マネキンは人間への賛美をベースにしたアートそのもの〜マネキンの魅力考察
今回、とある企画の中でマネキンを使うことになったのは私にとっても初めての経験だが、意外だったのは周囲の目が冷たいことだった(笑)。冷たいと言うより、何か触れてはならないものに触れてしまったという印象を友人知人たちの反応から察するが、それはそう考える方が心が汚れているのではないだろうか…(笑)。今回はマネキンとアートの意外な接点のお話しだ…。
ということで、今回は空しいとは知りつつもマネキンとは何なのか?といったことも含めてマネキンの “真っ当な” 魅力に迫ってみたい。
1人の友人はいう。「マネキンをとやかくいうのではない。マネキンはデパートや衣料品店にディスプレイされるもので個人宅に置いたり飾ったりするものではない。変なのはマネキンではなくお前だ!」という(笑)。ものすごく明晰な物言いだ...。
それに対する反論だが、個人宅に飾って悪い事はないと信じているが、そもそもは飾るためではなく撮影の小道具、演出の一環として企画されたことなのだと...。ただし企画の言い出しっぺとして当該企画の結果がどうなるにしても、仕事が済んだ後は私の責任で引き取ることになるが...無論捨てるには忍びない。
ともあれアンドロイドだと批難もなくマネキンだと白い目で見られる(笑)。何故なんだろうか...。ただし友人知人らの中でもデザイン指向の人や芸術に心引かれる人たちは概して理解を見せてくれるのは面白い。

さて、話しを急がずゆっくりと進めてみよう。
一昔前にはスーツを買おうとデパートに行き立ち並ぶマネキンが着ているものをデザインやら柄、そして手触りといったあれこれを確認しお気に入りの1着を決めた。そのとき私は服を着ている...着せられているマネキンを意識したことはほとんどない。
ただし、たまたま女性服売り場やそうしたコーナーを通らざるを得ないとき、面白い事に服や身につけている装飾品よりマネキンのスタイルや顔が気になった。これは私が男だからこその性なのかも知れないが、マネキンというヒトガタをどこか生きた女性と見ている自分を発見し我ながら面白がったこともある…。だから男の端くれとして女性のマネキンにエロティシズムを感じないとはいわない。
そういえば私はヘッドレス、すなわち頭部のない首までのマネキンは大嫌いだった。なぜって首から上のない人間はいないわけであり、例え人形だとしてもそんなものは見るに値しないと感じていたからだ。また昔のマネキンは材質の関係からか一部欠けていたり肌色が剥げていたりするものもあったし、服の取り替え中なのか何も身につけていない裸のマネキンに出会うとなにか見てはいけないものを見たようで慌てて視線を外したものだ。
しかしマネキンに対する印象は決して "美しい女性" とばかりの印象では無かったことも確かだ。最新流行の服を着せられ華やかなスポットライトを浴び多くの人たちに注目される華やかなマネキンだが、その誕生後の "生き様" は人の形をしているだけに正視できない背景も持っている。
例えば「mannequins マネキン」(株式会社パロル舎刊)という写真集がある。これは写真家の林 雅之氏がマネキンメーカー(株)七彩の倉庫に立ち入って撮影したものだ。そこには出荷を待つ新しいマネキンもあるが心惹かれるのは傷付き汚れた裸体のマネキンたちだ。
両腕や両足を外され修理を待っているのか、あるいは破棄される運命なのか...そんなことには躊躇する素振りも見せず一点を凝視したり笑みを浮かべているその姿はこれまた見てはいけないものを見た後ろめたさを感じる。

