「解体新書」および「蘭学事始」5つの謎

手元に「解体新書」および「蘭学事始」のレプリカがある。「解体新書」が漢文で書かれているのに対して「蘭学事始」はカナ交じりなので私にも何とか読み下すことができるが、別途現代語訳の書と合わせて楽しんでいる。今回はこの著名な「解体新書」や「蘭学事始」に関し私にとって興味深い5つの謎をご紹介したい。無論素人故、単に知らないだけのことに終わるかも知れないが、そうしたことを含めてこれからも多々調べて勉強したいと思っている。


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※「解体新書」と「蘭学事始」


まず “蘭学” とは何か…だが、鎖国が行われていた江戸時代、日本人が学んだオランダの学問のことだ。鎖国ではあったが幕府は長崎に出島という特別な場所を設けてオランダと限定した交易を許していた。出島は唯一西洋に開かれた場所であった。

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※出島の図。国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」付属「阿蘭陀医学伝来史絵図」より


しかし、オランダの技術や医療あるいは文化といった物を学ぶことは結局オランダ語を通したヨーロッパの先進医学や科学、文化を学ぶことに通じた。
なお “蘭学” という言葉は「蘭学事始」によれば杉田玄白らが出版した「解体新書」が広まってから使われるようになったものらしい。
そして、そもそも「解体新書」はドイツの医学書をオランダ語に翻訳した「Ontleedkundige tafelen (ターヘル・アナトミア)」が日本に持ち込まれ、それを前野良沢と杉田玄白の二人が奇遇にも別々に手に入れ、一緒に腑分け(解剖)を見学した事をきっかけに翻訳を決意した成果だ。

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※「ターヘル・アナトミア」と呼ばれたオランダ語版「 Ontleedkundige tafelen」1734年出版


また「蘭学事始」はそもそも杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った上下2編の手記である。
いにしえの日本と西洋の接触から、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究などの記述と続くが、何といっても白眉はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を前野良沢、中川淳庵らと翻訳し「解体新書」を出版するまでの苦心談である。

杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期のことが後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意したといわれている。
文化11年(1814年)にほぼ書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂を願う。そして翌年に完成を見るがこのとき玄白83歳。そして2年後の文化14年(1817年)に玄白は85歳で死去する。

(1)前野良沢の名に関する謎
最初の謎は「解体新書」に関わることだが、翻訳に一番貢献した前野良沢の名がない。それにはいくつかの説があるが、良沢は出版にこぎつけたとはいえその内容に満足できなかったため自分の名は出してくれるなと玄白に迫り、それを条件に出版に同意したという話しがある。奇人・完全主義者だったという良沢の面目やこれに尽きるといった話だ。

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※「解体新書」には前野良沢の名がない


しかし「解体新書」の序文は玄白および良沢共通の師であった長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛によるものだが、その中で前野良沢の名を上げているだけでなく「ああ、二君(良沢と玄白)がこの仕事でてがらを立てたことはなんといっても最高なことだろう。じつに天下後世にとっての徳である」と書いている。

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※序文は長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛が寄せている


確かに「解体新書」出版に前野良沢が不可欠であったことは彼の死後十一年経ってから玄白が執筆した「蘭学事始」に明記されたことでよりよく世に知らされることになった。しかし「解体新書」の序文を読めば前野良沢が深く関わっていたことは誰にも分かるはずだ。であれば良沢自身の願いであった「名を出さないで欲しい」という約束は守られなかったことになる。
良沢は納得したのであろうか…。
一方、こんな話もある。良沢が長崎にいったとき、九州の太宰府神社の神前で「自分は阿蘭陀の学問を学ぶにあたり、いやしくも真理を究めずにみだりに名を成そうとしたら、神よ、わたしを罰してくれ」と誓ったというのだ。

