スティーブ・ジョブズの成長過程に大きな影響を与えたPIXARを再評価しよう
スティーブ・ジョブズといえばApple。Appleといえばスティーブ・ジョブズ…という印象は大変強い。彼はAppleの創業者の1人だったし一度はAppleから離れたものの奇跡とも思える復職を果たしただけでなく、いつ倒産してもおかしくないほどのAppleを世界一の企業にした。しかしジョブズの人間形成に大きな影響を与えたのはAppleよりPIXARの方かも知れないのだ。
Macintoshは勿論のこと、スティーブ・ジョブズはApple復帰後にiPod、iPhoneそしてiPadと矢継ぎ早に私たちの生活を変えてしまう製品を世に送り出した。我々にしてもAppleといえばスティーブ・ジョブズだし、スティーブ・ジョブズ自身にとってAppleという会社は人生のすべてであったかのように思いがちだ。
実際にそうだったのかも知れないものの、彼がAppleと同時にかかわったもうひとつの企業 PIXAR…すなわちピクサー・アニメーション・スタジオがスティーブ・ジョブズを大きく育てたことをもっと認識すべきではないだろうか。

※筆者所有のPIXAR社 (Pixar Animation Studio)の株券。同社は2006年5月5日よりウォルト・ディズニー・カンパニーの完全子会社となったが、当該株券はそれ以前に入手したもの。株券下部にはPIXAR社の作品に登場したキャラクターがデザインされ、右下にはスティーブ・ジョブズのサインがある
ここのところPIXAR社(Pixar Animation Studios)についての本を2冊読んだ。1冊はデイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」(早川書房)でもう1冊はエド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから 〜 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」だ。前書は2009年初版だが2冊目は新刊である。特に「ピクサー流 創造するちから」は名著として記憶されるかも知れない…。

※エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから 〜 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」

※デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」
長い間、Appleの製品を愛用し続け、Appleのデベロッパーとしてソフトウェア開発会社を起業した関係で1996年末Appleに復帰したスティーブ・ジョブズという男を否応なしで意識せざるを得なくなった。特に最初のiMacをリリースしてからの活躍は凄まじく瀕死のAppleを立ち直らせた男が目立たないわけはなかった。
その後必然的にAppleとジョブズの動向を追うことになったが、Appleはともかくスティーブ・ジョブズという人物は時に最低の男として語られたし、事実そうした雰囲気を目の前で見せつけられたこともありその業績とは裏腹にできることならつき合いたくない人物として写った…。
しかし「ピクサー流創造する力」で著者のエド・キャットムルは我々が持ち続けてきたスティーブ・ジョブズの印象とは違う一面を紹介しているのを見ればジョブズという男はまだまだ不可思議な側面を持って研究に値する偉人だと思ったし、後年のスティーブ・ジョブズをスティーブ・ジョブズたらしめたのはPIXARに関わったからではないかということに改めて気づいた...。
スティーブ・ジョブズが PIXARのオーナーになりいかに多くのことを学び、経営者としてそして1人の人間として成長したかについて我々はもっともっと認識をあらためなければならないと思う。
ところで、ご承知の方がほとんどだと思うが、PIXARの前身は、1979年にジョージ・ルーカス率いるルーカスフィルム社がニューヨーク工科大学からエド・キャットムルを雇用し創立したコンピュータ・アニメーション部門だった。その後1986年、当時Appleを退社したスティーブ・ジョブズがアラン・ケイらに勧められ、1000万ドルで買収し「PIXAR」と名付けた。その後紆余曲折があったものの、2006年にディズニーに売却しPIXARはディズニーの完全子会社となった。結果ジョブズはディズニーの個人筆頭株主となり、同時に役員にも就任した。またキャットムルはピクサー・アニメーション・スタジオ社長およびウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ社長、ラセターは同社チーフ・クリエイティブ・オフィサーとなる。
