パソコン環境37年間の推移を振り返る
正月休みは古い資料の整理を行った。特に写真類は毎年撮った写真を選別したり、逆に古い写真のうちで興味深いものを探し出したりとなかなか大切な作業となる。そんな作業の中から選び出した十数枚の写真をご紹介しながら私のパソコン環境の推移をご覧いただきたいと思う。無論これらは全体の一部であると心得ていただきたい(笑)。
私がマイコンとかパソコンというものの世界に足を踏み入れたのは1977年12月に富士通 FACOM Lkit-8というワンボードマイコンを手にしてからだ。
文字通りの裸のマザーボードと電源、そしてキーボードを家庭用カラーテレビにつなぎBASICを走らせて驚喜していた。ただし素人には限界があり、コンピュータの能力と魅力を知るにつれ、もっとまともなことができる製品が欲しいと思うようになる。とはいえそれはLkit-8のせいではない(笑)。なにしろこうしたワンボードマイコンは素人用に売られたものではなく、技術者の評価用製品だったのだから…。

※富士通 FACOM Lkit-8のシステム全景(1978年撮影)
翌年の1978年後半に池袋の西武百貨店にできたマイコンコーナーでコモドール社製 PET 2001を298,000円で購入する。そして同年秋には専用のドットインパクト・プリンターを、1980年には本体価格と同様なデュアルフロッピー・デスクドライブを手に入れいわゆるフルシステムとして稼働。

※コモドール社製 PET 2001とデュアルフロッピー(左)およびプリンター(右)。1980年撮影
私のBASICプログラミングの基本的知識は当初このPETで養われたといってもよい。無論日本語は後にカタカナがプリントできるようになった程度だったが、このカタカナで住所録のデータベースらしきものをプログラムし、年賀状の宛名書きに使ったら親戚のうるさがたから「賀状にカタカナとは失礼だ」とのクレームが入った(笑)。そういう時代だった。
その後1982年にApple II J-plusを手に入れるまでPETはキャラクタグラフィックスや音声認識、音声合成といった分野にまで活用したしASCII誌に載るゲームのプログラムリストを徹夜で入力したことも強烈な思い出だ。

※Apple II J-plusとライトペンシステム(1982年12月撮影)
そしてApple II J-plusは1983年に手に入れた新機種Apple IIe に至り、Macintoshが登場するまでの2年間は文字通り夢中になっていた。この約2年間に私がApple II の周辺機器ならびにソフトウェアなどに投下した金はその後の長いMacintosh時代のそれと匹敵するほどだったのではないか。
Apple II ではその可能性のすべてと思われる分野に興味を持った。プログラミングおよび高級言語、ゲーム、3D、カラーグラフィックス、アニメーション、ミュージック・シンセサイザー、音声認識および音声合成そしてビデオ・デジタイザーなどだ。その熱意が実ったのか当時Apple日本総代理店だったイーエスディラボラトリー(通称 ESD)社発行の季刊誌「アップルマガジン」の編集長を1年間務めさせていただいたり、自身でプログラムしたアダルトソフトをESDで販売することに通じた。
このESDに入り浸りになったことは紀田順一郎さんをはじめ松木英一さん、立野康一さん、大谷和利さんなどなどと直接間接に知り合うきっかけとなり、その後の人脈を広げることになったことも確かだった。

※Apple II J-plusと新機種Apple IIeを併用(1983年12月撮影)
Apple II に欠点があるとすればそれは日本語処理が期待できないことだった。確かに後年日本語ワープロソフトなるものも登場し、私もそれを使っていくつかのマニュアルを作ったが、当時のNEC PC-9801などを代表とする日本語環境には到底及ばなかった。ためにApple IIを溺愛しながらも日本語処理と高精細なグラフィック環境に魅力を感じて1983年にはリリースされたばかりのNEC PC-100を手にする。

※Apple IIの横にNEC PC-100が列んだ(1983年11月撮影)
PC-100はそれ自体はなかなか優れたマシンだったし根底はMS-DOSマシンではあったがマウスが実装されているGUIを目指したパソコンだった。しかし開発ならびに販売側の確執でアップデートや拡張性が早くも疑問視され、事実早々に見切りを付けるしかなかった。
その後を埋めるマシンは当然というべきかPC-9801であり、このPC-9801で一太郎の日本語変換の優れた様を体験し初めての著作本「グラフィック名人~花子」はこのPC-9801で書いた。

