マネキン造形はアートか俗悪か?
昨年秋口から足掛け7ヶ月間、マネキンを撮影対象とする仕事を続けてきたがそれもメインの仕事は1ヶ月ほど延長されたものの無事終了した。そして私の手元に数体のマネキンが残った...。というよりマネキンの胴体まで自作する羽目になり、ピグマリオンよろしく動かぬ女神を造形する面白さに浸ってきたが、一番の壁はマネキンに対し予想以上にネガティブな考え方をする人が多かったことだ。
基本仕事が終わったことを区切りとしてマネキンとは手が切れるかといえば、私自身がマネキンそのものも含めてヒトガタ(人形)を造形することにはまってしまうという自分でも予想外の展開となった。それはともかくこの9ヶ月の間、随分と白い目で見られたそのことをまとめおきたいと思う...(笑)。

※マネキンを使う仕事は一応の成果を得て完了した
親しい友人たちの中でさえ「おまえ、いい歳してどうしたの?」という声があがったし、ブログに差し障りがないことだけをと紹介したつもりが「松田さん、どこにいってしまうのか」とか「壊れちゃった?」という反応もあった。いや、私はそれらの反応や感想を寄せてくれた人たちを怒ったり恨んだりするつもりはまったくない。ただ些か予想外の腰引きにちょっと驚いたのだった。
彼らの危惧の意味は十分分かっているつもりだ。その根幹は「男が等身大の女性、それもリアルな女性の姿をしたマネキンを身近に置いて楽しんでいる」という事実だろう。人間...生身の女性ならともかく?人形を愛でるのか。ラブドールの代替品のつもりなのか?などなど...といったことに違いない。
まあ、最初に言っておくなら、例えそうであってもこちらはすでに大人というかジイサンだ。どのような趣味趣向があろうと大きなお世話でありとやかく言われる筋合いではないのだが、些か誤解のままで済ますのはやはり座り心地が悪い。
ただし面白いといってはなんだが、どうやら男性より女性の方が理解...というと語弊があるかも知れないものの意外とノーマルな反応をしてくれるのは興味深い。
「マネキンだとしても綺麗な女性がいつもそばにいるのは素敵よね」と言い切ってくれた人もいた。また「仕事がらみなら仕方ないわよね」という人も(笑)。ともかく男性の白い目と比べればジイサンが何しようがいいではないかという至極真っ当な感覚で受け止めてくれているように感じる。
ところで本題だが、私たちは芸術と称して彫刻はもとより、お気に入りの絵画や写真を求め、それらのいくつかを飾って楽しんでいる。また見目麗しい女優のピンナップやヌード写真を壁に貼っている人もいるに違いない。そうした行為は対象の好きずきはともかく男の性(さが)として至極自然なことだと思われているし無論その通りだ。
そもそも人類始まって以来、芸術家がやっきになって描き創作した対象の多くは絵画であれ彫刻であれそれは「女性」の姿でありはっきりいえば裸体だった。それは人間讃歌にもとづく裸体の表現であったりもして男性の裸体が賛美された時代もあったが、そもそも芸術家というそのほとんどが男性の時代だったからテーマは自然に女性の裸体へと向いていく。
ただし中世のキリスト教社会では特に女性の裸をあからさまに描くことは信仰の名の下に厳しく罰せられる時代が長く続いた。したがって画家や彫刻家はそこにいるモデルをリアルに描き造形するのではなくギリシャ神話や聖書のエピソードなどに仮託して制作した。自分の彼女を女神として描くといった隠れ蓑の元で制作された作品が多いのだ。
また個人的な思い出だが、中学の教科書だったか…アングル作の「泉」という作品に初めて出会ったとき、年頃の男子として芸術うんぬん以前にその美しい裸体に大きな衝撃を受けた。そして芸術という名の下においてなら女性の裸を公然と公開できるその "仕組み" を不思議に思った。

※アングル作「泉」。大塚国際美術館にて撮影
大人になって多くの作品や歴史を勉強していく中で知ったことは芸術のみならず宗教においてもエロティシズムがその哲学に深く関わっている歴然とした事実だ。