そのPIXARでスティーブ・ジョブズと26年間一緒に仕事をしたエド・キャットムルは自書「ピクサー流創造するちから」でスティーブ・ジョブズについて興味深い多くのことを述べている。
彼はジョブズがPIXARに変わったその数十年の間、ジョブズは大きく変わったと証言している。彼は2つの劇的な企業を成功に導く実戦経験を身につけただけでなく、イノベーションに対する拘りはますます堅固なものになっていったものの、人にごり押しするのをどこでやめるか、あるいは相手を追い込みすぎないようにする加減を身につけ、公正で賢明になり、パートナーシップに対する理解を深めたという。そして己を知った思いやりのあるリーダーになっていったと…。
そうした変化の要因はローレン・パウエルとの結婚と愛する子供たちに依存することが大きいとしながらもエド・キャットムルは「PIXARがその一翼を担ったと思っている」と断言しているのだ。
というわけでここでは2つの事例を取り上げて、PIXARがAppleへの…というよりスティーブ・ジョブズに強い影響を与えたであろうことを考察してみたい。
さて、まずひとつめの検証だが、2008年の秋以降、WALL STREER JOURNALやWIREDの記事などで「Apple University」 が開講されるというニュースが大きな話題となった。
これは当然のことながらスティーブ・ジョブズの希望で立ち上げることになったプロジェクトだが、統括責任者として当時イェール経営大学院の学部長を務めていたJoel Podolny氏を採用したと報道された。
無論その役割はAppleが培ってきたDNAを継承させるために違いないが、興味深い事はこの「Apple University」というトレーニングプログラムは、1996年から開講されたPIXARにおける「PIXAR University」という類似のプログラムに倣ったものであることは明白だ。PIXARでその効用を眼前にしたスティーブ・ジョブズがAppleでも実施したいと考えたのだろう。
当初「Apple University」 という企画を聞かされた我々は、スティーブ・ジョブズのユニークな発想に思いを馳せたが、その源流はPIXARにあったのだ…。
次にふたつめの検証だが、スティーブ・ジョブズは2001年や2010年の基調講演で「我々(Apple)は、リベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業である」と発言した。特に2010年1月の基調講演でジョブズは、Appleが最も多くの先端技術を駆使し、信じ難いほどの魅惑的な価格で革命的なデバイスを開発し続けることが可能なのはまさしくAppleがリベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業だからだと力説した。
この「リベラル・アートとテクノロジーの融合」といった概念は分かりづらくどうしても難しく考えがちだが、これまたPIXARで学んだことのように思える。

※2010年のイベントにおける基調講演で「我々(Apple)は、リベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業」と発言するスティーブ・ジョブズ
なぜなら「ピクサー流創造するちから」でエド・キャットムルはいう。第10章「視野を広げる」の4番目に「テクノロジーとアートの融合」という項目があり、「PIXARのすべてはアーティストからの要求とプログラマーの提案によって実現したこと」だとし、両者のキャッチボールは、技術と芸術の融合の場だったとした上で、だからこそイノベーションの推進力は、外からではなく内から生まれたと書いている。
しかしなぜ彼ら(エドやスティーブ)は「テクノロジーとアートの融合」といった事にこだわるのだろうか…。当初私の頭の中でAppleというコンピュータメーカーと「リベラル・アートとテクノロジーの接点」といった謳い文句がスムーズにマッチングしなかった。「なにか突飛でもなく難しいというかきれい事を持ち出してきたな」と正直感じていたが、デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー 〜 創造力をつくった人々」(早川書房)を読んで理解できたように思う…。
スティーブ・ジョブズがオーナーになりPIXARと名付けられる以前の持ち主は前記したとおりジョージ・ルーカスだったが、彼がグラフィックス・グループに作らせたかったのは映画製作用のツールであり、コンピュータ・アニメーションではなかった。
