杉田玄白「鷧斎日録」を読む

日記をつけている方は少なくないと思うが、私はといえば日々つぶやくTwitterやInstagramなどへの投稿が一種の日記になっていると思うし、愛犬の成長ぶりを軸に「ラテ飼育格闘日記」を本ブログに週一で載せており、あらためての日記はつけていない。また自分の日記はともあれ、他人の日記を覗くというのはなかなかに興味深いものだが、著名人の公開されている日記の中には公開される…公開することを意識して書かれているものも多い。


さて今回は江戸時代に「解体新書」を著したことで知られている医師、杉田玄白の日記についてのお話しである。
玄白は筆まめというか記録魔というべきか、日記をこまめにつけていた。その一部であろうと思われるが、天明8年〜文化3年(1788年~1806年)までの日記が全九冊「鷧斎(いさい)日録」という名で伝わっている。これらは玄白56歳から74歳まで約19年間の日々の貴重な記録であるが、玄白は文化14年(1817年)に85歳で没しているから文字通り晩年の記録である。

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※「鷧斎日録」全文が載っている株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」(1944年発行)


「鷧斎日録」の存在が世に知られだしたのは昭和11年(1936年)のことだったという。同年「東京朝日新聞」記事をはじめ、高浜二郎氏や原田謙太郎氏により「歴史地理」「日本医療新報」「中央公論」といった媒体に報道や論文の発表が相次いだ。
ちなみに私の手元には昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」第六十八巻 第三号に「杉田玄白の手記『鷧斎日録』」と題された論文が載っている現物がある。

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※昭和11年9月に日本歴史地理学会発行「歴史地理」と掲載されている高浜二郎氏の論文


ということで最初に「鷧斎日録」を玄白の子孫の方から閲覧を許されたのは高浜二郎氏だったが多々経緯もあってほとんど世に知られることなく、その後の新聞発表では「蘭学事始以上の珍本、百廿余年目に発見!」と国宝的珍書が発見されたと奉じている。

「鷧斎日録」は虫食いが甚だしいため、保険をかけた上で修理に出し、一枚一枚裏打ちをし一冊となるのを待ち構えるようにして原田謙太郎氏、内田孝一氏、岡本隆一氏、三廼俊一氏、杉靖三郎氏、村上秀氏の六氏により分担して写筆研究を行ったという。
結果予定よりかなり遅れたが、昭和19年11月15日に杉靖三郎氏を編者として株式会社生活社より「杉田玄白全集第一巻」として刊行された。

私の手元にはその初版本があるが、奥付を確認すると初版発行部数は1,500部で定価は十二円五十銭とある。ちなみにこの頃の物価をググってみると、1000円で家が建つとか軍事産業の工務部次長で34歳の男性の月給が167円だったといった話しがある。無論この前後は食料が配給制になったりと物価の変動が著しい戦渦の時代だった。ということで誤解を承知で言ってみれば十二円五十銭という価格は現在の50,000円ほどの重みがあったに違いない。
高価な専門書といった感じだったようだ。
ともかく戦時中でもあり紙不足でもあったからか紙質が著しく良くないものの600ページほどの本がまずまずの保存状態で入手できた。

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※「杉田玄白全集第一巻」の奥付


さて、内容を見てみると天候、体調はもとより日々の出来事だけでなく随想、和歌、狂歌、俳句、漢詩、年収などが多彩に織り込まれている。
特に玄白が毎日のように小石川、浅草、吉原、品川まで江戸の町を広く往診に出かけていることにも頭が下がる。
要は…「鷧斎日録」は臨床医としての玄白の往診記録を主軸として、玄白の回りの人たちの言動、玄白自作の詩歌、おそらく藩邸勤務や往診の過程で知り得た当時の社会事情やその情報を書き留めた日記なのである。
その記述は基本とても簡素なもので、諸情報の記録についても事実のみが記され、それに関して玄白自身のコメント類はほとんど書かれていない。

例えば丙辰年(1796年)正月からの記述の一部をご紹介すると、

・元旦 雨夜雪 御屋敷御禮相済。
    歳旦
  若水の汲上られて今年哉
  天神下出ル。
・二日 雨 天神下出ル。
・三日 曇 在宿。
・四日 晴 風気在宿。
・五日 雨 同。
・六日 雨 前夜より大風雨。
・七日 曇夕晴 近所年禮。
・八日 晴 浅草・吉原病用。夜御福引。
・九日 同 牛込・小川町邊年禮。
・十日 雪 在宿鏡開。

といった具合…。 
また家族のこともよく記録されており、特に出産や死亡、藩邸への出向や子供を連れて芝居見物に行ったこと、あるいは墓参などを書き留めている。さらに子供や孫を可愛がっていたことが伺われるし、市川団十郎(五世)や火付盗賊改の長官こと長谷川平蔵宣似の名も登場している。
この「鷧斎日録」は杉田玄白という史実の人物をよりよく知るためにも重要なタイムカプセルであるが、当時の世相をリアルに知ることができる一級の資料でもある。

なお私が知る限り「鷧斎日録」の全文が読めるのは前記した株式会社生活社刊「杉田玄白全集第一巻」だけのようだがすでに書籍を入手されるのは難しい。ただし幸いなことに国立国会図書館デジタルコレクションにアップされており、無料でPDFファイルとしてダウンロードできる。

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※「杉田玄白全集第一巻」は国立国会図書館デジタルコレクションにアップされている


とはいえこれを読破するのも正直大変だと思うので興味のある方には松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)をお勧めしたい。
本書も500ページを超える本だが、全文掲載というのではなく例えば「臨床医として」「教養人として」「記録者として」といった具合にいくつかの項目別に「鷧斎日録」を読み解き、実に詳細なる研究結果を公開している。

