二人のスティーブは創業直後から仲が悪かった?
「Appleを創業した二人のスティーブ....」。我々にとっては夢ある言葉だ。しかし実際にAppleを起業したのはロン・ウェインという人物を含めた三人だったがウェインは二週間ほどで会社を去った。ともかくAppleは二人のスティーブで動き始めたし彼らは共にエレクトロニクスに興味を持つことから親友だった...はずだ。
スティーブ・ジョブズはビジョナリーであり理想主義者。スティーブ・ウォズニアックは天才技術者...。この二人が仲良くタッグを組んだからこそアップルという会社が生まれ成功した...。
とまあ簡単に言うと我々がAppleと二人のスティーブに抱くイメージはこんな感じか…。しかし実際にこの二人のコンピュータやAppleという会社に対する考え方には大きな温度差があったことを整理しておきたい。
ウォズニアックが独力で開発したApple 1をジョブズが高く評価し、バイト・ショップから100台の注文を取ってきたことからAppleという会社が回り始めた。その利益をApple IIの開発に向けるものの資金不足は明らかだったからジョブズはベンチャー・キャピタルを探して外部から援助を求め会社を大きく確たるものにしたかった。
対してウォズニアックはあくまで遊び感覚だった。生活の糧となるのは大好きなヒューレット・パッカード社の技術職で不満はなかった。ただ他人の作れない最高の個人用コンピュータ開発を夢見ていたものの販売するなどとは夢にも考えていなかったしホームブリュー・コンピュータ・クラブなどの仲間に自慢できれば満足だった。
幸いなことにマイク・マークラの資金援助によりAppleは1977年1月3日に法人となり、同年4月に開催された第1回ウエストコースト・コンピュータ・フェア (WCCF)でApple IIを発表し成功のスタートをきる...。
ともあれスティーブ・ジョブズの「家庭やオフィスにコンピュータを販売することを通じて世界を変えられる」という主張はウォズニアックも、そしてマークラも同意見だった。だからこそ会社を法人化することに皆が賛同した。
しかし現実的な問題を前にするならジョブズとウォズニアックの二人にはかなりの温度差があった。
まずは当時、ジョブズとウオズニアック二人がApple設立に際しての考え方...その要点をまとめてみよう。
■ジョブズ
・コンピュータは世界を変えるための手段
・Appleを起業したのはビジネスのため。しかし金を稼ぐというよりそれが世界を
変える手段だと考えた
・ビジネスであれば技術情報などの無償公開はもってのほか
・Appleという会社は自身の血肉
■ウォズニアック
・自分のために理想的な個人用コンピュータを作りたい
・ホームブリュー・コンピュータ・クラブなどの仲間に自慢できれば満足
・販売する事など考えず、情報はすべて無料で開示すべき
・パソコン作りはあくまでホビーであり、本職は大好きなHP社の技術者でありた
い
そもそもは共通の友人だったビル・フェルナンデスの紹介でジョブズとウォズニアックは知り合い、お互いテクノロジー好きだったことから仲良くなった。ウォズニアックからすればジョブズは真のエンジニアではないものの自分を認めてくれる存在だった。対してジョブズからすればこれまで彼の周りにいた誰よりもテクノロジーに精通したウォズアックに憧れを抱いたに違いない。
ということで、雑にいうなら、ウォズニアックはコンピュータオタクであり、なんら見返りを求めず、ただただ好きなコンピュータ作りができれば良いと考える男だった。
対してジョブズは根っからのヒッピーだった。既存の制度や慣習あるいは価値観を拒否し、コンピュータで世界を変えよう...変えられると考えた。ジョブズにとってコンピュータ開発は目的ではなく手段だったといえる...。
彼らは確かに親友だったが、後に気持ちが離れていく大きな要因のひとつがこうした価値観の違いにあったと私は考えている...。
二人が夢を追い、Apple 1をはじめApple II を開発していく過程で二人の思惑は同じではなかったことに気づきはじめ、これまでの伝説とは違って早い時期にスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの仲は亀裂が入っていったと思われる。

※1981年に撮られたジョブズとウォズニアックのツーショット。どこか白々しい感じも受けるが、ランディ・ウィギントンの話しによればこの頃すでに2人は険悪の仲だったはずだ。メディア向け伝説作りのための1枚か...(2011年10月24日発行、米国「People」誌より)
