日々コーヒーを楽しむのが日課の一つとなっている。ためにデロンギ製の全自動エスプレッソマシンの電源はほぼ入りっぱなしだ。ただしこの全自動エスプレッソマシンは大変美味いエスプレッソを煎れてくれるが、ミルクフォームを作る機能は半自動ともいうべきものなので例えばカプチーノをと思ってもいつもいつも思い通りなミルクフォームが作れるとは限らない。無論それはマシンのせいではなく利用者である私の未熟さによるものだが…。

※愛用のデロンギ全自動エスプレッソマシン
というわけでこの度電動「ミルク泡立て器」を買ってみた。まあ、半自動でも上手にミルクフォームができるよう練習すればよいとは理屈で思うが、これまでのところその時間が惜しいほど上手く行かない(笑)。

※Keenstone ミルク泡立て器
しかしこのKeenstone「ミルク泡立て器」は電動なのでボトルに一定量の牛乳(成分無調整・脂肪分3.5%以上がお勧め)を入れスイッチを押すだけで、カプチーノはもとよりマッキアートやアイスコーヒーに適したミルクフォームを作ってくれるという…。

※Keenstone ミルク泡立て器の本体
結論から申し上げる事になるが、このKeenstone「ミルク泡立て器」は二分ほどで最高のカプチーノ用ミルクフォームを作ってくれる。それも60~65℃と適温のフォームを…。
そうそう、電源ボタンは一つしか無いが、このボタンを1回押すとマッキアート、2回でカプチーノ、3回でホットミルク、そして4回でアイスコーヒーに最適な常温のフォームを作ってくれるわけだ。
牛乳を入れる際には内側にある115ml 線を越えないようにしないとミルクフォームが溢れるので注意を要する。ということはフォームを加えるコーヒーカップのサイズ・容量にもよるものの一度に作れるのは3杯ほどのフォームである。
ということでこのKeenstone「ミルク泡立て器」、実際に十何回使ってみたがムラもなくいつも最高のミルクフォームを作ってくれるのでお勧めである。

※いつも間違いの無い最高のミルクフォームを期待できる
エスプレッソマシンで珈琲を抽出していると同時にこのミルク泡立て器をタイミング良く動かせば温かくて細かなミルクフォームで包まれた最高に美味しいカプチーノが出来上がる。
そしてこれは好みだが、カカオパウダーをほんの少しフォームの中央に振りかければお店と遜色の無い一杯が堪能できるわけだ。
さて最後にひとつ問題というわけでも無いが、後始末をしなければならない点を記しておかないと不公平になろう。
無論牛乳を入れて熱した本体のボトルはもとより本体底に装着するミキサーも取り外し、透明の蓋とともに綺麗に洗う必要がある。それは当然ではあるが、本体は防水仕様ではないため、ボトルの底や本体横の電源ボタン部に水などが入り込まないよう最新の注意をしなければならない。これが案外面倒といえば面倒である。


※ボトル本体の底には取り外し可能なミキサーが付いている。また掃除の際にはこのミキサーを取り外してよく洗う必要があるが、防水ではないので電源ベースと本体の電源ボタン部には水を入れてはいけない
附属品にはクリーニングブラシも用意されているが、せっかくの良い品を乱暴…不用意な洗浄で壊しては元も子もないので十分な注意・配慮が必要だ。
ということで、本製品は価格も高いものではないし、コーヒーを愛飲される方なら揃えておくと宜しいと思う。それに、先般発表されたAppleの新製品群の価格を見た後では…とても安価に思える(笑)。
■Keenstone ミルク泡立て器(Amazon広告)


2022年6月6日、前回緊急搬送された府中恵仁会病院に再入院した。薬で散らした虫垂炎を根本的に治療する手術のためだ。ともあれ前回の入院と違うのは可能な限りの準備しての入院なこと…。アイマスクや耳栓といった身の回りのものだけでなく、情報を容易に受信・発信できたらとiPhoneはもとよりMacBook Proまで持参し、電源周りや充電対策といったことにも注視して準備した。
ただし病院自体は相変わらずWi-Fi環境は絶無なので、iPhoneをディザリングしネットに入るのはMacBook Pro...と考えた。したがってあらかじめ月当たりのデータ契約量も増やした。
さて手術は相応の覚悟をもってことに当たったわけだが、いざ入院となり麻酔医から、あるいは看護師からさまざまな手順や説明を聞くたびにどうにも逃げ出したくなる。そして良き印なのかあるいは悪い知らせなのか、病室は前回と同じ病室だった。ただし四人相部屋のベッドは違ったが...。
こうして再び入院生活が始まった。

