Apple II 用 「Color Demosoft」オリジナル・カセットテープの使い方

手元に1本のカセットテープがある。カセット自体は何の変哲も無いものだがご覧の通り、ラベルには6色アップルロゴがあり "apple computer inc." という表記がある。そう、これは1979年Appleが出荷したカラーデモソフトが記録されているApple II 用オリジナル・カセットテープなのである。



Apple II だけではないが、パソコンが登場したばかりの黎明期は何もかも現在とは違った環境に甘んじるしかなかった。そのひとつがデータの外部記憶装置である。ユーザーがプログラミングしたデータを保存する場合に最初期にはフロッピーディスクもハードディスクも無論USBメモリもなかった。ではなにを使うのかといえば音楽用のカセットレコーダーおよびカセットテープだったのである。

こうした状況については以前「データ記録媒体としてのコンパクト・カセットテープ雑感」で詳しく述べたので繰り返さない。しかしその際にはApple 1のソフトウェアをターゲットしてカセットテープを当時のものと同じようにと復元してみたが、今回のカセットテープはApple II 用の本物...オリジナルである。

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※片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている


ということでここではApple II に限ってだが、前記事の補足という意味も含めて接続やら簡単な使い方といったことをご紹介してみたい。なお今回手に入れたカセットテープの中身だが、片面には “Color Demosoft” 反対側には “Little Brick Out” というBASICで書かれたプログラムが記録されている…はずだ。

ここでは正真正銘30数年ぶりにカセットテープからApple II へプログラムをロードして走らせてみるが、時の流れは非情とでもいったら良いのか、当時あれほど日々繰り返し夢中になった手順が思い出せない(笑)。
そうした準備の前段階はハードウェアの用意と接続だ。今回はApple II Plusを引っ張り出してみたが、これにNTSC小型テレビ、そしてカセットテープレコーダー(モノラル)を準備した。

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※今回使用したハードウェアはこの三種


さて、Apple II とテレビの接続とか電源がウンタラは当然のことなので省くが、カセット・レコーダーとの接続に関しては、Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されているので、その “IN” とカセットコーダー側のモニター(出力)端子をミニプラグ・ケーブルでつなぐ。

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※Apple II 背面にはオーディオ入出力ジャックが用意されている


では実際にカセットテープに記録されているデータをApple II へ読み込むにはどうしたらよいのか…。この辺のことをあらためて認識するといかに現在のMacやらが使いやすいかが身にしみてわかる。
具体的な手順だが、Apple II Plusは使用環境における様々な初期状態があり得るもののここでは本体のみで電源投入と共にAppleSoft BASICが起動していることを前提にしよう。したがって起動後の初期画面を見ると “ ]” の形をしたプロンプトが表示し入力待ち状態になっているはずだ。

ここでカセットテープをレコーダーにセットすると共にApple II のキーボードから “LOAD” の文字を入力する。Apple II は標準では大文字しか使えないのでシフトキーうんぬんへの気遣いは不要だ。

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※プロンプトの後に "LOAD" と入力


ただしこのカセットレコーダーからプログラムデータを読み込むにしてもコンピュータ側でレコーダーのプレイとかストップを制御できるわけではないことにお気づきだろうか。したがって “LOAD” と入力したまままずはレコーダーの再生ボタンを押してテープを走行させてからApple II の “RETURN” キーを押す。
これでレコーダーのテープ走行に準じてApple II 側にプログラムが正常に読み込まれると画面は改行され、再度プロンプトが表示しコマンド待ちとなる。そこでまだカセットテープが回っているならストップさせる…。

ただしその際、レコーダー側の出力ボリュームが適切でなかったり、テープ走行に異常があったりすれば読込はエラーになるが、そんなことは多々あるからして気落ちせずまた再度はじめからやり直すことになる。

こうして最初に “Color Demosoft” をLOADして走らせてみた。プログラムのスタートはプロンプトに続き “RUN” と入力し“RETURN” キーを押す。プログラムが起動し “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” とタイトル表示のスタートアップ画面が表示されるが、無論テキストだけでイラストとか写真はない(笑)。

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※ “APPLE DEMONSTRATION PROGRAMS” スタートアップ画面


ここには4つのメニューが用意されているが、3番の “KALEIDOSCOPE” を見てみたいのでキーボードの “3” を押して“RETURN” キーを押すと “KALEIDOSCOPE” すなわちカラーの万華鏡がスタートする。

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※ “KALEIDOSCOPE” はまさしく万華鏡!


