植木等主演「ニッポン無責任時代」と私のサラリーマン時代
講談社から「昭和の爆笑喜劇 DVDマガジン」が4月9日に発刊された。その創刊号には1962年制作で植木等主演の「ニッポン無責任時代」が収録されている。その時代を引きずった70年代初頭から私は会社勤めを体験するわけだが、無論無責任ではなく一生懸命働いたことは間違いない。しかしいま思えば確かにおかしな時代だった気もする。ちなみに今日は「昭和の日」、それに因んで今回はそんな時代のサラリーマン事情を思い出してみた。
私が就職したのは顔料・染料のメーカーだった。創業者の社長が興に乗ったとき「色の道を究める…」などと発言して笑いをとっていた。
植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」に登場する会社や事務所の雰囲気はその時代の職場を思い出させるが、確かにいま思えば特異な時代だったし、いい加減というのが言い過ぎなら寛容な時代だったといえようか…。とはいえ現実の世界がこうであったハズはない。
その辺の詳しい時代背景についての解説は紀田順一郎先生のサイトに紹介されているので是非ご覧になっていただきたい...。
※植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」予告編
さて、私の勤務先は東証一部上場企業だったとはいえエントランスには受付嬢が交代で詰めていたしエレベータの顧客用一基にはエレベーター嬢もいた。そして電話交換手がすべての送受話を管轄していた時期もあり、社内電話も交換手を通さなければならない場合もあったと記憶している。まあ当時の大企業とは皆こんなものだったようだ。
入社後1ヶ月ほどの工場研修、自衛隊体験入隊そして2週間ほどの本社研修を終えて配属が決まった私はいわゆる原材料を全国から調達する資材課の仕入業務を担当する部署に回された。当初「購買部購買課」というその配属名を聞き、鉛筆やらノートでも配る係かと落胆したことを思い出す(笑)。
大企業だったが机の上には4人ほどが共同で使う電話機しかなかった。電卓は20人ほどいた部署に1台あったが壊れていて使えなかったし計算業務は自前のソロバンで行い、仕入元帳への記帳は全国の工場や支店から集められた原始伝票からつけペンで行った。インクはブルーブラックだっと思う。したがって机の中は吸い取り紙と鉛筆および消しゴム、そして定規くらいしかなかった。その数年後に富士通の大型コンピュータが導入されるまでは…。
無論いわゆる臭い湿式青焼きコピー機はあったもののゼロックスコピーもFAXも無い時代であった。
私の仕事は全国から集められた原材料仕入に関する請求書を仕入元帳と照合して支払金額を決定することだった。コンピュータがあったわけではないから規格や仕様の違う得意先からの請求書を自社の仕入原票と一点一点付き合わせるわけだが、当然とは言え請求書にあっても自社の仕入帳に記載がない場合があり、それらは調査確認のために工場の資材課へ問い合わせたり場合によっては仕入れ先に電話をかけて事情を確認することもあった。ただしこの作業は限られた時間内でしなければならず、時間切れのものは「翌月回し」として処理し当月の支払額から削除するしかなかった。
私も当初は言われたとおり、紋切り型の作業をしていたが少し慣れてくるとこのやり方に疑問を持つようになった。なぜなら「翌月回し」にしろ「仕入なし」と処理され支払がなされないアイテムの多くは結局得意先の誤りではなく自社側の問題であることが多い現実を知ったからである。
例えば月2,3千万円の請求の中で数十万の未払いがあったとしても、またそれが大会社であればそんなにダメージはないかも知れない。しかし中小企業からの100万円の請求の内、30万円とか40万円が未確認のため翌月回しとされた場合、それは企業にとって資金繰りに大きな問題を生じるであろうことが分かったからだ。