そもそも映画というメディアはいまから1世紀ほど前、奇しくもスタンフォード大学の建設が予定されていたベイエリアの私有地であったパロアルトで誕生したものである。
ここでジョン・アイザックスという技術者が写真家のエドワード・マイブリッジからの依頼を受け、1972年頃から10台〜30台ほどのカメラをずらりと並べた場所に馬を走らせ写真を撮る実験を行った。それは馬がギャロップするとき四つ脚、すなわち蹄が一度に地面を離れる瞬間があるかどうかという長年の論争に決着をつけるためだった。これにより連続写真撮影が実現し、初めて動きのイメージを連続的に映写することも可能になった…。
当初はシャッターにつけられた糸を馬が通過する際に切っていくことでシャッターを動作させる仕組みだったが、後には電磁シャッターを使うまでになった。
この実験のおかげで写真家のマイブリッジは一躍著名人の仲間入りを果たしたが、連続撮影という写真実用化の突破口を開いた電気制御シャッターの開発者であったアイザックスは無名のままだった。事実こうした歴史に詳しいC・W・ツェーラム著「映画の考古学」(フィルムアート社刊)においてもマイブリッジの名は登場するもののアイザックスの名はまったく出てこない。

※C・W・ツェーラム著「映画の考古学」(フィルムアート社刊)
エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから ~ 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」によれば、ルーカスの問題は、ルーカスがCGの専門家たちをいわばアイザックスに仕立て、自分たちがマイブリッジ…すなわち芸術家になろうとしていたことにあるという。
要はPIXARの前身だったルーカスフィルムのグラフィクスグルーブはテクノロジーとアートが融合されるどころか、アート部門がテクノロジー部門を蔑ろにするといった風潮もあって作品や製品作りに支障をきたしていたらしい。
スティーブ・ジョブズという支援者を得たエド・キャットムルはその問題を重視し、アーティストからの要求とプログラマーの提案が最良の形で融合しなければ最高の作品はできないことを前提にその改革に力を注いだということなのだろう。
スティーブ・ジョブズにとってPIXARだからこそ学べた重要なことのひとつがこの点にあったということではないだろうか。そしてそれはAppleにとっても重要なポイントであることを認識したに違いない。
これまで我々はスティーブ・ジョブズの言動を常にAppleという視点から見てきた。Appleで彼はなにをしてきたのか、どのような製品をリリースしその経緯はどのようなものであったのか…などなどを追ってきた。しかしそうした視点だけではここにご紹介した「Apple University」の実施や2001年ニューヨークにおけるMacworld Expoの基調講演でスティーブ・ジョブズが発言した “This is an illusration of apple standing in the intersection of liberal arts and technology.” といった真の意味は掴めない。
スティーブ・ジョブズはアート表現に重点を置くPIXARという組織においてAppleでは得られない多くのことを学んだに違いなく、それらの成果をAppleの経営にもフィードバックしたことになる。
ジョブズはエド・キャットムルによく言っていたという…。「Appleの製品はどんなにすばらしくとも最後は埋立地に行く運命だが、PIXARの映画は永遠に生き続ける」と。そして彼自身、エンタテインメントが自分の最も得意とする分野ではない事を自覚した上で「関わることができて幸運だ」とも…。
スティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、ユーザーはもとより取締役会などからCEO就任希望があったとき、彼は「私にはPIXARのCEOという職がある」といって要請を断った。結局暫定CEOという形でしばらくの間舵取りをしていたものの私も含め多くの人たちは彼の物言いに駆け引きというか詭弁を感じたに違いない。しかしいま思うとある程度は本心だったのかも知れない…とも思う。
スティーブ・ジョブズにとってPIXARは我々が感じてきた以上に大切な存在であり、Appleと共に彼の人生にとって両輪だったのだ。
そのPIXAR本社ビルはスティーブ・ジョブズ逝去から1年と少し経った2012年11月5日、"ザ・スティーブ・ジョブズ・ビルディング"と改名された。ジョブズの意志はPIXARでも生き続けるに違いない。
【主な参考資料】
・エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから ~ 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」ダイヤモンド社刊
・デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」早川書房刊
・C・W・ツェーラム著「映画の考古学」フィルムアート社刊
Macintoshは勿論のこと、スティーブ・ジョブズはApple復帰後にiPod、iPhoneそしてiPadと矢継ぎ早に私たちの生活を変えてしまう製品を世に送り出した。我々にしてもAppleといえばスティーブ・ジョブズだし、スティーブ・ジョブズ自身にとってAppleという会社は人生のすべてであったかのように思いがちだ。
実際にそうだったのかも知れないものの、彼がAppleと同時にかかわったもうひとつの企業 PIXAR…すなわちピクサー・アニメーション・スタジオがスティーブ・ジョブズを大きく育てたことをもっと認識すべきではないだろうか。

※筆者所有のPIXAR社 (Pixar Animation Studio)の株券。同社は2006年5月5日よりウォルト・ディズニー・カンパニーの完全子会社となったが、当該株券はそれ以前に入手したもの。株券下部にはPIXAR社の作品に登場したキャラクターがデザインされ、右下にはスティーブ・ジョブズのサインがある
ここのところPIXAR社(Pixar Animation Studios)についての本を2冊読んだ。1冊はデイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」(早川書房)でもう1冊はエド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから 〜 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」だ。前書は2009年初版だが2冊目は新刊である。特に「ピクサー流 創造するちから」は名著として記憶されるかも知れない…。

※エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから 〜 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」

※デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」
長い間、Appleの製品を愛用し続け、Appleのデベロッパーとしてソフトウェア開発会社を起業した関係で1996年末Appleに復帰したスティーブ・ジョブズという男を否応なしで意識せざるを得なくなった。特に最初のiMacをリリースしてからの活躍は凄まじく瀕死のAppleを立ち直らせた男が目立たないわけはなかった。
その後必然的にAppleとジョブズの動向を追うことになったが、Appleはともかくスティーブ・ジョブズという人物は時に最低の男として語られたし、事実そうした雰囲気を目の前で見せつけられたこともありその業績とは裏腹にできることならつき合いたくない人物として写った…。
しかし「ピクサー流創造する力」で著者のエド・キャットムルは我々が持ち続けてきたスティーブ・ジョブズの印象とは違う一面を紹介しているのを見ればジョブズという男はまだまだ不可思議な側面を持って研究に値する偉人だと思ったし、後年のスティーブ・ジョブズをスティーブ・ジョブズたらしめたのはPIXARに関わったからではないかということに改めて気づいた...。
スティーブ・ジョブズが PIXARのオーナーになりいかに多くのことを学び、経営者としてそして1人の人間として成長したかについて我々はもっともっと認識をあらためなければならないと思う。
ところで、ご承知の方がほとんどだと思うが、PIXARの前身は、1979年にジョージ・ルーカス率いるルーカスフィルム社がニューヨーク工科大学からエド・キャットムルを雇用し創立したコンピュータ・アニメーション部門だった。その後1986年、当時Appleを退社したスティーブ・ジョブズがアラン・ケイらに勧められ、1000万ドルで買収し「PIXAR」と名付けた。その後紆余曲折があったものの、2006年にディズニーに売却しPIXARはディズニーの完全子会社となった。結果ジョブズはディズニーの個人筆頭株主となり、同時に役員にも就任した。またキャットムルはピクサー・アニメーション・スタジオ社長およびウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ社長、ラセターは同社チーフ・クリエイティブ・オフィサーとなる。
