Apple1誕生物語
Apple1のレプリカを手に入れ、理解できる範囲だが各パーツや回路仕様などを確認して楽しんでいる。ともあれこれでやっとApple1についてのあれこれを語る資格が出来たのではないかと思い(笑)、今回はこれまでの関連アーティクルと重複する部分があるものの、私なりにApple1とその誕生の歴史についておさらいをしてみたい。
現存する数が少ないこともあってオークションで大変高価な落札価格となったApple1だが、だからこそなのだろう…情報も少なく良く見聞きするものはそのほとんどが実機を確認したわけでもない二次三次情報なのが現状だ。
今更ながらではあるが、レプリカとはいえ実物に忠実な回路基板に自身で一つずつパーツをハンダ付けしながら、Apple1の全体像はもとより細部に至るあれこれを探っているとウォズニアックの叡智に触れる思いがしてとても楽しかった。
勿論私は電子回路設計などを系統立てて学んだことはない素人ではあるが、集められるだけの情報を集めつつ、すでに37年ほど前に設計された個人用コンピュータの元祖を学び直してみたいと考えている。

※筆者が組み立てたApple1のレプリカ
Apple1のほぼすべてはスティーブ・ウォズニアックの天才的な技術力と閃き、そしてスティーブ・ジョブズの協力により実現したものだ。
定説によればApple1はウォズニアックの個人的な技術力で設計され組み立てられたといわれている。ウォズニアック本人もそう発言しているし無論ウォズニアックの力でApple1が生まれたことは間違いなく、彼の能力や才能を貶めるつもりはまったくない。しかしその頃の状況を調べれば調べるほど、私にはウォズニアックの横には必ずといってよいほどスティーブ・ジョブズの影が見えるのだ…。

※Apple1を開発した時期に撮られたウォズとジョブズのツーショット
ウォズニアックがヒューレット・パッカード社に勤務しホームブリュー・コンピュータ・クラブに参加するようになったとき、彼がビデオ・ターミナルを設計した経緯を仲間達は大歓迎してくれたという。
ただしタイムシェアリングに接続するための安価なターミナル開発をウォズニアックが体験したのは趣味ではなかった。きちんとした依頼者がいたのである。
富田倫生著「パソコン創世記」によればそれはアレックス・カムラットという人物だった。彼はテレビ画面上でテキストを表示できるいわゆるビデオターミナルの開発を思いつき、1975年夏にコンピュータ・コンバーサー社を設立し、ヒューレット・パッカード社に在籍したままでよいからとスティーブ・ウォズニアックに協力を要請、結果共同経営者に迎えたという。
ウォズニアック自身「実録!天才発明家」アスキー出版局刊(1988年11月11日初版)に「Appleの3年前にビデオターミナルを作ったしポングの原型も作った。これがアタリ社の人間に影響を与え、僕に入社の誘いがかかった」と言い、「1970年代にホテルのテレビで映画を上映するシステムも設計した…(中略)…ヒューレット・パッカードで計算機を作るエンジニアとして働くかたわら、いろいろな仕事に首をつっこんでいたよ」と言っている。
確かにウォズニアックほどの能力を世間が放っておくことは不自然ではあるが、これが事実なら彼が共同経営という立場で企業に係わったのはAppleが最初ではなかったことになる。
ただしウォズニアックは当初しばらくはカムラットの期待に答えたものの、急速にその興味・関心はコンピュータを作ることに向かってしまう。そしてカムラットにとって悲劇だったのはパートナーの非協力性を引き戻すリーダーシップの欠如だった。というかウォズニアックは実直で正直な人間ではあったが、彼を企業の目的とかその目標通りに働かせることは大変難しかったようで、後年スティーブ・ジョブズもその点は苦労したようである。
ともあれウォズニアックの思いは「タイプライター型キーボードを備え、家庭用テレビに接続できてBASIC言語が使えるコンピュータを…それもシンプルで安く作る」ことで頭が一杯だったのだ。
