「解体新書」底本のミステリー(後編)

「解体新書」レプリカ二種の表紙の色が違うという事から安永三年に作られた刊本に種類があったと考えざるを得ないことが分かった。そんなことを考えつつ多々資料に当たっていたら幸い古い書籍が見つかり、そこに知りたいことやこれまでもやもやしていた事へのヒントが多々載っていた…。


それは昭和55年というから1980年に発刊された書籍の復刻版で2006年8月1日に初版発行された「解体新書と小田野直武」という本で著者は鷲尾 厚氏という方だがすでに亡くなられている。
今回の「『解体新書』の謎(後編)」は当該書籍も参考にしながら安永三年に発刊された「解体新書」に…特に今日いくつかの大学や資料館あるいは個人が所蔵している「解体新書」の底本の謎についてお話しを続けたい。なお以下個人名の敬称は略させていただくのでご了承願いたい。

そもそもお上からの発禁や罰を受けないようにと杉田玄白は将軍家や宮家に「解体新書」を献上したことは知られていることであり、「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註のレプリカの底本、慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵の「解体新書」がそれに当たるオリジナルの一つであろうと監修者の大鳥蘭三郎があとがきで記している。そしてそれは一般に流布された五冊巻ではなく二巻の仕様であり、その判形も些か大きいことは前編で述べた。

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※レプリカ表紙比較。左が「大鳥蘭三郎・解体新書」版、右が「日本医学の夜明け」版の表紙【クリックで拡大


また「日本医学の夜明け」版の例えば「序文」を見ると読みやすくするためだろう句読点が多々ある。しかし「大鳥蘭三郎・解体新書」には無い。ということはこれまた版木が違うのかと考えたが、これはその底本所有者が後から書き込んだと考えれば必ずしも版木が違うとはいえない。そのままレプリカ化されたのだろう。

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※「大鳥蘭三郎・解体新書」版の「序文」頁(上)に句読点はないが、「日本医学の夜明け」版(下)には多々ある。赤丸は筆者が加筆


ちなみに、「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)に紹介されている町立角館図書館所蔵「解体新書」には読みやすくするためのレ点をはじめ記号が多々加筆されている。
さらにレプリカ印刷時にどちらかが版のサイズを間違えた…という可能性はまずないと思ったが、念のため双方の縮尺をできるだけ同じにして重ねてみると摺りズレや紙の収縮といったレベルを超えた違いが出ている。これは版木が違うと結論づけてよいだろう。

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※双方の同じ頁の縮尺を同一にして重ねてみたが、明らかに版木が違うことがわかった【クリックで拡大】


ということで一般に流布されたものと献本用で間違いなく二種の版木があったことは確実だ。さらに鷲尾 厚は著書「解体新書と小田野直武」の中で「解体新書」安永三年版は少なくとも三通りのものを上梓していたことになると自説を述べている。
ちなみに今回私が参考にした「解体新書」をリストアップしておきたい。

1)「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註
  底本:慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵
2)国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修
  底本:靜嘉堂文庫所蔵
3)西沢書店「解体新書 復刻版」
  底本:愛知県岡崎市の岩瀬医院所蔵
4)全現代語訳「杉田玄白 解体新書」(酒井シヅ著)
  底本:東京大学医学図書館所蔵(土肥文庫)だと思われる
5)「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)
  底本:農村モデル町立角館図書館所蔵
6)「日本思想体系 洋学(下)」小川鼎三/酒井シズ校注 岩波書店
  底本:不明

なお実物大と称するそれぞれが底本と同サイズで印刷されているとすれば、(3)の底本もサイズが(1)と同じであることから、言及されてはいないものの(1)と同じく献上向けの版木で刷られたのかも知れない。

ただし厄介なのはそもそも情報が古い点が多い事だ。したがって表記の場所に現在も所蔵されているかは分からないし公立の組織の場合だと名前が変わったりしている可能性もあるが、まずは資料にあるとおりに記して話しを進める。
さて判型が違うものがあることが分かったので他に違いがあるのかどうかを調べた結果、面白いというより興味深い事実を知った。

まずは前記(1)の「解体新書」の一巻目「序図」の頁構成を見てみると「吉雄耕牛の序文」から始まり次に「自序」そして「凡例」と続く。この順序は(2)(3)(5)(6)とも同じだが(4)だけが「序文」「凡例」「自序」の順となっている。
この順序に違いがあるとすればそれは乱丁と考えるのが普通の感覚ではないだろうか。何種類もの順番を持つ本を作るというのは考えられないからである。ただし現在ネットで見られた限りの情報を加えるなら、東京医科歯科大学図書館蔵と称する「解体新書」も(4)と同じ順序で載っていたが、国立国会図書館、岐阜県歴史資料館、平賀源内記念館、高知県立牧野植物園/牧野文庫、甲南女子学園や大江医家史料館のものは(1)(2)(3)(5)と一緒のようである。
また興味深い事に底本は不明ながら(6)は(4)と同じ酒井シズが校注に加わっているにもかかわらず頁構成が違うのだ。

であるなら数の理屈から言っても(4)は刊本時の乱丁か、あるいは後に補修などのためにバラしたとき故意・間違いで順番を入れ違えたと考えるべきではないだろうか。
ここでさらにショッキングなことがわかった。
それは(5)の「解体新書」の奥付の後に二丁にわたり出版広告がつけられているという事実である(「解体新書と小田野直武」による)。この広告は総計59種の書物名が並んでおり、その考察から(5)の角館本は間違い無く安永三年の刊本だと鷲尾厚は力説している。

