加藤登紀子のヒット曲「百万本のバラ」はご存じだろうか。貧しい画家が女優に恋をし、彼女が好きだという赤いバラを自分の家は勿論キャンバスや絵の具までをも売り払い街中で買い集め、彼女の宿泊している建物の庭を埋め尽くした。しかしそれを見た女優はどこかの金持ちがふざけたのだと思い、気にも留めず別の街へと去って行った…。
という意味の歌詞だが、その貧しい画家がグルジア(現:ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニだという話しがあるという。しかしもともとの原曲はラトビア語の歌謡曲で歌詞がまったく違い大国にその運命を翻弄されてきたラトビアの苦難を暗示するものだったという。
それが後年ソビエト連邦時代にグルジア(現:ジョージア)の画家ニコ・ピロスマニがマルガリータという名の女優に恋したという逸話に基づき、ラトビアの作曲家が書いた曲にロシアの詩人が画家のロマンスを脚色して詞をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌うということで人気を博した…。

※ニコ・ピロスマニ(1916年)
我々が知る加藤登紀子の日本語訳詞および歌唱は1987年にシングル盤として発表されたものだが、近年の研究ではピロスマニにマルガリータという名の恋人がいたことは確からしいものの、彼女がバラの花を愛したとか画家が大量の赤いバラを贈ったといったエピソードは残念ながら創作のようだ。
さて、前置きが長くなったがそのピロスマニという画家と作品のいくつかについてはヘタウマの画家として(笑)知ってはいたが、先日YouTube「山田五郎 オトナの教養講座【ジョージアのアンリ・ルソー】泣ける!放浪の画家ピロスマニの悲劇【加藤登紀子・百万本のバラ】」を見て俄然興味を持った。

※「女優マルガリータ」ピロスマニ作。グルジア国立美術館蔵
「山田五郎 オトナの教養講座」によればジョージアでは紙幣にもピロスマニの肖像が使われるほど国民的な画家だそうで、あのパブロ・ピカソが「私の絵はグルジアには必要ない。なぜならピロスマニがいるからだ」と言わしめたほどの画家だという。その画風は前記山田五郎氏のご指摘の通りどこかアンリ・ルソーに通ずるものを感じるがお国柄や文化も全く違う…。
そもそも情報が少ない画家ではあるが、1969年にギオルギ・シェンゲラヤ監督による映画「PIROSMANI (邦題:放浪の画家ピロスマニ)」が存在し現在そのデジタルリマスター版がDVDなどで手に入る事を知り早速Amazonから購入した。

