ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(5)

MITS社のAltair 8800は当時誰もが予測できなかったほど売れた。しかしすでに記したように多くの注文が舞い込んだものの生産が追いつかず発送は遅れに遅れた。その上にMITS社はいくつかのオプションボードを発表するがこれまた出荷されないものが多かった。好調だったMITS社だったが次第に勢いを失っていく...。


MITS社は意欲的だった。ハードウェアを売るだけでなく独自のコンピュータ・クラブを全国的に組織し、自らコンテストを開催し、ニューズ・レター「Computer Notes」を発刊することもやった。このニューズ・レターの初期にはビル・ゲイツとポール・アレンが執筆に協力していた。
結果論ではあるがMITS社のエド・ロバーツは足下がおぼつかないうちに事業の手を広げすぎたようだ。

とにかくAltair 8800は組み立てキットだったこともあり、部品が粗悪なのか組立方が悪いのかはともかく「動かない」という顧客の対応に大きな時間を割かれることになった。その上、新に発売をスタートした4Kメモリボードがまともに動かなかったのである。
ビル・ゲイツらの「メモリボードには根本的に問題がある」という忠告をエド・ロバーツは無視した。なにしろMITS社はAltair 8800本体だけでは利益が上がらなくなっていたこともあり競合も出始めたとはいえメモリボードの売り上げが必要だったのだ。

さらに悪いことにMITS社は昔ながらの販売戦略をとった。それは人気のAltair BASICとMITS社のメモリボードを抱き合わせて販売しようと画策したことだった。
MITS社のメモリボードと共にAltair BASICを購入する顧客にはAltair BASICの価格は150ドルだっだが、他社製のメモリボードを買う...あるいは持っているユーザーがAltair BASIC単体で買おうとするとAltair 8800本体よりも高い500ドルという値付けをしたのである。それでもまだMITS社のメモリボードが問題なく動けば話しは違ったのだろうが相変わらず同社製のメモリボードは動かなかった。ただただエド・ロバーツが「動く」と信じていただけだった。

エド・ロバーツはともかく売り上げを増やし、会社を拡張することしか念頭になかった。そして開発スタッフとしてMITS社の応援部隊の1人になっていたポール・アレンが手を広げすぎるからと反対したモトローラ製MC6800プロセッサを使ったAltairの開発をもエド・ロバーツは1975年末に強行する。
開発された6800マシンはAltair 680bと命名され、Altair 8800よりさらに低価格に設定された。しかし8800用の部品は680bには使えず、当初のAltair BASICもそのままでは互換性がなかった。そうした問題を解決しAltair 680bの出荷を急がすために要員も大幅に必要となった。
MITS社の社員数は一時期の12名から100名以上にも膨れあがった。

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※ポピュラー・エレクトロニクス誌 (1975年11月号)に掲載されたMITS社Altair 680b


1976年の半ばにもなると競合他社の台頭が目立つようになる。その筆頭がIMSAI社だった。IMSAIはAltair 8800のコピーだったが同年10月にコモドール社がMOSテクノロジー社を買収しパソコンの販売に乗り出すという情報も耳に入ってきたしタンディ社もパソコンの製造販売の実現に動き始めていた。すでに50社ほどのハードウェア・メーカーが市場に参入し始めていたのである。
1977年4月にサンフランシスコで開催された第一回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)でコモドール社のPETが発表されApple Computer社のApple IIがきら星の如く登場した。Altair 8800が計測器やミニコン同様金属の箱形だったのに対してApple IIはアイボリーカラーの樹脂製ケースに包まれフルキーボードも実装しており実に魅力的だった。
市場は確実にホームコンピュータの時代からパーソナルコンピュータの時代に移行していたのである。

その頃になるとMITS社のエド・ロバーツの頭の中はあの電卓製造販売で失敗した悪夢が宿っていた。
ロバーツは言う「一度ああいう目にあって、翌日給料を払えるかどうか毎晩眠れずに思い悩むとかなり臆病になり、まったくまともな決定を下すことができなくなる」と…。
結局エド・ロバーツは1977年5月22日、MITS社を当時ミニコンとメインフレーム用のディスクやテープ装置のメーカーだったパーテック(Pertec)社に600万ドルで売却した。
買収される直前MITS社はすでに業界での支配的なポジションを失いつつあったがパーテック社のもとでMITS社は確実に分解し始めていった…。
パーテック社の失敗はホビーコンピュータの市場とユーザーの心理を理解できず、MITS社をあたかもミニコン市場にある大企業のように運営しMITS社の幹部社員を遠ざけたことによる。

私の手元にAltairがパーティック社に移った直後と思われる1977年作成の広告のためのリーフレットがある。
中央にホッチキスで綴じた跡があるところから雑誌かなにかの中綴じとして告知されたもののようだが、当時の様子を垣間見ることができる。
本広告は最大26%引きで購入できることを謳ったもので表紙下には “Share our lower production costs. Mainframes now reduced up to 26%.” と “メインフレーム”という記述がある。

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※1977年製作のPertec社広告リーフレット表紙


無論厳密な意味において “Mainframes” の定義は希薄だが、やはりメインフレームと聞けば一般的には業務用の大型汎用コンピュータのイメージが強いし当時は尚更であったろう…。パーティック社は時代とは言えそれまでのMITS社が大切にしていたハッカーやホビーユーザーの心理を理解せず、Altairを安価なメインフレームあるいはミニコンと捉えた販売戦略を推進したのである。
カタログの見開きの中身は Altair 8800b Mainframes と8800b -Turnkeyモデル、そしてAltair 680b Mainframeおよび680b -Turnkeyモデルが対象になっており、すでに1975年にリリースされたAltair 8800オリジナルモデルはなくなっている。そしてここでも “Altair 8800b Mainframes” とはっきりとしたメインフレームの表記がある。

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※前記広告の見開き


ちなみにAltair 8800bとは初期モデルAltair 8800の改良型で、アキュムレータの内容を表示・変更できたり、I/Oポート空間の読み書きが可能になったモデルで、ためにコンソールパネルのデザインが大幅に変更されている。 そしてTurnkeyモデルとはいわゆるAltair後期型の製品で、Altair 8800のようなパネルスイッチによるブートが不要で電源を入れるだけでフロッピーディスクから…例えばCP/Mを起動できるといった製品である。したがってTurnkeyモデルは技術系ユーザー相手というより実際に事務処理を求めるユーザー向け製品でありフロントパネルにあった操作用のトグルスイッチなどは省かれている。
Turnkeyモデルはいわばホームコンピュータが文字通りのホビー対象から実務に役立てようとする時代の流れに沿った製品ではあったが、だからこそ例えばApple IIといったスマートで組立も不要、そして使い易いパーソナルコンピュータにその座を明け渡さなければならなかったのだ。

その後パーテック社は約1年間Altairを生産したが2年も経たないうちにMITS社は消滅した。
MITSの創立者エド・ロバーツはジョージア州に農場を買うと共に望んでいた医学の道に進んだが、その後2010年4月1日、肺炎で亡くなった。68歳だった。
ビル・ゲイツとポール・アレンは同日、「われわれの友人、そして若き日の指導者でもあるエド・ロバーツの死を深く悲しんでいる。ご家族にお悔やみ申し上げる」と合同で追悼の声明を発表。さらに2人は、ロバーツを「パーソナルコンピュータ革命の真のパイオニア」と呼び、「彼はわれわれ〜コンピュータが一般的になるずっと前にこの技術に関心を持った2人の若者〜に賭けてくれた。彼には常に感謝してきた」と述べている。

【主な参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~4月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊

田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」を読了

私にとっては少々気が重い一冊、田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」を読んだ。日々あの東日本大震災からこのかた、東電原子力発電所の事故とその影響のニュースで満ちあふれているが正直今もってなにが本当でなにが嘘なのかがなかなか分からないのが現状である。しかし今後の日本にとって大きな後遺症となるであろう今回の事故とは一体何だったのか、私たちは知らねばならない。                                                                                                                        
私は戦後の混乱期に生まれた。両親などから戦争の悲惨さは耳たこになるほど聞かされたし成人になってから長崎の原爆記念館にも立ち寄ったしそれなりに歴史的な事実と思われることを知り、つきなみだが二度とこのようなことを繰り返してはならないと考えてきた一人である。
反面高度成長期のまっただ中に放り出された年代として原子力の平和利用と謳われた原子力発電に関してほとんど無関心だったことも事実であった。私は保守でも反保守でもないつもりだが、どこかでお偉い政治家と頭が良くその道の専門家が検証し進めていくことに間違いはないだろうという無批判の年代だったといえる。

それがどうだろうか。自身の認識の甘さを棚に上げて言うが、今回の東電事故に関して専門家という輩がいかに役に立たない机上の空論で人心を掌握していただけの人たちだったことに驚く。そして非常時にこそ国民の安全と平和を自身の命をはって守ってくれるはずの政治家たちの無策無能ぶりにあらためて怒りがわいてきた。
さらに驚くことは我々国民に隠されていた情報がいかに多かったかにも呆然とする。これで国民に責任をなすりつけるのはまさしく本末転倒であり良くも悪くも我々には正確な判断ができないような情報操作がなされていたということになる。

