NDL所蔵古書、プリントオンデマンドから「武士道」新渡戸稲造著を入手
NDLとは国立国会図書館のことである。今般Amazonで国立国会図書館の蔵書をプリントオンデマンド(POD)にて復刊したいくつかの書籍が販売開始されたことを知り早速そのうちの1冊、新渡戸稲造著「武士道」を買ってみた。本書は1900年に発刊された新渡戸稲造の代表作「武士道」(「Bushido: the soul of Japan, an exposition of Japanese thought.」)を、櫻井鴎村(さくらいおうそん)が訳し1908年に発刊された同書最初の邦訳である。なお蛇足だが、新渡戸稲造とは1984年〜2003年までの間5千円札の肖像に使われた人物だ…。
とはいえ「武士道」という1冊はすでに複数の現代語訳本があるし、個人的に本書の内容…すなわち新渡戸稲造の武士道感というものに少々違和感を持っている1人としてはその内容を再確認するためではない。NDL所蔵の古書がPODにより販売されたというその事実…仕様を確認したくてすでに内容を知っている本書を選んだ訳…。
また本書は近代デジタルライブラリーとしてWeb公開されているパブリックドメイン・コンテンツだそうだから内容だけを知りたければあらためて購入することもないが、PODによる書籍化がどのようなクオリティ、製本、形で供給されるかに大きな興味を持ったのである。

※国立国会図書館所蔵古書、新渡戸稲造の代表作「武士道」/櫻井鴎村訳をプリントオンデマンドで入手
手にしたPODによる1冊はペーパーバックとして製本されており、当然のことながら装丁は原本と同じではない。ただし制作にあたってはできる限りそのままの形で復元できるように心がけたとされ、ために編集や改修は一切行っていないという。したがって一部に書込があったりもするし、傷や汚れなどもそのままの形で印刷されているために読みにくい箇所がある可能性は否めない。とはいえ当時のままではそうそう容易に読み下せるはずもないが…(笑)。
さてついでに本書について少し論じてみたい。「武士道」という言葉はすでに江戸時代初期に使われていたようだが、新渡戸稲造による武士道とは意味合いが違い、戦いに勝ち武名を高め一族郎党…すなわち家を守り発展させることが主眼となっているという。対して新渡戸稲造の「武士道」はキリスト者でもあり教育者・思想家の眼から日本人の根底にある精神構造を考察したものだ。
そもそも本書は「日本人は、宗教なしに道徳をどう学ぶのか…」という外国人の疑問に答える形で英文で書かれた…。

※新渡戸稲造の肖像、ウィキペディアよりソースを拝借
個人的な感想として新渡戸稲造の「武士道」における教義を否定する物ではないし言わんとすることは理解できるつもりだ。彼は武士道を擁護しているにしても武士道に帰れと勧めているわけではない。しかし私が新渡戸の「武士道」に共感しつつもどこか違和感を覚える理由は明白だ…。それは彼が数え年7歳で明治元年を迎えたという事実によるものと思われる。
すなわち、新渡戸稲造はキリスト教に対峙するものとして武士道を持ち出したが、彼自身例えば山岡鉄舟とか勝海舟などとは違い、武家としての教育を幼少に受けたにせよ武士として主君に使えたことはなく、ましてや本身(真剣)を携えて命のやり取りをした事実はないのである。


※POD版、新渡戸稲造の代表作「武士道」ページ例紹介
卑近な例だが、例えばプログラミングの経験がない人にプログラミングそのものやプログラマーに関してあれこれ論じられても私は信用できない(笑)。同様にサッカーの試合を解説するにはやはりサッカー選手か元選手でなければ説得力はないだろう。もし門外漢が物申す利点があるとすれば良い意味で第三者的な冷静な目で論じることができる点かも知れないが、核心に迫ることはできないと考える。
同様な意味において新渡戸は最後の武家の出ではあっても武士ではなかったし、もともと英語圏の読者を想定した執筆だったとはいえ、西洋文明や文化を引き合いにしながら武士道を理解させようとする彼の筆は大変分かりやすいものの、天の邪鬼な私にはどこか美化し過ぎているような印象を拭えない…。
幕末維新を例にしても武士が外国人を斬り殺した例は生麦事件だけでなく後を絶たなかった。無論ご承知のように思想の違いを理由に日本人同士も殺しあった…。したがって外国人ならずとも主義主張のためとはいえ人を殺し、あるいは自決するその姿は野蛮人としか映らなかったろうし、どのように説明しても人の命を奪う行為は正当化できまい…。
新渡戸は「彼(侍)が腰に帯びるものは、彼が心に帯びるもの、忠義と名誉の象徴である」としつつ、勝海舟を例に武士道の究極の理想が平和である事を示していると主張する。しかし幕末の粛清の嵐は新渡戸の責任ではないものの、武士道が裏返ったときの危なさを証明している。
もし幕末の三舟の1人であの西郷隆盛に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」と言わしめた山岡鉄舟が本書を読んだとしたら、どのような感想を漏らすのだろうか(笑)。
余談ながら幕末から明治に至る時代において武士らしい武士といえばやはり山岡鉄舟は外せまい。詳しい生き様を記す余裕はないが「剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ、真の剣の達人である」といわゆる無刀の真理を剣禅一致の境地で覚醒したというが、四十九歳のとき一刀流九世、小野業雄から伊藤一刀斎の正伝秘奥などを授けられ十世を継ぐほどの剣豪となった。しかし鉄舟の凄いのはその気になれば何度も真剣を抜く機会があった時代に生きながら一度も人を切ったことがなかったという事実だ。それは勝海舟も同じだが、鉄舟は新渡戸の意味するところの「武士道」といった旧来の拘りからも脱却していたと思われる。なお鉄舟は維新後、明治天皇に仕え信頼厚く、侍従や宮内少輔を歴任した…。