■入院当日
今回の手術は腹腔鏡手術だとのことで術後の経過がよければ3,4日で退院できると聞かされていた。腹腔鏡手術は17年前に一度経験しており、要領は知っているつもりでいたが、いやはや今回は思ったより大ごとなので驚いた。
入院は午後一時だったので昼飯は済ませてきた。また夕飯は出たものの申し訳ないが完食できる内容・味付けではなく困惑。そして翌日が手術日な訳だが朝食は抜きで水分も摂ってはいけないとのこと。
覚悟の入院だったが、いざベッドに横になり天井を見つめていると不安が広がってくる。それにこの日は特にやらなければならないことはないので余計にあれこれと考えてしまう。
ともかくここまで来たからにはやるっきゃないし早めに寝ようと考えた。相部屋はすべて埋まっているが、無論前回見知った患者がいるわけでもなくまたまた未知の世界だ(笑)。
イビキが結構すごく日中起きているときはブツブツ独り言をいう患者がいたがその夜は幸いなことに眠ることができた。また前回のようにナースステーションで罵詈雑言を吐くお婆さんもいないので一安心だったし悪夢も見なかった。

■手術当日
とうとう...その日が来た。いろいろ気になることはあるがここまでくればまな板の鯉だ。病室で手の甲へ点滴をセットされ、そのまま手術室へと向かう。手術室はどんな場所なのかと考えていたがドラマなどで出でくる手術室とは違い周りに資材の段ボールがあったりと思ったより雑然とした空間だ。その中に幅の狭い手術用ベッドがあり、そこに寝かされ酸素吸入マスクをあてがわれる。
そうそう、手術室へ行く前に弾性ストッキングなるものを穿かされる。これは両足がしばし動かせないためエコノミー症候群の予防だという。さらにフットポンプといって脹脛を定期的に圧迫するものを装着される。これも血の固まりができないようにとの配慮らしい。
そしていくつかの計測機器が繋がれるが麻酔はまず点滴側から入れられ、あっという間に闇の中に...。したがって後のことは記憶にないが、この後口から管を入れられ全身麻酔の処置をおこなったというし麻酔が効いた後には尿道から膀胱へバルンカテーテルという管を挿入された。
この手術日は時間に合わせ女房が来院してくれたが、コロナの影響で病室はもちろん顔を会わせることもできない。ただ術後に主治医から経過などの説明があるからと足を運んでくれたわけだ。
結果約一時間半後、私は病室のベッドで目を覚ました。まだ薬が効いていることもあってか自然体なら術後の痛みはないが少しでも体を動かそうとすると腹部に激痛が走る。
また体には先のフットポンプをはじめ心電図のセンサーが胸に貼られ、定期的に計測するための血圧計が右腕に巻かれ、その人差し指には血中酸素濃度を測るパルスオキシメーターが挟んである。ただし口からのチューブはすでに抜き取られていた。

このがんじがらめの状態の上に当然ながら術後で下半身が重いし、動かそうとすれば激痛が走る。ただし医者曰く傷には影響ないのでなるべく早めに歩けるようにしてくださいというが、そんな状態ではない。
困るのは時折出る咳だ。咳は腹筋を動かすのでとても痛い...。ともかく術後なので寝ているしかないが、眠れない。夜も眠れない。
困ったといえば前記したように食事だ…。病人だから仕方がないが、あの味気のない料理は喉に通らない。無理やり食べようと努力したが気持ち悪くなってくる。

