ラテ飼育格闘日記(143)

ラテと毎日暮らしていると意外にその進歩というか変化に気づくことがある。オトーサンはどちらかといえぱ今日は昨日と同じであり明日もそんなに変わらない平凡な一日を望んでいるがラテの生物学的な成長は思っているよりもずっと早いような気がする昨今である。

 

それもそのはずで、人間の平均寿命が80歳、ワンコのそれが15歳だと仮定するなら、ワンコは我々より5.3倍も成長が早い理窟となる。であるなら我々の1日はワンコにとって5.3日に相当するし、我々の3ヶ月はワンコにとって約1年4ヶ月程度にもなる理窟になる...。
その変化は注意をしていないとさすがに明確な場合ばかりではないものの、振り返って見ると一週間前、1ヶ月前と違うということはいろいろと思い当たるのだ。
そうした変化を注視しながらラテと毎日を送っているが正直オトーサンにとってラテの行動が学習の積み重ねによるものなのか、あるいは新しい衝動によるものなのかが不明ながらも興味深いことが多々起きる。ただし確実なことはこれまでの過程で覚えてきたことはきちんと踏まえているようだ。

Latte143_01.jpg

※散歩の途中で仰ぎ見る空はすでに秋模様である...


例えば幼犬のとき、ラテにペットボトルを与えるとそれは壊す対象でしかなかった。ペットボトル本体はもとよりかなり堅いはずの飲み口までその鋭い歯でボロボロにしてしまう。したがって見ていないと危なくて仕方がなかった。欠片でもできれば即飲み込んでしまいかねないからだ。
この日記でもそうしたアクシデントをいくつかご紹介してきたが、オモチャのボールを噛み砕き飲んでオトーサンたちを心配の極致に陥れたこともあるし、電機マッサージチェアのリクライニングハンドルなどはラテの集中砲火を浴びて見る影もなくボロボロにされてしまった。
しかしそうした幾多の遊びの中からものの扱いとその楽しみ方を学んでいったこともまた確かなようである。

小さめのボールや犬用のガムなどは噛むだけでなく、また転がすだけでなくラテ自身が口でリフティングしたり、そのまま頭を振ることで遠くに投げることさえする。
したがって興が乗ればオトーサンとガムやボールの投げッこもするが、ポイントは一人遊びではなく何らかの形でオトーサンたちが加わるとラテもその気になるようだ。
その最たる遊びのひとつにペットボトル・サッカー(勝手な命名だ)がある(笑)。
ペットボトルを咥えて運ぶことは当日記の128にも紹介したが、今回はiPhone 3GSで撮ったムービーをご覧いただきたい。



※ペットボトルを蹴って楽しむラテとオトーサンたち(笑)


この遊びは最近では日常化している...。それは以前、夕刻の散歩から帰る途中のある日、自動販売機でオトーサンたちが自分の咽を潤すためにペットボトルの水を買った。無論よく冷えているので美味しい水だが、残りをラテに飲ませてみると手持ちの水よりやはり美味しいのか喜んで飲んだのである。しかし面白いのは一度こうしたことがあった後、その道を通るとラテはリードを引き「水飲みたい!」と訴えることが日常化してしまったのだ(笑)。

まあオトーサンたちもこの暑い最中に歩き回って...時には駆けずり回っているわけで、確かに咽が渇くから良いタイミングだとそこで水を飲むようになった。
水が残った場合は捨て、空のペットボトルを持ってそのまま200メートルほど先に進むとまた自動販売機がありそこにはボトルを捨てるボックスが置いてあるからそこでペットボトルを捨てるのもこれまた日常となった...。

興味深いのはラテの行動である。最初は水を飲んだだけで満足していたが、そのうち遊び心がわき上がってきたのだろうか、オトーサンが捨てるために持っているペットボトルを “よこせ” いう態度に出た...。リードを持っていない方の手にボトルを握っているとそれを咥えようとしたり、オトーサンの足をマズルで「ツン!」と押したりして「頂戴!」という。
興味を持ったオトーサンはペットボトルを咥えさせると最初の時にはほぼダストボックスまでの距離を咥えたまま運んだのである。
これには正直オトーサンも驚いたと同時に面白くなって水を飲んだ後にはラテに渡すようになったが...ラテはすぐに飽きた(爆)。
しばらくの間、ラテがボトルを欲しいと要求しなかったのでそのままにしていたがしばらく経つとまたまた以前のように欲しいと言い出したのである...。
オトーサンは一方通行の道路に車が入っていないかを確認しながらラテにペットボトルを渡すと一端咥えたもののすぐに落としてしまった。「なんだ...ダメジャン」とオトーサンが思った瞬間、彼女は想定外の行動に出た。
ペットボトルを自分で蹴り、それを追いかけてはまた蹴りという遊びを始めたのだ。そして時に誇らしげに咥えてはリフティングのようにボトルを回し、また道路に落として蹴り始める。ただしこの子の蹴り方は正確ではない(笑)。したがって時に直進ではなく左右にボトルが飛んでいくことがあるが、進行方向右側は壁づたいなので問題はないものの左側は道路だからこちら側に出たときにはオトーサンが蹴ってラテの前に進め、右に大きく移動したときにはオカーサンが蹴って軌道修正するといった家族一体型のペットボトル・サッカーをするようになったのである(笑)。
時にはオトーサンが蹴ったペットボトルをラテがダイレクトに咥えて受け止めたりとファインプレーも見せる。
ラテにとってペットボトルはすでに壊すだけの対象ではなく立派なオモチャとなったようである。

Latte143_021.jpg

Latte143_031.jpg

※大好きなイケメンのマキちゃん(上)と並んで穏やかな表情をするラテ(下)


オモチャといえば、これまでラテにオモチャとして与えた多くのものの中で幸い壊れたりせず捨てないでいる十数種のものがカゴに入って床から1メートル程度のところに置いてある。その前にちょっとした障害物もあってラテは自分でそれらのオモチャを取ることはほとんどないしほとんどのオモチャはすでに飽きたはずだった。
それが最近どうしたことなのか、近寄ってはいくつかのオモチャを咥えて引き出して遊ぶようになったのである。引っ張りごっこをする布などはオトーサンの前に置き「遊ぼう」と誘う。
どうやら何か変わった遊びを体験したくて仕方がないように思えるのだが、オトーサンとしては新しくて安全な、そしてラテが喜ぶであろう遊びなどそうそう思いつかない...。しかしこの種の遊びの積み重ねがラテの頭脳をよりアクティブにすることは確実のように思えるので何か良いことを考えてやろうとオトーサンは頭をひねっている(笑)。

ラテ飼育格闘日記(142)

ラテを3ヶ月ぶりに美容室に連れて行った。ワンコにもよるがラテは放っておくと体毛はかなり伸び、首回りはライオンのたてがみのようにもなるし単に汚れが着きやすくなるというだけでなく、肉球が滑りやすくなったりと実害が出てくる...。したがって美容室へ連れて行くわけだが、その美容室へラテは決して喜んで出かけはしない。

 

本来ならラテの場合、理想的には1ヶ月に1回美容室に連れて行くべきなのかも知れない。ここではトリミングだけでなく本格的なシャンプーをやってくれるのは勿論、爪切り、耳掃除、肛門腺絞りやオプションで歯磨きまでやってくれる。
しかし1回1万円近くかかることを考えるとそう度々は予算的にも無理だし、第一ラテが喜んで行ってくれるわけではないから連れていくのもなかなか大変なのだ。それに昨今のように不順な天候で雨も多い時期だとどうしても躊躇してしまう。

そんなわけで気がつくと前回美容室に連れて行ったときから早くも3ヶ月が過ぎていた。体毛の伸びや不揃いが目立つわけだ...。
早速いつもの美容室に予約を入れようと電話をするが最初に利用し始めた時と比較するととても混んでいるのに驚く。木曜日に電話を入れて念のため土曜日と日曜日の予約状況を確認してみたが予約はいっぱいでダメ...。仕方なく翌日の月曜日午前11時に予約を取った。そうと決めたら一日でも早い方がよいと思ったからである。

Latte142_04.jpg

※散歩の途中、赤とんぼを激写!


