私が初めて憧れのAltoに逢ったとき…
すでに20年以上も前のことなので記憶も薄れつつあるが、1992年7月に富士ゼロックス社初の「アップルフェア」が開催された。私の会社も依頼を受けそのMacコーナーの一つに自社開発のビデオ編集ソフトを展示するブースを設けた。そして私自身が説明要員として張り付いたが、そのフロアーにはあこがれのAltoが鎮座していた...。
Altoは1970年代に米ゼロックス社のパロアルト研究所で開発された先進的なコンピュータだった。その先進性をAppleの Lisa や Macintosh が受け継いだことで、後にすべてのパーソナルコンピュータの源流とされるシステムと評価されている。その Alto ではマウスオペレーション、ビットマップ・ディスプレイ、リムーバブルなハードディスク、さらにEthernet まで実現されていた。そしてあのアラン・ケイは自身のコンセプトである暫定ダイナブックとしてAltoおよびSmalltalkを研究していた…。

※1992年7月、富士ゼロックス社主催「アップルフェア」において自社ブースをかまえた筆者
しかし Alto は Xerox Star など一部のワークステーションに間接的影響を与えたものの、ゼロックス社自身は Alto の市販を考えてはいなかったため、現在まで完全な形で残っている台数はきわめて少ないといわれている。だからというわけではないが、私にとって Alto は一度その実物を、完全な姿を間近で見てみたいと考えていた憧れのコンピュータだったのである。
そんな Alto がなんと…展示フロアに鎮座していたのだから私は驚喜した。それだけでなく確か「AltoはMacintoshの母...」といったコピーと共に6色のアップルロゴがデザインされた展示ボードに Alto は眩しく飾られていた。
私は一日の仕事が終わり、お客様が退出された時期を見計らって富士ゼロックス社の担当者に許可をいただき、Altoにカメラを向けただけでなく、Altoと共に記念の撮影をもお願いした。ご覧のようにAltoとアップルロゴが一緒にディスプレイされる例はこの前にも後にもほとんどなかったと思う。

※1992年7月、富士ゼロックス社において展示会が開催された際にディスプレイされたAlto。Appleロゴと一緒のディスプレイは珍しい。奥にJStarが写っている(筆者撮影)
さて、1970年代にこれだけのマシンが完成していたのだから、物作りとは何かをあらためて考えさせられる。確かに現在であればハードディスクも小型化・大容量のものが使えるとか、処理スピードをもっと速くすることが可能だろうが、問題はそうした枝葉の問題ではない。
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※Altoと記念撮影!
私は当時からアラン・ケイをはじめとする当時のパロアルト研究所の開発者たちが、1970年というその時代に、どのような発想...コンセプトの元でこの Alto の仕様に行き着いたのかに興味があった。そして Lisa や Macintosh にどのように受け継がれたのか...といったことに関しては「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」にまとめてあるのでご参照いただきたいが、Alto あっての Lisa あるいは Macintosh だったことは間違いない…。しかし反対に Macintosh およびその GUI を目標にして追従した Windows といったものの成功なくして今日の Alto への高い評価はなかったかも知れないのだ。
その展示されていたアルトの前に前記した「AltoはMacintoshの母…」とは別にもうひとつ印象的なコピーがあった…。
パネルには「J-StarとMacintoshはアルトから生まれた兄弟、したがって ゼロックスは再会したリンゴの味がよく分かる...」という意味のことが書かれていた (正確な表現は記憶していない)。これは富士ゼロックス社がアップルのディストリビューターになったからこその主張だったが、思えば皮肉な歴史の結果でもあった…。
さて、仕事を終えて帰宅して際、Altoに会えた嬉しさについ女房に向かって「アルトと写真を撮ってきた!」と言った。その時の女房の反応は Alto に会ったのと同じように記憶に残った…。女房は「スズキの?」※ときた(笑)。無論女房がAltoを知る由もなかったからである。
※1979年にスズキ株式会社から発売されたハッチバック型軽自動車(国外仕様除く)の車名。車に疎い女房も知っていたほど大ヒットした
Altoは1970年代に米ゼロックス社のパロアルト研究所で開発された先進的なコンピュータだった。その先進性をAppleの Lisa や Macintosh が受け継いだことで、後にすべてのパーソナルコンピュータの源流とされるシステムと評価されている。その Alto ではマウスオペレーション、ビットマップ・ディスプレイ、リムーバブルなハードディスク、さらにEthernet まで実現されていた。そしてあのアラン・ケイは自身のコンセプトである暫定ダイナブックとしてAltoおよびSmalltalkを研究していた…。