※林 雅之著「mannequins マネキン」(株式会社パロル舎刊)
愛されたマネキンほど流転の一生を送る。もともとの化粧をそのままに真っ黒や真っ赤に塗り直される場合もあるし、時にはヘッドレス・マネキンとして首から切断されたりもする。その姿に人は衝撃を受けるかも知れないがマネキンは顔が汚れていようが睫毛が片方取れていようが品格はそのままに平然としている。「品格を問われるのはその姿に無神経でいられる人間側の方だ…」とは「mannequins マネキン」の後書きを書いているマネキン研究家、藤井秀雪氏の弁である。
しかし心静かにそうしたマネキンと向き合ってみれば実に美しいと思えるようになってくる。藤井秀雪氏は汚れて傷付いたマネキンを「マネキンの汚れは人に愛され続けた証明であり、見放された結果ではない」という。そして「人の愛に包まれたマネキンは、それがどのような姿になっても美しい存在であり続けると思う」という。
そういえば我々は "マネキン" と言ってるが、語源はフランス語の "mannequin" で衣服の展示に使われる等身大の人形といった意味だけでなく、店頭において各種商品の宣伝・販売促進にあたる販売員やその職種を意味するという。
ただし「マヌカン」という言葉は縁起を担ぐ商売として「(客を)マヌカン(招かない)」では困ると「マネキン」という造語が使われるようになったという。
そろそろ本題に入るが、ではなぜ我々はリアルマネキンに惹かれるのだろうか?マネキンはなぜ魅力的なのか...。
それは決して人間そっくりに作られているからだけではない。マネキンは体の寸法もデフォルメされているし特別なものを別にすれば顔もどこかにいそうでいない…それはメーカーのオリジナルであり目的、コンセプトに合わせて一番効果的な表現ができるように作られている。
ただし日本マネキンディスプレイ商工組合刊「マネキンのすべて2」の中で同書編集部の田中克幸氏はいう…。「つまり、人はマネキンを前にしたとき、そこで直感した表象に対する自己の純粋な反応を、自分自身で客観的に観察することが可能となるのである。」と…。これはマネキンに特化したことではないだろうが、生身の人でなく人形、それもリアル故に客観性が際立つのだろうか。

※日本マネキンディスプレイ商工組合刊「マネキンのすべて2」
大げさでなくそもそもリアルマネキンが魅力なのはアートと共鳴するからだ...。マネキンの歴史がリアルなヒトガタを造形することだとすれば、それは必然的に芸術家、彫刻家の腕と天分の才が必要となってくる。反対に芸術家たちも好んでヒトガタの造形に興味を持つのは自然なことだ。
事実20世紀のシュルレアリストたち、例えばエルンストもダリもマッソンも、競ってマネキン人形の製作に熱中している。そして芸術にエロスは不可欠であり、それがまた人を惹きつけてやまない。

国産のマネキンも同じだ。国内初の本格的なマネキンメーカーは1925年、京都にできた島津マネキンだが、きっかけは親会社ともいうべき精密機器メーカーの島津製作所だった。島津マネキンの代表者、島津良蔵は東京美術学校で彫刻を学んだ。同校卒の向井良吉も参画したが、戦争で同社は閉鎖したものの戦後に向井らは七彩工芸(現七彩)を起こす。
したがって国産マネキンも、アートに限りなく近い縁から生まれている。そしてその後も芸術家たちはマネキンに携わっていた。その多くは生活の糧を得るためであったというが、例えば画家の東郷青児(1897年~1978年)、芸術家の岡本太郎(1911年~1996年)がマネキンの修理をしていた時期があったという。
そういえば、島津製作所よりマネキンの製作販売権を得て操業した吉忠株式会社(後の吉忠マネキン)では1947年(昭和22年)にマネキンの第1回新作展を開催したが、その当時東郷青児画伯を顧問に迎えたという。さらに高島屋の薔薇の包装紙デザインを手がけたことでも知られる洋画家、高岡徳太郎(1902年~1991年)は二科会の画家・彫刻家らと共にマネキン会社(ノバ・マネキン社)を設立し自ら社長に就任している。
マネキンは人体・人間への賛美をベースにしたアートそのものなのだ!そのアート作品を惜しげもなくビジネスとして使い切るその清さがマネキンに命を吹き込むことになるのだから面白い。マネキンはもっともっと注目されるべきなのだ。
【主な参考資料】
・欠田誠著「マネキン 美しい人体の物語」晶文社刊
・INAX「マネキン 笑わないイヴたち」INAXギャラリー刊
・「マネキンのすべて2」日本マネキンディスプレイ商工組合刊
ということで、今回は空しいとは知りつつもマネキンとは何なのか?といったことも含めてマネキンの “真っ当な” 魅力に迫ってみたい。
1人の友人はいう。「マネキンをとやかくいうのではない。マネキンはデパートや衣料品店にディスプレイされるもので個人宅に置いたり飾ったりするものではない。変なのはマネキンではなくお前だ!」という(笑)。ものすごく明晰な物言いだ...。
それに対する反論だが、個人宅に飾って悪い事はないと信じているが、そもそもは飾るためではなく撮影の小道具、演出の一環として企画されたことなのだと...。ただし企画の言い出しっぺとして当該企画の結果がどうなるにしても、仕事が済んだ後は私の責任で引き取ることになるが...無論捨てるには忍びない。
ともあれアンドロイドだと批難もなくマネキンだと白い目で見られる(笑)。何故なんだろうか...。ただし友人知人らの中でもデザイン指向の人や芸術に心引かれる人たちは概して理解を見せてくれるのは面白い。