※「放浪の画家ピロスマニ」デジタルリマスター版DVD
この「放浪の画家ピロスマニ」はグルジア(ジョージア)の名匠ギオルギ・シェンゲラヤ監督が独学の天才画家ニコ・ピロスマニ(1862〜1918)の半生を描いた作品で、グルジアの風土や民族の心を見事に映像化したとして1973年英国映画協会サザーランド杯、1974年シカゴ国際映画祭ゴールデン・ヒューゴ賞、イタリア・アーゾロ国際映画祭最優秀伝記映画賞、そして1978年には文化庁芸術祭優秀賞/文部省特別選定優秀映画鑑賞会特別推薦を受けている。
ストーリーの概略だが、幼くして両親を亡くしたピロスマニは鉄道会社の車掌をやったり、友人と商売を始めたこともあったが身に入らず、貧しい人々に無償でミルクやパン、初蜜などを振るまい…商売は失敗。その後店の看板や壁に飾る絵を描きながら放浪の日々を送るようになる…。次第に人々に一目置かれるようになり誇り高い男として「伯爵」と呼ばれるようになるピロスマニだったが、酒場で見初めた踊り子マルガリータへの報われない愛が、画家を孤独な生活へと追い込んでいく…。しかし作品は悪戯にピロスマニの恋を劇的に扱わずに簡素に描いているしバラを送るシーンも無い。
一杯の酒、一日の食を得るため画材をかかえて街を渡り歩く生活を送っていたピロスマニだったが、1912年に作品がとある芸術家の眼にとまり中央の画壇に注目されるようになる。そして翌年3月モスクワの前衛美術展で4つの作品が展示され熱狂的な支持を受けた。
1916年グルジア芸術家協会が設立され、ピロスマニへの支援が決定され脚光を浴びるも地元新聞にピロスマニを揶揄する戯画が掲載され周囲から笑いものとなった彼は深く傷つき、再び孤独な生活に戻っていく。そして1918年の復活祭の日、階段裏の暗く狭い一郭に蹲っていたピロスマニを二頭立て馬車で乗り付けた使者らしい男が見つけ「何をしている」と問うとピロスマニは「死ぬところだと」と弱々しく答える…。
史実では隣に住んでいた靴職人の男が重病のピロスマニを見つけ、知人が病院へ運んだもののその一日半後に息を引き取ったといわれている。
しかし映画では直前に示される「昇天」と題された作品からして、馬車の男は天使の使いではないか…を暗示して終わる。
全編に渡る各シーンは決して豊かでは無い時代ではあるものの、どこを切りとっても一幅のピロスマニの絵と見間違うほどの美しさだ。
大変地味な作品だが、お勧めしたい作品である。
オリジナル時代小説「木挽町お鶴御用控〜鶴の舞」を無料公開いたしました。
前作同様、お楽しみいただければ幸いです。
こちらからリンク先へアクセス可能です。
〜江戸中が炎に包まれ、死者十万人を超えたといわれる明暦の大火から四年、まだまだ完全に被害から立ち直っていない万治四年(一六六一年)師走の八日、木枯らしが吹く江戸木挽町の端にある流行らない町道場から場違いにも思える若い女の掛け声が響いていた。
「えいっ」
「やあ」
道場主は念流の達人と評される加納丈三郞という男で、まだ二十八歳という若さだったが、相手は髪を小振りに結い、女だてらに股引を穿き、胸に晒しを巻いた上に着物の裾を帯の後ろに詰めた恰好の若い娘だった。
木刀を持った丈三郞の手には娘が投げた捕縄が絡んでいた。
「ほう…。お鶴、確かに腕を上げたな」
丈三郞の頬が緩んだ。
お鶴と呼ばれた女は一昨年に十手と捕縄を授かった歴とした岡っ引きだったが、中風で倒れた父の後を継ぎ、女だてらに北町奉行所常町廻同心、小林源一郎の小者として働いていた〜
クラシックギターを独学で始めたのは高校1年のときからだったから大いに愛着を持っている。しかし不思議なことに近年弾きたいのはギターではなくリュートなのだ。まだ腱鞘炎の左手中指が思うように動かないが、愛らしい小品のいくつかを演奏したいとリュート練習を再開した…。
約5年ほど前までは6コースのルネサンスリュートを使っていたが、今度改めて手にしたのはあまり評判の良くないAria製のリュートだった。とはいえ発売されたのは40数年前も前のことで、手にした10コース・ルネサンスリュートも正確なところは不明ながらシリアルナンバーから推察するに1979年製と思われる。

※Aria製10コース・ルネサンスリュート
現在では歴史的古楽器としてのリュート研究も進み、往時の製作に沿った複製を製作できる作家も増えてきたようだが、特に国内では歴史的な楽器として認められるに見合ったリュートがどれほど出回っているかは心許ない気もする。
ましてや私という素人の個人が楽しむリュートはこれでリサイタルをするわけでも、またレコーディングして発売するわけでもなく、ただただその演奏を楽しみたいというだけであり必要十分だ。
そして内部がどのような設計になっているかは分からないものの検証の範囲では、工作精度は思っていたよりずっとよい…。
まず過度な装飾は施されていない。例えばロゼッタの装飾も魅力的なデザインで型抜きされてはいるが、いわゆる立体的な彫刻はなされていない。しかしボディはもとより指板やペグボックスなどを見ても雑な作りと思われる部分は皆無である。
まあ、この楽器から紡ぎ出される音が理想的なものであるかどうかは分からないが、個人的には相応の絃を選びきちんと調弦すれば満足の音が出ると感じている。
驚くべき事は、繰り返すものの40数年前に発売された楽器がほとんど無傷で手に入ったそのことだ。
申し上げるまでもなくほとんどが木材で出来ているリュートは傷つきやすく壊れやすい。そしてペグの数本が無くなっていたりネックが長年の湿度の問題で曲がったり、内部に剥がれがあってもおかしくない…。それが新品同様とは言い過ぎだが、表面板やラウンドバックに傷も見られず、無論剥がれやネックの反りも皆無のリュートが手に入ったのだから、当初かなりのリスクを覚悟していた当人が驚いたほどだ。
ということはほとんど使われずに結果としてまずまずの環境下で保存されていたということか…。無論専用ケースに入ってはいたが、ケースは密閉度ゼロだ。
勿論まったく難がなかったわけではない。当然のこととして10コース全19本の絃はすべて張り替えなければならなかったし、フレットもほとんど新たに巻かなければならなかった。
一番心配なのはペグである…。経時劣化なのか、1,2本のペグが弱くなっており力任せに捻ると捻じ切れてしまいそうだ。ただし現状ではきちんと調絃ができるので問題はないが…。

