「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」に見る1989年当時のMac否定論?
Apple Musicで一悶着あったテイラー・スウィフトの最新アルバム「1989」に引っかけた訳ではないが、久しぶりに1989年8月25日に翔泳社より発刊された「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」のページをめくってみたが、当時Macがどのように評価され、どんな見方をされていたパソコンなのかが良く分かって興味深い。当時はとにかくマイナーでシェアの低いパソコンだったのである。
このざら紙のペーパーバックは現在から見てもなかなか意欲的な一冊だと思える。なぜなら200ページほどの中にMac以前のパソコンの歴史、マイクロプロセッサの誕生、Altaia 8800の誕生などからスタートしてAppleの歴史とMacそのものの紹介はもとより、その誕生に関わるエピソード、関係する人物紹介まで詰め込んでいるからだ。
またハイパーテキスト論やNeXTの紹介、テッドネルソンが提案したプロジェクト・ザナドウや当時のAppleのCEOであったジョン・スカリーが提唱したKnowledge Navigatorにいたるまで…Macを中心に何でもかんでも詰め込もうとする文字通り百科事典的なコンセプトによる一冊だった。 ダグラス・エンゲルバート、アラン・ケイ、ジョン・ドイレパー、シーモア・パパートまで登場する。
だからもし「当時の様子を簡単に把握できる資料は?」との問いがあるなら、この「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」は格好の資料になると思われる。

※1989年8月25日発刊の翔泳社刊「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」表紙
1989年といえば、Macintoshが登場して5年目であり、AppleがMacintosh IIcxやTFT液晶ディスプレイを搭載したあの大型ポータブルマシンMacintosh Portableを発表した時代である。そして同年5月にはTCP/IPサポートによりやっとインターネット接続の基礎が確立されたという時代であった。そして私はといえば、皆に無謀といわれながらもMacintosh専門のソフトハウスを起業した年だった...。
さて、早速その「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」を見てみよう...。奥付のいわゆる編集後記に編集者の一人が「マッキントッシュというとやたらに絶賛する人が多いが、あのアイコン、マウス、プルダウンメニューというオペレーションはどうしても気に入らない。」と記しているのが印象的だ。正直者...といえばそれまでだが、Mac本の編集者がMac嫌いだと明言できる時代だったのだが(笑)、この方はいまでもMacを毛嫌いしているのだろうか。
そうした良くも悪くもアンチ・アップルの精神が息づいていたのか「スティーブン・ノー・ジョブズ」といった項もあって面白い。
そして後半のエッセイに記された内容はこれまたMacintoshの書籍であるにも関わらず、そのGUIなどに否定的な見解を述べるものが目立つという点でも意欲的な?書籍であったといえるだろう。
しかし、MacintoshのコンセプトともいえるそのGUIがいま当然のことのようにWindowsなどでも採用されている現実を見ると、苦言を呈した方々の意見は現在の視点からはとても…せつない…。
「進化の袋小路としてのGUI」というタイトルでエッセイを書かれた岩谷宏氏は「...コンピュータが真のパーソナルコンピュータとして使用されるとき、もっとも必要とされるのは高速なテキスト処理である。GUIは、限られたコンピュータ資源の無駄遣いに過ぎない」と、MacintoshのGUIを評した。続けて「人間はグラフィックスではコミュニケーションできないのです。」とまで言い切っている。

※当時Macのアイコンやフォントなど多義に渡るデザインはスーザン・ケアの仕事だった。本書「SUSAN KARE ICONS」には彼女がデザインしたアイコンが収録されている(筆者所有)