表示スピードやらのコントロールはできず、ただ見ているだけだ(笑)。それでも当時はApple II の魅力を最大限に示すデモであり、例えば1977年4月に開催された第1回ウエストコースト。コンピュータ・フェアー(WCCF)でAppleが初めてApple II をお披露目した際、大型モニターに映し出した “KALEIDOSCOPE” もこれと類似のものだったに違いない。



※ スタートアップ画面から “KALEIDOSCOPE” が表示し始める様子


もうひとつのプログラムは “Little Brick Out” だが、これは「ブロック崩し」ゲームとして一世を風靡したものだ。無論Apple II に読み込ませる手順は前記と同じだが、テープを裏返してレコーダーにセットし、まずは念のために巻き戻す。そして実行だ…。
こちらは無事読込ができて走らせてみるとスタートアップと簡単な解説の画面が表示されるがゲームを走らせれば何とも簡素なブロック崩しゲームの画面が現れる。ただしゲームを行うにはパドルといった類のコントローラーが必要だが、手近に見つからなかったので今回遊びは断念した(笑)。

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※至極シンプルなブロック崩しゲームがスタートする


ということで読み込み時に数度エラーも出たが、入手したカセットテープのプログラムは基本的に破損や消滅しておらず使えることがわかった。
確かに一般音楽用カセットテープにコンピュータのプログラムを保存して使う…といった類のことはいまでは思いもよらないことかも知れないが、安価にそして手軽な外部記憶メディアとして当時は不動の地位を占めていたのだ。
しかしその後、パーソナルコンピュータの外部記憶メディアは5インチのフロッピーディスク、そして3.5インチのフロッピーディスクへと変わり、その後はより大容量を実現するためにMOドライブやら数種のメディアを体験しながらハードディスク利用あるいはUSBメモリなどの活用に進化してきた。そして現在ではクラウドへの保存も珍しいことではなくなっているが、果たして今後30年とか40年後に現在我々が当たり前に便利だと使っている外部記憶メディアは利用できる形に残っているのだろうか…。
そう考えるとこのカセットテープという正しくローテクな記憶媒体は俄然素晴らしく思えてくる。

ちなみに今回テストした1979年Apple Computer製のカセットテープはテープの長さは3分以内という短い物を使っている。単にコストということではなく単一のプログラムを記録するカセットテープは一般音楽用の30分とか60分のものだと使いづらいのだ。なぜなら巻き戻しや早送りにも時間がかかるし、30分のテープ片面に複数のプログラムを収録することは物理的に可能でもランダムアクセスができないから頭出しに苦労するわけで、秋葉原のマイコンショップなどでも3分といった音楽用カセットではあり得ない、コンピュータ専用のカセットテープを販売していたものだ。

当ブログで新しく連載を始めた「[小説]未来を垣間見たカリスマ ~ スティーブ・ジョブズ 第1部 ー 第7話 WCCF前夜」の中でWCCFで展示するデモ用ソフトを複製するためのカセットテープをクリス・エスピノサが買いに行くとき、ビル・フェルナンデスが「カセットテープは30分のにしてくれよ。いや、もしあったらもっと短いのを頼む。60分や90分はダメだぞ!使いづらいからな」と叫ぶのはそうした理由なのだ...。

では私自身、このカセットレコーダーをコンピュータの外部記憶装置としていつ頃まで使っていたのかを確認してみた。使い勝手はそれぞれ違うものの、ワンボードマイコンの富士通 L-Kit8は1977年末から1979年まで使ったがその間はずっとカセットだった。
1978年12月に購入したコモドール社のPET2001は本体にカセットテープレコーダーを装備していたから1980年秋口に専用のデュアル・フロッピーディスクシステムを購入するまでカセットを使った。

Apple II は1982年に手に入れたが、同年8月にDisk II を手に入れたから比較的早くフロッピーディスクを使い始めた方なのかも知れない。しかしソフトウェアはまだまだカセットテープで供給されたものがあったから、フロッピーとカセットはしばらくの間共用することになった。
ただし他機種では1983年に登場したハンドヘルドコンピュータ HC-20はマイクロカセットだったし1983年にビデオとコンピュータ映像をスーパーインポーズしたいと手にしたシャープのX1もカセット駆動だった。