繰り返すが個人的にこれまで原子力発電の有無や賛否に関してほとんど無関心だった。別に自分の生活さえよければそれで良いと考えていたわけではなく前記したように国策として必要であり、それにより我々の日常生活が安全かつ豊かになるなら良いではないか…。たとえ万一トラブルが生じたとしても専門家と称する人たちが技術的にもなんとかしてくれる…と考えていたフシがある。だってそのための専門家でしょう!
例えば航空機の開発製造の専門家チームはその構造から飛行にいたるまでの術を熟知し、万全の技術で航空機を設計し運航する。だからこそ我々はただただ安心して旅客機に乗ることができる。我々一般人は飛行機の構造やその操縦の仕方を知る必要はないし、知らなければならない義務もないはずだ。すべては専門家…プロフェッショナルたちのお膳立てどおりにすれば楽しく安全な旅ができると思っている。原子力だって同じ感覚だった…。

しかし原子力の専門家、特に発言権の強い専門家と称する人たちほど使用済み核燃料の処理といった重大なことに関しても技術的に未知数のままで原子力の利用を推進してきたというのだから呆れるしその事実は万死に値するものだと思う。
事故後、テレビの解説に登場し「ただちに生命にかかわる問題は無い」を繰り返した専門家の語り口を耳にしても彼らの説明する話しは要点がボケて内容のないコメントばかりだったことは記憶に新しい。

とはいえいまでも報道される情報が真実で正しいのか、なにが間違っており嘘なのかさえはっきりわからないのが現状だ。それに一般人が原子力発電…特にトラブルの現実とその対処に関して正確な情報を集めるというそのこと自体簡単ではないが、まずは何が起こり、何故起こったのか、原因は何なのか、責任はどこにあるのか、そして今後どのようなリスクと対処方法の有る無し...といった至極当然なことを精査してみようと思った。
とはいえ自己矛盾ではあるが、世の中に出ている原子力関係の情報や書籍はすべて何らかのバイアスがかかっていると考えて間違いない。そう考えてしまうように仕向けたのは政治家たちであり専門家たちである。

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※田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」筑摩書房刊表紙


そうした難しい選択の入り口として私が選んだ一冊がこの田口ランディ著「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」という新書であった。
無論私は田口ランディという作家について「アルカナシカ」「マアジナル」といった著作を読んだだけの一読者であり、正直その人となりを十分に知ったわけではないが、他の情報と合わせて田口ランディとはどこかで同じ波長を感じる…と思ったからだ。
田口ランディは私より一回りも若い世代だが「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ」を読むと核というものに関しどこかその思いや考え方といったものが私自身の考え方を代弁しているように思え、得心が重なっていく。

本書「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」は著者が「12年間考えた経験から、あなたに伝えたいこと」とあるようにそもそも核とはなんなのか、核兵器の歴史とヒロシマおよびナガサキに使われた経緯といった歴史、原子力平和利用の安全神話、そしてフクシマ第一原発事故後をどう生きるか?といった大変重大な問題について田口ランディ流の語り口で解説し自身の思いを記し、読者に問いかけている一冊である。
また本書は私がこれまで考えもしなかったことに意識を向けさせた…。たとえば「ナガサキになぜ原爆ドームがないのか?」と…。
結局終章に筆者が書いているように我々は原子力に関してずっと隠蔽され続けた歴史の中で生きてきたといえる。
我々世代の日本人が明るい未来と平和の象徴のように憧れてきたあの「鉄腕アトム」のパワーが原子力だったことを知りつつ、現実のそのパワーとリスクに対しては直視せずどこか目を背けてきた感があるのかもしれない。
「ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ~原子力を受け入れた日本」はイデオロギーを超えてフクシマの事故後の我々がどのように核と向き合っていくべきかを問いかけている。
一読をお勧めしたい。

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ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)

2011年9月10日 初版第1刷発行
著 者:田口ランディ
発行所:株式会社筑摩書房
コード:ISBN978-309-20573-1
価格:1,800円(税別)

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ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(4)

Altair 8800の成功はまずポピュラー・エレクトロニクス誌の企画なくしては始まらなかったと考えられるが、その後はユーザー同士の口コミの効果も大きかった。そしてどの時代にも並外れて行動的なユーザーが存在し、この個人で所有できるコンピュータの存在を積極的に広めた人物も目立った…。


そうしたパワーユーザーとして知られている人物の1人がスティーブ・ドンピアだ。
建築業者だったドンピアはポピュラー・エレクトロニクス誌の記事に啓示を受け、早速MITS社に小切手を送りすべての部品と周辺機器を1つずつ欲しいと注文する。
彼はすでにコンピュータに興味を持ち、ELIZAプログラムの一種を楽しんだりBASICブログラムを勉強しつつ自宅にテレタイプを購入していた人物だった。

ドンピアは一日も早く組立に必要な部品を手にしたいと考えたが同時に果たしてMITS社という企業は本当に存在しているのか...を確かめたくなった。
なにしろMITS社はポピュラー・エレクトロニクス誌によればニューメキシコ州のアルバカーキというところにあるという。しかし行ったことも見たこともない場所にあるという会社に多額の小切手を送ったのだ。会社の存在確認と、会社があったら必要な部品を一式その場で調達してこようとドンビアは考えた。
飛行機でMITS社のあるアルバカーキに向かい、レンタカーを使い知り得た住所付近を5回も回った…。
彼は広い芝生の中にMITSという標示がある立派なビルを探していたが、実は商店街のマッサージ・パーラーとコイン・ランドリーに挟まれたとある小さな建物だったことに驚く。しかし間違いなくMITS社は存在した。

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※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス」誌の2月号に載ったAltair 8800の広告


ドンピアは気がつかなかったが近くの駐車場には3週間も前からオーダー済みAltair 8800キット一式の配達準備ができるのを待っているハッカーもいた。
それほど出荷は大幅に遅れていた。長い間待っても品物が届かないからと当然苦情も多々舞い込んだ。
電話を受ける女性は「大丈夫、必ずコンピュータは届きますから」と同じ文句を繰り返していたが中には強い態度に出る客もいた。
そんなときMITSの社員は「わかりました。お名前は?経理に言ってすぐに返金用小切手を振り出させますから…」というと客は決まって大人しくなった。
「いや、そうじゃない。欲しいのは小切手ではなくマシンなんだ!」と...。

結局スティーブ・ドンピアは製造番号四番のAltair 8800を完成させることができた。しかし苦労して組み立てたAltair 8800ができることはフロントパネルのランプをチカチカと点滅させることだけだった。
アマチュアのパイロットでもあるドンビアはある日、プログラムを書きながら小型ラジオで天気予報を聞いていた。そしてAltairのプログラムをスタートさせたとき、それは起こった。
側に置いたラジオが「ピィーツ、ピィーッ」と大きなノイズを発したのである。Altairがプログラムを実行していく度にラジオと周波数の干渉が起きノイズが出たがノイズは時に低く時に高く鳴った。ドンビアは驚喜する。何故なら彼はAltair 8800初の周辺機器を発見したからである。

大きな問題はノイズ音のコントロールだ。もしプログラムでノイズの音程をコントロールすることができたらAltairで音楽を演奏させることができるに違いない…。
8時間ほどの格闘の末、彼は音階のチャートを作り上げ作曲用のプログラムを完成した。そして次のホームブリューコンピュータクラブの会合時にデモするためビートルズの「フール・オン・ザ・ヒル(Fool on the Hill)」を演奏する手筈を整えた。

だからというわけではないが、コンピュータと音楽は相性が良いらしい…。何故なら私自身もPET2001というオールインワンのマイコンを入手したときプログラムのセーブとロードのためのカセットテープレコーダーを別にすれば最初に接続した外部機器は小さなアンプ付きスピーカーだった。それを組立てマイコンと繋いで音楽らしきものを自動で奏でるプログラムを組んだものだ…。それは1979年のことだった。

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※1979年、私がマイコン雑誌に投稿した自動メロディー出力プログラム


ともかくドンピアの努力は続く。クラブでの実演はプログラムを入力するところから始めなければならない。
何しろ外部記憶装置、すなわちフロッピードライブとかカセットデッキあるいは鑽孔テープによるプログラムの保存とローディングの環境が整っていない時期だったから、Altair本体のスイッチを切ったら次はまたゼロから手入力しなければならなかった。
そもそもAltair 8800をホームブリューコンピュータクラブに持ち込んだだけで会場内がざわついた。ほとんどの参加者はまだAltair 8800の実物を見たことがなかったからだ。
クラブの会合は古い学校の木造校舎2階の一室で開催されたが、やっとプログラム入力が終わりかけたとき、廊下で遊んでいた子供がコードに躓きコンセントが外れてしまうというアクシデントが起きた。無論入力したプログラムはその一瞬で消え失せたがドンビアは怯まずAltair 8800のフロントスイッチを操り最初からプロクラムの入力をやり直した。
準備ができドンビアがAltair 8800の実行スイッチを入れたとき上に乗せたラジオが文字通りのノイズ音を発し始めた。しかしそれは間違いなくメロディーを奏でていた。

部屋中のハッカーたちはあれこれと質問したい気持ちも忘れ畏敬の念にうたれ静まりかえっていた。
ドンビアのAltairはビートルズの曲を終えると息をもつかさず次の曲の演奏を始めた。それは「デイジー」だった。
「2001年宇宙の旅」でHAL9000コンピュータがボーマン船長に思考回路を止められる際に歌ったあの曲だ...。
これ以上コンピュータに奏でさせるに相応しい曲があるだろうか…。演奏が終わると部屋中に拍手と歓声の嵐が巻き起こりハッカーたちは飛び上がって手をたたき合い喜んだ。
彼らが目にしたものはこれまで誰もが思いつかない新しいアイデアだった。まさしく彼らにとってコンピュータの可能性に確信を持った歴史を書き換える大事件だったのである。
ドンビアは続けて自身がMITS社を訪問したこと、そこで見たことを報告すると会場は再びざわめいた…。