※1992年7月、富士ゼロックス社主催「アップルフェア」において自社ブースをかまえた筆者
しかし Alto は Xerox Star など一部のワークステーションに間接的影響を与えたものの、ゼロックス社自身は Alto の市販を考えてはいなかったため、現在まで完全な形で残っている台数はきわめて少ないといわれている。だからというわけではないが、私にとって Alto は一度その実物を、完全な姿を間近で見てみたいと考えていた憧れのコンピュータだったのである。
そんな Alto がなんと…展示フロアに鎮座していたのだから私は驚喜した。それだけでなく確か「AltoはMacintoshの母...」といったコピーと共に6色のアップルロゴがデザインされた展示ボードに Alto は眩しく飾られていた。
私は一日の仕事が終わり、お客様が退出された時期を見計らって富士ゼロックス社の担当者に許可をいただき、Altoにカメラを向けただけでなく、Altoと共に記念の撮影をもお願いした。ご覧のようにAltoとアップルロゴが一緒にディスプレイされる例はこの前にも後にもほとんどなかったと思う。

※1992年7月、富士ゼロックス社において展示会が開催された際にディスプレイされたAlto。Appleロゴと一緒のディスプレイは珍しい。奥にJStarが写っている(筆者撮影)
さて、1970年代にこれだけのマシンが完成していたのだから、物作りとは何かをあらためて考えさせられる。確かに現在であればハードディスクも小型化・大容量のものが使えるとか、処理スピードをもっと速くすることが可能だろうが、問題はそうした枝葉の問題ではない。

※Altoと記念撮影!
私は当時からアラン・ケイをはじめとする当時のパロアルト研究所の開発者たちが、1970年というその時代に、どのような発想...コンセプトの元でこの Alto の仕様に行き着いたのかに興味があった。そして Lisa や Macintosh にどのように受け継がれたのか...といったことに関しては「スティーブ・ジョブズとパロアルト研究所物語」にまとめてあるのでご参照いただきたいが、Alto あっての Lisa あるいは Macintosh だったことは間違いない…。しかし反対に Macintosh およびその GUI を目標にして追従した Windows といったものの成功なくして今日の Alto への高い評価はなかったかも知れないのだ。
その展示されていたアルトの前に前記した「AltoはMacintoshの母…」とは別にもうひとつ印象的なコピーがあった…。
パネルには「J-StarとMacintoshはアルトから生まれた兄弟、したがって ゼロックスは再会したリンゴの味がよく分かる...」という意味のことが書かれていた (正確な表現は記憶していない)。これは富士ゼロックス社がアップルのディストリビューターになったからこその主張だったが、思えば皮肉な歴史の結果でもあった…。
さて、仕事を終えて帰宅して際、Altoに会えた嬉しさについ女房に向かって「アルトと写真を撮ってきた!」と言った。その時の女房の反応は Alto に会ったのと同じように記憶に残った…。女房は「スズキの?」※ときた(笑)。無論女房がAltoを知る由もなかったからである。
※1979年にスズキ株式会社から発売されたハッチバック型軽自動車(国外仕様除く)の車名。車に疎い女房も知っていたほど大ヒットした
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