さて当日の朝はなんということか...大雨だった(泣)。
せっかくシャンプーしてもらったとしてもこの雨ではびしょ濡れになるのは必定で困ったことではあるが車を持っていないオトーサンは歩いて連れていくしかない。それも美容室へは片道速く歩いたとしても25分程度はかかる距離なのだ。
まあ、シャンプーした後に濡れるのはこちらの都合だから仕方がないが、連れていくときにびしょ濡れだと作業に何か支障でもあるかと思い、お店のオープン時間を待ってまずは電話で聞いてみた。
本来なら予約をキャンセルして別の日に予約を取り直すこともできるわけだが、新たに予約を入れたその当日が天気であるという保証はない。であるなら連れて行けるときに済ませてしまおうとオトーサンは決心したのである。

美容室に確認したところ最初に洗って...シャンプーするので濡れていてもかまわないという。「それなら予定通り連れていきます」と電話を切った。
自宅を出るまで約1時間弱ある...。何とか雨脚が小降りになってくれないかと願うばかりだが残念ながらオトーサンの願いは天に届いていない模様...(笑)。ちっとも小降りにならない。
意を決してラテにレインコートを着せようとリビングに入るが、ラテはそれを察してトイレシートのある部屋の隅に小さくなって「嫌だ!」の意思を示す。しかしこの雨脚はレインコート抜きでは歩けないのでとにかく無理矢理レインコートを着せるが、ラテの首が硬直しとても着せにくい。
ともかくレインコートを着せ、リードを付けた後にオトーサンは雨よけになるパーカーを羽織り、首にタオルを巻き、散歩アイテム一式が詰まっているバッグを肩に斜めがけして家を出る。無論傘もさして...。

ラテはこの時点ではオトーサンがどこに行こうとしているかはさすがに分からない。事実まずは駅ビル上のコーヒーショップのテラスで一休みしてから美容室に向かおうと考えて歩き出すが、雨は傘をさしていても足元が濡れるのがわかるほど強い。その上に大変蒸し暑い日だったのでオトーサンはすでに大汗をかき、背中は雨が吹き付けたかのように濡れ、額からの汗が目に入ってしみる...。
当然ラテはレインコートに包まれているボディは濡れないものの、頭はびしょ濡れである。
可能な限りオトーサンは傘を自分の頭とラテの頭が入るように注意しているつもりだがほとんど役に立たない。そして団地が建ち並ぶ草むらに入った途端にラテがしゃがみ込んだ...。ウンチである(笑)。
それは喜ぶべき事なのだがこの雨の中、傘をさし、かつラテのリードをしっかりと保持した上でウンチを持ち帰るための処理をするのはなかなか難しい。仕方なくオトーサンは自身が濡れるのを承知で傘を地べたに置き作業をするが、ものの十数秒でもすでにびしょ濡れ状態になってしまう。

Latte142_03.jpg

※なにか気になるものがあるのか、後ろ立ちして遠方を覗くラテ


お尻が軽くなったラテは道のりからすでに行き先はコーヒーショップであることを察知したのだろう、雨が入らないように耳を倒し神妙な顔つきながら軽快に歩きはじめるもののオトーサンはすでにグロッキーなのだ。何とかコーヒーショップに着くがワンコ連れだから店内には入れないからテラス側から入るが無論この雨だからしてテラスに客は一人もいない。
オトーサンは雨樋にラテを固定して店内に入ってオーダーし、また雨の降るテラスに飲み物などを持ち帰る。
テラスの窓際には人一人が濡れないほどのひさしがあるのでそこで一休みしようという魂胆だ。小さなデニッシュとカプチーノ・コーヒーをテーブルに置き、ラテのリードを緩めるとすでにそれらをもらえることを知って笑顔を振りまき始めるが、濡れたラテの笑顔は何ともおかしな顔でオトーサンは自身のひどい格好を忘れて笑ってしまう。
ふと視線を感じてガラス窓越しに店内を眺めると「この土砂降りに外で犬と何をやっているのか?」とでも思っているのか...気の毒そうな表情のオバサンと目が合う(笑)。
オトーサンはそのオバサンの視線を意識しながらラテにデニッシュの端っことカプチーノの泡を舐めさせる。ラテは実に美味しそうにそれらを舐めている...。

さて目的はここではなく美容室である。時間を見計らってコーヒーショップを後にするが、そこからがこれまた難儀なのだ。ラテがどこに向かっているのかを察知し抵抗し始めたのである。オトーサンは傘を含めて持ち物が多いから力が入らない。その上にここからは階段が続く体力勝負の道のりでもある。
雨脚は多少弱くなってはきたもののラテの抵抗は意外に強く、このときの立ち回りがいかに激しかったかはバッグに結わえたウンチ処理袋をこの時落としたことを後で知ったほどだ...。
ラテを騙しだまし高い階段を上りきり、美容室へと続く道を歩くオトーサンは自分でも何やっているのかが分からなくなるほど疲れていた。
やっと美容室が見える十字路を曲がったとき、ラテの抵抗は最終章を見る...。いつものことだが彼女はオトーサンに抱きつくのである(笑)。
「嫌だ~!」の強い表れなのだろうが、傘をさしているオトーサンの腰に両前足をかけてくる。仕方が無くオトーサンは傘をたたみ、それを小脇に抱えつつ18.8 キログラムもあるラテを抱き上げてやった。
抱かれたままそのままで美容室に入ってしまうのはいつものことなのだがオトーサンの洋服は雨と汗、そしてラテの四つ足の汚れでもうメチャメチャである。

Latte142_01.jpg

※マキちゃんのお母さんに撫でられ最高の甘え顔をするラテ。手前はボーダーコリーのボーちゃん


ともかくラテを預けて美容室を出ると何と言うことか雨がほとんど止んでいた...。
その後、落としたウンチ袋を拾い、駅前のスーパーで買い物をしてから帰宅するが家の中に入ってもラテの気配がしないのは何とも不思議な感覚だ。それほどラテとの生活が体に染みこんでいるのだろう...。
オトーサンは簡単に着替えを済ませてからスーパーで買ってきた昼飯を食べる。どうにも時間の持てあます空間に思えるが、その後軽く冷房を効かしたラテのいないリビングでマッサージ・チェアに座り肩や腰を癒すうちに...うたた寝をしてしまった。
iPhone 3GSの着信で目を覚ますと「...ラテちゃん、すべて済みました」という美容室からの電話だった。
ラテを預けてから約2時間ほどで済んだようだが、雨だったので今日は空いていたのかも知れない。それはともかくオトーサンは帰宅し、食事をしてやっと一息入れたと思ったらまた迎えに行かなければならないわけで思わずため息が出る。

外に出るとすでに雨は止み薄日が差している。息を切らしながら美容室に入るとラテが大きなお尻を振りながらオネーサンに連れられて出てきた。
そのさっぱりした姿に思わず微笑みが出たオトーサンにラテは抱きついてくる。ラテの体をしっかりと受け止めて抱きしめてからリードを手首に巻いてオトーサンたちは帰路についた...。

Latte142_02.jpg

※美容室から戻ったばかりのラテ。どうです、べっぴんさんでしょ(笑)


ラテはご機嫌のようで...というかやはり心細かったのか、頻繁にオトーサンにアイコンタクトすると共に歩きながらオトーサンの足をマズルで「ツン!」と突く。
なにかラテと手を繋いで歩いているように楽しい感覚で薄日の差した道を笑顔で歩いたオトーサンであった。

Lisa開発プロジェクトとスティーブ・ジョブズの不思議な因果関係

Lisaの不幸はその革新的な性能及び高尚と思えるコンセプトを持ちながらAppleという企業の一番悪い面、すなわち意思疎通がなされず人的サポートに不統一な面が多々あったことが原因と思われる。Appleはゼロックス社パロアルト研究所とは違い一般メーカーであることを忘れていたような面も否めない。いま思えば当時のAppleは株式上場も含めて大企業にならんとするある種の混乱期だったのかも知れない。

 
歴史に「もし...」と問うことは禁物だといわれるが、これまでAppleがその後の10年を託そうとして開発をはじめたLisaについてさまざまな面からその歴史的事実を探っていると「もしLisaが最後までスティーブ・ジョブズの指揮の下で開発されたとするならパーソナルコンピュータの歴史およびAppleの歴史はどのように変わっていただろうか」という素直な疑問というか興味が首をもたげてくる...。そして多くの文献や資料をベースにLisa開発の推移を見ていると「何故?」「どうして...」といった疑問点も多々出てくる。

その第一は、Lisa開発プロジェクトから外されたはずのスティーブ・ジョブズだったが、彼の呪縛がどういうわけか最後までLisaについて回ったように思えるその事実である。
今回はそんな視点からその時代のタイミングを再認識してみたい。

Lisa0817.jpg

※筆者所有のLisaは様々な思いを語ってくれるような気がする...


ゼロックス社のパロアルト研究所での体験はスティーブ・ジョブズにLisaのあるべき方向性とビジョンを思い描かせたに違いないし事実それまで漠然と開発を企画されていたLisaはその後我々が知っているLisaとしてはっきりしたコンセプトが決まっていく。ただし現実にはそのビジョンをジョブズと開発者たちとが共有することは難しかったようだ。

それはLisa開発のためにゼロックス社からジョブズ自身が引き抜いた業界最高水準の頭脳を持った技術者たちはそれまでのAppleの仕事の進め方、すなわちジョブズによるトップダウンで物事が決まってしまうやり方には懐疑的だったからだ。

なぜなら彼らの多くは学位を持った技術者であり、例えばスティーブ・ウォズニアックのようなハッカータイプの人間とはまったく違っていた。その彼らからしてみればジョブズの思い描くことはともかく、日々猫の目のように変わる思いつきとしか思えない彼の言動に振り回されるのを嫌ったからだ。

技術者ではないジョブズに仕様から物事の良し悪しに至るまで口を出されては彼らのノルマは焦点を失い、目的を果たせないと考えるようになったらしい...。
結果としてLisa の開発者たちは社長のマイク・スコットにこれ以上ジョブズに口出しさせないように願い出、それが認められることになった。実際スコットはApple IIIの失敗の一旦はジョブズの言動にあったと考えていたからで同じ轍を踏まないようにと考えたわけだ。

実際にスコットによる製品ラインに関する組織変更が発令されたのは1980年の秋だった。
ジョブズがプロジェクトから追い出されたことでLisaは独自の道を歩むことになったが、ある意味その瞬間からLisaはジョブズが望んだ「世界を変えるような製品」にはなり得ない運命を背負ったものといえよう。
まずはこのスティーブ・ジョブズがLisaプロジェクトを離れた時期からその後の約3年間のAppleの主な動きを以下に列記してみよう...。