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※松崎欣一著「杉田玄白晩年の世界〜『鷧斎日録』を読む」(慶應義塾大学出版会)


少し例を上げれば、医者仲間の会合や俳会などの会合への出席頻度、大雨・洪水の記事の集計、火災関係の記事リストなどだが火事の記録をこれだけ整然と列べられると「火事と喧嘩は江戸の華」ではないが、いかに江戸の町は火災が多かったのかが分かる。その他、往診のために外出した地域と回数、打ち壊しや百姓一揆の詳細が分かるだけでなく、玄白の家族や親族がどのようなものであったかも理解しやすい。
「解体新書」の翻訳で知られる蘭学者・臨床医の豊かな晩年と共に同時代の世相まで眼前に浮かんでくる「鷧斎日録」はもっともっと一般にも知られて良き内容に思えるのだが。


書籍「幕末諸役人の打明け話 〜 旧事諮問録」考

いま脇机の上に開かれているのが青蛙房刊「幕末諸役人の打明け話 〜 旧事諮問録」(以下旧事諮問録)という400ページを超える書籍である。「旧事諮問録」は「きゅうじしもんろく」と読むが別途「ふるきこと たずねし きろく」ともふりがながつけられている。


「旧事諮問録」は、明治維新から二十余年、文明開花、欧化主義の嵐が静まり過去の歴史への反省が生まれる頃、それまで否定してきた德川の幕政へ新たな検討が始まった…。そして東京帝国大学の当代トップクラスの学者グループが、政治・経済・法政・外交の各般にわたり、旧幕古老たちにたずねた問答体の速記録である。

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歴史は勝者の記録とはよく言われるが、明治維新のような大きな変化があったときは尚更のこと、100年…いや50年もすればそれ以前の社会のあれこれなど忘れ去られてしまうものだ。特に明治維新はそれまでの幕政体勢を完全否定したわけだから文明開花、欧化主義への変化だけでなく、それまでの文化や体勢といったものは否定され急速に忘れられていった。
さらに当時は現在のように動画で世情や人々の暮らしを記録することなどできようもなかったから、往時を生きた人々が亡くなれば生の記憶は完全消滅する。

そうしたことを学問の立場から危惧したのであろう、帝大の中にあった史談会という学者グループの有志が集まり「旧事諮問会」が発足したのだった。
要は失われるであろう幕政のあれこれを記録し後世に残すべしと考えた「旧幕勤仕の古老に物を聞く会」である。そして明治二十三年秋冬のころより毎月一回、その職を旧幕府に奉じ、事務に練達せる耆老を招聘して未だ文書にあらわれざる事実を質問する事となった。

その内容は多義に渡り、役向きの勤めぶりや諸般の慣習、風俗を知る以外に奇話や秘聞に属するものも多い。
内容を目次に従い大別すると「将軍の日常生活」「勘定所の話」「評定所の話」「大奥の話」「目付・町奉行・外国奉行の話」「御側御用取次・外国奉行の話」「八州取締・代官手代の話」「昌平坂学問所の話」「欧州派遣使節・奥御右筆の話」「御庭番の話」そして「町与力の話」と様々だ。

しかし「旧事諮問録」は一般的な回顧録とは違う。大概の回顧談は自叙か聞書かによって生まれたが、本書は座談会形式という珍しい例であり、かつ当時流行だったという速記術によって記録されたものだったからだ。
さらに諮問会会員の氏名リストも載っているが、我が国初の博士号を授与された者も含めて五十九名であり、私などが見ても分からないが当時の錚々たる顔ぶれであるという。

さてさて問題の中身であるが往時を知りたい者にとってまさしく一級の資料であり他に類の無い内容だといえよう。
例えば「将軍の日常生活」を覗いても着るものから夜具の揃えの話があったり、将軍はだいたい一日のうち三分の二以上は中奥に在しているとか、ご飯は蒸飯だとか、食事の器物も粗末なもので椀のごときは世間に売っている普通の椀であるなどひとつひとつの問答が実に興味深い。
また有徳院(八代将軍德川吉宗)は実際に相手の身分が低い者であっても構わず話しをする人で、書生同様大坂などを歩いていたというし、厩の掃除をする者に酒を与えるくらい開けた公方であったという。こうした事実が暴れん坊将軍といった魅力あるフィクションを生む背景だったに違いない。

なぜ学者でもない者がこうした書籍を手にしたかといえば、それは時代小説を書く中でフィクションはフィクションとしても時代考証や史実の登場人物、例えば八代将軍吉宗や南町奉行大岡越前守忠相などなどの活躍ぶりをできるだけきちんと描きたかったからだ。
なお「旧事諮問録」というと、岩波文庫版が知られているようだ。しかし旧仮名遣いであることから私はあえて本書三好一光校注の青蛙房版を選んだ。本書は三好一光氏が解題末に述べているようにすべて話し言葉の記録であること、一部の研究者のためというより一般に読んで貰いたいということで現代語調に改められている。

ということで、旧幕府の役人たちの肉声が詰まっている「旧事諮問録」は歴史を学ぶ者、興味を持っているすべての人たちの宝でありタイムカプセルだといえよう。




「解体新書」底本のミステリー(後編)

「解体新書」レプリカ二種の表紙の色が違うという事から安永三年に作られた刊本に種類があったと考えざるを得ないことが分かった。そんなことを考えつつ多々資料に当たっていたら幸い古い書籍が見つかり、そこに知りたいことやこれまでもやもやしていた事へのヒントが多々載っていた…。


それは昭和55年というから1980年に発刊された書籍の復刻版で2006年8月1日に初版発行された「解体新書と小田野直武」という本で著者は鷲尾 厚氏という方だがすでに亡くなられている。
今回の「『解体新書』の謎(後編)」は当該書籍も参考にしながら安永三年に発刊された「解体新書」に…特に今日いくつかの大学や資料館あるいは個人が所蔵している「解体新書」の底本の謎についてお話しを続けたい。なお以下個人名の敬称は略させていただくのでご了承願いたい。

