スティーブ・ジョブズ氏に手紙を出したらどうなるか?

最近のニュースに、9歳の女の子がスティーブ・ジョブズ氏宛てにiPodに関する提案の手紙を書いたもののその返事は法務部からのもので「余計なおせっかい」と決めつける文面だったという。実は私も以前ジョブズ氏に親展で手紙を出したことがある!


Appleならずとも企業には毎日多くの郵便物が届く。無論電子メールも...。そしてその多くは正直いって企業にとってはあまり意味のない、まともに対峙するのは単に時間の浪費としか考えられないものも多いのである。 
私の経営していたマイクロ企業でもそうなのだからAppleおよびその最高責任者であるスティーブ・ジョブズ氏個人に当てた手紙やメールが膨大なものであることは想像できるしその処理が大変なことは理解できる。ましてやそのひとつひとつにジョブズ氏が目を通しているとは思えないし物理的に不可能だろう。 

今回のニュースは手紙を出した相手が9歳の女の子であったことをAppleが認識できなかったことから生じた不幸な一例だ。無論Appleのやり口は相手が子供でなくても気を悪くする受け答えであり企業イメージを失いかけない失態だが、コーポレートポリシーとしては一種の自動返信的な定型句の反応をしただけと思われる。 

問題はこうだ...。 
ある人から新機能などの提案があったとする。その事実を認識しつつ別の選択肢からであってもその機能を新製品に実装した場合、提案者側が特許申請をしているかどうかはともかくアイデアの盗用と訴えられる場合があり得る。だから企業側としては慎重にならざるを得ない。 
とはいえ、今回の提案者がもし私だったら当然のこととしてニュースにもならないだろう(笑)。 

実は数年前、私もスティーブ・ジョブズ氏に直接手紙を出したことがあるのだ! 
僭越ながら長い間のAppleユーザーとしてだけでなくアップルのデベロッパーとして活動していたその中で多くの矛盾点に行き当たった。約束事もあっという間に人が代わり後任者にはまったく引き継ぎがなかったり、米国本社から来る責任者たちにしても皆日本市場を大変重要だとリップサービスばかり繰り返すだけで実際の仕組みを作れないことに大きなフラストレーションを感じていた。 
無論それまでにも当時のアップルには機会があるごとに多くの提言もしてきたし苦情も申し上げたが一向に具体的な成果として見える形にはならなかった。 

ある時ある人に言われた。「外資系企業は本社に直訴しないとダメだよ」と...。 
それならダメもとで最高責任者であるスティーブ・ジョブズ氏に直訴してみようと決心したのである(^_^;)。無論現役のデベロッパーの社長としては勇気のいることだ。誰も好んで嫌われるようなことは言いたくないが、また何か行動を起こさなければ何も変わらない。ただただ愚痴を言っているだけでは進歩もない...。 

ともかく文面を考えるのに一週間もかかったが、日本の市場性やデベロッパーの実情、そして問題点や提案ならびに苦情を簡素に表現するのは簡単ではなかったからだ。そしてその和文を顧問弁護士事務所に持ち込み、きちんと英訳していただいた。 
ただし郵送に際して途中で紛失などもあり得るし、確実な方法をと考えて郵便物の経過を確認できる配達証明付きとした。したがってAppleには間違いなくこの郵便物は届くはずだ...。 

無論ジョブズ氏から直接返事が来るなどと言うことは期待していなかった私はあらかじめ以下3つの展開を予測していた(笑)。 

1.なしのつぶて 
2.内容はともかく何らかの返事が届く 
3.アップルコンピュータに内容が回る 

数日後に郵便物の追跡をやって苦笑した。インターネット上で確認ができるわけだがどうした理由か、その封書はAppleに受理されずに配達場所に持ち帰られたとある...。 
ちょっと心配になったが翌日再度確認してみると今度は間違いなくApple Computer社に配送済みという結果になった。ともかく届いたのだ。 

さてその後、どれほどの日数が経過したのか記憶にないが前記した3つの展開のうち、やはりというべきか...私の予測が当たった...。なぜならアップルのデベロッパーリレーションズから電話が入ったのである(笑)。「本社に手紙を出された件でお話しをしたい」と。 私は苦笑いしながら東京オペラシティタワーにあったアップルジャパンを訪ねた…。
その可能性が高いことを予知していたからこそ、本来はもう少し日本市場を牛耳るアップルコンピュータ社に対して厳しい指摘をすべき点も少々言い方に工夫したつもりなのだ(笑)。 

当時は社長が原田さんでそのワールドワイドデベロッパー直属の部長がHさんであった時代だが口には出さないもののアップルにとっては大変迷惑なことだったに違いない。たぶん本社側から「日本市場に関しての苦情はおまえ達で処理しろ」あるいは「こんな苦情を本社にまで出させるな」といったクレームがあったに違いないと私は睨んでいる...(笑)。 

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※東京オペラシティタワーにあったアップルジャパンのオフィス


結局その部長と2時間以上も話し合いをしたが、そもそも彼らの裁量で結論が出る問題ではない。「お互い頑張りましょう」で終わらざるを得ないではないか...。 
そして全体の話を総合的に判断するなら私の手紙はスティーブ・ジョブズ氏本人の目に触れることはなかったと思われる。 
しかし私は「日本のデベロッパにも五月蠅いのがいる...」。また機会があればいつでも直訴するぞ...という認識が少しでも伝われば一矢報いたことになるのではないかと考えたものだ。ともかくやるべきことはやったのだ。 

申し上げたいことは時代は違うもののデベロッパーからの手紙すらジョブズ氏の目に届かないとすれば一人のユーザーの手紙など通常届くことはあり得ないだろう。企業としてその内容はともかく返事を出したそれ自体はAppleのリーガルポリシーに沿った自動返信的なメールと考えるべきであり、企業としての機能がきちんと働いているというべきなのかも知れない。 

しかしこれがIBMとかSONYだったらこんなにニュース報道されるとは思わない。そこがAppleの凄さであり弱みでもある。ただし誤解があっては困るが今回の対応を当然のことだと申し上げているのではない。Appleだからこそニュースになってしまうという難しさを含んでいると思うだけだ。 
Appleでは今回の反省に立って子供達からの問い合わせに対応する際のコーポレートポリシーを修正する方法を話し合ったとされるが正直これは大変難しい問題だ...。 

もし子供の手紙(メール)のケースに限り真摯に対応してくれると言うのなら、私は子供のスタイルでもう一度スティーブ・ジョブズ氏に手紙を書いてみたい。 
いや...これは皮肉ではない。ある意味、ビジネスパートナーともいうべきデベロッパーからの手紙を横へ置き、子供からのメールだけ特別扱いするというのは片手落ちというより単なる売名行為としか思えない(笑)。やはりAppleという...ある意味特殊な企業イメージを存続させるためには困難だとしても予算と人をきちんと用意し、全世界からのメッセージを正面から受け止めるAppleらしい見直しを考えて欲しい。 
それらの中には必ずやApple自身をよりよくする為のヒントが多々含まれているはずだからでもある。


