「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」は最高!

久しぶりに良質の長編歴史ドラマをDVDで観た。その「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」は天才レオナルド・ダ・ヴィンチの謎めいた生涯に迫る正統派ドキュメンタリードラマである。 


別途本サイトの「Coffee room」で紹介しているが、昨年秋にレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519)の残した「マドリッド手稿」ならびに「鳥の飛翔に関する手稿」ファクシミリ版を勢いで手に入れてから少しづつレオナルドの生涯やその残した業績、そしてその天才性を学ぼうと時間を割いてきた。 
とはいえ昨今話題の「ダ・ヴィンチ・コード」といった類の興味ではない。あれはまったくのフィクション・小説であり、あのような視点からでは実際に時代を生きたレオナルドの姿など分かるわけはないと私は考えている。 

さて、絵を描くことが好きな子供だった私はご多分にもれず初めて名画を模写したのはやはり「モナ・リザ」だった。何度となく模写を続けたものだ...。 
子供故に難しいことは知る由もなかったが画集の中の「モナ・リザ」が私自身に与えたインパクトは決して小さくはなかった。 
特にこの10数年、レオナルドに関する幾多の本を読み、あらためて画集などを眺めてきたが、血の通った一人の人間としてのレオナルドをより知りたいがために、前記したような彼自身が書き残した「マドリッド手稿」ならびに「鳥の飛翔に関する手稿」あるいは「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」で手に入れた「レスター手稿」コピーなどを手に入れてきた。 
それら手稿の内容は大変分かりにくいものながら、本人自身が残したもの故にリアルな本人に迫ることができると考えたからだ。まあ、そうはいってもそれぞれの手稿の良質の和訳を読んだところでレオナルドの書き物は一貫しておらず、なかなかその意味するところは理解できないのだが...(笑)。 

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※筆者所有の「マドリッド手稿」ファクシミリ版


これまでも神秘のベールに包まれてきたレオナルドの生涯はまだまだミステリーな部分を多く持っているが、それでも手稿を読めばその時代に彼は何に興味を持ち、どのように考えていたのかという点については理解できるような気がする。しかし500年も前の人物であるだけでなく私たちとは文化も歴史も違う往時のイタリアやフランスの状況...それも学校の歴史の時間で習うような「何年に何があった」ではなく、その時代の生きた情報を知るのは至難の業である。 
例えば「当時の街並みは?」「どのような衣装を身につけていたのか?」などという疑問ひとつをとってもこれまで見聞きしてきた断片的な情報を元に想像するしかない...。 
それらは決して古い時代の話だから分からないのではない。何処まで歴史的事実に忠実であるかは疑問ながら、我々日本人は例えば江戸時代の風俗や歴史観といったことについてはTVドラマや映画などで見知っているしある程度は分かった気にもなれる(笑)。しかし500年前のイタリアの生活様式などといったことを知りたくてもなかなか満足できる資料を得るのは難しいわけだ。 
その点、映画やドラマといったものはそれが良く出来ていることを前提とすれば一目瞭然のビジュアルな教科書でもある。 

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※「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」のDVD 3巻パッケージ


本題の「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」(原題:The Life of Leonardo DaVinci)はイタリア・ルネッサンス期の画家・彫刻家、また科学者、技術者、哲学者でもあった稀代の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を豊富な資料と詳細な検証のもとに、イタリア放送協会が1972年に制作したものである。 
これまで謎のベールに包まれていたその人生、私的・政治的・そして芸術的生活が色彩豊かに再現されている。さすがイタリア放送協会が総力をあげて集めた膨大な資料に基づき、名シーンの数々がふんだんに散りばめられており、第30回ゴールデン・グローブ賞TVスペシャル部門最優秀作品賞を受賞している。 
私も極断片的な記憶しかないが、かつてNHKでも放送された...。 