本来なら翻訳に携わった者としては前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の名が、そして協力者として石川玄常、桂川甫周、嶺春泰らの名が連なるのがあるべき姿のはずだ。それが前野良沢の名はなく翻訳はすべて杉田玄白が行ったと思える記載になっている。
これは一説に、「解体新書」の出版は下手をすればお上から発禁処分を受け、出版した当人たちも咎められる可能性があった。ために杉田玄白は前野良沢はもとより中川淳庵の名にも校正の意である(校)と明記し、自分がすべて訳したとして名の下に(訳)を付け、万一の場合でも良沢と仲間たちを守ろうとしたという説もあるが…。

ともあれ「解体新書」出版を境に良沢と玄白は別々の道を歩むことになるが、結果「解体新書」は大成功を収めその賞賛は杉田玄白一人が受けることになったため、玄白はどこか世渡り上手の要領がよい人物と思われることがあるようだ。
しかし玄白の判断で不完全ながらも出版にこぎつけたことでその後の蘭学の隆盛が実現したのは間違いないことだし、もし良沢の意見を受け入れ出版の時期を大きく後にしたならばそれこそ発禁となる可能性もあったに違いない。

何故なら「解体新書」出版の当時、世は田沼時代であり、蘭学に関しても寛大な時代であったことは間違いない。後十数年も経てば田沼意次が失脚し松平定信の寛政の改革が始まり、文化面でもそれまで衰退傾向にあった朱子学を振興させ、異学を押さえ込むようになったのだから出版は難しくなったに違いない。
事実1791年には林子平が「海国兵談」の版木を没収され、同じ年に山東京伝が戯作三点により手鎖五十日の刑を受けている。
さらにいえば、玄白のオランダ語翻訳の出版が医学・医療に関わることだったからこそ幕府の評価も高かったということだろう。これが他の分野だったらまた話しは違っていたのではないか。

そして杉田玄白の用意周到さ、根回しの見事さも特筆すべきだ。翻訳仲間に官医の桂川甫周を引き入れたこと。前記したように序文を長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛に依頼したこと、「解体新書」本編出版に先んじて「解体約図」といういわゆるパイロット版を出版して世の反応を確認したこと。また「解体新書」を法眼だった桂川甫周の父甫三を通じて将軍に献上しただけでなく老中たちにも献上。さらに京都にいる御所にパイプを持っている従弟に相談の上で時の左大臣九条家、関白近衛内前公、公家広橋家など宮家に献上している。そして三家より出版を祝う和歌を授かった。
これでは批判側は動けない…。

(2)書名の謎
「蘭学事始」の内容は玄白が書いた内容だけでなく弟子の大槻玄沢が玄白から聞き及んだ話などを追加してあるというが、取り急ぎ「蘭東事始」と題して出来上がったものを玄白に呈上した。したがって最初の書名は大槻玄沢自身が名付けたことになる。
しかしその名だが、別途「和蘭事始」と題した写本も伝わっている。そもそも「蘭学事始」という名の写本は発見されていないが、大槻玄沢が文化十三年にあらわした「蘭訳梯航」という書にたびたび「蘭学事始」という名が出てくるという。ということは「蘭学事始」という名も大槻玄沢が考えた名だということになる。

ただし原本は安政二年(一八五五年)の安政の大地震で失われ、写本もいつしか散逸し完全に失われたものとされていた。
その後、幕末になって神田孝平という人が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経て福沢諭吉はじめ有志一同が「蘭学事始」の題名で刊行したという事実がある。
福沢諭吉は明治二十三年の「蘭学事始再版の序」で、草創期の先人の苦闘に涙したと記している。

とはいえこれまたはっきりしない。明治二年に福沢諭吉が「蘭学事始」と題して出版したときの底本は「和蘭事始」なのだ。したがって発見された「和蘭事始」を福沢が出版に際して「蘭学事始」と直したのは事実だが、福沢が大槻玄沢が名付けた「蘭学事始」という名を知っていたとは思えないという。
何しろ発見された写本は彼らにとって未知のものであったのだから「和蘭事始」が「蘭学事始」という名でも呼ばれていた事実を福沢が知る由もないはずだ。