ちなみに "カセット (cassette)" とは小さな容器・箱を意味し "小さな~" をつけると宝石箱などといった意味もあるという。いまではフロッピーディスクもそうだが、カセットテープのひとつふたつは価格的にも貴重とは思わないが、1980年代前後においてコンピュータの外部記憶メディアとしてのカセットテープ...特にゲームなどが書き込まれて販売されていたものたちは私らにとってそれこそ宝石箱に入れておきたいほど大切なものだったのである。




Apple 、1992 Who's Who〜Pacific Market Forum〜The Power of Partnershipを手にして

久しく忘れていたひとつの資料が出てきた。確認して見ると2006年11月に「Pacific Market Forumに見る『1992 Who's Who』の思い出」と題して一文を載せているが、今回は当時の極東マーケット名簿として作られたこの資料に再度目を向けてみよう。


リングで綴じられた407ページの名簿資料はその表紙にあるとおり1992年のMACWORLD Expo San Franciscoに合わせて開催された「Pacific Market Forum」向けにと制作されたものだ。
Expoのどのくらい前だったかはすでに記憶にないが、写真とともに住所やらの企業情報を送ってくれとアップルジャパンから依頼が入ったことは覚えている。

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※アップルが1992年MACWORLD Expo San Francisco時に開催された「Pacific Market Forum」向けに制作したPacific Marketに従事する人たち407人の名簿「1992 Who's Who」


そのときにはどのようなものに使われるのかははっきりしなかったがExpoの最中、名物のケーブルカーが通るパウエル・ストリートをノブヒルと呼ばれている市内で一番高い地域に向かうとあるフェアモントホテルで「Pacific Market Forum」は開催され、その場で手渡されたのだと思う。

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※私はフェアモントホテルの一室で行われたミーティングに駆り出された。壇上向かって右が筆者


1992年当時のアップルの市場、特に日本市場の規模を知るにはうってつけの資料の1つだと思うが、日本市場はまだまだ小さなマーケットでしかなく米国本社直属の組織ではなかったのである。したがって日本のマーケットはオーストラリアなどを含む極東地域というカテゴリーの一員だった。

「1992 Who's Who」はその名の通り、この極東地域のマーケットでアップルのビジネスをしているキーマンたちの名簿という意味合いなわけだ...。そして国別と共にアップルの社員かそれ以外のコンサルタント、デベロッパー、パブリッシャー、ディストリビューター、ローカリゼイション・エキスパート、その他というビジネスカテゴリーによる分類が顔写真と共になされている。
さらに所属・タイトル・住所は勿論、電話番号やFAX番号、そしてAppleLinkのIDなど、お互いに即連絡を取り合えるデータが掲載されていた。

ただし時代とは言え今から思えばアップルが作るアイテムとしては高級感もなければユニークさもない。針金のリング綴じ、単色の印刷はまだしも極々当たり前の仕様というかデザインだ。アップルロゴも表紙に1箇所小さな白抜きの単色で使われているだけだし説明不足と考えた補足なのだろう、表紙の裏にはカテゴライズの説明の紙が貼られている。

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※補足事項が表紙裏に貼られている


過日若い方に見せたところ、使われている顔写真を「雑な印刷ですね」と評したのが印象に残っている。確かに「1992 Who's Who」407ページのそれぞれは当時のDTPでレイアウトされ、LaserWriterで出力したものを版下として使ったのではないか...。
ただし顔写真が雑と見えるのは時代としか言いようがない。なぜなら当時は市場にデジタルカメラというものがなく、あのアップル純正のQuickTake100でさえ1994年2月のリリースだった。

したがってアップルの依頼に応じた人たちが送ったのは一般的な銀塩カメラで撮り、プリントしたものだったはずだ。この網点が粗く見える写真は当時のMacintoshとLaserWriterによるページレイアウトの限界だったということになる。
勿論一般の印刷会社に依頼すればずっと綺麗な印刷物となったに違いないが、想像するに予算の問題はもとより「Pacific Market Forum」当日に間に合わせるため苦肉の策だったのかも知れない。

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※当時パシフィック・マーケットの責任者だったSatjiv Chahil氏のページ