さてこのDVDは総分数約270分の大作ドラマを、日本語吹替&日本語字幕とともにDVDディスク3枚に収録したものだ。これを2晩に渡り睡眠時間を削って鑑賞してみた(^_^)。いやはや、これは素晴らしい作品である。 
最初のシーンはレオナルドが死ぬところから始まる...。ベッドの上で「まだやり遂げたいことが多々ある...」とつぶやきながらフランス国王フランソワ一世の腕の中で彼は息を引き取る...。しかし初っぱなのこのシーンからこの作品は期待を裏切らない。 
何故ならシーンとしては見せながらも同時進行する解説でははっきりと、この伝説は死後30年も経ってから発行されたヴァザーリ著、通称「美術家列伝」による創作であり、嘘であるとはっきり明言しているからだ。 
レオナルドがアンボワーズで死んだのは1519年5月2日だが、このときフランス国王フランソワ一世は遠く離れた場所にいたことが2世紀ほど前に明らかにされている。しかしドラマだからと安易で面白い描写を好んで取り入れる昨今の安っぽいドキュメンタリーが多い中でさすがに本場の作品は正統である...。 

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※アングル作「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」(部分)。このシーンはフィクションだとはいえレオナルドが国王のあたたかい庇護を受けていたことを示すエピソードとなった


そしてまたこの作品は当然のことながら「ダ・ヴィンチ・コード」的な興味本位の取り上げ方は一切無い。それぞれのシーンの再現はさすがに時間と予算をかけたであろうと思わせるに十分で良質な、そして説得力あるものだ。そしてところどころに「よく分かってはいないが、残された資料によればこのようなものだったと思われる」といった解説を忘れていない。しかし私にとっては人物描写はもとよりだが、衣装や当時の街並み、室内の様子、そしてレオナルドの発明・制作した"もの"たちがビジュアルで見ることができるのは何よりの魅力である。 

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※レオナルドがミラノにおいて制作に従事した(未完に終わる)巨大なブロンズ「スフォルツァ騎馬像」の鋳造に関する雄型および雌型の補強材図メモ。前記した「マドリッド手稿」より。1491年5月17日夕刻と記されている


しかしそれにしてもレオナルドの生涯はなんという孤独だったのだろうか。ヴィンチ村の庶子として生まれた彼には帰る家も家族もなかった。生まれはトスカーナだがその後にミラノやフィレンツェをさまよい、ローマにで3年過ごし、最終的にはフランスで没した。晩年は確かに国王の厚い庇護を受けたがまさしく孤高の人であった。 
DVDにもそうした示唆もあるがレオナルドの最高傑作のひとつである「最後の晩餐」におけるキリストの姿は...いや、その心情はレオナルド自身の孤高と孤独に重なるように思える。 

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※晩年のレオナルド・ダ・ヴィンチ自画像(部分)


この天才は美と気品に恵まれながらも秘密主義者であり人嫌いだった。その上に人体解剖を行い人体の仕組みに迫ろうとした先駆者の一人であったが、回りからは不気味で異端な芸術家として見られていた部分もある。 
そう...この「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」によれば、眼球の解剖は卵の白身にくるみ、茹でた上で行うというレオナルドが考え出した技術は現在も使われている方法だというから彼の先見性には驚かされる。そんな具合だったからか誤解も多くその人生において幾多のトラブルを抱えていた。 
「可愛そうに、レオナルドよ、なぜおまえはこんなに苦心するのか。」といった彼自身の記述があるほどだ。 

レオナルド役のフィリップ・ルロワも違和感なく好演しているし多くの歴史的人物もさすがに本場だけあってイメージを壊さない役者を配し、おそらくだが特殊メイクも含めて似せた人物像を創り出しているようだ。特に感嘆したのは冒頭に登場するフランソワ一世だがまさしくアングル作「レオナルド・ダ・ヴィンチの死」の絵(前記)から抜け出たようだし、ミケランジェロ役も攻撃的で粗野なイメージがよく出ている。 
これらの歴史的な人物達がレオナルドの作品たちや人生と絡むシーンの連続は見事な説得力がある。 
どこまで歴史的事実であるかはともかく、私にとってこの「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」はこれまで手稿や多くの書籍などから受けたイメージの点と点を繋ぐ良質のビジュアルな資料となった。 
レオナルド・ダ・ヴィンチに興味のある方には是非にもお勧めしたい作品である。 

【参考】 
・「マドリッド手稿」および「レスター手稿」 
・「レオナルド・ダ・ヴィンチ展(2005)」解説書 
・「レオナルド神話を創る〜万能の天才とヨーロッパ精神」A.リチャード・ターナー著 友利修・下野隆生訳(白揚社刊) 
・「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記(上・下)」杉浦明平著(岩波文庫刊) 