挙げ句の果てやはり夜になっても眠れない。そりゃあそうだ...。痛みはともかく一時間なのか30分なのか覚えていないが一定間隔で右腕の血圧計が作動し圧迫する。そしてなによりも弾性ストッキングが暑苦しく事実汗をかき、皮膚が痒くなって来たしこれまた一定感覚でフットポンプが働きふくらはぎを締め付ける。
これでは寝られない。また昨日は静かだった同室患者のイビキがうるさいだけでなく寝言なのか独り言を言い続ける。
「ああ、今回は耳栓を持って来たな...」と思ったものの、それは一メートルほど離れたベッド下に置いたカバンの中なので体を動かせない本人にとっては取りたくても取れない。まさか看護師さんにナースコールして取ってもらうのも申し訳ないし、カバンの中を覗かれるのもいやだ。
というわけでそのまま明け方までほぼ覚醒した状態で過ごすしかなかった。
ともあれ病院というか入院した病棟および病室は前回と同じなので勝手もわかり安心していられる。また相変わらず医師は勿論、看護師の方々は親切であり献身的で本当に頭がさがる。
■同部屋の人々
四人部屋の患者たちは皆私と同年配か少し年上のジイサンばかり。一人は何度も手術を重ねてきたようだが近々難しい手術を控えている方だった。イビキもないし基本は静かなのだが日中家族に携帯で頻繁に電話をかける。耄碌しているとは思えないが同室の人たちへの配慮がまったくない…。
自分もジイサンなので些か言いにくいが、どうもこの年代のオヤジたちは自分本位で他人を思いやる感覚に欠けている者が多い。耳が悪いからか必然的に声も大きくなり、一度は看護師に注意されたが「ああ、注意されちゃったよ」と呟きながらしばらくするとまた電話をかける。また話の内容もお金の問題や家族のプライバシー満載の話しなので聞くに耐えない。
いま一人は前記したように寝るとイビキをかくが、まあ耳栓でなんとかなるレベルでまだよいが、日中起きているときのほとんどは独り言を言い続けている。看護師との会話などでは「ありがとうね」と相手に気遣いを見せるがとにかくブツブツ言い続けているので気になる。
3人目は日中何の問題もないが夜になると眠れないのかノートパソコンを取りだして作業を始める。主治医に「仕事と命とどちらが大切かは言うまでもないでしょう」と釘を刺されていたからまだ現役の方のようだ。問題はどのようなノートパソコンなのかは不明だがキーボーを叩く「カシャカシャ」という音が深夜だけに気になる。まったくどいつもこいつも自分が同室の者たちに迷惑をかけているなどツユほども気づいていない…。
ではお前はどうなんだといわれそうだが、私も無論完全無音の患者というけにはいかない。ときに出る咳喘息が夜に出ればそれなりに迷惑をかけるかも知れない。しかし言い訳めくが頻発するわけでもなしこればかりは意図的に抑制できることでもない。
それから、これらのジイサンたちは病気はともかく当然日中も暇だし、人恋しくて仕方がないようで看護師が見廻りで声をかけると肝心の用件はともかく身の上話や先ほど他の看護師に聞いたはずの話しを続けて足止めさせる。看護師の方たちは総じてメチャ忙しいのだが邪慳にもできず健気に話しを聞きそつの無い回答をしているが、気持ちは分かる物のまったく困ったジイサンたちである(笑)。
■退院に向けて
当初、手術が7日だから何事もなければ9日か10日には退院できると踏んでいた。しかし結局8日、9日は経過観察となり退院は10日となった。しかし10日は術後三日目だ。腹腔鏡手術ならではの快挙で凄いとしか言いようがない。
そういえば、6月10日はラテの誕生日だ。馬鹿げていると思われるかもしれないがどこかでラテが見ていてくれているようにも感じた。
退院前日に腹に挿してあったチューブと手の甲に針が射してあった点滴の針を抜かれ、これですべてのチューブや管から解放されたことになる。
また主治医いわく、退院当日からシャワーは大丈夫だというが、繰り返すが凄いなあと感嘆…。

退院当日だが午前10時から手続きが始まるが込み合うため実際は一時間ほど遅れる。ただしこの日は病院からタクシーで帰るつもりだったが、お世話になっているKファミリーのオカーサンが車で迎えに来てくださったのでリラックスして戻ることができた。
本当にありがたいことだ。
こうして無事に手術も終え、退院できたわけだが、しばしスローライフで養生したいと思う。ただし主治医からはなるべく歩けと言われているので雨が降らなければ少しでも歩くよう心がけ一日も早く100%の社会復帰を果たしたい。
私は初めて救急搬送され、4月21日から入院となった。病名は急性虫垂炎だった。下っ腹が張り、ときにチクチクしたりも気になったが、吐き気が強くなり最後は呼吸が困難になってきたので一大決心し自分で119へ電話をかけた…。