また各人の写真だが、アップルジャパンとしては武内重親氏、原田永幸氏らの顔があり108ページには私も載っている。とはいえ当時どれほどのデベロッパー、ディストリビューターらがいたのか分からないが穴だらけに思える。中には目を瞑った写真の人もいて「なんだかなあ」と思ったものだ。さらに間に合わなかったのか、あるいは顔出しが嫌だったのかは不明だがかなりの人数の写真が載っていない。

ということで本来はパシフィック・マーケットでビジネスを営む企業や代表者、責任者たちの名簿を作りそのネットワーク化を図ることでアップルの市場をより活性化すべきと企画された「1992 Who's Who」だったはずが、正直一度も仕事の一環としてこのページを開いた記憶はない。

そもそも「1992 Who's Who」はパシフィック・マーケットのどこの誰が企画して音頭取りをしたのか不明だが、発想は良いとしても詰めの甘さと時間的余裕のない企画といったいわばアップルジャパンのいつもの弱点と危なっかしさを見せられた気がして個人的には妙な納得感を持ったものだった。
そんな一冊の名簿だが、現在まで残っているのはアップルの資料だから…という一語に尽きる。いまでは当該「Pacific Market Forum」に出席したことと共によい思い出である。




パソコンで絵ひとつ描くにも長い歴史があった!

絵を描くことが好きだった私はマイコンやパソコンを手にしたとき、いつの日かコンピュータで絵を描くことができる時代になるに違いないと願望を持って接してきた。確かにApple II にしてもそれらしいことはできたが書いたものを写真に撮って友人に見せたら「汚ったねぇ」の一言で返された...。


今回は大ざっぱではあるが、パソコンで絵を描こうとした個人的な歴史をご紹介したい。
1977年にワンボード・マイコン 富士通L Kit-8を手にしてBASICを走らせたとき、最初にやったことのひとつがアスタリスクをモニター上に配置して顔を描こうとしたことだ。まあ、絵とは言えないかも知れないが振り返ればこれがコンピュータで計算だのゲームだの…ではなく、何らかの意志を持ってパターンを描いた最初の作業だった。

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1978年春、BASICが走った富士通L-Kit8でアスタリスクをTVに打ち出して人の顔を作った


その翌年にコモドールのPET2001を買ったが、グラフィカルなコンピュータではなかったしモニターはモノクロだった。したがって人の顔は勿論なんらかのパターンを描くにはキーにアサインされていたキャラクタを組み合わせて表現するしかなかった。

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※コモドールPET2001一式(上)とアスキー誌に載った「モンタージュゲーム」(下)。キーにアサインされているキャラクタを組み合わせてパターンを描いた例


それから4年後の1982年、待望のApple IIを手にした。グラフィックモードは低解像度と高解像度の2種類を装備していたが低解像度は15色、高解像度の場合は6色(初期モデルは4色)というカラー表示が可能だった。そのカラー表示はそれまでモノクロの画面しか使えなかったパソコンの印象および実用性を大きく変えた。

このカラー表示機能を受けて周辺機器もゲームパドルといったものだけでなく多彩な製品が登場するようになった。例えばバーサライターという原稿をトレースする一種のグラフィックタブレット、ライトペンシステム、さらにはビデオカメラ(モノクロ)から映像を取り込むことが出来るデジセクターといったビデオデジタイザまで登場する。

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※Apple II 用のバーサライター(上)とライトペンシステム(上)


いまではタブレット類はもとより、なによりもデジタルカメラで撮影した映像を簡単にMacやiPadに取り込んで画像処理できるが、当時は無論デジタルカメラもなく、いわゆる自然画像をパソコンに取り込むだけでも数十万円の予算が必要だったしその解像度は当然Apple II のそれに依存した。

またApple II のカラーは色の滲みも目立ち、現在のフルカラーのように写真と見紛うクオリティを求めることなど夢のまた夢の時代だった。それでもライトペンやバーサライターあるいはビデオデジタイザで様々な試みを行い、自分なりに納得する絵を描いたつもりだが、パソコンの限界や制約を知らない友人知人たちに見せると必ず「汚いカラーだなぁ」と酷評されたものだ(笑)。
やっとカラーで絵を書けたと喜んでいた私は「ムッ!」としたが、冷静に見ればはみ出た塗り絵みたいな代物であることは確かだった。

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※Apple IIのビデオデジタイザ(上)でモジリアーニの絵を取り込み前記ライトペンで彩色した例(下)