※ペグボックスもきちんとメンテした結果、調弦も問題なくできるようになった
そういえばドイツ後期バロック音楽の作曲家で音楽理論家・作家の顔を持つヨハン・マッテゾン(1681年〜1764)は自身の著作の中で「あるリュート奏者が80歳とすると、彼は60年は確実に調弦していたことになる。最悪なことは百人の内まともに調弦できるのは二人といないことである」等とリュートを酷評している。それもあってかリュートは調絃に時間がかかるというまことしやかな話しを鵜呑みにする人もいまだに多いという。
では事実はどうか…。無論そんなことはない。確かに10コースの場合6絃ギターと比べれば絃本数が3倍ほどあるわけで、物理的には時間がかかる理屈だ。しかし相応の耳を持ってすればそうそう面倒なことではなく、調絃それ自体も楽しみの内となろう。
マッテゾンの意見に反駁する形でリュート奏者のエルンスト・ゴットリープ・バロン(1696年〜1760年)が書き上げた「楽器リュートに関する歴史的・理論的・実践的研究」(訳書「リュート〜神々の楽器」東京コレギウム刊)の中で彼は絃が新しく十分に伸びていない場合は別にして、楽器をケースから取り出したときに絃の多くが狂ってしまっているといったことはあり得ないと反論している。

※E.G.バロン著/菊池賞訳/水戸茂雄監修「リュート 〜神々の楽器〜」東京コレギウム刊
ただしリュートは確かに繊細な楽器ではある。音量は小さいしラウンドバックの共鳴胴は丸くて抱えにくい。そしてバロック期を頂点にヨーロッパ古典音楽の花形楽器となったものの、さまざまな変形、発展形が創作されていく過程で絃の数が増え続け、それに原因するであろう扱いや奏法の困難さと共に小さな音量も時代に合わず鍵盤楽器や擦絃楽器に立場を奪われ、忘れ去られるに至った…。
しかしそんなリュートがいま無性に愛しい。朝起きて仕事部屋にぽつんと置いてあるリュート(10コース・ルネサンスリュート)に眼が向くと何故かほっとし笑顔になれる気がする。絵になるビジュアルでもある…。
リュートのようにあまり自己主張をしない、それでいてどこか奏者に寄り添うような楽器は少ないように思う。そしてこれまで、大正琴、ウクレレ、三味線、クラシックギター、エレキギター、フラメンコギターといった弦楽器だけでなくピアノ(1年半習った)や管楽器などなどを楽しんできたがいま最も心に馴染むのがリュートなのである。