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※「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)無明舎出版 280頁と281頁。ここには奥付の後に広告頁が続く


しかしその他に所蔵されている「解体新書」に広告は残っていない…というよりそのことに付言した情報はまずない。この事実をどう考えるべきか。
それは安永三年に出版された際に、将軍家や宮家への献上品を除いて一般に流布するものにはすべて同じ広告が載せられていたと考えるのが合理的だろう。それが現在ないとすれば “取り去った” というしかない。

どうも私たちはこうした二百数十年もの間保管されてきた貴重なものは当時のまま残されていると思いがちだ。しかし「解体新書」が当時いくらで販売されたかについてはまだ調べていないが、専門書でもあったし決して安い本ではなかったと思う。それを手に入れた者は活用するのに無関係な広告頁を取り去ったのかも知れず、近代になり図書館なりに収蔵されるようになった場合もこれまた広告は無関係と外されたに違いない。
また表紙もかなり痛んだ場合も多かったと思われるからいつの時点かはともかく後にきちんと残そうと意図すればするほど新しいものや図書館独自のものに取り替えられた可能性が大だ。

だとすれば頁構成の順番が違ったりあるいは表紙の色が違う「解体新書」底本が存在しても不思議ではないわけだ。きちんと和綴じされているから安永三年の刊本のままだという保証はどこにもないのである。ただし今のところは推論に過ぎないがどうやら刊本時の表紙に藍色のものはなかったと見てよいのかも知れない。
今回「解体新書」のレプリカを二種手に入れた事をきっかけに、刊本当時の姿を調べて見ようとしたわけだが、世の中に「解体新書」に関する書籍は結構あるものの、大半がその内容についての解説であり、歴史的な和本として刊本当時のことを知り得る情報はいたって少ないことに気がついた。

そして監修や著作の方たちは医療の専門家であっても和本やそうした情報の歴史的考察については専門外であり当然ながら突っ込みが甘い。またその解説や説明に底本の所蔵場所を示していない例も多く、一歩踏み込んで調べようにも手がかりがないのだ。
さらに図書館レベルの組織がネットに載せている画像があった場合でもサイズや解像度が非常に低くまたモノクロであったりと正確な情報を第三者が把握するには役に立たないケースも見受けられた。

ともあれ個人的な興味として「解体新書」を目標通り出版できた杉田玄白らの思いと平賀源内の紹介であろうが東都書林中でも老舗でありベストセラーを生み出してきた須原屋市兵衛という版元、そして彫り師や摺師たちの葛藤や人間模様についても知りたくなった…。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・「大鳥蘭三郎・解体新書」付属「解体新書解説」講談社
・鷲尾厚著「解体新書と小田野直武」無明舎出版
・橋口侯之介著「江戸の本屋と本づくり」平凡社
・小川鼎三/酒井シズ校注「日本思想体系 洋学(下)」岩波書店



「解体新書」底本のミステリー(前編)

私の手元には集めたいくつかの「解体新書」がある。現代語訳の書籍や解説本、そして西村書店編集部の復刻版などだが、個人的に特別な存在としていわゆるレプリカが二種ある。レプリカとは申し上げるまでもなく本物に忠実に作られた複製品であるが、そのレプリカを比較する過程で謎が生じた…。


念のために記すが、「解体新書」とは前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らが協力して翻訳にあたり、安永三年(1774年)に刊行された西洋医学書の翻訳書だ。原典はドイツ人ヨハン・アダム・クルムスのオランダ語版であり通称「ターヘル・アナトミア」と呼ばれていた。

この翻訳および刊行は、一時代を画する偉業として医学史上高く評価され、以後我が国の名医たちが次々と本書に学び、医学の発展に偉大なる貢献をした歴史的偉業なのだ。
まあ、興味の無い方にとってはどうでもよい話題だろうが「解体新書」フリークの私にとってはなかなかに時代は勿論、関わった人たちの人間模様等々、実に興味深いテーマなのである。
ということでまず分かっている範囲ではあるが二種の「解体新書」レプリカの詳細を記してみよう。なお人名の敬称は略させていただいた。そしてそれぞれの詳細についてはリンク先をご参照願いたい。

1)「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註
http://www.mactechlab.jp/article61.html
  出版: 1973年(昭和48年)講談社
表紙:雲母入鳥の子/渋茶
底本:慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵
装丁:「解体新書」全五巻が帙に保護され専用の桐箱に収められている
  発売当時の価格:39,000円
  企画:「解体新書」発行二百年記念として3,000部発行

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※「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の「解体新書」レプリカ


2)国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修
http://www.mactechlab.jp/article60.html
出版:1978年(昭和53年)日本世論調査研究所
表紙:藍色の和紙
底本:靜嘉堂文庫所蔵
  装丁:出前用岡持ちのような縦置桐箱に他の和書(レプリカ)と共に帙に保護されて収納
  発売当時の価格:330,000円
  企画:日蘭修交三百八十年記念

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※国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修の「解体新書」レプリカ


共に四十年以上も前のものだが、昨今出版業界が大きく低迷している現状ではこうした高度で熱意のある出版は今後も期待できないと考えている。それだけにこの二種類のレプリカは個人的な宝でもある…。
さて「解体新書」の製本は木版印刷した和紙を、真ん中で二つ折りにして、端を揃えて糸で綴じる和綴じだが、四つ目綴じとか明朝綴じといわれ当時のポピュラーな製本方法だ。そして現代の我々は忘れがちであるが、原本は木版であり多いときには同じ版木で数百部が摺られたという。