※山岡鉄舟 (ウィキペディアより)
いや、私は少々虫の居所が悪いというか「武士道」というと今の人たちはすぐ新渡戸稲造の名をあげるのが面白くないのだ(笑)。勝海舟や山岡鉄舟そして西郷隆盛といった本物の武士達がいなければあの無血開城もなし得なかった。そういえば一般的に江戸城無血開城の話になると勝海舟と西郷隆盛の名が登場するが、そのお膳立てとして鉄舟がひとり敵陣の駿府に乗り込み西郷と面談しなければこれまた無血開城は無理だったに違いない。
後年勲章を持参した井上馨に「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは間違ってないか。ふんどし担ぎめ」と啖呵をきり叙勲を断ったエピソードは有名。そして鉄舟は死期を悟ったとき皇居に向かって仏教の座法である結跏趺坐したまま絶命する...。
さてさて本書を開くと最初に「武士道は、日本の標章である桜の花にまさるとも劣らない、わが国土に根ざした花である…」といった文を目にするが日本人の1人として、あるいは時に日本刀を腰に差して居合いの真似事をする私の心に訴えるものがあることは事実だ。しかしその意味するところは "単に美しい花" ということだけではないことは明らかだ。「サムライ魂」というのならどこか個人的な臭いもして違和感もないが、新渡戸による「武士道」の意図が先の戦争で美化された「散り際の美しさ」とか「死への潔さ」に通じるニュアンスがあるとすれば、素直に感動できない…。
また序において彼は「封建制と武士道とがわからなければ、現代日本の道徳思想は封印された書物と同じだと気づいた」と書いている。
日本においで封建制がいつ成立したかは論が分かれるらしいが、封建制とは「分権的…各地にいる諸侯(封建領主)による統治」と辞書にはある。その封建制・封建主義を忌まわしい過去の産物と単純に切り捨てるつもりはないもののそれが日本の良い意味での道徳思想の要であるかの論だとすればこれまた首を傾げてしまう。
1862年9月1日(文久2年8月8日)生まれの新渡戸稲造はキリスト者でありつつ熱い硬骨漢だった。そして新渡戸の「武士道」は欧米の人たちに日本人の特性をより良く知らしめることに貢献したしその功績は計り知れないものがあったが、彼は当然のこととはいえ武士道と共にあった封建時代の申し子だったというべきか…。それに「武士道」は「日本人は、宗教なしに道徳をどう学ぶのか…」という外国人の疑問に答える形で英文で書かれたが、我が国には士農工商と武士以外にも町人や農民たちも一般的に道徳・規律を守って暮らしていたわけで、士分だけを特別視しているようでこれまた面白くない(笑)。
無論私のように平和ぼけの時代に生きているオヤジに武士道など分かろう筈もないという至極尤もな批判は甘んじて受ける(笑)。また些か言いがかりめいた批判が過ぎたかも知れない。しかし新渡戸の「武士道」をこの時代に賛美する大きな声があるとすれば、これまた新渡戸の責任ではないものの些か危険なニュアンスを感じてしまうのだ。
ということで新渡戸稲造著「武士道」は日本の誇る世界的なベストセラーとして是非目を通しておくことをお勧めするが、もし「武士道」とか「侍」といったことを端的に知りたいとお考えなら学研刊「図説 侍 入門」というムックをお勧めする。