スティーブ・ドンピアはその後ピープルズ・コンピュータ・カンパニーの会報に「MUSIC OF A SORT」というタイトルでその経験を紹介しプログラムの機械語コードをも公開した。ためにしばらくの間、Altairオーナーたちの多くがAltairを楽器?として楽しんだという。
ちなみに世界は広い…。YouTubeでAltair 8800bを使い「Fool on the Hill」を演奏させている映像がある。ピッチやテンポなど1975年当時にドンビアが奏でたものとは違うかも知れないが、まあまあこんなものだったと思う。



※Altair 8800bによる「Fool on the Hill」の演奏


現在、若い方たちにとってはこの程度のことで大の大人達が嬉々とした事実を信じられないかも知れない。しかしこのエピソードはホームコンピュータにおけるひとつのエポックメイキングであったことは間違いなく、こうした工夫の積み重ねの上に現在の我々があることを忘れてはならない。

つづく

【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~4月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「コンピュータ~写真で見る歴史」タッシェン・ジャパン社刊
・「ハッカーズ」工学社刊

ラテ飼育格闘日記(251)

台風15号、皆さんの所では被害はなかったでしょうか。オトーサン的にはこの台風は家の中にいても一時は恐怖を感じたほどの凄まじい雨風だった。シャッターは大きな音を立て、家はときおりミシッといやな音と共に揺れ、風の音なのだろうか「ゴー」という地鳴りのようなものが耳を騒がせる。無論ラテは怖がってオトーサンから離れない。                                                                                                      
その日の朝、所々で小雨の降るなか、オトーサンとラテは女房の通勤時間に合わせて家を出たがラテは相変わらずの迷走散歩希望のようで立ち止まってはあっちを眺め、くるっと回っては立ち止まる…といったまったくどうしようもないスタートとなった。
結局オシッコだけしてスタスタと自宅に戻ってしまうという困ったチャンである。それも一日天候が安定しているなら夕方の散歩に時間をかければよいが、当日は台風15号が日本列島を縦断することがほぼ決まっていて予報によればそれこそ夕刻が関東地方は雨風のピークになるらしいという情報だったから正直困ったな…と思っていたがこればかりは仕方が無い。

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※ラテの好奇心は相変わらずだ


昼過ぎ当たりから台風らしいというと語弊があるが雨風が強くなり、時折息継ぎのようにふっと風が止んだと思うとまた突風のような強い風が吹くという典型的な台風状態になってきた。
それまで階下で寝ていたラテは窓のシャッターが強い南風でガタピシと音を立てるのが怖いのか、2階のオトーサンの仕事部屋まで上がってきて足下のフローリングに寝そべっている。
オトーサンはフローリングでは些か寝心地が悪かろうと大きめのタオルケットを折りたたみラテを退かせフローリングに敷き「ここで寝な」と言うが頑固者の娘はわざわざタオルケットを外してやはりフローリングに腹ばいになる(笑)。

実はその日の午前中、オトーサンは歯医者に行ったついでにコンビニで自分の昼食と台風に備えた夜の食材などを仕入れていた。したがってちょっと遅めの昼直をとろうと階下に降りるとラテもいそいそとついてくる。
オトーサンはキッチンにある小さなテレビをONにし、台風関連のニュースを見ながら簡単な食事をしたが、その間ラテは食べ物を欲しがるわけでもなくリビングの端に体を伸ばして横になっているが雨音が激しいし相変わらず窓のシャッターが奇妙な音を立てるので落ち着かず、眠れないようである。

テレビのニュースによれば台風は静岡付近に上陸したとのことで続々と被害の様子が映し出される。
台風の雨風が一段と強くなったのは午後3時くらいだろうか…。これぞ台風直撃だといわんばかりの雨と風が猛威をふるい出すがとにかくオトーサンは家の中でじっとしているしかない。しかし心配なのは女房である。
新宿に勤務先のある女房が帰宅するであろうその時間帯にまさしく台風の猛威はピークになるという予報だから、少しでも早く帰るよう祈るしかない。

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※通常の雨の日、ラテはよく寝るがさすがに台風のときは寝られなかったらしい


オトーサンはいつものようにコンピュータの前に陣取ってはかどらない仕事に向かいながらTwitterなどで台風情報を集めたが突風で一瞬家が微妙に揺れるようになってくる。
先ほどテレビのニュースで見た道路標識が倒れたり、倒れた樹木がタクシーのボディを直撃したり、あるいは商店のガラスに何かがぶつかったのだろうか、一見丈夫そうなガラスが割れ落ちたりする映像がフラッシュパックしていまにも家の一部が吹き飛ぶような錯覚に陥る。窓ガラスには文字通りたたき付けるような雨といった具合で一時は恐怖を感じた…。

夕方5時になり女房から「これから帰る」と電話があったが実にタイミングの悪い決断である…(笑)。
すでに新幹線などはもとよりだが私鉄各社も運休を発表し始めたときであり、会社を出たところで電車にいつ乗れるか、いつ帰れるのかは分からない。一瞬あの3月11日を思い出す。
オトーサンは女房に、なにか食事をするなりして会社に戻った方がよいとメールを送る。ラテの散歩も心配だけど女房も帰宅困難者になっては大変だと心配の種が増えた。
何しろ電車はいつ運転開始するかは分からないわけで、続けて女房から来たメールによれば皆考えることは同じなのだろう…時間を潰そうと喫茶店を探したが満員らしい。
結局念のため食事をしてから一端会社に戻るという返事が来たのでまずは一安心。後はいつ台風が過ぎ去るかだ…。
なにしろ朝の散歩から12時間近く経過している間、自宅でオシッコをしないし勿論朝ウンチもしていない。そんな影響からか隣にいるラテが「ぷうっ」と小さなおならをする(笑)。やっぱり我慢している感じ…。
しかしこの状況では出たくとも出られない。TVのニュースによれば後2時間程度で雨は止むだろうとのことなのでそれまで我慢してもらうしかない。無論オシッコシートはいつもの所に敷いてあるが相変わらずそれを使う気配はない。

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※散歩途中でこうした樹木が倒れている場所が数カ所あった(上)。また企業の研修施設のフェンスが崩れ落ちている(下)


結局19時になると確かに雨はほとんど止んで風も弱くなったが、念のためと後30分待ち19時半にラテを連れて自宅を出た。
遊歩道をはじめ、あちらこちらに枝が折れた木々が散乱しているだけでなく壊れた傘が置き去りに放置されているのがあぶない。
それに大企業の研修施設のフェンスが何か当たったのだろうか、一部無残に崩れ落ちている場面にも出くわした。やはり侮れない台風だったのである。
幸いラテはウンチもオシッコも無事に済ませて凱旋したが、その夜はやはり日中に熟睡できなかったからだろうかよく眠っていたようだ。

第1回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)の会報を眺めて...

先にお伝えしたとおり1977年4月に開催された第1回「ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF」の正確な情報を得ようと当時発行された「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」の会報(CONFERENCE PROCEEDING)を手に入れたが、今回はその会報そのものをご紹介してみよう…。                                                                                                                        
このWCCFについては別途精査してから分かったことをレポートしたいが、正確な情報、一次情報を得たいとすでに34年も前の資料を探していた。しかし入手した当人がよくもまあ完全な形で残っていたと感心しているが結果的にはこれも主催者で世話役のジム・ウォーレンの努力によるところが大きいようだ。

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※「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」に掲載されているジム・ウォーレンを始めとするWCCF主催者たち(1977年当時)


なぜならすでにその時、雑誌の編集者であったこともあって手作りのコンピュータフェアではあったものの会報は形だけの薄っぺらなものではなく300ページ以上もの本格的な物を作ったこと、そして正確なところは不明だが書籍コード(仮のものかも知れないが)も取得し大量に配布したからこそ現在まで残っていたものと思われる。なお価格は12ドルで販売された。

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※「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」の会報表紙


会報の厚さは約19mmほどもありレターサイズ判で黄色の表紙である。中身はいわゆるざら紙で正直印刷も良くないし掠れている箇所も目立つがこれだけの原稿を集めて一冊にまとめるだけでも苦労が偲ばれる。
原稿はタイプライターで打ち出したものを時には縮小して切り貼りし、版下にしたものと思われるがさすがに表紙のデザインなどには注意が向かなかったようで正直味気ない作りだが、表紙中央の “CONFERENCE PROCEEDING” の下には “JIM C.WARREN, JR. EDITOR” と編集人としてジム・ウォーレンの名がしっかりと記されている。

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※会報は300ページを超える分厚いものに仕上がっている


本会報の出版社は “Computer Faire” となっておりパロ・アルトの住所表示も記されている。実はWCCF開発のためにウォーレンが急遽作った自分の会社だった。
会報には広告も載っている。ウォーレン自身が編集者として出版していた「DR. DOBB’S JOURNAL」の広告はともかくとしても Cromemco社 や BYTE誌 などが1ページ広告を出しているし、なによりも初回…それも西海岸では始めてのコンピュータフェアであり、かつ黎明期に150社もの出展企業を取りまとめた事実には驚愕する。