ハイスクール在学中からAppleでプログラミングの仕事をしていたランディ・ウィギントンによれば「Apple II 販売以前に二人の仲はすでに亀裂が入っており、 Apple II 発売の頃には二人とも、仲の悪さを隠そうともしなかった」という(「スティーブ・ジョブズ 偶像復活」東洋経済新報社刊)。
その直接の原因はAppleが株式会社になった頃から、ジョブズのふたつの性格が問題になってきたことによる。ひとつは完璧癖、もうひとつは短気というか仕事を早く終わらせたいという執着だ。無論ビジネスはタイミングが大事だし目標や予定に間に合わせることは重要だが、ジョブズにはソフトウェアの開発作業に時間が必要なことに理解が及ばなかったようだ。
当時のソフトウェア開発スタッフは前記したウィギントンを含め、皆ジョブズよりも若かったからジョブズの話し方ひとつをとっても尊大で反感をかっていた。
ただしApple II は売れ続けた。特に1979年、Apple II用として表計算ソフト「VisiCalc」が発売されるとApple IIはビジネスユーザーにとっても必要不可欠のコンピュータとなる。Appleは1980年には一億ドル企業にのし上がっていた…。
この頃からスティーブ・ジョブズはApple II という存在に興味を失っていったものと思われる。会社の利益をひとえに稼ぎ出しているApple IIなのに...。
ジョブズにとってApple II は世界を変えるための階段のワンステップに過ぎなかった。そしてなによりもApple IIは間違いなくウォズニアックのマシンだった...。
ジョブズは自分が創ったマシンでApple II 以上の成功を夢見るようになり、それが高じてあらゆる場面でApple II を蔑ろにするようになる。無論それにスティーブ・ウォズニアックが甘んじているはずはない。
二人のスティーブが顔を合わせれば何らかの言い合いになった。Macintoshの開発が進行する中、ジョブズの進言でApple II には新しい予算が取られなくなったりもした。いまだに稼ぎ頭なのに...。
可笑しいのは...というより不思議なのはApple IIを開発した後のウォズニアックの動向だ。いくつかのインビタューなどによればApple IIIやApple IIcといった製品に彼の手が直接加わった形跡はないようだ。ではウォズニアックは何をしていたのか?
実はAppleがApple III の設計に取りかかった頃、ウォズニアックは50人ほどのスタッフの1人として研究所の管理下にあったという。もはやウォズニアックは単なる組織の一員であり、その扱いはAppleにとって不可欠の人間ではなくなっていたのだ。
1988年発刊「INVENTORS AT WORK」(実録!天才発明家)アスキー出版局刊に載っているウォズニアックへのインタビューによれば、インタビューのタイミングは不明なもののウォズニアックのジョブズに対する物言いはかなり辛辣だが、ウォズニアックの心情を思えば納得できる。
「Apple 1や Apple II にはジョブズの意見がかなり取り入れられているのか?」という質問に「回路に関してはまったくなし。ソフトウェアにもね。彼が影響を与えたのは会社をはじめることに関してだけだ。」と突っぱね「続いて彼は技術工であって技術者でない」と切り捨てている。しかし後半「なかには高解像度グラフィックスのように、彼が大きな影響を与えた決定もあった」とフォローしているが…(笑)。
さて…1981年2月、ウォズニアック自身が操縦していた軽飛行機が墜落する。一命は取り留めたが、5週間ほど記憶を失う。回復してからはAppleというよりジョブズと距離をおくようになり、1985年にAppleを去った。公式には現在もAppleに席を置いているというが...。
Appleが生まれ成功するためにはスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの「二人のスティーブ」が必要だったことは間違いない。どちらが欠けても現在のAppleは存在しなかっただろう。しかしこれまで見てきたように熱い決意でリスクを負いながらAppleという会社を軌道に乗せた二人だったが、人生の目標や価値観は大きく違っていた。
これまでメディアの多くが発信していた情報によれば、我が儘でワンマンなジョブズの言動に常に大人の対応をしていたウォズニアック…という印象があった。しかしApple II を売り出した1977年早々に二人の関係は険悪になっていたということが事実なら、そうした二人のスティーブの感情のもつれを主軸に当時のAppleを見直してみると新しいことが見えてくるように思えて興味深い。
【主な参考資料】