※3Dプリンターと木質フィラメントでペグ、ストラップピン、ペグ回しなども作ってみている…
そういえば、このリュートを手にした当日から偶然ではあろうが長い間苦しんできた味覚障害が緩和した…。そんなこともあって摩訶不思議な縁を感じているがこのリュート、決して愛でているだけではない。高価な楽器では出来得ないことだろうが、ストラップホルダーやペグ、そしてベグ回しなどを3Dプリンターと木質フィラメントで作り、より自分にとって据わりが良い楽器になるようなことにも注視していきたいと考えている。
数年前、指が腱鞘炎やバネ指などで動かなくなり、楽しんでいたリュートが弾けなくなった。加齢も含め治るのか治らないのかも分からない状況に気持ちを吹っ切る意味で愛用のリュートを手放した。2017年2月のことだった。いまも左手中指はその掌に触れるまでは曲がらないが、幸い右手はトレモロも奏することができるまでになった。これなら易しい曲なら弾くことができると思ったが、リュートがない(笑)。
■リュート熱が再燃
私にリュート歴などという立派なものはないが10年近く前、何も知らずにネット検索で見つけたEMS(The Early Music Shop)で8コースのルネサンスリュートを手に入れた。無事に届いたときには驚喜したが、調弦しいざ何かしらの曲を弾こうとしたとき大きな問題に気づいた。
それは1コースの単弦位置が必要以上にネック端寄りになっていて、フレットの1コースを押さえようとすると指が外れてしまうのだ。まさかブリッジを剥がして…というわけにもいかず、ナット位置を調節することで何とかなるのではと試みたがそれで直るレベルではなかった。
なるほどEMSで販売されているリュートの評判は芳しくなく、なるべくなら手にしないように…という話しも多々見受けられたが後の祭りである。そこで何とか手持ちの予算の範囲で実用的な楽器はないかと探し続けていたとき、楽器店のサイトに中古のリュートを見つけた。それがクリス・エガートン作の6コース、ルネサンスリュートだった。

※クリス・エガートン作の6コース、ルネサンスリュート。四年半ほど前に手放した
簡素な作りで修復跡もあったが非常に弾きやすい楽器で、なるほど良質の楽器とはこうしたものか…とよい勉強にもなった。
今回も改めて探してみたが、そうそうこちらの都合の良いリュートが転がっているはずもない。何しろ文字通りに受け取っていただきたいが、加齢や体調を考えると後10年も体と頭が言うことを聞くとは思えない(笑)。だから贅沢はできないのだ。
よく専門家の中には、なるべくよい楽器を手にすべきだと力説される人がおられる。それは正論であり間違いないことだが、一人の消費者、年金生活者の立場になればそう言われるほどことは容易な話ではない。
安価な楽器は「リュートの形だけの楽器だ」とか「歴史的な製作ではない」といった話しを力説される場合もあるが、面白い事にクラシックギターを始めようとする方に「それは安物でギターの形だけで良くない楽器だ」とアドバイスする話しはあまり聞かない。それがリュートとなると…無論リュートは歴史的な古楽器だという立場があるが…俄然口うるさくなるのは面白い(笑)。
■諦めるか、それとも…
そもそも私は高校一年の夏、一ヶ月のアルバイト代を叩き、3000円ほどのギターを買ったことからクラシックギターを始めた。時代と言えばそれまでだが、スチール弦をナイロン弦に張り替え「古賀政男ギター独習」といった教則本で練習をはじめたのである。
その後、就職して数年後に池袋ヤマハ楽器店でまずまずのギターを手に入れたし、一時期フラメンコギターを習っていたときにはホセ・ラミレスのペグ式の楽器を愛用していた。さらに勤務先が御茶ノ水近くだったことでもあり、幾多の楽器店で名だたる名器を試奏させていただく機会もあった。
したがってそこそこ、良い楽器というものを知っているつもりでいるが今般あらためてリュートを…と考えると無理は出来ない。無論新品を手に入れるつもりはないが、それでも中古といえど「まとも」と言われる楽器はそれなりの価格だ。
となれば選択肢はふたつだ。リュートを諦めるか、あるいは使えそうであれば専門家が眉をしかめるような楽器でも手にするか…だ。で、今般私は後者を選んだ(笑)。
もしどうしようもない楽器なら捨てるしかないが、自分でメンテできる範囲の出来の悪さならそれも楽しみとして修理を試みようと思った。若い頃には出来はともかく10弦ギターやラウンドバック型のリュートギターまで自作したこともあったわけだし、ペグボックスくらいならまだ自分でも作れるぞっ…と一人怪気炎を上げたところ、その晩に覗いたYahooオークションが私の背中を押した…。
■オークションで落札したリュートとは…
それはすでに30年前に売り出したときから一部で「リュートであってリュートにあらず」といった評価も受けていた荒井貿易が販売開始したAriaブランドの楽器だった。出品されていたのは弦長60cm、10コースのシャントルレライダーおよびバスライダーを備えたルネサンスリュートだった。
6コースを弾いていたときから8コースや10コースの曲も弾いてみたいと思っていたし…と俄然興味が増した。