「シリコンバレーの百年」DVDの見どころ

新作ではないが、原題「SILICON VALLEY: A 100 YEAR RENAISSANCE」のDVDは何故に元果樹園地帯だったサンタクララバレーがシリコンバレーとして発展したのかを様々な分野で活躍した(している)IT界の巨人達にインタビューし検証した貴重なドキュメンタリーである。


DVD「シリコンバレーの百年」は、CBSのニュースキャスターであるウォルター・クロンカイト(Walter CronKite)を進行役としてシリコンバレー100年の歴史を中世のルネッサンスにオーバーラップさせながら紹介するドキュメンタリー作品だ。
それぞれがいつ頃インタービューした映像なのかは分からないが、すでに亡くなった人たちもいるし、短い時間だとしてもその映像を見、話が聞けることは大変貴重である。
すなわち本DVDはシリコンバレーで起きた技術ルネッサンスとそれらに関わった人々の物語であり、後述するように単なる成功物語では終わっていない興味深い一編である。

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※「シリコンバレーの百年」DVDのパッケージ


それらの中にはヒューレッド・パッカードの創立者、ビル・ヒューレットとデイブ・パッカード、アタリ社創立者のノーラン・ブッシュネル、インテル創立者のゴードン・ムーアやアドビシステムズ創立者のジョン・ワーノックらの姿がある。またApple Computer社に関わる話題を提供する出演者らには当のスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの二人をはじめ、マイク・マークラやレジス・マッケナがおり、興味深い話が聞ける。

私にとって一番興味深かったのはこれまで多少の歴史は知っていたものの、シリコンバレー成功の一番の立役者がスタンフォード大学であったという事実だ。
同校は1891年10月、構想と建造に6年を費やして開講したがその大学はスタンフォード氏の15歳で死んだ息子を悼み寄贈したものだった。
それまでこの地、すなわちサンタクララ・バレーは農業の中心地であり、50年代半ばまで果樹園地帯で一面をチェリーやプラムなどの果樹園で覆われた地域だった。
そして元米国防長官でESL社創立者のウィリアム・ペリーは、シリコンバレー成功における最大の功労者はスタンフォード大学工学部長のフレッド・ターマンだという。

ターマンは同大学を一流の技術系大学にし、この果樹園地帯だったサンタクララ・バレーにハイテク産業を誘致した人物だからである。
当時の関係者の話を聞く限り、いかにスタンフォード大学が柔軟な発想により運営されていたかがわかって興味深い。

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※1990年に私自身が立ち寄ったスタンフォード大学を8mmビデオで撮影した映像


スティーブ・ジョブズも髭面の顔で出演しているが、彼はブルーボックスの話をし、これがなかったらアップルもなかったと発言している。勿論スティーブ・ウォズニアックも出演しており、Appleの成功はひとえにマイク・マークラにあるが、マスコミは若い二人の成功物語の方が面白いとしてマークラを過小評価したと話しているのは興味深い。
当のマイク・マークラも登場し、ウォズニアックたちに始めて見せられたApple Iの印象などを語っている。

またAppleの6色カラーロゴをデザインしたコンサルタント会社運営のレジス・マッケナはパーソナルコンピュータはカウンターカルチャー(反体制運動)のひとつとして生まれたと話す。最初に関わったひとたちは髪を長く伸ばしたソフト開発者かホビイストだったと...。そして彼らの意識の中にはメインフレームの世界との区別があり、無論メインフレームは権威や中央管理の象徴でありパーソナルコンピュータは個人の自由を意味していたという。そしてアップルはこのメインフレームとの対比の中で生まれたと...。
しかし私だけではないと思うが当時日本の我々も米国のこうしたカルチャーや雰囲気を敏感に感じ、受け取ってはいたはずだがカウンターカルチャーの意識は薄かったと思わざるを得ない。確かに個人がコンピュータを所有できる時代の凄さとある意味でメインフレームを超える柔軟な活用ができるパーソナルコンピュータを持った意義は十分に感じていたが反体制といった意識はほとんどなかった(笑)。まあここいらが現在にも至る米国の立役者と我々...完成された製品を利用する者たちとの意識の差なのかも知れない(^_^)。

