ホームコンピュータの元祖「Altair 8800」物語(1)
定義にもよるもののパーソナルコンピュータはApple II からスタートしたと考えて間違いない。樹脂製の綺麗なケースに収まり、購入後電源コードと家庭用テレビを繋げばそれだけで即利用できるコンピュータはそれまでなかった。そのApple IIがパソコンの元祖なら個人でコンピュータを所有するきっかけとなったのはMITS社の Altair 8800 だという話しは定説になっている。
当サイトの常連の方には多々重複な物言いになるが、私は1977年にワンボード・マイコンを入手したのをきっかけにそれこそ数十ものマイコンやパソコンを使ってきた。しかし結局1984年にMacintoshを手に入れてからずっとMacを愛用しつづけ、そのソフトウェア開発を仕事にしてしまった1人である。
またAppleという企業文化に最初期から興味を持ちその成り立ちや製品の歴史といったことにも興味を持って調べてきたし現在もいつでも起動するLisaをはじめとするオールドMacに囲まれている。

※「ポピュラーエレクトロニクス誌」1975年4月号に広告掲載されたAltair 8800
なぜスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックはAppleという会社を作るに至ったのか、そしてApple IやApple IIというコンピュータは当時どんな感慨をもってユーザーに評価されたのか。ウォズニアックはApple IやApple IIを設計するとき参考にした前例はあったのだろうか…といったどこか考古学的な興味に突き動かされてここまできた。しかし私は決して古いコンピュータそのもの、ハードウェアに興味があるのではない。
私にも一時期 ”Appleコレクター” という称号をいただいたこともあった。しかし言い訳めくが私はあくまでソフトウェアやOSを動作させるために最低限必要な古いマシンを所有しているだけであり、自身でコレクターとはまったく思っていない。
それに近年はとみにハードウェアとかソフトウェアそのものに対してではなく、それらを生み出した時代背景やその開発に関わった生身の人間たちのドラマに興味が移っている。

※1978年になると私自身も猛烈にコンピュータ理論をはじめプログラミングなどを勉強していった。同年夏には私の記事が早くもマイコン雑誌 I/O などに載るようになった
また当然のことながら何の脈絡もなくAppleという企業ができたわけでもないし時代的な背景を無視して2人のスティーブが青春を送っていたわけではないはずだ。
ウォズニアックがApple I を開発してみようとした動機もあるわけだし、その時代のマニアたちは何を求め、何を欲していたかにも興味がわいてきたのである。
その興味に引きずられ、これまで本棚に飾ったままになっていた数冊の本をあらためて読み、一部当時の資料の現物を苦心して入手し、個人とコンピュータの接点とその歴史を再確認してみようと考えた次第である。
そうした視点からしばらくの間、Apple以前のホームコンピュータ登場物語にお付き合いいただこうと思う…。
時代背景をより認識することでAppleという企業やApple IIといったパーソナルコンピュータの存在意義がより明確になってくるのではないだろうか。
さて前回ご紹介した「ポピュラーエレクトロニクス誌」を1975年1月号から12月号まで手に入れたのもそうした調査の一環だし、「ポピュラーエレクトロニクス誌」がきっかけとなってホビーコンピュータ熱が燃え上がった「Altair 8800」というマシンの物語にも興味を持った。

※「ポピュラーエレクトロニクス誌」1975年1月号から12月号まで(筆者所有)
TVドラマ「パトルオブシリコンバレー」の中でスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの2人がホームブリュー・コンピュータクラブでApple I を披露するシーンがあり、同時に持ち込まれたAltair 8800を「あんなの目じゃない」と豪語するシーンが描かれている。しかし後にウォズニアックが開発したApple IIにしても先達のAltair 8800 から影響を受けたことはあるはずだ...。

※ホームブリュー・コンピュータクラブで紹介されるAltair 8800。TVドラマ「パトルオブシリコンバレー」でのシーン
いや、ウエストコーストコンピュータフェア(WCCF)を主催したジム・ウォーレンによればウォズニアックやジョブズらが出入りを始めたホームブリューコンピュータクラブはそもそもAltair 8800の登場に触発される格好で発足したというから影響云々以前の問題であろう。
例えばその仕様は違うにしてもApple IIの拡張スロットを多数装備することに関しジョブズは2つで良いと反論したそうだが、この点はウォズニアックが珍しく「どうしてもそうしたいのなら、どこかほかでコンピュータを手に入れろよ」とスティーブ・ジョブズにくってかかり、頑として自分の主張を通して希望通り8本の実装となった。それは「Altair 8800」がS-100と呼ばれる拡張バスを18本も装備していたことと無関係ではないと思う。ただしその内の2つはCPUボードとインターフェースカードで占有されていたからユーザーが使えるのは16本だったが…。
こうした拡張スロットの話しをすると現在のユーザーは「そんなに必要なんですか?」と不思議そうな顔をする。しかし例えば1982年当時私のApple IIのスロットは16KB RAMカード、プリンタインターフェース、フロッピーコントローラーをはじめとしてライトペンシステム、ビデオデジタイザ、Z80カードなどで埋まっていた。そしてそれでも不足なので「SWITCH-A-SLOT」という拡張スロットを4つ増やす機器まで手に入れた経緯がある。
まあ分かりやすく申し上げるなら現在はUSB接続で様々な周辺機器が利用できるからその代わりといえばよいのだろうか…。