※PC-9801で一太郎を使う筆者(1985年9月撮影)
一方、より優れた日本語環境を求めつつ、女房がIBM 5550を購入することになる。当時基本システムで150万円以上もするビジネスマシンだったがハードディスクはなく三基の5インチ・フロッピーディスクドライブが搭載されていた。そしてアンバーイエローのモニター表示上は勿論、専用プリンターに出力される漢字は実に美しかった。

※IBM 5550は日本語環境が優れていた
1984年にリリースされたMacintoshへの期待は申し上げるまでもなく現在もその延長線上として続いており、Apple II 以上の多様な世界を覗かせてくれることになった。本格的なGUI は勿論、グラフィックやサウンド系に優れていたこともあり多くのユニークで優れたグラフィック系や音楽系のアプリケーションが登場してくる。

※Macintosh 128KとPC-9801を配置した当時の仕事部屋。右上に8インチのフロッピーディスクドライブが見える(1986年5月撮影)
このMacintoshとPC-9801で1985年からパソコン通信を始めたことが評価され、NIF社(後のNIFTY)が始めるパソコン通信サービスのシステムオペレーターとして参画することにもなる。
1987年にはBigPictureという17インチのモノクロディスプレイをMac Plusのために購入する。なぜならグラフィックスにしろDTPの走りとなるアプリケーションを使うにせよMacintosh本体の9インチのディスプレイではさすがに小さすぎて効率が上がらないと判断したからだ。またページスキャナの類もさまざまな製品を使い込んだ。こうしたグラフィックス系に特化した経験が後に会社設立に至るあれこれに関わってくるのだから面白い。

※Macintosh Plusに17インチのモノクロディスプレイ「BigPicture」を取り付ける(1987年1月撮影)
そのMacintoshも1987年にはMacintosh II という256色ではあったがカラー機種が登場し、合わせてカラーペイントのソフトウェア群も登場し始める。その1987年夏にSIGGRAPHを視察にロサンゼルスに出向きいわゆるコンピュータグラフィックスの最先端を体験したことも大いに刺激となった。その翌年から約10年間、本場のMacworld Expoに毎年出向くのが習慣となったことも楽しい思い出だ。

※Macintosh II (左)。右上のカラーモニターにVideworks IIのカラーアニメーション画像を表示(1987年8月撮影)
1988年にはSuperMAC社の19インチ・カラーディスプレイが入り、Macintoshの環境はほぼ完成形を見ることになる。無論年ごとにパワーアップするハードウェアとOSを追い続けるはめになり、結局縁があり1989年3月にMacintosh用のソフトウェア開発専門の会社、コーシングラフィックシステムズを設立しMacintoshは趣味ではなく飯の種となった(笑)。

※SuperMac社製19インチカラーモニターを導入(1987年10月撮影)
会社は多くの方達に支えられ足かけ14年間、アップルジャパンのトップデベロッパーとして活動し1999年5月のWWDCでは我が国初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) を受賞する。その後アップルの市場は飛躍的に拡大したにもかかわらず残念ながらApple Design Award受賞はその後日本のデベロッパーから出ていない。

※エム・ディ・エフ刊「ALEC」1989年2月号「快適ライフ提言〜書斎生活」に載った当時のパソコン環境
なお会社は2003年11月に解散するはめになったが、その頃の自宅のMacintosh環境を撮った写真が残っている。PowerMac G4 QuickSilverを中心にしたシステム構成だがディスプレイとサウンドに拘っている点が伺える。

※PowerMac G4 QuickSilverを中心にしたシステム構成(2004年撮影)
2008年4月時点ではMac Pro G5および30インチのシネマ・ディスプレイ、そしてBOSE社のM3スピーカーというシンプルな構成に変化しているが、この構成は大変気に入りG5そのものはメモリの増設をはじめ、内蔵ハードディスクをフルに4基使ったこと、グラフィックカードを数度アップグレードし、かつ外付けハードディスクなども揃えて自分なりに最良のシステム環境作りを目指し、2012年一杯…約5年間このMac Pro G5と共に過ごした。