※新たに手に入れたAria10コース・ルネサンスリュート
問題は落札できたとして、多少のことはともかく弾ける楽器なのか…だ。こればかりは実際に楽器を手にしてみなければ分からないが、ひとつその気になった点としては出品者が個人ではなく商品到着より7日間の初期保証を謳う企業だったことだ。
出品の説明全てが正しく信頼できる出品者であるかどうかは正直不明だったが、長い間Yahooオークションを利用してきた感と経験を含んで考え入札した結果、そのまま落札できた。

※10コースリュートを正面から
さて、届いたリュートは見かけ大きな問題はないように思えた。割れたり剥がれたりした部分は無くネックも反ってはいないしほとんど傷もない。ただし弦とフレットは順次全部取り替える必要がある。附属品としてAriaブランドの交換用弦がいくつかあったが、ここはガットとまではいかないにしてもまともな弦をと別途オーダーした。
そして抱えたときのバランスも悪くない。ちなみに重さは弦を含めて1,005g なのでまずまずの作りのようだが唯一心配は調弦だ…。

※10コースリュートを背面から
ペグボックスの出来はともかく、ベグそのものが細すぎることに加え経時変化で弱くなっている部分は力を入れすぎるとねじ切れてしまいそうな感じがする。それらを踏まえ調弦がスムーズにできるようにとまずはヴァイオリン属でも使われ、廻り具合、止まり具合共にちょうど良い摩擦性を持つベグ用コンポジションを塗って馴染ませた。

※弦交換前のペグボックス
なお調弦は強度が少々心配なのでまずは440Hzではなく415Hzで合わせことにした。
そして肝心の音だが、きちんと撥弦すれば私見ながらまずまずリュートらしい音はでる。そして弾きやすさについての評価は今少し時間が必要かと思うが、こんなものではないだろうか…。
繰り返すが、リュートは古楽器だからして歴史的なものに準じて製作することが必要だという話しは無論理解できる。ただしもしここで数十万円投資して国内の製作家の楽器を買えたからといって、作りは万全でもそれが歴史的な楽器に忠実な逸品であるかどうかは素人には分からない。
また音に関してはそれ以上に評価は難しい。いわゆる歴史的な楽器の実器を研究し名工が制作したリュートと比べるのは酷というものだが、そもそも例えば17世紀だって使われていたのは名器ばかりであったはずはない。民衆が集い歌いながら奏でられた多くのリュートらは簡素で安価なものであったに違いない。そしていま博物館などに保存されてきた数少ない楽器たちは材質が象牙であるとか、所有者が有名だったというように何らか価値ある楽器と知られていたからこそ大事にされ結果残ったのだ。

※ケースも剥がれが目立ったので修復
このことは楽器だけでなく日本刀や他のアイテムでも同じであり、博物館に貯蔵されていたリュートと同じレベルの楽器がそのまま広く民衆にまで普及されていたと考えるのは無理がある。
繰り返すが当時でも安物の楽器はいくらでもあったに違いない…。
だからという訳ではないが、このAria製10コース・ルネサンスリュートの音も調弦がばっちりならまずまず心地よい音が期待できると思っている。
■私がリュートに興味を持ったのは1970年初頭だった
そういえぱ、約2世紀もの間、忘れ去られたリュートを、当初は歴史的な楽器ではなかったにせよジュリアン・ブリームがレコーディングを行い1950年代からルネサンス・リュート音楽に大衆の眼を向けさせその復興に大きく寄与してくれたことは忘れてはならない。そして彼の録音は1963年度にはグラミー賞も受賞している。
また歴史的楽器復興の動きとしては20世紀後半からヴァルター・ゲルヴィヒ、ミヒャエル・シェーファー、オイゲン・ミュラー=ドンボワなどの貢献は忘れられない。そういえば私がリュートを知り、その音楽に惹かれたのは意外かも知れないが、ヴァルター・ゲルヴィヒ、ミヒャエル・シェーファー、オイゲン・ミュラー=ドンボワのレコードだったのである。