そのPIXARでスティーブ・ジョブズと26年間一緒に仕事をしたエド・キャットムルは自書「ピクサー流創造するちから」でスティーブ・ジョブズについて興味深い多くのことを述べている。
彼はジョブズがPIXARに変わったその数十年の間、ジョブズは大きく変わったと証言している。彼は2つの劇的な企業を成功に導く実戦経験を身につけただけでなく、イノベーションに対する拘りはますます堅固なものになっていったものの、人にごり押しするのをどこでやめるか、あるいは相手を追い込みすぎないようにする加減を身につけ、公正で賢明になり、パートナーシップに対する理解を深めたという。そして己を知った思いやりのあるリーダーになっていったと…。
そうした変化の要因はローレン・パウエルとの結婚と愛する子供たちに依存することが大きいとしながらもエド・キャットムルは「PIXARがその一翼を担ったと思っている」と断言しているのだ。
というわけでここでは2つの事例を取り上げて、PIXARがAppleへの…というよりスティーブ・ジョブズに強い影響を与えたであろうことを考察してみたい。
さて、まずひとつめの検証だが、2008年の秋以降、WALL STREER JOURNALやWIREDの記事などで「Apple University」 が開講されるというニュースが大きな話題となった。
これは当然のことながらスティーブ・ジョブズの希望で立ち上げることになったプロジェクトだが、統括責任者として当時イェール経営大学院の学部長を務めていたJoel Podolny氏を採用したと報道された。
無論その役割はAppleが培ってきたDNAを継承させるために違いないが、興味深い事はこの「Apple University」というトレーニングプログラムは、1996年から開講されたPIXARにおける「PIXAR University」という類似のプログラムに倣ったものであることは明白だ。PIXARでその効用を眼前にしたスティーブ・ジョブズがAppleでも実施したいと考えたのだろう。
当初「Apple University」 という企画を聞かされた我々は、スティーブ・ジョブズのユニークな発想に思いを馳せたが、その源流はPIXARにあったのだ…。
次にふたつめの検証だが、スティーブ・ジョブズは2001年や2010年の基調講演で「我々(Apple)は、リベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業である」と発言した。特に2010年1月の基調講演でジョブズは、Appleが最も多くの先端技術を駆使し、信じ難いほどの魅惑的な価格で革命的なデバイスを開発し続けることが可能なのはまさしくAppleがリベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業だからだと力説した。
この「リベラル・アートとテクノロジーの融合」といった概念は分かりづらくどうしても難しく考えがちだが、これまたPIXARで学んだことのように思える。

※2010年のイベントにおける基調講演で「我々(Apple)は、リベラル・アートとテクノロジーの接点に立つ企業」と発言するスティーブ・ジョブズ
なぜなら「ピクサー流創造するちから」でエド・キャットムルはいう。第10章「視野を広げる」の4番目に「テクノロジーとアートの融合」という項目があり、「PIXARのすべてはアーティストからの要求とプログラマーの提案によって実現したこと」だとし、両者のキャッチボールは、技術と芸術の融合の場だったとした上で、だからこそイノベーションの推進力は、外からではなく内から生まれたと書いている。
しかしなぜ彼ら(エドやスティーブ)は「テクノロジーとアートの融合」といった事にこだわるのだろうか…。当初私の頭の中でAppleというコンピュータメーカーと「リベラル・アートとテクノロジーの接点」といった謳い文句がスムーズにマッチングしなかった。「なにか突飛でもなく難しいというかきれい事を持ち出してきたな」と正直感じていたが、デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー 〜 創造力をつくった人々」(早川書房)を読んで理解できたように思う…。
スティーブ・ジョブズがオーナーになりPIXARと名付けられる以前の持ち主は前記したとおりジョージ・ルーカスだったが、彼がグラフィックス・グループに作らせたかったのは映画製作用のツールであり、コンピュータ・アニメーションではなかった。
そもそも映画というメディアはいまから1世紀ほど前、奇しくもスタンフォード大学の建設が予定されていたベイエリアの私有地であったパロアルトで誕生したものである。