・1981年1月、スティーブ・ジョブズはMacintoshプロジェクトを乗っ取る(アンディ・ハーツフェルドの言及)
・1982年7月、Lisaチームはすべてのアプリケーションを同時に機能させるマルチタスクに初めて成功
・1982年10月10日、Apple年度販売会議でLisaを公開
・1983年1月19日、LisaはApple IIeと共に公に発表される。ジョブズはそのコンセプトを「革命的」と呼んだ
・1983年1月31日、同日のタイム誌にジョブズは「これから10年間はLisaでやっていけるだろう」といったコメントを載せる
・1983年9月12日、販売不振を価格にあると考えたAppleはソフトウェア一式の添付を止め、ハード単体を6,995ドルに値下げして販売

これまでの我々の認識が正しければ、この時期Appleのスポークスマンとしてスティーブ・ジョブズは表向きの発言はできてもLisa開発に関して手を出せなかったはずだ。しかし例えばアンディ・ハーツフェルドが自書「REVOLUTION in The VALLEY」で紹介している1982年3月の新しいファイル・マネージャー開発に関わるエピソードはビル・アトキンソンらがLisaとMacintoshプロジェクトを掛け持ちしていた事情があったとはいえ、いまだにジョブズがLisa開発の進捗状況にも影響を及ぼす存在であったことを示していると思われる。

ともかく表向き、Lisa 1が発表され出荷された直後までスティーブ・ジョブズはLisa部門の開発にもの申す立場ではなかったことは確かだったが事は急転直下に変わっていく...。

それは1983年4月にジョン・スカリーが社長兼CEOとして就任し11月にはLisaとMac部門は「Apple 32 SuperMicros」という部門に統合されただけでなくその指揮権はスティーブ・ジョブズに託されたからである。したがって翌年1984年1月24日にMacintoshを発表する際、Appleは同時にLisaの改良版Lisa 2シリーズを発表したがその際に自社開発で苦労し出荷後も結果がはかばかしくなかった5.25インチのフロッピーディスクドライブ「Twiggy」に拘っていたスティーブ・ジョブズはやっとMacintoshと同じくソニー製の3.5インチフロッピーディスクドライブの採用を承認したという。

Lisa0817_02.jpg

※「MacWorks」パッケージ。この頃の製品には"Apple 32 SuperMicros" と明記されているがこれは新部門からのプロダクトであることを意味する


今ひとつはっきりしないことも多い。例えば現在私が手にし得た範囲の資料ではLisa 1の出荷からジョブズが「Apple 32 SuperMicros」部門の責任者になるまでの期間、Lisa部門が誰の責任で物事を決められていたのかがよく分からない...。確かに開発プロジェクトのリーダーはジョン・カウチであったが...。

無責任な言い方をするなら...例えば「Twiggy」の開発にこれほど手こずったのならジョブズが決めた仕様だとしても彼は蚊帳の外のはずだし早々に他社製の製品を搭載することにするとか、オペレーションのより安定を図るために「ProFile」採用を止め、最初からハードディスクを内蔵するといった決定をなぜできなかったのかという点が疑問なのだ。

Lisaプロジェクトのリーダーだったジョン・カウチ自身が後に「ProFileのハードディスクは外付けで大きく、しかも遅かった」とか「フロッピードライブもあまりできがよくなかった」などと発言しているほどなのだから、何をか況やではないか...。

それに最終的な販売価格を10,000ドル近くに設定せざるを得なかったにせよ、急遽エグゼクティブ向けへと販売戦略を変更する。そして為に100人ほどの専門営業チームをゼロから作り上げようとしたことなど、あまりにも行き当たりばったりな動向としか思えない。
結局前記のようにLisa部門とMac部門は「Apple 32 SuperMicros」部門に統合され、スティーブ・ジョブズの指揮権の元でLisaメンバーの多くはAppleを去らなければならなくなる。

ジョブズの頭の中はすでにMacintoshが最優先となるべくプロダクトでありLisaは過去の産物だったに違いないが、さすがにLisa 2を完全に葬り去るのははばかれたのか1985年1月にLisa 2/10をMacintosh XLと改名して延命を図ったに見えたものの、結局Appleはそれからたった4ヶ月後の4月29日にLisa 2/10(Macintosh XL)の販売を打ち切ることを公式に発表する。そして奇妙なことに非常に短期間だったとはいえこのMacintosh XLの冠が付いた製品カタログがなかったらしいことも、もともと売ろうという意欲が見えず、その場しのぎのような感じもして気に入らない...(笑)。

スティーブ・ジョブズにしてみればLisaは自分が手がけたプロダクトではないという認識だったに違いないし事実彼は明らかにLisaのデザインが好みではなかったらしい。
Lisaの外観を額が狭い原始人に例えて「クロマニョンルック」と批判したことも知られている。

ただし乱暴にいうなら、Lisaを縦に2分割した上で左半分のサイズと出っ張りを小さくし、フロッピードライブをモニタの下に位置させればMacintoshになるわけだし、MacintoshはそのテクノロジーもデザインもLisaの呪縛から完全に解放され開発された製品ではないこともまた事実である。事実AppleはMacintoshを販売する際には盛んに「Lisa Technology」という言葉を使っている。

うがった見方だと承知の上だが、Lisaそのものよりも「Lisa Technology」に重きを置いた感もするこの辺の経緯は後年スティーブ・ジョブズがAppleを追われて設立したNeXT社の末期において、ハードウェア部門を捨てNeXT Step(OS)のみに専念した事実と重なってしまうように思える。

ともかくLisaはそのソフトウェアテクノロジーひとつをとってみてもジョブズの夢をすべて切り捨ててしまった製品ではないと思える。というか、確かにジョブズはLisa開発チームから追い出されたが、歴史を俯瞰してみると彼の影響力はなぜか続いていたように思えてならない。

GUIやマウスを採用した革新的なパーソナルコンピュータを作ろうとしたのは間違いなくスティーブ・ジョブズの意思による。その強い願望をきっかけとしてGUIを持つことになったLisa開発プロジェクトはその当事者が疎まれていなくなったにもかかわらず仕様を含め、その後もジョブズの影につきまとわれて開発が続いたという印象が強い。
開発者たち自らもLisaが完成に至るにつれ価格設定も含め「これが売れるのだろうか?」と疑問を抱くようになったらしいが、そのひとつひとつのステップでなぜ大きな軌道修正が出来なかったのかが不思議でならないのである。
やはり失敗の一番の原因はAppleが大企業になっていくその歪みの真っ只中にLisaのようなこれまでにないプロダクト開発を置いた点にあるのだろう。
ひと言でいってしまえば多くの天才たちの努力があったにしても企画は勿論、製造から販売に至るまでをそつなくこなすトータルマネジメントの能力がその時代のAppleには欠けていたのだ。

そして冒頭の「もし、最後までジョブズ主導でLisaの開発が行われたとしたら...」の答えだが、もしかしたらLisaのリリースはもっと大幅に遅れたかも知れないし仕様も変わっていたかも知れない。そして何よりも確実なことはいま私たちが知っているMacintoshというパーソナルコンピュータはあのタイミングでは誕生しなかったに違いない。

【主な参考資料】
・「レボリューション・イン・ザ・バレー」オイラリー・ジャパン刊
・「アップル・コンフィデンシャル 2.5J」(上) アスペクト刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
・「アップルデザイン」アクシスパブリッシング刊


1979年制作ロシア版「シャーロック・ホームズとワトソン博士」を観る

世界中で聖書の次に大量部数が読まれているというシャーロック・ホームズ物語だからこれまた多くの役者によって映画やテレビ、舞台などで演じられてきた。私もシャーロッキアンの一人としてこれまでかなりの数の作品を観てきたつもりだがこの度 “30 yaers Anniversary Edition” としてリリースされた1979年制作のロシア版シャーロック・ホームズ物語の存在を最近知った次第。

 
ロシアにもホームズとワトソン二人の銅像があるという。そのモデルは今回ご紹介する作品「シャーロック・ホームズとワトソン博士」のホームズ役、ワシーリー・リヴァーノフとワトスン博士役、ヴィターリー・ソローミンだというからその人気ぶりは理解していただけるだろう。またホームズだけの銅像は珍しくないもののワトソン博士と二人の像ができたのはやはり「シャーロック・ホームズとワトソン博士」の影響に違いない。

この邦題「シャーロック・ホームズとワトソン博士」はソ連時代の1979年にレニングラード、現在のサンクト・ペテルブルグでテレビ放映用として制作されたものだ。本国でも放映直後から人気が高まり結局1986年までに計5本の作品が作られることになった。
また当時は冷戦時代であったもののベルリンの壁を越え、西側諸国においてもひそかに録画され知られていったという。そして本家のイギリスでも評判がよくイタリアのテレビドラマ祭では受賞もしているほどの人気作品らしい。

AltartsDVD.jpg

※「シャーロック・ホームズとワトソン博士」パッケージ


「シャーロック・ホームズとワトソン博士」は「交流」と「血の署名」と題された2部構成になっているが、コナン・ドイル原作の「緋色の研究」と「まだらの紐」のストーリーを元に脚色している点が特徴である。そしてタイトルからも推察できるように本作品のコンセプトは事件の謎解きというよりホームズとワトソンの性格描写および友情に重点をおいている点にある。