※緊急搬送された府中恵仁会病医院
■入院前夜
私は子供の頃から胃腸が弱かった。大人になってからはほとんど意識することはなくなったが、それでも年に数度酷い便秘に悩まされることがある。
4月中旬ころから下腹が張り、重く感じられるようになり「これはまた便秘か…」と思っていた。とはいえ通常は下剤を飲むこと無く時間が経過するうちに解消することがほとんどだが今回はちょっと違っていた。
便秘の苦しさに加え嘔吐感が増してきた。それでも便秘とはそんなものだという先入観もあったから普段の生活を続けていたが18日になり嘔吐感にまたまた息苦しさが加わった…。変だなと思いながらも我慢していたが19日なっても解消せずこれは本格的な下剤が必要ではないかと行きつけのクリニックへ駆け込み下剤を処方してもらった。また万一盲腸ではないかという考えが頭に浮かんだので問うてみたが、数日前にやった血液検査の結果では白血球の値は正常だし…とのこと取り急ぎ下剤を飲んだが効かない。
翌21日の朝は嘔吐感と胸苦しさは相変わらずだったから朝食は前日同様ほとんど食べられなかった。昼前にコンビニへ買い物に行った後息苦しさが急激に増してきた…。
しばし我慢して様子を見ていたが、この日は女房が務めに出ていて万一このまま倒れるようなことになったら命に関わると考えた。そんな時間経過の内にも息苦しさが増し立っていられない。
一大決心し、13時27分に自力で119番に電話した…。
救急車は10分程度で到着するようだからとフラフラの体にむち打って、保険証と財布そしてiPhoneをリュックに放り込み、玄関に出てドアを施錠し、そのまましゃがみ込んで待った。
救急車に乗るのは初めてではないが、自分がそのベッドに寝かされるとは考えたこともなかった。ともかく救急車は確かに10数分で到着し手際よく車内に運び込んでくれ、女房の職場に電話しつつ、反応を見るためだろう名前を聞いたりされる。
保険証を救急隊の方に預けて寝ていたが、最初の病院候補だった永山日医大では断られたらしく結局所沢の恵仁会病院に搬送された。
この恵仁会病院は昨年6月に女房が運び込まれたとき同乗していたので概要は承知していたが自分自身が搬送されるとなると話しは違う。
意識朦朧で確かな記憶はないが、CTスキャンやレントゲンなどの検査の結果、病状は急性虫垂炎だという…。ということで四人部屋の入り口近くのベッドに寝かされた。

■病院でのあれこれ
正直、病室も明るくなにより看護師の方々の献身的な働きはあらためてこの仕事の大切さと激務であることを実感する毎日だった。
私は今回のような本格的入院は初めてなので他の病院と比較できるわけではない。しかし世辞でなく看護師の人たちの対応は適切でありそして親切だった。
抗生剤のためか、痛みはほぼ消えていたがまだ嘔吐感は残っていたる。これまた投薬と共に胃のレントゲンだけでなく、万一脳に問題があってのことだと大変だからとCTスキャンを撮る。
しかし幸いなことにどちらも問題はないとのことだった。結局嘔吐感の原因は分からず仕舞となったのだが…。
こうして一日が過ぎ、二日が過ぎたが痛みや胸苦しさは解消したものの新たな苦しみを意識せざるを得なくなる。それは空腹感との戦いだった。医者からは "禁食" の指示があり一日三食全てが出ない。無論点滴をしているので空腹で死ぬことはないが(笑)死ぬほど辛い…。

※4月25日朝に出た最初の食事
禁食は入院してからだけではないのだ。気持ちが悪くて18日からほとんど食事が出来ない状態だったから4月24日時点で一週間経っている。しかし口から入れられるものは水か麦茶だけ。
このまま即身仏として入滅できそうな気持ちなってくる(笑)。
それだけでなく、眠れないのだ…。
ひとつはアイマスクや耳栓といった入院必須アイテムを用意する暇もなく緊急搬送されたためだが日中は部屋の照明は点いたままだ。ベッドに仰向けになると角度的に天井の照明が目に入る。
二つ目は入院患者たちの言動による。
入院した翌日の昼前、なにやら患者の婆ちゃんがナースステーション辺りでわめき騒いでる。病室のドアは開いているしナースステーションも近くだ。ただし入れ歯が外してあるのか、言語が不明瞭でなにを言ってるか半分はわからない。それでも「帰りてえ…帰りていよう」とかは聞き取れたし「ねえ、おねーさん」と看護師に呼びかけているのは分かった。そのうち自分に向き合ってくれないとわかると暴言に変わる。
このコロナ下の入院で家族とも会えず、どのような病気なのかはわからないが寂しいのはよくわかる。だから看護師たちの意識を何とかして自分に向けたいと思っているのに違いない。しかし看護師は激務であり、一人の患者にずっと付き添ってはいられないから暫くすると何やら大声でわめき始め、挙げ句の果て「馬鹿野郎!」と怒鳴る。
問題は声が大きなことと女性特有の甲高い声なので耳について気になってくる。そしてその日の夜10時頃にまたその婆ちゃんの怒号がはじまった。一旦始まると30分は止まらないしその日は明け方まで続いた。
「馬鹿野郎!」の後、少しして「ねえ、オネーサン」と猫なで声をかける。あの婆ちゃんだけでなく入院病棟のほとんどは高齢者なので痴呆症が加わっている者が多いとはいえ、看護師たちの献身的な対応にはホント頭が下がる。
いまはベットに拘束したりはできないから、言われ放題だがその婆ちゃんの介護をし、おむつを取り替えているのだから…私にはできないな…とつくづく思った。