※1982年当時の私のApple IIはスロットはほとんど空いてなく(上)、スロットを4本追加できる「SWITCH-A-SLOT」という周辺機器まで入手していた(下)
Altair 8800が飛ぶように売れ始めるとサードパーティからメモリボードやCRTディスプレイボードなど様々なS-100ボード製品が登場し、それがまたAltair 8800の魅力となったその事実をウォズニアックはよく知っていたのではないだろうか。無論それらはコンピュータそのものの応用が多義に渡る利点もある。
コンピュータの存在意義は申し上げるまでもなくフロントパネルのランプがチカチカしているのを楽しむためではない。ユーザーが考える仕事や遊びを実現できてこそのコンピュータなわけだから特にこの頃の拡張性は生命線だったといえよう。実際Apple IIの魅力はその拡張性にあったといえるわけでウォズニアックはAltair 8800に学んだのではないか...。
先日のトピック「スティーブ・ジョブズ29歳のPLAYBOY」誌インタビューが凄い」でスティーブ・ジョブズがインタビューに答えているが、この1984年当時でも個人がコンピュータを所有することはどのような意味があるのか…という点に明快な答えを出せる人はほとんどいなかった。ましてや1975年に個人でコンピュータを手に入れたとしてそれで何が変わるのか、何のためになるのかなど考える人もいなかったしそうした市場をビジネスとして捉えることができる人もいなかった。
何しろAltair 8800を開発して販売したMITS社のエド・ロバーツにしても果たして市場があるのかないのかさえも分からなかったという。
開発を決意した後、そのキットが受け入れられるのかを知りたくなったロバーツは知り合いのエンジニアたちにキットの説明をして買う意志があるかを尋ねたが誰も欲しいとは言わなかったという。
結果としてロバーツは実業家というより自身がホビーストの気概を強く持った人物だったのだろう。だからこそ仲間たちの反応にはがっかりしたものの自分の信念を貫き、コンピュータの開発を進めたのである。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊
当サイトの常連の方には多々重複な物言いになるが、私は1977年にワンボード・マイコンを入手したのをきっかけにそれこそ数十ものマイコンやパソコンを使ってきた。しかし結局1984年にMacintoshを手に入れてからずっとMacを愛用しつづけ、そのソフトウェア開発を仕事にしてしまった1人である。
またAppleという企業文化に最初期から興味を持ちその成り立ちや製品の歴史といったことにも興味を持って調べてきたし現在もいつでも起動するLisaをはじめとするオールドMacに囲まれている。

※「ポピュラーエレクトロニクス誌」1975年4月号に広告掲載されたAltair 8800
なぜスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックはAppleという会社を作るに至ったのか、そしてApple IやApple IIというコンピュータは当時どんな感慨をもってユーザーに評価されたのか。ウォズニアックはApple IやApple IIを設計するとき参考にした前例はあったのだろうか…といったどこか考古学的な興味に突き動かされてここまできた。しかし私は決して古いコンピュータそのもの、ハードウェアに興味があるのではない。
私にも一時期 ”Appleコレクター” という称号をいただいたこともあった。しかし言い訳めくが私はあくまでソフトウェアやOSを動作させるために最低限必要な古いマシンを所有しているだけであり、自身でコレクターとはまったく思っていない。
それに近年はとみにハードウェアとかソフトウェアそのものに対してではなく、それらを生み出した時代背景やその開発に関わった生身の人間たちのドラマに興味が移っている。

※1978年になると私自身も猛烈にコンピュータ理論をはじめプログラミングなどを勉強していった。同年夏には私の記事が早くもマイコン雑誌 I/O などに載るようになった
また当然のことながら何の脈絡もなくAppleという企業ができたわけでもないし時代的な背景を無視して2人のスティーブが青春を送っていたわけではないはずだ。
ウォズニアックがApple I を開発してみようとした動機もあるわけだし、その時代のマニアたちは何を求め、何を欲していたかにも興味がわいてきたのである。
その興味に引きずられ、これまで本棚に飾ったままになっていた数冊の本をあらためて読み、一部当時の資料の現物を苦心して入手し、個人とコンピュータの接点とその歴史を再確認してみようと考えた次第である。
そうした視点からしばらくの間、Apple以前のホームコンピュータ登場物語にお付き合いいただこうと思う…。
時代背景をより認識することでAppleという企業やApple IIといったパーソナルコンピュータの存在意義がより明確になってくるのではないだろうか。
さて前回ご紹介した「ポピュラーエレクトロニクス誌」を1975年1月号から12月号まで手に入れたのもそうした調査の一環だし、「ポピュラーエレクトロニクス誌」がきっかけとなってホビーコンピュータ熱が燃え上がった「Altair 8800」というマシンの物語にも興味を持った。