ここでジョン・アイザックスという技術者が写真家のエドワード・マイブリッジからの依頼を受け、1972年頃から10台〜30台ほどのカメラをずらりと並べた場所に馬を走らせ写真を撮る実験を行った。それは馬がギャロップするとき四つ脚、すなわち蹄が一度に地面を離れる瞬間があるかどうかという長年の論争に決着をつけるためだった。これにより連続写真撮影が実現し、初めて動きのイメージを連続的に映写することも可能になった…。
当初はシャッターにつけられた糸を馬が通過する際に切っていくことでシャッターを動作させる仕組みだったが、後には電磁シャッターを使うまでになった。
この実験のおかげで写真家のマイブリッジは一躍著名人の仲間入りを果たしたが、連続撮影という写真実用化の突破口を開いた電気制御シャッターの開発者であったアイザックスは無名のままだった。事実こうした歴史に詳しいC・W・ツェーラム著「映画の考古学」(フィルムアート社刊)においてもマイブリッジの名は登場するもののアイザックスの名はまったく出てこない。

※C・W・ツェーラム著「映画の考古学」(フィルムアート社刊)
エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから ~ 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」によれば、ルーカスの問題は、ルーカスがCGの専門家たちをいわばアイザックスに仕立て、自分たちがマイブリッジ…すなわち芸術家になろうとしていたことにあるという。
要はPIXARの前身だったルーカスフィルムのグラフィクスグルーブはテクノロジーとアートが融合されるどころか、アート部門がテクノロジー部門を蔑ろにするといった風潮もあって作品や製品作りに支障をきたしていたらしい。
スティーブ・ジョブズという支援者を得たエド・キャットムルはその問題を重視し、アーティストからの要求とプログラマーの提案が最良の形で融合しなければ最高の作品はできないことを前提にその改革に力を注いだということなのだろう。
スティーブ・ジョブズにとってPIXARだからこそ学べた重要なことのひとつがこの点にあったということではないだろうか。そしてそれはAppleにとっても重要なポイントであることを認識したに違いない。
これまで我々はスティーブ・ジョブズの言動を常にAppleという視点から見てきた。Appleで彼はなにをしてきたのか、どのような製品をリリースしその経緯はどのようなものであったのか…などなどを追ってきた。しかしそうした視点だけではここにご紹介した「Apple University」の実施や2001年ニューヨークにおけるMacworld Expoの基調講演でスティーブ・ジョブズが発言した “This is an illusration of apple standing in the intersection of liberal arts and technology.” といった真の意味は掴めない。
スティーブ・ジョブズはアート表現に重点を置くPIXARという組織においてAppleでは得られない多くのことを学んだに違いなく、それらの成果をAppleの経営にもフィードバックしたことになる。
ジョブズはエド・キャットムルによく言っていたという…。「Appleの製品はどんなにすばらしくとも最後は埋立地に行く運命だが、PIXARの映画は永遠に生き続ける」と。そして彼自身、エンタテインメントが自分の最も得意とする分野ではない事を自覚した上で「関わることができて幸運だ」とも…。
スティーブ・ジョブズがAppleに復帰し、ユーザーはもとより取締役会などからCEO就任希望があったとき、彼は「私にはPIXARのCEOという職がある」といって要請を断った。結局暫定CEOという形でしばらくの間舵取りをしていたものの私も含め多くの人たちは彼の物言いに駆け引きというか詭弁を感じたに違いない。しかしいま思うとある程度は本心だったのかも知れない…とも思う。
スティーブ・ジョブズにとってPIXARは我々が感じてきた以上に大切な存在であり、Appleと共に彼の人生にとって両輪だったのだ。
そのPIXAR本社ビルはスティーブ・ジョブズ逝去から1年と少し経った2012年11月5日、"ザ・スティーブ・ジョブズ・ビルディング"と改名された。ジョブズの意志はPIXARでも生き続けるに違いない。
【主な参考資料】
・エド・キャットムル著「ピクサー流 創造するちから ~ 小さな可能性から大きな価値を生み出す方法」ダイヤモンド社刊
・デイヴィッド・A・プライス著「メイキング・オブ・ピクサー ~ 創造力をつくった人々」早川書房刊
・C・W・ツェーラム著「映画の考古学」フィルムアート社刊
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