それもこれもウォーレンは雑誌の編集者をやっていた関係で業界のほとんどの人たちと知り合いだったことが大きくプラスに働いた。
ウォーレンはいう。電話を賭けまくったと…。
「もしもし…ジム・ウォーレンだけど、今度コンピュータ・フェアをやるんだ。参加したいかい?」と。
そして「参加したい!」という声にかぶせるように「できるだけ早く企画を送るけど金がいるんだ。送ってくれないか」。というのを忘れなかったが4日もたつともう黒字になっていたという。
勿論Appleのスティーブ・ジョブズにも直接電話をし、Appleは会場正面入り口の4つのブースを予約すると即決した。当然AppleもこのWCCFに間に合わせようとApple IIの開発を急ピッチで進めたがプラスチック製のケースが出来てきたのは開催前日だったという。

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※第1回WCCF出展社リストにはApple Computer社の名もある


コンピュータ・エレクトロニクス誌とAltair 8800の関係がそうであったように、雑誌によってニーズが確立しマイコン社会が認知されたとするなら、ウォーレンが開催した展示会によって地域単位のコンピュータ関連の展示会が開かれるようになったのだ。
この第1回「ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」の開催はウォーレンたちにとって60年代に巻き起こったロックの祭典ウッドストック・フェスティバルに匹敵するイベントだった。

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※「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」の会報にはあのテッド・ネルソンの「Those unforgettable next two years」と題した寄稿もある


会報にはあの「ハイパーテキスト」という用語を生み出した情報工学のパイオニアであるテッド・ネルソンの基調講演「忘れられない次の2年間 (Those unforgettable next two years)」と題した原稿が寄稿されているが、ネルソンの「われわれはいま、新世界の瀬戸際に立っている。ご存じのように小さなコンピュータがわれわれの社会を変革しようとしているのです…やがては成熟し本格的な消費者市場を作るでしょう。」の予測どおり第1回「ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)」をきっかけにマイコン・パソコン業界は急成長し、ハッカーたちも思考が追いつかないほど時代の波に押し流される形で新しいマイコンブームの幕開けとなって乱立した新会社に参加するものも多く、実業界に脚を突っ込むようになっていく。

【主な参考資料】
・「THE FIRST WEST COAST COMPUTER FAIRE」Computer Faire社
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社
・「ハッカーズ」工学社

ラテ飼育格闘日記(250)

ラテとの生活は楽しく刺激的なのは間違いないが、散歩は嫌い、脚を相変わらず咬んで血を滲ませるといったことが続くとオトーサンも精神的に疲れてくる。なにやら子育てに疲れた親の気持ちがほんのちょっぴり分かるような気持ちもするが相手はワンコであり、そうそう飼い主だとは言え思い通りにいかないのが難儀なところだ。                                                                                                                   
先日の日曜日の朝、少々強引にこれまで毎日通っていた大きな公園にラテを引きずっていった。ラテは一見オトーサンの引くリードに順応して歩くと思えば所々で踵を返し、今来た道を戻ろうと抵抗する。
とにかくオトーサンのパターンを知り尽くした感のあるラテだから。まるで知恵比べみたいなのだ。
例えば公園に向かう道をスムーズに歩くから、オトーサンはこのまま問題なく常連さんもいるであろういつもの公園に行けると考えていたところ、途中の草むらでラテはウンチをした。それは散歩のミッションのひとつなので歓迎なのだが、オトーサンがウンチの処理をし終わり、さてこのまま公園に向かおうとするとラテは猛烈に元来た道を戻ろうと抵抗する。
オトーサンを見上げるその目つきはまるで「オトーサン、ねっ、ちゃんとウンチしたんだから帰ってもいいでしょ?」と言っているようだ。しかしその場所は自宅から公園までの道のりの2/3ほども行った場所であり、このまま戻るのはなんとも納得がいかないのだが、アスファルトの道路にしがみついてガンとして動かないラテを見ていると可哀想にも感じてしまうオトーサンなのである。

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※散歩の途中で一休みしリラックスした表情を見せる


しかしその日はそれをなんだかんだと誤魔化し、時には強くリードを引いて公園に連れて行こうとしていたオトーサンたちだったが公園の脇に通りがかったとき女房が「あれ、マキちゃんでないの?」と声を上げた。
先日半年ぶりで出会ったマキちゃんだったが、ラテが最も好むイケメンワンコなのだ。オトーサンは視力ではかなり前方にいる飼い主さんとワンコがそのマキちゃんであるかは分からなかったがラテの歩き方が確実に変わって、これまでオトーサンの後ろを歩いていたのが前に出てきたからこれは間違いないかも知れないと小走りに近寄ってみた。

オトーサンには遠目の後ろ姿が少年のように見えたのは実はキャップをかぶったマキちゃんのオカーサンだったが、マキちゃんは我々の存在を知り駆け寄ってきた。
本来はその道を回ってご自宅に戻るところだったのかも知れないが、マキちゃんのオカーサンの計らいで公園まで一緒に行くことになった。無論ラテは大喜びで相変わらずマキちゃんへ執拗にチューをせまっている(笑)。
公園に近くなったとき、これまた数ヶ月ぶりだが黒柴のクロちゃんとそのオカーサンに遭遇。まったく懐かしいとしか言いようがないが、旧知のメンツが元気に揃うのはオトーサンにとっても嬉しい限りである。

ただしクロちゃんも散歩嫌いで飼い主さんに苦労をかけているようだが、道々耳にした「クロちゃんはダイエット中というプレートをぶら下げているらしい」というので近寄ってみるとまさしく首輪に「ダイエット中」と書かれた札がついている(笑)。
どうやら体重管理を徹底しようと、とかく散歩中に行き会う方達からいただくオヤツをしばらくの間遠慮しようという作戦のようなのだ。それにしてもそんなことはどこ吹く風…といった飄々とした表情のクロちゃんは元気そうだったので一安心のオトーサンであった。

クロちゃんと別れ、マキちゃんと目的の公園に向かうと「ウォーン、ウォーン」という独特の鳴き声がする。あの声はビーグルのハリーちゃんに違いないと思った瞬間、ラテが走り始めた。無論オトーサンも走った!
公園に入り、少々高台になっているところから眺めるとハリーちゃんとオカーサンが見える。その他お馴染みのボビーちゃん、クーンちゃんの姿も…。
ラテは坂道を駆け下りてハリーちゃんと挨拶しているところにマキちゃんも到着。

それぞれ昔ほど体を使って大立ち回りの遊びはしなくなったが気心が知れている友達ワンコたちとのからみはオトーサンも安心していられるので嬉しい。
しかし、ひと朝の散歩時にマキちゃん、クロちゃんそしてハリーちゃんと出会える事は滅多にないことなのでオトーサンは心の中で「なっ…ラテ、オトーサンのいうことを聞いて公園に来ればこうして友達に会えるんだぞ!」と些か恩着せがましくつぶやいたのだった(笑)。
ともかく帰り道もラテにとっては楽しかったに違いない。いつもはグダグダと歩き尻尾も下がってしまうことが多い帰り道だがその日は尻尾も立てて気がつくと偉そうにマキちゃん、ハリーちゃんの先頭に立って元気に歩いている。

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※帰りの道もマキちゃんとハリーちゃんと一緒だったからか、軽快に歩いた(上)。信号を待っているとき、ハリーちゃんと笑顔でアイコンタクトするラテ(下)


歩道橋の袂でマキちゃんとハリーちゃんとに別れを告げたオトーサンたちはすでに気温がかなり上がってきた日射しの中を一路自宅へと向かったが、思いの外ラテの歩みも順調かと思ったものの、そうそう一筋縄にはいかないこの娘は自宅に近づくにつれ怠惰な態度が重なり座り込む率が高くなる。

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※やっぱり最後は抱っこで締めくくりとなりました(笑)


結局後10数メートルといったところまできたらオトーサンに抱っこ!のサイン...。
オトーサンだって1時間以上も歩き回り、時にはラテと一緒に走ったりもしたのだからヘトヘトなのだが、そこは娘には甘いオトーサンは「ハイハイ」とラテを抱き上げ、朝の散歩は目出度く終了と相成ったのだった。

アップルジャパン(株)が解散消滅するというニュースに接して

先月あたりから断片的な情報を小耳にしていたが「Macお宝鑑定団」のブログなどを見てあらためて8月18日付け第5621号の官報を確認した。それはアップルジャパン(株)がApple Japan合同会社に合併され解散し消滅するというちょっとショッキングなニュースである。


正直、現在の個人的な立場からの感想は「遅すぎたのでは...」といった思いが強い。
ともかく1983年6月21日にAppleの日本法人としてアップルコンピュータジャパン(株)が設立されてからすでに28年ほどの年月が過ぎた。その間、社長が1年ごとに代わった時期もあったし本社社屋の移転や社名の変更などもあったが同社は一貫してAppleの日本法人として製品の輸入と市場への流通を主としそれに必要な多義に渡る業務を遂行してきた。ただし近年はApple Japan合同会社が輸入業務を行っていたようだからアップルジャパンはもっぱら市場に対する販売業務に徹していたと聞く。

私自身は1989年に起業する前から縁あって当時の社長、武内重親氏とのミーティングに参加する機会を得たが、起業してから2003年まで、ありがたいことにアップルジャパン…特にデベロッパ・リレーションの部署にお世話になったし、自身の会社だけにのみならずMOSAの立ち上げなど、デベロッパや開発側への支援といった面で様々な接触を図らせていただいた経緯がある。