ヨーロッパでは14世紀とか15世紀以降なぜにあれほどギリシャ神話の女神たちの絵が制作されたのだろうか。前記したように画家が現実の女房や恋人をそのままリアルに描けば罰せられる時代だったが、それを "ヴィーナス" と名付ければそれは芸術を愛し理解する行為であり、批難されるどころか賞賛を浴びた。
しかしその制作動機の根源、いや画家本人はもとよりクライアントの意図は明白だ。美しい女性の裸を眺めたいという欲求とその需要に応えるために違いない。
2013年に大塚国際美術館に出向きその1,000点ともいわれる展示の絵画を急いで鑑賞したが、言わずもがな具象抽象を問わず女性の裸体をテーマにした作品のなんと多い事か...。
さて、なにが芸術でなにが俗なのか...。古来から散々論じられてきたことでもあるが、彫刻や絵画が芸術でマネキンが俗悪な代物だと誰が決めるのだろう。
確かにマネキンは商業ベースの枠の中で作られた「商品」であることには間違いない。しかし素材は商品であっても創作者の何らかの意志と強い表現力を持ってすればそこいらの花瓶やスニーカーだって芸術作品となるのが現代だ。事実20世紀のシュルレアリストたち、例えばエルンストもダリもマッソンも、競ってマネキン人形の製作に熱中している…。東郷青児や岡本太郎にしても飯の種だったとはいえマネキン制作にかかわっていた…。
私も当初は仕事のコンセプトに合わせて衣裳や髪型を考えながら姿を整え、どうしても納得いかないからと気に入った表情のヘッドマネキンのボディを作るまで入れ込むはめになったが、無論これを芸術だというつもりはないし、いわゆる "人形愛" といったことには踏み込まないもののピグマリオンの気持ちが少し分かってきたように思う...。
美しい女性の絵や彫刻を書斎や応接間に飾って楽しむのも、等身大のフィギュアならぬ自作のマネキンを目の届く場所に置いておくのも美しいものを愛し好む嗜好に違いはないと思うのだが...。そして私は確かに自分の "ヴィーナス" を造形したのだ(笑)。
そうした意味においては澁澤龍彦がいう「人形を愛する者と人形とは同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛なのだ」というニュアンスには同意できるが、ご立派な定義をするまでもなく物作りとは陶芸でも彫刻でも絵画でも本来そういうものに違いない。

※自作のマネキンは可動式の両腕をもって一応完成とすることに...
まあまあ、力が入れば入るほど笑われるのかも知れないが、人型を造形することはひとつのアートでもあると確信しているしこの一連の作業はとても愉快で楽しかった。しかし白状すれば同じことを再度行うつもりはいまのところ...ない。ひとつにはそれなりに費用がかかることは確かで、手ひとつでも拘ったために多くのアイテムを探して買ってみたし幾多の無駄な?失敗もやった。仕事がからんでなければリスクの高い趣味となっただろう(笑)。
それに硬質プラスチックの切断ひとつをとっても経験と道具立てのなかった者にとってそれらは易しいことではなかった。ただ大げさな物言いになるが物作りの過程で困難にぶち当たり、それをひとつひとつ解決していくその様は実に楽しいものだ。
私の「イライザ、ガラテア造形プロジェクト」も両腕を何とか揃えたところで終了と相成った。まだまだ100%納得した出来ではないものの、ふと視線を感じて振り向くとそこに美しい女性が "いる" というのはなかなかに嬉しいことである。特に自分がアレンジし造形したものだけに愛着も深まるのだろうが、長い間デジタルの世界で飯を食ってきたものの、ここのところ銀塩カメラを持ち出したり、人体表現にしても3Dに飽き足らず手で触れることができるアナログ世界に回帰する気持ちが強くなったのは興味深いことだ。
それに新しいことに挑戦すると新しいことを多々知ることになる。今回一連の作業の中で多くの情報を集めたが、これまでまったく知らなかった材質や新しい接着剤の存在、工具や道具を知ることとなった。