ということは偶然の産物ということになるが、福沢は「和蘭」より一般的な「蘭学」という言葉を使ったと考えるしかないということになる。あるいは片桐一男氏が自著「杉田玄白 蘭学事始」で述べているように写本そのものは無くなっていたとしても大槻家あるいは杉田家には「蘭学事始」という名が伝わっていたのかも知れず、それを知った福沢が出版に際して採用したとも受け取れる。

(3)”フルヘッヘンド” の謎
さて、「蘭学事始」の書名に拘り過ぎたかも知れないが内容においても突っ込みどころは多い…。
まずは前野良沢は勿論、一同と翻訳の苦労話として紹介されよく知られている「蘭学事始」の中の逸話だが、鼻のところで「フルヘッヘンドしているものである…」という箇所にいたったがこの語の意味が分からず悪戦苦闘したことが書かれている。しかし酒井シヅ氏の研究によれば「ターヘル・アナトミア」を一から訳された過程で気がついたこととしてこの「フルヘッヘンド」という語は「ターヘル・アナトミア」にないという。

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※「蘭学事始」にある "フルヘッヘンド" の記述部分


これまた片桐一男氏曰く、しいていえば鼻の解剖に関して "verhevene" (意味は盛り上がった)を指すのであろうとし、玄白の記憶違いとしか言いようがないようだ。

(4)腑分けに至る謎
これまで幾多の「解体新書」や「蘭学事始」の解説書を読んだが、ほとんど指摘されていないものの個人的に不思議でならないことがある。それは杉田玄白が前野良沢や中川淳庵を誘い、骨が原の刑場で初めての腑分けを見学する話しだ。そもそもそのとき持参した「ターヘル・アナトミア」の図と比べたところ寸分の違いも無かったことから翻訳を決意したというのだから重要な場面である。

「蘭学事始」によれば三月三日に杉田玄白の屋敷へ北町奉行曲淵甲斐守の家来が訪れ、奉行からの手紙として明日腑分けがあるのでよろしかったら見学に来ないかとの誘いをもらったという。
それ以上の詳しい事には明言していないが、そもそも小浜藩の奧医師であったとはいえ官医でもない一介の蘭方医であった杉田玄白になぜ腑分け見学の誘いが直接あったのか…。

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※「蘭学事始」に載っている杉田玄白肖像画


確かに大罪人が処刑された場合など、腑分け(解剖)の許される遺体が手に入ったとき、しかるべき地位の医者が幕府に(具体的には町奉行所へ)願い出ることで腑分けに立ち会うことは可能だったという。
しかし不思議なのは「蘭学事始」には「よい機会があれば自分も親しく観臓してみたいと思っていた…」とはあるが、玄白自身が幕府に腑分けを見学したい旨の届け出を出したという記述はないし、その気配もないことだ。

ということは穿った見方をするなら、誰か実力者というか奉行所などに顔が利く者に頼んだのかも知れない。なにしろアクションを起こさなければ奉行所から知らせがくるはずはない。
とはいえ、例え腑分けを見学したいという申し出をしたからといってもそうそう誰にでも簡単に許可が下りるものなら玄白ならずともとうの昔に実行していたのではないか。玄白自身「蘭学事始」に奉行所からの知らせは幸運と書いている。そうした幸運が「ターヘル・アナトミア」を入手して二ヶ月ほどで転げ込むなど話しが上手すぎやしないか。

またなぜ玄白をしてそうした実証精神を駆り立てたのかといえば、ひとつには事実を知りたいという医者としての探究心であろう。そしてもうひとつは彼が手にした「ターヘル・アナトミア」は小浜藩の公金で購入してもらったという現実があるからして、その成果を一日でも早く出したいという気持ちにさせたものと思われる。

ということでまったくの想像だが、その頃田沼意次は老中格に昇進しており側用人兼務でもあった。そして町奉行所は老中の管轄である。したがってもし私が小説を書くなら、杉田玄白は意次と親しかった平賀源内に口利きをしてもらった…というストーリーは面白いと思うのだが…。
事実杉田玄白と平賀源内は交流があったわけだし、いずれにしても腑分けのチャンス到来は幸運とかたまたまと言ったものではなくどこか政治的な臭いがしてならない。
なお見逃しがちだが、玄白らはこの三月四日の腑分けは初めての体験だったが「解体新書」を仕上げていく過程で別途腑分けに参加し自分たちの認識の再チェックをしている。