勿論売れ行きがよければ何度も摺り増しを行った。問題は「解体新書」の場合、増刷が何度あり全部で何冊摺られたかはすでに不明だが、浮世絵がそうであるように大量に摺れば版木が痛んできてシャープな印刷ができなくなってくる。事実「解体新書」にも版木を彫り直したと思われる版もあるようだ。そうした意味においても浮世絵は初版がもっとも価値あるものとされる。
実際に前記二種を比べても版木の違いが刷った結果として差に現れている。具体的にいえば「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の方が断然シャープである。

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※木版の精緻さ比較。左が「大鳥蘭三郎・解体新書」で右が「日本医学の夜明け」版の扉画【クリックで拡大】


さて本題に入るが、では前記した二つのレプリカが見本としたオリジナル、すなわち底本の「解体新書」は同じ時期に刷られ販売されたものなのだろうか。共に安永三年に刊本されたものだがそのクオリティはともかく、気になったのは二つのレプリカの表紙の色と判型サイズが違っていたことだった。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版の表紙は雲母入鳥の子/渋茶だが、日本医学の夜明け」版の方は藍色である。拘るようだがレプリカ、復刻版となればオリジナルのままに再現するのが基本のはずだ。大切なのは中身であるからして表紙の色などどうでも良い…とは言えない。
馬鹿な物言いに聞こえるかも知れないが、杉田玄白や中川淳庵が刷り上がり製本された「解体新書」の表紙に藍色を見たのか、渋茶を見たのかは私にとってどうでもよい事ではないのである。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版は慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵のものを使用したと解説書にある。ただしこの原本は流布されたものが五巻ひと組だったのとは違い、上下二巻にまとめられその判型もやや大きいという。監修者の大鳥蘭三郎があとがきで「将軍家・宮家あたりに献上するために、特別に刷られたものではないかと推察される」と書かれているが、一方レプリカ製作に対しては一般に流布している五巻本の体裁をとっている。
しかし「日本医学の夜明け」版と比較すると確かに判型自体が縦横2,3mm大きいし刷られた版木の寸法もかなり違う。

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※判型の差比較。左が「日本医学の夜明け」版の奥付で右が「大鳥蘭三郎・解体新書」版の奥付。和本の判型も些か「大鳥蘭三郎・解体新書」版が大きい


現在のようにコピー機でプリントサイズを拡大縮小できる時代ではなく、「大鳥蘭三郎・解体新書」版の解説にあるように底本すなわち版木自体が大きかったと思わなければならない。
事情に疎い私などはどこか版木はひとつであると思い込んでいた向きもあるが、浮世絵がそうであったように最初から複数の彫り師に複数の版木を彫らせることは珍しいことではなかったようだ。さらに私自身はまた見たことはないが、版元の須原屋市兵衛の所在地が奥付に記載されているが、本によって「日本橋室町二丁目」と「日本橋室町三丁目」の二種類が存在しているという。理由についてはよく分かっていないようだが、三丁目の上が欠けて二丁目になったのでなければ版が違うということになる。

さて表紙の話しだが、ネットでググってみると初版本として残存しているいくつかの「解体新書」の表紙は藍色ではなく古書のため色あせたりしているが渋茶といった色であり、今のところ藍色の表紙を持つオリジナルには行きついていない。
この藍色の表紙で復元されている「日本医学の夜明け」版だが、セットに付属する470ページにもなる豪華な解説本によれば「靜嘉堂文庫」所蔵の「解体新書」を手本にしたとある。

靜嘉堂文庫といえば東京都世田谷区岡本にある専門図書館及び美術館である。国宝や重文を含む日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵しているが、事業主体は公益財団法人静嘉堂。そして同財団は三菱財閥の第二代総帥岩崎弥之助・第四代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足したとのこと。
しがってそこに収蔵されている「解体新書」だとすれば、由緒由来が不明なものではあるまい…。ただ残念な事にその「解体新書」のビジュアルが確認出来ないだけでなく同文庫は専門家のための図書館ということで一般からの問い合わせ窓口もないので現在も所蔵しているかどうかはもとより、表紙の色が藍色であるかどうかについて今のところ分からない。

Wikipediaによれば「解体新書」の原本は日本大学医学部、初版は九州大学医学図書館、津山洋学資料館、中津市大江医家史料館などに所蔵とあるものの各所蔵の表紙ビジュアルは大江医家史料館を除きネット検索では確認できなかった。
ともあれ一応ネットで調べられるだけ調べた範囲で以下に所蔵されているという「解体新書」は初版本と明記されているものを含めすべて表紙は渋茶だったと思われ、藍色のものはなかった。

・適塾所蔵
・国立国会図書館
・慶應義塾大学信濃町メディアセンター所蔵
・東京大学医学図書館所蔵
・内藤記念くすり博物館所蔵
・東京医科歯科大学図書館所蔵
・大江医家史料館所蔵
・研医会図書館所蔵
・明星大学図書館所蔵
・甲南女子学園阿部記念図書館所蔵
・さぬき市志度/平賀源内記念館所蔵