私製アップルロゴ入り「レターヘッド」物語

ここに薄い一冊のレターヘッドがある。A4版で20枚組となっているこのレターヘッドには、左上に6色のアップルロゴマークが燦然と輝いているが、実はこれは私製なのである。今では考えられないアップルロゴ入りレターヘッド物語をお送りする(笑)。


そもそも個人はもとよりだが企業にしても、アップルロゴ入りの何か...を作ることは無理でありほとんどその可能性はない。Appleは良い意味で自社のロゴの使用を厳正に管理し、貴重な財産とみなしている。したがって一部の例外を除いて、一般企業が自社製品にアップルロゴを入れることは許されない。 
そのような大変厳しい使用制限のあるアップルロゴがなぜ私の作った私製レターヘッドに輝いているのか...。それが今回の物語である。無論数多いAppleユーザーの中でも個人でこうしたAppleロゴ入りアイテムを、それもオフィシャルに作った人はほとんどいないという...。 

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※1983年に作った私製Appleロゴ入りレターヘッド。無論不正な品ではない(笑)


さて、Macintoshが登場する直前の1983年12月10日と11日の二日間、東京の後楽園展示会場で「第3回Apple Fest東京」という展示会が開催された。 
その2,3ヶ月前だと思うが相変わらずイーエスディラボラトリ社に出入りしていた私に、社長のTさんから意外な誘いがあった。「Apple Festという展示会にブースを持ってみない?」と...。 
当時の私はサラリーマンだったし、AppleやAppleIIになにがしかの関係はあっても、それらを仕事としていたわけではなかった。 
「ビデオデジタイザを専門に展示して欲しいのよ! 勿論ブースの出展料は取らないからさ...」との話。思わず私は膝を乗り出しOKしてしまったのである(笑)。 
そしてブース展示をより楽しくする秘策を考えはじめた。それは私のブースしかない何かを置きたいと考えたのだ。確かにApple IIによるビデオデジタイザのシステムを展示し、それに関わるソフトウェアやハードウェアの話ができるのは私のブースだけだろう。しかしもうひとつ、来場者が喜んでお土産に買っていただける何かが欲しかった。 

考えた末にある種のアップルグッズを作りたいと思い至った。それまでにもマグカップやピンなどはあったが、私が作れるもので喜んでもらえるものは何か...。結局会社の近所の印刷所に依頼し、アップルロゴがカラーで入ったレターヘッド、すなわち便箋を作ることになったのである。 
まずはその旨をイーエスディラボラトリ社の社長に申し入れ、正式な許可を受けた。当時イーエスディ社はAppleの日本総代理店であり、ここに正式許諾を受ければそれはオフィシャルなものであった。しかし覚悟はしていたもののカラー印刷の少量生産は大変金がかかることが分かった。 
結局当時(約23年前である)の金で140,000円もかかることになった。売れても売れなくても作る費用は私の個人負担である(^_^;)。そしてレターヘッドというものは通常50枚とか100枚をひと束としてつづるものだが、それでは一冊あたりのコストがかかり、高くなり過ぎて誰も買ってくれないものになってしまう。仕方がないので一冊あたりの価格を下げるため結局20枚綴りになったのだった。 

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※後楽園展示場で開催された「Apple Fest」会場の様子


実はApple Festの初日、考えもしないドラマが私を待っていた。 
当時アップルジャパン2代目社長の福島氏が私のブースに立ち寄ったのである。一通り展示品を眺め、早速レターヘッドに目をやり「このロゴの使用は許可をとったのか」と質問してきたのだった。まあ...福島社長としては当然だろう。 
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※「Apple Fest」に出展参加した際の私のブース。2種アップルマガジンが平積みしてある左(ビデオカメラの右)に積んであるのが私製Appleロゴ入りレターヘッドである


私も意地が悪いから福島社長の顔は雑誌などで知ってはいたものの「失礼ですが、どなたさまですか?」と聞き返した。そして「アップル日本総代理店のイーエスディラボラトリ社に許可を受けた。そちらに確認し、問題があればイーエスディラボラトリ社にクレームをつけてくれ」と対応した。事実私は正式に許可を受けたのだから...。 


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※2日間の開催中ブースはかなり混雑した。手前は当時のApple IIユーザーならお馴染みのメディアセールス・ジャパン社ブース 

しばらくして再度アップルの社長の姿が見えたとき、話がこじれるのかな...と思ったものだが、社長はすっと私のブースに近寄り「このレターヘッドを○冊ください」と茶目っ気を見せて買ってくれたのにはホッとしたのと同時に嬉しかった...。無論その後に何らの問題も生じなかった。 
しかし当時もわざわざ金をかけてこのようなものを作ろうなどと考える者はいなかったのだろう。制作費の元手を取るまでにはいたらなかったが多くの方たちに喜んでいただけたことは今でも良い思い出となっている。そして現在、たった一冊だけ...そのレターヘッドが手元に残っているというわけだ。その福島正也氏は2002年9月17日に永眠された。あらためて...謹んでご冥福をお祈りしたい。 

初めてのことばかりだったがブースにおけるお客様とのやり取りやデモの仕方などなど、この2日間は後に私がMacWorldExpoに出展や自社のプライベート・ショーなどを開催するとき、大いにそのノウハウは役立ったのである。

全国Mac行脚の旅...私のエバンジェリスト物語

アップルはエバンジェリストとかエバンジェリズムいう名を使うのを一時止めたという。しかし1990年から数年の間、私は文字通り自社やその製品の宣伝という意味合いを越えてMacのエバンジェリストとして全国を飛び回った。まるでデビューしたての芸能人のようだったが、その多くは大変気苦労の多い旅だった。


残念ながら私には芸能人と違ってマネージャーはいなかったが、当時私の全国行脚の1/3はキヤノン販売札幌支店におられた熱心な課長が根回しをしてくださったおかげである。特に北海道に関わるイベントはほとんどその方が企画されたものと記憶している。
ともかく、創業してまもない私は北は北海道から南は広島まで、かなりの頻度で全国を飛び回っていた。それも常に大荷物を担ぎながら.....。

当時の私たちの使命は市場の拡大だった。後年そのような簡単な図式通りに事がはこぶほど甘くはないと思い知らされたが、1990年から1993年頃までは「Macintoshの普及が我々デベロッパー自身をも大きくする」ということをある種の旗印に日々努力していたように思う。したがって要請があればどこへでも駆けつけてセミナー、講演、講習などをさせていただいた。

