パソコンで絵ひとつ描くにも長い歴史があった!
絵を描くことが好きだった私はマイコンやパソコンを手にしたとき、いつの日かコンピュータで絵を描くことができる時代になるに違いないと願望を持って接してきた。確かにApple II にしてもそれらしいことはできたが書いたものを写真に撮って友人に見せたら「汚ったねぇ」の一言で返された...。
今回は大ざっぱではあるが、パソコンで絵を描こうとした個人的な歴史をご紹介したい。
1977年にワンボード・マイコン 富士通L Kit-8を手にしてBASICを走らせたとき、最初にやったことのひとつがアスタリスクをモニター上に配置して顔を描こうとしたことだ。まあ、絵とは言えないかも知れないが振り返ればこれがコンピュータで計算だのゲームだの…ではなく、何らかの意志を持ってパターンを描いた最初の作業だった。

1978年春、BASICが走った富士通L-Kit8でアスタリスクをTVに打ち出して人の顔を作った
その翌年にコモドールのPET2001を買ったが、グラフィカルなコンピュータではなかったしモニターはモノクロだった。したがって人の顔は勿論なんらかのパターンを描くにはキーにアサインされていたキャラクタを組み合わせて表現するしかなかった。


※コモドールPET2001一式(上)とアスキー誌に載った「モンタージュゲーム」(下)。キーにアサインされているキャラクタを組み合わせてパターンを描いた例
それから4年後の1982年、待望のApple IIを手にした。グラフィックモードは低解像度と高解像度の2種類を装備していたが低解像度は15色、高解像度の場合は6色(初期モデルは4色)というカラー表示が可能だった。そのカラー表示はそれまでモノクロの画面しか使えなかったパソコンの印象および実用性を大きく変えた。
このカラー表示機能を受けて周辺機器もゲームパドルといったものだけでなく多彩な製品が登場するようになった。例えばバーサライターという原稿をトレースする一種のグラフィックタブレット、ライトペンシステム、さらにはビデオカメラ(モノクロ)から映像を取り込むことが出来るデジセクターといったビデオデジタイザまで登場する。


※Apple II 用のバーサライター(上)とライトペンシステム(上)
いまではタブレット類はもとより、なによりもデジタルカメラで撮影した映像を簡単にMacやiPadに取り込んで画像処理できるが、当時は無論デジタルカメラもなく、いわゆる自然画像をパソコンに取り込むだけでも数十万円の予算が必要だったしその解像度は当然Apple II のそれに依存した。
またApple II のカラーは色の滲みも目立ち、現在のフルカラーのように写真と見紛うクオリティを求めることなど夢のまた夢の時代だった。それでもライトペンやバーサライターあるいはビデオデジタイザで様々な試みを行い、自分なりに納得する絵を描いたつもりだが、パソコンの限界や制約を知らない友人知人たちに見せると必ず「汚いカラーだなぁ」と酷評されたものだ(笑)。
やっとカラーで絵を書けたと喜んでいた私は「ムッ!」としたが、冷静に見ればはみ出た塗り絵みたいな代物であることは確かだった。


※Apple IIのビデオデジタイザ(上)でモジリアーニの絵を取り込み前記ライトペンで彩色した例(下)
文字通りパソコンで絵らしいものが描けそうだと思ったのは1983年に購入したNEC PC-100だった。512色の内16色をセレクトし、720×512ドットの高解像度をサポートした16ビットパソコンはやっと自分の長い間の思いを叶えてくれそうだと喜んだ。なにしろ翌年の1984年1月に発表されたAppleのMacintoshは9インチという小さなディスプレイはともかく相変わらずモノクロだったから...。