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※この部署、この方には大変お世話になりました


そのアップルジャパンが消滅するというのだから無関心ではいられない。無論官報に「権利義務全部を承継して存続し」と明記されているようにアップルジャパンの業務と責任はApple Japan合同会社が引き継ぐ理屈になるわけだが、この種の常として履行日である平成23年10月30日以降、いささか仕組みや機構も変わるだろうし、それに伴いいわゆる方針転換があるに違いない。

さて先に「遅すぎたのでは」と記したが、その理由を記してみる...。
まずはそもそもアップルジャパンという組織の存在意義がどこにあるのかといった、いわば「AJ不要論」という論議が勝手ながら我々の間でしばしば酒の肴として語られてきた事実が上げられる。
どのみち物事の決定権は本社にあり、トップダウンで事が運ぶわけだから、アップルジャパンととやかく交渉すること自体が無駄だし意味が無い...といった雰囲気もあった。

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※アップルジャパン(株)のオフィスがある東京オペラシティ・タワーとある日のアップルジャパンの受付風景


とはいえいまさら重箱の隅を突いたようなあれこれをご紹介するつもりはないが、デベロッパーの一部では対応が悪いアップルジャパンに対して不満が鬱積していたこともある。
Appleのソフトウェアコンポーネントを自社製品に同梱するといった契約はアップルジャパンでは出来ず、本社とやらなければならないし、開発に必要な新製品は最初期のiMacを除いてその入手のタイミングはユーザーと変わらなかった。したがって場合によってはユーザーから「新機種では動かない」と連絡を受けても肝心のマシンが来ないというケースもあった。
そうした事実を差し置いて「アップルジャパンは皆様デベロッパーの方々の開発支援に最善を尽くす」などと言われても正直馬鹿らしいと考えても責められまい。
口の悪い我々はそれやこれやで「結局アップルジャパンって…広告代理店ジャン」。「それなら昔みたいに例えばキヤノンなどに委託した方がよほどサービスが良くなるのではないか…」などと文句を言い愚痴をこぼしたものである。

特に2004年に前刀禎明氏および山元賢治氏が代表として就任し脚光を浴びたものの結局お二人とも退社した後は日本人社長は在籍せず、米国本社のVice Presidentが日本法人の代表となったが、アップルジャパンという企業の日本におけるポジションはどこかステルス機のように見えなくなっていた。
それに現時点でApple Japan合同会社とアップルジャパン(株)は同じ東京オペラシティタワーにあるし代表者は両社共に同じダグラス・ベック氏だというのだから別々の会社である必要性はなくなっていたのかも知れない。

当然企業がこうした合併という行動を取るにはビジネス面からの利を考えてのことである。いわゆる合理化、そして意志決定のより迅速化といったことなどが頭に浮かぶが、まあ一般ユーザーの目からは今回の組織改革はほとんど影響を感じないと思うものの、ディーラーやデベロッパーそしてアップルジャパンとある種の契約づくで続けてきたビジネスやサービスに関しては良くも悪くも大きな影響が懸念される。そして些か知り合いもいるので1,000名前後だという従業員の処遇も気がかりだ。

これまでにも社長が代わった途端にそれまで積み重ねてきた信頼関係や約束事は一瞬で消え去ってきたのがアップルだから何があっても驚きはしない。そしてまさか日本市場の窓口が無くなるわけではないだろうし基本的な対応に変化はないと思うが、繰り返すが施行の10月30日以降は立場によっては一喜一憂する場面も出てくるかも知れない。
それにしても「Apple Japan合同会社」って、ますます個の顔が見えなくなる感じを受けるしApple Japan合同会社自体が計算書類の公告義務はない組織だからして一層のブラックボックス化のイメージは拭えない。
まあユーザーとして一番重要なのはこの機会に製品価格への良い影響とユーザーへのサービスがより向上することを願いたいと思うが、期待はしない方が良いのかも知れない(笑)。

スティーブ・ジョブズがAppleのCEOを辞任し、これまたアップルジャパン(株)が無くなる。急激に進化・進歩するこの業界だからして変化には柔軟に対応しなければならないのは分かっているが、今夜は足かけ14年間のビジネスで数百枚にもなったアップルジャパンの名刺を眺めて整理しながら、久しぶりに小振りのワインでも開けようか…。
無論Appleと日本市場の前途によかれと祈ってのことである。しかし、寂しい。

映画「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち」に感涙

アルゼンチンタンゴの巨匠たちが一同に介した作品という他、予備知識を持たずに映画「アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち」を見たが映像が流れてすぐにこれは「ブエナビスタ・ソシアルクラブ」のタンゴ版だと気がついた。事実公式サイトにもその点が記されているが、舞台はブエノスアイレス! 


本作品はアルゼンチンタンゴの歴史をひもとき、その黄金時代を築いた巨匠たちの歌と演奏を収めた音楽ドキュメンタリーである。
そもそもの発端は2006年、ブエノスアイレスの最も古いレコーディングスタジオに1940年代から50年代に活躍し、アルゼンチンタンゴの黄金時代を築いたスター達がアルバム「CAFE DE LOS MAESTROS」を収録するために集まり感動的な再会を果たした。
皆60~70年もの演奏歴をもち、国宝級とも言えるマエストロたちである。そして街角のカフェから成功の階段をともに上った仲間でありライバルたちだった。

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冒頭でエグゼクティブプロデューサーのグスタボ・サンタオラージャと音楽プロデューサーのホルヘ・"ポルトゥゲス"・ダ・シルバはこの企画についていみじくも覚悟を語り合う…。

「生やさしい話しではないぞ」
「地雷原を歩くみたいに 一歩間違えばおしまいだ」
「何もかも勝手が違うし」
「みんな強烈な個性の持ち主ばかりだ」

演奏者たちだが、バンドネオン奏者として現代最高峰の奏者といわれるレオポルド・フェデリコの他、ダブリエル・"チュラ"・クラウン、カルムス・サラリといったきら星のようなマエストロたちが顔を合わせる。ピアノはオラシオ・サルガン、マリアーノ・モーレス、カルロス・ガルシーアなど。
バイオリンはフェルナントセ・スアレス・パス、エミリオ・バルカルセ。ギターはアニバル・アリアスとウバルト・デ・リオ。そして歌手は女性がビルヒニア・ルーケとラグリマ・リオス、男性はアルベルト・ポデスタ、オスカル・フェラーリ、フアン・カルロス・ゴドイらとアルゼンチンタンゴにあまり詳しくない私などでも記憶にある名が続く。

2006年当時、マエストロたちは皆70〜90歳というジイサンでありバアサンであるが一時代を築き多くの人たちの魂を揺すぶり続けてきた彼・彼女たちは個性的であり独特のオーラー持ち、そして老いてもやはり一級の芸術家である。
例えばピアノのオラシオ・サルガンはこのとき、すでに現役を引退していたが彼が姿を現すと周りの空気が変わるのを感じる。

グスタボ・サンタオラージャらはアルバム録音、すなわちこの偉大なるマエストロたちの結集が音楽史においていかに重要かにあらためて気づき、このアルバム録音だけに留まらずにコンサートの実現を図る。
そしてついにミラノ・スカラ座、パリ・オペラ座に並ぶ世界三大劇場のひとつであるブエノスアイレスのコロン劇場で22人の巨匠たちが集結し一夜限りの世紀のコンサートが開かれた。まさしく二度とない奇蹟のステージが始まる…。
事実その後、数名のマエストロは残念ながら鬼籍に入ってしまった。

いやはや、演奏は文句なく凄いしマエストロたちの拘りやプロ根性がズシズシと伝わってくる。そして舞台の演奏を見ていると自然に涙が出てくる。
悲しいからか、美しいからか、あるいは凄いのか…。何で涙が出るのか自分でもよく分からないが、それらを皆超越したマエストロたちの人生と深いシワのひとつひとつが感動を禁じ得ないのだ。
しかしアルゼンチンタンゴ…いまさらではあるがなんてセクシーな音楽なんだろうか。

アルゼンチンタンゴ 伝説のマエストロたち [DVD]

パソコン時代の幕開けを象徴する第一回WCCFの会報を入手

WCCFとは「ウェストコーストコンピュータフェア」の略である。その第一回は1977年4月15日から3日間サンフランシスコのシビックオーデトリアムにて開催されたが、その開催はまさしくパーソナルコンピュータ時代の幕開けを宣言するエキサイティングな催事だった…。                                                                                                                                   
実は手元にその第一回「ウェストコーストコンピュータフェア」の会報(Conference Proceedings)がある…。
これまで漠然とだが WCCF すなわち「ウェストコーストコンピュータフェア」のことは知っていた。ジム・ウォーレンらにより開催されたコンピュータの展示会であり、その1回目は起業したてのApple Computer社が会場正面入り口に大きなブースを確保し華々しくApple IIをお披露目した記念すべき催事となった。
その150社ほどの出展企業…といっても会社らしいブースは数えるほどだったそうだが…そのAppleブースをイーエスディラボラトリ社の社長、水島敏雄氏がたまたま立ち寄ってスティーブ・ジョブズの説明を聞いたことがApple IIを日本に持ち込むきっかけとなったことなども知っていた。

