ラテ飼育格闘日記(327)
まあまあ、ラテはよく歩くし歩きたがる。よく寝てよく食べよく歩く...。しかし日々何がきっかけかは不明ながらラテの行動は少しずつ変わっていくのが不思議だし面白い。やはり人の五倍以上のスピードで生きているからなのか...。今回はちょっと重たい話題である。
最近公園などでワンコの飼い主さんたちにお会いすると知り合いのワンコたちの訃報が多いように思える。それぞれのケースは皆状況が違うものの、飼い主さんの落胆ぶりはペットロスという言葉で一括りできないほど大きいことをあらためて知らされる思いだ。
それらは12歳とか13歳で亡くなっているケースが目立つが、だとすればラテは今年でシニアの仲間入りとなる7歳なので大病をしないとしても...すでに人生(犬生)のほぼ折り返し点に到達したことになる。
なにか7年といわれても正直まったくといって良いほど実感がないが、7年という歳月は申し上げるまでもなく生まれた子供が小学校2年生になるほどの時の流れなのだから決して短くないはずだ..。
※顔の掻き傷も治りつつあり、べっぴんさんに戻りました(笑)
過日ラテのアトピーの薬を1ヶ月分入手するためいつもの動物病院へ行った。ここの病院は予約が必要なのでオトーサンも前日にあらかじめ電話予約を入れ受診開始の9時に予約を取ったがそれでも先約が2組ばかりあった。
今回オトーサンはラテを連れていないため、いつもよりリラックスして待合室のソファーに座っていたところ、年配の女性が両腕にコーギー犬を抱えらながら待合室に入ってきた。
あまりに印象的なコーギーの視線を受け止めながらオトーサンは「どこがお悪いのですか?」とお聞きしてみた。
早朝なので待合室は空いていたことでもあり、コーギー犬は飼い主さんの腕から長いすの上に横になったまま寝かされた。
飼い主さんは一呼吸つきながら「もう13歳半なので仕方がないのですが足腰が立たないだけでなくオシッコも自力でできないので管を入れているんです...」という。あまりくどくど病気のことなどを聞くのも憚れるのでオトーサンは頷きながら隣になったコーギー犬の鼻先に手の甲を近づけて臭いを嗅がせた。ま、これは初対面のワンコに対する挨拶みたいな行為である。
※散歩の帰り道、ペットボトルサッカーで遊ぶ
ともあれ横になったコーギー犬を眺めると寒さよけのカバーに覆われたボディーの両面には湿布みたいなものが広範囲に貼られていた。オトーサンの視線に気がついたからか飼い主さんは「両脇共にすでに床ずれが酷くて可哀想なんです」とため息をつく。すでに自力で寝返りが打てないという。
そのとき横になったまま僅かにコーギー犬の瞳がオトーサンの方を仰ぎ見る形になった。その視線は確かに力強いものではなかったが、それこそ眼ですべてを訴えているような不思議で魅力的、そして無類の優しさを湛えているように思えた。
※公園の遊具をへっぴり腰で登り、達成感?の笑顔!