※1983年登場したNEC PC-100
このPC-100がPC-9801のように正常進化したら、もしかして私はMacintoshを捨てたかも知れなかったがメーカー側の都合というか様々な確執からPC-100はその後のアップデートは期待できず埃を被るしかなかったのである。
それでもカラーのコンピュータグラフィックの魅力に開眼した私はMacintoshを使いつつ、PC-9801用のカラーグラフィックソフトや周辺機器を手当たり次第に確認した。PC-9801用のビデオデジタイザやカラービデオ入力をサポートした Z's STAFF + PlusKit Level-2 といったアプリケーションなどなどである。


※PC-9801用グラフィックソフト「Funny」1985年(上)と「Z's STAFF」1986年のサンプル画
さらにアウトプット環境も揃えたいとインクジェットカラープリンタまで揃えるハメとなる。それでもドットが認識できる画質に満足できなかった私は1987年6月、サピエンスという会社まで出向きPC-9801用のフレームバッファボード、エプソンのGT-3000カラースキャナなどを揃えた結果やっと写真画質の映像を手に入れた。

※PC-9801用のカラービデオ入力をサポートした「Z's STAFF」と「Pl;usKit Level-2」によるカラー入力システムを用意した(1986年)
しかし画面に表示するだけでデータの二次利用、すなわち加工や編集を自在に可能とする環境ではなかったため画質は評価したものの急速に興味を失っていく。

※PC-9801用、サピエンス社製フレームバッファとエプソンGT-3000カラースキャナでやっと写真画質に迫った(1987年)
その空虚な心の穴を埋めようと本格的なコンピュータ3Dを可能とする高価なPersonal LINKSまで手に入れ、その勢いで米国アナハイムで開催されたSIGGRAPH '87にまで参加することになった。1987年のことである。
そのSIGGRAPHから戻った直後、事前に注文しておいたMacintosh II が届いた。Apple最初のカラー機種である。当時ワークステーション級のパワーを持つとされたスーパーパソコンだったがそのカラーは1670万色からセレクトした256色を同時表示する能力でしかなかった。

※Macintosh II がリリースされた直後に出回ったサンプル画例
この意味を...限界を言葉で説明するのは非常に難しいが、例えば結婚式で新郎新婦がそれぞれ黒の正装と純白のウエディングドレスを着た写真をカラーイメージスキャナでデジタル化することを想像していただきたい…。
いまでは何の衒いもなく純白のウエディングドレスも黒いモーニング姿も美しく再現できるが、当時は256色しか同時に使えなかった。純白のウエディングドレスも黒のモーニングも写真をよく見るまでもなく繊細なレベルで多くの階調を持っているが、その自然さは256色では表現できないのだ。
どういうことかといえばウエディングドレスやモーニングの一部に目立つ色飛び、色違いが生じて見られたものではなくなってしまうのである。さらに衣裳にカラーパレットのほとんどを取られた結果肝心の新郎新婦の顔...肌色まで無残な結果になってしまう。これが256色という限界の仕打ちだった。
一般的な景色やらを表現するときには256色もあればなんとか自然に見えたものもこうした極端な例では実用とならなかったのだ。
ちなみに私の会社では ColorDiffision というこの256色のカラーパレットをユーザーが任意にコントロールできるアプリを開発したり、カラースキャナ用のアプリ ColorMagician にも同様の機能を搭載し、優先するカラーとその数を調整できるようにした。

※ColorMagicianによる256色カラーパレット編集機能
これにより前記結婚式の写真の場合だと、人肌の色および新婦を美しくデジタル化する点にカラーパレットのウエイトを優先的に多く取ることでまずまず自然で美しい花嫁姿をデジタル化できるようになった。ただし限界を突破したわけではないため、その余波は新郎のモーニング姿に向かってしまい、その黒い衣裳には色飛びが顕著となった。
ただしMacintoshにはPhotoshopをはじめ次々と優秀なグラフィックツールが登場し、その使い勝手は他のパソコンを凌駕していく。
結果現在ではハードウェアもそしてソフトウェアも黎明期と比較して信じられないほど安価にもなったしその処理能力は理想に近づいている。手法やアプローチはなんであれ、いまやっと絵画はもとより写真を素材にした表現も自在にできるようになった。しかし気がついたら私がコンピュータを手にしてからすでに40年にもなろうとしている…。
今回は大ざっぱではあるが、パソコンで絵を描こうとした個人的な歴史をご紹介したい。
1977年にワンボード・マイコン 富士通L Kit-8を手にしてBASICを走らせたとき、最初にやったことのひとつがアスタリスクをモニター上に配置して顔を描こうとしたことだ。まあ、絵とは言えないかも知れないが振り返ればこれがコンピュータで計算だのゲームだの…ではなく、何らかの意志を持ってパターンを描いた最初の作業だった。