ホームブリュー・コンピュータ・クラブではその頃、スティーブ・ドンビアらが出荷されたばかりのAltair8800を持参したことで参加者達は個人でコンピュータが持てる可能性を知り大きな期待と熱気に包まれていた。ウォズニアックもAltair8800が欲しかったが手に入れるだけの予算がなかった。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでは最新の8008や8080といったデジタルチップの話題も多く正直ウォズニアックも最初は場違いと感じ気後れするが、仲間達はビデオターミナルを設計したウォズニアックに興味を持ち歓迎してくれた。勿論ウォズニアックもそれを機会として猛烈にマイクロプロセッサについて勉強を始める…。
情報を得ていく過程でクラブで見るコンピュータらは以前失敗作とはなったものの友人のビル・フェルナンデスと共に作ったクリーム・ソーダーコンピュータと似ていることを知り、自身の方向性に確信が持てたウォズニアックだった。丁度その頃コンピュータの展示会でモステクノロジー社の6502チップがたったの20ドルで販売されるという広告を見てウォズニアックはコンピュータを自作するよい機会が訪れたと考えた。
厳密な話としては当初6800で設計を開始したものの6502の方が利点を活かせると考え方向転換したようだ。その経緯を示すようにApple 1のマザーボードにはいくつかの変更で6800でも動作可能なようにと回路が残されている。

※Apple 1のマザーボードには弱冠の変更で6800でも動作可能なようにと回路が残されている
ともあれ彼はハードウェアの設計を前にしてまずBASICをプログラムする。無論6502で走らせるのが目的であった。こうしてウォズニアックによる整数BASICが完成するが彼自身はそれを「GAME BASIC」と呼んでいたようだ。
ウォズニアックは、いわゆるビデオ端末機とコンピュータ回路を結ぶインターフェースを設計し、2,3週間もしないうちに試作のコンピュータをホームブリュー・コンピュータ・クラブに持ち込み、回路を含む設計の詳細をコピーして無料で配布する。
スティーブ・ジョブズは「スティーブ・ジョブズ 1995 ロスト・インタビュー」で「Apple1は実際には、裏側にマイクロプロセッサを付けた端末(ターミナル)の延長だったんだ。まさしくね。二つの別々のプロジェクトを合体させたようなものだった」と証言している。
また後に製品化するApple1にDRAM (ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ)を使用したことにウォズニアックの先見性を認める人も多いが、このDRAMを使うように進めたのはジョブズだった。「DRAMは良いけど高いから使えない」というウォズニアックの言葉をよそにジョブズはどこからか必要なDRAMを調達してウォズニアックに渡した。
これがApple1の原型となった。この頃ウォズニアックは自分の設計したコンピュータをすでに「Apple」と称していた。友人のスティーブ・ジョブズの影響と命名であった。ただしひとつ完成させるのに手慣れていた彼らでも40時間から80時間もかかるだけでなくパーツを基板に細いワイヤーで結線していたので壊れやすかった。
そして無事に組立が終わったとしてもそれだけでは何もできなかった。電源(トランス)とキーボードをつなぐことで家庭用のテレビにモノクロのテキスト表示ができるようになるものの、まだカセットテープ・インターフェースが出来ていなかったからBASICを使うためユーザーは電源を入れる度に3Kバイトあまりのプログラムリストをキーボードから入力せざるを得なかったのである。
それでも友人達やホームブリュー・コンピュータ・クラブの仲間たちが同じものを欲しがったのでウォズニアックとジョブズは彼らの自宅に行き、ハンダ付けを手伝う羽目になるが、その過程でプリント基板を作れば40時間もかけずにApple1を組み立てられるとジョブズが考え、当のジョブズはフォルクスワーゲンのマイクロバスを、ウォズニアックは電卓を2台売り資金を作り、友人にプリント回路基板の設計を依頼する。そして原価20ドルのボードを倍の40ドルで販売することになった…。