また別の婆ちゃんの話だが、姿は見えないものの車椅子に乗りどこかへ向かう途中のようだがいきなり「ねえ、あたし殺すの?殺されるの?」と可愛らしい声で問う声が聞こえた。看護師はたぶんに噴き出しながらだと想像したが「殺さないよ!大丈夫、殺さないから安心して」と答えている。
無論入院患者は女性だけではなく1/3ほど男性もいる。これまた高齢者たちだが同じ高齢者として腹が立つほど態度が悪い。「ねえちゃん…」と呼びかけるのはまだしも、常に目上からの言動で嫌みを言う…。
これらの人々がこれまでどのような人生を送ってきたのかは知る由もないが、職場や家族たちへのパワハラも馬鹿にできなかったのではないかと想像してしまった。
■同室の人々
前記したように私は四人部屋に入れられた。私がその内の一人であるからして他のベッドは三つあり、それぞれ何の病気で入院したのか最初はわからなかったがこれまた高齢者だ。ただし他人の歳は判別しにくいから私より年下なのかも知れない…。
ともかくカーテンで仕切られているから普段姿は分からないが、トイレに行くときすれ違いざまにちらりと確認する程度だ。無論?同室の患者と雑談するといった機会も気持ちもお互いにないから詳しい事はわからない。
ただしそんなに広い空間でもないから看護師や医師たちとの会話はほぼ聞こえる。そんなあれこれで判明した右側のベッドの男性は大腸癌のようだ。術後のケアと多分人工肛門の取扱などであれこれと指導があるようだが問題は病気のことではない。その男性は看護師に対しても真摯に対応しているようだったがイビキが半端ではないのだ。
私の父親がいわゆる往復イビキで子供心に随分と悩まされたものだが、この男性のイビキはもの凄く私は「爆弾イビキ」と名付けた(笑)。大体段階4程度の進行で「カッ…」と呼吸に難があるようなことになると最後は「ガホーン!」とでもいったら良いのか爆弾が落ちたような声をだす。無論隣のベッドで寝ている私は寝られないし寝ていても起きてしまう。
イビキの持ち主の困った点は当の本人は寝ていることだ(笑)。しゃくに障るが文句も言えず対策は自分が個室へ費用を負担して移るしかない…。手軽にできることは耳栓程度だが、この爆弾イビキにはあまり効果はなかった。

また足元側の向こうのベッドに寝ている男性はイビキも凄いがまあ標準か…。それよりこの男性はすべておいてデリカシーに欠けていると思わざるを得ない。
なぜなら同室の他者に対する気遣いがないのだ。詳しい様子は無論カーテンの向こうだからして分からないものの、コップやらをサイドテーブルに置くとき、静かに置くと言うことを知らないらしい。「ガタン」と大きな音を立てる。まあ日中ならまだしも真夜中でも同じでトイレから戻ってきたのであろう…多分メガネをサイドテーブルに置くらしいとき夜中で同室のものは寝ているという配慮がなく、投げるようにおくようだからこれまた「ガチャン」と大きな音を立てる。そして病名は分からないが辛いとか怠いということはあり得るにしても真夜中に自分のベッドを「ドンドン…」と蹴るような音を立てる。
そして独り言と寝言が多い…。
病気のため、仕事を放り出して入院せざるを得なかったかも知れずプレッシャーは膨らむ一方に違いないが同室の一人としてはたまったものではない。
「ではお前はどうなのか?」と問われるかも知れないが、私はイビキはかかないし寝言もまず言わない。ただし時にうなされたりすることがある程度だ。
そうそう、うなされるといえば便秘解消にと下剤を処方された夜、嫌なというか気味の悪い体験をした。
体調はまだまだ良くならない入院初期の夜のこと、消灯時間になりベッドに横になった私は何とか眠りたいと目を瞑った。暫くすると(まだ眠りに入っていない)目を瞑った向こうに人の顔がおぼろげに見えた…。知り合いの顔ではない。「嫌だな…」と一旦目を開け、再び目を瞑ると今度は闇の向こうにいくつかの顔が見える。