事実調査のために仕入れ先に電話をしていろいろな確認をする際、社長だという人物から面識もない若造(私)にその差額が入金できないと大変困るのでなんとかしてくれと哀願されることもあり、事の重大性に胃が痛くなるときもあった。
また支払日にはほとんどの会社が財務部の支払部署に領収書持参で集金に来る時代だった。確か20万円以上は約束手形、それ以下は小切手だったと思うが当時は銀行振込みといったことはやらなかった。無論社員の給料も賞与も振込ではなく封筒に現金が入って渡された時代だった。
あるとき経理に行ったらちょうど賞与の時期だったからガラスの衝立で仕切られたエリアに現金がうずたかく積まれている光景を目にしたこともある。
それから困ったことに支払の当日、財務に支払額が用意されていないというクレームを私達のところに泣きつかれることもあった。調べて見ると請求書そのものが到着していないので経理処理が出来ていないのだった。しかし先方は間違いなく郵送したと粘るだけでなく見るからに困惑した状況を見て若造の私も義侠心をくすぐられ、請求書の再発行をお願いした上で臨時の支払を実施するということもあった。
しかし会社が決めた支払日以外の支払は理由の如何を問わずとても大変だった。まず部署の長である部長の許可印を貰わなければならないが、申し出次第ではあたかも担当者の私のミスのように扱われることもあったし、ましてや財務部の部長に許可を受けるのは至難の業だった。とにかくその財務部長は融通が利かないことで知られていたし機嫌の良い悪いで印象が随分と違う人だった。
私は財務部のお局様といわれていた女性のところに行き事情を説明し部長のスケジュールおよび機嫌のよいときを教えてくれるように哀願した。幸い私はその女性の子供といって良いほどの年齢だったからか本来は怖い人だったはずが電話をくれ「いまなら大丈夫よ」と連絡をくれた(笑)。
私はいそいそと財務部長の前に出向き型どおりのお願いを言うが、言い訳がましいことを嫌う部長だったから余計なことはいわず、ただただ「追加の支払がどうしても必要なので…」とひたすら頭を下げた。結局内容などろくに確認せず、財務部長はこれ見よがしに大きな承認印を押した…。

※1972年秋、伊勢志摩へ部内旅行に行った際の宴会の様子(笑)
そう、自慢話になるが新しいシステムも考え出した。なにしろ当該部署は全国から原材料などを買ってもらおうと大企業から中小零細企業までがいわゆるお百度参りなみに毎日足を運んでくるという特異な部署だった。無論事前のアポイントメントなしで会えるほどこちらの担当者も暇では無かったが、側で見ていて気になったのは来客の待ち時間の長さだった。気が気ではなかった。というかいくらなんでも相手に失礼な話しだと思った。
営業マンらと交渉する担当者は部課長を入れて5人ほどだったが来客はひっきりなしであり、確かに忙しく、担当者らは次に誰が待っているのかなど忘れている場合が多いことに気がついてきた。そこで私は一計を案じ、訪問客の受付時に来訪時間を記録し待ち時間が15分を超える場合は、メモに待っている来訪者の名と来訪時間を記したものを会議室に持って行く習慣をつけた。
担当者らはさすがに込み入った話をしている場合でもそのメモを受け取った場合は話しを切り上げるようになった…。
そんなわけで仕事はきつかったし残業も多かった。それに当初は土曜日も半日出勤(半ドン)だったし事実よく働いた。しかし現代の視点から振り返って見ると実にいい加減な雰囲気も漂っていたようにも思える。
新年の仕事始め、上司に言われたということでもないと思うが女性陣の多くは振り袖を着て出社した。
私の部署は全国の関連企業から原材料を調達するという立場上、多くの企業の担当者らが新年の挨拶に来るという特別な雰囲気を持っていた。