人の評価はともかく私の「イライザ、ガラテア造形プロジェクト」はそれまで未知の世界だった多くのことを知る良い機会となった...。
基本仕事が終わったことを区切りとしてマネキンとは手が切れるかといえば、私自身がマネキンそのものも含めてヒトガタ(人形)を造形することにはまってしまうという自分でも予想外の展開となった。それはともかくこの9ヶ月の間、随分と白い目で見られたそのことをまとめおきたいと思う...(笑)。

※マネキンを使う仕事は一応の成果を得て完了した
親しい友人たちの中でさえ「おまえ、いい歳してどうしたの?」という声があがったし、ブログに差し障りがないことだけをと紹介したつもりが「松田さん、どこにいってしまうのか」とか「壊れちゃった?」という反応もあった。いや、私はそれらの反応や感想を寄せてくれた人たちを怒ったり恨んだりするつもりはまったくない。ただ些か予想外の腰引きにちょっと驚いたのだった。
彼らの危惧の意味は十分分かっているつもりだ。その根幹は「男が等身大の女性、それもリアルな女性の姿をしたマネキンを身近に置いて楽しんでいる」という事実だろう。人間...生身の女性ならともかく?人形を愛でるのか。ラブドールの代替品のつもりなのか?などなど...といったことに違いない。
まあ、最初に言っておくなら、例えそうであってもこちらはすでに大人というかジイサンだ。どのような趣味趣向があろうと大きなお世話でありとやかく言われる筋合いではないのだが、些か誤解のままで済ますのはやはり座り心地が悪い。
ただし面白いといってはなんだが、どうやら男性より女性の方が理解...というと語弊があるかも知れないものの意外とノーマルな反応をしてくれるのは興味深い。
「マネキンだとしても綺麗な女性がいつもそばにいるのは素敵よね」と言い切ってくれた人もいた。また「仕事がらみなら仕方ないわよね」という人も(笑)。ともかく男性の白い目と比べればジイサンが何しようがいいではないかという至極真っ当な感覚で受け止めてくれているように感じる。
ところで本題だが、私たちは芸術と称して彫刻はもとより、お気に入りの絵画や写真を求め、それらのいくつかを飾って楽しんでいる。また見目麗しい女優のピンナップやヌード写真を壁に貼っている人もいるに違いない。そうした行為は対象の好きずきはともかく男の性(さが)として至極自然なことだと思われているし無論その通りだ。
そもそも人類始まって以来、芸術家がやっきになって描き創作した対象の多くは絵画であれ彫刻であれそれは「女性」の姿でありはっきりいえば裸体だった。それは人間讃歌にもとづく裸体の表現であったりもして男性の裸体が賛美された時代もあったが、そもそも芸術家というそのほとんどが男性の時代だったからテーマは自然に女性の裸体へと向いていく。
ただし中世のキリスト教社会では特に女性の裸をあからさまに描くことは信仰の名の下に厳しく罰せられる時代が長く続いた。したがって画家や彫刻家はそこにいるモデルをリアルに描き造形するのではなくギリシャ神話や聖書のエピソードなどに仮託して制作した。自分の彼女を女神として描くといった隠れ蓑の元で制作された作品が多いのだ。
また個人的な思い出だが、中学の教科書だったか…アングル作の「泉」という作品に初めて出会ったとき、年頃の男子として芸術うんぬん以前にその美しい裸体に大きな衝撃を受けた。そして芸術という名の下においてなら女性の裸を公然と公開できるその "仕組み" を不思議に思った。

※アングル作「泉」。大塚国際美術館にて撮影
大人になって多くの作品や歴史を勉強していく中で知ったことは芸術のみならず宗教においてもエロティシズムがその哲学に深く関わっている歴然とした事実だ。
ヨーロッパでは14世紀とか15世紀以降なぜにあれほどギリシャ神話の女神たちの絵が制作されたのだろうか。前記したように画家が現実の女房や恋人をそのままリアルに描けば罰せられる時代だったが、それを "ヴィーナス" と名付ければそれは芸術を愛し理解する行為であり、批難されるどころか賞賛を浴びた。