※学研刊「図説 侍 入門」表紙
本書はそれこそ名もなき下級武士たちの実態を多くの図や資料とともに分かりやすく紹介したものだ。特に40ページからの「"サムライ" 論~武士道と葉隠の功罪」(歴史研究家の大山格氏による)をお読みになるだけでも本書を手にする意義があるように思う。
ともあれ廃刊となった古書がこうしたプリントオンデマンドにより手軽に入手できるようになることは嬉しい。よりバリエーションを増やして欲しいと願っている。
とはいえ「武士道」という1冊はすでに複数の現代語訳本があるし、個人的に本書の内容…すなわち新渡戸稲造の武士道感というものに少々違和感を持っている1人としてはその内容を再確認するためではない。NDL所蔵の古書がPODにより販売されたというその事実…仕様を確認したくてすでに内容を知っている本書を選んだ訳…。
また本書は近代デジタルライブラリーとしてWeb公開されているパブリックドメイン・コンテンツだそうだから内容だけを知りたければあらためて購入することもないが、PODによる書籍化がどのようなクオリティ、製本、形で供給されるかに大きな興味を持ったのである。

※国立国会図書館所蔵古書、新渡戸稲造の代表作「武士道」/櫻井鴎村訳をプリントオンデマンドで入手
手にしたPODによる1冊はペーパーバックとして製本されており、当然のことながら装丁は原本と同じではない。ただし制作にあたってはできる限りそのままの形で復元できるように心がけたとされ、ために編集や改修は一切行っていないという。したがって一部に書込があったりもするし、傷や汚れなどもそのままの形で印刷されているために読みにくい箇所がある可能性は否めない。とはいえ当時のままではそうそう容易に読み下せるはずもないが…(笑)。
さてついでに本書について少し論じてみたい。「武士道」という言葉はすでに江戸時代初期に使われていたようだが、新渡戸稲造による武士道とは意味合いが違い、戦いに勝ち武名を高め一族郎党…すなわち家を守り発展させることが主眼となっているという。対して新渡戸稲造の「武士道」はキリスト者でもあり教育者・思想家の眼から日本人の根底にある精神構造を考察したものだ。
そもそも本書は「日本人は、宗教なしに道徳をどう学ぶのか…」という外国人の疑問に答える形で英文で書かれた…。

※新渡戸稲造の肖像、ウィキペディアよりソースを拝借
個人的な感想として新渡戸稲造の「武士道」における教義を否定する物ではないし言わんとすることは理解できるつもりだ。彼は武士道を擁護しているにしても武士道に帰れと勧めているわけではない。しかし私が新渡戸の「武士道」に共感しつつもどこか違和感を覚える理由は明白だ…。それは彼が数え年7歳で明治元年を迎えたという事実によるものと思われる。
すなわち、新渡戸稲造はキリスト教に対峙するものとして武士道を持ち出したが、彼自身例えば山岡鉄舟とか勝海舟などとは違い、武家としての教育を幼少に受けたにせよ武士として主君に使えたことはなく、ましてや本身(真剣)を携えて命のやり取りをした事実はないのである。


※POD版、新渡戸稲造の代表作「武士道」ページ例紹介
卑近な例だが、例えばプログラミングの経験がない人にプログラミングそのものやプログラマーに関してあれこれ論じられても私は信用できない(笑)。同様にサッカーの試合を解説するにはやはりサッカー選手か元選手でなければ説得力はないだろう。もし門外漢が物申す利点があるとすれば良い意味で第三者的な冷静な目で論じることができる点かも知れないが、核心に迫ることはできないと考える。
同様な意味において新渡戸は最後の武家の出ではあっても武士ではなかったし、もともと英語圏の読者を想定した執筆だったとはいえ、西洋文明や文化を引き合いにしながら武士道を理解させようとする彼の筆は大変分かりやすいものの、天の邪鬼な私にはどこか美化し過ぎているような印象を拭えない…。
幕末維新を例にしても武士が外国人を斬り殺した例は生麦事件だけでなく後を絶たなかった。無論ご承知のように思想の違いを理由に日本人同士も殺しあった…。したがって外国人ならずとも主義主張のためとはいえ人を殺し、あるいは自決するその姿は野蛮人としか映らなかったろうし、どのように説明しても人の命を奪う行為は正当化できまい…。
新渡戸は「彼(侍)が腰に帯びるものは、彼が心に帯びるもの、忠義と名誉の象徴である」としつつ、勝海舟を例に武士道の究極の理想が平和である事を示していると主張する。しかし幕末の粛清の嵐は新渡戸の責任ではないものの、武士道が裏返ったときの危なさを証明している。
もし幕末の三舟の1人であの西郷隆盛に「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」と言わしめた山岡鉄舟が本書を読んだとしたら、どのような感想を漏らすのだろうか(笑)。
余談ながら幕末から明治に至る時代において武士らしい武士といえばやはり山岡鉄舟は外せまい。詳しい生き様を記す余裕はないが「剣を捨て、剣に頼らぬ者こそ、真の剣の達人である」といわゆる無刀の真理を剣禅一致の境地で覚醒したというが、四十九歳のとき一刀流九世、小野業雄から伊藤一刀斎の正伝秘奥などを授けられ十世を継ぐほどの剣豪となった。しかし鉄舟の凄いのはその気になれば何度も真剣を抜く機会があった時代に生きながら一度も人を切ったことがなかったという事実だ。それは勝海舟も同じだが、鉄舟は新渡戸の意味するところの「武士道」といった旧来の拘りからも脱却していたと思われる。なお鉄舟は維新後、明治天皇に仕え信頼厚く、侍従や宮内少輔を歴任した…。