しかし私は霊というものを信じていないから、此所のベッドで亡くなった人たちの霊か?とは考えない人間だ。いや…霊など信じないと言いきるとバズりそうだから付け加えると、私に限らず霊魂というものがあるのかないのかは誰しも分かるはずはない。なにしろ本当の意味で死にその体が消滅した後に生き返った者はいなのいないのだから。私はその霊とかが現世で我々の眼前に現れるということを信じていないという意味だ…。そしていつしか眠りに入ったが実に気味の悪い夢を見た。
夢だからしてストーリーやプロットに綻びがあり、理論整然と説明できないが、怪奇小説の短編くらいは書けるのではないかとも思えるほどリアルで気持ち悪い夢だった。
脂汗をかきながら目が覚めると強い便意を感じトイレに駆け込んだが、二週間も便秘だったもののその夜初めて出た!酷い下痢だった。
どうやら下剤のおかげで腸が動き出したのだろうが、先ほどの悪夢は胃腸の気持ち悪さが現れたものだったに違いない。ともあれその後、顔は現れなかった。
3人目の同室者は基本静かな方で、私が入院した翌日あたりに退院された。すぐそのベッドに運びこられたのは年配者ではなく多分40歳前…もっとお若いかも知れないが、その風貌と言動から音楽関係の仕事をしているように思えた。
日中には目立たず分からなかったが、夜になり回りが静かになってくると「ゴボゴボ…」と水を沸騰させたような音がする。無論病名も分からないからしばし様子を見ていたが、ふと閃いた!
あの音は酸素発生器ではないかと…。
勿論目視したわけではないので分からないが、あの音はラテの末期に購入した酸素発生器の音そのものではないかと確信したが、後日判明したのはバイク事故で肺をやられて緊急入院されたようだ。
点滴もそうだが、ここでもラテの看病が知識として繋がったことを実感した。しかしものを見ることなくそれが何なのかを知り得るのは本来難しいことだが希有な例であった。
■インターネット接続に落とし穴あり~虫の知らせ?
とにもかくにもベッドで寝ていなければならない。だからというか入院時の一日は長く時間の経つのも遅い。
しかしiPhoneがあるからと時々ネットを確認すると同時にSNSでお世話になっている方に連絡や女房とのやりとりを始めた。虚ろな頭で始めて見たが、私は日本で最初に発売されたiPhone3Gからのユーザーだが、iPhoneでまとまった文字数を入力するのはいまだ苦手の人間で、近所の中学二年生女子が遊びにきてくれたときにはその指さばきに驚嘆したものだ…。
そんな泣き言いっても手元にはiPhoneしかないし、これで病院の談話室に移動して電話をかけた。ふと思ったが丁度四月一日にiPhoneを通話無制限のプランに変えたばかりであり時間を気にせず話しができることを嬉しく思った。
虫の知らせ…という奴だったのか。