こうした経緯を見つめつつスティーブ・ジョブズは機会到来と考え、ウォズニアックに会社設立を持ちかけるがウォズニアックは当初趣味を金儲けにすることには気が進まなかったものの取り急ぎヒューレット・パッカード社を辞める必要もなさそうだと判断しジョブズに薦められるままに会社を作ることに同意する。この辺、前記アレックス・カムラットに誘われたときと同様にウォズニアックは人の誘いを断り切れない性格なのかも知れない(笑)。
スティーブン・レビー著「ハッカーズ」によれば、この頃スティーブ・ジョブズはターミナルに大きな関心を持っており、機会があればターミナルを製造する会社を作るべく考えていたという。それがウォズニアックの作ったApple1を眼前にして単なるターミナルを超えた可能性に魅惑されたに違いない。
こうして1976年4月1日、Apple Computer Companyはスタートした。そしてジョブズは万一ウォズニアックと対立した場合に自分を有利にするため経験豊かで年嵩の友人ロン・ウェインを引き入れた。これがApple 創立に至る経緯...概要である。
とはいえ、さすがのスティーブ・ジョブズも最初から大層な計画を立てていたわけではなかったようだ。出来上がったApple1回路基板は友人達に売り、残りを他に販売すべく努力する…。ジョブズも当初は回路基板を売って金を手にしたら車と電卓を買い戻そうと考えていた程度だった。それが完成品を条件に50台の注文がバイト・ショップから入る…。
Appleは…いやスティーブ・ジョブズはしゃにむに走り出すことになる。バイト・ショップに期限ぎりぎりで納品した組立済みのApple1だったが、より販売拡大を狙い1976年8月28と29日の両日、ニュージャージ州アトランティックシティで開催された「PC ‘76 Computer Show」に出品する。


※「PC ‘76 Computer Show」の自社ブースでポーズを取るスティーブ・ジョブズ(上)と展示したApple1のシステム(下)。共に「73 AMATEUR RADIO」誌、1976年12月号より
スティーブ・ジョブズたちは本格的なビジネスを模索しながら動き出したのだ…。
【主な参考資料】
・富田倫生著「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊
・マイクロソフトプレス/ケネス・A・ブラウン編「実録!天才発明家」アスキー出版局刊
・スティーブン・レビー著「ハッカーズ」工学社刊
現存する数が少ないこともあってオークションで大変高価な落札価格となったApple1だが、だからこそなのだろう…情報も少なく良く見聞きするものはそのほとんどが実機を確認したわけでもない二次三次情報なのが現状だ。
今更ながらではあるが、レプリカとはいえ実物に忠実な回路基板に自身で一つずつパーツをハンダ付けしながら、Apple1の全体像はもとより細部に至るあれこれを探っているとウォズニアックの叡智に触れる思いがしてとても楽しかった。
勿論私は電子回路設計などを系統立てて学んだことはない素人ではあるが、集められるだけの情報を集めつつ、すでに37年ほど前に設計された個人用コンピュータの元祖を学び直してみたいと考えている。

※筆者が組み立てたApple1のレプリカ
Apple1のほぼすべてはスティーブ・ウォズニアックの天才的な技術力と閃き、そしてスティーブ・ジョブズの協力により実現したものだ。
定説によればApple1はウォズニアックの個人的な技術力で設計され組み立てられたといわれている。ウォズニアック本人もそう発言しているし無論ウォズニアックの力でApple1が生まれたことは間違いなく、彼の能力や才能を貶めるつもりはまったくない。しかしその頃の状況を調べれば調べるほど、私にはウォズニアックの横には必ずといってよいほどスティーブ・ジョブズの影が見えるのだ…。

※Apple1を開発した時期に撮られたウォズとジョブズのツーショット
ウォズニアックがヒューレット・パッカード社に勤務しホームブリュー・コンピュータ・クラブに参加するようになったとき、彼がビデオ・ターミナルを設計した経緯を仲間達は大歓迎してくれたという。
ただしタイムシェアリングに接続するための安価なターミナル開発をウォズニアックが体験したのは趣味ではなかった。きちんとした依頼者がいたのである。