文字通りパソコンで絵らしいものが描けそうだと思ったのは1983年に購入したNEC PC-100だった。512色の内16色をセレクトし、720×512ドットの高解像度をサポートした16ビットパソコンはやっと自分の長い間の思いを叶えてくれそうだと喜んだ。なにしろ翌年の1984年1月に発表されたAppleのMacintoshは9インチという小さなディスプレイはともかく相変わらずモノクロだったから...。

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※1983年登場したNEC PC-100


このPC-100がPC-9801のように正常進化したら、もしかして私はMacintoshを捨てたかも知れなかったがメーカー側の都合というか様々な確執からPC-100はその後のアップデートは期待できず埃を被るしかなかったのである。
それでもカラーのコンピュータグラフィックの魅力に開眼した私はMacintoshを使いつつ、PC-9801用のカラーグラフィックソフトや周辺機器を手当たり次第に確認した。PC-9801用のビデオデジタイザやカラービデオ入力をサポートした Z's STAFF + PlusKit Level-2 といったアプリケーションなどなどである。

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※PC-9801用グラフィックソフト「Funny」1985年(上)と「Z's STAFF」1986年のサンプル画


さらにアウトプット環境も揃えたいとインクジェットカラープリンタまで揃えるハメとなる。それでもドットが認識できる画質に満足できなかった私は1987年6月、サピエンスという会社まで出向きPC-9801用のフレームバッファボード、エプソンのGT-3000カラースキャナなどを揃えた結果やっと写真画質の映像を手に入れた。

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※PC-9801用のカラービデオ入力をサポートした「Z's STAFF」と「Pl;usKit Level-2」によるカラー入力システムを用意した(1986年)


しかし画面に表示するだけでデータの二次利用、すなわち加工や編集を自在に可能とする環境ではなかったため画質は評価したものの急速に興味を失っていく。

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※PC-9801用、サピエンス社製フレームバッファとエプソンGT-3000カラースキャナでやっと写真画質に迫った(1987年)


その空虚な心の穴を埋めようと本格的なコンピュータ3Dを可能とする高価なPersonal LINKSまで手に入れ、その勢いで米国アナハイムで開催されたSIGGRAPH '87にまで参加することになった。1987年のことである。

そのSIGGRAPHから戻った直後、事前に注文しておいたMacintosh II が届いた。Apple最初のカラー機種である。当時ワークステーション級のパワーを持つとされたスーパーパソコンだったがそのカラーは1670万色からセレクトした256色を同時表示する能力でしかなかった。

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※Macintosh II がリリースされた直後に出回ったサンプル画例


この意味を...限界を言葉で説明するのは非常に難しいが、例えば結婚式で新郎新婦がそれぞれ黒の正装と純白のウエディングドレスを着た写真をカラーイメージスキャナでデジタル化することを想像していただきたい…。

いまでは何の衒いもなく純白のウエディングドレスも黒いモーニング姿も美しく再現できるが、当時は256色しか同時に使えなかった。純白のウエディングドレスも黒のモーニングも写真をよく見るまでもなく繊細なレベルで多くの階調を持っているが、その自然さは256色では表現できないのだ。

どういうことかといえばウエディングドレスやモーニングの一部に目立つ色飛び、色違いが生じて見られたものではなくなってしまうのである。さらに衣裳にカラーパレットのほとんどを取られた結果肝心の新郎新婦の顔...肌色まで無残な結果になってしまう。これが256色という限界の仕打ちだった。

一般的な景色やらを表現するときには256色もあればなんとか自然に見えたものもこうした極端な例では実用とならなかったのだ。
ちなみに私の会社では ColorDiffision というこの256色のカラーパレットをユーザーが任意にコントロールできるアプリを開発したり、カラースキャナ用のアプリ ColorMagician にも同様の機能を搭載し、優先するカラーとその数を調整できるようにした。

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※ColorMagicianによる256色カラーパレット編集機能


これにより前記結婚式の写真の場合だと、人肌の色および新婦を美しくデジタル化する点にカラーパレットのウエイトを優先的に多く取ることでまずまず自然で美しい花嫁姿をデジタル化できるようになった。ただし限界を突破したわけではないため、その余波は新郎のモーニング姿に向かってしまい、その黒い衣裳には色飛びが顕著となった。