またご承知のようにこのコロナの中、家族と言えども面会には来られないからせめてFaceTimeで顔見て話したいと女房はもとより心配をして下さり多々メッセージをいただいたファミリーのオカーサンにもこれでお話しをしたが、ふと気づくと契約してある3GBの残りが僅かになっていたことだ。お恥ずかしいが、虚ろな頭ではFaceTimeはデータ通信であることを失念していた…。
そもそも病室はもとより、電話可能なスペースとして用意された談話室にも Wi-Fi 設備のない病院だった。入院してまでインターネットかよ…といった考えなのかも知れないが、今やスマホは命綱…ライフラインの一つであり好むと好まざるとを問わずこれなくして一日が終わらない。ベッドサイドにあるセキュリティボックスのキー同様「貴方のIDとパスワードはこれです」なんて渡される世になって欲しい。
今回契約した通信業者は IIJmio なのでネットからデータ契約容量を増やすことができる。それは覚えていたものの普段iPhoneを本格活用していなかったからユーザーIDもパスワードも分からない(笑)。
それにiPhoneのバッテリーも心細くなってきたがモバイルバッテリーもない。女房に連絡し入院の翌日にはモバイルバッリーとケーブルを届けてもらったがそれとていつまでも使えるわけもないし、入院期間がどれほどになるかも分からないからとナースステーション行き、売店があると聞いたがそこでモバイルバッテリーを売っているか?と聞いてみたが答えはNO!
しかし看護師の続く言葉に私は笑顔になった…。
スマートフォンはアンドロイドかiPhoneかと尋ねられた。iPhoneだと答えると「これならお貸出ししましょうか。いま使っていないので」とアップル純正ACアダプタを差し出した。ケーブルはあるからして、これでiPhoneのバッテリー問題は解消することになった。
1989年からアップルのソフトウエア開発専門会社として私は起業したが、優秀なMacintoshだとしてもその認知度はいまから考えると驚くほど低く、公共機関でMacintoshの話題がでることなどまず考えられなかった時代だった。そんな体験をしてきた私にとって「よき時代になったな」とつくづく感じた。
■退院へ向けて
4月25日の朝から食事が出た。嬉しかったがそこは病院食でありそして体調もあるからして爆食できるはずもない。ともあれ26日の朝主治医曰く薬で散らすことはできたとの説明があった。ただしこの病気は再発の可能性が高く、とくに私の場合はまた早々に同じ苦しみを味わうかもしれないと…。
要は退院できるまでになったが、このまま入院を続けて手術に踏み切るか、あるいは一旦退院するか、どうする?と問われた。
そもそも急性虫垂炎と診断された後、なぜすぐ手術せず薬で散らすことをやったのかについては分からない。まずは薬で…がベーシックな手順なのだろうか…。

私は即座に「一旦退院させてください」とお願いした。そして「最短で退院可能な日はいつですか?」と…。主治医は少し考えた後「明日でも大丈夫だと思うよ」と答えてくれ、ここに4月27日の退院が決まった。
退院したいという理由はふたつある…。単に病院は嫌いだからということではない。今度は万全の準備をして一ヶ月後か二ヶ月後以内に手術をお願いしようと考えている。
それはともかく、もし幸いというかこのまま再発せず二年とか三年経ったとして、その後再発したのでは私の年齢では今より辛いだろうし、抱えた爆弾はいつ爆発するかも知れない。そんなリスクを抱え続けるのならスパッと手術しようと考えた。
ただしひとつは今回、緊急搬送だったし前記した幾多の理由で例えば銀行口座間の金の移動などもできなかった。しかし万一引き落としに問題があれば後が厄介だ。それに現役は退いたとはいえいくらかは予定に従いあれこれと処理しなければならない事案もあり気が気でなかったのだ。
そして二つ目はこれまた前記した理由で安静に安全に治療はしていただけたがとにかく眠れない。そして私は人並み以上の神経質ではないと思っているが夜に立てられる音は続くとノイローゼになりそうだったからだ。
ということで翌日の四月二七日、腕に刺してあった点滴の針跡を感じながら "緊急退院" した…。
(完)
加藤登紀子のヒット曲「百万本のバラ」はご存じだろうか。貧しい画家が女優に恋をし、彼女が好きだという赤いバラを自分の家は勿論キャンバスや絵の具までをも売り払い街中で買い集め、彼女の宿泊している建物の庭を埋め尽くした。しかしそれを見た女優はどこかの金持ちがふざけたのだと思い、気にも留めず別の街へと去って行った…。
という意味の歌詞だが、その貧しい画家がグルジア(現:ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニだという話しがあるという。しかしもともとの原曲はラトビア語の歌謡曲で歌詞がまったく違い大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものだったという。
それが後年ソビエト連邦時代にグルジア(現:ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づき、ラトビアの作曲家が書いた曲にロシアの詩人が画家のロマンスを脚色して詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うということで人気を博した…。

※ニコ・ピロスマニ(1916年)
我々が知る加藤登紀子の日本語訳詞および歌唱は1987年にシングル盤として発表されたものだが、近年の研究ではピロスマニにマルガリータという名の恋人がいたことは確からしいものの、彼女がバラの花を愛したとか画家が大量の赤いバラを贈ったといったエピソードは残念ながら創作のようだ。
さて、前置きが長くなったがそのピロスマニという画家と作品のいくつかについてはヘタウマの画家として(笑)知ってはいたが、先日YouTube「山田五郎 オトナの教養講座【ジョージアのアンリ・ルソー】泣ける!放浪の画家ピロスマニの悲劇【加藤登紀子・百万本のバラ】」を見て俄然興味を持った。