※私がリュートを知ったのはジュリアン・ブリームはもとよりだが、オイゲン・ミュラー=ドンボワやミヒャエル・シェーファらのレコードだった
ともあれAriaリュートという一連の製品が売り出されたのは1970年代半ばだ。いま手元にある楽器が正確なところいつ製作されたかは分からないが(シリアルナンバーから推論するに1979年製かも知れない)、よくもまあほぼ無傷で残っていたものだ。少し調べて見るとAria製10コースで型番が L-125 という製品はロゼッタやペグボックスのデザイン違いで数種あるようだ。製作年代の違いかと思うが、ものがものだけに資料不足なのが残念だ。またラベルには制作者の名として “門野巌” とあるが、失礼ながらその製作本数をと考えてみるに実在の製作家の名というより、製作を請け負った複数の方達のチーム名であったような気もする。
ということで結論としてこのAria製10コース・ルネサンスリュートはEMSのそれより実用的で見かけもよく出来ていることがわかった。
■無論問題点がないわけではない
さてAria製10コース・ルネサンスリュートをばらして見たわけではないから内部構造などは不明だ。ただしラウンドバックのボディやネックの材質はともあれ全体的に見ても雑な仕上げではない。したがって強度的にも不安はない。ただひとつ言えることはペグボックスというよりペグそのものが柔いようだ。
材質云々というより、ペグが細い。無論調弦に耐えられる強度はあるが、古い代物でもあり保管状態も理想的であったとはいえないだろうから力を入れすぎると捻り切ってしまいそうな気がする箇所がある。したがって調弦は間違いなくできるが、少々手心を加えながら優しく扱わないとならない。
それからペグボックスに関してだが、1コース専用のシャントルレライダーおよびバスライダーが備わっているがボックス本体を見ると底がない…と友人から指摘があった。これでは強度的に弱いし、そもそもボックスと名が付くだけに箱を連想させるような底が付いているのが普通だと彼は言う。
無論私自身も学者ではないし多くのリュートを確認してきたわけではないから、どうあるべきなのかについては何とも言えない。確かに価格を落とし工作時間を短縮するためでもあったのかと思ったが、こうした底がないペグボックスを持ったリュートも現実にあったようだ。
前記したように私は一時代前の演奏家によるリュート演奏からリュートに魅せられた一人だが、例えば若くして亡くなったミヒャエル・シェファーのLPジャケットを見ると、彼が抱えている13コースに見えるバスライダーを備えたバロックリュートのペグボックスはまさしくAria製10コース・ルネサンスリュートと同じく底はなく背景がそのまま見えている…。
ただしレコードジャケットによる解説によれば実際に録音に使った楽器は11弦のバロックリュートでイギリスのマイケル・ロウ製作(1976年)のものだというが。

※前記したミヒャエル・シェーファのLPジャケットに載っているリュートのペグボックスは底がないタイプのようだ
マイケル・ロウ氏といえばずいぶんと前になるが、現代ギター誌に彼のインタビュー記事が載っていた記憶がある。その記憶が間違いなければ記事は竹内太郎氏が書かれていたと思う。そしてその製作にあたっては、文献は勿論実物をきちんと当たって作られているといった内容だった。
そのマイケル・ロウ氏製作のリュートを愛したミヒャエル・シェファーだからこそジャケット撮影に所持したリュートもいい加減な代物ではないだろうし、そのリュートのペグボックに底がないのであれば、そうした歴史的な楽器があったと考えても自然ではなかろうか。
まあ、個人的には正直どちらでもよいのだが、Ariaリュートは「安かろう悪かろう」のイメージが早々に付いてしまったからか、あれもこれもコストダウンのためだといった誤った風評が流れたのは残念だ。