では「日本医学の夜明け」の「解体新書」レプリカ表紙はなぜに藍色なのか…。それがいまのところ分からない。
オリジナルも初版と重版で違ったのか、あるいは「日本医学の夜明け」の「解体新書」復刻版制作時に何らかの意図があって意図的にオリジナルと違う色の和紙を使ったのか。あるいは底本そのものが刊本以後に何らか手を加えられたのか…。
とはいえ現存している「解体新書」で安永四年とか安永五年の刊行日付を持ったものは見つかっておらず、何部刷ったかはともかくすべてが安永三年の刊本のようである。

繰り返すが「日本医学の夜明け」のプロジェクトで復刻された「解体新書」は靜嘉堂文庫所蔵のものだと解説書に記されている。そして本企画の監修は解剖学者、医史学者で東京大学名誉教授の小川鼎三と血清学者、医学史学者、東京大学名誉教授の緒方富雄である。すでにお二人とも鬼籍に入っているが当時医学界の重鎮中の重鎮であり、僭越ながら復刻版を製作するにあたり参考にしたオリジナルを軽視するとは思えない。だとすれば靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」表紙は藍色なのか?

また例えば「日本医学の夜明け」に「解体新書」同様復元された「蘭学事始」や「和蘭医学問答」を確認するとそれらは底本に忠実な表紙の色を使っている。
ということで、いまのところ靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」がどういうものなのか、表紙が藍色なのかどうかは調べた限り分からないでいる。

とにかくそうそうパソコンの前に座っていて都合の良い資料が見つかるわけでないだろうが、これが今のところ個人的に謎を追った限界である…。
無論原書漢文の内容を読む、確認するだけならこうしたレプリカである必要はなく、例えば西村書店編集部の復刻版で十分用は足せるわけだが、当時の “知” と “文化” そして関わった人たちの情熱をよりよく知るには限りなく本物に近いものを手にしたいとレプリカを集めてきた次第。
この私的な疑問・謎を解く旅は本そのものに関してだけでなく、その扱いやこれまで保存されてきた過程・歴史にも秘密があるようだ。
というわけで、後編につづく…。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・「大鳥蘭三郎・解体新書」付属「解体新書解説」講談社



「解体新書」および「蘭学事始」5つの謎

手元に「解体新書」および「蘭学事始」のレプリカがある。「解体新書」が漢文で書かれているのに対して「蘭学事始」はカナ交じりなので私にも何とか読み下すことができるが、別途現代語訳の書と合わせて楽しんでいる。今回はこの著名な「解体新書」や「蘭学事始」に関し私にとって興味深い5つの謎をご紹介したい。無論素人故、単に知らないだけのことに終わるかも知れないが、そうしたことを含めてこれからも多々調べて勉強したいと思っている。


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※「解体新書」と「蘭学事始」


まず “蘭学” とは何か…だが、鎖国が行われていた江戸時代、日本人が学んだオランダの学問のことだ。鎖国ではあったが幕府は長崎に出島という特別な場所を設けてオランダと限定した交易を許していた。出島は唯一西洋に開かれた場所であった。

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※出島の図。国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」付属「阿蘭陀医学伝来史絵図」より


しかし、オランダの技術や医療あるいは文化といった物を学ぶことは結局オランダ語を通したヨーロッパの先進医学や科学、文化を学ぶことに通じた。
なお “蘭学” という言葉は「蘭学事始」によれば杉田玄白らが出版した「解体新書」が広まってから使われるようになったものらしい。
そして、そもそも「解体新書」はドイツの医学書をオランダ語に翻訳した「Ontleedkundige tafelen (ターヘル・アナトミア)」が日本に持ち込まれ、それを前野良沢と杉田玄白の二人が奇遇にも別々に手に入れ、一緒に腑分け(解剖)を見学した事をきっかけに翻訳を決意した成果だ。

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※「ターヘル・アナトミア」と呼ばれたオランダ語版「 Ontleedkundige tafelen」1734年出版


また「蘭学事始」はそもそも杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った上下2編の手記である。
いにしえの日本と西洋の接触から、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究などの記述と続くが、何といっても白眉はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を前野良沢、中川淳庵らと翻訳し「解体新書」を出版するまでの苦心談である。

杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期のことが後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意したといわれている。
文化11年(1814年)にほぼ書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂を願う。そして翌年に完成を見るがこのとき玄白83歳。そして2年後の文化14年(1817年)に玄白は85歳で死去する。

(1)前野良沢の名に関する謎
最初の謎は「解体新書」に関わることだが、翻訳に一番貢献した前野良沢の名がない。それにはいくつかの説があるが、良沢は出版にこぎつけたとはいえその内容に満足できなかったため自分の名は出してくれるなと玄白に迫り、それを条件に出版に同意したという話しがある。奇人・完全主義者だったという良沢の面目やこれに尽きるといった話だ。

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※「解体新書」には前野良沢の名がない


しかし「解体新書」の序文は玄白および良沢共通の師であった長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛によるものだが、その中で前野良沢の名を上げているだけでなく「ああ、二君(良沢と玄白)がこの仕事でてがらを立てたことはなんといっても最高なことだろう。じつに天下後世にとっての徳である」と書いている。

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※序文は長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛が寄せている


確かに「解体新書」出版に前野良沢が不可欠であったことは彼の死後十一年経ってから玄白が執筆した「蘭学事始」に明記されたことでよりよく世に知らされることになった。しかし「解体新書」の序文を読めば前野良沢が深く関わっていたことは誰にも分かるはずだ。であれば良沢自身の願いであった「名を出さないで欲しい」という約束は守られなかったことになる。
良沢は納得したのであろうか…。
一方、こんな話もある。良沢が長崎にいったとき、九州の太宰府神社の神前で「自分は阿蘭陀の学問を学ぶにあたり、いやしくも真理を究めずにみだりに名を成そうとしたら、神よ、わたしを罰してくれ」と誓ったというのだ。