DVD後半は、1957年フェアチャイルド社創立の物語なども含めて投資家を見つけ資金調達をしたかといった苦労話が続くのも興味深い。そしてやはりというか銀行側の一方的で圧力的な交渉のやりかたなどを聞くことが出来、私自身もマイクロ企業ながら銀行との交渉に苦労してきた一人として、どこでも同じなんだなあ...と苦笑せざるを得ない...(笑)。
また面白いといってはなんだが、ヒューレット・パッカードの創設者の一人、ビル・ヒューレットの話しは我々にも勇気を与えてくれ、励みになるのではないだろうか(^_^)。
何故なら彼がいうにはHP創立当時の話として「我々は二人とも妻が仕事を持っていたおかげでやっていくことができた」と話し、さらに当面の目標は「家に金を入れること」だったと振り返っている。あのHPも最初はそんな感じだったのだ...。

さらにオラクルのラリー・エリソンが語るには、投資家はソフトウェアと聞くと会ってもくれず、帰るときには(応接室の)雑誌を盗んでいないか調べられたと屈辱的な当時を振り返り、結局投資を受けずに自分たちで資金をかき集めたと話していることも興味深い。
サン・マイクロシステムズ社CEOのスコット・マクニーリも過去12年間で10回以上の会社存続の危機に陥ってきたと話し、資金繰りのピンチは数回合ったと笑う。
こうした一般的な成功物語では語られない話を多々本人達から聞くことができる本映像はやはり貴重であり、IT産業やパーソナルコンピュータあるいはその歴史に興味のある方は必見である。

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シリコン・バレーの百年 [DVD]

商品番号:NODD-00032
全編:約90分 日本語字幕
定価:3,990円(税込)
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今だから話そう...MacWorld Expo/Tokyo物語

2002年12月5日、Macworld Expoを主催プロモートしてきたIDG社は2003年度以降のMacworld Expo/Tokyoの開催を行わないと正式に認めExpo/Tokyoは消滅した。しかし10年に渡りマックユーザーの心を掴んだこの祭典開催前夜とその後を出展者側の立場から振り返ってみた。


■第1章■1990年Macworld Expo/Tokyo開催前夜秘話


最近関係者が集まるとその中で「またMacWorld Expoみたいのやりたいねぇ...」という声が上がる。まだ記憶に新しい「Macworld Expo/Tokyoとは私達にとって何だったのだろうか」をあらためて考えるきっかけとなればと思い、1991年に第一回を開催したExpo/Tokyoへの出展体験やその前夜の様子をご紹介したい。

米国では当時1月にはサンフランシスコで、そして7月にはボストンで毎年二回のMacWorld ExpoというMacintoshだけをターゲットにしたイベントが開催されていたことは多くの日本のユーザーも知っていた(現在はサンフランシスコのみ)。しかしそれは遠くアメリカでの出来事であり、一般ユーザーは羨ましいとは思いつつもわずかに入ってくるニュースを集めることしかできなかった。

私はといえばいくつかの出会いと機会があり、1988年1月から毎年米国のMacworld Expoに出向くようになっていた。
さて1990年の夏だったと記憶しているが、IDGジャパン社代表の玉井さんが私の会社を訪問された。聞けば日本でもMacWorld Expoを開催したいとのこと。玉井さんはこれまでのビジネスショーのようなものではなく、本場アメリカの...MacWorld Expoの香りがするイベントを企画したいと熱っぽく語られた。

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※米国のMacworld ExpoにてT/Maker社のブース。向こうのExpoでは中小のブースは皆こんな感じだった


私の会社はその前年の1989年に設立したばかりだったがMac用のソフトウェア開発を行う会社であることは少しづつ知られるようになっていた。特に私自身は前記したように1988年の1月からサンフランシスコならびに当時はボストンで開催されていたMacWorld Expoに出向いていたこともあり、事情通の一人として意見を聞きたいとのことだったのである。
私は「会場で製品を販売できるようにすること」「基調講演にAppleのCEOを呼ぶこと」などという基本的な提案をすると共に「ネクタイ族を入れない」とか「コンパニオン禁止」といったへらず口をたたいたことを覚えている(笑)。
冗談はともかく、現在は知らないが当時はビジネスショーなどといった展示会では会場内での展示にかかわる販売は一切なされていなかったからだ。
そして1991年2月、理想どおりとはいかないまでも日本で初めてのMacworld Expoは開催されることになった。