※小さなペグを正確に巻き上げるのはなかなか難しいので2Dプリンターで補助具としてのペグ回しを作ってみた
それに、繰り返すが1970年頃に国内でリュートを欲しいと考えても出来合のものはまずなかった。したがってどこかの工房へ注文し製作してもらう必要があった。その点Ariaリュートは既製品の楽器であり当然のこと仕様も価格も公開されていたから飛びついた方も多かったのではないか。
当時のカタログの実物が手元にないのが歯痒いが、ネットで分かった範囲では6コース、7コース、8コース、そして10コースのルネサンスリュートがラインナップされ、デザインが違うものの今般私が手にした型番と同じ L-125 という10コースは当時の価格で125,000円と明記されている(ケース代は別)。
明らかにその価格は製作家に依頼するよりずっと安価ではある。しかし調べて見ると例えば1975年の大卒初任給は89,300円であり、その時代の125,000円は極端に安価な印象ではない。
ちなみに2021年度の大卒求人初任給は総合職で218,000円ほどだという。単純比較はあまり意味がないとは承知ながら1975年と比較してみれば125,000円のAriaリュート価格は305,151円となる訳で「安い、安い」と叫ぶほどメチャ安い額ではない…。
■まずは楽しんでみようではないか!
というわけでまずはこの楽器でリュートとその音楽を楽しみ、問題があれば昔ギターを手作りした際の道具類も残っているし、レーザー刻印機や3Dプリンターまでをも駆使して整えてみたい。それもまた老人の楽しみとしては面白いかと思っている。ただし弦はすべて新品を調達し張り替えたし、順次フレットも巻き直しが必要だ…。
それにしても正直このAria製10コース・ルネサンスリュートにそれほど期待はできなかった…。それだけに手元に届き、いま一通りのメンテナンスを済ませた楽器に至極満足している自分をとても嬉しく感じている。
材質だが、表面板はスプルースだろうしリブはトチノキ、ネックはよく分からないが塗装された材木で指板は3ミリほどのローズウッドを貼ってあるように見える。そしてペグボックスはブナでペグはローズウッド、ナットは牛骨といったところか…。
素人の見立てなので不確かだが、メチャクチャな材料は使っていないようだ。
左手の指はまだ完全に動かないし、この4年5ヶ月のブランクは大きく四苦八苦しているがそれもまた楽しみだ。
先日遅ればせながら音楽評論家、スペイン文化研究家で日本フラメンコ協会会長の濱田滋郎さんが3月21日に亡くなられていたことを知った。享年86歳だった…。濱田先生を幾多の著作を通して存じ上げていたが、2001年7月に月刊「現代ギター」誌の先生との対談ページに呼んでいただいたことは生涯の思い出である。
本稿のタイトルを「濱田滋郎先生と対談の思い出」としたが、ご本人にお目にかかったのは対談の当日一度だけであるからして少々烏滸がましいが、追悼の思いも込めて心に残っていることを記してみたい。
私がギターを手にしたのは高校生のときだった。幼少から母の意向で三味線を習わされていたが時代はプレスリーやビートルズの時代であり、またフォークソングも台頭してきたこともありギターが弾きたくバイトをして安物のギターをやっと手にした…。

※ギターは演奏だけでなく数本自作する凝り性…。これは1974年4月に自作した10弦ギター。現代ギター社から6弦ギター用の材料を購入し指板やネックなどを継ぎ足して製作。イエペス調弦でしばらくは楽しんだ
小さな楽器店兼レコード屋みたいな店でギータの教則本をと探したが時代は1965年頃の話、店には「古賀政男ギター独習」といった程度のものしかなかった。基本はクラシックギータのそれだったが例として載っている曲が古賀メロディーだったがそれでも暇さえあれば練習した。
朝食のとき、味噌汁の椀を左手で持つと指先が熱で痛いほど練習した。また三味線をずっとやっていたことも幸いし、左手の運指は苦労したことはなかったし右手も、例えばトレモロ奏法にしても素人ながらまずまず指が動くようになった。
記録を確認するとその2年後の1967年1月16日にはクラシックギターの通信教育と銘打って登場した「東京音楽アカデミー」に加入し、教本とソノシートが届くのがなによりの楽しみとなった。
そんな私が同年2月に設立された現代ギター社とその出版されたギター専門誌「現代ギター」に無関心でいられるはずはない。
ということで私は「現代ギター」誌は創刊号からの読者なのである。
またここだけの話しだが(笑)現代ギター社の求人に応募しようかと履歴書を途中まで書き込んだこともあった。しかし投函はせずその後もただただ「現代ギター」誌の一読者として楽しませていただいていたが、2001年7月3日、「現代ギター」誌編集部から電話が入った。
何ごとかと思ったがお話しは「現代ギター」誌の人気連載のひとつ「濱田滋郎対談」への参加依頼であった。
それまで諄いようだが毎月「濱田滋郎対談」は拝読していたが、私の知る限り濱田先生と対談なさる方は当然のことながらギター関係者はもとより演奏家であったりと音楽に精通された方々のはずだった。それが何故私なのか…と訝しく思ったが理由などどうでもよく、本当に濱田先生と対談できるならこんな嬉しいことはないと二つ返事でOKした。
繰り返すが濱田滋郎先生のことは数々の著作を通じてよく存じ上げていた。いまでも手元にはE.プジョール著/浜田滋郎訳「ターレガの生涯」(1977年)、浜田滋郎著「フラメンコの歴史」(1983年)、そして濱田が滋郎著「フラメンコ・アーティスト列伝」(1993年)がある。なお「ターレガの生涯」は現代ギター社創立十周年を記念して出版されたものだった。どれもこれも私の夢を膨らませてくれるものだった。
ちなみに現在先生のお名前は「濱田」と表記されているが当初は「浜田」だった。