本来なら翻訳に携わった者としては前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の名が、そして協力者として石川玄常、桂川甫周、嶺春泰らの名が連なるのがあるべき姿のはずだ。それが前野良沢の名はなく翻訳はすべて杉田玄白が行ったと思える記載になっている。
これは一説に、「解体新書」の出版は下手をすればお上から発禁処分を受け、出版した当人たちも咎められる可能性があった。ために杉田玄白は前野良沢はもとより中川淳庵の名にも校正の意である(校)と明記し、自分がすべて訳したとして名の下に(訳)を付け、万一の場合でも良沢と仲間たちを守ろうとしたという説もあるが…。

ともあれ「解体新書」出版を境に良沢と玄白は別々の道を歩むことになるが、結果「解体新書」は大成功を収めその賞賛は杉田玄白一人が受けることになったため、玄白はどこか世渡り上手の要領がよい人物と思われることがあるようだ。
しかし玄白の判断で不完全ながらも出版にこぎつけたことでその後の蘭学の隆盛が実現したのは間違いないことだし、もし良沢の意見を受け入れ出版の時期を大きく後にしたならばそれこそ発禁となる可能性もあったに違いない。

何故なら「解体新書」出版の当時、世は田沼時代であり、蘭学に関しても寛大な時代であったことは間違いない。後十数年も経てば田沼意次が失脚し松平定信の寛政の改革が始まり、文化面でもそれまで衰退傾向にあった朱子学を振興させ、異学を押さえ込むようになったのだから出版は難しくなったに違いない。
事実1791年には林子平が「海国兵談」の版木を没収され、同じ年に山東京伝が戯作三点により手鎖五十日の刑を受けている。
さらにいえば、玄白のオランダ語翻訳の出版が医学・医療に関わることだったからこそ幕府の評価も高かったということだろう。これが他の分野だったらまた話しは違っていたのではないか。

そして杉田玄白の用意周到さ、根回しの見事さも特筆すべきだ。翻訳仲間に官医の桂川甫周を引き入れたこと。前記したように序文を長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛に依頼したこと、「解体新書」本編出版に先んじて「解体約図」といういわゆるパイロット版を出版して世の反応を確認したこと。また「解体新書」を法眼だった桂川甫周の父甫三を通じて将軍に献上しただけでなく老中たちにも献上。さらに京都にいる御所にパイプを持っている従弟に相談の上で時の左大臣九条家、関白近衛内前公、公家広橋家など宮家に献上している。そして三家より出版を祝う和歌を授かった。
これでは批判側は動けない…。

(2)書名の謎
「蘭学事始」の内容は玄白が書いた内容だけでなく弟子の大槻玄沢が玄白から聞き及んだ話などを追加してあるというが、取り急ぎ「蘭東事始」と題して出来上がったものを玄白に呈上した。したがって最初の書名は大槻玄沢自身が名付けたことになる。
しかしその名だが、別途「和蘭事始」と題した写本も伝わっている。そもそも「蘭学事始」という名の写本は発見されていないが、大槻玄沢が文化十三年にあらわした「蘭訳梯航」という書にたびたび「蘭学事始」という名が出てくるという。ということは「蘭学事始」という名も大槻玄沢が考えた名だということになる。

ただし原本は安政二年(一八五五年)の安政の大地震で失われ、写本もいつしか散逸し完全に失われたものとされていた。
その後、幕末になって神田孝平という人が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経て福沢諭吉はじめ有志一同が「蘭学事始」の題名で刊行したという事実がある。
福沢諭吉は明治二十三年の「蘭学事始再版の序」で、草創期の先人の苦闘に涙したと記している。

とはいえこれまたはっきりしない。明治二年に福沢諭吉が「蘭学事始」と題して出版したときの底本は「和蘭事始」なのだ。したがって発見された「和蘭事始」を福沢が出版に際して「蘭学事始」と直したのは事実だが、福沢が大槻玄沢が名付けた「蘭学事始」という名を知っていたとは思えないという。
何しろ発見された写本は彼らにとって未知のものであったのだから「和蘭事始」が「蘭学事始」という名でも呼ばれていた事実を福沢が知る由もないはずだ。

ということは偶然の産物ということになるが、福沢は「和蘭」より一般的な「蘭学」という言葉を使ったと考えるしかないということになる。あるいは片桐一男氏が自著「杉田玄白 蘭学事始」で述べているように写本そのものは無くなっていたとしても大槻家あるいは杉田家には「蘭学事始」という名が伝わっていたのかも知れず、それを知った福沢が出版に際して採用したとも受け取れる。

(3)”フルヘッヘンド” の謎
さて、「蘭学事始」の書名に拘り過ぎたかも知れないが内容においても突っ込みどころは多い…。
まずは前野良沢は勿論、一同と翻訳の苦労話として紹介されよく知られている「蘭学事始」の中の逸話だが、鼻のところで「フルヘッヘンドしているものである…」という箇所にいたったがこの語の意味が分からず悪戦苦闘したことが書かれている。しかし酒井シヅ氏の研究によれば「ターヘル・アナトミア」を一から訳された過程で気がついたこととしてこの「フルヘッヘンド」という語は「ターヘル・アナトミア」にないという。