そもそもお上からの発禁や罰を受けないようにと杉田玄白は将軍家や宮家に「解体新書」を献上したことは知られていることであり、「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註のレプリカの底本、慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵の「解体新書」がそれに当たるオリジナルの一つであろうと監修者の大鳥蘭三郎があとがきで記している。そしてそれは一般に流布された五冊巻ではなく二巻の仕様であり、その判形も些か大きいことは前編で述べた。

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※レプリカ表紙比較。左が「大鳥蘭三郎・解体新書」版、右が「日本医学の夜明け」版の表紙【クリックで拡大


また「日本医学の夜明け」版の例えば「序文」を見ると読みやすくするためだろう句読点が多々ある。しかし「大鳥蘭三郎・解体新書」には無い。ということはこれまた版木が違うのかと考えたが、これはその底本所有者が後から書き込んだと考えれば必ずしも版木が違うとはいえない。そのままレプリカ化されたのだろう。

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※「大鳥蘭三郎・解体新書」版の「序文」頁(上)に句読点はないが、「日本医学の夜明け」版(下)には多々ある。赤丸は筆者が加筆


ちなみに、「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)に紹介されている町立角館図書館所蔵「解体新書」には読みやすくするためのレ点をはじめ記号が多々加筆されている。
さらにレプリカ印刷時にどちらかが版のサイズを間違えた…という可能性はまずないと思ったが、念のため双方の縮尺をできるだけ同じにして重ねてみると摺りズレや紙の収縮といったレベルを超えた違いが出ている。これは版木が違うと結論づけてよいだろう。

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※双方の同じ頁の縮尺を同一にして重ねてみたが、明らかに版木が違うことがわかった【クリックで拡大】


ということで一般に流布されたものと献本用で間違いなく二種の版木があったことは確実だ。さらに鷲尾 厚は著書「解体新書と小田野直武」の中で「解体新書」安永三年版は少なくとも三通りのものを上梓していたことになると自説を述べている。
ちなみに今回私が参考にした「解体新書」をリストアップしておきたい。

1)「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註
  底本:慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵
2)国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修
  底本:靜嘉堂文庫所蔵
3)西沢書店「解体新書 復刻版」
  底本:愛知県岡崎市の岩瀬医院所蔵
4)全現代語訳「杉田玄白 解体新書」(酒井シヅ著)
  底本:東京大学医学図書館所蔵(土肥文庫)だと思われる
5)「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)
  底本:農村モデル町立角館図書館所蔵
6)「日本思想体系 洋学(下)」小川鼎三/酒井シズ校注 岩波書店
  底本:不明

なお実物大と称するそれぞれが底本と同サイズで印刷されているとすれば、(3)の底本もサイズが(1)と同じであることから、言及されてはいないものの(1)と同じく献上向けの版木で刷られたのかも知れない。

ただし厄介なのはそもそも情報が古い点が多い事だ。したがって表記の場所に現在も所蔵されているかは分からないし公立の組織の場合だと名前が変わったりしている可能性もあるが、まずは資料にあるとおりに記して話しを進める。
さて判型が違うものがあることが分かったので他に違いがあるのかどうかを調べた結果、面白いというより興味深い事実を知った。

まずは前記(1)の「解体新書」の一巻目「序図」の頁構成を見てみると「吉雄耕牛の序文」から始まり次に「自序」そして「凡例」と続く。この順序は(2)(3)(5)(6)とも同じだが(4)だけが「序文」「凡例」「自序」の順となっている。
この順序に違いがあるとすればそれは乱丁と考えるのが普通の感覚ではないだろうか。何種類もの順番を持つ本を作るというのは考えられないからである。ただし現在ネットで見られた限りの情報を加えるなら、東京医科歯科大学図書館蔵と称する「解体新書」も(4)と同じ順序で載っていたが、国立国会図書館、岐阜県歴史資料館、平賀源内記念館、高知県立牧野植物園/牧野文庫、甲南女子学園や大江医家史料館のものは(1)(2)(3)(5)と一緒のようである。
また興味深い事に底本は不明ながら(6)は(4)と同じ酒井シズが校注に加わっているにもかかわらず頁構成が違うのだ。

であるなら数の理屈から言っても(4)は刊本時の乱丁か、あるいは後に補修などのためにバラしたとき故意・間違いで順番を入れ違えたと考えるべきではないだろうか。
ここでさらにショッキングなことがわかった。
それは(5)の「解体新書」の奥付の後に二丁にわたり出版広告がつけられているという事実である(「解体新書と小田野直武」による)。この広告は総計59種の書物名が並んでおり、その考察から(5)の角館本は間違い無く安永三年の刊本だと鷲尾厚は力説している。

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※「解体新書と小田野直武」(鷲尾厚著)無明舎出版 280頁と281頁。ここには奥付の後に広告頁が続く


しかしその他に所蔵されている「解体新書」に広告は残っていない…というよりそのことに付言した情報はまずない。この事実をどう考えるべきか。
それは安永三年に出版された際に、将軍家や宮家への献上品を除いて一般に流布するものにはすべて同じ広告が載せられていたと考えるのが合理的だろう。それが現在ないとすれば “取り去った” というしかない。

どうも私たちはこうした二百数十年もの間保管されてきた貴重なものは当時のまま残されていると思いがちだ。しかし「解体新書」が当時いくらで販売されたかについてはまだ調べていないが、専門書でもあったし決して安い本ではなかったと思う。それを手に入れた者は活用するのに無関係な広告頁を取り去ったのかも知れず、近代になり図書館なりに収蔵されるようになった場合もこれまた広告は無関係と外されたに違いない。
また表紙もかなり痛んだ場合も多かったと思われるからいつの時点かはともかく後にきちんと残そうと意図すればするほど新しいものや図書館独自のものに取り替えられた可能性が大だ。