※今でも書棚にある濱田先生の著作たち
ともあれ私は勇んで2001年7月19日に現代ギター社の編集部を訪ねた。当初電話をいただいたのが7月3日だったが私は当時お約束を守れるかどうかといった心配事を抱えていた。それは入退院を繰り返していた母が危篤になったり持ち直したりしていた時期であり、我ながら親不孝だと思いつつも「お袋!濱田先生との対談が終わるまで持ちこたえてくれ」と念じていた…。
事実母は対談の三日後の22日に帰らぬ人となったが、不謹慎ながら母は私の願いを叶えてくれたのかも知れないと思っている。

※許可を得て撮影した当時の現代ギター編集部の一郭
対談は現代ギター社の最上階にあるホールで行われた。記憶は正確でないかも知れないもののその場には先生と私、そして編集部の方とカメラマンの方だけだったと思う。
音楽関係者でもない私に何故声をかけてくださったのかは推測でしかないが、ひとつに現代ギター誌の編集が当時はまだまだ珍しいMacで行われていたことで、どこかで私のことを見知ってくださったのかも知れない。そして私が現代ギター誌創刊号からの読者であることをご存じだったから、これまた私がどこかでそのようなあれこれを書いたのかも知れない。
濱田先生のお姿ならびにお人柄はそれこそ現代ギター誌で存じ上げていたものの直接お会いするのは初めてである。しかし想像したとおり先生は物腰の柔らかい笑顔を絶やさない方だった。
冒頭私がコンピュータの仕事をしていることを知って「今日はお手柔らかに。私はいまだに原稿を手で書いている平成の化石人間と呼ばれておりますので…」とおっしゃったのを覚えている。
そうした対談の内容については現代ギター誌の2001年9月号(No.440)に載ることになったが対談が終わったとき私は生意気ながら「濱田先生とツーショットの写真が欲しい」と願い、カメラマンの方に撮っていただいたのがこの写真なのである。

※対談終了後、お願いして濱田先生とツーショットを撮っていただいた
写真と言えば後日お送りいただいたそれら一連の写真を友人達に見せたとき「よほど嬉しかったんだろうな。コンピュータ雑誌に載っているお前の表情とはまったく違うよ」と言われた。
それが切っ掛けとなったのか編集部とご縁ができ、ギター誌に相応しくないかとも思ったが原稿依頼があり「パソコンエイジの玉手箱」と題する4ページの連載を1年間続けた。
その後は再び現代ギターの紙面でご活躍を拝見していたが、対談させていただいた時期はたまたまフラメンコギターを習っていたときでもあり話題としてはグッドタイミングだったのかも知れない。

※当該対談が載った現代ギター誌2001年9月号(No.440)表紙
私はパーソナルコンピュータのソフトウェア開発を職業にしたが、それ以前の人生を振り返って見るとギターが人生の振り幅を大きく変えてくれたように思う。目立たない高校生だった私がギターを持って舞台に上がる機会が増えるに連れ友達も多くなった。就職してからも上場企業公認のバンドメンバーとしてリードギターとボーカルを担当した。
一時は会社公認でクリスマスパーティーでの演奏練習のため仕事を早めに切り上げて練習したことまであった。
いま思うと赤面ものだが、その積み重ねの結果現在があるわけで濱田先生の訃報を目にしつつ腱鞘炎で動かなくなった左手指を眺めている。
先生のご冥福を心からお祈りする次第…。