(5)杉田玄白、視野の広さの謎
最後は “謎” とタイトルはつけたが謎というより「解体新書」を開いたときに感激したことだ。それは「解体新書」の “巻之一” の巻頭に関わった者達の名が書いてある。それは前記したように杉田玄白を始めとして「若狭」「同藩」「東都」とそれぞれの所属を明記した後に中川淳庵、石川玄常、桂川甫周の四人の名があるが、問題はその上に “日本” と書いてあることだ!
いわば「解体新書」の Made in Japan 宣言である。鎖国していた江戸時代…18世紀の日本でこうした視野を持っていた人間がいたという事実にショックを受けた。

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※四人の名の上に "日本" と記されている


幕末に徳川を倒すと息巻いていた人々でさえ薩摩だ長州だのと己が所属する藩に縛られていた者がほとんどなのに安永三年(1773年)の出版物に “日本” と明記した杉田玄白はやはり尋常の者ではなかったに違いない。勿論この出版が日の本の医学の進歩に大きな役割を果たすであろうことへのアピールでもあったかも知れないが…。

問題は何故そうした藩を飛び越えた視野を持てたのかという謎だが、蘭学を阿蘭陀通詞吉雄耕牛に学んだことやカピタンらが江戸参府に来ると宿泊先の長崎屋に出かけて話しを聴くといったこともあったから、ヨーロッパの優れた文化を知ることで逆に日本という国を再認識したのかも知れない。しかしそうした人たちなら玄白以外にも少なからずいたわけだが、私にはこれまたどうも平賀源内との交際も影響しているように思えるのだ。事実「蘭学事始」には平賀源内の天才ぶりやエレキテルのことも書かれている。

しかし現実に玄白はもっと明白な意図から “日本” と記したと思われる。それは「解体新書」が漢文で書かれたことと無関係ではないだろう。玄白は奥州一の関の医師、建部清庵という人宛の書簡の中で「(漢文でかいたのは)解体新書が運良く唐(中国)までも渡ったときのため」と書いているという。漢字文化は玄白らにとって本家ともいえるものであったろう。その本家にも最新の情報を届けたいと考えたのではないだろうか。

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※「和蘭医事問答」二巻


なお、杉田玄白と建部清庵の間に交わされた往復書簡は玄白の蘭学塾において初学者に対する教材として読まれただけでなく、寛政七年(1795年)に大槻玄沢、杉田伯玄らにより一部が「和蘭医事問答」の題名で出版されている。ちなみに大槻玄沢は清庵の門人だったが清庵の勧めで江戸に出て玄白の門に学んだし、清庵四男由甫は後に玄白の養子(伯元)となっている。

ということで、取り急ぎ以上5つの謎をご紹介してみたが、すでに200年ほど経過しただけでなくその間幾多の戦争や災害などで貴重な資料が失われている事を考えると謎が謎で無くなる可能性は針の穴ほどだと思う反面、今後も意外なところで写本や手紙などが発掘される可能性もあり「解体新書」フリークとしては目を離せないのである。
なお掲載の写真はすべて当研究所がレプリカとして所有しているものを使った。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・平野威馬雄著「平賀源内の生涯 甦る江戸のレオナルド・ダ・ビンチ」ちくま文庫
・土井康弘著「本草学者 平賀源内」講談社
・大石慎三郎著「田沼意次の時代」岩波書店
・加藤文三著「学問の花ひらいて 『蘭学事始』のなぞをさぐる」




二度目の白内障手術顛末記

2016年11月に続き、先月2月27日に今度は右目の白内障手術をやった。今回は二度目なので多少心の余裕があったが,実際にその場になればやはり緊張する。前回はポッドキャストでその様子をお届けしたが今回はこうした記事で記録を残しておこうと思う。