■第2章■第1回Macworld Expo/Tokyo(1991/2/13〜15)


この第一回目からMacWorld Expo/Tokyoの会場は幕張メッセに定着した。無論当時は現在と違い、これだけ大きなイベントを開催できる場所が他にはざらになかったこともあるが、以後幕張メッセで開催されるMacWorld Expo/Tokyoには多くの思い出が詰め込まれることになる。
そしてこの第一回のMacWorld Expo/Tokyoは初回ということもあり特別の思い出がある。勿論その中には楽しいことではない内容も多いのだが...。

なにしろ米国のExpoを知ってはいたものの、日本のExpoがはたしてどのようなものになるのかは説明会に参加してもなかなかイメージがわかなかった。
それまで私は自社のプライベートイベントなどでイベントそのもののノウハウは積み重ねつつあったが、MacWorld Expoのような大規模のイベントに出展するという経験はなかった。ともかくも分からないなりに軽いジョブのつもりで私は2小間の出展を決めた。
ひと小間とは間口ならびに奥行きが約3メートルを意味する。したがって私達は間口6メートル、奥行き3メートルの小さなスペースを確保したわけだ。
またブースデザインは金をかければいくらでも良いものができることは周知の通りだが、我々マイクロ企業にそうした予算があるわけはないし、それまでサンフランシスコやボストンで本場のMacWorld Expoを体験していた経験から判断して、豪華なものは不要と考えパッケージブースというお任せで極々基本的なブース仕様を申し込んだのである。
こうして勝手がわからないままにExpoは搬入の日を迎えた。

搬入日の幕張メッセは機材などの搬入のため、多くの企業の車が出入りし混雑していたが、なにしろ大変寒かった。2月のその時期にもかかわらず搬入日には会場に暖房が入らないからだ。コートの襟を立てながら待ち合わせの場所に急いでいたら早速会社のスタッフに声をかけられた。
彼女は「松田さん、ブースがまだ未完成のようなんですよ」「これでは機材をセッティングできないので、これから係りに聞いてきます」といいながら小走りに走り去った。

自社ブースエリアに到着してみると、なるほど2小間の壁面一面は白く紙貼りがなされているものの、あちらこちらに大きな皺も目立つしブースを支えているいわゆる大黒柱も3cm角程度の大変細い木材で支えられており、我々が予想していたような造りではなかった。誰かの肩でも触れたら全体が倒れ込むような感じがするほどそのブースの造作は頼りなかった。
驚いたのはその数分後にスタッフが戻ってきて「これで完成だというんですが...」という一言を聞いたときだった(笑)。
仕方なく、まるでバラックのようなそのブース壁面に持参した会社のロゴマークやら製品ポスターなどを並べて粗を隠し、それらしく見えるように努力をしてみたが、我ながら苦笑せざるを得ない陳腐なブースで2月13日、日本で最初のMacWorld Expo/Tokyo出展を経験することになった。

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※Expo/Tokyo第一回(1991年2月)の当社バラックブース(笑)。それでも大混雑だった!


さて、当時のアップルジャパンの社長は武内重親氏だったが、日本で初めてのExpoということで米国Appleから当時のCEO、ジョン・スカリー会長が来日して初日オープニングのテープカットを行った。しかしその後スカリー会長は数人のアップルジャパン社員と共に足早に会場内を通過しただけで姿を消した。あれでは会場の様子やデベロッパーのあれこれなどは分からないだろうといぶかしく思ったものである。
当時は大した数の出展数ではなかったのだから、挨拶を含めて各ブースを回っても罰はあたらないだろうと私は正直思ったものだ。何しろ申し上げるまでもなくこの展示会はMacintoshの...Appleのお祭りなのだから...。
そして真偽の程は分からなかったものの、彼が向かった先がゴルフ場だと聞き、私は「スカリーはやる気がないな...ダメだな」とつぶやいた。

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※第一回Expo/Tokyoオープニングのテープカットシーン。胸に赤い花を付けているのが当時のApple Computer社CEOのジョン・スカリー氏