確かに「アイコンはアイコンとしての存在意義を全うできない。それより漢字一字の方がどれだけ意味が伝わるか...」といった論議が盛んに行われ始めた時代であったことを象徴している記述である。
また、富樫雅文氏(当時北海道大学理学部)は「マックは、かえるだ!」と題したエッセイを寄稿しているが、これまたMacintoshのGUIに否定的な発言である。
氏は「新世界のためのマウスという『肺』を持ちながら、キーボードという旧世界の『えら』を手放せないゆえに、マッキントッシュはナンバークランチャー(数字つぶし)と呼ばれる機械と文房具の間のせつない矛盾を生きざるを得ないのである」という。そしてまた「(キーボードと)マウスによる操作と併用するには、両手はあまりにちぐはぐな動きを要求される。苦しまぎれの先祖返りとしか思えないのである」と突き放し、「アイコンもまた問題なしとしない」「たんなる絵文字として見るならば、究極の絵文字である漢字にかなうはずはない」と続く...。
私がわざわざ両氏のエッセイを取り上げたのは、その内容を揶揄するためではない。Macが誕生してから5年しか経っていない1989年という時代はまだこうした議論が白熱していた時期であったことを知っていただきたいからだが、その是非はともかくこうした議論自体、Macintoshというパーソナルコンピュータが登場したからこそであったことも忘れてはならない。

※Appleが1984年に発行した初代Macintoshカタログの見開きページ。マイクロソフト社のビル・ゲイツの姿も載っている
ともあれ「より良い批判は単純な肯定より、未来を明るくする」と信じている私だが、お二人の主張は本書の発刊当時、正直Macの書籍に載せる内容ではないと首を傾げたものだった…。
とはいえ富樫雅文氏もアップルのデザイン指向には賛同を示していたようだ。例えば「アップルのデザインがよいと評価されるのは、たんに最終的造形に関わるデザイナーがすぐれているという理由からではない。」と主張…。
続けて「デザイン行為のなかで、モノを見つめる視点は『なにをどう造るか』にではなく、さらに一歩踏み込み『できあがったモノはどういう環境変化をもたらすか』というシミュレーションに向いていなければならない」と主張する。また「本来デザインのすべては『なぜモノはそこに在らねばならないか』という議論から始められるべきだろう」と続く一連の主張は、本書の発行当時には理解し難かったものの、アップルのデザイン戦略を先読みしていたような感覚にいたる。何故ならいま読めばその考察はスティーブ・ジョブズがアップルに復帰して以降の製品開発の姿勢と共にiPodやiPhoneがいかにして世界を変えるに至ったのかという事実にも重なり、氏のアップルにおけるデザインとは何か…という深い洞察が窺えるからだ…。
私自身は結局、GUIだけの問題ではないもののMacintoshに惚れ、長年多くのマイコン・パソコンを使ってきた中でやっと「メディアとなれるパソコン」「絵を扱い、描けるパソコン」に出会ったという感を深くしてそれを仕事にしてしまった...。
無論、現在のオペレーションにしてもそれは理想からはまだまだ遠いものであるかも知れない。しかしMacintoshが登場してから早31年経過するが、商用ベースとしてMacintoshが果たしたGUIの成果はいまやパーソナルコンピュータのオペレーションとして否定されるどころか定着したといってよい。
その現在にあってもキーボードとマウスの両方使いに不満を感じているユーザーや研究者は存在するものの "QWERTY"キーボードの普及の現実を例にするまでもなく、いったん大衆に定着したものを覆すのはこれまたとんでもなく難しいことでもある。また究極のインターフェースとも言われ続けてきた音声によるオペレーションもパーソナルコンピュータというよりiPhoneやスマートフォンといった携帯デバイスの利用環境の中から急速な進化と実用性を見いだしているのも興味深い。
「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」の表紙にはこう綴られている。
60年代にハッカーたちがまいた種は
シリコンバレーに根づき
6色に輝く林檎の実をつけた
シリコンバレーに集まった若者たちは
コンピュータに何を求め
何を夢見ていたのだろうか?