※「ポピュラーエレクトロニクス誌」1975年1月号から12月号まで(筆者所有)
TVドラマ「パトルオブシリコンバレー」の中でスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの2人がホームブリュー・コンピュータクラブでApple I を披露するシーンがあり、同時に持ち込まれたAltair 8800を「あんなの目じゃない」と豪語するシーンが描かれている。しかし後にウォズニアックが開発したApple IIにしても先達のAltair 8800 から影響を受けたことはあるはずだ...。

※ホームブリュー・コンピュータクラブで紹介されるAltair 8800。TVドラマ「パトルオブシリコンバレー」でのシーン
いや、ウエストコーストコンピュータフェア(WCCF)を主催したジム・ウォーレンによればウォズニアックやジョブズらが出入りを始めたホームブリューコンピュータクラブはそもそもAltair 8800の登場に触発される格好で発足したというから影響云々以前の問題であろう。
例えばその仕様は違うにしてもApple IIの拡張スロットを多数装備することに関しジョブズは2つで良いと反論したそうだが、この点はウォズニアックが珍しく「どうしてもそうしたいのなら、どこかほかでコンピュータを手に入れろよ」とスティーブ・ジョブズにくってかかり、頑として自分の主張を通して希望通り8本の実装となった。それは「Altair 8800」がS-100と呼ばれる拡張バスを18本も装備していたことと無関係ではないと思う。ただしその内の2つはCPUボードとインターフェースカードで占有されていたからユーザーが使えるのは16本だったが…。
こうした拡張スロットの話しをすると現在のユーザーは「そんなに必要なんですか?」と不思議そうな顔をする。しかし例えば1982年当時私のApple IIのスロットは16KB RAMカード、プリンタインターフェース、フロッピーコントローラーをはじめとしてライトペンシステム、ビデオデジタイザ、Z80カードなどで埋まっていた。そしてそれでも不足なので「SWITCH-A-SLOT」という拡張スロットを4つ増やす機器まで手に入れた経緯がある。
まあ分かりやすく申し上げるなら現在はUSB接続で様々な周辺機器が利用できるからその代わりといえばよいのだろうか…。


※1982年当時の私のApple IIはスロットはほとんど空いてなく(上)、スロットを4本追加できる「SWITCH-A-SLOT」という周辺機器まで入手していた(下)
Altair 8800が飛ぶように売れ始めるとサードパーティからメモリボードやCRTディスプレイボードなど様々なS-100ボード製品が登場し、それがまたAltair 8800の魅力となったその事実をウォズニアックはよく知っていたのではないだろうか。無論それらはコンピュータそのものの応用が多義に渡る利点もある。
コンピュータの存在意義は申し上げるまでもなくフロントパネルのランプがチカチカしているのを楽しむためではない。ユーザーが考える仕事や遊びを実現できてこそのコンピュータなわけだから特にこの頃の拡張性は生命線だったといえよう。実際Apple IIの魅力はその拡張性にあったといえるわけでウォズニアックはAltair 8800に学んだのではないか...。
先日のトピック「スティーブ・ジョブズ29歳のPLAYBOY」誌インタビューが凄い」でスティーブ・ジョブズがインタビューに答えているが、この1984年当時でも個人がコンピュータを所有することはどのような意味があるのか…という点に明快な答えを出せる人はほとんどいなかった。ましてや1975年に個人でコンピュータを手に入れたとしてそれで何が変わるのか、何のためになるのかなど考える人もいなかったしそうした市場をビジネスとして捉えることができる人もいなかった。
何しろAltair 8800を開発して販売したMITS社のエド・ロバーツにしても果たして市場があるのかないのかさえも分からなかったという。
開発を決意した後、そのキットが受け入れられるのかを知りたくなったロバーツは知り合いのエンジニアたちにキットの説明をして買う意志があるかを尋ねたが誰も欲しいとは言わなかったという。
結果としてロバーツは実業家というより自身がホビーストの気概を強く持った人物だったのだろう。だからこそ仲間たちの反応にはがっかりしたものの自分の信念を貫き、コンピュータの開発を進めたのである。
つづく
【参考資料】
・「Popular Electronics」 1975年1月号~3月号
・「パソコン革命の英雄たち~ハッカーズ25年の功績」マグロウヒル社刊
・「アップルを創った怪物」ダイヤモンド社刊
・「マッキントッシュ伝説」アスキー出版局刊