だから新年の受付カウンターには挨拶に持ち込まれる年賀のタオルやらが山のように並び、その隣には一升瓶が置かれていた。無論その酒は新年の挨拶に来た人たちに形だけだとしても飲んで貰うためで未使用のグラスがこれ見よがしに積まれていた。女性陣は来客の対応はもとより、客が使用したグラスを洗って戻すのに大忙しだったが、当時は飲酒運転がどうのこうのといった気遣いはなかった(笑)。
カウンターで名刺を出す客たちの中にはすでに数社回ってきたことが明らかな顔が赤い人たちも多々いたことを思い出す。

※1972年1月4日、仕事始めのオフィスで記念撮影。着物姿の女性も多かった。右から3人目が筆者
私が縁故もなく単なる平だったのにもかかわらず、トラブルも生じず、どちらかというと恵まれたサラリーマン生活を過ごせたのは時代という背景は勿論だが、企業の風土に後押しされたことも含め文字通り芸は身を助けるというそのことであったと思われる。
たぶん身上調査書などに書いたのだと思うが三味線とギターを弾くこと、そして絵でいくつかの賞をとったことがあることなどが尾ひれがついて伝わったのだろう。
入社早々に総務に配属された同期の男から(後に無二の親友となった)会社公認のバンドを組むのでリードギターとボーカルをやってくれと頼まれた。なぜなら夏は屋上でビアーパーティーがあり、年末はクリスマスパーティーを社内で行っていたからだ。
面白いのは時期になると私は会場のデザイン担当と飾り付け、そしてバンド練習に明け暮れ、場合によっては勤務時間中にそれらを業務命令でやったこともある。ただし会場のメインに飾ろうと大きめのキャンバスを数枚に分け、それにキリストを抱くマリア像を自宅で半徹夜で描いたり、殺風景な大会議室の天井には紙製ながら雰囲気を出す立体的な飾りを考案したりもした。
またある時には総務部とか人事部よりイラストレーションの依頼が舞い込んだ。
総務部はなにかの催事(研修だったと思う)に使うポスターを全紙サイズに大きく拡大して欲しいという依頼が、そして人事部も研修に使う資料図版を大きく拡大したものが欲しいので…といった注文だった。無論私は購買部購買課の一平社員であり、その依頼を「はいはい」と受けることができる立場にはない。そうした電話があったときには丁重に「部長の許可をいただかないとどうにもならない」ことをお話しする。当然である。
しかしその後がなかなか面白かった。
普段はほとんど声もかけてくれない雲の上の存在的だった部長から「松田くん、ちょっと」とお呼びがかかる。私は内心「ほら来たぞ」と思いながらも神妙な顔をして部長の前に立つと「忙しいところすまんが総務部長から頼まれてな、これこれこうしたものが必要で君にやって欲しいとの依頼なんだよ。なんとか2日間で仕上げてもらえないだろうか」と言われる。
私はどうなるかは百も承知で「2日といいますと仕事が終わってからの時間では無理だと思いますが…」というと部長は珍しく笑顔で「業務は○○君に代わってもらえ。俺が許可するから勤務時間もフルに使ってよい」とのお墨付きがでる。
それはいま思い出しても、自分で振り返っても奇妙で滑稽な光景だった。
決して暇なわけではない勤務時間中に、同僚や先輩たちが忙しくたち振る舞っている部署で私は空いている机を2つばかり占有し、そこに大きな用紙を広げて絵を描いているのだから…。
いまなら拡大コピーもあるし外注すればカラーで大型サイズのポスターなども簡単に作れるが1970年代には特にカラーで大判を作るためには映画の看板よろしく元絵をそっくりに拡大描写するのが手っ取り早かったのだ。無論私に頼めば制作費はかからない(笑)。

※当時描いたものは一切残っていないが、これは1966年高校時代の文化祭で飾られた水彩画 ^^; なにかの写真か絵を模写したものと思われる...