ただしMacintoshにはPhotoshopをはじめ次々と優秀なグラフィックツールが登場し、その使い勝手は他のパソコンを凌駕していく。
結果現在ではハードウェアもそしてソフトウェアも黎明期と比較して信じられないほど安価にもなったしその処理能力は理想に近づいている。手法やアプローチはなんであれ、いまやっと絵画はもとより写真を素材にした表現も自在にできるようになった。しかし気がついたら私がコンピュータを手にしてからすでに40年にもなろうとしている…。

MacintoshとLisaのFont 秘話

スティーブ・ジョブズは2005年6月12日、スタンフォード大学の卒業式で後世に残るであろう名スピーチを披露した。その中で彼は大学を中退後calligraphyの授業を受けたことが10年後最初のマッキントッシュを設計する際に役に立ったといい、もし大学を中退してその授業を受けていなければ、Macが複数の書体やプロポーショナルフォントを持つことはなかっただろうと言い切った…。


いまから思えば1984年に登場したMacintoshのフォントはモニタ表示も印刷も決して精緻なものではなかったが当時はもの凄く美しく思えた。
それまでのパソコンはいわばフォントというものを蔑ろにしていた。第一現在のように白い背景に黒い文字ではなく当時は黒い背景に白、グリーンといった文字が表示されていたのである。
だからこそMacPaintやMacWriteでまさしく白い用紙をイメージしたモニタに思うさま複数の書体を混在できたとき胸が躍った…。そればかりでなくそのプロポーショナルなフォントは本当に美しかったのである。

さて、スティーブ・ジョブズの物言いのあら探しをするわけではないが、彼はMacプロジェクトを手がける前にLisaというスーパーパソコン開発の責任者だった。
その後彼がそのLisaプロジェクトの開発責任者から外され、その憤懣やるせない思いを埋めるために当時ジェフ・ラスキンが小さなプロジェクトとして進めていたMacintoshプロジェクトを乗っ取ったことはよく知られている話しである。

したがってApple IIや IIIはともかくスティーブ・ジョブズが自分の思い通りのコンピュータを作る機会としてはまずLisaという存在があったのだ。

そのジョブズが世界を変えようと息巻いて開発がスタートしたLisaだが基本的に「Type Style」メニューから選択できるフォントは「Modern」と「Classic」の2書体でしかない。

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※ Lisaの搭載フォントは基本的に「Modern」と「Classic」の2書体だった


理由は不明だがこのLisa開発の際に何故Macintoshのときと同様、複数のフォントを搭載する機会がなかったのだろうか…。なぜそれはMacの時に開花することになったのだろうか…。
斎藤由多加著「マッキントッシュ伝説」でアラン・ケイが言っているとおり、Macintoshのユーザーインターフェースと思われていることの基本はLisaで実現されていた。それはゼロックス社のパロアルト研究所の研究成果…ウィンドウインターフェースよりも大きく進歩したものでApple最大の功績のひとつに間違いなかった。

ケイは続けていう。そうした発想はスティーブ・ジョブズが視覚に極度にこだわったところから出てきたものだと…。ジョブズはスクリーンでどのように見えるかを常に気にしたからだ。
したがってもしジョブズがLisaの開発プロジェクトのリーダーであり続けたら、マルチフォントの栄誉はMacでなくLisaが最初になったのかも知れない。

では、そもそも最初のMacintoshに搭載されたフォントはどのようなものだったのだろうか…。
当時のシステムは現在のようにハードディスクにインストールしたシステムに頼るものではなく、アプリケーションと一緒にたった400KBの3.5インチ・フロッピーディスクに収められていた。したがって今回再確認するに際し、後にフォントを入れ替えたりした形跡も記憶もないオリジナルなMacPaintのディスクを使って起動してみることにした…。

それはディスクラベルにMacPaintの作者、ビル・アトキンソン直筆のサインをもらったという私にとっては貴重なものだが、これなら間違いはないと久しぶりに起動ディスクとして使ってみた。なにしろ1984年に手に入れたMacintosh 128Kに同梱されていたアプリケーションはMacPaintとMacWriteの2つしかなかったのである。

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※2004年に来日したビル・アトキンソンにサインをしてもらったMacPaintオリジナルディスクとマニュアル


ともかくマシンはそのMacintosh 128Kを使用したが、起動したMacPaintの「Font」メニューには Chicago, Geneva, New York, Monaco, Venice, London そして Athensの7種類が用意されていた。ちなみにメニューに使われているフォントは Chicagoだ。