1978年春、BASICが走った富士通L-Kit8でアスタリスクをTVに打ち出して人の顔を作った
その翌年にコモドールのPET2001を買ったが、グラフィカルなコンピュータではなかったしモニターはモノクロだった。したがって人の顔は勿論なんらかのパターンを描くにはキーにアサインされていたキャラクタを組み合わせて表現するしかなかった。


※コモドールPET2001一式(上)とアスキー誌に載った「モンタージュゲーム」(下)。キーにアサインされているキャラクタを組み合わせてパターンを描いた例
それから4年後の1982年、待望のApple IIを手にした。グラフィックモードは低解像度と高解像度の2種類を装備していたが低解像度は15色、高解像度の場合は6色(初期モデルは4色)というカラー表示が可能だった。そのカラー表示はそれまでモノクロの画面しか使えなかったパソコンの印象および実用性を大きく変えた。
このカラー表示機能を受けて周辺機器もゲームパドルといったものだけでなく多彩な製品が登場するようになった。例えばバーサライターという原稿をトレースする一種のグラフィックタブレット、ライトペンシステム、さらにはビデオカメラ(モノクロ)から映像を取り込むことが出来るデジセクターといったビデオデジタイザまで登場する。


※Apple II 用のバーサライター(上)とライトペンシステム(上)
いまではタブレット類はもとより、なによりもデジタルカメラで撮影した映像を簡単にMacやiPadに取り込んで画像処理できるが、当時は無論デジタルカメラもなく、いわゆる自然画像をパソコンに取り込むだけでも数十万円の予算が必要だったしその解像度は当然Apple II のそれに依存した。
またApple II のカラーは色の滲みも目立ち、現在のフルカラーのように写真と見紛うクオリティを求めることなど夢のまた夢の時代だった。それでもライトペンやバーサライターあるいはビデオデジタイザで様々な試みを行い、自分なりに納得する絵を描いたつもりだが、パソコンの限界や制約を知らない友人知人たちに見せると必ず「汚いカラーだなぁ」と酷評されたものだ(笑)。
やっとカラーで絵を書けたと喜んでいた私は「ムッ!」としたが、冷静に見ればはみ出た塗り絵みたいな代物であることは確かだった。


※Apple IIのビデオデジタイザ(上)でモジリアーニの絵を取り込み前記ライトペンで彩色した例(下)
文字通りパソコンで絵らしいものが描けそうだと思ったのは1983年に購入したNEC PC-100だった。512色の内16色をセレクトし、720×512ドットの高解像度をサポートした16ビットパソコンはやっと自分の長い間の思いを叶えてくれそうだと喜んだ。なにしろ翌年の1984年1月に発表されたAppleのMacintoshは9インチという小さなディスプレイはともかく相変わらずモノクロだったから...。

※1983年登場したNEC PC-100
このPC-100がPC-9801のように正常進化したら、もしかして私はMacintoshを捨てたかも知れなかったがメーカー側の都合というか様々な確執からPC-100はその後のアップデートは期待できず埃を被るしかなかったのである。
それでもカラーのコンピュータグラフィックの魅力に開眼した私はMacintoshを使いつつ、PC-9801用のカラーグラフィックソフトや周辺機器を手当たり次第に確認した。PC-9801用のビデオデジタイザやカラービデオ入力をサポートした Z's STAFF + PlusKit Level-2 といったアプリケーションなどなどである。