北海道は札幌を中心に旭川、釧路、帯広。本州は仙台、山形、金沢、静岡、神奈川、名古屋、大阪、京都、福井、広島などが多かったと記憶している。もちろんその合間をぬって東京ではアップルコンピュータの依頼で大手町の一部上場企業の役員達にMacintoshの優秀さとそのビジネス上の利点、可能性などをプレゼンしたり、各種の展示会やセミナーなどに飛び回っていた。

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※1991年1月23日、札幌市内の企業での講演風景。当日は季節柄雪に覆われていた...。


丸の内のとある大企業では、アップルコンピュータの営業担当者と部屋に入るとそれまでパーソナルコンピュータなどとはまったく縁のないといった年配の役員クラスの人たちが並んでおり、ほとんど興味を示してくれないケースも多々あった。どうも、なにがそこで起きているのかが分からないらしいのだ(笑)。

さて、そんな訳でアップルコンピュータ社からは相変わらず「市場が大きくなればお互いに良い目を見られるのだから、プレゼンお願いしますよ...」といった依頼が本当に多かったものだ。だから、いまのアップルも自社努力だけで一人前になったのだと思っているなら、それはとんでもない間違いなのだ...ホントに(笑)。
こう言っては何だが.....当時の私は比類なきアップルのエバンジェリストだったのである。

そして当時はまだ我々の社名を知る人は少なく、Macintosh専門雑誌や著書から私の個人名を知っていただくことが多く、もともと企業としての宣伝になることは少なかったと記憶している。なによりも講演をやろうがセミナーをしようが、一部のケースを除けば交通費はおろか宿泊代も持ち出しという変な時代であり、まさしくエバンジェリストはボランティアと同義語だった。

それにも増して困ったことは機材に関することだった。私の意気込みは「日本で.....いや、世界でいま一番新しく進んでいる面白いことを見せたい!」という意気込みだった。
最新のデジタルビデオ技術や大量の画像データを気軽に扱える画像データベースなどなど、自社開発製品だけでなく、これから多くの注目を集めるであろうと予想し、アメリカから直接購入した3Dソフトウェアやアニメーションソフトなどを揃えていた。しかし当時の最高峰モデルがMacintosh IIciあるいはMacintosh IIfxであり、いま考えてもよくもまあそれで色々なことをやったものだと我ながら感心するほどの豪華メニューだったのだ。

ただし、それだけの最新テクノロジーを見せるためにはソフトだけでなく、それなりのハードウェア環境を揃えることは必須だった。例えば高速大容量のハードディスク、フルカラーボード、圧縮・伸張ボード、そしてビデオ機材などなどだったが、ハードディスクひとつをとっても高価であることはともかく、当時それらはとてつもなく大きく壊れやすい上に重かったのである。

最新の設備調達を相手先に求めることはできないまでも、国内で一般的になりつつあるハード、例えばフルカラーボードの用意をしていだくことやMacintosh本体のメモリの最低必要容量などを担当者と何回も電話やFAXで打ち合わせてから出かける。それでも私の鞄はいわゆる出張に必要な身の回り品一式の他に、かならず大きな布製の鞄を持参することが一般的となっていた。

しかし、先方に出向けば必ずといってよいほど、あれほど打ち合わせをした機材がそろっていなかったりすることもしばしばだった。
Macintosh本体のメモリが足らず、思うようなプレゼンができずに大変な思いをしたことも多々あり、その結果次の出張にはより何でもかんでも持ち込んでしまおうと荷物は膨れるばかり...。そして集まるはずのお客様が集まらず、何だか売れない芸能人の悲哀を感じるような一日があったかと思うと、予想外の集客で大変な盛り上がりの一日もあるという、変化が多い日々が続いたのだった。

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※北海道釧路のフィッシャーマンズワーフにおける当時の展示会自社ブース


そんな中、一番待遇がよかった...というと語弊があるが、良い思い出として記憶に残っているのは旭川市に招かれたときだった。
100名ほどの地元のデザイナーさんにお集まりいただくことになっていたが、私が小雪が降る中、空港に降り立ち、いつものように肩にめり込むような荷物を担ぎながらタクシー乗り場を探そうとしたとき、なんとキヤノン販売の課長と市の担当者の方たちが黒塗りの車で待っていてくれたのだ。
「先生...先生」と呼ばれるのには閉口したが...(笑)。

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※1990年、旭川でのデザイナー向けセミナー風景。セミナー終了後も最新機材の回りには参加者の多くが集まった


そういえばそのセミナー後に関係者の方々から接待を受けた…。それは恐縮しながらも初めての土地に1人で向かった私としては心温まるありがたいことだったが反面とても困ったことに直面した。それは食事のとき北海道ならではの新鮮な魚介類がずらりと列んだのである。特に生牡蠣は沢山あったように記憶しているが、実は私はその魚介類が大の苦手なのだ(笑)。
とはいえゲストの私が箸をつけないと同席の方々が食べ始められないといわれ、仕方なしに無理して生牡蠣を噛まずに喉を通した…。

帰社してスタッフにその旨の話をしたところ、セミナーの企画担当者の方から電話をいただき「松田さんの好物は?」と聞かれたという。勿論スタッフは私の偏食と好みを知っているから魚介類や肉食はダメという話をしたというが、どうやら何かの行き違いか、私の苦手というあれこれが好物として伝わったらしい(笑)。
まあまあ、今となっては楽しい思い出ではあるがその場ではどうしようかと本音で困惑したものだ。

それから山形の東北芸術工科大学に講演にうかがった時、その大学の設備にも驚かされたが、なんと学校の設備であるゲスト用の宿泊場所に温泉があったのだった。
しかし、なかなか100%満足できたケースは多くはなかったもののどのような仕事も回数を重ねる毎にノウハウが蓄積してくることは確かである。

これまた数年前の大阪でのイベント「iWeek」に出展し、そこでプレゼンテーションを数回やらせていただいたとき、主催者側から「松田さんは15分といえば15分、30分といえばきっちり30分でまとめられるのは凄い...」とお褒めの言葉をいただいたが、やはりそれは全国行脚のおかげだと思っている。

エバンジェリストはもともとその労を報いられないことが多いものだ(笑)。前記したアップルの「市場が大きくなればお互いに良い目を見られるのだから、プレゼンお願いしますよ...」といった声がいまだに耳元に残っているが、残念ながらいまだに "良い目" に遭遇はしていない(笑)。しかしその数年間、夢中で全国を飛び回ったあの頃が確実に今の私を支えている。


あのPIXAR社から株主総会案内が届いた

昨年11月にスティーブ・ジョブズ氏がCEOであるアニメーションスタジオとして有名なPIXAR社の株を一株手に入れた。その後ご承知のようにPixar社はあのDisneyと合併することになった。今日そのPixar社から株主総会の案内と委任状が届いた! 


