私の唯一のベストセラー「図形処理名人〜花子」物語
過日、知り合いの方々と著作の話題となったがその中で「一番売れた本は?」という質問を受けた。そういえばこれまで共著を含めると18冊ほど書籍を出している。それらの中で1人で書いた本は9冊あるが、一番売れた本はビギナーズ・ラックとでもいうべきか…処女作「図形処理名人〜花子」(技術評論社刊)だった。
今思えば1990年前後の時代はパソコン関連においても出版花盛りだった...。普通に考えたら1人では負えないほどの執筆依頼が多々舞い込んだのだから...。というわけで今回は私の処女作で1987年に出版した「図形処理名人〜花子」の話しをしたい。なぜなら本書は私の唯一のベストセラーとなった大変印象深い著作だからだ。

※1987年6月1日出版「図形処理名人〜花子」技術評論社刊は13刷を記録するベストセラーとなった
1987年といえば私は小さな貿易商社のサラリーマンだった。ただしその10年前からマイコンやらパソコンという世界に足を突っ込み、懐具合が良かったこともあってPET2001、 Apple II、PC-9801、PC-100、IBM5550そしてMacintoshなどなどという数多くのパソコンを手元に置き、特にペイントソフトやコンピュータ・グラフィックスにかかわるあれこれを楽しんでいた。そしてCGにのめり込み、同年夏にはロサンゼルスのアナハイムで開催されたSIGGRAPH '87に参加するため初めて渡米するという暴挙にも出た(笑)。
話しはその1987年の年明けだったのではないかと記憶しているが、仕事中に技術評論社という出版社から電話をもらった。それまで同社とは無縁だったが「新しい本の執筆依頼をお願いしたいのでご足労いただけないか」という話しに私は反射的に腰を上げた。
たまたま当時の技術評論社へは徒歩で行ける距離だった。私の勤務する神田神保町から靖国通りを直進し九段下から左手に千鳥ヶ淵、右手に靖国神社をめざせばすぐ側だった。
その頃、本職の貿易業は低迷を極めていた反面、少しずつではあったが趣味として手を染めてきたパソコン関連のいくつかが望んだわけではないものの仕事として依頼が舞い込み始めていた。私はどうせ仕事をするなら面白くなければ意味はないし、サラリーマンとして時間が拘束されていることもあって個人でそうした依頼に向き合うことはできないからと社長を説得し "情報企画室室長" といったいい加減な名刺を作ってもらっていた...。したがって技術評論社からの依頼も仕事の可能性として日中に堂々と出かけることが出来た。

※1986年前後だと思うが勤務先のデスクでくつろぐ筆者。後ろに私物を持ち込んだNEC PC-100とプリンターが見える
それまで私はMACLIFE誌の前身となった「MACワールド日本語版」への執筆などで関連の出版社に出入りはしていたが技術評論社は初めてだった。
編集担当の責任者として向かいあったのは大塚葉さんという女性だった。
意外だったのは執筆依頼というのはMacintosh関連の話しではなく数ヶ月後にジャストシステムからリリースされる「花子」というグラフィックソフトのいわゆるマニュアル本執筆依頼だったのである。
正直「PC-9801用のアプリなのか...」と少々がっかりしたが、要はパソコン雑誌でグラフィック関連記事を書いている私に目を付けてくれたらしい。そしてもしそのとき私がAppleやMacに拘っていたらこの1冊は生まれなかったしその後の数冊の機会もなかったに違いない。
ただし私はすでにその時期 NEC PC-9801を所有していたし一太郎も使っていた。またMS-DOSの基礎知識も持っていた。そしてなによりも「はじめて自分の名による書籍が世に出る」という事実に舞い上がっていたように思う。
条件などの概要をお聞きすると執筆期間は3ヶ月ほどあるという。さらに「花子」のベータバージョンの貸出は勿論、PC-9801を1台貸していただけるとのことだった。そうであれば1台に「花子」を走らせ、もう1台に一太郎をインストールすれば原稿書きのスピード向上はもとより正確さも増す...。
ということで私は喜んで「花子」執筆依頼をお受けすることにしたが、最大の問題はその執筆時間をどう捻出するかにあった。
本職はもとより、すでにMacintosh関連の原稿書き、それにパソコン通信「ニフティサーブ」のシスオペにも就任することになっていた。すでに睡眠時間は4時間ほどが続いていたからこれ以上削減は無理だった。考えあぐねた私は社長の了解を得てこの執筆を個人ではなく会社が請け負うことで話しを進めた。
それなら日中も時間が空いた際には堂々と原稿書きができることになる。それにだ...1冊千円ほどの本の印税は大した額ではないし初版本をどれほど刷るかはその時点で不明だったが知れたものだろう...。さらにこの本が売れるかといえば我ながらこれまた重版がかかるとはどうしても思えなかった。
私の興味は自書を生み出すただ一点にあった。それまで幾多の雑誌原稿を書いてきたが1冊丸ごと書籍になったものはなかったし自分の名が表紙に...というそのこと自体が原動力だったし信じて貰えないかも知れないが金はどうでもよかった。
その後、技術評論社と多々打ち合わせをしながら原稿書きに精を出したが、あるとき「花子のリリースが決まったのでそれに合わせて書籍を発刊したい」ということになった。しかしそれに合わせて...となると残された時間は1ヶ月ほどしかなくなっていた。
ともあれ内容については編集者のアドバイスもありわかりやすさを第一にと考えたし手抜きをしたつもりはないが、締切の関係上、突貫工事…やっつけ仕事になった「図形処理名人〜花子」はこうして1987年6月1日(私の誕生日の2日前)に出版された。
やはり見本誌をいただいたときは本当に嬉しかった。ただし私はこの処女出版で大きな誤算をしたことがわかった...。それは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。そしてその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。しかし私個人に「花子」の印税は1円也とも入ってこないわけだ。
正直「これがもし個人で引き受けていたら」印税全てを手にすることが出来たわけだが、反面個人契約だったら原稿を締切までに間に合わせることはできなかっただろうという現実も認識しなければならない。ただし負け惜しみでなく繰り返すが、当時は自身の名前が印刷された単行本が出版できたそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