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※最初のMacintoshには7種類のプロポーショナルフォントが搭載されていた。下は同じテキストによるフォントデザイン比較

アンディ・ハーツフェルド著「レボリューション・イン・ザ・バレー」によればこれらMacintoshのスクリーンフォントはVeniceという手書き風書体以外、皆スーザン・ケアがデザインしたとのこと。
スーザン・ケア女史といえばあのハッピーマックや爆弾マークなどMacをマックたらしめる数多くのアイコンをデザインした人である。そのスーザン・ケアは当初ローカルな通勤電車の駅名にちなみ Overbrook, Merion, Ardmore, Rosemontといった名前を考えていたという。

ある日のことスティーブ・ジョブズがメニューにあるフォント名を見て眉をひそめた。「何だこの名前は?」と…。スーザンが駅名だと説明するとジョブズは「都市の名前はいいだろう…」と言いながらも「でも誰もが聞いたことのないようなケチな名前じゃだめだ、世界的な都市名にするべきだ」といったことから前記のような一連のフォント名が決まったという。
ちなみにVeniceのフォントはビル・アトキンソン作として知られている。

スティーブ・ジョブズがcalligraphyを勉強したことがMacintoshに豊富なフォント、それもプロポーショナルフォントを採用することになった。しかしあらためてMacintoshというパーソナルコンピュータと向かい合うと今さらながらその斬新さ、凄さが身にしみて分かってくる。

AppleはMacintoshの販売時に「これはLisaテクノロジーを踏襲したもの」といった物言いを盛んにやった。そして巷ではMacintoshはLisaをコンパクトにしたものに過ぎないといった言われようもあった。しかし実際にMacintoshをきちんと評価すると単にLisaの安価版であったわけではないことは明白だ。

このマルチフォント採用はもとよりだが、マルチリンガル、リソース、QuickDrawといった仕様はもとより、Macintoshは最初から喋ることができたしグラフィックスの基本フォーマットとなったPICTなどを総括して考えると後にマルチメディアなどに代表されるコンセプトがほとんど包括されていたことがわかる。

そう、事実多彩なフォントとグラフィックスを容易に扱えるというMacintoshのコンセプトからあのデスクトップ・パブリッシング(DTP)が発生したことを思うとき、最初のMacintoshに多様なフォントが搭載された意義はいま考えるより遙かに大きかったのである。



NeXT 用マウス幻想

手元に黒くて丸くちょっと不思議な形をしているマウスがある。もちろんAppleの製品ではないが事情をよくご存知のご同輩には一目でお分かりのことだろう...。そう、これはあのNeXTコンピュータ用のマウスである。


申し上げるまでもなくNeXT Inc. はアップルを辞めたスティーブ・ジョブズが1985年に操業した会社だ。社名はその後、Next Computer, Inc.およびNext Software, Inc. と変わっていくが、最初の製品NeXTcubeは1988年10月12日、サンフランシスコにあるコンサートホール “Louise M, Davies Sysmphony Hall” で発表された。



※1988年10月12日にデイビス・シンフォニーホールで発表されたNeXTcubeとスティーブ・ジョブズによるプレゼン映像


NeXTはスーパー・パーソナル・ワークステーションとして時代を先取りしたコンピュータではあったが価格はともかく初期モデルは動作が遅くて不評だった。ただしオリジナルのWorldWideWebがNeXTマシンで開発されたことはよく知られているし、1996年末にNeXT社がAppleに買収された後、そのOSだった OPENSTEPの技術をベースにMac OS Xが開発されたこともパーソナルコンピュータの歴史の妙だ。

さて本体の話しは取り急ぎこのくらいにしてそのNeXT用のマウスに目を向けてみよう。NeXTのマウスもキューブ型の初期は角型のマウスでありインターフェースも独自仕様だった。しかし後期になって採用されたこの円形の2ボタンマウスはADB仕様のため、Mac OSでも特別なドライバー不要でそのまま使えたのだ...。

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※後期型NeXT用マウス。前面に突き出ている前掛けのような部分は2ボタンだ


当研究所には中古品と新品の2つが保管されているが、中古品の方も問題なく使えるしNeXTロゴをデザインしたポール・ランドによるロゴもしっかりと刻印されている。しかし初期型がロゴもカラーで立体的だったのに対してこちらは刻印でありどこか簡素化されている印象は拭えない。