■プロローグ
白内障の経験がある方には説明の必要もないだろうが、視界がぼやけて見えないのは実に不便である。例えて言うなら病気が進むと視界は曇りガラス状態になってしまう。近景も遠景も関係なく見えないものは見えない…。
これを直すには手術しかないわけだが、どのような手術も気が重い。特に白内障手術は眼を見開いての手術だけに心理的に怖いという気持ちが先行する。
例えば執刀医のメスが迫ってくるのが見えたとすればそれは嫌だ(笑)。

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※手術は日本医科大学多摩永山病院で行った


そんな不安と手術の顛末はポッドキャストをお聞きいただきたいが、同じ大学病院での手術だとはいえ様子が些か違っていたのも事実だった。
まずは手術の決断をし定期的に診察を受けているクリニックに紹介状を書いてもらって大学病院に出向く。ここで診察と手術日などを決めることになるが、細部にわたる説明はさすがに一度経験しているので安心して聞くことが出来た。

ともかく眼科はとても…非常に混んでいる。したがって手術日も1ヶ月半ほど後になったがこればかりは仕方がない。
その間二度病院へ行き検査や説明などを受けたが早くも手術の当日がやってきた…。
その日は朝8時30分までに病院に入らなければならなかったが、手続き上は一日入院の形になるものの特別なアクシデントがない限り即日退院し帰宅することができる。

■手術の順番を待つ
とにかく大学病院というところはひたすら待つことを要求される。受付を8時30分前に一番でやったからといって手術が一番になるわけではないようだ。
一時間半ほど待ってやっとベッドに案内されたが今回は三人部屋の真ん中。目薬やら血圧測定などの世話をしてくださる看護師さんいわく私の手術の順番は六番目だという。
患者番号や生年月日がプリントされているリストバンドをされ、支給された寝間着みたいな上衣に着替えて待つ。
「昼前には呼ばれると思いますよ」とのこと。

ベッドに横になってみたが狭くてリラックスできないしテレビを見る気分でもない。たまにiPhoneを取りだしてみることぐらいしかやることがないが、そういえば病室では通話は禁止だけどメールやらの使用はOKという時代になったのはいつの頃から…。昔はノートパソコンの持ち込みも禁止されたし、利用するには個室でないとダメと言われたときもあったから有り難い。
そんなことを考えているとやっと順番が回ってきた…。
「さあ、手術室にいきましょう」と声をかけられるが、前回は病室から車椅子で手術室のある別の病棟まで向かったが今回は歩き…。

手術棟の控え室に入ると車椅子に座らされて待機となるが約10分ほど待つといよいよ私の番になった。
車椅子のまま手術室に入り、専用の椅子に座らされ履き物を替え、頭にはキャップをそして腕には血圧計と胸には心電図をモニターするためか円盤のプレートを数カ所貼られる。
今回は右目なのでそこだけ開いているシートを顔に掛けられ瞼を開ける器具を装着。視界は明るい照明で覆われる…。したがって部屋の様子はもとより執刀医の顔は見えない(笑)。

■手術の感想
手術が始まると執刀医が多々声をかけてくれるが、今回私の手術に臨む方はひとりではなくどうやらインターンあるいは助手という立場の人がいることがわかる。専門用語なので話しの意味は分からないものの何かを渡すように指示したり、洗浄液かを眼に流すように指示したりしながら執刀を進めていく。
ただし視界は塞がれているので回りの様子はまったくわからないものの、前回と比較するとどこかアナログ感といったらよいのか、執刀医の息づかいというと大げさだが、人間の手で手術を受けているといった感覚があるのだ。
無論実際がどうであったかは不明だが前回はどこか執刀医は顕微鏡を見つめ、遠隔操作のレーザーメスで手術をしているといったイメージがあったのだが…。