オトーサンの表情からまたまた何かを読み取ったのだろうか、飼い主さんは話を続けた...。
「実はこの子、ここの動物病院で帝王切開で生まれたんです。兄妹たちの中でも残ったのはこの子だけなんですけどね...」と。
思わずオトーサンは「大変ですねぇ、飼い主さんもワンちゃんも」とつぶやくと「ええ、ほぼ毎日通ってますから」と返事が返ってきた。
「しかしワンちゃんは幸せですね」と思ったことを素直に口に出したオトーサンだったが「食欲があるのでもう少し頑張って欲しいと思っているんですが...」と飼い主さんは深いため息をつく。
その直後、コーギー犬は医者から呼ばれて診察室に入り、その間にオトーサンも担当医から薬を受け取ったりしていたので会えないままに病院を後にしたが、オトーサンの勝手な思い込みには違いないもののコーギー犬の達観したような不思議で魅力的な視線を忘れられないでいる...。
ところでワンコはその高い知能と高度な社会性を備えていることに驚くが、多くの学者や専門家の一致する見解として、ワンコには生死感がないという。
自身の死を認識し、それについて何らかの思いを馳せるということはなくただただ今日を生き、明日も間違いなく今日と同じに続くであろう事しか認識していないという。
勿論こればかりはワンコに聞いてみなければわからないが、私は人間と同様な認識ではないものの自分や一緒に住んでいるワンコあるいは飼い主の死というものを何らかの形で知覚できるのではないかと思っている。
象が死んだ仲間に対して、まるで葬式みたいに砂や枯葉とか枯れ枝をかけて鼻で愛しそうに撫でるという話を聞いたことがある。また犬猫も死期が迫ると姿を隠すという例もあるようだし、暫く前に病院で飼われている猫が近々亡くなる人の病室に座り込むというニュースを見聞きしたことがある。
※少々疲れたのか,帰宅早々キッチンのテーブル下で居眠りを始める
人類学者であるエリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活」によれば仲間の死を経験したワンコたちが独特な麝香めいた、つんとする臭いを発しついには室内に充満するまでになった事を記し、死の認識と関係するのだろうことを示唆している。
また保護施設に捕獲され、飼い主が見つからずに処分される犬猫はまだまだ膨大な数らしいが、とあるドキュメント記録によれば死の直前の猫や犬は直後の運命を知ってか声を発しないという。さらに檻に入れられた我が身の生き末は本能的に察知するからだろうか、そこに見も知らない人間が現れるとほとんどのワンコたちは一筋のチャンスにかけるように尻尾を振り、声を立てるという。
オトーサンは少年の頃、飼い猫2匹の死を体験したが、特に最初に飼った雌のシャム猫は気が強く、時に毛を逆立て斜めに構えながら飼い主たちに飛びかかったものだ。しかし結果として死の間際の数週間は具合が悪かったという事もあるのだろうが文字通り「借りてきた猫」のように大人しく温和な表情を示していたことを覚えている。
ともあれラテとオトーサンもいつかは別れなければならないことを、動物病院のコーギー犬は再確認させてくれたが、だからこそ毎日をできるだけ楽しく健康にそして一緒に仲良く過ごせるようにしたい...それを一日でも長く繰り返したいと格闘を続けるオトーサンなのであった。
最近公園などでワンコの飼い主さんたちにお会いすると知り合いのワンコたちの訃報が多いように思える。それぞれのケースは皆状況が違うものの、飼い主さんの落胆ぶりはペットロスという言葉で一括りできないほど大きいことをあらためて知らされる思いだ。
それらは12歳とか13歳で亡くなっているケースが目立つが、だとすればラテは今年でシニアの仲間入りとなる7歳なので大病をしないとしても...すでに人生(犬生)のほぼ折り返し点に到達したことになる。
なにか7年といわれても正直まったくといって良いほど実感がないが、7年という歳月は申し上げるまでもなく生まれた子供が小学校2年生になるほどの時の流れなのだから決して短くないはずだ..。
※顔の掻き傷も治りつつあり、べっぴんさんに戻りました(笑)
過日ラテのアトピーの薬を1ヶ月分入手するためいつもの動物病院へ行った。ここの病院は予約が必要なのでオトーサンも前日にあらかじめ電話予約を入れ受診開始の9時に予約を取ったがそれでも先約が2組ばかりあった。
今回オトーサンはラテを連れていないため、いつもよりリラックスして待合室のソファーに座っていたところ、年配の女性が両腕にコーギー犬を抱えらながら待合室に入ってきた。
あまりに印象的なコーギーの視線を受け止めながらオトーサンは「どこがお悪いのですか?」とお聞きしてみた。
早朝なので待合室は空いていたことでもあり、コーギー犬は飼い主さんの腕から長いすの上に横になったまま寝かされた。
飼い主さんは一呼吸つきながら「もう13歳半なので仕方がないのですが足腰が立たないだけでなくオシッコも自力でできないので管を入れているんです...」という。あまりくどくど病気のことなどを聞くのも憚れるのでオトーサンは頷きながら隣になったコーギー犬の鼻先に手の甲を近づけて臭いを嗅がせた。ま、これは初対面のワンコに対する挨拶みたいな行為である。
※散歩の帰り道、ペットボトルサッカーで遊ぶ
ともあれ横になったコーギー犬を眺めると寒さよけのカバーに覆われたボディーの両面には湿布みたいなものが広範囲に貼られていた。オトーサンの視線に気がついたからか飼い主さんは「両脇共にすでに床ずれが酷くて可哀想なんです」とため息をつく。すでに自力で寝返りが打てないという。
そのとき横になったまま僅かにコーギー犬の瞳がオトーサンの方を仰ぎ見る形になった。その視線は確かに力強いものではなかったが、それこそ眼ですべてを訴えているような不思議で魅力的、そして無類の優しさを湛えているように思えた。
※公園の遊具をへっぴり腰で登り、達成感?の笑顔!