※「花子」の印税は一円たりとも懐に入らなかったが応接にMacintosh SEとLaserWriterを購入してもらった
「花子」はベストセラーになったからその後の影響も大きかった。別の出版社からも「花子」の単行本執筆依頼もあったし、秋葉原の九十九電機で「花子セミナー」もやるはめになった。
ともあれ「花子」執筆で一番の収穫はこれを機に技術評論社とのお付き合いがより深くなったことだ。続いてフロッピーディスク付き「図形処理名人『花子』の事例集」を出させていただいたし「マッキントッシュ実践操作入門」や紀田順一郎さんとの共著「FAX交友録〜MACの達人」、「QuickTimeの手品」や「マスコットの玉手箱」といった出版は勿論、編集部の川添歩さんとのご縁でMacの月刊誌「MacJapan」創刊にも立ち会わせていただいた。
あらためて振り返って見るとパソコンは私にとって “人と人を結びつけるハブ(HUB)” だったように思う。
今思えば1990年前後の時代はパソコン関連においても出版花盛りだった...。普通に考えたら1人では負えないほどの執筆依頼が多々舞い込んだのだから...。というわけで今回は私の処女作で1987年に出版した「図形処理名人〜花子」の話しをしたい。なぜなら本書は私の唯一のベストセラーとなった大変印象深い著作だからだ。

※1987年6月1日出版「図形処理名人〜花子」技術評論社刊は13刷を記録するベストセラーとなった
1987年といえば私は小さな貿易商社のサラリーマンだった。ただしその10年前からマイコンやらパソコンという世界に足を突っ込み、懐具合が良かったこともあってPET2001、 Apple II、PC-9801、PC-100、IBM5550そしてMacintoshなどなどという数多くのパソコンを手元に置き、特にペイントソフトやコンピュータ・グラフィックスにかかわるあれこれを楽しんでいた。そしてCGにのめり込み、同年夏にはロサンゼルスのアナハイムで開催されたSIGGRAPH '87に参加するため初めて渡米するという暴挙にも出た(笑)。
話しはその1987年の年明けだったのではないかと記憶しているが、仕事中に技術評論社という出版社から電話をもらった。それまで同社とは無縁だったが「新しい本の執筆依頼をお願いしたいのでご足労いただけないか」という話しに私は反射的に腰を上げた。
たまたま当時の技術評論社へは徒歩で行ける距離だった。私の勤務する神田神保町から靖国通りを直進し九段下から左手に千鳥ヶ淵、右手に靖国神社をめざせばすぐ側だった。
その頃、本職の貿易業は低迷を極めていた反面、少しずつではあったが趣味として手を染めてきたパソコン関連のいくつかが望んだわけではないものの仕事として依頼が舞い込み始めていた。私はどうせ仕事をするなら面白くなければ意味はないし、サラリーマンとして時間が拘束されていることもあって個人でそうした依頼に向き合うことはできないからと社長を説得し "情報企画室室長" といったいい加減な名刺を作ってもらっていた...。したがって技術評論社からの依頼も仕事の可能性として日中に堂々と出かけることが出来た。

