紙を横に長く継ぎ合わせ、軸を芯(しん)にして巻いたもので中国では後漢から唐にかけて広く行われたが、わが国へは奈良時代に伝えられ、以来江戸時代まで経巻や絵巻物などに多く使われた形式だという。

■空海グッズも…
司馬遼太郎氏によれば戯曲の形で思想の優劣論を書いた例は中国にもないはずのようだ。ともかく1200年ほども昔、それも24歳の青年の頭脳から生み出された「聾瞽指歸」は仏教に興味はない人でも一読に値すると思う。いまでは平易な現代日本語訳も出ている。
とまあ...そんな具合だから私は空海ファンである(笑)。したがって京都に寄れば必ずといってよいほど教王護国寺(東寺)に足が向く。そしてその国宝館をはじめ金堂や講堂を廻り、大日如来脇侍の月光菩薩に「また来たよ!」などと心の内で声をかける。

その東寺は西寺と共に平安京の正面に位置する官寺であったが弘仁十四年(823)に弘法大師空海に勅賜され、空海はその東寺を真言密教の根本道場とした。まあ空海にとっては高野山は即身成仏を目指す修業の道場、そして東寺は一般大衆に向けての教化道場といった性格であり、ちょうど密教の両界曼陀羅すなわち金剛界曼陀羅と胎蔵界曼陀羅のように切ってもきれない車の両輪のような存在だったに違いない。
その後「聾瞽指歸」に味をしめた私は東寺において空海を描いた軸なども手に入れた。特に気に入っているのは密教の法具のひとつである「独鈷(とっこ)」のミニチュアだが、これはペーパーウェイトの代わりとして大変重宝している。

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※東寺で購入した独鈷。ペーパーウェイトとしても重宝している


【参考文献】
・「弘法大師 空海全集」筑摩書房刊
・「国宝 聾瞽指歸 解説」便利堂刊
・「空海秘伝」東洋経済新報社刊/寺林峻著
・「空海の風景 上下巻」中公文庫/司馬遼太郎著
・「空海の思想について」講談社学術文庫/梅原猛著
・「曼陀羅の人 上下巻」TBSブリタニカ/陳舜臣著

※本稿は2000年にMac Fan誌に連載した「松田純一の好物学」の原稿を再編集したものです。


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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。日本シャーロック・ホームズクラブ会員。ゆうMUG会員