だとすれば頁構成の順番が違ったりあるいは表紙の色が違う「解体新書」底本が存在しても不思議ではないわけだ。きちんと和綴じされているから安永三年の刊本のままだという保証はどこにもないのである。ただし今のところは推論に過ぎないがどうやら刊本時の表紙に藍色のものはなかったと見てよいのかも知れない。
今回「解体新書」のレプリカを二種手に入れた事をきっかけに、刊本当時の姿を調べて見ようとしたわけだが、世の中に「解体新書」に関する書籍は結構あるものの、大半がその内容についての解説であり、歴史的な和本として刊本当時のことを知り得る情報はいたって少ないことに気がついた。

そして監修や著作の方たちは医療の専門家であっても和本やそうした情報の歴史的考察については専門外であり当然ながら突っ込みが甘い。またその解説や説明に底本の所蔵場所を示していない例も多く、一歩踏み込んで調べようにも手がかりがないのだ。
さらに図書館レベルの組織がネットに載せている画像があった場合でもサイズや解像度が非常に低くまたモノクロであったりと正確な情報を第三者が把握するには役に立たないケースも見受けられた。

ともあれ個人的な興味として「解体新書」を目標通り出版できた杉田玄白らの思いと平賀源内の紹介であろうが東都書林中でも老舗でありベストセラーを生み出してきた須原屋市兵衛という版元、そして彫り師や摺師たちの葛藤や人間模様についても知りたくなった…。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・「大鳥蘭三郎・解体新書」付属「解体新書解説」講談社
・鷲尾厚著「解体新書と小田野直武」無明舎出版
・橋口侯之介著「江戸の本屋と本づくり」平凡社
・小川鼎三/酒井シズ校注「日本思想体系 洋学(下)」岩波書店



「解体新書」底本のミステリー(前編)

私の手元には集めたいくつかの「解体新書」がある。現代語訳の書籍や解説本、そして西村書店編集部の復刻版などだが、個人的に特別な存在としていわゆるレプリカが二種ある。レプリカとは申し上げるまでもなく本物に忠実に作られた複製品であるが、そのレプリカを比較する過程で謎が生じた…。


念のために記すが、「解体新書」とは前野良沢、杉田玄白、中川淳庵らが協力して翻訳にあたり、安永三年(1774年)に刊行された西洋医学書の翻訳書だ。原典はドイツ人ヨハン・アダム・クルムスのオランダ語版であり通称「ターヘル・アナトミア」と呼ばれていた。

この翻訳および刊行は、一時代を画する偉業として医学史上高く評価され、以後我が国の名医たちが次々と本書に学び、医学の発展に偉大なる貢献をした歴史的偉業なのだ。
まあ、興味の無い方にとってはどうでもよい話題だろうが「解体新書」フリークの私にとってはなかなかに時代は勿論、関わった人たちの人間模様等々、実に興味深いテーマなのである。
ということでまず分かっている範囲ではあるが二種の「解体新書」レプリカの詳細を記してみよう。なお人名の敬称は略させていただいた。そしてそれぞれの詳細についてはリンク先をご参照願いたい。

1)「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註
http://www.mactechlab.jp/article61.html
  出版: 1973年(昭和48年)講談社
表紙:雲母入鳥の子/渋茶
底本:慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵
装丁:「解体新書」全五巻が帙に保護され専用の桐箱に収められている
  発売当時の価格:39,000円
  企画:「解体新書」発行二百年記念として3,000部発行

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※「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の「解体新書」レプリカ


2)国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修
http://www.mactechlab.jp/article60.html
出版:1978年(昭和53年)日本世論調査研究所
表紙:藍色の和紙
底本:靜嘉堂文庫所蔵
  装丁:出前用岡持ちのような縦置桐箱に他の和書(レプリカ)と共に帙に保護されて収納
  発売当時の価格:330,000円
  企画:日蘭修交三百八十年記念

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※国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」小川鼎三/緒方富雄監修の「解体新書」レプリカ


共に四十年以上も前のものだが、昨今出版業界が大きく低迷している現状ではこうした高度で熱意のある出版は今後も期待できないと考えている。それだけにこの二種類のレプリカは個人的な宝でもある…。
さて「解体新書」の製本は木版印刷した和紙を、真ん中で二つ折りにして、端を揃えて糸で綴じる和綴じだが、四つ目綴じとか明朝綴じといわれ当時のポピュラーな製本方法だ。そして現代の我々は忘れがちであるが、原本は木版であり多いときには同じ版木で数百部が摺られたという。

勿論売れ行きがよければ何度も摺り増しを行った。問題は「解体新書」の場合、増刷が何度あり全部で何冊摺られたかはすでに不明だが、浮世絵がそうであるように大量に摺れば版木が痛んできてシャープな印刷ができなくなってくる。事実「解体新書」にも版木を彫り直したと思われる版もあるようだ。そうした意味においても浮世絵は初版がもっとも価値あるものとされる。
実際に前記二種を比べても版木の違いが刷った結果として差に現れている。具体的にいえば「大鳥蘭三郎・解体新書」小川鼎三監修/大鳥蘭三郎校註の方が断然シャープである。

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※木版の精緻さ比較。左が「大鳥蘭三郎・解体新書」で右が「日本医学の夜明け」版の扉画【クリックで拡大】