※1986年前後だと思うが勤務先のデスクでくつろぐ筆者。後ろに私物を持ち込んだNEC PC-100とプリンターが見える
それまで私はMACLIFE誌の前身となった「MACワールド日本語版」への執筆などで関連の出版社に出入りはしていたが技術評論社は初めてだった。
編集担当の責任者として向かいあったのは大塚葉さんという女性だった。
意外だったのは執筆依頼というのはMacintosh関連の話しではなく数ヶ月後にジャストシステムからリリースされる「花子」というグラフィックソフトのいわゆるマニュアル本執筆依頼だったのである。
正直「PC-9801用のアプリなのか...」と少々がっかりしたが、要はパソコン雑誌でグラフィック関連記事を書いている私に目を付けてくれたらしい。そしてもしそのとき私がAppleやMacに拘っていたらこの1冊は生まれなかったしその後の数冊の機会もなかったに違いない。
ただし私はすでにその時期 NEC PC-9801を所有していたし一太郎も使っていた。またMS-DOSの基礎知識も持っていた。そしてなによりも「はじめて自分の名による書籍が世に出る」という事実に舞い上がっていたように思う。
条件などの概要をお聞きすると執筆期間は3ヶ月ほどあるという。さらに「花子」のベータバージョンの貸出は勿論、PC-9801を1台貸していただけるとのことだった。そうであれば1台に「花子」を走らせ、もう1台に一太郎をインストールすれば原稿書きのスピード向上はもとより正確さも増す...。
ということで私は喜んで「花子」執筆依頼をお受けすることにしたが、最大の問題はその執筆時間をどう捻出するかにあった。
本職はもとより、すでにMacintosh関連の原稿書き、それにパソコン通信「ニフティサーブ」のシスオペにも就任することになっていた。すでに睡眠時間は4時間ほどが続いていたからこれ以上削減は無理だった。考えあぐねた私は社長の了解を得てこの執筆を個人ではなく会社が請け負うことで話しを進めた。
それなら日中も時間が空いた際には堂々と原稿書きができることになる。それにだ...1冊千円ほどの本の印税は大した額ではないし初版本をどれほど刷るかはその時点で不明だったが知れたものだろう...。さらにこの本が売れるかといえば我ながらこれまた重版がかかるとはどうしても思えなかった。
私の興味は自書を生み出すただ一点にあった。それまで幾多の雑誌原稿を書いてきたが1冊丸ごと書籍になったものはなかったし自分の名が表紙に...というそのこと自体が原動力だったし信じて貰えないかも知れないが金はどうでもよかった。
その後、技術評論社と多々打ち合わせをしながら原稿書きに精を出したが、あるとき「花子のリリースが決まったのでそれに合わせて書籍を発刊したい」ということになった。しかしそれに合わせて...となると残された時間は1ヶ月ほどしかなくなっていた。
ともあれ内容については編集者のアドバイスもありわかりやすさを第一にと考えたし手抜きをしたつもりはないが、締切の関係上、突貫工事…やっつけ仕事になった「図形処理名人〜花子」はこうして1987年6月1日(私の誕生日の2日前)に出版された。
やはり見本誌をいただいたときは本当に嬉しかった。ただし私はこの処女出版で大きな誤算をしたことがわかった...。それは出版された「花子」は私の思惑を見事に外し、日経誌にも紹介されたが3ヶ月連続でテクノロジー分野のベストセラーとなり、なんと発行部数は10万部を軽く超え13刷りも重版するはめになったからである。そしてその印税額はトータルで一千万円を超えたのである。しかし私個人に「花子」の印税は1円也とも入ってこないわけだ。
正直「これがもし個人で引き受けていたら」印税全てを手にすることが出来たわけだが、反面個人契約だったら原稿を締切までに間に合わせることはできなかっただろうという現実も認識しなければならない。ただし負け惜しみでなく繰り返すが、当時は自身の名前が印刷された単行本が出版できたそのことが嬉しかったし、結果として会社にMacintosh SEとLaserWriterを導入して貰い、かつ翌年サンフランシスコで開催したMACWORLD Expoに出向く費用を捻出してもらうことになっただけで十分満足だった。

※「花子」の印税は一円たりとも懐に入らなかったが応接にMacintosh SEとLaserWriterを購入してもらった
「花子」はベストセラーになったからその後の影響も大きかった。別の出版社からも「花子」の単行本執筆依頼もあったし、秋葉原の九十九電機で「花子セミナー」もやるはめになった。
ともあれ「花子」執筆で一番の収穫はこれを機に技術評論社とのお付き合いがより深くなったことだ。続いてフロッピーディスク付き「図形処理名人『花子』の事例集」を出させていただいたし「マッキントッシュ実践操作入門」や紀田順一郎さんとの共著「FAX交友録〜MACの達人」、「QuickTimeの手品」や「マスコットの玉手箱」といった出版は勿論、編集部の川添歩さんとのご縁でMacの月刊誌「MacJapan」創刊にも立ち会わせていただいた。
あらためて振り返って見るとパソコンは私にとって “人と人を結びつけるハブ(HUB)” だったように思う。
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