同封されている案内によればPixar社の株主総会は5月5日の午前10時から、サンフランシスコ近代美術館(SFMOMA) Wattis シアターで開催されるとのこと。サンフランシスコのMacworld Expoに出向かれた方ならお分かりだと思うがロケーション的には毎年そのMacworld Expo会場となっているMosconeコンベンションセンターのすぐ近所である。
 
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※MOSCONEセンター付近から撮影したSFMOMA(写真上中央の煉瓦の建物)。写真下はSFMOMAから見上げた空。共に2002年筆者撮影


SFMOMAで株主総会とはAppleと勝手が違うが、アニメーションスタジオであるPIXARそして場所がSFMOMAのWattis シアターだけにスクリーンに映し出す様々な演出があるのかも知れない(^_^)。そして所有の株券はすでに欲しいとしても購入できない貴重なコレクターアイテムとなった...。 

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※筆者所有のPIXAR社株券


Appleの株主総会同様、一株株主がのこのことアメリカまでその為だけに出席できるわけではないがどのような総会になるのか興味津々である。資料のあちらこちらに目立つ"merger (合併)"という文字が象徴するようにその決議内容の多くはディズニー社との関係に終始するのだろうが...。 
ともかく同封書類の表紙にはAppleのそれには見られないスティーブ・ジョブズ氏のサイン(無論印刷だが)が見られるのは興味深い。 

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※PIXARの株主総会案内状の表紙。中央下にあるサインがPIXAR社CEOスティーブ・ジョブズ氏のサイン


早速株主の義務を果たすべく指定されたウェブサイト上で委任状の行使を行ったが、さてPixarを内在したDisneyはどのように変貌するのだろうか。楽しみである。 

パソコン通信/NIFTY SERVEサービス開始前夜物語

先月3月31日をもって、商業パソコン通信としてのNIFTY SERVEが終了した。その役割はインターネットに取って代わられたわけだが、今回はそのニフティが開設される1987年当時の様子をご紹介しよう。


十数年前は良くも悪くもMacintoshとかパソコン通信に関する認知度は低く、私たちが昼飯を食べながらMacやAppleの話をし、ニフティでの出来事などを何のてらいもなく話したとしても特に問題はなかった。回りにいるほとんどの人にとってそれらの話題は興味の対象でなかったからだ。 

しかし思えば1992, 3年以降は様子がずいぶんと違ってきた。何故なら食事時に私たちの隣の席に座ったOLたちのクチから「ニフティサーブのID取った?」とか「貴方のメールアドレスは?」といった話題がささやかれ「Macのモニターが...」などという話題が聞こえた時にはたまげたものだ(笑)。したがって、公共の場でおちおち業界のうわさ話などはできなくなってしまったのである。 

ビジネスシーンのあらゆる場所で取り交わす名刺にメールアドレスが印刷されることもすでに当たり前のこととなったが、ニフティがネットワークビジネスを開始して現在のような大きな組織になるまでには当然、様々な出来事があった。 

現在のニフティ(株)はその設立時(株)エヌ・アイ・エフという社名だった。 
そのエヌ・アイ・エフ社はよく知られていたように、富士通と日商岩井の合弁会社として設立され、その事務所は東京の千代田区麹町...ちょうどダイヤモンドホテルの近くにあり、私たちはニフティの運用開始に至るまでに何度もエヌ・アイ・エフ社に集まり、打ち合わせを繰り返したものだ。 

ニフティの会議室のシステムをどうすべきか、我々が初代シスオペになるフォーラムの構造や機能、そしてその運営・管理に至る諸々のことを話し合うためだった。 
我々がニフティを訪問できるのは、それぞれの勤めを終えてからだから、当然夜になる。したがってエヌ・アイ・エフ社の正面玄関から入るより通用口から出入りすることがほとんどだった記憶がある。 

そして、その後同社の重役になられて既に退職されたYさんらと膝を交え、夜遅くまでミーティングを開いたがそのような時、かならずと言ってよいほど弁当を出していただき、それをほおばりながら熱心な打ち合わせを続けたことを昨日のことのように思い出す。 

思い出す...と言えば、1987年4月15日から正式な運用が始まる前日の夜まで、我々シスオペはエヌ・アイ・エフ社に集まり、自分が担当するフォーラムのメニュー作りなどを相談しながら開始直前まで設定やチェックを行っていた。 
私はMAUG-Jのグラフィックを扱うフォーラム担当というポジションでFMACCGというフォーラムを任されることになった。ちなみにこのフォーラムはその後、私自身が会社を設立するに際して専用フォーラムとして運営を続けたが、インターネットに自社のウェブサイトを運営するに至り、その契約を終了した経緯がある。 

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※1987年初頭に配布されたNIF社のCompuServeへのアクセスガイド。社名を1986年9月に前(株)から後(株)に変えた都合上、社名部分をまだシールを貼ってしのいでいた時期だった


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※NIF社が麹町時代の同社の名刺


ともかく私たちも若かったが当時のNIF社からNIFTYにいたるまで同社の関係者たちも若かった。なにしろ徹夜続きの仕事だったのだろうがNIFTYのある担当者は髪はぼさぼさでひげ面なのはともかく、ワイシャツの襟首と袖口が明らかに大きく汚れているのだ(笑)。たぶん数日風呂にも入れず、シャツを取り替えるという意識もすっ飛んでいたのではないだろうか...。 
そうした人たちが悪戦苦闘したおかげでまがりなりにもNIFTYは船出し、フォーラムはスタートでき、多くの人たちに多大な影響を与えることになる。 

あらためて申し上げるほどのことでもないのだろうが、フォーラムの会議室で会話を交わした人たちとは不思議に会いたくなるものだ。そしてオフラインと称して実際に会ってみるその楽しさは経験したことのない人には到底分からないものかも知れない。事実、FMACCGのアクティブメンバーさんたちを対象としてお茶の水にある山の上ホテルの一室でオフラインを開き、参加してくださった方たちと楽しい一時を過ごした思い出などは忘れられない。 


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※御茶ノ水「山の上ホテル」で開催したFMACCGフォーラム・オフラインパーティー。写真上の中央ネクタイ姿が筆者


無論良いこと、楽しい事ばかりではなかった。幸い私のFMACCGでは目立ったトラブルは無かったが、日々のフォーラム運営を行う中で会員同士の喧嘩、セキュリティがらみのトラブル、果ては脅迫メールが舞い込んだりと様々な問題が生じた。しかしNIFTY側のイニシアティブのおかげもあり我々シスオペやサブシスオペたちはそうした多くの出来事からノウハウを取得し問題解決の手法やいかにしたらトラブルを減らすことができるか等々を学んでいった。
 