さて本題に入るが、では前記した二つのレプリカが見本としたオリジナル、すなわち底本の「解体新書」は同じ時期に刷られ販売されたものなのだろうか。共に安永三年に刊本されたものだがそのクオリティはともかく、気になったのは二つのレプリカの表紙の色と判型サイズが違っていたことだった。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版の表紙は雲母入鳥の子/渋茶だが、日本医学の夜明け」版の方は藍色である。拘るようだがレプリカ、復刻版となればオリジナルのままに再現するのが基本のはずだ。大切なのは中身であるからして表紙の色などどうでも良い…とは言えない。
馬鹿な物言いに聞こえるかも知れないが、杉田玄白や中川淳庵が刷り上がり製本された「解体新書」の表紙に藍色を見たのか、渋茶を見たのかは私にとってどうでもよい事ではないのである。

「大鳥蘭三郎・解体新書」版は慶応義塾大学医学部北里記念医学図書館所蔵のものを使用したと解説書にある。ただしこの原本は流布されたものが五巻ひと組だったのとは違い、上下二巻にまとめられその判型もやや大きいという。監修者の大鳥蘭三郎があとがきで「将軍家・宮家あたりに献上するために、特別に刷られたものではないかと推察される」と書かれているが、一方レプリカ製作に対しては一般に流布している五巻本の体裁をとっている。
しかし「日本医学の夜明け」版と比較すると確かに判型自体が縦横2,3mm大きいし刷られた版木の寸法もかなり違う。

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※判型の差比較。左が「日本医学の夜明け」版の奥付で右が「大鳥蘭三郎・解体新書」版の奥付。和本の判型も些か「大鳥蘭三郎・解体新書」版が大きい


現在のようにコピー機でプリントサイズを拡大縮小できる時代ではなく、「大鳥蘭三郎・解体新書」版の解説にあるように底本すなわち版木自体が大きかったと思わなければならない。
事情に疎い私などはどこか版木はひとつであると思い込んでいた向きもあるが、浮世絵がそうであったように最初から複数の彫り師に複数の版木を彫らせることは珍しいことではなかったようだ。さらに私自身はまた見たことはないが、版元の須原屋市兵衛の所在地が奥付に記載されているが、本によって「日本橋室町二丁目」と「日本橋室町三丁目」の二種類が存在しているという。理由についてはよく分かっていないようだが、三丁目の上が欠けて二丁目になったのでなければ版が違うということになる。

さて表紙の話しだが、ネットでググってみると初版本として残存しているいくつかの「解体新書」の表紙は藍色ではなく古書のため色あせたりしているが渋茶といった色であり、今のところ藍色の表紙を持つオリジナルには行きついていない。
この藍色の表紙で復元されている「日本医学の夜明け」版だが、セットに付属する470ページにもなる豪華な解説本によれば「靜嘉堂文庫」所蔵の「解体新書」を手本にしたとある。

靜嘉堂文庫といえば東京都世田谷区岡本にある専門図書館及び美術館である。国宝や重文を含む日本および東洋の古典籍及び古美術品を収蔵しているが、事業主体は公益財団法人静嘉堂。そして同財団は三菱財閥の第二代総帥岩崎弥之助・第四代総帥岩崎小弥太父子の所有した庭園と遺品の古典籍・古美術コレクションを基礎として発足したとのこと。
しがってそこに収蔵されている「解体新書」だとすれば、由緒由来が不明なものではあるまい…。ただ残念な事にその「解体新書」のビジュアルが確認出来ないだけでなく同文庫は専門家のための図書館ということで一般からの問い合わせ窓口もないので現在も所蔵しているかどうかはもとより、表紙の色が藍色であるかどうかについて今のところ分からない。

Wikipediaによれば「解体新書」の原本は日本大学医学部、初版は九州大学医学図書館、津山洋学資料館、中津市大江医家史料館などに所蔵とあるものの各所蔵の表紙ビジュアルは大江医家史料館を除きネット検索では確認できなかった。
ともあれ一応ネットで調べられるだけ調べた範囲で以下に所蔵されているという「解体新書」は初版本と明記されているものを含めすべて表紙は渋茶だったと思われ、藍色のものはなかった。

・適塾所蔵
・国立国会図書館
・慶應義塾大学信濃町メディアセンター所蔵
・東京大学医学図書館所蔵
・内藤記念くすり博物館所蔵
・東京医科歯科大学図書館所蔵
・大江医家史料館所蔵
・研医会図書館所蔵
・明星大学図書館所蔵
・甲南女子学園阿部記念図書館所蔵
・さぬき市志度/平賀源内記念館所蔵

では「日本医学の夜明け」の「解体新書」レプリカ表紙はなぜに藍色なのか…。それがいまのところ分からない。
オリジナルも初版と重版で違ったのか、あるいは「日本医学の夜明け」の「解体新書」復刻版制作時に何らかの意図があって意図的にオリジナルと違う色の和紙を使ったのか。あるいは底本そのものが刊本以後に何らか手を加えられたのか…。
とはいえ現存している「解体新書」で安永四年とか安永五年の刊行日付を持ったものは見つかっておらず、何部刷ったかはともかくすべてが安永三年の刊本のようである。

繰り返すが「日本医学の夜明け」のプロジェクトで復刻された「解体新書」は靜嘉堂文庫所蔵のものだと解説書に記されている。そして本企画の監修は解剖学者、医史学者で東京大学名誉教授の小川鼎三と血清学者、医学史学者、東京大学名誉教授の緒方富雄である。すでにお二人とも鬼籍に入っているが当時医学界の重鎮中の重鎮であり、僭越ながら復刻版を製作するにあたり参考にしたオリジナルを軽視するとは思えない。だとすれば靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」表紙は藍色なのか?