この第一回WCCFについては西海岸で開催された最初の本格的なマイコンフェアだったこと、そして黎明期にも関わらず150社ものマイコン・パソコン業界の出展があったことで関係者たちにその市場の未来をおぼろげながらに感じさせた印象深い催事だったに違いない。したがって第一回WCCFの模様は様々なパソコン関連書籍などに歴史の一幕として登場するが誤植も含めてそれらの情報には間違いも多くどうにも全体像がわからないでいた。

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※1977年発行、第一回「ウェストコーストコンピュータフェア」会報(Conference Proceedings)の表紙


過去の出来事を調べようとするとまず基本はその年月日からしてどの情報が正しいのか迷ってしまう。それほど不確かな情報が溢れているのだ。
それはこの第一回WCCFの開催年月日からして同じである。
斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」(アスキー出版局刊)の初版ではジム・ウォーレンとのインタビュー冒頭に「1974年に開催された第一回ウェストコーストコンピュータフェア(WCCF)…」と明記されている。しかし同じく斎藤由多加著「林檎の樹の下で」(アスキー出版局)のプロローグには1977年4月16日とあり、明らかに「マッキントッシュ伝説」は編集側のミスだ。

前記したESD社の水島敏雄氏は「APPLEマガジン」(ESD社刊)1984年6月7月号の「アップルとイーエスディ」の中で「…私の袖をスティーブが掴まえたのが始まりです…」とし1977年5月のことだと記している。
またスティーブ・ウォズニアック著「アップルを創った怪物」(ダイヤモンド社刊)でウォズニアック自身の語りとして「…ウェストコースト・コンピュータ・フェアでアップルIIのお披露目をしょうと考えた。…1977年1月にサンフランシスコで開催される予定だった。」と言っている。まったくこれでは何が何だか分からなくなってくるではないか…(笑)。

何しろ前記したジム・ウォーレンはWCCFの主催者だ。そのインタビューで本人が発言したとするなら「マッキントッシュ伝説」を読んだ人はそれを信用してしまうに違いないが、事情通であれば1974年の前半にはIMSAI 8080もApple IIも存在しないのだから出展できる訳はないことがすぐにわかる(笑)。
ただしP.フライバーガー/M.スワイン著「パソコン革命の英雄たち」(マグロウヒル社刊)では1977年4月、スティーブン・レビュー著「ハッカーズ」(工学社刊)も1977年4月になっている。勿論この種の書籍を元にして書かれたウェブ情報はそれこそまちまちである。

開催年度や開催月でさえこの有様なのだから、幾多の情報をただ単にかき集めても混乱するだけだ。
であるならなるべく確かな情報資料を手に入れるしかない。ということでその第一回WCCFの会報の実物を探し続けていたがこの度運良く見つかった…。
どうやら資料としてはプログラムとこの会報の2種あるようだが、この会報だけでも出展者のリストや当時どのようなことが興味の対象だったのかがおぼろげながら分かってくる。
なかなか全てがこう上手くはいかないが、原典というか一次資料を確認する努力をすることが大切なのは何でも同じであろう。
ともかく第一回「ウェストコーストコンピュータフェア」の開催は会報によれば1977年4月15日から17日の三日間開催され、場所はサンフランシスコのシビックオーデトリアムにて、そして宴会会場はセント・フランシス・ホテルで開催されたことが分かった。
別途本会報(Conference Proceedings)そのものに関しては勿論、情報を精査し、この第1回WCCFの情景を描いてみたいと考えている。

ラテ飼育格闘日記(249)

先週は激暑のピークが過ぎたと思ったら今度は台風やらで雨の日が多かった。それも天気は「曇り時々スコール」とでも言ったらよいのか、一時的にもの凄い雨に見舞われることが度々である。蒸し暑さそのものがラテを外出嫌いにしているというのに前が見えなくなるほどの雨に遭遇するといやはやラテもどうしてよいか分からないようで「抱っこ!」となる…。                                                                                                             
とはいえまさか傘を差しながら20キロもの体重のラテを抱っこできるはずもなく何とかなだめて歩かせるのに一苦労だ。
しばらく前、ラテに引っ張られて行ったいつものカフェで一時を過ごしたオトーサンとラテだが、あまり暗くならないうちに帰ろうとカフェを後にした。しかしラテはなかなか腰を上げない。
オトーサンもラテの顔を立ててあげようと座り込んだラテをそのままにして30秒程度待つ…。そして「ラテ、行くよ!」と声を掛けると渋々ながらラテは歩き出すが数メートル、十数メートル歩くとまたまた座り込むといったことが続くとオトーサンも次第に声が荒くなる(笑)。

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※「動きたくないもん」とごねるラテ


カフェから出て駅のコンコースから続く歩道橋を渡り、小さなトンネルに入るとまたまた座り込む。しかしオトーサンの我慢の限界を察知してかトンネル内でラテはいきなり「抱っこして!」とオトーサンに抱きつく。オトーサンはこれに弱いのである(笑)。
半分「やれやれ」、半分は「よしよし」といった感じで両前足をオトーサンに預けたラテをお尻から持ち上げて抱き上げるとラテは両前足をオトーサンの両肩に回して爪を立て、落ちないようにとつかまる。まあまあ上手なものである。そして両後ろ足の右足はオトーサンがベルトに装着しているiPhoneケースをあたかも鐙のように使い足を乗せて安定感を増すといった具合だ。

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※抱っこ中に動くなよ!


ラテを抱き上げてトンネルを抜け数メートル歩くとそのトンネルの後ろから女性の笑い声と同時に「あらあら、ラテちゃんが…」といった話しが聞こえたので振り返るとラテと同じ時期にミックス犬を飼い、たまたま散歩のときにお会いするオカーサンと2人のお嬢さんが笑いながら近づいてきた。
実はこのご家族は3人のお嬢さんがいらっしゃるが、小学生のときに学校の門の前などでラテと会うと声をかけてくださり可愛がってくれた方達なのだった。そのお嬢さんたちも皆大きくなり中学やら高校に進学しているはずで最近ではお会いする機会もなかったがラテは覚えているのだろう...喜びで後ろ足をばたつかせ「下ろせ」という。まったく勝手な娘である。

あれほど数メートルおきに座り込み、歩くのが嫌だとごねていたラテがお嬢さんたちの差し出す手や足下を舐めたり鼻でついたりしながら嬉々としてステップを踏むように歩くのだ。その嬉しそうな顔…。
オカーサンと2人のお嬢さんはラテがなかなか歩かないことを知り「ラテちゃん、ほらこっちこっち…」などと声をかけながらリードしてくださるからラテも調子に乗って実に軽快にお嬢さん達に付いて歩く。
まあ、オトーサンとしては実にありがたいことだからお礼をいいながらラテのリードをコントロールしたが、飼い主としてはまったく情けないことでもある(笑)。とはいえあの調子では家にたどり着くのにどのくらい時間がかかったかも知れず、オトーサンとしてはラテが嬉しそうにお嬢さん達に連れ添って歩いているのを見て正直「助かった!」と思った(笑)。

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※どこに行ってもへたり込んでいるケースが多くなった


しばらく一緒に歩き、ご家族と右左に別れるとき「助かりました。ありがとうございます」とお礼を申し上げたが、ラテはお嬢さん達についていこうとする…。まったく日和見主義なワンコである。
それでもお陰様でそこから自宅までは近いのでここまで来れば後は楽だとオトーサンは胸をなで下ろした次第。案の定、いささかラテも諦めたのかその後の足取りは普通に戻った。

こうしたぐうたら散歩はまだ天気だったらよいものの先日の台風やらの際には本当に洒落にならない。それでもオトーサンはiPhone 4にインストールしてある「雨メッシュ」というソフトウェアを5分間隔で確認しながら雨雲が来るのか来ないのか、来るなら後何分過ぎなのか…を予測しながら散歩をするし、ここの所は自宅を出るときに日が射していてもビニール傘は持ち歩くようにしているのだ。
とある土曜日も念のため女房がビニール傘2本を持ち歩いて散歩に出た。例によってラテは駅前のカフェに陣取ったので女房はオーダーしに店内に入り、オトーサンとラテはオープンテラスで一息入れていた。
ラテの写真でも撮ろうかとデジカメをポケットから取り出した瞬間、パラッと雨粒が顔や腕に当たった。これは本降りになると思い、オトーサンはラテと共にひさしのある場所に移動し椅子に座った瞬間周りが一瞬に白くなり視界が無くなった…。

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※カフェのオープンテラスでご機嫌なラテ


あれは豪雨とかバケツをひっくり返したような…というのを超えたあまり経験したことのない降り方だった。ひさしに入り店のガラス窓側に身を寄せたが吹き付ける雨は完全に避けきれないし、ラテの足下も見る見る雨が浸食してびしょ濡れになってくる。
とはいえいま動くわけにもいかないし「雨メッシュ」によれば2,30分で雨雲は移動するようなので辛抱するしかない。無論ラテがいなければオープンテラスではなく店内に入れば済むわけだがワンコ連れではそういうわけにいかないのが辛いところだ。さすがにラテも異様な雨に気後れしたのか大人しかった。
店内のガラス越しに「あれあれ、大変だなああの家族は…」といった視線が強くなるが、確かにこの雨の中には大人2人とワンコ一匹しかいない。
雨が小降りになるまでオトーサンたちは身を小さくして待つしかなかった…。

ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(3)

MITS社のAltair 8800はエド・ロバーツの思惑とは関係なく売れに売れた。というより注文に製造が追いつかず購入代金を受け取っても発送が遅れに遅れていた。また運良く最初のロットを受け取ったユーザーはユーザーで組み立てキットの部品が粗悪品を含んでいたためきちんと組み立てたにもかかわらず動作しないということも多々生じていた。