しかしその制作動機の根源、いや画家本人はもとよりクライアントの意図は明白だ。美しい女性の裸を眺めたいという欲求とその需要に応えるために違いない。
2013年に大塚国際美術館に出向きその1,000点ともいわれる展示の絵画を急いで鑑賞したが、言わずもがな具象抽象を問わず女性の裸体をテーマにした作品のなんと多い事か...。
さて、なにが芸術でなにが俗なのか...。古来から散々論じられてきたことでもあるが、彫刻や絵画が芸術でマネキンが俗悪な代物だと誰が決めるのだろう。
確かにマネキンは商業ベースの枠の中で作られた「商品」であることには間違いない。しかし素材は商品であっても創作者の何らかの意志と強い表現力を持ってすればそこいらの花瓶やスニーカーだって芸術作品となるのが現代だ。事実20世紀のシュルレアリストたち、例えばエルンストもダリもマッソンも、競ってマネキン人形の製作に熱中している…。東郷青児や岡本太郎にしても飯の種だったとはいえマネキン制作にかかわっていた…。
私も当初は仕事のコンセプトに合わせて衣裳や髪型を考えながら姿を整え、どうしても納得いかないからと気に入った表情のヘッドマネキンのボディを作るまで入れ込むはめになったが、無論これを芸術だというつもりはないし、いわゆる "人形愛" といったことには踏み込まないもののピグマリオンの気持ちが少し分かってきたように思う...。
美しい女性の絵や彫刻を書斎や応接間に飾って楽しむのも、等身大のフィギュアならぬ自作のマネキンを目の届く場所に置いておくのも美しいものを愛し好む嗜好に違いはないと思うのだが...。そして私は確かに自分の "ヴィーナス" を造形したのだ(笑)。
そうした意味においては澁澤龍彦がいう「人形を愛する者と人形とは同一なのであり、人形愛の情熱は自己愛なのだ」というニュアンスには同意できるが、ご立派な定義をするまでもなく物作りとは陶芸でも彫刻でも絵画でも本来そういうものに違いない。

※自作のマネキンは可動式の両腕をもって一応完成とすることに...
まあまあ、力が入れば入るほど笑われるのかも知れないが、人型を造形することはひとつのアートでもあると確信しているしこの一連の作業はとても愉快で楽しかった。しかし白状すれば同じことを再度行うつもりはいまのところ...ない。ひとつにはそれなりに費用がかかることは確かで、手ひとつでも拘ったために多くのアイテムを探して買ってみたし幾多の無駄な?失敗もやった。仕事がからんでなければリスクの高い趣味となっただろう(笑)。
それに硬質プラスチックの切断ひとつをとっても経験と道具立てのなかった者にとってそれらは易しいことではなかった。ただ大げさな物言いになるが物作りの過程で困難にぶち当たり、それをひとつひとつ解決していくその様は実に楽しいものだ。
私の「イライザ、ガラテア造形プロジェクト」も両腕を何とか揃えたところで終了と相成った。まだまだ100%納得した出来ではないものの、ふと視線を感じて振り向くとそこに美しい女性が "いる" というのはなかなかに嬉しいことである。特に自分がアレンジし造形したものだけに愛着も深まるのだろうが、長い間デジタルの世界で飯を食ってきたものの、ここのところ銀塩カメラを持ち出したり、人体表現にしても3Dに飽き足らず手で触れることができるアナログ世界に回帰する気持ちが強くなったのは興味深いことだ。
それに新しいことに挑戦すると新しいことを多々知ることになる。今回一連の作業の中で多くの情報を集めたが、これまでまったく知らなかった材質や新しい接着剤の存在、工具や道具を知ることとなった。
人の評価はともかく私の「イライザ、ガラテア造形プロジェクト」はそれまで未知の世界だった多くのことを知る良い機会となった...。
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