そうしたNIFTY時代に培ったテクニックがそのままウェブサイト運営やビジネス上のメールの書き方といった具体的なことに至るまで役立っていると思う。 

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※会員勧誘のために大量に配布されたイントロパック


役だったと言えば...このニフティの存在が多くの人たちを結びつけ、人の輪を広げ結果としてMacintoshを仕事とするひとつのきっかけと出会いを生むことになったのも確かである。 
現在例えばMixi(ミクシィ)といったソーシャルネットワークビジネスも盛んだが、そこに出入りしている方々の多くがNIFTYの時代から活躍していた人たちであることに驚く...。そのやり取りを眺めていると私自身もそうだがNIFTY時代のフォーラムの代用としてこれらを捉えているように思えるふしもあってNIFTYが私たちに与えた影響力の大きさを再認識せざるを得ない。 

当時の私たちにとってNIFTYは単なる情報交換の場だけでなく、人との出会いと交わりの場であり、それぞれのフォーラムでは一緒に喜び怒り問題解決を図るという何か人生の一端を担うまさしく生きていくためには不可欠の共同体だったのだ。

現在はテクノロジーもより進化し、環境も良くなったはずだ。そして当時のフォーラムでやりとりできるレベルをはるかに超えた情報のやり取りも可能になったが果たして我々はそうした日常においてはるか昔のNIFTYフォーラムを超える豊かさを体現できているのだろうか...。 



紀田順一郎先生の古稀お祝いと出版記念会に出席

昨日、4月14日の夕刻に東京新宿区にある日本出版クラブ会館において紀田順一郎先生の古稀のお祝いと出版記念の会が催された。場違いだと思いながら末席にてもお祝いをさせていただこうと会場に向かったが150名以上のお歴々たちで大変な熱気だった。


紀田先生とのお付き合いはすでに20年を超える。そのきっかけはMacintoshだったがそれらの情報交換をファクシミリでやりとりした一部が「Macの達人」(技術評論社刊)として一冊の本の形に残ったことは私にとって最も嬉しい出来事であり自慢のひとつだ(^_^)。考えてもみていただきたいが紀田先生と共著の機会を持つなど普通に考えればあり得ないことであり、当時の私がいかに怖いもの知らずだったかの証明かも知れない(笑)。 

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※1989年1月25日初版「Macの達人〜紀田&松田のFAX交遊録」(技術評論社刊)


その中身はMacintoshの最新情報が主であるのは当然としても健康のこと、映画のこと、食事のこと、そして本の事などなど多義に渡る...。 
そして私が紀田先生から受けた影響は多大なものであることが20年も経った今日ひしひしと分かってくる。 
もともと本が好きで雑学的に手当たり次第に読みふける一人だが、古代中国の歴史に興味を持ち、司馬遷の「史記」などを読むようになったこと、ラブクラフトをあらためて読破したこと、諸橋版の大漢和辞典を手に入れたことなどといった形として残ることだけでなく先生のダンディズムかつモダンな考え方といったようなものに大きな影響を受けている。 

しかし初めてお目にかかった時から今日まで先生は大変気さくな方であり、前記したファクシミリによる情報交換を続けながら(無論近年は電子メールになったが)、幾たびか私の会社の発表会といった際にも講演などのご協力をお願いしてきた。 
それもひとえにMacintoshユーザーという共通項があったからだと思うが紀田先生はひとたび作家であり書誌学や評論というご本職のお立場ではあの荒俣宏氏も「先生」とお呼びになる巨人なのである。なにかこれまで「先生、先生」と追いかけ回していたような感がある私はあらためて冷や汗ものだが同時にそうしたお付き合いをさせていただいた "幸せ者" だとつくづく思う。 
今日の記念の会に出席してその感を一層深くした次第だが、会場に集まった方々の多くは出版関連会社の社長たちであり、そして荒俣宏氏をはじめ作家の逢坂剛氏やテレビ番組「王様のブランチ」で書評を担当している松田哲夫氏などお歴々の顔また顔なのである...。 

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※中央横顔が紀田順一郎先生


私にはやはり場違いではあったが、その同じ空間に同席できたことで大いに満足だった。無論短い時間ではあったが紀田先生と奥様にお祝いを申し上げることが出来た。 

さて今回の紀田先生の古稀お祝いと出版記念の会は発起人の方のお話しによればかなり異質なものだという。確かに会場に入ったら即パーティーといった事ではなく嬉しいことに第一部は映像を交えた紀田先生自らの講演があったことだ。 

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※そして予定以上の参加者があったためだろうか、会場内は立ち見が出る有様で急遽席を増やすという満員御礼状態だった


第2部は立食パーティーとなったが何といっても目玉は出席者限定仕様の署名入り著書をいただけたことだ。 
出版記念の名のとおり4月14日同日付けで刊行された紀田先生の新刊書「戦後創成期ミステリ日記」(松籟社刊 ISBN4-87984-242-7)の特別版が150部限定で手渡されたからだ...。 
これは紀田先生のファンである一人としては勿論、書籍を好む人たちにはたまらない企画である。無論本そのものは市販されるわけだがこの特別版の箱にはしっかりと「特別版(限定150部)・非売品」と印刷されている。 
その装丁は黒と赤を基調としてデザインされた素敵なものでフォトレタッチをされたのだろうか、つなぎ目が絶妙に隠された形で何と紀田先生の若かりし頃のお写真が両面に配されている。 

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※"戦後創成期ミステリ日記"


なぜなら本書は紀田先生が商業ジャーナリズムに登場する以前、慶應大学推理小説同好会や「密室」などの同人誌に執筆した書評、評論、時評などを収録した貴重な戦後ミステリ創成期のクロニクルなのである。 
この記念すべき一冊は汚さずに保管し、読むためには別途市販のものを買ってこようと思っている。

さらに紀田先生の一ファンとして嬉しい発表もあった。それは先生が横浜市中区山手町にある「神奈川県近代文学館」の館長に就任されるというお話しだった。一層お忙しくなるのだろうがこれからも健康に留意されてますますのご活躍をお祈り申し上げたい。 

■紀田順一郎の四季
■神奈川県近代文学館


我が国最初のMac専門誌「MACワールド日本語版」顛末記

日本のMacユーザーが米国発刊の月刊誌「MACWORLD誌」に多大な期待を寄せていた時期がある。それはまだインターネットもない時代だったから我々は情報に飢えていた。そんな1986年7月、日本で始めてのMacintosh専門誌が発刊された...。 


今回はこの「MACワールド日本語版」を通して、当時の特異な状況を振り返って紹介してみたい。 
愛機のMacintosh 512KをMacintosh Plusにアップデートすべく注文をしていた頃の1986年7月1日に「MACワールド日本語版」は月刊パソコンワールド誌の別冊という形で出版された。季刊誌という話だった。 