また例えば「日本医学の夜明け」に「解体新書」同様復元された「蘭学事始」や「和蘭医学問答」を確認するとそれらは底本に忠実な表紙の色を使っている。
ということで、いまのところ靜嘉堂文庫所蔵の「解体新書」がどういうものなのか、表紙が藍色なのかどうかは調べた限り分からないでいる。

とにかくそうそうパソコンの前に座っていて都合の良い資料が見つかるわけでないだろうが、これが今のところ個人的に謎を追った限界である…。
無論原書漢文の内容を読む、確認するだけならこうしたレプリカである必要はなく、例えば西村書店編集部の復刻版で十分用は足せるわけだが、当時の “知” と “文化” そして関わった人たちの情熱をよりよく知るには限りなく本物に近いものを手にしたいとレプリカを集めてきた次第。
この私的な疑問・謎を解く旅は本そのものに関してだけでなく、その扱いやこれまで保存されてきた過程・歴史にも秘密があるようだ。
というわけで、後編につづく…。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・「大鳥蘭三郎・解体新書」付属「解体新書解説」講談社



「解体新書」および「蘭学事始」5つの謎

手元に「解体新書」および「蘭学事始」のレプリカがある。「解体新書」が漢文で書かれているのに対して「蘭学事始」はカナ交じりなので私にも何とか読み下すことができるが、別途現代語訳の書と合わせて楽しんでいる。今回はこの著名な「解体新書」や「蘭学事始」に関し私にとって興味深い5つの謎をご紹介したい。無論素人故、単に知らないだけのことに終わるかも知れないが、そうしたことを含めてこれからも多々調べて勉強したいと思っている。


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※「解体新書」と「蘭学事始」


まず “蘭学” とは何か…だが、鎖国が行われていた江戸時代、日本人が学んだオランダの学問のことだ。鎖国ではあったが幕府は長崎に出島という特別な場所を設けてオランダと限定した交易を許していた。出島は唯一西洋に開かれた場所であった。

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※出島の図。国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」付属「阿蘭陀医学伝来史絵図」より


しかし、オランダの技術や医療あるいは文化といった物を学ぶことは結局オランダ語を通したヨーロッパの先進医学や科学、文化を学ぶことに通じた。
なお “蘭学” という言葉は「蘭学事始」によれば杉田玄白らが出版した「解体新書」が広まってから使われるようになったものらしい。
そして、そもそも「解体新書」はドイツの医学書をオランダ語に翻訳した「Ontleedkundige tafelen (ターヘル・アナトミア)」が日本に持ち込まれ、それを前野良沢と杉田玄白の二人が奇遇にも別々に手に入れ、一緒に腑分け(解剖)を見学した事をきっかけに翻訳を決意した成果だ。

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※「ターヘル・アナトミア」と呼ばれたオランダ語版「 Ontleedkundige tafelen」1734年出版


また「蘭学事始」はそもそも杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った上下2編の手記である。
いにしえの日本と西洋の接触から、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究などの記述と続くが、何といっても白眉はオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を前野良沢、中川淳庵らと翻訳し「解体新書」を出版するまでの苦心談である。

杉田玄白は、自身の死後に蘭学草創期のことが後世に誤り伝わることを懸念し、自らの記憶する当時のことを書き残そうと決意したといわれている。
文化11年(1814年)にほぼ書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂を願う。そして翌年に完成を見るがこのとき玄白83歳。そして2年後の文化14年(1817年)に玄白は85歳で死去する。

(1)前野良沢の名に関する謎
最初の謎は「解体新書」に関わることだが、翻訳に一番貢献した前野良沢の名がない。それにはいくつかの説があるが、良沢は出版にこぎつけたとはいえその内容に満足できなかったため自分の名は出してくれるなと玄白に迫り、それを条件に出版に同意したという話しがある。奇人・完全主義者だったという良沢の面目やこれに尽きるといった話だ。

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※「解体新書」には前野良沢の名がない


しかし「解体新書」の序文は玄白および良沢共通の師であった長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛によるものだが、その中で前野良沢の名を上げているだけでなく「ああ、二君(良沢と玄白)がこの仕事でてがらを立てたことはなんといっても最高なことだろう。じつに天下後世にとっての徳である」と書いている。

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※序文は長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛が寄せている


確かに「解体新書」出版に前野良沢が不可欠であったことは彼の死後十一年経ってから玄白が執筆した「蘭学事始」に明記されたことでよりよく世に知らされることになった。しかし「解体新書」の序文を読めば前野良沢が深く関わっていたことは誰にも分かるはずだ。であれば良沢自身の願いであった「名を出さないで欲しい」という約束は守られなかったことになる。
良沢は納得したのであろうか…。
一方、こんな話もある。良沢が長崎にいったとき、九州の太宰府神社の神前で「自分は阿蘭陀の学問を学ぶにあたり、いやしくも真理を究めずにみだりに名を成そうとしたら、神よ、わたしを罰してくれ」と誓ったというのだ。

本来なら翻訳に携わった者としては前野良沢、杉田玄白、中川淳庵の名が、そして協力者として石川玄常、桂川甫周、嶺春泰らの名が連なるのがあるべき姿のはずだ。それが前野良沢の名はなく翻訳はすべて杉田玄白が行ったと思える記載になっている。
これは一説に、「解体新書」の出版は下手をすればお上から発禁処分を受け、出版した当人たちも咎められる可能性があった。ために杉田玄白は前野良沢はもとより中川淳庵の名にも校正の意である(校)と明記し、自分がすべて訳したとして名の下に(訳)を付け、万一の場合でも良沢と仲間たちを守ろうとしたという説もあるが…。

ともあれ「解体新書」出版を境に良沢と玄白は別々の道を歩むことになるが、結果「解体新書」は大成功を収めその賞賛は杉田玄白一人が受けることになったため、玄白はどこか世渡り上手の要領がよい人物と思われることがあるようだ。
しかし玄白の判断で不完全ながらも出版にこぎつけたことでその後の蘭学の隆盛が実現したのは間違いないことだし、もし良沢の意見を受け入れ出版の時期を大きく後にしたならばそれこそ発禁となる可能性もあったに違いない。