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社刊
・「実録!天才発明家」アスキー出版局刊
スティーブ・ジョブズはビジョナリーであり理想主義者。スティーブ・ウォズニアックは天才技術者...。この二人が仲良くタッグを組んだからこそアップルという会社が生まれ成功した...。
とまあ簡単に言うと我々がAppleと二人のスティーブに抱くイメージはこんな感じか…。しかし実際にこの二人のコンピュータやAppleという会社に対する考え方には大きな温度差があったことを整理しておきたい。
ウォズニアックが独力で開発したApple 1をジョブズが高く評価し、バイト・ショップから100台の注文を取ってきたことからAppleという会社が回り始めた。その利益をApple IIの開発に向けるものの資金不足は明らかだったからジョブズはベンチャー・キャピタルを探して外部から援助を求め会社を大きく確たるものにしたかった。
対してウォズニアックはあくまで遊び感覚だった。生活の糧となるのは大好きなヒューレット・パッカード社の技術職で不満はなかった。ただ他人の作れない最高の個人用コンピュータ開発を夢見ていたものの販売するなどとは夢にも考えていなかったしホームブリュー・コンピュータ・クラブなどの仲間に自慢できれば満足だった。
幸いなことにマイク・マークラの資金援助によりAppleは1977年1月3日に法人となり、同年4月に開催された第1回ウエストコースト・コンピュータ・フェア (WCCF)でApple IIを発表し成功のスタートをきる...。
ともあれスティーブ・ジョブズの「家庭やオフィスにコンピュータを販売することを通じて世界を変えられる」という主張はウォズニアックも、そしてマークラも同意見だった。だからこそ会社を法人化することに皆が賛同した。
しかし現実的な問題を前にするならジョブズとウォズニアックの二人にはかなりの温度差があった。
まずは当時、ジョブズとウオズニアック二人がApple設立に際しての考え方...その要点をまとめてみよう。
■ジョブズ
・コンピュータは世界を変えるための手段
・Appleを起業したのはビジネスのため。しかし金を稼ぐというよりそれが世界を
変える手段だと考えた
・ビジネスであれば技術情報などの無償公開はもってのほか
・Appleという会社は自身の血肉
■ウォズニアック
・自分のために理想的な個人用コンピュータを作りたい
・ホームブリュー・コンピュータ・クラブなどの仲間に自慢できれば満足
・販売する事など考えず、情報はすべて無料で開示すべき
・パソコン作りはあくまでホビーであり、本職は大好きなHP社の技術者でありた
い
そもそもは共通の友人だったビル・フェルナンデスの紹介でジョブズとウォズニアックは知り合い、お互いテクノロジー好きだったことから仲良くなった。ウォズニアックからすればジョブズは真のエンジニアではないものの自分を認めてくれる存在だった。対してジョブズからすればこれまで彼の周りにいた誰よりもテクノロジーに精通したウォズアックに憧れを抱いたに違いない。
ということで、雑にいうなら、ウォズニアックはコンピュータオタクであり、なんら見返りを求めず、ただただ好きなコンピュータ作りができれば良いと考える男だった。
対してジョブズは根っからのヒッピーだった。既存の制度や慣習あるいは価値観を拒否し、コンピュータで世界を変えよう...変えられると考えた。ジョブズにとってコンピュータ開発は目的ではなく手段だったといえる...。
彼らは確かに親友だったが、後に気持ちが離れていく大きな要因のひとつがこうした価値観の違いにあったと私は考えている...。
二人が夢を追い、Apple 1をはじめApple II を開発していく過程で二人の思惑は同じではなかったことに気づきはじめ、これまでの伝説とは違って早い時期にスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの仲は亀裂が入っていったと思われる。

※1981年に撮られたジョブズとウォズニアックのツーショット。どこか白々しい感じも受けるが、ランディ・ウィギントンの話しによればこの頃すでに2人は険悪の仲だったはずだ。メディア向け伝説作りのための1枚か...(2011年10月24日発行、米国「People」誌より)
ハイスクール在学中からAppleでプログラミングの仕事をしていたランディ・ウィギントンによれば「Apple II 販売以前に二人の仲はすでに亀裂が入っており、 Apple II 発売の頃には二人とも、仲の悪さを隠そうともしなかった」という(「スティーブ・ジョブズ 偶像復活」東洋経済新報社刊)。