富田倫生著「パソコン創世記」によればそれはアレックス・カムラットという人物だった。彼はテレビ画面上でテキストを表示できるいわゆるビデオターミナルの開発を思いつき、1975年夏にコンピュータ・コンバーサー社を設立し、ヒューレット・パッカード社に在籍したままでよいからとスティーブ・ウォズニアックに協力を要請、結果共同経営者に迎えたという。
ウォズニアック自身「実録!天才発明家」アスキー出版局刊(1988年11月11日初版)に「Appleの3年前にビデオターミナルを作ったしポングの原型も作った。これがアタリ社の人間に影響を与え、僕に入社の誘いがかかった」と言い、「1970年代にホテルのテレビで映画を上映するシステムも設計した…(中略)…ヒューレット・パッカードで計算機を作るエンジニアとして働くかたわら、いろいろな仕事に首をつっこんでいたよ」と言っている。
確かにウォズニアックほどの能力を世間が放っておくことは不自然ではあるが、これが事実なら彼が共同経営という立場で企業に係わったのはAppleが最初ではなかったことになる。
ただしウォズニアックは当初しばらくはカムラットの期待に答えたものの、急速にその興味・関心はコンピュータを作ることに向かってしまう。そしてカムラットにとって悲劇だったのはパートナーの非協力性を引き戻すリーダーシップの欠如だった。というかウォズニアックは実直で正直な人間ではあったが、彼を企業の目的とかその目標通りに働かせることは大変難しかったようで、後年スティーブ・ジョブズもその点は苦労したようである。
ともあれウォズニアックの思いは「タイプライター型キーボードを備え、家庭用テレビに接続できてBASIC言語が使えるコンピュータを…それもシンプルで安く作る」ことで頭が一杯だったのだ。
ホームブリュー・コンピュータ・クラブではその頃、スティーブ・ドンビアらが出荷されたばかりのAltair8800を持参したことで参加者達は個人でコンピュータが持てる可能性を知り大きな期待と熱気に包まれていた。ウォズニアックもAltair8800が欲しかったが手に入れるだけの予算がなかった。ホームブリュー・コンピュータ・クラブでは最新の8008や8080といったデジタルチップの話題も多く正直ウォズニアックも最初は場違いと感じ気後れするが、仲間達はビデオターミナルを設計したウォズニアックに興味を持ち歓迎してくれた。勿論ウォズニアックもそれを機会として猛烈にマイクロプロセッサについて勉強を始める…。
情報を得ていく過程でクラブで見るコンピュータらは以前失敗作とはなったものの友人のビル・フェルナンデスと共に作ったクリーム・ソーダーコンピュータと似ていることを知り、自身の方向性に確信が持てたウォズニアックだった。丁度その頃コンピュータの展示会でモステクノロジー社の6502チップがたったの20ドルで販売されるという広告を見てウォズニアックはコンピュータを自作するよい機会が訪れたと考えた。
厳密な話としては当初6800で設計を開始したものの6502の方が利点を活かせると考え方向転換したようだ。その経緯を示すようにApple 1のマザーボードにはいくつかの変更で6800でも動作可能なようにと回路が残されている。

※Apple 1のマザーボードには弱冠の変更で6800でも動作可能なようにと回路が残されている
ともあれ彼はハードウェアの設計を前にしてまずBASICをプログラムする。無論6502で走らせるのが目的であった。こうしてウォズニアックによる整数BASICが完成するが彼自身はそれを「GAME BASIC」と呼んでいたようだ。
ウォズニアックは、いわゆるビデオ端末機とコンピュータ回路を結ぶインターフェースを設計し、2,3週間もしないうちに試作のコンピュータをホームブリュー・コンピュータ・クラブに持ち込み、回路を含む設計の詳細をコピーして無料で配布する。
スティーブ・ジョブズは「スティーブ・ジョブズ 1995 ロスト・インタビュー」で「Apple1は実際には、裏側にマイクロプロセッサを付けた端末(ターミナル)の延長だったんだ。まさしくね。二つの別々のプロジェクトを合体させたようなものだった」と証言している。