それはともかく一番の違いはどうしたことか「痛かった」ことだ。前回は異物感はあっても手術中に痛みはまったくなかったが、今回はメスだか針だか知らないが我慢の限界になったので痛いと言葉に出した。
結果、麻酔を追加してもらう。おかげで人工レンズを装着するあたりからは痛みは感じなくなった。どうも私の右目は瞳孔が開きにくいといった眼のようでそんな説明を執刀医がしつつ「問題なく進んでいますから大丈夫ですよ」とはいうがいずれにしても痛いのは嫌だ。

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※術後の右目はガーゼの固まりで覆われる


今回は手術室に入るときに時間を確認しておいたが、ちょうど30分で手術は終わり、相変わらず右目には分厚いガーゼが絆創膏で固定された。これは明日の検診までは取ってはならないとのこと。
ということで病室までは車椅子に乗って帰還となった。
これから約一時間ほど術後の経過に問題がないかの確認を含めて病室で待機することになるが、この時間を利用して昼飯が出る。まあ病院食だから期待はできないが、正直腹が減っていたし女房がコンビニで買っておいてくれたコロッケを追加し完食。

時間がきたのか看護師から術後の注意や目薬の点しかたなどの指示があり「今日はこのままお帰りになっていいですよ」と言われホットする。ただし前回同様分厚く特大サイズのガーゼで右目が覆われているため眼鏡がかけられず、別途用意してきた(前回も使った)ゴーグル型の保護めがねを着けて帰ることになった。

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※ゴーグル型の保護めがね。これだとガーゼをカバーできる


今回も女房に全面的なサポートをしてもらったが、片眼であることはもとより眼鏡が使えないのでド近眼の左目だけでは安心して歩けないからだ。

■術後のケアが大変
こうして病院を後にしたが、どうしても左目の手術のときと比較してしまう。
2016年11月の左目手術は手術中の痛みはまったくなかったが就寝の頃になるとかなりのゴロゴロ感が出て来て心配になってきた。ちょうど初めてハードコンタクトレンズを装着したときの感じといったらよいのか…。しかしガーゼは絶対外してはいけないと言われていたからその上に保護めがねをしたまま床に入ったが、疲れもあったのかすぐに寝てしまい、明け方に目が覚めたときにはゴロゴロ感が取れていたので安心したことを覚えている。

対して今回の右目は麻酔のおかげで痛みは感じないが、そのゴロゴロ感が最初からついて回っている。この違いの理由が分からないだけに不安だが我慢するしかない。
そして夕刻には愛犬の散歩が待っている。保護メガネをつけ、これまた女房と一緒に散歩に出たが幸いというか天気が悪かったこともあり短めに終えることが出来た。

ともかく不自由な目でなにをする訳にもいかずに早めに就寝とした。勿論一週間は保護めがねは着けたまま寝なくてはならない。
ただし寝る頃になるとゴロゴロ感はかなり薄れたこともあり寝てしまった。
翌日は9時30分に診察の予約を入れてあるのでこれまた愛犬の散歩は早々に終えて病院に向かう。
その日もかなり待たされたがまずは分厚いガーゼが外されると幸い視界はクリアで問題はないようだ。視力検査も矯正視力ではあるが1.2まで出た。

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※ガーゼが外れた後はUVカット仕様のスマートで機能性に優れた保護めがねに変えた


経過は良好ということでまずは一安心だが、これから一週間はゴーグル着けて寝なければならず、顔を洗ったりは我慢せざるを得ない。また術後に一日4回点す目薬が三種類、これまで使ってきた緑内障用の目薬三種と共に朝・昼・夕・就寝前の4回使い分けて点さなければならない。それも連続的に点しては駄目で次の目薬までは最低5分間は空けなければならない。
実に面倒くさい。

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※左三種が今回の術後に追加された目薬


■エピローグ
無論そうした面倒や不自由を克服すればこれまでとは別世界がやってくる。いや、これは大げさな物言いではなく見えなかったのが見えるという健常者にとって当たり前のことがいかに素晴らしいことなのかが分かるのだ。
私の場合、もともと左右の視力が極端に違っていたからメガネやコンタクトレンズは欠かせなかった。それでも両眼で眼前にあるモニターの文字や手にした本の文字にぴたりとピントが合うのは何十年ぶりか…。