70年代にアップルを
80年代にマッキントッシュをおくりだし
パーソナルコンピュータに
独自の世界を創りあげた
アップルの歴史をひもときながら
彼らの夢と思想にふれる
では、すでにポストPC時代といわれる2015年に生きる我々は、どのような夢と理想を持ち、何をパーソナルコンピュータやコンピューティングに求めているのだろうか?
このざら紙のペーパーバックは現在から見てもなかなか意欲的な一冊だと思える。なぜなら200ページほどの中にMac以前のパソコンの歴史、マイクロプロセッサの誕生、Altaia 8800の誕生などからスタートしてAppleの歴史とMacそのものの紹介はもとより、その誕生に関わるエピソード、関係する人物紹介まで詰め込んでいるからだ。
またハイパーテキスト論やNeXTの紹介、テッドネルソンが提案したプロジェクト・ザナドウや当時のAppleのCEOであったジョン・スカリーが提唱したKnowledge Navigatorにいたるまで…Macを中心に何でもかんでも詰め込もうとする文字通り百科事典的なコンセプトによる一冊だった。 ダグラス・エンゲルバート、アラン・ケイ、ジョン・ドイレパー、シーモア・パパートまで登場する。
だからもし「当時の様子を簡単に把握できる資料は?」との問いがあるなら、この「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」は格好の資料になると思われる。

※1989年8月25日発刊の翔泳社刊「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」表紙
1989年といえば、Macintoshが登場して5年目であり、AppleがMacintosh IIcxやTFT液晶ディスプレイを搭載したあの大型ポータブルマシンMacintosh Portableを発表した時代である。そして同年5月にはTCP/IPサポートによりやっとインターネット接続の基礎が確立されたという時代であった。そして私はといえば、皆に無謀といわれながらもMacintosh専門のソフトハウスを起業した年だった...。
さて、早速その「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」を見てみよう...。奥付のいわゆる編集後記に編集者の一人が「マッキントッシュというとやたらに絶賛する人が多いが、あのアイコン、マウス、プルダウンメニューというオペレーションはどうしても気に入らない。」と記しているのが印象的だ。正直者...といえばそれまでだが、Mac本の編集者がMac嫌いだと明言できる時代だったのだが(笑)、この方はいまでもMacを毛嫌いしているのだろうか。
そうした良くも悪くもアンチ・アップルの精神が息づいていたのか「スティーブン・ノー・ジョブズ」といった項もあって面白い。
そして後半のエッセイに記された内容はこれまたMacintoshの書籍であるにも関わらず、そのGUIなどに否定的な見解を述べるものが目立つという点でも意欲的な?書籍であったといえるだろう。
しかし、MacintoshのコンセプトともいえるそのGUIがいま当然のことのようにWindowsなどでも採用されている現実を見ると、苦言を呈した方々の意見は現在の視点からはとても…せつない…。
「進化の袋小路としてのGUI」というタイトルでエッセイを書かれた岩谷宏氏は「...コンピュータが真のパーソナルコンピュータとして使用されるとき、もっとも必要とされるのは高速なテキスト処理である。GUIは、限られたコンピュータ資源の無駄遣いに過ぎない」と、MacintoshのGUIを評した。続けて「人間はグラフィックスではコミュニケーションできないのです。」とまで言い切っている。

※当時Macのアイコンやフォントなど多義に渡るデザインはスーザン・ケアの仕事だった。本書「SUSAN KARE ICONS」には彼女がデザインしたアイコンが収録されている(筆者所有)
確かに「アイコンはアイコンとしての存在意義を全うできない。それより漢字一字の方がどれだけ意味が伝わるか...」といった論議が盛んに行われ始めた時代であったことを象徴している記述である。
また、富樫雅文氏(当時北海道大学理学部)は「マックは、かえるだ!」と題したエッセイを寄稿しているが、これまたMacintoshのGUIに否定的な発言である。