さらに音協チケットの社内運営管理担当者にされたことで映画ポスターまで描くことになった私は便利な男と思われるようになったらしい。劇団四季の創設者の一人である俳優の日下武史らが舞台後に髪が赤いまま、公演の宣伝すなわちチケット拡販のため会社を訪れたときも私がお会いすることになった。
そんな訳だから別の部署の部長や役員が私の所属する部署を通るとき「あのイングリット・バーグマンを描いたのはお前か」などと声をかけてくれるようになった。いわゆる名前を覚えてもらうことは平社員にとってもいろいろとやりやすいことが多くありがたいことだった。
あるとき私の着用していたシャツが薄いピンク色だったことで誰かがちくったらしく人事部に呼び出された。何しろ当時は泣く子も黙る人事部である(笑)。
仲間からの情報によればどうやらピンク色のシャツは社風に合わないからとお叱りの呼び出しとのこと。まあまあ生意気だった私はその時着用していたのはピンクのシャツにサンローランのど派手なネクタイ、そしてほとんどホワイトのスーツというどっかのチンピラみたいな格好だったから、悪い意味でも目立ったに違いない。
私は意を決して人事部に出向き課長の前に立った。小言は「ピンクのシャツは即刻止めたまえ」だった。「はい、すみませんわかりました」と引き下がるのが普通なんだろうが、怖いものを知らない私は穏やかではあるが反論した。
後学のため教えてください。我が社は顔料・染料のメーカーです。社長は冗談ではありますが常々それを色の道などと称されたこともあります。そして会社の使命はカラーリングで世の中に幸せを表現することだとおっしゃっています。その色を扱う会社がブルーやイエローは良いがピンク色のシャツはダメというのはどうしたことでしょうか…とぶった(笑)。
人事課長のそのときの対応は正直記憶にないが、首にもならずその後もピンクのシャツを着続けたのだから黙認されたに違いない。
まあまあ生意気な社員だったが、当然ながら仕事はきちんとしたし無断欠勤も遅刻もなかった。しかし企業の中にあっても自分というか個性をアピールすることで有利になることもあるのだと言うことを肌で知ったことは確かである。その数年間で人との交渉術の初歩を学んだような気がする…。
勿論、植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」の主人公のようには振る舞えなかったし何の権限もない平社員だったが、今思えば周りに可愛がっていただいたのだろう。
同室の奥にいた専務は早めに出社する私を誘って道路向こうの薬局2階にあった喫茶店でコーヒーを驕ってくれたし、先輩たちは勿論他部署の誰からも虐めを受けたということは1度もなかった。
その会社を7年程度で退職したが、やはり印象深い体験であったのだろう、今でもたまに購買部購買課の一室にいる夢を見ることがある…。
先日「ニッポン無責任時代」を観たという若い人がその感想として「バカバカしい時代」と言い捨てたという話しを聞いた(笑)。無論映画はフィクションであり企業活動があんな感じあれば当時であっても生き残れるはずもない。それに昨今は「三丁目の夕日症候群」などといわれ、昭和という時代を賛美すると単なる懐古趣味だとかそうした時代や人が日本をダメにした…といった反発が出てくる時代になった。しかしそれは他人の評価であり、私はたまたま戦後の昭和という時代に生を受け、それなりに懸命に生きて来ただけの話である。
それに、良くも悪くも自分が生きてきた過去を振り返り、懐かしむ何がいけないのか。私にとって当然のことながら両親や兄弟、友人たち、そして仕事の仲間たちもすべてその時代のまっただ中に存在していたわけで、やり直しが利かないたった一度っきりの人生、大切な時代であったことは間違いないのである。
私が就職したのは顔料・染料のメーカーだった。創業者の社長が興に乗ったとき「色の道を究める…」などと発言して笑いをとっていた。
植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」に登場する会社や事務所の雰囲気はその時代の職場を思い出させるが、確かにいま思えば特異な時代だったし、いい加減というのが言い過ぎなら寛容な時代だったといえようか…。とはいえ現実の世界がこうであったハズはない。
その辺の詳しい時代背景についての解説は紀田順一郎先生のサイトに紹介されているので是非ご覧になっていただきたい...。
※植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」予告編
さて、私の勤務先は東証一部上場企業だったとはいえエントランスには受付嬢が交代で詰めていたしエレベータの顧客用一基にはエレベーター嬢もいた。そして電話交換手がすべての送受話を管轄していた時期もあり、社内電話も交換手を通さなければならない場合もあったと記憶している。まあ当時の大企業とは皆こんなものだったようだ。