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※「MACワールド日本語版」創刊号表紙


私は1986年春頃から頻繁に千代田区三崎町の消防署近くにあるピーシーワールド・ジャパン編集部に出入りするようになっていた。 
それはたまたま同誌にMacintosh関連記事を数回投稿したことが縁で、ある日の午後に始めて編集部に呼ばれ、出向いたことがきっかけだった。そこで私は若く精悍な、そしてキラキラした目をした編集長の高木利弘さんに紹介され、夏に日本で始めてとなるMacintosh専門誌を立ち上げるので手伝って欲しいとの依頼をいただいたのである。 
無論お手伝いといっても私にできることは原稿を書くことだったが、すでに書きためてあった三編の原稿が「MACワールド日本語版」創刊号に掲載されることとなった。 

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※私が「MACワールド日本語版」創刊号に寄贈した記事の一部


当時は英語が苦手であっても新しい情報を知りたい一心で英語版の「MACWORLD誌」を取り寄せていたが、その「MACWORLD誌」にしてもリアルタイムに入荷するものではなかった。一ヶ月は確実に遅れるだけでなく、その価格も現地の数倍以上もの定価で売られていたという時代だった。だから、日本語でMacintoshの情報、それも最新情報を定期的に読めるということが当時のユーザーにとってどれだけ嬉しいことだったか...いまのユーザー諸氏には想像もつかないのではないかと思う。 

ともかく、7月1日に創刊された「MACワールド日本語版」は編集長の意向を酌み、それまでのパソコン関連雑誌にはなかった大変スタイリッシュでお洒落な表紙デザインでも注目を浴びた。勿論、その表紙には登場したばかりのMacintosh Plusが鎮座している。 

さて、その「MACワールド日本語版」創刊号をざっと見渡すと、これまた今では考えられない面白い内容が目につく。 
まず冒頭から見開きでアップルコンピュータジャパンの広告があるだけでなく、その次ページには折り込みおよび見開き形式の広告、それも「祝 MACワールド創刊」と記され、中央に大きなアップルロゴを配したこれまたアップルコンピュータジャパンの広告があることだ。 

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※「MACワールド日本語版」創刊号巻頭を飾るアップルジャパンの広告


さらに特筆すべきはそのページを見開くと、そこには4ページに渡ってMacintoshの生産工場内部が紹介されている。当時、25秒間に一台の割合でMacintoshが生産されていたという工場で出荷を待つ沢山のMacintoshの姿は圧巻である。 

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※「MACワールド日本語版」創刊号のアップルジャパン広告〜Macintosh生産工場写真


それから広告ページが終わり、目次の前のページにはなんと当時のアップルコンピュータジャパン株式会社の代表取締役であったアレクサンダ・D・バン・アイック氏が写真入りで「MACワールド日本語版」の創刊を祝うメッセージを載せている。

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※「MACワールド日本語版」創刊号にアップルジャパン社長の祝辞が掲載


こうして満を持し、「MACワールド日本語版」は世界最大のコンピュータ関連出版社であるCW Communications社との契約にもとづき、同グループが出版するMACWORLD誌の翻訳権を取得したという旗印のもとで華々しく登場した。しかし読者は無論のこと、関係者の大きな期待に反して同誌はトラブルに巻き込まれていく。 

創刊3ヶ月後の「MACワールド日本語版」2号目が10月に出版された直後、"MACWORLD"という誌名に対して米国よりクレームがあったため、次号からその書名を「季刊MAC+」と改名するというニュースが飛び込んできた。門外漢には詳細な理由や契約事情は知るよしもないが、創刊したばかりの雑誌の名が早くも変更になるのは大きなダメージに違いない。 
翌年の1987年1月に発刊された「季刊MAC+」誌はその号数表記がNO.3となっているのが、私には出版側のささやかな抵抗のように思えたものだ。 

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※「季刊MAC+」誌創刊号?の表紙


しかし無責任な言い回しとなるが、一度かみ合わなくなった歯車は日増しによりかみ合わなくなっていくものらしく、私たちの期待を一心に背負った「季刊MAC+」も様々な問題が生じて高木さんは編集長の職を離れることになる。 
内輪の話をあからさまにはできないので詳細な説明はご容赦いただくが、その後をどうしたらよいか、我々に出来ることは何か...などなどを私の勤務する会社の応接室に当の高木さんを始め、関係者が集まり、新たな出版の可能性をあれこれ模索したことを昨日のように思い出す。その場にいた全員がせっかく灯った日本語によるMacintosh情報誌という火を消したくないと切に考えていたからだ。 

しかし「人間万事塞翁が馬」とはよくいったものだ。その高木さんが次に就任したBNN社においてその後のMacintosh専門誌のスタンダードとまでいわれたあの「MACLIFE誌」を立ち上げることになるのだから...。 

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※「MACLIFE」誌創刊号表紙


この「MACLIFE誌」も残念ながらすでに廃刊になっているがMacintosh専門誌ならずとも関係各誌に多大な影響を与え、長きにわたりパソコン雑誌のスタンダード...目標とされるまでに至った。 
私自身も一時期はこの「MACLIFE誌」をホームグランドと考え、編集部からの依頼だけでなく多くの企画を持ち込み、特にグラフィック関係の最新情報を提供し続けたものである。その影響...結果として人と人との繋がりが広がり、結局Macintoshのソフトウェアを開発することを仕事にしてしまうのだから時代の勢いというものは凄いと思う。 

私たちは知っている。一冊の雑誌の創刊・出版にも、そこには多くの人たちの期待や野望が渦巻き、喜びと悲しみといったドラマがあったことを...。ある意味ではそうした人間たちのドラマがMacintosh業界を単なる無機的なものではない、血の通ったものにしていったといえるのかも知れない。そして、ドラマは決してMacintosh誕生やApple社だけのことではなく、業界は勿論のこと、ユーザーを巻き込んだ形で日々、そして多々存在することをあらためて知っていただけたらと思う。




アップルビジネス昔話し〜ベストプロダクト賞副賞は中古マック

私はMacintoshが好きだ。だからそれを仕事にしてきた。またアップルコンピュータという会社も大変魅力的な会社だからこそ長いお付き合いをさせていただいているが正直「なんだかなぁ...?!」という面を多分に持っている不思議な企業でもある(笑)。 


私が営んでいた会社は小さいながらも様々な賞をいただいた。出版社からいただいたこともあるしApple本社から表彰されたこともある。 
今回はアップルから初めて賞をいただいたときの思い出を紹介するが、時は1992年4月のことだった。すでに14年も前のことだし関係者もすでに在籍していないから、時効としてお話ししよう(笑)。 