ちなみに「緋色の研究」はホームズ物語のスタートであり、ホームズとワトソンが出会い、部屋を共同で借りて使い始めるという要のストーリーが展開されるわけだが、後半の犯行に至った歴史が導かれる第二部のストーリー展開の映像化が少々退屈でやっかいなためか、映画は1933年制作のレジナルド・オーウェン主演作品などが目立つもののストーリーは別物だしこれまできちんと映像化さたものは少ない。そしてホームズ物語の定番となったグラナダTV制作ジェレミー・ブレッド主演の一連の作品「シャーロックホームズの冒険」でも残念なことに「緋色の研究」は制作されていない。

そもそもホームズ物語がこれだけ長い間世界中で読まれ続けているのはそれが単なる探偵小説だからではないといえよう。一番面白い点は何と言ってもホームズとワトソンの友情であり彼らの言動からそれぞれ暖かい人間性が見え隠れすることだ。また事件やトラブルを解決するためにベーカー街221Bを訪れた依頼人たちとのさまざまな人的交流が生き生きと描かれているからこそホームズ物語はリアリティを感じられるわけなのだ。

その二人が出会う原点が「緋色の研究」だからして本来ホームズとワトソンがどのようにして知り合いそして信頼関係を築いていったかを知るには本編は不可欠な存在なのだ。
確かに「緋色の研究」は小説として怠惰に感じる部分もあるしドイルの原作も粗を探せば矛盾する内容もあるものの、ともかくホームズとワトソンの出会いのシーンがあるからこその価値なのだ(笑)。

本編「シャーロック・ホームズとワトソン博士」は二人の出会いから友情が深まるまでを断片的ながら見事に見せてくれる点がユニークでありシャーロッキアンには貴重で楽しい作品なのである。
ドイルの原作にも当初ワトソンがホームズの職業がわからずいろいろと推察する部分もあるが、そのワトソンの自然で当然な心理が上手に描かれていて面白い。

ただし制約のあるテレビドラマとしては原作をどのように脚色したらより主題が明確になりかつ原作のオリジナリティを損なわずにユニークさを出せるかという点が制作者側の難しいところだろう。そうした意味で本作品も原作とは些か違ったストーリー展開を描いている。

例えばシャーロック・ホームズとドクター・H・ワトソンが初めて出会うのは聖バーソロミュー病院の実験室なはずだが、本作品ではすでにホームズが借りているベーカー街の部屋で会っていること。また「まだらの紐」で原著は依頼主の女性を別の部屋で待機させ、ホームズとワトソンの二人だけで危険を予知した部屋でクライマックスを迎えることになっているが、本編では依頼主も共に同じ部屋で事件の確証を得る...などなどだ。また制作の時代背景を感じさせることとしてはこの初対面のときホームズはワトソンに「アフガニスタンに行ってきましたね?」と言う名シーンがあるわけだが本編では「東方植民地に...」と変更されている。これは1979年に勃発したアフガン紛争の影響から台詞を差し替えられたためだという...。

さて実際にDVDを鑑賞した感想だが、まずワトソンの役柄がおちゃらけていなくて真面目なのがよい。ただしグラナダTV制作「シャーロックホームズの冒険」などの印象が強いからか、ヴィターリー・ソローミン役のワトソンは若すぎるようにも思える。しかしホームズ役のワシーリ・リヴァーノフとワトソン役のヴィターリー・ソローミンの二人はいずれも舞台や映画でキャリアを積んだベテラン俳優というだけあって安心して観ていられたがホームズといえば古くはクリストファー・リー、イアン・リチャードソンあるいはロバート・スティーブンスとか最近では死去後もこれぞホームズという誉れが高いジェレミー・ブレッドの印象がどうしても強いためまずはホームズ役が私の頭の中でうまく納まるのかが問題だった。

ともあれホームズ役のワシーリ・リヴァーノフのホームズはお洒落だったりしてなかなか素敵で思ったよりその姿に違和感はなかったものの正直リヴァーノフの声がどうもしっくりこない。というよりそのしわがれた声がちょっと耳について仕方がない...。とはいえ作品としては大変良くできているというべきだろう。

何と言ってもホームズとワトソンとの友情の深まり具合が時間と共に見て取れ、後に多くの難事件を共にすることになる二人の人格を浮き立たせるのに成功していると思う。
前記したように5本作られた作品のうちで現在正規な形で手に入るのはこの「シャーロック・ホームズとワトソン博士」だけのようだが、別途「バスカヴィル家の犬」がリリースされるという情報もあるようで楽しみである。

確かにグラナダTV制作「シャーロックホームズの冒険」の一連の作品は大変クオリティの高い優れたものだが、時代が違い、国が違い、そして制作者・監督が違った作品を鑑賞できるのは無類の喜びである。それは丁度、ひとつの交響曲を別の指揮者、別のオーケストラで聞くような意外性と新しい発見の楽しみがあるからだ。







1984年印刷「Apple 32 SuperMicros」と題するパンフレット考

Lisaに関する資料を集めている関係で米国Apple Computer, Inc.が1984年に印刷した「Apple 32 SuperMicros」ならびに「An introduction to the Macintosh and Lisa product family」と題するパンフレットを入手した。そこにはMac 128Kをはじめ、Lisa2, Lisa 2/5, Lisa 2/10という当時のファミリーが一堂に会した紹介がなされている。この種の資料は当時のAppleがどのような販売戦略を考えていたかの一端を示すものとして私にとっては貴重な資料なのだ。


これまでLisaの誕生にまつわること、その戦略やビジネス的不運に見舞われた要因や時代背景についていろいろと紹介してきたが、資料としてもLisa 2ファミリー一堂がビジュアルで載っているものはなかなか見ることができなかった。しかしこのパンフレットにはMacintosh 128Kをはじめ、Lisa2, Lisa 2/5, Lisa 2/10という当時のファミリーが一堂に会している。

Apple32SM_00.jpg

※「An introduction to the Macintosh and Lisa product family」と題された1984年プリントのパンフレット


このパンフレットが用意されたのは1984年の早い時期に違いない。なぜならその1月24日にMacintosh 128Kが発表されたからだ。そしてAppleはそれと同時に改訂版のLisa、すなわちLisa 2のシリーズを発表する...。
その基本モデルであるLisa 2はLisa 1のメモリの半分(512KB)しか搭載されていなかったが価格を大幅に引き下げて3,495ドルとした。しかし速度は倍速くなったという。

Apple32SM_04-500x344.jpg

Apple32SM_05-500x332.jpg

※当該パンフレットの表面(上)と裏面(下)を開いたところ


Lisa 2の上位モデルはLisa 2/5と称され、5MBの外付けハードディスク「ProFile」が同梱されている。そしてハイエンドモデルのLisa 2/10はその名の通り10MBのハードディスクを内蔵したタイプとなっていた。
無論これらのラインナップは翌年1985年1月に製品ラインを整理することを目的としてLisa 2/10をMacintosh XLと改名しその他のモデルを廃止する間、たった一年間の短命に終わることになる。
このパンフレットにはさかんに「Apple 32 SuperMicros」という記述が目立つし、過日ご紹介した「MacWorks」のパッケージにもこのテキストがある。
実は1983年4月にスティーブ・ジョブズはペプシコーラからジョン・スカリーを引き抜きAppleの社長兼CEOに抜擢したが、その11月にスカリーはジョブズにそれまだ別個の部門だったMacintosh部門とLisa部門を統合し、その指揮権を与えてしまう。その新しい部門名が「Apple 32 SuperMicro」という部門だったのである。
その“32”という意味は勿論Macintoshらが使っている32ビット・マイクロプロセッサを誇る意味で名付けられたものに違いない。

このパンフレットのサイズは約95mm×218mmの縦長に折りたたまれているがそのまま開くと裏表共に4ページ仕様になっている。さらにその全体は二つ折りになっており全体に“Lisa Technology”の詳しい説明が載っている。

Apple32SM_03-436x500.jpg

※当該パンフレットの別の一面をすべて開いたところ


ともかくこの1984年1月に発表された当該ファミリーは「Apple 32 SuperMicro」部門の責任者であり、皮肉にも当初Lisa開発の推進役だったスティーブ・ジョブズ自身に息の根を止められ葬り去られることになった。
うがった見方には違いないだろうが、Lisa主幹設計者の一人だったリッチ・ペイジが「スティーブ・ジョブズは、自分でコントロールさせてもらえないから、Lisaをぶち壊したいんだ」とどなったのも無理からぬことだったと思う。Lisa開発の途中、当時の社長マイク・スコットの判断でLisaチームの責任者から外されたスティーブ・ジョブズはずっとマイク・スコットを恨んでいたというし、周知のようにその反動もあって当時ジェフ・ラスキンによるささやかな研究企画だったMacintoshプロダクトの方に目を移したことは間違いない。

確かにLisaはビジネス的に失策したがゼロックス社パロアルト研究所にスティーブ・ジョブズ自身が乗り込み、そこで暫定ダイナブックとして知られていたAltoならびにSmalltalkのデモに触発されLisaの仕様が決められていったことは事実である。しかし前記したように途中でプロジェクトから外されたためその製品化に至る部分にジョブズの意思は働いていなかったもののLisaの生みの親はその名称も含めて間違いなく誰あろうスティーブ・ジョブズその人であったことは間違いなく、いたずらに感傷的なもの言いをするつもりはないがLisaは生みの親に疎まれたのが短命に終わった直接の要因だったといってもよいのではないか。