Altair 8800に限らないが、組み立てキットの類を文字通り問題なく完成させるには2つの要素がきちんと噛み合う必要がある。そのひとつは同梱されていた部品の出来不出来ともうひとつはユーザーの腕…すなわち知識と経験度である。
回路図や部品などを文字通り正確に目利きでき、問題なくはんだ付けできたか、通電しているかなどを確認できる計器を備えているユーザーは限られた人たちだったに違いない。したがってはんだごてを使えるからという程度の覚悟で入手したユーザーの多くは組み立てたはずのAltair 8800がなぜ動かないのか、その理由さえ分からなかったに違いない。

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※MITS社Altair 8800組立完成品 (Smithsonian National Museum「Computer History Collection:Altair Computer」より)


なにしろ組立キットを手にしたユーザーの多くは部品の質が悪いなどということを知る由もなかった。しかし実際初期ロットの多くは文字通り部品の質の悪さが原因で正常動作しないケースが多かったという。というかMITS社では部品の品質テストなどする余裕も気持ちもなかった。
当時のマニアたちはこの組み立てキットを不自由で不親切なものとは考えなかったのだろうか…。正直その時代では「そんなものだ」と考えていたフシがある。

私が1977年に秋葉原のラジオ会館で買った富士通FACOM L-Kit 8というワンボードマイコンもそうだった。マイコンは文字通りのワンボードで別途電源が不可欠だがマイコンに同梱されているわけではなく別途購入する必要があった。それも別売だとしても例えば富士通自身がFACOM L-Kit 8用の電源をきちんと販売していたなら事は簡単だが実態はそうではなかった。
考えてもみていただきたい。貴方が欲しいと思っているパソコンが基板一枚のむき出しのものであるのはともかく、例えば別途+5Vと+12Vそして−5Vの電源が必要だとしても多くの人たちはその必要条件を満たす電源がどこで売っているのか、どのメーカーのものを買ったら良いかなど知らないに違いない。
それでも貴方はそのパソコンを買うだろうか(笑)。さらに、Altair 8800の場合はポピュラー・エレクトロニクス誌に載ったとはいえMITS社は無名の会社だったからして前金として400ドルほどの小切手を送る勇気があるだろうか…。

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※ポピュラー・エレクトロニクス誌1975年4月号に載ったMITS社広告によるAltair 8800キット概要


確かにAltair 8800の組み立てキットはマイクロプロセッサーを含めて400ドルでおつりがきた。前記した富士通FACOM L-Kit 8の価格がワンボード・マイコンだけで85,000円だったことを考えるとAltair 8800はキャビネットや電源まで含んでの価格なのだから当時の貨幣価値を考慮しても非常に割安感がある。
とはいえポピュラー・エレクトロニクス誌の1975年1月号に載った組立キットが397ドル、完成品が498ドルと破格の値段だということは分かるとしても1975年当時の400ドルはやはりドブに捨てて良い額ではない。

現実は組み立てキットをあたかもプラモデルでも組み立てるつもりで購入した人たちのほとんどは絶望を味わうことになる。
幸いにも組立がうまくいったとしてもそれだけで何かを制御するとか、テレビに何かを映し出すといったことができるわけでもなかった。
ちなみにポピュラー・エレクトロニクス誌に載ったAltair 8800の記事は1975年1月号と2月号に分けて掲載されたが3月号に載った一面広告では組み立てキットの値段が早くも439ドル、完成品が621ドルに値上げされている。

ともかくプログラムの入力はマシン語でフロントのスイッチを動かして入力しなければならず、2進数値ひとつについてスイッチを1回動かすことになるがプログラムが間違いなく入力できたとしてもフロントのランプを点滅させる程度しかできることはなかったのである。
この頃のMITS社は懸命に働いた。会社は閑静な場所に建った近代的な建物でもなく商店街のコイン・ランドリー隣の小さな建物が会社のすべてだった。こうした会社の体裁などをあまり気にしない点はエド・ロバーツが企業人というより根っからの技術者だった事を物語っているのかも知れない。

さてAltair 8800に関する一般的な情報を集めているとAltair 8800そのものがそれまでになく優秀で画期的なコンピュータだったから多くのホビーストに支持された…といった錯覚にとらわれる。しかしAltair 8800は間違いなくコンピュータであったが性能面で特に優れていたとは思われない。
キットが売れた要因はその価格と共にすべての部品一式が揃っているという点、そして後にS-100と呼ばれるようになった拡張スロットを装備されていたからだった。さらにその組み立てキットを広く知らしめるきっかけを作ったのは間違いなくポピュラー・エレクトロニクス誌の功績だったことを忘れてはならない。

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※ポピュラー・エレクトロニクス誌1975年2月号のAltair 8800紹介Part2冒頭ページ


後年Altair 8800というマシンの存在が一人歩きした感もあるが今般ポピュラー・エレクトロニクス誌を手に入れ当該記事を読むと同誌の特集は手作りのコンピュータを提案するといった実に冷静な記事なのだ。
それはエキセントリックな内容でもなければいたずらに読者を煽るといった内容には思えない。ただミニコンピュータの概念に匹敵する個人用コンピュータを安価に手作りすることを提案し、ためにMITS社のAltair 8800の存在を回路図や部品リストと共に紹介するというスタンスであった。
繰り返すが読者にとってAltair 8800の魅力は安価なこと、そしてMITS社から発売されたケースや電源を含めた一切を購入でき、組立に必要なパーツがすべて揃うという点が注目されたわけだ。

当時は現在のようにインターネットも我々の眼前にはなかったから一般大衆に新製品の存在を知らしめることは容易ではなかった。無論大企業なら新聞や一流雑誌あるいはテレビのコマーシャルを活用できただろうがMITS社は前記したようにポピュラー・エレクトロニクス誌に広告を掲載したり、後にBYTE誌の表紙を飾ったりもするが、もしポピュラー・エレクトロニクス誌の最初の紹介企画がなかったとしたらAltair 8800の成功はなかったに違いない。
MITS社は1975年のポピュラー・エレクトロニクス誌 1月号と2月号の2回に分けて紹介記事を載せた後、早くも2月号には1ページ全面広告を載せている。
当時ポピュラー・エレクトロニクス誌の広告料金は1/6ページで1,000ドルだったというからMITS社は一大攻勢に出たともいえる。

つづく

【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「コンピュータ~写真で見る歴史」タッシェン・ジャパン社刊
・「ハッカーズ」工学社刊
・「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊

ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(2)

「ポピュラー・エレクトロニクス (Popular Electronics) 」1975年1月号と2月号に掲載された Altair 8800 の記事が当時のマニアたちに個人でコンピュータを所有することの魅力に気づかせ期待を増幅したことは歴史が証明していることだ。そして Altair 8800 は事実上歴史始まって以来初の一般個人向けコンピュータとなった。


Altair 8800の開発は当時電卓の製造ならびに通信販売をしていたMITS社のオーナー、エド・ロバーツが多額の負債に苦しみながら最後の手段として取り組んだ事業だった。
エド・ロバーツの試算ではAltair 8800が200台ほど売れなければ会社は倒産の憂き目に遭うはずだった。
とはいえ時代の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。なぜならインテル社が開発したマイクロプロセッサ8008の後継の8080が開発され1974年当初にはかなり値下がりもしていたことも含め、ロバーツは起死回生の決断としてこれまで前例もなければ市場さえ定かでない個人向けコンピュータを開発することに決め、その頭脳に8080を採用することにした。

この頃、インテルの8080の通常価格は360ドルだったが外見に問題があり検査落ちしたチップを大量購入することを条件にひとつ75ドルで仕入れることができたことがAltair 8800低価格の秘密であった。しかし当然のことながら1台のコンピュータにプロセッサは1個しか必要ない。ロバーツは自身が開発するコンピュータの販売が電卓で生じた大きな穴埋めとなるためには大量に売らなければならないことを十分承知していた。

一方ポピュラー・エレクトロニクス誌も同誌で記事にできる有力なコンピュータを探していた。なぜなら競合他社でもコンピュータに関する記事が登場しつつあったからである。
ポピュラー・エレクトロニクス誌のコンセプトは明白だった。それは個人で安く手に入り、すべての部品が揃い、動作することだった。
同誌編集部には特集記事になりうるいくつかの候補が持ち込まれ検討されていたが、1974年7月に競合のラジオ・エレクトロニクス誌がマーク-8というインテル8008を使った制作記事を載せ、ホビイストらの大きな興奮を生んだ。ただしマーク-8は部品の組み立てキットに必要な部品がすべて揃っているわけでなく、ユーザー自身で調達しなければならなかったためブームになることはなかった。
ポピュラー・エレクトロニクス誌はそれと同じような記事では二番煎じになるからと最新のマイクロプロセッサ8080を使ったマシンの記事を載せる方針を固める。ポピュラー・エレクトロニクス誌の技術編集者だったレスリー・ソロモンはすでに面識があり8080でコンピュータを開発するという情報を得ていたエド・ロバーツの顔を思い浮かべた...。

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※1975年「ポピュラー・エレクトロニクス誌」1月号に載った最初のページ。表紙と同じくダミーのAltair 8800が使われている