入社後1ヶ月ほどの工場研修、自衛隊体験入隊そして2週間ほどの本社研修を終えて配属が決まった私はいわゆる原材料を全国から調達する資材課の仕入業務を担当する部署に回された。当初「購買部購買課」というその配属名を聞き、鉛筆やらノートでも配る係かと落胆したことを思い出す(笑)。
大企業だったが机の上には4人ほどが共同で使う電話機しかなかった。電卓は20人ほどいた部署に1台あったが壊れていて使えなかったし計算業務は自前のソロバンで行い、仕入元帳への記帳は全国の工場や支店から集められた原始伝票からつけペンで行った。インクはブルーブラックだっと思う。したがって机の中は吸い取り紙と鉛筆および消しゴム、そして定規くらいしかなかった。その数年後に富士通の大型コンピュータが導入されるまでは…。
無論いわゆる臭い湿式青焼きコピー機はあったもののゼロックスコピーもFAXも無い時代であった。
私の仕事は全国から集められた原材料仕入に関する請求書を仕入元帳と照合して支払金額を決定することだった。コンピュータがあったわけではないから規格や仕様の違う得意先からの請求書を自社の仕入原票と一点一点付き合わせるわけだが、当然とは言え請求書にあっても自社の仕入帳に記載がない場合があり、それらは調査確認のために工場の資材課へ問い合わせたり場合によっては仕入れ先に電話をかけて事情を確認することもあった。ただしこの作業は限られた時間内でしなければならず、時間切れのものは「翌月回し」として処理し当月の支払額から削除するしかなかった。
私も当初は言われたとおり、紋切り型の作業をしていたが少し慣れてくるとこのやり方に疑問を持つようになった。なぜなら「翌月回し」にしろ「仕入なし」と処理され支払がなされないアイテムの多くは結局得意先の誤りではなく自社側の問題であることが多い現実を知ったからである。
例えば月2,3千万円の請求の中で数十万の未払いがあったとしても、またそれが大会社であればそんなにダメージはないかも知れない。しかし中小企業からの100万円の請求の内、30万円とか40万円が未確認のため翌月回しとされた場合、それは企業にとって資金繰りに大きな問題を生じるであろうことが分かったからだ。
事実調査のために仕入れ先に電話をしていろいろな確認をする際、社長だという人物から面識もない若造(私)にその差額が入金できないと大変困るのでなんとかしてくれと哀願されることもあり、事の重大性に胃が痛くなるときもあった。
また支払日にはほとんどの会社が財務部の支払部署に領収書持参で集金に来る時代だった。確か20万円以上は約束手形、それ以下は小切手だったと思うが当時は銀行振込みといったことはやらなかった。無論社員の給料も賞与も振込ではなく封筒に現金が入って渡された時代だった。
あるとき経理に行ったらちょうど賞与の時期だったからガラスの衝立で仕切られたエリアに現金がうずたかく積まれている光景を目にしたこともある。
それから困ったことに支払の当日、財務に支払額が用意されていないというクレームを私達のところに泣きつかれることもあった。調べて見ると請求書そのものが到着していないので経理処理が出来ていないのだった。しかし先方は間違いなく郵送したと粘るだけでなく見るからに困惑した状況を見て若造の私も義侠心をくすぐられ、請求書の再発行をお願いした上で臨時の支払を実施するということもあった。
しかし会社が決めた支払日以外の支払は理由の如何を問わずとても大変だった。まず部署の長である部長の許可印を貰わなければならないが、申し出次第ではあたかも担当者の私のミスのように扱われることもあったし、ましてや財務部の部長に許可を受けるのは至難の業だった。とにかくその財務部長は融通が利かないことで知られていたし機嫌の良い悪いで印象が随分と違う人だった。
私は財務部のお局様といわれていた女性のところに行き事情を説明し部長のスケジュールおよび機嫌のよいときを教えてくれるように哀願した。幸い私はその女性の子供といって良いほどの年齢だったからか本来は怖い人だったはずが電話をくれ「いまなら大丈夫よ」と連絡をくれた(笑)。
私はいそいそと財務部長の前に出向き型どおりのお願いを言うが、言い訳がましいことを嫌う部長だったから余計なことはいわず、ただただ「追加の支払がどうしても必要なので…」とひたすら頭を下げた。結局内容などろくに確認せず、財務部長はこれ見よがしに大きな承認印を押した…。

※1972年秋、伊勢志摩へ部内旅行に行った際の宴会の様子(笑)
そう、自慢話になるが新しいシステムも考え出した。なにしろ当該部署は全国から原材料などを買ってもらおうと大企業から中小零細企業までがいわゆるお百度参りなみに毎日足を運んでくるという特異な部署だった。無論事前のアポイントメントなしで会えるほどこちらの担当者も暇では無かったが、側で見ていて気になったのは来客の待ち時間の長さだった。気が気ではなかった。というかいくらなんでも相手に失礼な話しだと思った。