※Mac Pro G5およびApple 30インチ・シネマ・ディスプレイのシステム構成(2010年撮影)
しかしさすがに力不足を感じたことと、自身の環境の変化に伴いシステム全体を再度見直し、可能な限りシンプルなものにしたいと考え、2013年早々にiMac 27インチと共にデスクトップ・オーディオ環境も刷新して現在に至っている。

※iMac 27インチを主としたシステム構成(2013年撮影)
勿論近年はMacだけに留まらずiPhoneやiPadというガジェットたちとも関わっているが、私のビジネスの拠り所であるのは依然としてMacなのである。
すでにポストPCが叫ばれて久しいが、古いと思われようと相変わらずMacというパーソナルコンピュータが存在する限り私はユーザーであり続けるに違いない…。
最後についでながら番外編としてサブマシンとして使ってきたいくつかの製品を列記しておきたい。そして当記事がご覧頂いた方々ご自身のパソコン環境遍歴を振り返る縁(よすが)にでもなれば幸いである。

※シャープの歩レットコンピュータ PC-1210。BASICが走る最小のマシンだった(1980年撮影)

※カシオのデスクトップコンピュータ FX-9000P(1981年4月撮影)

※エプソンのハンドヘルドコンピュータ HC-20 と音響カプラ(1983年撮影)

※シャープ X1、ビデオとのスーパーインポーズが可能(1983年撮影)

※タンディのハンドヘルドコンピュータ TRS-200。モデム内蔵で通信プログラムやマルチプランも走った(1985年撮影)

※父のBASIC学習用として購入したNEC PC-8801mkII

※NEC PC-98LT。9801と完全互換ではなかったので使いづらいマシンだった(1987年撮影)
以上
私がマイコンとかパソコンというものの世界に足を踏み入れたのは1977年12月に富士通 FACOM Lkit-8というワンボードマイコンを手にしてからだ。
文字通りの裸のマザーボードと電源、そしてキーボードを家庭用カラーテレビにつなぎBASICを走らせて驚喜していた。ただし素人には限界があり、コンピュータの能力と魅力を知るにつれ、もっとまともなことができる製品が欲しいと思うようになる。とはいえそれはLkit-8のせいではない(笑)。なにしろこうしたワンボードマイコンは素人用に売られたものではなく、技術者の評価用製品だったのだから…。

※富士通 FACOM Lkit-8のシステム全景(1978年撮影)
翌年の1978年後半に池袋の西武百貨店にできたマイコンコーナーでコモドール社製 PET 2001を298,000円で購入する。そして同年秋には専用のドットインパクト・プリンターを、1980年には本体価格と同様なデュアルフロッピー・デスクドライブを手に入れいわゆるフルシステムとして稼働。

※コモドール社製 PET 2001とデュアルフロッピー(左)およびプリンター(右)。1980年撮影
私のBASICプログラミングの基本的知識は当初このPETで養われたといってもよい。無論日本語は後にカタカナがプリントできるようになった程度だったが、このカタカナで住所録のデータベースらしきものをプログラムし、年賀状の宛名書きに使ったら親戚のうるさがたから「賀状にカタカナとは失礼だ」とのクレームが入った(笑)。そういう時代だった。
その後1982年にApple II J-plusを手に入れるまでPETはキャラクタグラフィックスや音声認識、音声合成といった分野にまで活用したしASCII誌に載るゲームのプログラムリストを徹夜で入力したことも強烈な思い出だ。

※Apple II J-plusとライトペンシステム(1982年12月撮影)
そしてApple II J-plusは1983年に手に入れた新機種Apple IIe に至り、Macintoshが登場するまでの2年間は文字通り夢中になっていた。この約2年間に私がApple II の周辺機器ならびにソフトウェアなどに投下した金はその後の長いMacintosh時代のそれと匹敵するほどだったのではないか。
Apple II ではその可能性のすべてと思われる分野に興味を持った。プログラミングおよび高級言語、ゲーム、3D、カラーグラフィックス、アニメーション、ミュージック・シンセサイザー、音声認識および音声合成そしてビデオ・デジタイザーなどだ。その熱意が実ったのか当時Apple日本総代理店だったイーエスディラボラトリー(通称 ESD)社発行の季刊誌「アップルマガジン」の編集長を1年間務めさせていただいたり、自身でプログラムしたアダルトソフトをESDで販売することに通じた。
このESDに入り浸りになったことは紀田順一郎さんをはじめ松木英一さん、立野康一さん、大谷和利さんなどなどと直接間接に知り合うきっかけとなり、その後の人脈を広げることになったことも確かだった。