しかし、会場は大変な人出だった。我々の小さなブースにも次から次へと来場者が訪れ、その度に細い大黒柱がおれるのではないかと思うほどブース内は混み合った(笑)。我々はこの日のためにExpo用グッズとしてオリジナルTシャツを作ったり、受付にキャンディやささやかな花束を置いたが、そうした配慮を多くのお客様は「洒落てるね」と誉めてくださった。しかしネタを明かせばこうしたことはすべて米国本場のExpoで得たノウハウであったがまだ日本の展示会ではそうしたやり方は浸透していなかったのか、新鮮に映ったらしい。後年のExpo/Tokyoでは皆さんが疲れた頃にブースでワインを振る舞ってこれまた好評を博したがこれも向こうのコピーである(笑)。

それからExpoらしさのひとつに、会場で製品を直接購入できることがあげられる。事実私共のブースでもTシャツなどのグッズだけでなく、ソフトウェアパッケージを販売していた。しかし残念なのは販売店各社に対する了解が得られなかったとかでMacintosh本体の販売ができないことだった。
ただ、おかしなことに「予約」ということならOKだった(笑)。
とあるショップでは予約券を渡し、そのまま会場に近くにあった自社ショップに出向けば製品を渡してくれたという。こうしたばかばかしい矛盾も目立ったが、第一回目のMacworld Expo/Tokyoは大成功のうちに終わり、即来年の開催がアナウンスされたのだった。

余談だが会場の幕張は近くはないものの、東京およびその近郊に住んでいる者にとっては通勤できない距離ではない。しかし私達スタッフの一部は札幌支店から出張していた関係もあり、スタッフ全員が付近のホテルに宿泊することにした。
よくも悪くもこの第一回からコーシングラフィックシステムズの全スタッフは搬入日からホテルに宿泊し、体力勝負のExpoに向けて美味いものでも食べて鋭気を養うという習慣となったのである。

■第3章■第2回MacWorld Expo/Tokyo開催(1992/2)


第2回目のExpo/Tokyoはいろいろな意味で我々にとってその後の路線を決める重要なイベントとなったが、そうしたことは後になってから分かることであり、当時は一回目と同様、無我夢中で参加しただけのことだった。

ブースとしては第1回目のバラックブース(笑)の教訓を活かし、はじめてオリジナルなブースを業者にデザインしてもらうことになった。
最初が2小間だったこともあり、無理をして1小間増やして3小間としたが、この3小間というスペースは細長くするしか方法のないスペースであり、工夫のしようもなかったのが少々悔やまれる。
何しろ奥行きは3メートル、そして幅は9メートルなのだから...。しかし何とか向かって左側に小さなステージを設けてプレゼンテーション専用スペースを確保した。また我々にしては珍しく?ビジネス色を取り入れ、全体をホワイトとグレーというモノトーンカラーで統一したことも今となっては思い出深い。

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※第二回目のExpo/Tokyo(1992年2月)の当社ブースは横が9メートルもあるオープンなデザインだった


1992年はその後の企業色を左右する製品たちをリリースし、かついくつかの新製品のプロトタイプがお披露目できたころだった。

この頃から既にデモをしたい製品の数が我々のスタッフの数を超えており、あれもこれもお見せしたいと欲を出すと大変なことになった。そうした理由もあり、その後の我々の展示会スタイルを決める「展示会に開発者自らが説明に立つ」というスタイルが確立されたが当時は大変珍しがられたものだった。しかし海外の展示会ではそうしたケースはよくあることだったし、なによりもそうしたやり方は奇をてらったものではなく、必要に迫られてのことだったのである。

さてこのExpoは我々にとって大変素晴らしい出会いをいくつか産んだ。
そのExpoのさなか、スタッフの一人が「あの...お客様がカタログ配りを手伝ってくださるとおっしゃるんですが...」と怪訝な顔で私のところに飛んできた。正直ちょっと迷ったが「お願いできるのならお手伝いしていただきましょう」と指示をした。
実はその人こそ現在も友人として、そして信頼できるビジネスパートナーとしてお付き合いをさせていただいている(株)栄光社の代表取締役:鵜沢善久氏であった。