※山岡鉄舟 (ウィキペディアより)
いや、私は少々虫の居所が悪いというか「武士道」というと今の人たちはすぐ新渡戸稲造の名をあげるのが面白くないのだ(笑)。勝海舟や山岡鉄舟そして西郷隆盛といった本物の武士達がいなければあの無血開城もなし得なかった。そういえば一般的に江戸城無血開城の話になると勝海舟と西郷隆盛の名が登場するが、そのお膳立てとして鉄舟がひとり敵陣の駿府に乗り込み西郷と面談しなければこれまた無血開城は無理だったに違いない。
後年勲章を持参した井上馨に「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは間違ってないか。ふんどし担ぎめ」と啖呵をきり叙勲を断ったエピソードは有名。そして鉄舟は死期を悟ったとき皇居に向かって仏教の座法である結跏趺坐したまま絶命する...。
さてさて本書を開くと最初に「武士道は、日本の標章である桜の花にまさるとも劣らない、わが国土に根ざした花である…」といった文を目にするが日本人の1人として、あるいは時に日本刀を腰に差して居合いの真似事をする私の心に訴えるものがあることは事実だ。しかしその意味するところは "単に美しい花" ということだけではないことは明らかだ。「サムライ魂」というのならどこか個人的な臭いもして違和感もないが、新渡戸による「武士道」の意図が先の戦争で美化された「散り際の美しさ」とか「死への潔さ」に通じるニュアンスがあるとすれば、素直に感動できない…。
また序において彼は「封建制と武士道とがわからなければ、現代日本の道徳思想は封印された書物と同じだと気づいた」と書いている。
日本においで封建制がいつ成立したかは論が分かれるらしいが、封建制とは「分権的…各地にいる諸侯(封建領主)による統治」と辞書にはある。その封建制・封建主義を忌まわしい過去の産物と単純に切り捨てるつもりはないもののそれが日本の良い意味での道徳思想の要であるかの論だとすればこれまた首を傾げてしまう。
1862年9月1日(文久2年8月8日)生まれの新渡戸稲造はキリスト者でありつつ熱い硬骨漢だった。そして新渡戸の「武士道」は欧米の人たちに日本人の特性をより良く知らしめることに貢献したしその功績は計り知れないものがあったが、彼は当然のこととはいえ武士道と共にあった封建時代の申し子だったというべきか…。それに「武士道」は「日本人は、宗教なしに道徳をどう学ぶのか…」という外国人の疑問に答える形で英文で書かれたが、我が国には士農工商と武士以外にも町人や農民たちも一般的に道徳・規律を守って暮らしていたわけで、士分だけを特別視しているようでこれまた面白くない(笑)。
無論私のように平和ぼけの時代に生きているオヤジに武士道など分かろう筈もないという至極尤もな批判は甘んじて受ける(笑)。また些か言いがかりめいた批判が過ぎたかも知れない。しかし新渡戸の「武士道」をこの時代に賛美する大きな声があるとすれば、これまた新渡戸の責任ではないものの些か危険なニュアンスを感じてしまうのだ。
ということで新渡戸稲造著「武士道」は日本の誇る世界的なベストセラーとして是非目を通しておくことをお勧めするが、もし「武士道」とか「侍」といったことを端的に知りたいとお考えなら学研刊「図説 侍 入門」というムックをお勧めする。

※学研刊「図説 侍 入門」表紙
本書はそれこそ名もなき下級武士たちの実態を多くの図や資料とともに分かりやすく紹介したものだ。特に40ページからの「"サムライ" 論~武士道と葉隠の功罪」(歴史研究家の大山格氏による)をお読みになるだけでも本書を手にする意義があるように思う。
ともあれ廃刊となった古書がこうしたプリントオンデマンドにより手軽に入手できるようになることは嬉しい。よりバリエーションを増やして欲しいと願っている。
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