何故なら「解体新書」出版の当時、世は田沼時代であり、蘭学に関しても寛大な時代であったことは間違いない。後十数年も経てば田沼意次が失脚し松平定信の寛政の改革が始まり、文化面でもそれまで衰退傾向にあった朱子学を振興させ、異学を押さえ込むようになったのだから出版は難しくなったに違いない。
事実1791年には林子平が「海国兵談」の版木を没収され、同じ年に山東京伝が戯作三点により手鎖五十日の刑を受けている。
さらにいえば、玄白のオランダ語翻訳の出版が医学・医療に関わることだったからこそ幕府の評価も高かったということだろう。これが他の分野だったらまた話しは違っていたのではないか。

そして杉田玄白の用意周到さ、根回しの見事さも特筆すべきだ。翻訳仲間に官医の桂川甫周を引き入れたこと。前記したように序文を長崎阿蘭陀通詞吉雄耕牛に依頼したこと、「解体新書」本編出版に先んじて「解体約図」といういわゆるパイロット版を出版して世の反応を確認したこと。また「解体新書」を法眼だった桂川甫周の父甫三を通じて将軍に献上しただけでなく老中たちにも献上。さらに京都にいる御所にパイプを持っている従弟に相談の上で時の左大臣九条家、関白近衛内前公、公家広橋家など宮家に献上している。そして三家より出版を祝う和歌を授かった。
これでは批判側は動けない…。

(2)書名の謎
「蘭学事始」の内容は玄白が書いた内容だけでなく弟子の大槻玄沢が玄白から聞き及んだ話などを追加してあるというが、取り急ぎ「蘭東事始」と題して出来上がったものを玄白に呈上した。したがって最初の書名は大槻玄沢自身が名付けたことになる。
しかしその名だが、別途「和蘭事始」と題した写本も伝わっている。そもそも「蘭学事始」という名の写本は発見されていないが、大槻玄沢が文化十三年にあらわした「蘭訳梯航」という書にたびたび「蘭学事始」という名が出てくるという。ということは「蘭学事始」という名も大槻玄沢が考えた名だということになる。

ただし原本は安政二年(一八五五年)の安政の大地震で失われ、写本もいつしか散逸し完全に失われたものとされていた。
その後、幕末になって神田孝平という人が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経て福沢諭吉はじめ有志一同が「蘭学事始」の題名で刊行したという事実がある。
福沢諭吉は明治二十三年の「蘭学事始再版の序」で、草創期の先人の苦闘に涙したと記している。

とはいえこれまたはっきりしない。明治二年に福沢諭吉が「蘭学事始」と題して出版したときの底本は「和蘭事始」なのだ。したがって発見された「和蘭事始」を福沢が出版に際して「蘭学事始」と直したのは事実だが、福沢が大槻玄沢が名付けた「蘭学事始」という名を知っていたとは思えないという。
何しろ発見された写本は彼らにとって未知のものであったのだから「和蘭事始」が「蘭学事始」という名でも呼ばれていた事実を福沢が知る由もないはずだ。

ということは偶然の産物ということになるが、福沢は「和蘭」より一般的な「蘭学」という言葉を使ったと考えるしかないということになる。あるいは片桐一男氏が自著「杉田玄白 蘭学事始」で述べているように写本そのものは無くなっていたとしても大槻家あるいは杉田家には「蘭学事始」という名が伝わっていたのかも知れず、それを知った福沢が出版に際して採用したとも受け取れる。

(3)”フルヘッヘンド” の謎
さて、「蘭学事始」の書名に拘り過ぎたかも知れないが内容においても突っ込みどころは多い…。
まずは前野良沢は勿論、一同と翻訳の苦労話として紹介されよく知られている「蘭学事始」の中の逸話だが、鼻のところで「フルヘッヘンドしているものである…」という箇所にいたったがこの語の意味が分からず悪戦苦闘したことが書かれている。しかし酒井シヅ氏の研究によれば「ターヘル・アナトミア」を一から訳された過程で気がついたこととしてこの「フルヘッヘンド」という語は「ターヘル・アナトミア」にないという。

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※「蘭学事始」にある "フルヘッヘンド" の記述部分


これまた片桐一男氏曰く、しいていえば鼻の解剖に関して "verhevene" (意味は盛り上がった)を指すのであろうとし、玄白の記憶違いとしか言いようがないようだ。

(4)腑分けに至る謎
これまで幾多の「解体新書」や「蘭学事始」の解説書を読んだが、ほとんど指摘されていないものの個人的に不思議でならないことがある。それは杉田玄白が前野良沢や中川淳庵を誘い、骨が原の刑場で初めての腑分けを見学する話しだ。そもそもそのとき持参した「ターヘル・アナトミア」の図と比べたところ寸分の違いも無かったことから翻訳を決意したというのだから重要な場面である。

「蘭学事始」によれば三月三日に杉田玄白の屋敷へ北町奉行曲淵甲斐守の家来が訪れ、奉行からの手紙として明日腑分けがあるのでよろしかったら見学に来ないかとの誘いをもらったという。
それ以上の詳しい事には明言していないが、そもそも小浜藩の奧医師であったとはいえ官医でもない一介の蘭方医であった杉田玄白になぜ腑分け見学の誘いが直接あったのか…。

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※「蘭学事始」に載っている杉田玄白肖像画


確かに大罪人が処刑された場合など、腑分け(解剖)の許される遺体が手に入ったとき、しかるべき地位の医者が幕府に(具体的には町奉行所へ)願い出ることで腑分けに立ち会うことは可能だったという。
しかし不思議なのは「蘭学事始」には「よい機会があれば自分も親しく観臓してみたいと思っていた…」とはあるが、玄白自身が幕府に腑分けを見学したい旨の届け出を出したという記述はないし、その気配もないことだ。