彼は当時、当社の製品ユーザーでもあったが、たぶん我々の見るからに非力な感じを見るに見かねたのだろう...(笑)。
彼はにわかスタッフとして結局最終日の搬出に至るまでお手伝いをいただくことになり、それがきっかけで長い付き合いとなっただけでなく、彼自身3Dソフトなどを使ってデザインや広告業務を扱っていたこともあり、多くの3D作家やデザイナーと知り合う仲立ちをしていただいた。これだから世の中は面白いし捨てたものではない。
私たちにとってMacWorld Expoは単なるビジネスのための展示会ではなかった。事実...金のことだけを考えるならソロバンに合わない催事だった。しかし前記したように多くの友人や取引先がこのExpo/Tokyoから生まれたし他では得難い経験や体験をさせていただいた。本当に面白かったし楽しかった。

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※最盛期のMacWorld Expo/Tokyoの会場内。活気があった!


後にAppleがApple Store GINZAをオープンしたとき、米国から来た責任者が「これからはここが毎日MacWorld Expoの代わりをする」という主旨のことを言ったとき私は血が逆流する思いをした。まったく...彼らは相変わらず何も分かっていないことを知った。
決して感傷的な物言いではないが、Expo/TokyoはApple Storeといった単なる店舗ではないのだ。確かに現在はこうした採算を第一に考えなければならない時代に大規模イベントは似合わないと思う。しかしである。お祭りだとはいえ多くの企業がどれだけ大変な思いをして、そして自社のビジネスのビジョンをこのExpo/Tokyoに託して成功のための努力をしてきたことか...。そうした事にあのAppleのエグゼクティブはまったく知ろうとする想像力も欠如している。
彼の発言はこれまで日本市場で努力をしてきた多くのベンダーと市場を盛り上げようとしてきたユーザーグループやユーザーを否定することだということに気がつかないのだ。
ともあれMacWorld Expo/TokyoはMacintoshユーザーの一年一回の最大の祭りであり同好の集まる場であり、かつ多くのベンダーとユーザーが交流できる特別な場となったのである。

Apple本社「アイコン・ガーデン」の思い出

ご承知のように米国西海岸クパチーノにApple Computer社の本社がある。その広い敷地内の一郭に6,7年前までは大変遊び心のある庭があった。私が名付けた名が「アイコン・ガーデン」...まんまである(笑)。 


確か2002年に訪れたときにはその趣向はすでになかった...。これも2000年1月5日、サンフランシスコで開催のMacWorld Expoで一般公開されたMac OS Xの登場に機縁する出来事だったのかも知れない。 
すなわちMac OS 9からMac OS Xに移行することで事実上Mac OS 9に関わる一連のアイコン・ディスプレイも片付けたのだろう...。しかし最初に見たときの感激が大きかっただけに消滅していた殺風景なその場所を見て大変がっかりしたことを思い出す。 

その場所は本社エントランスに向かって右に位置するApple Company Storeの横に広がる一郭だったが、青々とした芝生の上にMacintoshユーザーにはおなじみのアイコンがオブジェとして数種立てかけられていて、ぬけるようなカルフォルニアの蒼い空とマッチングしていた。 

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※Apple Computer本社エントランス(上)とアイコン・ガーデン(下)。共に筆者撮影


それらはマウスの基本である手のアイコン、矢印アイコン、時計のアイコン、ペンシルのアイコン、消しゴムアイコンそしてペイント缶アイコンなどがドットそのままに拡大されて芝生の上にディスプレイされていたのである。 
Macintoshユーザーなら実際にこの光景をみれば誰でも驚喜するに違いないし、記念の写真を撮っておきたいと考えるのが人情である。 
だから、私も幾たび同じ場所の写真を撮ったか知れない。 
しかし1998年だったか、ここを訪れたとき皆でそのアイコンを囲んだQuickTime VRを撮ろうと撮影を開始した。ちょうど360度の撮影を終わった直後に向こうから脱兎のごとく大きな体を揺らしながら女性警備員が駆けてきた。何事かと思ったら「ここは撮影禁止だ」というのである。 
数年間の間、一度もそんなことを言われたことはないし、第一ここらあたりに小さなデジタルカメラを振り回して奪われるような秘密が転がっているとは思えない(笑)。また撮影禁止の立て札もない。 