その直接の原因はAppleが株式会社になった頃から、ジョブズのふたつの性格が問題になってきたことによる。ひとつは完璧癖、もうひとつは短気というか仕事を早く終わらせたいという執着だ。無論ビジネスはタイミングが大事だし目標や予定に間に合わせることは重要だが、ジョブズにはソフトウェアの開発作業に時間が必要なことに理解が及ばなかったようだ。
当時のソフトウェア開発スタッフは前記したウィギントンを含め、皆ジョブズよりも若かったからジョブズの話し方ひとつをとっても尊大で反感をかっていた。
ただしApple II は売れ続けた。特に1979年、Apple II用として表計算ソフト「VisiCalc」が発売されるとApple IIはビジネスユーザーにとっても必要不可欠のコンピュータとなる。Appleは1980年には一億ドル企業にのし上がっていた…。
この頃からスティーブ・ジョブズはApple II という存在に興味を失っていったものと思われる。会社の利益をひとえに稼ぎ出しているApple IIなのに...。
ジョブズにとってApple II は世界を変えるための階段のワンステップに過ぎなかった。そしてなによりもApple IIは間違いなくウォズニアックのマシンだった...。
ジョブズは自分が創ったマシンでApple II 以上の成功を夢見るようになり、それが高じてあらゆる場面でApple II を蔑ろにするようになる。無論それにスティーブ・ウォズニアックが甘んじているはずはない。
二人のスティーブが顔を合わせれば何らかの言い合いになった。Macintoshの開発が進行する中、ジョブズの進言でApple II には新しい予算が取られなくなったりもした。いまだに稼ぎ頭なのに...。
可笑しいのは...というより不思議なのはApple IIを開発した後のウォズニアックの動向だ。いくつかのインビタューなどによればApple IIIやApple IIcといった製品に彼の手が直接加わった形跡はないようだ。ではウォズニアックは何をしていたのか?
実はAppleがApple III の設計に取りかかった頃、ウォズニアックは50人ほどのスタッフの1人として研究所の管理下にあったという。もはやウォズニアックは単なる組織の一員であり、その扱いはAppleにとって不可欠の人間ではなくなっていたのだ。
1988年発刊「INVENTORS AT WORK」(実録!天才発明家)アスキー出版局刊に載っているウォズニアックへのインタビューによれば、インタビューのタイミングは不明なもののウォズニアックのジョブズに対する物言いはかなり辛辣だが、ウォズニアックの心情を思えば納得できる。
「Apple 1や Apple II にはジョブズの意見がかなり取り入れられているのか?」という質問に「回路に関してはまったくなし。ソフトウェアにもね。彼が影響を与えたのは会社をはじめることに関してだけだ。」と突っぱね「続いて彼は技術工であって技術者でない」と切り捨てている。しかし後半「なかには高解像度グラフィックスのように、彼が大きな影響を与えた決定もあった」とフォローしているが…(笑)。
さて…1981年2月、ウォズニアック自身が操縦していた軽飛行機が墜落する。一命は取り留めたが、5週間ほど記憶を失う。回復してからはAppleというよりジョブズと距離をおくようになり、1985年にAppleを去った。公式には現在もAppleに席を置いているというが...。
Appleが生まれ成功するためにはスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックの「二人のスティーブ」が必要だったことは間違いない。どちらが欠けても現在のAppleは存在しなかっただろう。しかしこれまで見てきたように熱い決意でリスクを負いながらAppleという会社を軌道に乗せた二人だったが、人生の目標や価値観は大きく違っていた。
これまでメディアの多くが発信していた情報によれば、我が儘でワンマンなジョブズの言動に常に大人の対応をしていたウォズニアック…という印象があった。しかしApple II を売り出した1977年早々に二人の関係は険悪になっていたということが事実なら、そうした二人のスティーブの感情のもつれを主軸に当時のAppleを見直してみると新しいことが見えてくるように思えて興味深い。
【主な参考資料】
・「スティーブ・ジョブズ偶像復活」東洋経済新報社刊
・「実録!天才発明家」アスキー出版局刊
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