「アップルのTさんからお電話です」の声で私は受話器を取った。電話の向こうでアップルのマーケティング部担当者は「松田さん、おめでとうございます。実は今年の『アップルベストプロダクト賞』は御社の『たまづさ』と『グランミュゼ』に決まりました」と矢継ぎ早にまくし立てた。 
一瞬何のことかと分からなかったが、聞けばその一昨年あたりから、その年にアップルの市場に大きく貢献したサードパーティー各社の製品を「アップルベストプロダクト賞」として選定し、表彰することになったという。私は知らなかったが...(笑)。 

ともかく実質会社が活動を始めてから2年あまり、いうまでもなく賞というものに縁があるとは考えもしなかったので、それは正直嬉しかった。何しろ業界の総本山から賞をいただけるというのだからその喜びは察していただけるものと思う...。 
電話口の声は続き...「近々、認定書と副賞をお持ちしますのでご都合を聞かせてください」とのこと。なんと副賞はMacintosh本体だという。それもいままで無かった一企業二製品がダブル受賞したということなので、2台のMacintoshをいただけるという話しに私は舞い上がった。 

さて4月28日の当日、その約束の日時にアップルコンピュータのマーケティング部から顔なじみのお二人がなんとMacintoshを抱えて来社された(^_^)。抱えて...である...。 
私は「賞をいただいたこと」は喜びながらも、アップルって私たちより大きな会社だったよなぁ...と思わず心の中で問いただすほど、その場は違和感のある雰囲気となった。正直目が点となった。 
何故か。 
まず副賞のMacintoshは「Macintosh Classic」二台だったが、それは良い。ありがたいことだ。しかし、担当者が持ち込んでくれたそのMacintoshは新品ではなかった(^_^;)。化粧箱に入っているのではなく、キャリングバックに収納されたそれは数カ所、あきらかに汚れがある...。 
いただいて文句をいうのも何だが...賞品に中古品をそれと分かるような形で持ってくる企業って他にあるだろうか?  
そして私の不信感は賞を讃えるはず...アップル曰くの"認定書"を見て頂点に達した! 
それはアップルのレターヘッドにLaserWriterで印刷された単なる手紙だったからだ(爆)。 

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※これがいただいた本物のベストプロダクト賞認定書(笑)。実物は用紙セットが甘かったのかちょっと右上がりに曲がっているが補正してある(爆)
 

日本法人とはいえ、アップルコンピュータという世界的パーソナルコンピュータのメーカーから正式にいただく賞であり、特に我々はアップルというかMacintoshのソフトウェアを専門に開発するために設立した組織であるからしてそれは名誉である。ともかくその認定書は日本語であっても英語であっても、もっと証書・賞状らしいものであることを期待した私がおかしいのだろうか(笑)。 
別に金箔で飾られたものを欲しいとは思わないが、せっかくだから額に入れ、応接室に飾っておけるほどのものを期待していた私は間違っていないと思うのだが...。 

何故このような事が起きるのか? 想像するに、当時のアップルはそんな規模の会社だったのだ。 
当時のアップルコンピュータは我々がイメージしているよりはるかに零細企業的発想しかできない組織だったのである。予算的にも権限的にも。そして私の持論だがAppleという企業は現在も「偉大なる中小企業」なのだ。そうした見地から物事を見なければAppleのやることなすことがなかなか理解できないと思う...。 
だから、当時の担当者たちは疑いもせずに精一杯のことをしてくれたのだろうが、一般的なビジネス社会の常識(これが問題なのだが)からいわせれば、それはまさしく非常識きわまりない行動となった。その上にユーザーは勿論のこと、デベロッパーの期待は大きいときているからますますギャップが大きくなる。 

したがっていただいたアップルベストプロダクト賞の認定書は額に入らなかったし、小さな応接室にも飾られることはなかったが、結果論として他の賞以上の思い出が残った。いや、これは皮肉ではない(^_^)。 
今となっては6色のアップルロゴが印刷されているレターヘッドの方が貴重かも知れない(笑)。

今年(2006年)...4月1日、Apple Computer社は創立30周年を迎えた。30年を節目としてさまざまな歴史的考察が発信されている。そしてAppleという「企業文化」云々などという話題もあるが、人ごとならいざ知らずこうした不条理を多々体験した当事者から見ればきれい事ばかりも言ってはいられまい...。 
それらは「企業文化」などどいった話ではなく、悪い意味での「企業体質」が露見しただけの話なのだ...。しかしまあ、多くの欠点を埋め合わせてもなお魅力が上回る企業がAppleなのだ!だから...私は相変わらずMacintosh関連の仕事から足抜け出来ず、MacやiPodを買い続けている。困った会社である(笑)。

Appleロゴデザインとその変遷

Appleはコンピュータ業界はもちろん、音楽や映像、デザインやポップカルチャー等にも大きな影響を与え続けてきた。今回はApple Computer社のシンボルであるアップル・ロゴの成立とその変遷をいくつかの資料を基に検証してみる。


Apple Computer社成功の秘密は様々な言われようがあるが、「アップル デザイン」の中でインテルのロバート・ノイスが「シリコンバレーのどの会社もPCを作れる可能性があったのに、どこもWozniakとJobsほどのビジョンを持ち合わせていなかった」と語っているのは興味深い。
さて早速だが、Apple Computer社が設立された直後の会社のロゴは、現在のような「囓りかけのリンゴ」ではなく、ペン画だったことはご存じだと思う。

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※Apple社の最初期ロゴ(「SoFar」より)

Apple Computer社はこれまでスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックにより設立されたという事になっているが、事実としてはもう一人の共同設立者がおり、彼...ロン・ウェインによってそれはデザインされたものだという。このペン画はリンゴの木に寄りかかっているアイザック・ニュートンを描いたものだった。
なお、ロン・ウェインはジョブズの依頼でApple II用のケースデザインも考えたという。しかし、そのデザインはジョブズの趣味に合わず、結局ウォズニアックの古い友人ジェリー・マノックに相談する。マノックはかつてヒューレット・パッカード社のデザイナーだったからだ。

結局彼はジョブズの依頼を1,500ドルで請け負い、低予算で、それも展示会に間に合わせるために急いで製作が可能なリアルインジェクションモールディングという成形方法でApple IIのケースを製造することにした。
このケース制作に関しても紆余曲折があったが結果としてきちんとしたケースに基盤を収めたことがApple II成功のひとつの鍵となったことは確かである。ここに初めてユーザーが購入後すぐに使うことが出来る"パーソナルコンピュータ"が誕生した。

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※Apple II のケースデザイン。蓋の上にはTVモニターやDiskIIを乗せるのが一般的だった