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※制作したロゴをNeXT社に持参したデザイナーのポール・ランド。右はスーザン・ケア


この丸形NeXTマウスをしばらくぶりに机上に置いて眺めていたが、例によって様々な連想が浮かんでくる。
スティーブ・ジョブズの事だからこのマウス1つについてもそれなりに拘ったに違いない。そして現在の視点から眺めてみるとNeXT社も後期はビジネス的に苦しい状態で、結局ハードウェア部門はキヤノンに売却し社名もNeXT Software, Inc.と変わる。

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※後期型NeXT用マウスの背面


だからだろうか...そうした先入観からか、このマウスにはデザインといった妙は別にしてもどこか高級感が感じられない。ADB仕様にしたのも市場に併合すると共にコストダウンを計ったのかも知れないと勘ぐってしまう。ちなみに日本製である。

そして今更だが、もうひとつ…このNeXTマウスを眺めていたら気がついたことがある。これまた想像の域を出ないことだが、この丸形NeXTマウスがあの最初期の iMacに付属した円形マウスの原点だったのではないかということだ…。

iMacの円形マウスはAppleの歴史の中で汚点のひとつだと考えているが、当初はジョブズがAppleに復帰した直後に評価され表舞台に登場したジョナサン・アイブのアイデアだと思っていた。しかし復帰後、Appleの命運をかけた iMacだからしてこれまたそのマウスにもスティーブ・ジョブズの強い拘りがあったはずだ。

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※NeXT用マウスと初代 iMac用円形マウス


無論 iMacのマウスデザインもジョナサン・アイブが担当したに違いないが、その原点...コンセプトはスティーブ・ジョブズのNeXTマウスへの拘りからスタートしたのかも知れないことに思いついた…。何しろマウスとして適度なサイズということもあるにしても、NeXTの丸形マウスの直径とiMacの丸形マウスの直径は共に約74mm強 とほぼ同じなのだ!

話しはまた迷走するが、Appleは1996年当時、次期モダンOS開発に頓挫していた。自社開発を諦めたAppleは外部のOSを採用しようとして一時はジャン=ルイ・ガセー率いるBeOSに傾いたが結局はNeXT社を買収しソフトウェア資産共々ジョブズを顧問として復帰させることになった。

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※サンフランシスコExpoにおけるBe社のブース。筆者撮影


スティーブ・ジョブズとしては当初、自分はあくまで顧問だという主張を繰り返していたがギル・アメリオCEOを退任に追い込んだ後には周囲の強い渇望もあって暫定CEO(iCEO)として職務に当たることになったわけだが、iMacは秘密裏に開発が続けられた。
そのiMac発表はNeXT発売からちょうど10年目となる1998年、5月のWWDCで発表されたがジョブズがAppleに復帰してから1年半ほどしか経っていない。

OPENSTEPがMac OS Xとして登場するには2001年まで待たなければならなかったが、ジョブズの思考回路にはまだまだNeXT時代のDNAが残っていただろうし、良いものはAppleでも継承させたいという考えがあったに違いない。

ボンダイブルーのiMacは初代Macintosh 128Kと同様、文字通りジョブズのマシンだった。内部にもメモリ以外アクセスできないクローズドな設計、冷却ファンはないしそのトランスルーセントから見える基盤や部品の配置の妙などはまさしくジョブズの作品だった。だからこそそのお披露目でモニター上に初代Macintoshの発表時を彷彿とさせる "hello again" と表示させたくらいだった。

NeXTMouse_02.jpg

※1998年5月、WWDCの場で発表されたiMac。当時私の会社のスタッフが撮影


その初代iMacの円形マウスがスティーブ・ジョブズによるNeXT時代の拘り、残り香だと思うとNeXT本体には興味がわかなかった私でもちょっと愛しい気持ちになってくる。
ただしNeXTのマウスは前部分に明らかに目立つ2つのボタンがあったからその保持する位置を誤ることはなかったはずだが iMacのそれは明らかに使いづらいという違いがある。

いずれにしてもNeXTコンピュータといえば我々はキューブ型の本体を思い浮かべるが、後期型とはいえマウスに円というか半球を思わせるようなデザインを採用するといった多面性はさすが?スティーブ・ジョブズではなかろうか...。



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mactechlab

Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員