オトーサンの表情からまたまた何かを読み取ったのだろうか、飼い主さんは話を続けた...。
「実はこの子、ここの動物病院で帝王切開で生まれたんです。兄妹たちの中でも残ったのはこの子だけなんですけどね...」と。
思わずオトーサンは「大変ですねぇ、飼い主さんもワンちゃんも」とつぶやくと「ええ、ほぼ毎日通ってますから」と返事が返ってきた。
「しかしワンちゃんは幸せですね」と思ったことを素直に口に出したオトーサンだったが「食欲があるのでもう少し頑張って欲しいと思っているんですが...」と飼い主さんは深いため息をつく。
その直後、コーギー犬は医者から呼ばれて診察室に入り、その間にオトーサンも担当医から薬を受け取ったりしていたので会えないままに病院を後にしたが、オトーサンの勝手な思い込みには違いないもののコーギー犬の達観したような不思議で魅力的な視線を忘れられないでいる...。
ところでワンコはその高い知能と高度な社会性を備えていることに驚くが、多くの学者や専門家の一致する見解として、ワンコには生死感がないという。
自身の死を認識し、それについて何らかの思いを馳せるということはなくただただ今日を生き、明日も間違いなく今日と同じに続くであろう事しか認識していないという。
勿論こればかりはワンコに聞いてみなければわからないが、私は人間と同様な認識ではないものの自分や一緒に住んでいるワンコあるいは飼い主の死というものを何らかの形で知覚できるのではないかと思っている。
象が死んだ仲間に対して、まるで葬式みたいに砂や枯葉とか枯れ枝をかけて鼻で愛しそうに撫でるという話を聞いたことがある。また犬猫も死期が迫ると姿を隠すという例もあるようだし、暫く前に病院で飼われている猫が近々亡くなる人の病室に座り込むというニュースを見聞きしたことがある。
※少々疲れたのか,帰宅早々キッチンのテーブル下で居眠りを始める
人類学者であるエリザベス・M・トーマス著「犬たちの隠された生活」によれば仲間の死を経験したワンコたちが独特な麝香めいた、つんとする臭いを発しついには室内に充満するまでになった事を記し、死の認識と関係するのだろうことを示唆している。
また保護施設に捕獲され、飼い主が見つからずに処分される犬猫はまだまだ膨大な数らしいが、とあるドキュメント記録によれば死の直前の猫や犬は直後の運命を知ってか声を発しないという。さらに檻に入れられた我が身の生き末は本能的に察知するからだろうか、そこに見も知らない人間が現れるとほとんどのワンコたちは一筋のチャンスにかけるように尻尾を振り、声を立てるという。
オトーサンは少年の頃、飼い猫2匹の死を体験したが、特に最初に飼った雌のシャム猫は気が強く、時に毛を逆立て斜めに構えながら飼い主たちに飛びかかったものだ。しかし結果として死の間際の数週間は具合が悪かったという事もあるのだろうが文字通り「借りてきた猫」のように大人しく温和な表情を示していたことを覚えている。
ともあれラテとオトーサンもいつかは別れなければならないことを、動物病院のコーギー犬は再確認させてくれたが、だからこそ毎日をできるだけ楽しく健康にそして一緒に仲良く過ごせるようにしたい...それを一日でも長く繰り返したいと格闘を続けるオトーサンなのであった。
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