※Apple II J-plusと新機種Apple IIeを併用(1983年12月撮影)
Apple II に欠点があるとすればそれは日本語処理が期待できないことだった。確かに後年日本語ワープロソフトなるものも登場し、私もそれを使っていくつかのマニュアルを作ったが、当時のNEC PC-9801などを代表とする日本語環境には到底及ばなかった。ためにApple IIを溺愛しながらも日本語処理と高精細なグラフィック環境に魅力を感じて1983年にはリリースされたばかりのNEC PC-100を手にする。

※Apple IIの横にNEC PC-100が列んだ(1983年11月撮影)
PC-100はそれ自体はなかなか優れたマシンだったし根底はMS-DOSマシンではあったがマウスが実装されているGUIを目指したパソコンだった。しかし開発ならびに販売側の確執でアップデートや拡張性が早くも疑問視され、事実早々に見切りを付けるしかなかった。
その後を埋めるマシンは当然というべきかPC-9801であり、このPC-9801で一太郎の日本語変換の優れた様を体験し初めての著作本「グラフィック名人~花子」はこのPC-9801で書いた。

※PC-9801で一太郎を使う筆者(1985年9月撮影)
一方、より優れた日本語環境を求めつつ、女房がIBM 5550を購入することになる。当時基本システムで150万円以上もするビジネスマシンだったがハードディスクはなく三基の5インチ・フロッピーディスクドライブが搭載されていた。そしてアンバーイエローのモニター表示上は勿論、専用プリンターに出力される漢字は実に美しかった。

※IBM 5550は日本語環境が優れていた
1984年にリリースされたMacintoshへの期待は申し上げるまでもなく現在もその延長線上として続いており、Apple II 以上の多様な世界を覗かせてくれることになった。本格的なGUI は勿論、グラフィックやサウンド系に優れていたこともあり多くのユニークで優れたグラフィック系や音楽系のアプリケーションが登場してくる。

※Macintosh 128KとPC-9801を配置した当時の仕事部屋。右上に8インチのフロッピーディスクドライブが見える(1986年5月撮影)
このMacintoshとPC-9801で1985年からパソコン通信を始めたことが評価され、NIF社(後のNIFTY)が始めるパソコン通信サービスのシステムオペレーターとして参画することにもなる。
1987年にはBigPictureという17インチのモノクロディスプレイをMac Plusのために購入する。なぜならグラフィックスにしろDTPの走りとなるアプリケーションを使うにせよMacintosh本体の9インチのディスプレイではさすがに小さすぎて効率が上がらないと判断したからだ。またページスキャナの類もさまざまな製品を使い込んだ。こうしたグラフィックス系に特化した経験が後に会社設立に至るあれこれに関わってくるのだから面白い。

※Macintosh Plusに17インチのモノクロディスプレイ「BigPicture」を取り付ける(1987年1月撮影)
そのMacintoshも1987年にはMacintosh II という256色ではあったがカラー機種が登場し、合わせてカラーペイントのソフトウェア群も登場し始める。その1987年夏にSIGGRAPHを視察にロサンゼルスに出向きいわゆるコンピュータグラフィックスの最先端を体験したことも大いに刺激となった。その翌年から約10年間、本場のMacworld Expoに毎年出向くのが習慣となったことも楽しい思い出だ。

※Macintosh II (左)。右上のカラーモニターにVideworks IIのカラーアニメーション画像を表示(1987年8月撮影)
1988年にはSuperMAC社の19インチ・カラーディスプレイが入り、Macintoshの環境はほぼ完成形を見ることになる。無論年ごとにパワーアップするハードウェアとOSを追い続けるはめになり、結局縁があり1989年3月にMacintosh用のソフトウェア開発専門の会社、コーシングラフィックシステムズを設立しMacintoshは趣味ではなく飯の種となった(笑)。