※「女優マルガリータ」ピロスマニ作。グルジア国立美術館蔵
「山田五郎 オトナの教養講座」によればジョージアでは紙幣にもピロスマニの肖像が使われるほど国民的な画家だそうで、あのパブロ・ピカソが「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ」と言わしめたほどの画家だという。その画風は前記山田五郎氏のご指摘の通りどこかアンリ・ルソーに通ずるものを感じるがお国柄や文化も全く違う…。
そもそも情報が少ない画家ではあるが、1969年にギオルギ・シェンゲラヤ監督による映画「PIROSMANI (邦題:放浪の画家ピロスマニ)」が存在し現在そのデジタルリマスター版がDVDなどで手に入る事を知り早速Amazonから購入した。

※「放浪の画家ピロスマニ」デジタルリマスター版DVD
この「放浪の画家ピロスマニ」はグルジア(ジョージア)の名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督が独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862〜1918)の半生を描いた作品で、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化したとして1973年英国映画協会サザーランド杯、1974年シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞、イタリア・アーゾロ国際映画祭最優秀伝記映画賞、そして1978年には文化庁芸術祭優秀賞/文部省特別選定優秀映画鑑賞会特別推薦を受けている。
ストーリーの概略だが、幼くして両親を亡くしたピロスマニは鉄道会社の車掌をやったり、友人と商売を始めたこともあったが身に入らず、貧しい人々に無償でミルクやパン、初蜜などを振るまい…商売は失敗。その後店の看板や壁に飾る絵を描きながら放浪の日々を送るようになる…。次第に人々に一目置かれるようになり誇り高い男として「伯爵」と呼ばれるようになるピロスマニだったが、酒場で見初めた踊り子マルガリータへの報われない愛が、画家を孤独な生活へと追い込んでいく…。しかし作品は悪戯にピロスマニの恋を劇的に扱わずに簡素に描いているしバラを送るシーンも無い。
一杯の酒、一日の食を得るため画材をかかえて街を渡り歩く生活を送っていたピロスマニだったが、1912年に作品がとある芸術家の眼にとまり中央の画壇に注目されるようになる。そして翌年3月モスクワの前衛美術展で4つの作品が展示され熱狂的な支持を受けた。
1916年グルジア芸術家協会が設立され、ピロスマニへの支援が決定され脚光を浴びるも地元新聞にピロスマニを揶揄する戯画が掲載され周囲から笑いものとなった彼は深く傷つき、再び孤独な生活に戻っていく。そして1918年の復活祭の日、階段裏の暗く狭い一郭に蹲っていたピロスマニを二頭立て馬車で乗り付けた使者らしい男が見つけ「何をしている」と問うとピロスマニは「死ぬところだと」と弱々しく答える…。
史実では隣に住んでいた靴職人の男が重病のピロスマニを見つけ、知人が病院へ運んだもののその一日半後に息を引き取ったといわれている。
しかし映画では直前に示される「昇天」と題された作品からして、馬車の男は天使の使いではないか…を暗示して終わる。
全編に渡る各シーンは決して豊かでは無い時代ではあるものの、どこを切りとっても一幅のピロスマニの絵と見間違うほどの美しさだ。
大変地味な作品だが、お勧めしたい作品である。
オリジナル時代小説「木挽町お鶴御用控〜鶴の舞」を無料公開いたしました。
前作同様、お楽しみいただければ幸いです。
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〜江戸中が炎に包まれ、死者十万人を超えたといわれる明暦の大火から四年、まだまだ完全に被害から立ち直っていない万治四年(一六六一年)師走の八日、木枯らしが吹く江戸木挽町の端にある流行らない町道場から場違いにも思える若い女の掛け声が響いていた。
「えいっ」
「やあ」
道場主は念流の達人と評される加納丈三郞という男で、まだ二十八歳という若さだったが、相手は髪を小振りに結い、女だてらに股引を穿き、胸に晒しを巻いた上に着物の裾を帯の後ろに詰めた恰好の若い娘だった。
木刀を持った丈三郞の手には娘が投げた捕縄が絡んでいた。
「ほう…。お鶴、確かに腕を上げたな」
丈三郞の頬が緩んだ。
お鶴と呼ばれた女は一昨年に十手と捕縄を授かった歴とした岡っ引きだったが、中風で倒れた父の後を継ぎ、女だてらに北町奉行所常町廻同心、小林源一郎の小者として働いていた〜