「An introduction to the Macintosh and Lisa product family」と題されたこのパンフレットに登場するファミリーはMacintoshが早くも同年9月にメモリを4倍に増やしたMacintosh 512Kが発表され1985年1月にはLisaという名のコンピュータは無くなってしまうのだから何とも現実は厳しく目まぐるしい。
しかし当時Macintosh 128Kのユーザーだった私自身当然といえば当然なのだがLisaはまったく眼中になかった...。しかし有償ではあったもののMacintosh 512Kへのアップグレードは早期に行った記憶がある。
なぜ当時Lisaに興味が向かなかったのかは明白である。ひとつには価格が200万もしたわけで望むことさえ非現実的な価格だったこと、そしてなによりもLisa 1はもとよりLisa 2も販売側に大いに売ろうとする強い意思が感じられなかったことによる...。

この魅力的なパンフレット「An introduction to the Macintosh and Lisa product family」はそうしたAppleの一瞬の歴史を裏付け垣間見せてくれる貴重な資料なのである。
私はといえば当時見向きもしなかったLisa 2を25年も経って手に入れたのだから縁とは奇妙なものだ。そして毎朝メインマシンのMac Proと共に電源を入れ、Lisa 2が無事に立ち上がると心の中で「おはよう」と声をかけずにはいられない...。
特に調べ物があるわけでもない日でもLisa 2の電源は入れるようにしている。
しっかりとした根拠があるわけではないが、こうしたオールドMacは電源を落としたまま長い間使わないでいると動かなくなる確率が高くなるのを経験上知っているからである。
私のLisa 2には調べたいことが終わるまで少なくとも後2,3年はきちんと働いてもらわないとならないのだが...。

【主な参考資料】
・ 「アップル・コンフィデンシャル2.5J」(上巻)アスペクト刊
・ 「レボリューション・イン・ザ・バレー」オライリージャパン刊

ラテ飼育格闘日記(141)

ラテを我が家に迎えてから泊まり込みの旅行はできなくなった...。以前は季節に会わせて女房と、時には両親を交えて京都、奈良、神戸そして札幌などを回って楽しんだものだし仕事でサンフランシスコやボストンあるいはニューヨークといった都市で一週間ほど過ごしたことも多々あったが今ではそれも適わなくなってしまった...。

 
とはいえそのことを嘆いているわけではないし我々が旅行に行けなくなったのはオトーサンたちの問題でありラテが悪いわけではない(笑)。例えば海外旅行などに行く気持ちの方が強ければラテをペットホテルなどに預けることも可能なわけだが、ラテと生活を始めるとき旅行はしばらく...できるだけ封印しようと決めたのはオトーサン自身だった。
無論その意図はせっかく我が家に迎えたラテに寂しい思いをさせたくないというまことに親ばかの一念である。
お仲間のワンコの例をお聞きした範囲では、数日預けても特に問題がないワンコもいるようだし、迎えに行った際にあきらかにすねているワンコもいるという具合にそれぞれの反応があるようだ。しかしラテはこれまでの経緯を含めて飼い主という存在に大変敏感なワンコだと感じているオトーサンとしては、できることなら例え一度でも「ワタシハ...ステラレタノカモ...」と思わせたくないのである。
まったく「ばかばかしい」「アホ」と笑われるであろうことは自覚しているが、それはオトーサンとラテとの人生/犬生なのだから誰にも文句は言わせない(笑)。

Latte141_03.jpg

※ラテとの人生は思った以上にエキサイティングである


しかし現実の生活の中でオトーサンが遠方に行かなければならないという場合も十分にあり得る。ただし幾多のチャンスはあったもののオトーサンは可能な限りラテを最優先に考えてきたのでこれまで一泊家を空けたことはラテが来た翌月(2007年1月)に一度あっただけである。
そのときは女房に留守番を頼んだため安心して出かけたが無論ラテが気になってしかたがなかった。そして戻ってきたオトーサンにラテはといえば目を細めて口を大きく開け、シッポをブルンブルンしながら飛びついてきた。そして私の顔をメガネごと唾液でいっぱいにしたのだった。
それこそこの時はまだ40日ほどのつき合いでしかなかったわけだが、ラテにオトーサンが必要とされていることを実感し涙腺が緩んでしまったことを覚えている。

さてその後もラテ優先の生活を続けているオトーサンだが今般どうしても家を空けなければならない事態が生じたのである。それが仕事なら断ればよいが(笑)、今回は昔会社をやっていた時代の女性社員だった人が結婚するというのだ。
彼女の第2の父親を自負していたオトーサンとしては呼んでいただいたのだから是非にもお祝いを述べに行かなければならない。しかし向かう先は札幌であり日帰りというわけにはいかない...。
結婚式は日曜日の夕刻からだから当日に札幌へいき翌朝に戻るというのが普通かも知れないがオトーサンにとって札幌は第2の故郷でもある。
会社を経営していた時代は東京と札幌の間を毎月1回は往復するということを約13年間も続けてきたものだが、そういえばその札幌に向かうのは何と2年半ぶりとなる。
せっかくの札幌だとすれば旧知の方々にもお会いしたいのは勿論、問題はオトーサンの体力にもある...。若いときのように強行軍となっては後が怖い。とはいえ次に札幌へ行けるのはいつになるかは分からないしといろいろと考えた末、これは良い機会だからと二泊することを決意する...。
土曜日の前日に札幌に入り、日曜日に結婚式に参列、そして翌日の月曜日の午前中の便で戻るというスケジュールを立てたが問題はやはりラテである。

Latte141_02.jpg

※仲良しのビーグル犬ハリーちゃんと


土日の両日は女房が朝晩の散歩を含めてラテの面倒を見てくれるが月曜日はそうはいかない...。結局女房に月曜休暇を取ってもらうことになった(笑)。
これでオトーサンは安心して札幌に向かえると思いきや...ことはそう単純ではないのだ。
それは以前女房が右足の脹ら脛が肉離れになってから本格的にラテのリードを持ったことがなかったことにもよる。なにしろラテのパワーはここのところ一段と強くなり、本気でリードを引いた場合に女房が止めることができるかと思うほどになっているだからだ。
偉そうなもの言いになるが、そもそも愛犬との散歩も経験が重要だし、飼い主はもとより愛犬や行き交うワンコたちに怪我などさせずに過ごすには少なからずノウハウも必要なのである。
毎日散歩をしているオトーサンならラテが苦手なワンコをほぼ覚えているから行き交うときには事前に対処できるが、それを知らない女房なら良かれと思って近づけてしまうかも知れない。そして散歩の課程でどの辺でラテはウンチをしやすいか、あるいは危ない場所はどこか...といった情報もオトーサンは知っているものの残念ながらそのすべてを女房に伝授することは難しい(爆)。

オトーサンは札幌二泊の旅を決意しながらも後ろ髪を引かれる思いで羽田に向かったのである。
飛行機の出発時刻が多少遅れた程度でトラブルもなく午後2時前に札幌駅に到着し、馴染みのラーメン屋で大好きな四川担々麺を食べ満足したオトーサンは荷物を置くため宿泊先の全日空ホテルにチェックインすることに...。
札幌でのあれこれについてここは語る場所ではないので遠慮するが、大通公園などを歩いているとき何度かワンコ連れの人に出会う度「ラテはどうしているのだろうか」と心配になる。ともかくこうして札幌に来てしまったからには2日間ラテの事は女房に任せて忘れようとオトーサンは強く誓うが、何と言うことかその夜ホテルで睡眠中、夢にまでラテが出てくるのだ(笑)。

Latte141_01.jpg

※久しぶりの札幌は生憎雨模様だった


世の中には「夢占い」とか「夢判断」というものがあるが、確かにそれは当人の深層心理や日常の思いが表面化するものであることは間違いないように思う。
旅先で見るラテの夢はやはりというべきか楽しい夢ではなかった。どういうシチュエーションだったかは記憶にないがともかくラテとはぐれてしまったオトーサンが必死で探しているという疲れる夢なのだ。
結局どこかの庭先にしょんぼり繋がれていたラテと巡り会うという結末はまずまずだったが、目が覚めてからも心穏やかではない。まったく困ったオトーサンである。
その心配を増長させる現実の出来事もあった...。
札幌を発つ月曜日の8時頃、オトーサンはチェックアウトの前に自宅に電話を入れた。朝の散歩はいつも6時頃に自宅を出て7時過ぎ、遅くとも7時半頃には戻っているのが通例である。それに前日夜に電話した様子では夕方の散歩が雨模様で早めに戻ったから明日の朝は早めに出かけるつもりだという女房の話だった。
それはいたずらにオシッコを長時間我慢させないようにと言う配慮である。だから8時に電話すれば間違いなくオトーサン留守中最後の散歩は無事に終わっているはずで、それを確認できれば文字通り安心して帰途できるはずだったが、電話しても出ない...。その後10分ほど経ってから再度電話してみたがこれまた出ない。
こうなると心配性のオトーサンの頭は悪い方へとイメージが膨らんでしまう。どこかで女房かラテが怪我でもしたのではないか、何かトラブルがあったのではないか...と。

Latte141_04.jpg

※最近ベンチが好きになったラテは何を思う。しかし犬なのに猫背だ(笑)