営業マンらと交渉する担当者は部課長を入れて5人ほどだったが来客はひっきりなしであり、確かに忙しく、担当者らは次に誰が待っているのかなど忘れている場合が多いことに気がついてきた。そこで私は一計を案じ、訪問客の受付時に来訪時間を記録し待ち時間が15分を超える場合は、メモに待っている来訪者の名と来訪時間を記したものを会議室に持って行く習慣をつけた。
担当者らはさすがに込み入った話をしている場合でもそのメモを受け取った場合は話しを切り上げるようになった…。
そんなわけで仕事はきつかったし残業も多かった。それに当初は土曜日も半日出勤(半ドン)だったし事実よく働いた。しかし現代の視点から振り返って見ると実にいい加減な雰囲気も漂っていたようにも思える。
新年の仕事始め、上司に言われたということでもないと思うが女性陣の多くは振り袖を着て出社した。
私の部署は全国の関連企業から原材料を調達するという立場上、多くの企業の担当者らが新年の挨拶に来るという特別な雰囲気を持っていた。
だから新年の受付カウンターには挨拶に持ち込まれる年賀のタオルやらが山のように並び、その隣には一升瓶が置かれていた。無論その酒は新年の挨拶に来た人たちに形だけだとしても飲んで貰うためで未使用のグラスがこれ見よがしに積まれていた。女性陣は来客の対応はもとより、客が使用したグラスを洗って戻すのに大忙しだったが、当時は飲酒運転がどうのこうのといった気遣いはなかった(笑)。
カウンターで名刺を出す客たちの中にはすでに数社回ってきたことが明らかな顔が赤い人たちも多々いたことを思い出す。

※1972年1月4日、仕事始めのオフィスで記念撮影。着物姿の女性も多かった。右から3人目が筆者
私が縁故もなく単なる平だったのにもかかわらず、トラブルも生じず、どちらかというと恵まれたサラリーマン生活を過ごせたのは時代という背景は勿論だが、企業の風土に後押しされたことも含め文字通り芸は身を助けるというそのことであったと思われる。
たぶん身上調査書などに書いたのだと思うが三味線とギターを弾くこと、そして絵でいくつかの賞をとったことがあることなどが尾ひれがついて伝わったのだろう。
入社早々に総務に配属された同期の男から(後に無二の親友となった)会社公認のバンドを組むのでリードギターとボーカルをやってくれと頼まれた。なぜなら夏は屋上でビアーパーティーがあり、年末はクリスマスパーティーを社内で行っていたからだ。
面白いのは時期になると私は会場のデザイン担当と飾り付け、そしてバンド練習に明け暮れ、場合によっては勤務時間中にそれらを業務命令でやったこともある。ただし会場のメインに飾ろうと大きめのキャンバスを数枚に分け、それにキリストを抱くマリア像を自宅で半徹夜で描いたり、殺風景な大会議室の天井には紙製ながら雰囲気を出す立体的な飾りを考案したりもした。
またある時には総務部とか人事部よりイラストレーションの依頼が舞い込んだ。
総務部はなにかの催事(研修だったと思う)に使うポスターを全紙サイズに大きく拡大して欲しいという依頼が、そして人事部も研修に使う資料図版を大きく拡大したものが欲しいので…といった注文だった。無論私は購買部購買課の一平社員であり、その依頼を「はいはい」と受けることができる立場にはない。そうした電話があったときには丁重に「部長の許可をいただかないとどうにもならない」ことをお話しする。当然である。
しかしその後がなかなか面白かった。
普段はほとんど声もかけてくれない雲の上の存在的だった部長から「松田くん、ちょっと」とお呼びがかかる。私は内心「ほら来たぞ」と思いながらも神妙な顔をして部長の前に立つと「忙しいところすまんが総務部長から頼まれてな、これこれこうしたものが必要で君にやって欲しいとの依頼なんだよ。なんとか2日間で仕上げてもらえないだろうか」と言われる。
私はどうなるかは百も承知で「2日といいますと仕事が終わってからの時間では無理だと思いますが…」というと部長は珍しく笑顔で「業務は○○君に代わってもらえ。俺が許可するから勤務時間もフルに使ってよい」とのお墨付きがでる。
それはいま思い出しても、自分で振り返っても奇妙で滑稽な光景だった。
決して暇なわけではない勤務時間中に、同僚や先輩たちが忙しくたち振る舞っている部署で私は空いている机を2つばかり占有し、そこに大きな用紙を広げて絵を描いているのだから…。
いまなら拡大コピーもあるし外注すればカラーで大型サイズのポスターなども簡単に作れるが1970年代には特にカラーで大判を作るためには映画の看板よろしく元絵をそっくりに拡大描写するのが手っ取り早かったのだ。無論私に頼めば制作費はかからない(笑)。

※当時描いたものは一切残っていないが、これは1966年高校時代の文化祭で飾られた水彩画 ^^; なにかの写真か絵を模写したものと思われる...