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※「蘭学事始」にある "フルヘッヘンド" の記述部分


これまた片桐一男氏曰く、しいていえば鼻の解剖に関して "verhevene" (意味は盛り上がった)を指すのであろうとし、玄白の記憶違いとしか言いようがないようだ。

(4)腑分けに至る謎
これまで幾多の「解体新書」や「蘭学事始」の解説書を読んだが、ほとんど指摘されていないものの個人的に不思議でならないことがある。それは杉田玄白が前野良沢や中川淳庵を誘い、骨が原の刑場で初めての腑分けを見学する話しだ。そもそもそのとき持参した「ターヘル・アナトミア」の図と比べたところ寸分の違いも無かったことから翻訳を決意したというのだから重要な場面である。

「蘭学事始」によれば三月三日に杉田玄白の屋敷へ北町奉行曲淵甲斐守の家来が訪れ、奉行からの手紙として明日腑分けがあるのでよろしかったら見学に来ないかとの誘いをもらったという。
それ以上の詳しい事には明言していないが、そもそも小浜藩の奧医師であったとはいえ官医でもない一介の蘭方医であった杉田玄白になぜ腑分け見学の誘いが直接あったのか…。

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※「蘭学事始」に載っている杉田玄白肖像画


確かに大罪人が処刑された場合など、腑分け(解剖)の許される遺体が手に入ったとき、しかるべき地位の医者が幕府に(具体的には町奉行所へ)願い出ることで腑分けに立ち会うことは可能だったという。
しかし不思議なのは「蘭学事始」には「よい機会があれば自分も親しく観臓してみたいと思っていた…」とはあるが、玄白自身が幕府に腑分けを見学したい旨の届け出を出したという記述はないし、その気配もないことだ。

ということは穿った見方をするなら、誰か実力者というか奉行所などに顔が利く者に頼んだのかも知れない。なにしろアクションを起こさなければ奉行所から知らせがくるはずはない。
とはいえ、例え腑分けを見学したいという申し出をしたからといってもそうそう誰にでも簡単に許可が下りるものなら玄白ならずともとうの昔に実行していたのではないか。玄白自身「蘭学事始」に奉行所からの知らせは幸運と書いている。そうした幸運が「ターヘル・アナトミア」を入手して二ヶ月ほどで転げ込むなど話しが上手すぎやしないか。

またなぜ玄白をしてそうした実証精神を駆り立てたのかといえば、ひとつには事実を知りたいという医者としての探究心であろう。そしてもうひとつは彼が手にした「ターヘル・アナトミア」は小浜藩の公金で購入してもらったという現実があるからして、その成果を一日でも早く出したいという気持ちにさせたものと思われる。

ということでまったくの想像だが、その頃田沼意次は老中格に昇進しており側用人兼務でもあった。そして町奉行所は老中の管轄である。したがってもし私が小説を書くなら、杉田玄白は意次と親しかった平賀源内に口利きをしてもらった…というストーリーは面白いと思うのだが…。
事実杉田玄白と平賀源内は交流があったわけだし、いずれにしても腑分けのチャンス到来は幸運とかたまたまと言ったものではなくどこか政治的な臭いがしてならない。
なお見逃しがちだが、玄白らはこの三月四日の腑分けは初めての体験だったが「解体新書」を仕上げていく過程で別途腑分けに参加し自分たちの認識の再チェックをしている。

(5)杉田玄白、視野の広さの謎
最後は “謎” とタイトルはつけたが謎というより「解体新書」を開いたときに感激したことだ。それは「解体新書」の “巻之一” の巻頭に関わった者達の名が書いてある。それは前記したように杉田玄白を始めとして「若狭」「同藩」「東都」とそれぞれの所属を明記した後に中川淳庵、石川玄常、桂川甫周の四人の名があるが、問題はその上に “日本” と書いてあることだ!
いわば「解体新書」の Made in Japan 宣言である。鎖国していた江戸時代…18世紀の日本でこうした視野を持っていた人間がいたという事実にショックを受けた。

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※四人の名の上に "日本" と記されている


幕末に徳川を倒すと息巻いていた人々でさえ薩摩だ長州だのと己が所属する藩に縛られていた者がほとんどなのに安永三年(1773年)の出版物に “日本” と明記した杉田玄白はやはり尋常の者ではなかったに違いない。勿論この出版が日の本の医学の進歩に大きな役割を果たすであろうことへのアピールでもあったかも知れないが…。

問題は何故そうした藩を飛び越えた視野を持てたのかという謎だが、蘭学を阿蘭陀通詞吉雄耕牛に学んだことやカピタンらが江戸参府に来ると宿泊先の長崎屋に出かけて話しを聴くといったこともあったから、ヨーロッパの優れた文化を知ることで逆に日本という国を再認識したのかも知れない。しかしそうした人たちなら玄白以外にも少なからずいたわけだが、私にはこれまたどうも平賀源内との交際も影響しているように思えるのだ。事実「蘭学事始」には平賀源内の天才ぶりやエレキテルのことも書かれている。

しかし現実に玄白はもっと明白な意図から “日本” と記したと思われる。それは「解体新書」が漢文で書かれたことと無関係ではないだろう。玄白は奥州一の関の医師、建部清庵という人宛の書簡の中で「(漢文でかいたのは)解体新書が運良く唐(中国)までも渡ったときのため」と書いているという。漢字文化は玄白らにとって本家ともいえるものであったろう。その本家にも最新の情報を届けたいと考えたのではないだろうか。