さて、ロゴに話を戻そう...。
ジョブズはしばらくして、ロン・ウェインによるそのロゴが堅苦しいイメージであること、そして小さくして利用するのには適していないことを理由にロゴを変えることにする。
具体的には1977年の4月、広報会社レジス・マッケンナ社に依頼し、そのアート・ディレクターであったロブ・ヤノフが現在のロゴの先駆けとなったあの6色のアップルロゴ、すなわち「囓りかけのリンゴ」をデザインした。同時にヤノフは6色の境界線に黒い線を入れることを提案した。それは印刷の時に色合わせが容易になるからだったが、細部のディティールにこだわるジョブズはこれを強く拒んだために、当時のApple社長マイケル・M・スコットは「もっとも印刷に金のかかるロゴ」と嘆いたという。
ちなみに何故あの6色なのかという疑問はApple IIユーザーなら簡単なことだ。それは緑、黄、オレンジ、赤、紫そして青というApple IIが出力できるカラーを讃えたものだからである。

またロブ・ヤノフは林檎の右サイドを囓った形にした理由として、英語で「かじる」を意味する「バイト(a bite)」と、コンピュータ世界の情報量の単位である「ビット&バイト(byte)」を掛けたつもりだったと説明している。そして、その "囓り後" があるおかげで、その形がチェリートマトに見えないようにといった意図もあったらしい。

この辺の事情は「マッキントッシュ伝説」の中でレジス・マッケナ社の代表であるマッケナ自身がインタービューに答えて、その行きがかりを認めている。
ただし、当時のロゴは現在のロゴとまったく同じであったわけではない。それはロゴが単独で使用されるだけでなくリンゴの囓ったカーブに合わせて "apple computer" というロゴタイプが加わっていた。

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※Apple IIeのマニュアルに印刷されている当時のロゴおよびロゴタイプの使用例


「アップル デザイン」によれば、ジョブズはジェリー・マノックに、このロゴを使ったバッヂを作らせ、すべてのアップル製品に取り付けることにした...とある。ここでもジョブズは色と色の境界線があることを拒み、カラー同士が接していなければ承知せず、また仕上がったあるロットのロゴが、境界の色が混じり合っているからという理由で、受け取りを拒否したこともあるという。
そして様々な製品やパッケージに採用できるようにと、ロゴの各部の比率をきちんと定めたのもジェリー・マノックの役割だった。

さて、"Apple"という社名の由来については、これまた多くの伝説がある。リンゴがジョブズの好物であったとか、ジョブズがビートルズのファンだったとか。さらにジョブズが一時果樹園で働いていたという話まである。ただし確実なことは"Apple"という名はジョブズが発案したことだ。これは確からしい。

「パソコン革命の英雄たち」によれば、初期からApple社の経営アドバイスを行ってきたマイク・マークラが最初にやったこと、それはAppleという社名を決定づけたことだとされる。この社名なら電話帳で最初に見つけられるから、営業的見地からも利点だと彼は判断したという。また彼は「リンゴが嫌いな人はほとんどいないよ」とも言っている。

また先のレジス・マッケナも、「マッキントッシュ伝説」の中で、一部で彼がAppleという社名を嫌っていたという事を否定し、逆に気に入っていたと話している。そして「私がその名前を推したんです。アップルの周囲にはこの名に反対した人もたくさんいましたが、私は彼らを説得するのにずいぶん時間を費やした覚えがありますよ。」と発言している。

まあ、そうした話の真偽は今となっては知りようがないものの、レジス・マッケナが「マッキントッシュ伝説」の中で語っているように「私には信念がありまして、実は名前(社名)はあまり関係ないと思っています。名前そのものが問題なのではなく、その名前に象徴されるもの、その背景にある考えというのが最も大事なんです」という話は明言だと思う。Appleという名のため...あるいは6色のアップルロゴが成功に結びつく機動力となったのではなく成功したAppleだからこそそれらが注目されるのだ。

ともかくApple Computer社のロゴは"Apple"そのものとなったが関係者一同が意識したかどうかは分からないものの、そもそもシンボル...イメージは無意識にも我々の心象を表しているとも考えられる...。
私の座右の書でもある「Dictionary of Symbols and Imagery(イメージシンボル事典)」Ad de Vries著(大修館書店刊)によれば "apple"とは「この世の物質的欲望と歓喜一般」「不死」「知恵」「性的快楽と豊饒」「不和」「回春」「罪悪」などなど多くの意味を有するシンボルだということが分かる。

無論もともとは旧約聖書のエデンの園、すなわちキリスト教世界のエピソードからイメージが形成されたものだろうが、これらの大意を眺めているとApple Computer社の遍歴がそのまま凝縮されているような感じにも思えて興味深い(^_^)。

こうしたAppleの象徴とされる魅惑の6色アップル・ロゴはジョブズが暫定CEOに就任するや、単色のアップル・ロゴに置き換わっていく。そして1998年5月8日にリリースされたPowerBook G3シリーズに、はじめて単色のアップル・ロゴが使われ現在に至っている。
こうした事からAppleの拘りもあって、これまでマニュアルなどの印刷物などに対しても6色のロゴが常に使われてきたというイメージがある。無論そうした例は多いものの、実際には古い時代はもとよりジョブズがAppleに復帰する以前にも一部のマニュアルなどにはすでに単色のAppleロゴが使われていたことを知るユーザーは少ないかも知れない。
その一例として以下に示すように前記した古いAppleロゴ時代にも単色のロゴ使用例が見られる。

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またあのNewtonのユーザーズガイド表紙にはトータルデザインの見地からか、ホワイト一色のロゴが使われている。

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したがってジョブズ復帰後一夜にしてすべてのAppleロゴが単色になったといった類の話は...眉唾である(笑)。
しかし現在のAppleロゴは単色であっても様々なカラーで表現されている。6色時代とは違い、単色ロゴは確かに扱いやすくなっただけでなくスティーブ・ジョブズの口癖である「シンプル」と「クール」のどちらの要素も備えているように思われる。そしてその変化はApple成長の証であるのかも知れない。

ちなみに現在アップルコンピュータ社の名刺に使われているロゴも単色だが、私が手に入れただけでも以下のような5色のAppleロゴが存在する。あと黄色があれば色味は多少違ってはいるものの、例の6色が揃うことになるのだが...。

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【参考資料】
・「Apple Confidential」Owen W.Linzmayer著、林信行・柴田文彦訳(アスキー出版局刊)
・「マッキントッシュ伝説」斎藤由多加著(アスキー出版局刊)
・「パソコン革命の英雄たち」Paul Freiberger & Michael Swain著、大田一雄訳(マグロウヒル刊)
・「林檎百科〜マッキントッシュクロニエル」SE編集部(翔泳社刊)
・「アップル デザイン」ポール・クンケル著、リック・イングリッシュ写真、大谷和利訳(アクシスパブリッシング刊)






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Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員