本来嫌みのひとつも言ってやりたかったが、幸い必要なデータは撮影済みだったこともあり、トラブルが大きくなってはまずいと素直に引き下がった。そうして作ったQuickTime VRの出来はあまり良くなかったが(笑)、今でも良い思い出の一コマとなっている。そうした数年の間親しんだ思い出のあるアイコンの庭がなくなってしまったのだから寂しい限りである。 
ではMac OS Xのアイコンを同じように並べたらいいか...というとさすがにそうも行かない。Mac OS 9のシンプルなアイコンだから絵になるのであり例えばMac OS Xのアクア調アイコンが並んだって、面白くはないと思うのだ。 
Appleもこれまでの良いモニュメントのひとつとしてこうした遊び心を残して欲しいと思うのだが...。

ウィルスの脅威は黎明期のMacにもあったんですよ!

最近MacintoshのCPUがIntelチップを採用したこともあってMac OS Xへのマルウェア攻撃が増えてくるだろうというニュースや話題が多い。これはシェアが増大するからこそターゲットにされるという意味だが間違ってはならない事はマックだって昔からウィルスの脅威はあったのだ...。 


「昔からあった!」と威張ることではないが(笑)、一部ではMacintoshは安全だという間違った神話があったり、逆にMacintoshのウィルスは最近登場し始めたといった誤解もあるようなので今回は「マックだって...昔からウィルスあったのだ!」という話をしてみたい。

いま手元に参考として広げてみた資料がある。それは1988年(昭和63年)に当時のイケショップが隔月に発行していた「MacTalk」というユーザーグループ・マガジン誌だが、そこには本職のお医者さんが「Macを恐ろしいウィルスから守る方法」と題して3ページの記事を書かれている。 

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※1988年(昭和63年)イケショップ発行の「MacTalk」表紙
 

1988年といえばMacintosh 128Kが登場してから4年目である。だからというわけではないがMacintosh環境にも当然の事ながらウィルスは当時から存在したのだ。ただし現在と違うのは我々の前に通信回線は存在したもののインターネットがなかったためにその感染の多くはフロッピーディスクを媒介にしての感染だった。したがって大切なマスターフロッピーなどをMacに装着する際には書き込み禁止のライトプロテクトを忘れないようONにするという習慣を持っていたものである。 

当時はパブリックドメインと称したフリーソフトを満載して販売していたハードディスクからウィルスが感染したり、友人知人たちからもらったディスケットにウィルスが混入していたというケースは結構あったのだ。一部には市販のパッケージから発見されてニュースになったこともあったと記憶している。そして人ごとではなく、私自身も当時のソフトウェア開発会社で使っていたMacintoshが感染したことがあった...。 

当時のOSは申し上げるまでもなく現在のMac OS Xとはまったく違うもので、この1988年あたりは漢字Talk2.0をいかにして動かすか...といったことが雑誌のあちらこちらに掲載されていた時期である。 
その多くはMacintoshファイルのCODEリソースIDを書き換え、プログラムを壊してしまうケースが多かったと記憶している。 
物理的にはResEditといったツールを使い、プログラムの内部をオープンして治すことも可能だったが、これは一般ユーザーができることではない。したがって当時もウィルス対策用のソフトウェアがいくつか存在していた。そして事実Apple Computer社の純正ウィルス感染診断ソフト「Virus Rx」(診断だけで駆逐はできなかった)なども配布されていたのである。 

その他の主なウィルス防御あるいは診断/削除ツール名を列記するなら「Vaccine」「VirusDetective」「Ferret」「Interferon」といったツールが存在していたが診断だけで駆逐/削除はできないものなど様々だった。 
この中で「VirusDetective」は唯一DA(デスクアクセサリー)であり使い勝手も良かったので随分とお世話になった記憶がある。 
今回それらのアイコンをキャプチャするために古いシステムのバックアップを探し回ったが以下のツールは1988年あるいは1989年当時のバージョンである。 

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これまでMacintoshだから安全という話はあくまでウィンドウズマシンと比較した確率的な話に過ぎず、実際に往時の心あるユーザーたちも前記したツールなどを使いウィルス防御に気を配っていたことを忘れてはならない。 
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mactechlab

Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員