さて、話しを急がずゆっくりと進めてみよう。
一昔前にはスーツを買おうとデパートに行き立ち並ぶマネキンが着ているものをデザインやら柄、そして手触りといったあれこれを確認しお気に入りの1着を決めた。そのとき私は服を着ている...着せられているマネキンを意識したことはほとんどない。
ただし、たまたま女性服売り場やそうしたコーナーを通らざるを得ないとき、面白い事に服や身につけている装飾品よりマネキンのスタイルや顔が気になった。これは私が男だからこその性なのかも知れないが、マネキンというヒトガタをどこか生きた女性と見ている自分を発見し我ながら面白がったこともある…。だから男の端くれとして女性のマネキンにエロティシズムを感じないとはいわない。
そういえば私はヘッドレス、すなわち頭部のない首までのマネキンは大嫌いだった。なぜって首から上のない人間はいないわけであり、例え人形だとしてもそんなものは見るに値しないと感じていたからだ。また昔のマネキンは材質の関係からか一部欠けていたり肌色が剥げていたりするものもあったし、服の取り替え中なのか何も身につけていない裸のマネキンに出会うとなにか見てはいけないものを見たようで慌てて視線を外したものだ。
しかしマネキンに対する印象は決して "美しい女性" とばかりの印象では無かったことも確かだ。最新流行の服を着せられ華やかなスポットライトを浴び多くの人たちに注目される華やかなマネキンだが、その誕生後の "生き様" は人の形をしているだけに正視できない背景も持っている。
例えば「mannequins マネキン」(株式会社パロル舎刊)という写真集がある。これは写真家の林 雅之氏がマネキンメーカー(株)七彩の倉庫に立ち入って撮影したものだ。そこには出荷を待つ新しいマネキンもあるが心惹かれるのは傷付き汚れた裸体のマネキンたちだ。
両腕や両足を外され修理を待っているのか、あるいは破棄される運命なのか...そんなことには躊躇する素振りも見せず一点を凝視したり笑みを浮かべているその姿はこれまた見てはいけないものを見た後ろめたさを感じる。