さらに時間をおいてから電話をかけたら今度は出た...。いやはや本当にホットする。
女房いわくラテに引きずり回されて約2時間以上もの間、散歩を続けていたという。何しろ一度自宅の前まで戻ったがラテは承知せずそのまま通過し散歩が続いたという(笑)。まあ結果として何事もなかったから良いもののオトーサンは一瞬本当に心配をしてしまったのだ。

予定通り月曜日、札幌11時30分発の飛行機に乗り帰途についたが、途中昼食も取らずに一路自宅に向かい自宅に到着したのは午後3時だった。
玄関のチャイムを鳴らしドアが開いたとき、女房の隣にちょこんと座ったラテがいた。耳を倒し口を開けて満面の笑顔のラテは座りながら尻尾を大きく振っているためお尻全体が揺れている(笑)。
その態度は前回よりずっと落ち着いていてオトーサンに飛びついてはこなかったものの、普段オトーサンに対してベタベタすることのないラテが明らかに喜んでいることが分かった。そして嬉しいことに玄関口でオトーサンの口元をぺろりと舐めた...。
どうやらラテはオトーサンのいないことを良いことにオカーサンとの散歩は自由気ままに振る舞ったようだ。そして驚いたことにオトーサンが留守にしていた間にこれまで設置はしたものの使ってくれなかった出窓のたたきに乗り降りするための三段ステップを使うようになっていた!
ラテにとって...もしかしたら...オトーサンもたまにはいない方が良いのかも知れない...グスン...。

ラテ飼育格闘日記(140)

人間もなにかの折りに意外な一面を見せつけられる場合があるが先日久しぶりにラテの別の一面を見たようで驚いたことがあった。ラテは雌犬に対しては厳しい対応をする場合が多いものの何度か会ったことのある人間に対しては大変人なつっこいワンコだと思っている。いわゆる犬より人間の方が好きなのではないかと思えるほど人に対して外面がよいのだが...。

 

そのラテが本気で人間に対して怒った...。それも初対面でもなくましてや脅かされたりしたわけでもないのに...である。
これまでにも紹介してきたがウィークディの朝の散歩は近隣にある駅前経由となるのが通例だ。駅ビルの階段を上がり、コンコースで一休みしてから3パターンほどの散歩の道順をオトーサンは天候とか自身の体調そしてラテの調子を見ながら決めることにしている。
ある月曜日の朝、コンコースを縦断しその先にある大きな公園に向かおうとしたオトーサンだったが、途中にあるベンチにラテがピョンと飛び乗った...。
最近ベンチに登るということは一休みできることであり、かつ水を飲ませてもらえる...というパターンを覚えたのである。したがって別の場所でもちょっと休憩したいときとか気分を変えたいときになると近所のベンチにリードを引きその上に座ったり腹ばいになったりするラテなのだ。

Latte140_01.jpg

※ベンチで一休み...。オトーサンにお尻を向けて座るとは(笑)


ラテはベンチの中央付近に座り込んでオトーサンにアイコンタクトする。明らかに「水飲みたいなあ...」のサインである。
オトーサンはラテの隣に座り込み散歩に出る際にペットボトルに入れておいた冷たい水を取り出しラテに与えた。
小さなペットボトルの口にラテは上手に舌を出し入れして水を飲む。無論ベンチの脇を通勤の人たちが通り抜けるわけだからオトーサンはリードを最短にして腕に巻き付け安全を図ることは忘れない。それは人通りがある分、中には声をかけてくれたり手を出したりするする人もいるのでセキュリティのためでもある。
ひとしきりラテが水を飲んだからとオトーサンはペットボトルに蓋をしてバッグにしまう動作を始めたとき、この時間たまたま出会う中年の女性が「ラテちゃん!おはよう」と近づいてきてラテの右に座ろうとした...。

何度かこの日記でも紹介したが、この犬好きの方はたまたま出会うラテのことを気に入ってくれ「ラテ、ラテ」と声をかけて下さる。
最初は吠えまくるだけのラテだったが、半年を過ぎる頃からさすがに吠えることが少なくなり、1年近く経つとオトーサンがお渡しするオヤツを女性が「ラテちゃん、お手!」などとラテに向けると腰が引けながらもお手をするまでになったのである(笑)。
まあ朝の忙しい時間帯であり、お互いがいつも通る場所だとはいえ出会うのは多くて一週間に1回程度であり、会わないときには1ヶ月も会わないケースも普通なのだからなかなか慣れないのも分かる理窟だ。しかし公園で出会うワンコの飼い主さんの中には2,3度会えば次には近づいて腹を見せる場合もあるほどだから、吠えなくなるのに半年以上もかかるのは異例のことだという認識は持っていたのだが。

Latte140_03.jpg

※ベンチに座ってオトーサンに目やにをとってもらう


先日の雨上がりの朝もコンコースでその女性に会った。当然のことながらラテの足は濡れているからお手をさせれば手が汚れる。したがってオトーサンは「今日は足が汚れているので...」と遠慮するが「大丈夫です。拭けば済みますから...楽しみなんです」と言いつつラテにお手をさせ、小走りに駅へ走り去ったばかりである。
というわけで問題の月曜日の朝だが、前記したようにベンチの中央にラテが、そしてオトーサンがその左側に座っていた。オトーサンはペットボトルをバッグにしまおうとしている最中だった...。
「ラテちゃん!おはよう」という声と共にいつもの女性が空いていたラテの右側にチョコンと座ろうとしたその瞬間ラテが突然猛烈に怒り出したのである!

ラテが唸ったり吠えるにもさまざまなバリエーションがあるし、威嚇する吠え声も状況により様々に変わる。
例えば知らない人がすれ違いざまに手を伸ばしてくるような場合、そしてラテがその人に脅威を感じる場合はまず唸って威嚇を示しそれでも相手が行為を続けようとすると吠え始めるという手順が普通だ。
ラテと2年半以上生活していて様々な場面に出くわしてきたが、犬に対してはともかく人間に対してこの時ほど突発的で激しい吠え方はなかったと思う。それもまったく知らない人ではなく会った回数、オヤツをその手から食べた回数を数えるなら有に50回以上にもなっているはずの相手なのに...。

オトーサンは前記したようにリードを最短にしラテが10センチも動けないようにしていたことも幸いだったしラテも噛むといった攻撃をしかけるつもりはなかったのかも知れないが見かけは実に凄い一瞬だったのである。
オトーサンもビックリして「大丈夫ですか、歯を当てたりしませんでしたか」と聞くほどだったが飛び退いた女性は「大丈夫です」と言いながらもさすがに堅い表情をしながら去っていった。そういえば女性とはこれまで常に路上だったからラテの横に座るということはなかった。今回はたまたま我々がベンチに座っていてラテの横のスペースが空いていたので親しみから座ってみようと思われたに違いない...。
オトーサンは申し訳ないと思いつつ、反面誰彼かまわずに尻尾を振るワンコではないラテを頼もしく思ったが、正直驚いたことも事実だった。

Latte140_04.jpg

※柴犬のポン吉くんと仲良くツーショット!


怒った理由をラテは語ってくれないから推理するしかないが、ラテにとってまだまだその女性は気を許せる相手には至っていないのだろう。しかし前記したように度々というわけではないもののすでに多くその手からオヤツを貰っているのに何故こうも嫌悪の攻撃をしたのだろうか。オトーサン的には何もそんなに怒ることもないとも思うのだ。尻尾を踏んだわけでもなく驚かしたわけでもないから、ただただ「嫌」だったのだろうか。
まず考えられることは以前にその女性が「リードを持たせていただけますか」というのでオトーサンは気楽に渡そうとしたとき、ラテは恐怖の表情でオトーサンに飛びついたことがあった。ラテにとっては相手は犬連れではないこともあるし、もしかしたらノラ出身のラテには連れていかれるのではないかという気持ちが働くのかも知れない。
それに最近駅のコンコースを別にすればベンチに座って一休みするのはオトーサンも時間的な余裕がある土日に限られてくる。その土日には女房...オカーサンも一緒なわけだが、ベンチに座る際にラテの隣に座るのはいつもオカーサンなのだ。
もしかしたらラテはオカーサンの座るべき場所に別の女性が...それもまだ心を許していない女性が座ろうとしたそのことに怒ったのかも知れない。

普段は知っている人に対してオトーサンが嫉妬するほど口元を舐めたりと友好的に接するラテなのだが、彼女にもまだまだ秘密がありそうだ...。

ソフトハウス時代スタッフの結婚披露宴参列のために札幌へ

ソフトハウス時代の話だが、1990年暮れに札幌支店を開設したことでその後約13年もの間、月に最低1回は札幌と新宿を行き来していた。札幌の街並みが気に入り仕事とは言え出向くのを毎回楽しみにしていたが、それは街並みだけでなく我が子と同様な年代の2人の女性スタッフの笑顔に会うのが嬉しかったからでもある。今般そのひとりW嬢の結婚披露宴に招待いただいたので喜び勇んで駆けつけた...。


札幌の街に入るのは約2年半ぶりになる...。昔は毎月出向いていた場所でもありまだまだロケーションも多少は覚えているからあまり戸惑うことはないしリラックスできる場所でもある。
その札幌には1990年秋に支店を開設してから2003年に事務所を閉鎖するまで実にさまざまなことがあった。