言い忘れたが、左右共に人工レンズは40センチほどにピントが合う、いわば単焦点レンズだ。ということは術後視力が安定してきて気がついたことだが両眼共に手元がよく見えるということだったが、これは老眼が矯正されたことに等しいのではないか。
言い方を変えれば近くが見えて遠くが多少ボケるという視力はそれこそ中学生のころ黒板が見えずに席を前にしてもらったり、それでも不自由だったので初めて眼鏡をかけたときと同じともいえる(笑)。
勿論少年の時には緑内障もなければ飛蚊症も目立たなかったからまったく同じではないが、こと単純に視力の問題なら57年ほど前に戻ったともいえるのかも。

それはともかく一般的な白内障は手術で治せるわけだから、もし不自由されている方がいらっしゃれば早めに信頼できる眼科医に相談されることをお勧めしたい。




メリークリスマス !

メリークリスマス! 我が家は「寝ル〜クリスマス」でしたが、せっかくなので?女房が作ったクリスマスカードをアップしておきます。
皆様よきクリスマスを…。でも本音は「クリスマスがなんだぁ!」といった気持ちなんですが(笑)。

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オリジナル時代小説「首巻き春貞」第十一巻(長幼之序)公開

「首巻き春貞」第十一巻をお届けする。いやはや、初めての時代小説ということで「首巻き春貞」を発表したのが2017年6月だったから1年4ヶ月で11巻までに至ったことになる。無論筆者自身、これほどはまり続くとは思ってもみなかったが、面白いもので物語が次の物語を誘発してくれ、主人公たちが勝手に動いてくれる感がする…。


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第1巻スタート時の時代設定は小石川養生所が開設された享保7年(1722年)12月のことだったから本編で早くも21年の年月が経過したことになる。
したがって史実の人物であれ創作の人物であれ死んでいく者がいて新しい誕生もある。

ここにきてつくづく思うことは例えフィクションであり筆者が生み出した人物を死に至らしめる難しさだ。
難しいというより感情移入をしてしまうためにできれば殺したくない(笑)。
もともと本作は時代小説とはいえできるだけ殺伐な話題やストーリーは避け、心安らかに読んでいただくことを念頭にいれて書き始めたが、現実は過酷で厳しく飢饉もあれば大水害も起こる。
それらは時代考証的に曲げることができないしスタートから21年も経てばそれだけ皆歳を取ることは避けられない。
したがって死なせないで済むはずもなくしぶしぶ死に様を考えなければならない。

また反対に時代に沿った新しい登場人物も必要だ。
本編では若干24歳の田沼意次がちらりと登場するし老中松平乗邑を悪役として登場させた。
そしてタイトルの「長幼之序」でご想像いただけると思うが8代将軍吉宗が隠居を考えるときがきた…。
果たして後継者は誰ですんなりと決まるのか。
史実は曲げられないもののミッシングリングを想像で埋めることができるのが時代小説を書くひとつの醍醐味に思えてならない。
ともあれ「首巻き春貞」長幼之序、お楽しみいただければ嬉しい。

「首巻き春貞」第十一巻(長幼之序)




オリジナル時代小説「首巻き春貞」第11巻「長幼之序」公開覚書

プロの小説家が作品を世に問う場合は当然ながらそれを読む読者という存在をどこかで意識しなければならない…というか意識するものだろう。しかし私が昨年6月に「首巻き春貞 小石川養生所始末」を公開したとき、不遜な物言いかも知れないが想定した読者の第一は自分であった。


そもそも小説で身を立てようとか金儲けをしようという気はあるはずもなく第一無料公開したところでどれほどの方が目を通してくださるかは大変心許ないものがあった。それに執筆動機のひとつとして自身のボケ防止も含まれている。したがってまずは1冊無事に書き終えることが第一のミッションだったし、自身が面白いと思うものでなければならなかった。