※林 雅之著「mannequins マネキン」(株式会社パロル舎刊)
愛されたマネキンほど流転の一生を送る。もともとの化粧をそのままに真っ黒や真っ赤に塗り直される場合もあるし、時にはヘッドレス・マネキンとして首から切断されたりもする。その姿に人は衝撃を受けるかも知れないがマネキンは顔が汚れていようが睫毛が片方取れていようが品格はそのままに平然としている。「品格を問われるのはその姿に無神経でいられる人間側の方だ…」とは「mannequins マネキン」の後書きを書いているマネキン研究家、藤井秀雪氏の弁である。
しかし心静かにそうしたマネキンと向き合ってみれば実に美しいと思えるようになってくる。藤井秀雪氏は汚れて傷付いたマネキンを「マネキンの汚れは人に愛され続けた証明であり、見放された結果ではない」という。そして「人の愛に包まれたマネキンは、それがどのような姿になっても美しい存在であり続けると思う」という。
そういえば我々は "マネキン" と言ってるが、語源はフランス語の "mannequin" で衣服の展示に使われる等身大の人形といった意味だけでなく、店頭において各種商品の宣伝・販売促進にあたる販売員やその職種を意味するという。
ただし「マヌカン」という言葉は縁起を担ぐ商売として「(客を)マヌカン(招かない)」では困ると「マネキン」という造語が使われるようになったという。
そろそろ本題に入るが、ではなぜ我々はリアルマネキンに惹かれるのだろうか?マネキンはなぜ魅力的なのか...。
それは決して人間そっくりに作られているからだけではない。マネキンは体の寸法もデフォルメされているし特別なものを別にすれば顔もどこかにいそうでいない…それはメーカーのオリジナルであり目的、コンセプトに合わせて一番効果的な表現ができるように作られている。
ただし日本マネキンディスプレイ商工組合刊「マネキンのすべて2」の中で同書編集部の田中克幸氏はいう…。「つまり、人はマネキンを前にしたとき、そこで直感した表象に対する自己の純粋な反応を、自分自身で客観的に観察することが可能となるのである。」と…。これはマネキンに特化したことではないだろうが、生身の人でなく人形、それもリアル故に客観性が際立つのだろうか。

※日本マネキンディスプレイ商工組合刊「マネキンのすべて2」
大げさでなくそもそもリアルマネキンが魅力なのはアートと共鳴するからだ...。マネキンの歴史がリアルなヒトガタを造形することだとすれば、それは必然的に芸術家、彫刻家の腕と天分の才が必要となってくる。反対に芸術家たちも好んでヒトガタの造形に興味を持つのは自然なことだ。
事実20世紀のシュルレアリストたち、例えばエルンストもダリもマッソンも、競ってマネキン人形の製作に熱中している。そして芸術にエロスは不可欠であり、それがまた人を惹きつけてやまない。

国産のマネキンも同じだ。国内初の本格的なマネキンメーカーは1925年、京都にできた島津マネキンだが、きっかけは親会社ともいうべき精密機器メーカーの島津製作所だった。島津マネキンの代表者、島津良蔵は東京美術学校で彫刻を学んだ。同校卒の向井良吉も参画したが、戦争で同社は閉鎖したものの戦後に向井らは七彩工芸(現七彩)を起こす。
したがって国産マネキンも、アートに限りなく近い縁から生まれている。そしてその後も芸術家たちはマネキンに携わっていた。その多くは生活の糧を得るためであったというが、例えば画家の東郷青児(1897年~1978年)、芸術家の岡本太郎(1911年~1996年)がマネキンの修理をしていた時期があったという。
そういえば、島津製作所よりマネキンの製作販売権を得て操業した吉忠株式会社(後の吉忠マネキン)では1947年(昭和22年)にマネキンの第1回新作展を開催したが、その当時東郷青児画伯を顧問に迎えたという。さらに高島屋の薔薇の包装紙デザインを手がけたことでも知られる洋画家、高岡徳太郎(1902年~1991年)は二科会の画家・彫刻家らと共にマネキン会社(ノバ・マネキン社)を設立し自ら社長に就任している。
マネキンは人体・人間への賛美をベースにしたアートそのものなのだ!そのアート作品を惜しげもなくビジネスとして使い切るその清さがマネキンに命を吹き込むことになるのだから面白い。マネキンはもっともっと注目されるべきなのだ。
【主な参考資料】
・欠田誠著「マネキン 美しい人体の物語」晶文社刊
・INAX「マネキン 笑わないイヴたち」INAXギャラリー刊
・「マネキンのすべて2」日本マネキンディスプレイ商工組合刊
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