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※「和蘭医事問答」二巻


なお、杉田玄白と建部清庵の間に交わされた往復書簡は玄白の蘭学塾において初学者に対する教材として読まれただけでなく、寛政七年(1795年)に大槻玄沢、杉田伯玄らにより一部が「和蘭医事問答」の題名で出版されている。ちなみに大槻玄沢は清庵の門人だったが清庵の勧めで江戸に出て玄白の門に学んだし、清庵四男由甫は後に玄白の養子(伯元)となっている。

ということで、取り急ぎ以上5つの謎をご紹介してみたが、すでに200年ほど経過しただけでなくその間幾多の戦争や災害などで貴重な資料が失われている事を考えると謎が謎で無くなる可能性は針の穴ほどだと思う反面、今後も意外なところで写本や手紙などが発掘される可能性もあり「解体新書」フリークとしては目を離せないのである。
なお掲載の写真はすべて当研究所がレプリカとして所有しているものを使った。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・平野威馬雄著「平賀源内の生涯 甦る江戸のレオナルド・ダ・ビンチ」ちくま文庫
・土井康弘著「本草学者 平賀源内」講談社
・大石慎三郎著「田沼意次の時代」岩波書店
・加藤文三著「学問の花ひらいて 『蘭学事始』のなぞをさぐる」




二度目の白内障手術顛末記

2016年11月に続き、先月2月27日に今度は右目の白内障手術をやった。今回は二度目なので多少心の余裕があったが,実際にその場になればやはり緊張する。前回はポッドキャストでその様子をお届けしたが今回はこうした記事で記録を残しておこうと思う。


■プロローグ
白内障の経験がある方には説明の必要もないだろうが、視界がぼやけて見えないのは実に不便である。例えて言うなら病気が進むと視界は曇りガラス状態になってしまう。近景も遠景も関係なく見えないものは見えない…。
これを直すには手術しかないわけだが、どのような手術も気が重い。特に白内障手術は眼を見開いての手術だけに心理的に怖いという気持ちが先行する。
例えば執刀医のメスが迫ってくるのが見えたとすればそれは嫌だ(笑)。

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※手術は日本医科大学多摩永山病院で行った


そんな不安と手術の顛末はポッドキャストをお聞きいただきたいが、同じ大学病院での手術だとはいえ様子が些か違っていたのも事実だった。
まずは手術の決断をし定期的に診察を受けているクリニックに紹介状を書いてもらって大学病院に出向く。ここで診察と手術日などを決めることになるが、細部にわたる説明はさすがに一度経験しているので安心して聞くことが出来た。

ともかく眼科はとても…非常に混んでいる。したがって手術日も1ヶ月半ほど後になったがこればかりは仕方がない。
その間二度病院へ行き検査や説明などを受けたが早くも手術の当日がやってきた…。
その日は朝8時30分までに病院に入らなければならなかったが、手続き上は一日入院の形になるものの特別なアクシデントがない限り即日退院し帰宅することができる。

■手術の順番を待つ
とにかく大学病院というところはひたすら待つことを要求される。受付を8時30分前に一番でやったからといって手術が一番になるわけではないようだ。
一時間半ほど待ってやっとベッドに案内されたが今回は三人部屋の真ん中。目薬やら血圧測定などの世話をしてくださる看護師さんいわく私の手術の順番は六番目だという。
患者番号や生年月日がプリントされているリストバンドをされ、支給された寝間着みたいな上衣に着替えて待つ。
「昼前には呼ばれると思いますよ」とのこと。

ベッドに横になってみたが狭くてリラックスできないしテレビを見る気分でもない。たまにiPhoneを取りだしてみることぐらいしかやることがないが、そういえば病室では通話は禁止だけどメールやらの使用はOKという時代になったのはいつの頃から…。昔はノートパソコンの持ち込みも禁止されたし、利用するには個室でないとダメと言われたときもあったから有り難い。
そんなことを考えているとやっと順番が回ってきた…。
「さあ、手術室にいきましょう」と声をかけられるが、前回は病室から車椅子で手術室のある別の病棟まで向かったが今回は歩き…。

手術棟の控え室に入ると車椅子に座らされて待機となるが約10分ほど待つといよいよ私の番になった。
車椅子のまま手術室に入り、専用の椅子に座らされ履き物を替え、頭にはキャップをそして腕には血圧計と胸には心電図をモニターするためか円盤のプレートを数カ所貼られる。
今回は右目なのでそこだけ開いているシートを顔に掛けられ瞼を開ける器具を装着。視界は明るい照明で覆われる…。したがって部屋の様子はもとより執刀医の顔は見えない(笑)。

■手術の感想
手術が始まると執刀医が多々声をかけてくれるが、今回私の手術に臨む方はひとりではなくどうやらインターンあるいは助手という立場の人がいることがわかる。専門用語なので話しの意味は分からないものの何かを渡すように指示したり、洗浄液かを眼に流すように指示したりしながら執刀を進めていく。
ただし視界は塞がれているので回りの様子はまったくわからないものの、前回と比較するとどこかアナログ感といったらよいのか、執刀医の息づかいというと大げさだが、人間の手で手術を受けているといった感覚があるのだ。
無論実際がどうであったかは不明だが前回はどこか執刀医は顕微鏡を見つめ、遠隔操作のレーザーメスで手術をしているといったイメージがあったのだが…。