※PC-9801用グラフィックソフト「Funny」1985年(上)と「Z's STAFF」1986年のサンプル画
さらにアウトプット環境も揃えたいとインクジェットカラープリンタまで揃えるハメとなる。それでもドットが認識できる画質に満足できなかった私は1987年6月、サピエンスという会社まで出向きPC-9801用のフレームバッファボード、エプソンのGT-3000カラースキャナなどを揃えた結果やっと写真画質の映像を手に入れた。

※PC-9801用のカラービデオ入力をサポートした「Z's STAFF」と「Pl;usKit Level-2」によるカラー入力システムを用意した(1986年)
しかし画面に表示するだけでデータの二次利用、すなわち加工や編集を自在に可能とする環境ではなかったため画質は評価したものの急速に興味を失っていく。

※PC-9801用、サピエンス社製フレームバッファとエプソンGT-3000カラースキャナでやっと写真画質に迫った(1987年)
その空虚な心の穴を埋めようと本格的なコンピュータ3Dを可能とする高価なPersonal LINKSまで手に入れ、その勢いで米国アナハイムで開催されたSIGGRAPH '87にまで参加することになった。1987年のことである。
そのSIGGRAPHから戻った直後、事前に注文しておいたMacintosh II が届いた。Apple最初のカラー機種である。当時ワークステーション級のパワーを持つとされたスーパーパソコンだったがそのカラーは1670万色からセレクトした256色を同時表示する能力でしかなかった。

※Macintosh II がリリースされた直後に出回ったサンプル画例
この意味を...限界を言葉で説明するのは非常に難しいが、例えば結婚式で新郎新婦がそれぞれ黒の正装と純白のウエディングドレスを着た写真をカラーイメージスキャナでデジタル化することを想像していただきたい…。
いまでは何の衒いもなく純白のウエディングドレスも黒いモーニング姿も美しく再現できるが、当時は256色しか同時に使えなかった。純白のウエディングドレスも黒のモーニングも写真をよく見るまでもなく繊細なレベルで多くの階調を持っているが、その自然さは256色では表現できないのだ。
どういうことかといえばウエディングドレスやモーニングの一部に目立つ色飛び、色違いが生じて見られたものではなくなってしまうのである。さらに衣裳にカラーパレットのほとんどを取られた結果肝心の新郎新婦の顔...肌色まで無残な結果になってしまう。これが256色という限界の仕打ちだった。
一般的な景色やらを表現するときには256色もあればなんとか自然に見えたものもこうした極端な例では実用とならなかったのだ。
ちなみに私の会社では ColorDiffision というこの256色のカラーパレットをユーザーが任意にコントロールできるアプリを開発したり、カラースキャナ用のアプリ ColorMagician にも同様の機能を搭載し、優先するカラーとその数を調整できるようにした。

※ColorMagicianによる256色カラーパレット編集機能
これにより前記結婚式の写真の場合だと、人肌の色および新婦を美しくデジタル化する点にカラーパレットのウエイトを優先的に多く取ることでまずまず自然で美しい花嫁姿をデジタル化できるようになった。ただし限界を突破したわけではないため、その余波は新郎のモーニング姿に向かってしまい、その黒い衣裳には色飛びが顕著となった。
ただしMacintoshにはPhotoshopをはじめ次々と優秀なグラフィックツールが登場し、その使い勝手は他のパソコンを凌駕していく。
結果現在ではハードウェアもそしてソフトウェアも黎明期と比較して信じられないほど安価にもなったしその処理能力は理想に近づいている。手法やアプローチはなんであれ、いまやっと絵画はもとより写真を素材にした表現も自在にできるようになった。しかし気がついたら私がコンピュータを手にしてからすでに40年にもなろうとしている…。
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