駅近くのビルでプライベートイベントを開催する際には東京本社スタッフ全員は勿論、支援していただく方々ならびにMac Fan誌やMacLife誌の編集長、アップルジャパンのデベロッパー担当者、デザイナー、流通企業担当者、公認会計士、顧問弁護士といった方々にご一緒いただくためホテルのリザーブから航空チケットの手配などに気を使ったことなどが思い出される。そしてイベント終了後は有志たちで小樽観光をしたりと楽しい想い出も多い...。

ruriwedding_01.jpg

※宿泊のホテルに近かったことでもあり時計台の姿も見てきた


今般の結構披露宴参列は1996年4月に当時私の会社に新卒者として入社したW嬢から招待いただいたものだ。W嬢は前記した札幌支店で日常のルーチンワークの他、プライベートイベントの企画ならびに運営全般を取り仕切っていたスタッフでもあり、最後の最後まで苦楽を共にしてきた1人であった。

W嬢と後輩のY嬢2人は会社解散の残務整理に至るまで私の体調と精神状態まで気遣ってくれ、本来は後ろ向きの辛い仕事を最後まできちんとやってのけてくれた。だからというわけではないが両名は私にとって大切な仲間であり、共にそれぞれのご両親たちにも公言してはばからないが「第2の父親」を自負してきた(笑)。したがってW嬢が結婚されたことは大きな喜びであるが反面自分の子供が遠くにいってしまうような寂しさも少々感じている...。

あれは1995年のことだった...。それまで札幌支店に勤務していた女性が結婚退職することになり急遽人材を探す必要が出た。ただしそのときの私にはひとつの強い決意があった。
会社を起業してすでに6年になっていたが幸い業績はよかったこともあり、このチャンスに新しい風を入れてみたいと考えた。どういうことか...。

それは私たちのような超マイクロ企業が起業する場合、当然のこととはいえスタッフ等はどうしても手近から探さざるを得ない。私の会社も日常の事務や雑務をこなしてくれる人材が必要なのは目に見えていたものの新聞などに募集をかける時間も余裕もなかった。そしてどうしても即戦力を期待することでもありそれまで私が勤務していた会社の女性を引き抜き、たった3人で会社をスタートした。その後に経理専門のスタッフを探すときにもその女性の友人を紹介されて雇うことになったが、事ほど左様にいわゆる縁故といった探し方にならざるを得なかったわけだ。前記した札幌支店に勤務していた女性も札幌支店長の姪でありいわゆる縁故採用だったのである。
そうした選択がすべて悪いという訳ではないものの会社が多少でも軌道に乗ったいま、仲間意識だけではない新しい人材を迎えてみたいと思うに至ったのだ。

とはいえこれまた新聞や専門雑誌に頼る自信もなく、結局地元S大学のS先生にお電話をし「新卒者を一人ご紹介いたたけないか」と相談した結果面接を受けに来社したのがW嬢だったのである。
面接の当日私はそのために札幌支店に出張したが、古めかしい事務所の応接室に座っていた彼女は輝いて見えた。
いまもその際に彼女が持参した身上調査票に添付した写真が残っているが、彼女としても重要な就職の機会であるからと最大のおめかしをしてその場に臨んだことは明らかだった(笑)。
結局来年の卒業を待って入社していただくことが決まったが私の役割と責任をあらためて強く感じざるを得なかった。

私自身東証一部上場のいわゆる大企業に入社し、その後社長ひとりしかいないという会社にも勤務した経験から大きいから小さいからといってもそれぞれ短所と長所があることを肌で感じていた。しかしマイクロ企業が大会社にどうしても太刀打ちできないことが2つあるとも実感していた。

その1つは福利厚生であり2つ目が新人教育にかける時間とコストである。
福利厚生の差はどうしようもないので諦めてもらうしかないが、重要なのは小さな会社に勤務したために当人の能力が活かされず、伸びる機会やきっかけもないままに年月だけ過ぎていく...ということになっては申し訳ないし会社にとっても大きな損失だと考えた。したがって入社半年程度までは私の時間を最優先に確保し、我々が何を考えて物作りをしているのかといった企業の根本を知ってもらうのは勿論、新卒のW嬢をなるべく短期間に一人前となるよう教育することを決心したのだった...。

彼女に関する面白いエピソードは多々あるが、ここではそれらに触れないものの彼女の素直さ、聡明さ、そして旺盛な好奇心も手伝って回りからも可愛がられ、前記したように難しい外部との折衝までこなすようになってくれたのである。私はその間、僭越なもの言いではあるが人を育てるという大変難しくもやり甲斐のある仕事に生き甲斐を覚えていた。
その秘蔵のスタッフ(笑)が新しい就職先で頑張っていることは本人からもお聞きしていたものの、結婚するというのだから私の喜びも如何ばかりかとご推察いただけると思う...。

そんな想い出多き札幌に8月1日の土曜日の昼過ぎ到着した。まずは荷物を置いて楽にしようと札幌駅にも近い全日空ホテルにチェックインをする。
以前イベントの際に使った事があるホテルでもあるが当時はフロントの態度や接客が悪く部屋もお世辞にも良いとはいえなかったが、競争激化の影響なのだろうか、内装もリニューアルしたようで清潔感があってよかった。
特にこの全日空ホテルを好んだわけではないがANAの往復チケットを取る際にはホテルとの組み合わせだと安くなるので選んだわけだが2泊目はW嬢の好意で遠方からこられる親戚の方々の宿泊先としてリザーブしたという、「すみれホテル」というところに私の部屋も取っていただいた。

せっかくの...本当に久しぶりの札幌だが冷静に考えるとやはり北海道は遠い(笑)。だいたい自宅から羽田空港までたどり着くのだけでもかなりの時間がかかるわけだし当初一泊で向かう決心をしていた私はこの際だからと思いきって二泊することにしたのである。
その第一は自身の体調を考えてのことだった。戻ってから疲労で寝込むのでは洒落にもならないからと結婚式の前日の土曜日に出発し月曜の午前中の便で戻ろうと予定を組んだ。

札幌はあいにくの天気で、ときおり霧雨が降るなかをY嬢と待ち合わせ、そして夕刻にはこれまた旧知のS先生と三人で夕食を共にし思い出話とマックの話題で盛り上がった...。
翌日も同じような天気の中、結婚式が始まる時間までと札幌駅から大通公園を横切りApple Store Sapporoまで歩いた。
日中だったこともあるのか日曜日の店内に客はほんの2,3人しかおらず、スタッフが交代で「お手伝いすることがあればお申し付けください」と声をかけてくれたが残念ながら聞きたいことはなんにもない...(笑)。
「ありがとう」と返事をしてしばらくは店内の端から隅まで観察して外に出た。

ruriwedding_02.jpg

ruriwedding_03.jpg

※大通公園のテレビ塔(上)とApple Store Sapporo(下)


W嬢の結婚披露宴は「ホテルモントレ エーデルホフ札幌」というそれはそれは立派なホテルだったが130名以上もの参列者が円形テーブルを囲むという規模も大きく華麗な演出が目立った。その参列者の多くは社内結婚ということでもあり現職の諸先輩や同僚、そして友人たちで占められていた。さらに当該勤務先の社長ご夫婦も参列され祝辞を述べられたが嬉しいことに明らかに彼女は現職場で可愛がられていることをひしひしと感じた。

私が今回結婚披露宴の末席に座る気になったのは勿論W嬢の花嫁姿を見たいと考えたと同時に彼女が務めている職場の雰囲気みたいなものを確認したかったからだ。
私の会社が解散した後に縁あって務めた会社、そしてなによりもその新しい環境で生涯の伴侶を得たわけだし、しばらくは旧姓で仕事も続けたいと聞いていたからどんな会社なのだろうと心配と期待が入り交じる複雑な思いを持っていたわけである。

しかし正直安心した...。その社長が若い社員たちから慕われている様が見て取れたし心から新郎新婦の新しい門出を祝福している様子が伝わってくる。
まあ、決定的なことはその社長がiPhone 3Gのユーザーだったこともあるし...(笑)。
冗談はともかく...であれば昔の人の出番はない。なによりも周囲は平均年齢がW嬢と同じという明るい雰囲気で満たされていたし、彼女が皆さんに愛されている事で安堵した自称第2の父はなるべく目立たないようにと心がけた...。
幸いお隣はS先生だったので会話には事欠かなかったしW嬢のご両親にも本当に久しぶりにご挨拶ができた。

ruriwedding_04.jpg

※新婦がお父さんにエスコートされて登場し、和やかで華麗な結婚披露宴が始まった


デジタルカメラを持参したことでもあり、私なりにW嬢のあでやかな姿を多々撮ってきたが両家両親への花束贈呈のシーンでは不覚にも涙腺が緩んでしまった。
大切な人が幸せになる姿を見ることができるのは心から嬉しい反面、今日から遠い所に行ってしまうような、そんな父親の気持ちにも共感し少々寂しくもあった。

この地に引っ越ししてからこれまで、仕事も含めて自宅を二泊も空けたことは初めてだったが、疲れて戻った私を待っていたのは愛犬だった(笑)。
女房の脇にちょこっと座り、口を大きく開け耳を倒して身体全体で喜びを表している。そしてさすがに寂しかったのだろうか、普段は愛想のない愛犬が私の口元をチョロッと舐めた...。そういえば2年前にW嬢が愛犬に会いに来てくれた際のその面白いやりとりを断片的に思い出しながら、私はクーラーの効いた愛犬の部屋でひととき居眠りをしてしまったようだ...。
疲れは費やした時間ではなく移動した距離に比例するという説があるらしいが、いまの私には大好きな札幌も遠くなったようだ。


ラテ飼育格闘日記(139)