さらに音協チケットの社内運営管理担当者にされたことで映画ポスターまで描くことになった私は便利な男と思われるようになったらしい。劇団四季の創設者の一人である俳優の日下武史らが舞台後に髪が赤いまま、公演の宣伝すなわちチケット拡販のため会社を訪れたときも私がお会いすることになった。
そんな訳だから別の部署の部長や役員が私の所属する部署を通るとき「あのイングリット・バーグマンを描いたのはお前か」などと声をかけてくれるようになった。いわゆる名前を覚えてもらうことは平社員にとってもいろいろとやりやすいことが多くありがたいことだった。
あるとき私の着用していたシャツが薄いピンク色だったことで誰かがちくったらしく人事部に呼び出された。何しろ当時は泣く子も黙る人事部である(笑)。
仲間からの情報によればどうやらピンク色のシャツは社風に合わないからとお叱りの呼び出しとのこと。まあまあ生意気だった私はその時着用していたのはピンクのシャツにサンローランのど派手なネクタイ、そしてほとんどホワイトのスーツというどっかのチンピラみたいな格好だったから、悪い意味でも目立ったに違いない。
私は意を決して人事部に出向き課長の前に立った。小言は「ピンクのシャツは即刻止めたまえ」だった。「はい、すみませんわかりました」と引き下がるのが普通なんだろうが、怖いものを知らない私は穏やかではあるが反論した。
後学のため教えてください。我が社は顔料・染料のメーカーです。社長は冗談ではありますが常々それを色の道などと称されたこともあります。そして会社の使命はカラーリングで世の中に幸せを表現することだとおっしゃっています。その色を扱う会社がブルーやイエローは良いがピンク色のシャツはダメというのはどうしたことでしょうか…とぶった(笑)。
人事課長のそのときの対応は正直記憶にないが、首にもならずその後もピンクのシャツを着続けたのだから黙認されたに違いない。
まあまあ生意気な社員だったが、当然ながら仕事はきちんとしたし無断欠勤も遅刻もなかった。しかし企業の中にあっても自分というか個性をアピールすることで有利になることもあるのだと言うことを肌で知ったことは確かである。その数年間で人との交渉術の初歩を学んだような気がする…。
勿論、植木等主演の映画「ニッポン無責任時代」の主人公のようには振る舞えなかったし何の権限もない平社員だったが、今思えば周りに可愛がっていただいたのだろう。
同室の奥にいた専務は早めに出社する私を誘って道路向こうの薬局2階にあった喫茶店でコーヒーを驕ってくれたし、先輩たちは勿論他部署の誰からも虐めを受けたということは1度もなかった。
その会社を7年程度で退職したが、やはり印象深い体験であったのだろう、今でもたまに購買部購買課の一室にいる夢を見ることがある…。
先日「ニッポン無責任時代」を観たという若い人がその感想として「バカバカしい時代」と言い捨てたという話しを聞いた(笑)。無論映画はフィクションであり企業活動があんな感じあれば当時であっても生き残れるはずもない。それに昨今は「三丁目の夕日症候群」などといわれ、昭和という時代を賛美すると単なる懐古趣味だとかそうした時代や人が日本をダメにした…といった反発が出てくる時代になった。しかしそれは他人の評価であり、私はたまたま戦後の昭和という時代に生を受け、それなりに懸命に生きて来ただけの話である。
それに、良くも悪くも自分が生きてきた過去を振り返り、懐かしむ何がいけないのか。私にとって当然のことながら両親や兄弟、友人たち、そして仕事の仲間たちもすべてその時代のまっただ中に存在していたわけで、やり直しが利かないたった一度っきりの人生、大切な時代であったことは間違いないのである。
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