ということは穿った見方をするなら、誰か実力者というか奉行所などに顔が利く者に頼んだのかも知れない。なにしろアクションを起こさなければ奉行所から知らせがくるはずはない。
とはいえ、例え腑分けを見学したいという申し出をしたからといってもそうそう誰にでも簡単に許可が下りるものなら玄白ならずともとうの昔に実行していたのではないか。玄白自身「蘭学事始」に奉行所からの知らせは幸運と書いている。そうした幸運が「ターヘル・アナトミア」を入手して二ヶ月ほどで転げ込むなど話しが上手すぎやしないか。

またなぜ玄白をしてそうした実証精神を駆り立てたのかといえば、ひとつには事実を知りたいという医者としての探究心であろう。そしてもうひとつは彼が手にした「ターヘル・アナトミア」は小浜藩の公金で購入してもらったという現実があるからして、その成果を一日でも早く出したいという気持ちにさせたものと思われる。

ということでまったくの想像だが、その頃田沼意次は老中格に昇進しており側用人兼務でもあった。そして町奉行所は老中の管轄である。したがってもし私が小説を書くなら、杉田玄白は意次と親しかった平賀源内に口利きをしてもらった…というストーリーは面白いと思うのだが…。
事実杉田玄白と平賀源内は交流があったわけだし、いずれにしても腑分けのチャンス到来は幸運とかたまたまと言ったものではなくどこか政治的な臭いがしてならない。
なお見逃しがちだが、玄白らはこの三月四日の腑分けは初めての体験だったが「解体新書」を仕上げていく過程で別途腑分けに参加し自分たちの認識の再チェックをしている。

(5)杉田玄白、視野の広さの謎
最後は “謎” とタイトルはつけたが謎というより「解体新書」を開いたときに感激したことだ。それは「解体新書」の “巻之一” の巻頭に関わった者達の名が書いてある。それは前記したように杉田玄白を始めとして「若狭」「同藩」「東都」とそれぞれの所属を明記した後に中川淳庵、石川玄常、桂川甫周の四人の名があるが、問題はその上に “日本” と書いてあることだ!
いわば「解体新書」の Made in Japan 宣言である。鎖国していた江戸時代…18世紀の日本でこうした視野を持っていた人間がいたという事実にショックを受けた。

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※四人の名の上に "日本" と記されている


幕末に徳川を倒すと息巻いていた人々でさえ薩摩だ長州だのと己が所属する藩に縛られていた者がほとんどなのに安永三年(1773年)の出版物に “日本” と明記した杉田玄白はやはり尋常の者ではなかったに違いない。勿論この出版が日の本の医学の進歩に大きな役割を果たすであろうことへのアピールでもあったかも知れないが…。

問題は何故そうした藩を飛び越えた視野を持てたのかという謎だが、蘭学を阿蘭陀通詞吉雄耕牛に学んだことやカピタンらが江戸参府に来ると宿泊先の長崎屋に出かけて話しを聴くといったこともあったから、ヨーロッパの優れた文化を知ることで逆に日本という国を再認識したのかも知れない。しかしそうした人たちなら玄白以外にも少なからずいたわけだが、私にはこれまたどうも平賀源内との交際も影響しているように思えるのだ。事実「蘭学事始」には平賀源内の天才ぶりやエレキテルのことも書かれている。

しかし現実に玄白はもっと明白な意図から “日本” と記したと思われる。それは「解体新書」が漢文で書かれたことと無関係ではないだろう。玄白は奥州一の関の医師、建部清庵という人宛の書簡の中で「(漢文でかいたのは)解体新書が運良く唐(中国)までも渡ったときのため」と書いているという。漢字文化は玄白らにとって本家ともいえるものであったろう。その本家にも最新の情報を届けたいと考えたのではないだろうか。

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※「和蘭医事問答」二巻


なお、杉田玄白と建部清庵の間に交わされた往復書簡は玄白の蘭学塾において初学者に対する教材として読まれただけでなく、寛政七年(1795年)に大槻玄沢、杉田伯玄らにより一部が「和蘭医事問答」の題名で出版されている。ちなみに大槻玄沢は清庵の門人だったが清庵の勧めで江戸に出て玄白の門に学んだし、清庵四男由甫は後に玄白の養子(伯元)となっている。

ということで、取り急ぎ以上5つの謎をご紹介してみたが、すでに200年ほど経過しただけでなくその間幾多の戦争や災害などで貴重な資料が失われている事を考えると謎が謎で無くなる可能性は針の穴ほどだと思う反面、今後も意外なところで写本や手紙などが発掘される可能性もあり「解体新書」フリークとしては目を離せないのである。
なお掲載の写真はすべて当研究所がレプリカとして所有しているものを使った。

【主な参考資料】
・片桐一男著「知の開拓者 杉田玄白」勉誠出版
・片桐一男全訳注「杉田玄白 蘭学事始」講談社
・酒井シヅ全現代語訳「杉田玄白 解体新書」講談社
・緒方富雄校注「蘭学事始」岩波書店
・国公立所蔵史料刊行会編「日本医学の夜明け」日本世論調査研究所
・杉本つとむ編「図録 蘭学事始」早稲田大学出版部
・平野威馬雄著「平賀源内の生涯 甦る江戸のレオナルド・ダ・ビンチ」ちくま文庫
・土井康弘著「本草学者 平賀源内」講談社
・大石慎三郎著「田沼意次の時代」岩波書店
・加藤文三著「学問の花ひらいて 『蘭学事始』のなぞをさぐる」




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主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。マネキン造形研究中。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。ゆうMUG会員