※SuperMac社製19インチカラーモニターを導入(1987年10月撮影)
会社は多くの方達に支えられ足かけ14年間、アップルジャパンのトップデベロッパーとして活動し1999年5月のWWDCでは我が国初のApple Design Award/Best Apple Technology Adoption (最優秀技術賞) を受賞する。その後アップルの市場は飛躍的に拡大したにもかかわらず残念ながらApple Design Award受賞はその後日本のデベロッパーから出ていない。

※エム・ディ・エフ刊「ALEC」1989年2月号「快適ライフ提言〜書斎生活」に載った当時のパソコン環境
なお会社は2003年11月に解散するはめになったが、その頃の自宅のMacintosh環境を撮った写真が残っている。PowerMac G4 QuickSilverを中心にしたシステム構成だがディスプレイとサウンドに拘っている点が伺える。

※PowerMac G4 QuickSilverを中心にしたシステム構成(2004年撮影)
2008年4月時点ではMac Pro G5および30インチのシネマ・ディスプレイ、そしてBOSE社のM3スピーカーというシンプルな構成に変化しているが、この構成は大変気に入りG5そのものはメモリの増設をはじめ、内蔵ハードディスクをフルに4基使ったこと、グラフィックカードを数度アップグレードし、かつ外付けハードディスクなども揃えて自分なりに最良のシステム環境作りを目指し、2012年一杯…約5年間このMac Pro G5と共に過ごした。

※Mac Pro G5およびApple 30インチ・シネマ・ディスプレイのシステム構成(2010年撮影)
しかしさすがに力不足を感じたことと、自身の環境の変化に伴いシステム全体を再度見直し、可能な限りシンプルなものにしたいと考え、2013年早々にiMac 27インチと共にデスクトップ・オーディオ環境も刷新して現在に至っている。

※iMac 27インチを主としたシステム構成(2013年撮影)
勿論近年はMacだけに留まらずiPhoneやiPadというガジェットたちとも関わっているが、私のビジネスの拠り所であるのは依然としてMacなのである。
すでにポストPCが叫ばれて久しいが、古いと思われようと相変わらずMacというパーソナルコンピュータが存在する限り私はユーザーであり続けるに違いない…。
最後についでながら番外編としてサブマシンとして使ってきたいくつかの製品を列記しておきたい。そして当記事がご覧頂いた方々ご自身のパソコン環境遍歴を振り返る縁(よすが)にでもなれば幸いである。

※シャープの歩レットコンピュータ PC-1210。BASICが走る最小のマシンだった(1980年撮影)

※カシオのデスクトップコンピュータ FX-9000P(1981年4月撮影)

※エプソンのハンドヘルドコンピュータ HC-20 と音響カプラ(1983年撮影)

※シャープ X1、ビデオとのスーパーインポーズが可能(1983年撮影)

※タンディのハンドヘルドコンピュータ TRS-200。モデム内蔵で通信プログラムやマルチプランも走った(1985年撮影)

※父のBASIC学習用として購入したNEC PC-8801mkII

※NEC PC-98LT。9801と完全互換ではなかったので使いづらいマシンだった(1987年撮影)
以上
- 関連記事
-
- 当研究所の簡易ミニ・スタジオ公開 (2014/03/12)
- トンデモ説?! 〜 スティーブ・ジョブズがiPhoneを発想した原点の考察 (2014/03/07)
- (株)技術少年出版 Legacy8080 体験デモルーム訪問記 (2014/02/26)
- S-100バスのメモリボードとムーアの法則幻想 (2014/02/17)
- 世界最初のマイクロプロセッサ Intel 4004 が当研究所に! (2014/02/07)
- パソコン環境37年間の推移を振り返る (2014/01/22)
- 謹賀新年 2014 (2014/01/01)
- Apple/Macテクノロジー研究所、2013年度を振り返って... (2013/12/31)
- Merry Christmas (2013/12/24)
- データ記録媒体としてのコンパクト・カセットテープ雑感 (2013/12/20)
- 1977年製 MOS Technology社製 MCS 6502 マイクロプロセッサ幻想 (2013/12/16)