氏は「新世界のためのマウスという『肺』を持ちながら、キーボードという旧世界の『えら』を手放せないゆえに、マッキントッシュはナンバークランチャー(数字つぶし)と呼ばれる機械と文房具の間のせつない矛盾を生きざるを得ないのである」という。そしてまた「(キーボードと)マウスによる操作と併用するには、両手はあまりにちぐはぐな動きを要求される。苦しまぎれの先祖返りとしか思えないのである」と突き放し、「アイコンもまた問題なしとしない」「たんなる絵文字として見るならば、究極の絵文字である漢字にかなうはずはない」と続く...。
私がわざわざ両氏のエッセイを取り上げたのは、その内容を揶揄するためではない。Macが誕生してから5年しか経っていない1989年という時代はまだこうした議論が白熱していた時期であったことを知っていただきたいからだが、その是非はともかくこうした議論自体、Macintoshというパーソナルコンピュータが登場したからこそであったことも忘れてはならない。

※Appleが1984年に発行した初代Macintoshカタログの見開きページ。マイクロソフト社のビル・ゲイツの姿も載っている
ともあれ「より良い批判は単純な肯定より、未来を明るくする」と信じている私だが、お二人の主張は本書の発刊当時、正直Macの書籍に載せる内容ではないと首を傾げたものだった…。
とはいえ富樫雅文氏もアップルのデザイン指向には賛同を示していたようだ。例えば「アップルのデザインがよいと評価されるのは、たんに最終的造形に関わるデザイナーがすぐれているという理由からではない。」と主張…。
続けて「デザイン行為のなかで、モノを見つめる視点は『なにをどう造るか』にではなく、さらに一歩踏み込み『できあがったモノはどういう環境変化をもたらすか』というシミュレーションに向いていなければならない」と主張する。また「本来デザインのすべては『なぜモノはそこに在らねばならないか』という議論から始められるべきだろう」と続く一連の主張は、本書の発行当時には理解し難かったものの、アップルのデザイン戦略を先読みしていたような感覚にいたる。何故ならいま読めばその考察はスティーブ・ジョブズがアップルに復帰して以降の製品開発の姿勢と共にiPodやiPhoneがいかにして世界を変えるに至ったのかという事実にも重なり、氏のアップルにおけるデザインとは何か…という深い洞察が窺えるからだ…。
私自身は結局、GUIだけの問題ではないもののMacintoshに惚れ、長年多くのマイコン・パソコンを使ってきた中でやっと「メディアとなれるパソコン」「絵を扱い、描けるパソコン」に出会ったという感を深くしてそれを仕事にしてしまった...。
無論、現在のオペレーションにしてもそれは理想からはまだまだ遠いものであるかも知れない。しかしMacintoshが登場してから早31年経過するが、商用ベースとしてMacintoshが果たしたGUIの成果はいまやパーソナルコンピュータのオペレーションとして否定されるどころか定着したといってよい。
その現在にあってもキーボードとマウスの両方使いに不満を感じているユーザーや研究者は存在するものの "QWERTY"キーボードの普及の現実を例にするまでもなく、いったん大衆に定着したものを覆すのはこれまたとんでもなく難しいことでもある。また究極のインターフェースとも言われ続けてきた音声によるオペレーションもパーソナルコンピュータというよりiPhoneやスマートフォンといった携帯デバイスの利用環境の中から急速な進化と実用性を見いだしているのも興味深い。
「林檎百科〜マッキントッシュクロニクル」の表紙にはこう綴られている。
60年代にハッカーたちがまいた種は
シリコンバレーに根づき
6色に輝く林檎の実をつけた
シリコンバレーに集まった若者たちは
コンピュータに何を求め
何を夢見ていたのだろうか?
70年代にアップルを
80年代にマッキントッシュをおくりだし
パーソナルコンピュータに
独自の世界を創りあげた
アップルの歴史をひもときながら
彼らの夢と思想にふれる
では、すでにポストPC時代といわれる2015年に生きる我々は、どのような夢と理想を持ち、何をパーソナルコンピュータやコンピューティングに求めているのだろうか?
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