エド・ロバーツの方でも方針を決めたにせよ大きな壁が立ちふさがっていた。それは開発のための資金調達である。彼の試算によれば6万5千ドル必要だった。しかしMITS社はすでに30万ドル以上もの借金を抱えていたから銀行に相談してもすんなりと融資を受けられるとは思っていなかったしもし断られたら開発は断念するしかなかった。
ともあれここでも幸運の女神はエド・ロバーツに微笑んだ。
銀行はこのまま会社を倒産させては元も子もないと考え、少しでも返済が進むようにと6万5千ドルの融資をしてくれることになったのだ。

結局ポピュラー・エレクトロニクス誌のレスリー・ソロモンの依頼を受け、エド・ロバーツの作るマシンはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾ることになった。
ロバーツと2人の技術者は編集部に送る試作機を完成させるため猛烈に働いた。同時に記事を仕上げる準備も進められたが彼らが作っているマシンにはまだ名前がなかった。
まだ名前がついていないことを知ったソロモンはたまたま彼の12歳になる娘がスター・トレックを見ているとき「コンピュータにつける良い名前を探している」といった。娘のローレンは「エンタープライズのコンピュータは今夜…アルテア(Altair~牽牛星)にいくのよ」と答えたいう。
ソロモンはロバーツに電話してその名前…アルテアでどうかと尋ねたところロバーツはどんな名でも200台売れれば良いと言ったためコンピュータの名前は Altair と決まった。

ロバーツたちはポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙を飾るマシンを綺麗に仕上げ鉄道の速達便で編集部へ送った。しかしそのAltairは編集部に届かなかったのである。
鉄道会社のストライキが原因だったようだが送ったはずのAltairは行方不明となった。問題はポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙をどうするかだ…。
どう考えても再度作り直す時間はなかった。MITS社の技術者ビル・イエーツは急遽金属製の箱に穴を開け小さなランプとスイッチをそれらしく付けて編集部に再送付する。
要するに問題のポピュラー・エレクトロニクス誌の表紙はダミーを使うしかすべがなかったのである。
ただし読者はそんなことを問題視する者などいなかった。MITS社にはポピュラー・エレクトロニクス誌が書店にならんだ初日だけで200台ほどの注文が舞い込み電話は鳴りっぱなしとなった。そして3ヶ月で4,000台ほどの注文が舞い込んだのである。
後にコモドール社のCEO、チャック・ペドルは「最初の物を作った功績は確かにエド・ロバーツにあるが、彼の記事を出したレスリー・ソロモンにも同じ功績がある」と言ったほどポピュラー・エレクトロニクス誌は確かに時代の扉を開いたのである。

つづく

【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「ハッカーズ」工学社刊

ラテ飼育格闘日記(248)

久しぶりにワンコ関連本を購入した。夏目真理子著「もう、ばか犬なんて言わせない~私は社会化のドッグトレーナー」(文芸社刊)という本である。Amazonで見つけ、その考え方に興味を持ったので購入してみたがこうした新しい考え方に基づいてワンコをトレーニングしているドッグトレーナーもいることを知った。                                                                                                                
これまでいわゆるドッグトレーナーとして名前が知られている人の著書を何冊も読んだが、どうにも納得がいかないものばかりだった。
それらの人たちはドッグトレーナーとして肩書きは文字通り一流の方々だがそのほとんどがワンコをオオカミの子孫と捉え、飼い主がグループのリーダーとなるべく努力をしなければならないとし、例えばワンコを飼い主の目の高さ以上に持ち上げないこと、玄関の出入りは飼い主が先にすること、食事も飼い主の後でワンコに与えることなどを推薦する。その上で吠える犬にはお酢のスプレーが有効だとか、家具を咬む犬には足払いの天罰とか、飛びついてきたら後ろを向き無視すること…などなどが有効だとしている。

オトーサンはこの「飼育格闘日記」でそうした考え方は欧米から入ってきた情報としても古い考え方で、すでにワンコをオオカミの子孫だからオオカミの習性をお手本にして云々するなど茶番だということを多々書いてきた。
事実最新の科学ではワンコとオオカミは我々の祖先と出会ったときにすでに種の枝分かれが終わっていたようで、決してオオカミの子供を人類の祖先が拾って育てたものがワンコの祖先になった…という話しはすでに信じられていないのである。
しかし一流のドッグトレーナーと称する人たちの中にはまだまだワンコと飼い主の主従関係に関しどちらがリーダーシップを取っているか…というパワーバランスで解釈する人が多く、結果ある種の力ずくでワンコを押さえつけているように思えて好きになれないでいた…。

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※穴を掘り砂をかぶりながらアクティブに遊ぶラテ


例えば現在も飼い犬が吠えるその理由も考えず、ただ人間の都合で黙らせようとお酢のスプレーを吹き付けたり電気ショックを与えたりすることがまるで正当化された飼い方だといわんばかりの情報に満ちあふれているのが現状なのである。
子犬の時の甘噛みを許し、放置しておくと成犬になるにつれ本物の噛み犬になる…といったことをそのまま信じ、子犬の育て方に神経をすり減らしている飼い主さんも多いのではないだろうか。
ただしオトーサンの体験ではワンコが子犬時代にきちんと社会化ができているかも問題だし、ワンコの性格にも大きく左右されるものの、子犬時代の甘噛みは他のワンコとの遊びや飼い主との日常の中で加減を覚えていく上で必要な行為だと思っている。

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※夏目真理子著「もう、ばか犬なんて言わせない~私は社会化のドッグトレーナー」(文芸社刊)表紙


本「飼育格闘日記」の第二回の末尾をご覧になればお分かりだが、実はオトーサンもラテの甘噛みに悩んでいたことが記録されている(笑)。しかし成犬になったラテはオトーサンたちに間違っても歯を立てるようなことをしない良い子に育った。
例えば縫いぐるみで遊んでいるとき、オトーサンはわざとラテが咥えている当たりに手を突っ込むことを今でもたまたまやっている。ラテはそれこそ縫いぐるみを咥えて振り回しているが「ガブッ」と力任せに咥えるのではなく甘噛みよろしく加減しながら歯を立てている。そのときオトーサンの手に歯が一瞬触れると見事によけて咥え直すのだ。
したがって甘噛み犬がそのまま凶暴な人噛み犬に成長するといった単純なものではないし「案ずるより産むが易し」である。

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※先日、約半年ぶりに出会った大好きなマキちゃんにチューをねだるラテ。右にいるビーグル犬のハリーちゃんはちょっとあきれ顔で見つめてる(笑)


ともかく本書には「支配性理論をぶち壊せ」とか「犬は犬であるだけで愛されなくてはならない」といった章立てがあることを知り興味を持った…。この著者はこれまでの古い理論にとらわれたドッグトレーナーではないな…と思い本書を買ってみた。
本書冒頭では「本書は飼い方のマニュアルを教えるものではありません」と書いているが、具体的な問題行動をどうしたら解決できるか…といった類のマニュアル本ではなく、雑に言ってしまえばワンコにどのように接したらよいか、ワンコとはどのような動物なのかをドッグトレーナーの立場で解説した一冊のように思える。

筆者の主張は大別してふたつある。ひとつは一般的にペットショップで販売されているワンコは生後かなり早く親兄弟から離されるためワンコとしての社会化ができていない状態だという。トイレのしつけ、甘噛み、犬なのに犬が怖いといった問題は飼い主の躾け方以前にこの社会化ができていないことが原因だという。
2つ目はワンコを取り巻く環境が「(ワンコとして)普通であること」を許していないんじゃないか?と感じ「どうしてワンコにそこまで求めるのか?」という問いかけだ。これは1人の飼い主として身につまされるものがある。
ワンコという生き物を知らな過ぎるために、素のワンコであることを許さない飼い主が多くなっているのかも知れない…。

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※「ラテ、しばらくだったけど元気だったか?」「うん、ちょっと夏バテなのよ」といった会話か(笑)


著者はいまだにワンコが言うことを聞かなかったら、叩き、首を締め上げ、蹴る…といった方法でワンコを躾けている人が多い現状に心が重くなると言う。さらに筆者はリードさばきや、歩行の訓練などは、ワンコが家庭内で起こす問題の解決にはあまり意味がないとも書いている。
素人がいうのも僭越だが、こうした考えを持ってワンコに接するドッグトレーナーがいることに大変心強いものを感じるし「たとえ褒めてしつけることを選択しても、正しい行動のみ褒めに値するよ、という態度では、決して犬からの信頼を得られないと思うのです」には思わず頷くオトーサンであった。
勿論オトーサンもワンコと真正面から向かい合い、ワンコと飼い主の幸せをと日々努力している多くのドッグトレーナーの方々がいることも知っている。しかしテレビチャンピオン優勝とか、何とか団体公認訓練士などなどを看板に著作も多いドッグトレーナーを一般的には信用してしまうのが我々素人飼い主なのだ。本書の著者のようにワンコと真っ正面に向き合っているドッグトレーナーの方々がもっともっと声を大にして表に出て欲しいと願う。

ただし本書は内容は良いとしても正直少々読みづらい本だった。別に難しい言い回しがあるというのではない。本書は話し言葉で書かれているから字面を追うのは容易だが、独特の癖というか統一感がないというか急にため口で語られるような違和感があるのが残念だ。
とにかくオトーサンは本書を興味を持って読み終わったが、もう一度具体的にラテをイメージしながら復習として再読してみようと思っている。

私は社会化のドッグトレーナー もう、バカ犬なんて言わせない

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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員