それはともかく一番の違いはどうしたことか「痛かった」ことだ。前回は異物感はあっても手術中に痛みはまったくなかったが、今回はメスだか針だか知らないが我慢の限界になったので痛いと言葉に出した。
結果、麻酔を追加してもらう。おかげで人工レンズを装着するあたりからは痛みは感じなくなった。どうも私の右目は瞳孔が開きにくいといった眼のようでそんな説明を執刀医がしつつ「問題なく進んでいますから大丈夫ですよ」とはいうがいずれにしても痛いのは嫌だ。

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※術後の右目はガーゼの固まりで覆われる


今回は手術室に入るときに時間を確認しておいたが、ちょうど30分で手術は終わり、相変わらず右目には分厚いガーゼが絆創膏で固定された。これは明日の検診までは取ってはならないとのこと。
ということで病室までは車椅子に乗って帰還となった。
これから約一時間ほど術後の経過に問題がないかの確認を含めて病室で待機することになるが、この時間を利用して昼飯が出る。まあ病院食だから期待はできないが、正直腹が減っていたし女房がコンビニで買っておいてくれたコロッケを追加し完食。

時間がきたのか看護師から術後の注意や目薬の点しかたなどの指示があり「今日はこのままお帰りになっていいですよ」と言われホットする。ただし前回同様分厚く特大サイズのガーゼで右目が覆われているため眼鏡がかけられず、別途用意してきた(前回も使った)ゴーグル型の保護めがねを着けて帰ることになった。

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※ゴーグル型の保護めがね。これだとガーゼをカバーできる


今回も女房に全面的なサポートをしてもらったが、片眼であることはもとより眼鏡が使えないのでド近眼の左目だけでは安心して歩けないからだ。

■術後のケアが大変
こうして病院を後にしたが、どうしても左目の手術のときと比較してしまう。
2016年11月の左目手術は手術中の痛みはまったくなかったが就寝の頃になるとかなりのゴロゴロ感が出て来て心配になってきた。ちょうど初めてハードコンタクトレンズを装着したときの感じといったらよいのか…。しかしガーゼは絶対外してはいけないと言われていたからその上に保護めがねをしたまま床に入ったが、疲れもあったのかすぐに寝てしまい、明け方に目が覚めたときにはゴロゴロ感が取れていたので安心したことを覚えている。

対して今回の右目は麻酔のおかげで痛みは感じないが、そのゴロゴロ感が最初からついて回っている。この違いの理由が分からないだけに不安だが我慢するしかない。
そして夕刻には愛犬の散歩が待っている。保護メガネをつけ、これまた女房と一緒に散歩に出たが幸いというか天気が悪かったこともあり短めに終えることが出来た。

ともかく不自由な目でなにをする訳にもいかずに早めに就寝とした。勿論一週間は保護めがねは着けたまま寝なくてはならない。
ただし寝る頃になるとゴロゴロ感はかなり薄れたこともあり寝てしまった。
翌日は9時30分に診察の予約を入れてあるのでこれまた愛犬の散歩は早々に終えて病院に向かう。
その日もかなり待たされたがまずは分厚いガーゼが外されると幸い視界はクリアで問題はないようだ。視力検査も矯正視力ではあるが1.2まで出た。

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※ガーゼが外れた後はUVカット仕様のスマートで機能性に優れた保護めがねに変えた


経過は良好ということでまずは一安心だが、これから一週間はゴーグル着けて寝なければならず、顔を洗ったりは我慢せざるを得ない。また術後に一日4回点す目薬が三種類、これまで使ってきた緑内障用の目薬三種と共に朝・昼・夕・就寝前の4回使い分けて点さなければならない。それも連続的に点しては駄目で次の目薬までは最低5分間は空けなければならない。
実に面倒くさい。

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※左三種が今回の術後に追加された目薬


■エピローグ
無論そうした面倒や不自由を克服すればこれまでとは別世界がやってくる。いや、これは大げさな物言いではなく見えなかったのが見えるという健常者にとって当たり前のことがいかに素晴らしいことなのかが分かるのだ。
私の場合、もともと左右の視力が極端に違っていたからメガネやコンタクトレンズは欠かせなかった。それでも両眼で眼前にあるモニターの文字や手にした本の文字にぴたりとピントが合うのは何十年ぶりか…。

言い忘れたが、左右共に人工レンズは40センチほどにピントが合う、いわば単焦点レンズだ。ということは術後視力が安定してきて気がついたことだが両眼共に手元がよく見えるということだったが、これは老眼が矯正されたことに等しいのではないか。
言い方を変えれば近くが見えて遠くが多少ボケるという視力はそれこそ中学生のころ黒板が見えずに席を前にしてもらったり、それでも不自由だったので初めて眼鏡をかけたときと同じともいえる(笑)。
勿論少年の時には緑内障もなければ飛蚊症も目立たなかったからまったく同じではないが、こと単純に視力の問題なら57年ほど前に戻ったともいえるのかも。

それはともかく一般的な白内障は手術で治せるわけだから、もし不自由されている方がいらっしゃれば早めに信頼できる眼科医に相談されることをお勧めしたい。




メリークリスマス !

メリークリスマス! 我が家は「寝ル〜クリスマス」でしたが、せっかくなので?女房が作ったクリスマスカードをアップしておきます。
皆様よきクリスマスを…。でも本音は「クリスマスがなんだぁ!」といった気持ちなんですが(笑)。

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Author:appletechlab

主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。ゆうMUG会員