その第一巻を書き終えようとするとき私の頭の中にはすでに第二巻目のストーリーが浮かんできた。しかしその時点ではまずまず二巻やせいぜい三巻目で息切れするのではないかと考えていたことも事実だった。
何しろ1冊分を考えた場合、400字詰め原稿用紙で換算するなら330枚以上にもなる。無論全部の升目を埋めるという意味ではない。
ともかく原稿用紙を埋めていくにはアイデアとか熱意といったものが不可欠だが、それらは気力と体力にも大きく影響を受ける。
齢70歳にもなる自分にそれだけの意欲が持続できるものなのかは自分でもやってみなければ分からなかった。

首巻き春貞NO11

※オリジナル時代小説「首巻き春貞」第11巻「長幼之序」近日公開予定


若い時には歳のせいにするのは格好も良くないしどこか逃げ腰のニュアンスも感じられて好きではなかったが、実際に自分が歳を取ってみると加齢の残酷さは身にしみてくる。
いくら若いつもりでいても体が動かない。足腰は椅子から立ち上がろうとするだけで出来の悪いロボットみたいにギシギシと音を立てるし膝はかなり痛むときがある。そして根底には約20年ほど付き合っている糖尿病も抱えている。

足だけではない。手もそうだ。
肩こりはともかくとしても腱鞘炎の上に左右の指のいくつかはいわゆるバネ指状態となり曲がらなくなっている。無理に曲げようとすれば激痛が走る。したがって十代のころから親しんできたクラシックギターや近年好んでいたリュートといった弦楽器はまず弾けなくなってしまった。ただし幸いなことにキーボードはこうして打てるので原稿を書くことができている。

それから眼が見えない(笑)。ド近眼と歳相応の老眼はともかくとしても乱視と飛蚊症が加わり,その上に近年白内障と緑内障に悩まされている。一昨年は左目を白内障手術したが近々今度は右目の手術を覚悟しなければならない。
こうした状況下で時代考証の確認はもとより多くの書籍や資料を読まなければならない現状は決して楽ではあり得ない。
なんだか愚痴のオンパレードに聞こえるかも知れないが、愚痴ではなくこれが歳を取るという現実だとして甘んじて受けるしかない。

そんな自分が1年4ヶ月ほどの間に第11巻を書き上げることができたのだから「自分を褒めてあげたい」と思う。
若い時からマイコンやパソコンの世界に足を突っ込み、いわゆるライターとして多くの原稿を書いてきたし書籍も共著を含めれば18冊ほどにもなり文章を書く(入力)ことは体に染み込んでいると思っているが、前記したようにその効率はと考えれば申し上げるまでもなく体力やら気力といったものに左右されがちであり正直若い時と同じというわけには行かない。

しかし先日ふと考えたことがある。若さがこうした新しいものを生み出す原動力だとしても私にとって30代のときに「首巻き春貞」は絶対に書けなかったであろうことを…。
この年齢になったからこその妙というものもあるに違いないし年齢を重ね、読書体験も含めて良くも悪くも多くの経験をしたからこその結果とも言えるのだと思う。
だとすれば歳を重ねていくことはマイナス面ばかりではないことになる。

皆、誰でもが歳を取りいつかは消えて行く。しかしその過程というかポイント、ポイントでしかなし得ないこともあることをあらためて教えてくれたのがオリジナル時代小説「首巻き春貞」の執筆だった。

歳といえば「首巻き春貞」の主人公である松平春貞が第1巻で登場したときから今回公開する第11巻までの間に21年の歳月が過ぎたことになっている。
ということは小説の中でも世代交代は不可欠で年寄りは亡くなり、新しいキャラクタを登場せざるを得ない。
しかしいま一番悩ましいのは主人公の廻りの人たちの死を描くことだ。それらは実在の人物もいれば私の創作した人物もいるが、小説の中とは言え何だか知人が亡くなるような気がしてしばし筆が止まってしまう(笑)。
その「首巻き春貞」第11巻「長幼之序」も後一週間ほどで公開できるよう目処が立った。
ご一読願えれば幸せである。


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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。ゆうMUG会員