ラテとの日常生活はひとつのパターンができたこともあり変化の乏しい毎日になるはずだが、どうしてどうして...少しずつ、そして理由が分からないままに毎日の行動にも変化が出てくる。それも歓迎すべき変化はそれでよいが、ちょっと困ったことも起こっている。

 

この2年半の間、同じ場所でラテは寝起きしオトーサンたちの家の一番広くて環境のよいリビングを占有してきた。
窓際の奥の角にトイレコーナーを設け、その隣にハウス(クレート)を置きラテ専用の場所とした。しかし当初ラテはなかなかこのハウスに入らずオトーサンを心配させたが、いまでは本当に体を休めたいときには自分でドアを開けてその狭い場所に体を丸めて寝るようになった。そしてリビングとキッチンの間は柵で仕切ってあり、キッチン側へは自由に入れないものの我が家で一番広い空間であるリビングを自由に闊歩しているわけだ。

リビングのフローリングの床にお腹と顎をぴたりとつけて寝たり、一部にひいてあるタオルシートの上にころがったり、あるいは電動マッサージチェアや窓際のたたきに上がって寝るなど自由気ままである。
この部屋には基本的に危ないモノを置かないことにしているし、常に新鮮な水を飲めるように注意をしていることもあり柵を閉めればオトーサンたちは数時間の外出も安心してできるようになった。
当初は玄関のドアを開け閉めしたり、鍵をかける音がすると鳴いて騒ぐラテだったが最近はしばらくすれば戻ってくることを知ったのだろう、窓から顔を覗かせ落ち着いてオトーサンが出かける姿を眺めたりしている。

Latte139_05.jpg

※出窓のたたきに寝そべり、カーテン越しにオトーサンの様子を伺うラテ


ところで狭い家ではあるがオトーサンの部屋は2階にあるためラテが吠えたり、食事の時間や遊ぶ時間など以外ラテがそのリビングでどのように行動し過ごしているかは分からない。やはりオトーサンたちがリビングにいるときはラテは嬉しそうでもあるが逆に多少緊張するようだし、オトーサンの目を意識した行動を取るようだ。
ではオトーサンたちの目がないとき、リラックスしているときのラテがどのようにリビングで過ごしているかを知りたいと思い、監視の意味も含めて小さな監視カメラを手に入れてリビングに設置してみた。

Latte139_06.jpg

Latte139_07.jpg

※ワイヤレスカメラ(上)。親指の大きさと比較してその小型なのがおわかりだろう。そして小さな液晶テレビでリビングの様子をモニターできる(下)


これはカメラ部位が発信機となっており、カラー映像と音声をワイヤレスで受信機に送ってくれるものでカメラ側は大変小型であるばかりかバッテリーでも動作するので設置が簡単である。また受信機に小さな液晶テレビを取り付けてこれをオトーサンの日常過ごすコンピュータルームに置いておけばラテの行動はカメラの視野範囲ではあるものの把握が可能なわけだ。
まあ、想像するまでもなくラテが日常オトーサンが期待するような変わった行動をしているわけではなく、そのほとんどを寝て過ごしていることは知っている。しかしこの監視カメラの設置で「ラテはどうしているのだろう?」という時、わざわざ階段を下りて様子を見に行く必要がなくなったことは思った以上に楽なのだ。それにオトーサンが見に行くと当然のことながら眠っていたラテを起こしてしまうことになり躊躇していたのである...。
カメラ自体は遠隔でコントロールできるタイプではないのでラテの位置が視野角を外れると当然見えなくなったり尻尾の一部しか確認できないこともあるが、これで日常をモニターできるわけで安心していられるのはありがたい。

ということでラテの日常は大方オトーサンは把握しているわけだが、この数ヶ月でラテの行動が著しく変わったことがいくつか出てきた...。
そのひとつはラテが室内でオシッコをしなくなったことだ。
前記したようにリビングの隅にはラテが我が家に来た当初から同じ場所にトイレシートを二枚置いてある。もともとウンチは室内でまったくしないラテだったがオシッコは1日に2回ほどはやってくれいた。それが最近はまったくしなくなったのだ。
散歩は朝晩2回だから例えば夕方の6時半に散歩から戻ったとすると翌朝の散歩に出かけるまでに12時間ほどは我慢することになる。オシッコを我慢し過ぎれば人間同様に膀胱炎を患う可能性が多くなる。だから変な我慢をせずにシートで以前の通り済ませて欲しいのだが、これがどうにもうまくいかない...。
だから外に出た途端に座り込んで大量のオシッコをする姿を見ていると心配になってくるオトーサンなのだ。

Latte139_01.jpg

※日中は気温が高くなってきたので健康管理には十分注意をしないと...


ではなぜ室内でオシッコをしなくなってしまったのか?
それが分かれば苦労はないのだが、理由がよくわからないのである...。しかし何とか状況を変えたいといろいろと考えてみた。
考えた末にふと思いついたのはオシッコを室内でしなくなった時期とラテがハウスを本当の意味で自分の隠れ家と思うような使い方になったときとが同じ時期ではないかと気がついたのである。
なぜハウスの隣にトイレシートを置いたか...。それは最初に読んだ育児書数冊にそう書いてあったからだ(笑)。
サークルでワンコのエリアを作り、その中にハウスとトイレシートを置く...といった具合に。まあラテの場合はリビング全体がサークルみたいなものだから実際にはサークルを使わなかったが...。
しかしワンコは自分のテリトリーの中ではオシッコやウンチをしないというのもまた事実なのだ。この辺の徹底ぶりは実に見事というしかない。
病的な下痢のときに室内にやってしまったことはあるが、幼犬のときの2,3度を別にすればオシッコを他の場所でやったことはまったくなく散歩に出た際も玄関の内外はもとよりいわゆる自宅の境界から出る前には絶対しないのである。
そんなことを考えていまさらながらではあるが、本当の意味でハウスやその回りのテリトリーを自分の領域だと認識するようになった反動なのかと思いハウスの場所をトイレシートからかなり離してみることにした。
考えるまでもないが我々だって寝る場所のとなりに便器は置きたくない(笑)。
その引越の効果はまだ現れていないが何とかオシッコは室内でやって欲しいのだが...。

とそれからもうひとつは高さ60センチほどの出窓のたたきに、パイプ椅子経由で飛び上がりそのたたきで昼寝をしたり窓の外を通る人やワンコに吠えたりして楽しんでいるラテだが、これまたどうしたことかそのたたきから降りなく...降りられなくなってしまったのである。
以前はそのたたきから直接床に飛び降りていたが最近は食事の時間とか散歩に出かける時間になったとき、降ろしてくれと「クーン」と鳴くのである(笑)。
最初は甘えているのだろうとオトーサンは喜んで抱きかかえ降ろしていたのだが、どうやら怖くなったらしい...。たたきの面は大変すべる材質でもあり、踏み切るときに数回すべって落ちたこともあるのでそれで怖くなったのだろうか...。しかし怖いなら登らなければよいのだが(笑)。それに降りるにも登るときに使った椅子経由で降りれば多少でも床に対して近くなるはずだが、その道理は分からないらしい。
ともかく以前は飛び降りることも自由にやっていたラテが登りっぱなしでは心配でならない。先日などはカーテン越しではあるものの西日に当たったまま横になっている姿を見て日射病にでもなってしまうのではと思ったくらいなのだ。

それやこれやで今後のこともあるからとワンコ専用の階段を奮発した...。
三段形式になっているものでなかなかしっかりした作りになっているしステップの位置には滑り止めのマットがベルクロで貼ってある。これなら容易に上り下りができるだろうと考えたのだが、これが...使ってくれないのだ(笑)。

Latte139_04.jpg

※大型犬まで使えるという頑丈な三段のステップだが、ラテは使ってくれない...(嗚呼)


しかしラテは階段が苦手なわけではない。自宅の2階に通じる階段はかなり勾配が急だが実に軽快に上り下りするし、公園に設置している遊具の丸太の階段まで器用に使うのに...である。
まあ警戒を解くまで気長に対処しなければいけないのだろうが、オトーサンの格闘はまだまだ続きそうだ。

広告
ブログ内検索
Macの達人 無料公開
[小説]未来を垣間見た男 - スティーブ・ジョブズ公開
オリジナル時代小説「木挽町お鶴御用控」無料公開
オリジナル時代小説「首巻き春貞」一巻から外伝まで全完無料公開
ラテ飼育格闘日記
最新記事
カテゴリ
リンク
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

プロフィール

mactechlab

Author:mactechlab
主宰は松田純一。1989年Macのソフトウェア開発専門のコーシングラフィックシステムズ社設立、代表取締役就任 (2003年解散)。1999年Apple WWDC(世界開発者会議)で日本のデベロッパー初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) 受賞。

2000年2月第10回MACWORLD EXPO/TOKYOにおいて長年業界に対する貢献度を高く評価され、主催者からMac Fan MVP’99特別賞を授与される。著書多数。音楽、美術、写真、読書を好み、Macと愛犬三昧の毎日。2017年6月3日、時代小説「首巻き春貞 - 小石川養生所始末」を上梓(電子出版)。続けて2017年7月1日「小説・未来を垣間見た男 スティーブ・ジョブズ」を電子書籍で公開。また直近では「木挽町お鶴捕物控え」を発表している。
2018年春から3Dプリンターを複数台活用中であり2021年からはレーザー加工機にも目を向けている。ゆうMUG会員