また後に製品化するApple1にDRAM (ダイナミック・ランダム・アクセス・メモリ)を使用したことにウォズニアックの先見性を認める人も多いが、このDRAMを使うように進めたのはジョブズだった。「DRAMは良いけど高いから使えない」というウォズニアックの言葉をよそにジョブズはどこからか必要なDRAMを調達してウォズニアックに渡した。
これがApple1の原型となった。この頃ウォズニアックは自分の設計したコンピュータをすでに「Apple」と称していた。友人のスティーブ・ジョブズの影響と命名であった。ただしひとつ完成させるのに手慣れていた彼らでも40時間から80時間もかかるだけでなくパーツを基板に細いワイヤーで結線していたので壊れやすかった。
そして無事に組立が終わったとしてもそれだけでは何もできなかった。電源(トランス)とキーボードをつなぐことで家庭用のテレビにモノクロのテキスト表示ができるようになるものの、まだカセットテープ・インターフェースが出来ていなかったからBASICを使うためユーザーは電源を入れる度に3Kバイトあまりのプログラムリストをキーボードから入力せざるを得なかったのである。
それでも友人達やホームブリュー・コンピュータ・クラブの仲間たちが同じものを欲しがったのでウォズニアックとジョブズは彼らの自宅に行き、ハンダ付けを手伝う羽目になるが、その過程でプリント基板を作れば40時間もかけずにApple1を組み立てられるとジョブズが考え、当のジョブズはフォルクスワーゲンのマイクロバスを、ウォズニアックは電卓を2台売り資金を作り、友人にプリント回路基板の設計を依頼する。そして原価20ドルのボードを倍の40ドルで販売することになった…。
こうした経緯を見つめつつスティーブ・ジョブズは機会到来と考え、ウォズニアックに会社設立を持ちかけるがウォズニアックは当初趣味を金儲けにすることには気が進まなかったものの取り急ぎヒューレット・パッカード社を辞める必要もなさそうだと判断しジョブズに薦められるままに会社を作ることに同意する。この辺、前記アレックス・カムラットに誘われたときと同様にウォズニアックは人の誘いを断り切れない性格なのかも知れない(笑)。
スティーブン・レビー著「ハッカーズ」によれば、この頃スティーブ・ジョブズはターミナルに大きな関心を持っており、機会があればターミナルを製造する会社を作るべく考えていたという。それがウォズニアックの作ったApple1を眼前にして単なるターミナルを超えた可能性に魅惑されたに違いない。
こうして1976年4月1日、Apple Computer Companyはスタートした。そしてジョブズは万一ウォズニアックと対立した場合に自分を有利にするため経験豊かで年嵩の友人ロン・ウェインを引き入れた。これがApple 創立に至る経緯...概要である。
とはいえ、さすがのスティーブ・ジョブズも最初から大層な計画を立てていたわけではなかったようだ。出来上がったApple1回路基板は友人達に売り、残りを他に販売すべく努力する…。ジョブズも当初は回路基板を売って金を手にしたら車と電卓を買い戻そうと考えていた程度だった。それが完成品を条件に50台の注文がバイト・ショップから入る…。
Appleは…いやスティーブ・ジョブズはしゃにむに走り出すことになる。バイト・ショップに期限ぎりぎりで納品した組立済みのApple1だったが、より販売拡大を狙い1976年8月28と29日の両日、ニュージャージ州アトランティックシティで開催された「PC ‘76 Computer Show」に出品する。


※「PC ‘76 Computer Show」の自社ブースでポーズを取るスティーブ・ジョブズ(上)と展示したApple1のシステム(下)。共に「73 AMATEUR RADIO」誌、1976年12月号より
スティーブ・ジョブズたちは本格的なビジネスを模索しながら動き出したのだ…。
【主な参考資料】
・富田倫生著「パソコン創世記」TBSブリタニカ刊
・マイクロソフトプレス/ケネス・A・ブラウン編「実録!天才発明家」アスキー出版局刊
・スティーブン・レビー著「ハッカーズ」工学社刊
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